はてなキーワード: 京浜東北線とは
戦前に建設された銀行を新しい建物で包み込むように設計された1階と上階で雰囲気の違う不思議な建物。
目[mé]とか宮島達男、三沢厚彦とかピーター・ドラッカー・コレクションとか行きたくなる展覧会が多い。
最も有名なのはロスコルーム。マーク・ロスコの赤い絵画作品で囲まれる空間は日本で唯一無二。これは見るというより体験する絵画だね。他にも抽象作品が多く、サイ・トゥオンブリーやフランク・ステラなど他の美術館ではなかなかお目にかかることの少ない作品がたくさん見られるよ。遠いけど、自然に囲まれて気持ちは良いですー
写実絵画専門の美術館。美術史とか意識せずに作家さんの技術と表現を純粋に楽しむことができる。日建設計の建物も面白いね。
建築は磯崎新。英名アートタワーミト。タワー!(展望室見学200円)
今は反対側に伊東豊雄の水戸市民会館ができて時代の変化と建築家の特徴を感じられて面白いよ。
水戸芸術館自体は音楽、演劇、美術を扱うけど、小澤征爾氏の参画などそれぞれが一級であったのは初代館長吉田秀和氏の功績が大きかったと耳に挟んだよ。
内藤礼とか大竹伸朗とかピピロッティ・リストとかとかとか展覧会楽しいね。
水戸駅からバス。コスパなら東京駅からバスで水戸駅に。時間優先なら常磐線特急ね。
取手と言えば藝大の先端芸術。ということで市民と取手市、東京藝術大学の3者が組んで行われているプロジェクト。1999年からだからもう25年目?今は日常的にイベントをやっているらしい。
にしても、日比野克彦氏のような現代美術の人が藝大学長になるとは思わなかったなあ。
椅子の展覧会が定期的に行われるので、それを見に行く。できれば全部に座りたい。所蔵作品も良い小品が多くあった気がする。
アンディ ウォーホル、ジャン=ミシェル オトニエル、草間彌生、束芋など常設いいよね。加えて今は、品川の原美術館から移設された奈良美智、宮島達男、森村泰昌の作品が展示されている。品川の原美術館がなくなった時は悲しかったなあ。オラファー・エリアソンの「ビューティー」を見た時は感動したよ。
元館長等によるパワハラで有名。で、特に罰を受けるでもなく東京藝大の教授に。増田もパワハラをされて美術業界から撤退したので、パワハラしても日本一の藝術大学の教授になれるとは、さすがに気持ち悪く感じたよ。学生は大丈夫かな。北陸の美術館でも学芸員一斉退職とか何でなんでしょうね、この業界は。横道失礼。
車両中ほどが空いているにもかかわらず、手前で立ち止まる乗客の存在だ。
彼らは自らが車両中ほどに行くことを頑なに拒むばかりか、他の乗客が中ほどに進むことを阻む。
私は彼らを「蓋」と呼んでいる。
黒の完全ワイヤレスイヤホンを装着しており、ノイズキャンセリング機能のためか他人の声に決して反応しない。
不思議なことに、「蓋」は近くの駅で降りるわけではない。
長い距離を乗り続け、その間、周囲の乗客たちの動きを制限しているのだ。
私は違和感を覚えた。
これは単なるマナーの悪さではない。
何か意図があるのか?
次第に疑念が募っていく。
「蓋」は本当に単なる通勤者なのか。
それとも都内の公共交通機関に何らかの影響を与えたい組織の一員。
あるいは都民の生活に不快なものにする意志を持つ秘密結社なのではないか。
その謎を解明すべく私は京浜東北線の奥地へと向かった――。
上野東京ラインの川口駅停車が正式決定されて「あそこは乗降客多いから当然」とか「停車駅増えるのヤダ」とか巷間喧しいところであります。
そこで川口駅の事をちょっとだけ知っている増田が川口駅のあれこれを少しだけ説明するよ。
川口駅の西側は1980年代までみっちりと町工場が密集していて、特に線路に面したところは国の燃料研究所(後に公害研究所)という大工場があったので、西口広場ってものは無かったのよ。
この公害研が廃止され環境研に改組されたのでその空き地に西口ロータリーを造る事になった。
だがこの当時に、今の湘南新宿ラインの元になる東北本線池袋乗り入れが開始されたってわけ。
そこで川口市は駅の西側にこの列車用のホームが増設できるように何も建てない土地をワザワザ造って、「池袋支線停めてよ」アピールをする事にしただった。
場所はここ。https://maps.app.goo.gl/eiJk19EmifLCYrzCA
しかし、これ無理だろ?と気が付いた人も多いかと思う。現在の湘南新宿ラインは15両編成だから隣の10両用京浜東北線ホームの1.5倍になり、ホームを造るには全然長さが足りないんだ。
なんでこうなったの?というとその後の川口市がいけないのだ。
実はこの「川口西口緑地噴水」の場所は駅前ロータリーだった場所なのだ。つまりは道路。こんなせせこましい場所でバスの方向転換とかどうやってたんだか?
で、ここは大きなロータリーを別に造るから廃止になるんだけど、池袋支線のホーム用地にしよう、という事で期待を残して建物を建てなかった。
だけども公害研跡地再開発では人工地盤の巨大公園、更にその下の1階と2階にはコンクリート製の駐輪場を造ってしまったのだ。ホーム用地にすんのかしねえのかで全く平仄が取れてねぇ。やる気に統一感がなかったのだ。
だからホームを造る為に線路敷きを拡幅するには立体駐輪場と公園を一部破壊する超高額な工事をせにゃならん。
詰んでるじゃん。…ところがそうではないのであった。
駅の東側線路際に大きな駐車場が見えるだろう。ここ、実は川口市の土地なんだな。だからここを利用して線路全体の線形を変えるって方法でも行けるって訳だ。
なんで川口市がこの土地持ってるの?かというと、ここは川口貨物駅だった場所なのだ。正確には貨物駅は東口のきゅぽらという高層建物、その隣の駐車場、タワマンの場所にあった。駐車場の場所は貨物駅に入る為に線路が輻輳してあった場所だな。
国鉄は超大赤字を積み上げており、特に貨物営業に人が多すぎで、人件費が莫大だった。
そこで国は思い切って貨物営業をほぼ全廃してしまう事にした。石油の直通便とかコンテナだけ残す。
それで全国の貨物駅は遊休施設となった。例えば都心部だと新宿の高島屋スクエア、渋谷の南口オフィスビル群、汐留の電通とかあのあたり、秋葉原のヨドバシなど、飯田橋3丁目のオフィスビル群などは貨物駅だった所だ。
次に国鉄を民営化する事になり、その遊休土地は国鉄清算事業団に移管される。売却益を赤字補填にするというスキームやね。
それで川口貨物駅の施設は川口市ががっぽりと全取りしたってわけ。
んで駅南側は立体公共駐車場とか貸しビル&図書館&市役所出張所のきゅぽらなんかを建てた。そして北側はそのまんま。何分元が複々線線路だから狭くてビル建てるには手狭。でも元が線路だから線路用地にするのが一番やね。
但しそうなると駅全体を改造する事になるから工費はかなりのものになる。新駅ビル建造込みの工事になるかと。
因みにこういう時、JR線路部分の工事は他社にやらせないで自ら発注するのしか認めないのね。事故があるとヤバいから。だから自治体に金だけ貰うって形になる。
ただ、この全体線形変更案は増田の予想なんで、実際はどうなるかは判らん。立体駐輪場と公園を壊してホーム用地を西口方に確保するかも知れないし、南の方へ伸ばして途中の家屋を買収するかも知れない。そこはまだ全然決まってない。
あと、東口の駅舎(と言っても階段があるだけ)と京浜東北線ホームとの間に隙間のデッドスペースと飲食、床屋店舗群があるけど、そこも川口市有地でここも活用できる。
とするとやっぱ全体を東に移して駐車場活用案にあるんじゃないかと思われる。
電車に乗ってると気になるこれだけど、 https://maps.app.goo.gl/uPyzTQ8tn1QQhPTQA
これはなにかというと、貨物駅に入る為の乗越線だったものだよ。
貨物駅が貨物線(現湘南新宿ライン線路)と反対側にあるから、貨物列車が駅に入る時には東北本線、京浜東北線を全部横切らなきゃならない。その為には全部赤信号にして止めなきゃならないから大遅延の元になる。
そこで乗越線で立体交差にした。
昭和43年まで赤羽から大宮は京浜東北線と東北線の複々線だったんだけど、東北線と高崎線の特急を増発する際のボトルネックになっていた。貨物列車が多いし、新幹線が無い時分だから新潟行きも仙台行きも秋田行きも青森行きも全部ここを通る。
そこで貨物線を増設して貨客分離する事にしたんだが、問題になったのが川口貨物駅。貨物線と反対側にあるこの駅に線路を全部渡って行くったって、既に京浜東北線は通勤ラッシュ常態化で、東北線も列車増発の為に線増したのにボトルネックを造ってどうする。
ってことでこんな大がかりなものをこしらえた。
因みに運転は結構大変で、なにぶんにも片方しか入れない。そこで下り列車であれば、一度蕨駅まで行く。そこで機関車を後ろに付け替えて今来た方に出発。西川口付近で乗越線に入って川口貨物駅に到着。
逆に上りでは駅に着くのは普通でいいが、出発後はやはり蕨駅まで行ってから、機関車を付け直して赤羽方に出発という何とも迂遠な方法を取っていた。
貨物駅廃止で不要になった筈だが、廃止された線路の一部を保線用基地に転用した為に、この乗越線を使って湘南新宿ラインの方にレールを輸送するので残されている。
そもそも貨物駅が貨物線と反対側にあったのがいけないのだけど、川口アリオの場所にビール工場があったのでこっちに造られた。ビール輸送は鉄道貨物の大お得意さんであったので無視できないのだ。
因みにビール工場がここに設置された理由は、見沼代用水の分水が取水できた為で…(以下略
鉄の製造には3種類あって、
1.鉄を融点以上に加熱して砂型に入れて固める鋳造(出来るのは鋳鉄)
3.圧延ロールで押しつぶして板状に、またはパイプ状や棒状にする圧延
というのがある。今一番使わているのは圧延で、何段にも圧延ローラーを掛ける為に長いラインが必要になるので工場も資本も巨大になる。量産効果で製品単価は低くなる。
キューポラ炉はたたら製鉄の応用で、コークス(石炭を乾留して硫黄分などを飛ばしたもの、結構高い)→鉄→コークス→鉄とウエハース状に重ねて入れて鉄が溶ける温度を確保する。
投入口が2~3階にあって取り出し口は1階という結構大がかりなものです。
鋳鉄は炭素が多いので、コークスは温度を上げるだけじゃなくて鉄に炭素を含有させる働きもあるのだ。
このキューポラが沢山稼働していたから昔の川口は大気汚染がすごかった。炭塵だけじゃなくて鉄が溶けた蒸気(ヒューム)も混じってるから健康には悪い。
あと一つ入らないのでその二に続く
これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638
巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋駅から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。
一番反対したのは洋菓子店のタカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。
これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン。
地下道は都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。
しかし地下道入口に東急ハンズがオープンすると付近にカメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル、映画館が誕生し、池袋駅東口~東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。
90年代にJRAは女性をターゲットとしたCMを打つなど競馬のイメージアップに努めてはいた。
だが池袋駅東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージの悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRAは土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロンや飲食室などを設ける大規模な計画だった。
この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗の第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在のLABIとなり、池袋の家電激戦区っぷりに火を注いだ。
米軍が接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地や家屋に収用が掛かった。
これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地内侵入などの事件が起こり大騒動になった。
憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件。
この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍は立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町の横田基地に集約する事を決定。立川飛行場は日本に返還される事になった。
箱根ヶ崎付近の八高線と国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である。
返還された立川飛行場は学校や研究所、法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。
真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。
なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7
(よく見ると滑走路アプローチの>>>>のペイントがうっすら残る)
東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音と振動が問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線のゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。
そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民の利益にもなるスキームにした。
この為に赤羽~大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮駅北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。
なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。
空襲焼失地区の戦後の復興は東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。
そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的な方法を試す事にした。
しかし優越な資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。
しかし建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火と風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。
戦後の歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。
しかし高田馬場を始発駅とする西武新宿線が新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町の付近に仮駅を設置された。
当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地を勝手に占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しかも権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。
その為に歌舞伎町の地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。
そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。
ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638
流山は常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。
田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦、牛久沼、手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。
問題は北千住から柏で、今の南回り松戸ルート、八潮→三郷→流山の北回りルート(TXコース)がある。
でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川、古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウンの南側は田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮の市街で出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車の振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。
だから日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ。
日光御成街道の宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市に吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし
これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。
日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。
上野駅を出た京浜東北線(大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。
地球の海面は氷河期には氷河や南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。
縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野は海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)
海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである。
すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである。
つまり、上野~赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。
波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。
上野~赤羽では小規模な波蝕台が連続し京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。
この波蝕台跡は他の低地より少し高いから田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。
陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である。北海道標津の野付半島や京都の天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。
この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴は江戸時代の荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。
当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防(曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。
川口町駅からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。
南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。
浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である。
大宮から先も小さいカーブで芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体が芸術点高いルートを通っているのでこの区間はコピー忍者って感じだ。
このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。
文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?
お雇い外国人の英国人の力だけではない。江戸時代に新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ。
台地上に水田を作る場合、もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。
やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。
更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側から何センチ下/上がっているかが判る。
これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。
という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。
○仕事
P社とはパートナー会社のことで、電設(日本電設工業)、リーテック、TEMSのこと。
○川柳
作業の安全啓発のため毎年社内で募集が行われる。川柳以外にポスターや動画作成でも良い。
川柳は毎年やるとネタが着きてくるが、安全教育として新白河の研修施設に「事故の歴史展示館」を作るなどたまにはインプットもしてくれる。
川崎駅の京浜東北線の事故車両を使った展示などを見ると、もし営業車だったならと想像すると気が引き締まる思いではあった。
○iPad
office 365 を全面導入し業務改革しようと頑張っている。
今は多少改善されていると思いたいが、当時はExcel で書類を作ってた。
JINJRE(ジンジャー)という設備管理システムがあり、法定点検の周期に従い工事箇所のリストを作る。
工事の見積もりはP社から取る。その見積り額を社内の人工(にんく)や歩掛(ぶがかり)の単価と比較すると全然合わない。人件費の高騰などもあり2倍以上の乖離があることも。
社員では工事できないため、結果的に相手の要求呑むしかなく、現場レベルで会計不正しているようで、気分が重かった。
書類が揃ったら社内で稟議を回す。もちろんプリントアウトした紙で。
チェックしたことを示すため、金額や数量に色鉛筆でチェックをつける。本人、上司、助役で赤、青、緑などと色が変わる。
誤りの修正が面倒で、当該書類を差し替える。助役以上に指摘された場合が厄介で、本人の赤と上司分の青は自分でチェックをつけねばならない。これが何回も繰り返される。工事の規模が大きくなると4段階5段階と増えていく。
見積額の水増しと上司の代理のチェックを合わせればなんでも出来そうな気がした。
○評価
「恥ずかしい言葉」は、その単語の発音を恥ずかしいもの、卑猥なもの、人前で言ってはいけないもの、として、社会みんなでその恥ずかしさを維持しているのた。
子供の時は、辞書の「セックス」のページを開くのも躊躇われ、中学になると「Sex」が丸で囲われた。
中1までは「勃起してんの?」と大声で言う女子がいた。保健の第二次性徴期の単語は割り切った。これを静液と言う。
大学の時はパソコン通信の東京がらくた工房で、JONなるハンドルが「スマンコ」と謝罪しながら何かを言い切る、言わばマントラを作り出し、僕は驚愕した。後に「スキャット マンコ JON」を一度だけ名乗り、その一度が僕の中では今でも続いている。
閑話休題。時は流れて、20代後半のときは2ちゃんのおかげで「マソコ」や「チソコ」と女子も言いやすくなった。ネットスラングの体で言うのだ。「私のマソコも濡れて来ましたよ」。
大阪の女の子は、「その、東京で言う『ま』からの言葉は別に言えるしそうでもないんですけど、同じものの大阪て言う言葉かあって、わかりますよね?、そっちの方は、もう、本当に恥ずかしくてひゃあってなる。その、名前の意味じゃなくて、その行為をすることの意味にもなっていて」「どんなふうにいうんですか?」「えっ、その。。お、おめこしようや。。とか」「へえー」。
その時17歳の女の子は「どこが気持ちいいのかなー?」「え、言えない://」「私のおまんこ見てくださいって言って」「言えない、恥ずかしくて」だったけど、22歳になって見た目も大人びたその子に「今はもうまんこって言えるの?」と聞いたら、「大人になったからってまんこなんて言えませんよ、今言っちゃいましたけどね」と少し早口で言い切った。
時に、さっきまではそんな感じじゃなかったのに、エッチのときに「ペニスが、あなたのペニスが!」と、声に出すことによってより性的興奮を高めたいんだけど、いつも言ってない単語だからちんちんともちんぽとも言えなくて、英語ならハイソ風だしおかしくもないだろうとペニスと言う女性。ピロートークのとき、「まんこ気持ち良かった」「(うんうん)」「私のまんこがって言って」「わた、しの、おまんこ、が。なんか恥ずかしい」。ワイが女性の股間を触りながら、「おちんちん大好き」とリピートアフターミーすると、女性はワイのちんこを触ってきながら、「僕はけいこ、私本名けいこって言うんだけど、僕はけいこの全てにメロメロですって言って」「僕はけいこの全てにメロメロです。顔も身体も気持ち良くてエロいまんこも、髪型も物静かな性格だけどエロくて女の子っぽいところとか、」「本当に?すごく褒めてくれて嬉しい。んーっちゅばっ。キスしちゃった」「僕もお返しに、ちゅっ」「なにかして欲しいことある?なんでもしてあげたい」「ではー、ではー、」。
今、朝の京浜東北線の中で書いてるけど、強姦魔も通勤途中の女性を襲ったら、成功率は下がるだろうな。女性も会社に遅れることが問題で、前向きに抵抗または回避するだろうな。徹夜明けで平日の朝の町に出たとき、いつも考えてた。
さっき、隣の若い女子が明らかにワイの体に頭を寄せて寝ようとしてた。直に伝わる体温が熱くて艶かしかった。結果としてもたれかかるんじゃなくて、最初から狙いを定めることもあるんだな。
一晩せっくす3回した女子が、朝食でファミレスに行って料理を半分こしたり間接キスしたり「ノーパンノーストだからスースーする」とテーブルの下でスカートを扇いだり、結局また昼からホテルになんだけと、部屋に入ってすぐに鏡に向かって化粧直しをして、「すぐ用意するからちょっと待っててくださいね」と髪を縛って。なんの用意かな。
彼女を気取りたいからそうするのだ。多分料理とか作りたいだろうな。私だけの君になって欲しいよだろうな。大事にされたいんだろうな。真剣にずっとそう考えててほしいんだろうな。僕が今までとは違う人生に連れていってくれ、、、
「私のお尻って可愛くない?」と見ると、大きな丸いお尻があった。「可愛くて、後ろから目で追っちゃうような」と適当に言って、触ってキスをすると、「私と結婚したい?」と普通に言った。「結婚したら毎日会えるの?」「セックスは週に2回かなー。でも最初は毎日しちゃうよね。そしたら妊娠もして、もう一人産めるかなー。今日、多分大丈夫な日だから、生でしてみる?ナマって下品に言っちゃった。避妊具着けないで中で射精してみる?」「赤ちゃんできちゃう。。」「その話をしてんの」
元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559
地下鉄南北線に志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。
関東大震災後に人口が流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。
後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。
関東大震災後に東京近郊は下町からの移住で人口が増え始め、川口町と合併して川口市になる横曽根も人口が増える前に区画整理をする事になった。
横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなりな小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側の新田は「仁志町」とした。
仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。
だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。
「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである。
余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。
先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。
東上線の中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道の上板橋宿跡である。
大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要な下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車の単線運転だから交換用の駅で距離もその程度が適当だった。
だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当な地名も無い。
だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋と上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。
でも下と上の中間の板橋だから中でしょと「中板橋」駅としてしまった。
すると上板橋が上板橋駅付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。
地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。
元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。
今の西口付近はその名も「上」という小字の場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。
だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。
そもそも下上って何なのか?
葛飾区と足立区の区界を見ると綾瀬駅の付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。
荒川放水路が出来るまでは堀切駅の付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。
一方、江戸時代に水墨画が流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド的価値を持つようになった。
隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府は隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。
するといい景色なので山水画や浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。
その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。
隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。
中仙道の板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋駅から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿(下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。
鉄道道路の時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。
下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。
吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。
十条と呼ばれる地区には北側に上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である。江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。
両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである。
明治になりその十条の西の方に現赤羽線(埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。
次に東北本線(京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。
ところが昭和に住居表示で町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。
それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。
こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。
そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。
ここを東急電鉄の後藤慶太のデベロッパが買い上げ高級住宅地「田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。
「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤が田舎に住んで都会に鉄道で通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドンは児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染、ゴミや糞便に混じって死体も流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイルが流行した。
昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線の調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称。
だがその僅か五年後には荏原郡自体が東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。
初めは東急(の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地だけが田園調布だったが、住居表記施行で町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。
これ https://b.hatena.ne.jp/entry/s/trafficnews.jp/post/127759
関西人が亀有行くのが難しいという嘆きに対して「老害じゃね?」「スマホで乗換案内見ろ」と好き放題な罵倒がされているが、はっきり言って亀有を含む、JR常磐線の綾瀬~金町に行くのは東京もんでも難しんだよ!
増田は東京の西側ばかりで活動していて、ある日仕事で亀有の隣の綾瀬に行くことになった。だが路線図を見て行き方が判らなくなってしまった。
何故なら乗換駅のJR北千住駅には綾瀬~金町に行く各駅停車のホームが無いのである。
実は常磐線は列車線と緩行電車線の複々線になっており、各駅停車が走る緩行線は綾瀬で地下鉄千代田線に直結している。
当然北千住のホームの場所が問題となる。普通はこういう時は北千住駅手前で地下鉄が地上に出て常磐線に並んだホームで乗り換えできるようにするじゃない?
ところが北千住ではそうならないで地下にホームがあり、その地下の北千住駅を管理しているのは地下鉄なのだ。途中駅なのだから当然だ。
だから「JR常磐線各駅停車の北千住駅は無い」というとても奇妙な事になっている。
乗換駅がJRと地下鉄の接続駅じゃなくてその次の快速以上が止まらない綾瀬が両社線の接続駅なんて無茶すぎる。
渋谷とか新宿以西でばかり活動していた増田はこんな無茶な構造になっている事は知らなかった。
この構造は千代田線乗り入れ開始で出来たのだが、綾瀬、亀有、金町の人らは激怒したらしい。
それまで例えば亀有から上野は一本で行けた。だが乗り入れ後は北千住で乗り換えで、更に地下の地下鉄ホームから高架の常磐線ホームに階段で上がる必要があり、やたらと時間と体力を食う。更に当時は地下鉄路線がまだ少なくて都電が現役だった頃だ。地下鉄で都心に直通出来るメリットも少なかった。
常磐線には
・特別快速
・普通
・快速
・各駅停車
という列車種別がある。普通は各停→普通→快速→特快の順で速くなると思うわな。
しかも各停は地下鉄に直通するから行先が違うという複雑怪奇さである。
快速っていうのは各停の駅を飛ばすから快速らしいのだが、走る線路が違ってこっちは地下鉄に入らない。
昔は「普通」は機関車の曳く客車やボックス席車で、「快速」は通勤電車だったので何となく判り易かったみたいだがJRが全部通勤電車にしてしまったので訳が判らなくなった。これも関西人じゃなくても混乱するポイントだ。
因みに普通は列車由来なのでトイレがあるが快速はトイレがない。ならば便通の方が適当ではないのか?
記事では、列車種別ごとに別路線のように描くのは、昭和中期の国鉄5方面作戦がどうこうと鉄オタ好みの説を書いているが、そうじゃなくて戦前の昭和初期の電車網築造に遡るのだ。
まず、京浜東北線。東海道線が東京、東北線が上野で分断されるのに対してこれらを直通して、更に東北線の方は尾久に車庫を作って列車線の方は車庫の向こうを回る形にした。すると途中の駅が違ってくる。そしたら別路線として案内した方がいい。
山手線。これは大正の終わりから環状運転を始めた。田端~東京~品川は東海道線と東北線だが跨って走る上に渋谷の方に曲がっていくからこれも別路線扱いで案内した方がいい。
中央線と総武線。複々線にしたのだがこれのキモは秋葉原駅で、中央線のお茶の水から分岐して秋葉原で立体交差、総武線の始発だった両国に繋ぐ路線を建設。
地上2階くらいを走る京浜東北線の上を跨ぐために街の上に高架を作るというのは当時は先進的であった。しかも秋葉原駅の東側(今のTX入口やロータリー、アキバヨドバシ)には貨物の荷捌き場と舟運用の堀があり、それを跨いで地上6階くらいの総武線ホームに直通するためのエスカレータもあった。
当時エスカレータは銀座の高級デパートくらいしか設置されていなかったのに駅に設置されるというのは相当に革新的に写ったと思われる。
また、御茶ノ水駅の前後と代々木駅、新宿駅には乗越線を築造した。
お茶の水の前後で一本づつ乗越しして、これによりお茶ノ水で東京駅方面と両国方面の乗客が同じホームの反対側で乗り換えが出来るようになった。
新宿も山手線と総武線(中央線の各停)が同ホームで乗り換えが出来るようにした。
今もあるあの便利な乗り換えが出来たのは戦前なのだ。工事量が2倍に増えるが当時の当局は利便性を優先した。「立体交差のダイナミックさ」に取りつかれていた感じがしなくもない。
こういう感じで、
に大正末~昭和初期に複々線の同じ線路を走る電車を別路線として案内するのが一般化した。そして駅名表にもその電車が止まる駅だけ表示するようになったので、実はかなり古い方式なのだな。
因みにだが、その別路線扱いの電車をそれぞれ違う色に塗るというのは昭和30年代後半に始まった。
更に路線が増えてきた営団地下鉄がその方式を拡張して、電車だけじゃなくて駅もテーマカラーで統一して、乗換案内を色で示すようになると、これは大変判り易い上にサインシステムとしても優れていると絶賛され、各国の地下鉄も同じ方式をやり始めた。
今はどこの国の地下鉄も路線ごとのテーマカラーで統一されていてありふれたサインシステムだが、そのオリジナルは東京の交通営団で、更にそのオリジンは国鉄で、その国鉄は昭和初期の別路線扱いの案内法をもっと判り易くする為に路線別カラーを始めた訳なのだな。
だから「亀有に行くのが判り難い」というクレームは叩き潰すんじゃなくて、先祖が始めた判り易い路線別システム、サインシステムの流れに反する退化だなと考えないとダメなんじゃないかと思うところだ。