遅ればせながらゴジラを見てきた。作品の感想は事前の期待が大きかったせいもあるがイマイチ。その理由を自分なりに一晩考えて出た結論が「人間にとって都合のいい存在としてゴジラを描いてしまっているから」。1954年に公開された初代ゴジラは明確な反戦・反核のメッセージを含んだ作品であり、水爆実験でよみがえったゴジラは、人間がコントロールできない「核兵器」という科学技術を使うことへの批判として描かれている。
人類が調子こいて水爆実験連発。その衝撃によりゴジラが目覚める。
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ゴジラを殺せる可能性のある、水中の酸素を破壊するオキシジェンデストロイヤーという化学兵器を若い科学者が発明。
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しかし博士はその兵器が戦争に使われることを恐れ、使用を拒否。
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ゴジラをぶっ殺すか? 強靱な生命力を研究対象にするべく生かすのか? 議論が割れる。
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結局、オキシジェンデストロイヤーでゴジラ死亡。博士は兵器の悪用を恐れ設計図を破棄し、自らの命を絶つ。
ゴジラは60年前から反戦・反核のメッセージとともに、際限のない科学への信頼に対する警鐘も鳴らし続けている。しかし、ラストでゴジラを倒すのは核兵器よりも強力な化学兵器であり、これは結局諸刃の剣である科学の呪縛から逃れられない人類を象徴的に描いている。「人類が核実験を続ける限り、第二第三のゴジラが現れるだろう」という最後のセリフは今もって有効だ。これがハリウッド映画であれば、「核兵器でも死なない大怪獣を倒した科学技術は素晴らしい! 人類の叡智バンザイ!」的なハッピーエンドになるはず。
ネタバレになってしまうので詳細は避けるが、なにが言いたいのかというとゴジラは大自然や神様といった人間にとってアンタッチャブルな概念の具現化であり、人類のために戦うヒーローになってしまっては興ざめということ。この辺はおそらく、神様が世界と人類を想像したというキリスト教的な欧米の世界観では理解しにくい存在なのかもしれない。それらの文化圏では神様とはこの世界のスタートとゴールを設定した絶対者であり、人類を正しい方向に教え導く役割を担っているのだから、試練を与えつつも最後にはハッピーエンド(人間にとって都合のいい)が約束されていなければならない。
その点、日本では不可侵な存在としての神様を描くのが得意なようで、例えば「もののけ姫」のシシ神さま。あれなんかは完全に、人類ともののけの人智を超えた存在として描かれている。シシ神さまにとっては森を守るアシタカも森を開発しようと企むエボシ御前も関係なく、ただ目の前の者に死と生命を分け与えるだけ。間違っても「お前は森を大切にしているから褒美として寿命を10年延ばしてやろう」とも「お前は森を破壊した罰として寿命マイナス10年!」とも言わない。人間の都合ももののけの都合も一切勘案に入れず、己の職務に忠実なだけだ。それは、どんなに弱者や善人が住んでいても地震や台風が発生するときは容赦なく発生するのと同じこと。つまり、本来自然や神様は人類の都合など考えない、極めて不条理な存在であるわけだ。
もうひとつの例としては、「ドラゴンボールZ神と神」のビルスさまも同じ。「プリンが食べられないから地球を破壊」「寿司がまずかったら地球を破壊」「ジャンケンに負けたら地球を破壊」といったセリフのオンパレードは、神様の不条理な一面をこれ以上ないくらいよく表している。初代ゴジラにとっては自衛隊であろうと戦災孤児であろうと自らの進路に存在する者は容赦なく踏みつぶすだけだ。
そんな人類の都合など考えないゴジラを期待して見に行った自分からすれば、なぜ98年のエミリッヒ版ゴジラがあんなにも酷評されているのかよくわからない。今作では日本の原発事故を絡めてはいるが、それもイマイチ批評性に欠け(というか単なる方便)、中途半端な社会派作品に堕してしまっている。
一つ興味深い点を挙げれば、人類がゴジラを「撃退」もせず「征服」もせずに「共存」の道を選んだこと。(続編のためにはゴジラが人類に撃退、征服されてしまっては元も子もないのだが)。これまでどんな凶悪な宇宙人も自然災害も撃退して乗り越えてきたハリウッド映画、これまで世界の警察を自称して世界中に西欧的価値観を広げてきたアメリカ。そんな、アメリカという国家が共存の道を選んだこのラスト、実はなかなかにレアなのではないかと考えている。メインキャストで唯一の東洋人である渡辺謙が発した「愚かな人間は自然を征服できると思っているが、そんなことはできない」というセリフは、「自然や子どもは管理されるべき」といったキリスト教の教えとは180度異なる。今回のハリウッド版ゴジラは反戦・反核のメッセージを含む初代ゴジラとは異なり、アメリカの外交の変化とリンクした作品として捉えるとまた違った一面が見えてくる。