はてなキーワード: 珍妙とは
アウレリウーッス
本日はO157 堺市学童集団下痢症を忘れない日、となっております。
初めてO157と聞いた時は「何だこの珍妙な英字と数字の羅列は」と思ったものです。
そしてしばらくしたらかいわれ大根を食べてる菅直人さんを見せられて「かいわれ大根食べてるなぁ」という感想を抱いたものです。
最近じゃ生食も禁止されるというか、生食用の肉を使う上でちゃんと気を付けなければいけないことやちゃんと火を通すことを徹底されたので、ちゃんと遠ざけられているなぁとは思いますが
それでもほとんど生みたいな肉を食って腹を痛めることが最近でも発生しておりますので、やはり食べる前に気を付ける必要性はありそうです。
ということで本日は【十分な加熱よいか】でいきたいと思います。
十分な加熱よいか!十分な加熱ヨシ!
ど田舎自治体DXなんていう、非効率で珍妙なお仕事に関係してます。
この仕事はとくに田舎町にとって概ね毒ですが、公金だから支払いも決まってるし取りっぱぐれもなし。単価も悪くないので、良いおかず状態。
なにより、田舎の役場の中でITわかってる人って人数少ないから「日常のPCメンテで手一杯、あれもこれもよろしく」ってエンドレス外注になる上に、システムごとに保守費用が発生するから、中の人が一人でも保守費用だけ何倍だよ?っていう感じ。
なお、公共体のネットワークはインターネットから切り離されていて、J-LISっていう団体が放送業界のB-CASみたいに君臨なう。結構いいお値段です。。。一般人からは見えることないけど。
んじゃ、まぁ。
せっかくの個人情報の売上を回収しないのはもったいなし。
ど田舎自治体DXなんていう、非効率で珍妙なお仕事に関係してます。
この仕事はとくに田舎町にとって概ね毒ですが、公金だから支払いも決まってるし取りっぱぐれもなし。単価も悪くないので、良いおかず状態。
なにより、田舎の役場の中でITわかってる人って人数少ないから「日常のPCメンテで手一杯、あれもこれもよろしく」ってエンドレス外注になる上に、システムごとに保守費用が発生するから、中の人が一人でも保守費用だけ何倍だよ?っていう感じ。
なお、公共体のネットワークはインターネットから切り離されていて、J-LISっていう団体が放送業界のB-CASみたいに君臨なう。結構いいお値段です。。。一般人からは見えることないけど。
んじゃ、まぁ。
せっかくの個人情報の売上を回収しないのはもったいなし。
ちょっと前のはてなは他のSNSと比較して左翼とフェミが多く、そいつらが星をお互いにつけるもんだから人気コメントもそちら側に偏ってたもんだった。それでそいつらの論理の穴やらダブスタを指摘して星を集めるとアウェーで勝ったような気がして嬉しかった。
しかし最近はだいぶフラットな意見が人気を集めるようになったし、はてなのお仲間内でしか通用しないはてサやフェミの珍妙なコメントを批判するコメントも普通に載るようになったしわざわざ自分がコメントするまでもないなと思うことが増えた。
ツイッターはまだまだ煮え滾った憎悪増幅装置として熱い戦いが日々繰り広げられてるけど、あっちは最終的に信者ファンネルバトルになりがちだから全く議論にならないしもう終わりだ猫の国。
皆様お元気ですか。
私は相変わらずです。
[歌詞検索サービス 歌ネット]にて「ブルマ」を含んだ歌詞をキーワード検索する。
なお「ブルマ」とは関係のない「ブルマン」(ブルーマウンテンコーヒーの略)、「テーブルマナー」や「ゼンカイオーブルマジーン」(註:ゼンカイブルーンとゼンカイマジーヌというロボットが合体してこんな名前になるらしい)が引っかかるのでそれは除外した。また、ドラゴンボールの登場人物であるブルマも含めていない。
さて、調査の結果、いくつかのパターンに分けられることがわかった。
魔法少女プリティサミーイメージソング「DOUBLE MIND」(1998/03/25)では
見学ばっかりの
体育じゃ 泣けてくる
いらない ブルマなら
売り飛ばしちゃいたくなる
と、当所のブルセラブームを感じさせる歌詞がある。ウィキペディアによれば、1991年から1992年にブルセラショップの名がついたそうで、宮台真司は当時ブルセラ社会学者と呼ばれたという。なんだそりゃ。
ドージンワークエンディングの水橋舞「夢みる乙女」(2007/07/25)では
ソ・ラ・は ピンク色で
ブルマもビュッと飛んで行く
というよくわからない歌詞がある。作者のヒロユキの自画像はブルマーに一本線の手足と顔が付いているというもの。そのため「ブルマくん」と名乗っていたそうだ。しかし、「アホガール」以降はそれがバナナに変わっているとのこと。
コスプレ衣装を連呼する「ロリィタ帝国ビショージョ大帝」(2007/10/31)では
着るなら着なさいよ
という歌詞があるが、これもよくわからない。元々オープニングの「もってけ! セーラーふく」もよくわからなかったのでそういうものだろう。
「迷い猫オーバーラン!」イメージソング、「スキだからスキ」(霧谷希というキャラのキャラソン)(2010/06/25)では
イイ子 ワルイ子 どっちでもない
と珍妙な歌詞で、さすがスパッツの上にブルマーをはく「ブルッツ」という概念を考えたアニメであるな、と納得した。一昔前には「はっぴぃにゅうにゃあ中毒者隔離スレ」なってスレッドが2chにあったのだが、覚えているだろうか?
ちょっと変わったのでは聖Smiley学園生徒会「twinkle*2」(2014/03/05)で
「追いかけっこしてたら迷った!」
という女声電波ソング(註:電波ソングというカテゴリも、そのうち「電波」という表現がまずいといずれ改称されそうな予感がする)っぽい歌詞なのに、これはニコニコ動画の男性歌い手たちが学園生活を送っているという体裁のCDなのである。
アニメやゲームとは違うが、ボーカロイドではデッドボールPの「クリスマスヒトリポッチ」(2014/07/02)があり(註:初音ミクWikiによれば2012年のクリスマスソング。前述の日付はおそらくCDになった日)、
ローションドロドロノブルマ
と、ブルマーを使った自慰行為が表現されている。このサイトではカタカナの歌詞だが、元の歌詞は㍍などの記号の下半分だけをつなげて読ませるものになっている。
つまり
㌔㍓㍇㍎㌔㍀㌔㌨㍔㌏
となる。
2009年結成のアイドルグループ、私立恵比寿中学「体操」(2013/07/24)には
ブルマー
トレパン
トレシャツ
という歌詞があるが、あまりブルマーはそこまで歌詞の中で重要な意味はなさそう。少なくともPVはクオーターパンツ姿である。
驚いたのがブリーフ&トランクスのブルマ率の高さである。
「ブルマン」(2000/05/01)では
へその上まであげている
1組の桜井
ブルマン……
また、「となりの柳橋」(1999/09/01)では
となりの柳橋が言いました
「伊藤くんに言いたいんです。
スカートの中をのぞかないでください。」
となりの柳橋が言いました。
そして挙句の果てに「ひとりのうた」(1999/09/01)では、
ひとりきりっていいよね 座布団のにおい かぎまくれるし
ブリトラの伊藤多賀之と細根誠、どっちがブルマーフェチなのかどうかは知らないが、どちらも1976年生まれ、ブルマー世代ではある。生々しいのはそのせいか。
「オレたちひょうきん族」の「タケちゃんマンの歌」には
赤いホッペに 太まゆげ
と彼の姿を歌っている。あれは提灯ブルマと呼んでいいのかわからないが、まあいいだろう。歌詞に風俗街の名前を織り込む当たり、時代を感じる。
またmiCKun「O-Z-3 feat. Crystal Boy」(2011/01/12)では
と昭和世代の象徴として用いられている。miCKunはmihimaru GT」のメンバーのmiyakeで、「mihimaru GT」は「気分上々↑↑」で知られる。
それではまた。
難読で珍妙な苗字は検索するとすぐ出てくるし創作キャラクターでよく見かける気がしてて
(四月一日、栗花落、小鳥遊、安心院、弥勒院、武者小路、etc)
でも誰でも読める漢字の組み合わせで珍しい苗字ってどれくらいあるのかなと思って
(読みに一癖あるやつは除きたい、日下部とか四方田とか四十九院とか)
実際に会ったことのある人で平易な文字列だけどいない苗字、こういうのあるよってあれば教えてください
私の人生の中では花宮(はなみや)さんが暫定一位、まじでいない、読めるけどいない
出会った人の中の珍しさでいったら闐闐(どんど)さんがやばいと思った、読めないしそもそも機種依存文字らしい
あとは殿垣内(とのがいと)さん、あだ名はもちろん「トノ」
保正(ほしょう)さんもすごいなと思った、芹生(せりう)さんはギリギリ読めた
源五郎丸(げんごろうまる)さん、次郎丸(じろうまる)さんの丸シリーズは多そう
伊古野(いこの)さんもいない気がする
釘宮(くぎみや)さんはメジャーだと思ってたらそうじゃなかった
肥前(ひぜん)さんは九州かと思ったら全然遠方の人だった、旧国名ネームだね
角(すみ)さんも衝撃だった、丸さんもいるのかな?
居倉(いくら)さん、諏訪(すわ)さん、椿(つばき)さん、伴(ばん)さん、菩薩崎(ぼさつざき)さん、万徳(ばんとく)さん
小茂田(こもだ)さん、行部(ぎょうぶ)さん、佛木(ほとぎ)さん、鬼頭(きとう)さん、下馬場(しもばば)さん、出水(でみず)さん
團塚(だんづか)さん、幾度(きど)さん、海鉾(かいほこ)さん、神酒(みき)さん、雅楽川(うたがわ)さん、歌丸(うたまる)さん
遠近(とおちか)さん、夏目(なつめ)さん、雨宮(あめみや)さん、大関(おおぜき)さん、三瓶(さんぺい)さん、八十川(やそかわ)さん
これ
https://www.youtube.com/watch?v=uGnJHA1rPJM
英語圏の歌い手が、『全編日本語で』、今英語圏で何故か今更一大ミームになってるメタルギアライジングの悪役剣士のキャラソンを歌った動画。
正直言ってかなりおかしい日本語(英語歌詞を日本語に機械翻訳したものをそのまま無加工で出した感じ)をめちゃめちゃ真面目に熱く歌ってる様は一種珍妙なものを感じさせるが、コメント欄を覗くとかなり好評の様子。どうやら、英語圏の人々にはこの歌がかなりクールに聴こえるらしい。
これを見て思った感想が、
「日本人が作詞作曲した全編英語の歌って、英語ネイティブの人が聴いたらこれくらい珍妙に聴こえるんだろうな…」
ということ…。
全編英語でないにしても、歌詞が部分部分英語になってる日本人作詞作曲の歌は本当に山ほどあることを考えると、(英語ネイティブの人がその英語歌詞部分を聴いた時に思うことを考えると)何とも恥ずかしい気分になってくるわ…。
ちょっと可愛いけど可愛すぎないメガネモヤシおじさんが家で使っててもギリギリセーフなくらいの配色のやつで1万以下で買えるやつ
E-Whiteのケースに合う3トーンか2トーンの小洒落た配色がよくて、今んとこ気になってるのがosume sakuraかdalgonaあたり
どっちかというと後者の方が落ち着いてていいかな、でも未発売だし、前者はR2待ちでいつ入手できるか分からんやつだけど
アルファベット部分は白系かパステルくらいの薄い色つきのがいい(逆にここが濃くモディファイア部分が淡色でもいいが)
刻印は真っ黒じゃなくて多少色ついてたほうが好ましいな、XDAプロファイルによくあるど真ん中印字みたいなのも可
視認性は気にしないからごん太より細字の方がいいが、無字がいけるほど玄人ではない
プロファイルも気にはしないが今のがOEMだからそれ以外だとより好ましいかなくらい
素材はPBTでもABSでもいいが、厚みがあることと、Dye-Subなら印字がキー間でズレてたり滲みすぎてたり珍妙なフォントだったりしない程度の品質は欲しい
In-stockなやつだとPolyCaps Corn PBTなんかも好みだがもうちょっと落ち着いててもいいな
あとはTai-Hao Shell Sand Beachあたりか…? 印字が黄ばみすぎてて統一感ないのがちょっとアレだ
BoWにアクセントキー数個添えるって手も考えたがBoW自体が個人的にハイコントラストすぎてダサいと思うのでちょっとないかな
アクセントキーも派手すぎて目立つ色は手元見るたびにギョっとしそうで避けたい
Keychron Q1にひっそり追加されてるカラバリMint Greenのキーキャップだけ売ってくれればそれもかなりアリなんだがなー
AliExpressでGMKクローンを買うという手もなくはないんだが、なんかアレな気がしてアレよ
ドイツとナチスが絡むと必ず出てくる言説で、ここでもやはり大量に見られる。
はてなブックマーク:欅坂46も立憲民主党議員も…「ナチスをもてあそぶ日本人」にドイツ人がドン引きする理由 | 文春オンライン
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/50047
なんかズルいなあ。現ドイツはナチスとは別で第2次大戦は全てナチスが悪いっと言ってる感じ。昭和天皇は責任から逃げなかった。
コイツの祖父や祖祖父の世代がナチスを指示したからナチスがああなった。ナチスに全てをおっ被せているのは否定できないだろうよ。
ナチスこそが全ての原因で邪悪で悪魔で国民はその被害者という形にしないと成り立たないのがドイツ。想起するあらゆるものは排除っていうスタンスは、他のジェノサイド等の件では全く見られない特殊なもの
戦争責任をナチスに押し付けたからこそ、「我々一般のドイツ人とは違う狂信的な集団」として極端にタブー視する必要があるんじゃないかと穿った見方をしてしまう。
そりゃ「ナチス党を絶対悪においてドイツ人が悪い訳では無い」というスタンスだからな。だから謝罪も賠償もしない。外から見ると「ナチス⊂ドイツ」だけどな。
この言説の出元はズバリ西尾幹二である。といっても西尾が「西ドイツ(当時)はナチスを切断処理して反省を拒否している」と言ったのではない。
前年に西ドイツ大統領に選出されたヴァイツゼッカーは1985年連邦議会で後に有名となる演説を行った。西ドイツ大統領は米国や米国の政体をモデルにした韓国のようなものと違い、首相の上に立つが実権力は少なく元首のような役職だ。
この演説は「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」の節が有名で、要するにナチスの蛮行の責任を戦後のドイツ人は引き受けねばならない、蛮行に手を貸していないと言い張るのは許されないとの内容だ。
この演説を岩波の『世界』が取り上げて掲載し、後には数百円のリーフレットも発売した。「戦争への反省のモデルケース」としての評価であるのは言うまでもない。
因みに『世界』は敗戦後に相当な影響力を持った論壇誌だったが、経済成長や全共闘の進歩派攻撃などによって影響力は下がっていた。だがこのヴァイツゼッカー演説の掲載は反響を呼び、リベラル人士に挙って引用されるようになった。
ところで複数人で編集されるwikipediaのヴァイツゼッカーの項は、演説内容が「悪いのはヒトラーとナチズムであり、ドイツ国民・民族も被害者である」だったとの節と、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。」との引用文が併置されるという面白い状態になっている。
この盛り上がりに対し、ドイツ文学者の西尾幹二が文藝春秋社『諸君』で批判を加えた。
「演説文章をよく読んでみると、ドイツ国民の直接の罪は回避されている」「ナチスの罪はドイツ国民個人に無い事が前提となっている」という内容だ。
そして「日本の戦争犯罪と違ってナチスの罪は人道に対する罪であって国家そのものが犯罪国家で責任の取りようが無い」。
責任が取れない種類のものを引き受けると言っているのだから欺瞞だ、という事だ。
これは文章解釈であり、悪意を持てば文章は逆の意味に解釈する事も出来る。(「ナチスの手口に学べ」は反語だ、など)
それは言語的堕落だが、西尾がそう評価されなかったのはニーチェ思想を専攻とする文学者の実績があった為だ。例えば中央公論の『世界の名著』シリーズのニーチェの編纂、解説は西尾である。実態が無い〇〇総研勤務や過去論文が紀要に全くない文学研究者やバイト以外職歴不明の動画投稿者ばかりで構成される昨今の保守論壇と当時は全く違った。
それ故、西尾の批判は「無邪気な戦争責任論への懐疑」として評価されていた。ヴァイツゼッカー演説のリテラル(文字通り)の内容は、云わば民族原罪論のようなものなので、それに対してニーチェ的視点から欺瞞を突きつけたくなるのは無理もない。
但し、
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
の様な一文を持って「集団が免責されてる」という辺りはニーチェもへったくりもなく単に低質なデマだ。あとで触れるがこれをやり始めたのは小林よしのりだ。この文章は「当時にも残虐行為にタッチしていない人間は居たがその罪は国民は免れない」という意味だからだ。
だから西尾を哲学的文脈で好意的に評価する時、こういう所は無視して、ユダヤ・キリスト教の道徳に類似した欺瞞を指摘した、と評することが多い。
だが西尾はニーチェ専攻にも拘らずにルサンチマンに駆動させられやすく、「切断処理を表明する演説」論者にのせられてそう言っちゃうのよな。で、論壇が経歴不明なバカや宗教右翼で埋まってパージされると冷静さを取り戻す、というのをずっと繰り返している。
90年代前半までとその後の保守論壇というのは質が全く違って、例えば引用したブコメで言うと、
とかは今は普通に見られるが、当時ならあり得ない。何故といって日本は交戦相手の米英仏豪に謝って賠償金を払っただろうか?勿論していない。
フィリピン以外の賠償金は全てチャラにして貰った。特に米国は自国の民間企業に対しても対日債務は諦めるようにした。ドイツも同じスキームだ。
そして日本はそれら交戦相手の連合国にチャラにしてもらう代わりに戦場となった主に東南アジアに対して復興後の開発援助を約束した。これらの戦後処理を全てやったのは自民党であって、それ故保守論壇人士の方が戦後処理に詳しかった。だから「ドイツは交戦国に賠償していない」なんて事は相当のバカじゃなきゃ言わなかった。それはどこも一緒だから。
こういう訳で当初は「ニーチェ研究者の文章解釈」として評価されていた西尾言説が、「ドイツはナチスを切断処理して反省を拒否する立場である」という風に化けて行く。
この決定的な曲がり角は先にも言った小林よしのりなのだが、小林を論壇に引き込んだのは西尾なのだ。だから西尾は小林やそのフォロワーが後者の言説を流布して行くのを黙認していた。
その後西尾は宗教右翼に教科書運動を乗っ取られてパージされてしまい、「彼らの運動論は左翼のそれだ」と批判する羽目になるのだが、彼らを引き込んで論壇の真ん中で活動させたのも西尾だったのだな。
という訳で「ドイツはナチスを切断処理して反省しない立場」節の原初は西尾で、それが解釈ではなくて「表明したという事実」に化けていったのである。
2015年にメルケルが来日した際、朝日新聞で講演して安倍政権の歴史認識を批判する場面があった。
講演、インタビューに態々選んだのが朝日新聞というのは明確なメッセージだ。
これにネットの一部は沸騰してドイツ叩きが盛んになった、という事があった。
何故そんなに逆上したかと言えば、一部で「常識」となっているドイツナチス切断処理論と反対の立場から冷や水をぶっかけられたからだ。
仕舞にはメルケルは極左に振れているという噴飯ものの意見も多く見られた。メルケルの所属するCDUは保守政党である。
このナイーブな恐慌状態は集団で信じていた事を現実が裏切る事で起きていたので、これぞまさにルサンチマンだ。
ニーチェの思想に沿って生まれた解釈が30年経って反ニーチェ的なナイーブに転化していたというのは寓話的だと思う。
当たり前だが、メルケルもドイツもナチス切断処理なんて立場を表に出した事は無い。統一ドイツの成立条件見れば当たり前だ。
西ドイツはEC加盟国だったが東ドイツはそうではない。統一は他の加盟国の承認が必要だった。
そしてベルリンというのは統一の前日、最後まで連合国の占領下にあった。
ソ連は勝手に東ベルリンを自分の勢力下としてしまったが、米仏英はそんな事認めていない。法的には最後まで共同統治であった。
つまりベルリンの占領はこれら4国の承認が無い限り解けない。もしヴァイツゼッカーがナチスを切断処理してドイツに責任無しという演説をしたら、東西ドイツがその態度だったら、ベルリンを首都に出来ただろうか?
そしてEUの顔役が出来ただろうか?
当たり前すぎてバカらしい。
商売と考えるに売る売れるで収益と単純でないのは当然で、ほか要因に期間と規模があるよね。
オタクコンテンツを三か月間で10年分の売り上げならある程度過激なコンテンツでも押し通せるかもしれないし。
その企画でいつまでかどこまでか目標と基準があったのかってことが大事で、もちかけられた企画をそのままに問題が起きるまでって立てた時点で事故案件だと思うよ。
コンサルとかプランナーとか、それにデザイナーとかもそうだとおもうけど大事なとこって境界線と範囲の設定だと思うんだわ。
発案の奇抜さとか珍妙さとかみためのよさでアイデアだとかクオリティとか飛びつきそうなのはわかるけど、最初に外堀うめてくる企画発案者をコンペで選択すべきだと思うんだよね。
まあ炎上で焼けていけば必然的に残るのはそういう手段や手法が整ってる人か、全滅してきれいになるかどっちかだと思う。
その単純に売れる数を期間も規模もなしに疑問視したり考察したりしてるのを気を付けていかないと、炎上案件つかまされるかもしれないよ。
redditという英語圏の掲示板サイトがある。redditはトピックごとにsubredditというコミュニティに分かれている。
私が英語を読む機会を増やすために眺めているsubredditを紹介したい。
reddit上にはありとあらゆるsubredditが存在し、自分の趣味に合ったものを読むのはもちろん楽しいが、ここでは趣味や前提知識に(あまり)かかわらず楽しめるものを選んだ。
投稿自体も面白いがトップに来ているコメントを読んでいると英語の冗談に強くなれる。
興味深くないもののみが投稿されるsubreddit。興味深いものが投稿されるとモデレータによって削除される。
"This just happened in Wyoming, USA"(ワイオミング州で今起こったこと)という投稿が面白かった。
いや確かに間違っちゃいないけど……と言いたくなる投稿が集まる。
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redditという英語圏の掲示板サイトがある。redditはトピックごとにsubredditというコミュニティに分かれている。
私が英語を読む機会を増やすために眺めているsubredditを紹介したい。
reddit上にはありとあらゆるsubredditが存在し、自分の趣味に合ったものを読むのはもちろん楽しいが、ここでは趣味や前提知識に(あまり)かかわらず楽しめるものを選んだ。
投稿自体も面白いがトップに来ているコメントを読んでいると英語の冗談に強くなれる。
興味深くないもののみが投稿されるsubreddit。興味深いものが投稿されるとモデレータによって削除される。
いや確かに間違っちゃいないけど……と言いたくなる投稿が集まる。
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政治家がウケ狙おうとして大体失敗するやつ
それはポリコレ的な感性が古いままアップデートできてないせいでアカン物言いをユーモアだと誤認してるようなやつで、この例とはユーモアの構造が違うよね
読み手の大部分は「全身みんなユニクロ」という珍妙な表現に「んっ?」と思うだろうから「人間やめてるじゃん」を見た時「ああ……そういう解釈か!」ってピンときてユーモアを感じ取れるわけ
つまり雑なレシーブをトスしてあげて元増田の意図がどうだったかは分からんけどトスによってネタ化の方向性を定めたというネットでよくある面白コミュニケーションの一種なんだよ
もし元増田の意図に反してネタ化されたことに無礼を感じるなら、元々の表現が雑で解釈の分かれるもんでネタ化する隙があったことを自省すべきだし、意図を伝える気があったのに十分伝わらない程度の短文しか書けてなかったライティングの不適切さを重く見て、他人を責めてる場合じゃなくて日本語能力鍛えた方がいいよ
絡む側はこいつ日本語不自由だなみたいに悪く見たりしないから、十分な日本語力持ってるはずだという前提であえて意味深長な言い回しをしているんだなと好意的に解釈する。だからこそネタとみなして乗ってあげてるんだよ
追記したら、つらつらと書き足したことが表示しきれなくなってしまったので、記事を分けて残しておきます。
渋谷の予約なしワクチン接種会場が密密な大行列になったのは「若者がワクチンを忌避している」というバカな思い込みのせいだろう。実際はあの騒動を見れば判るとおりに打ちたくても打てない人間が多数という事だ。それで整理券方式にするという。デジタル音痴の老人にはWEB予約必須とさせ、デジタルネイティブの若者は現地で並んで整理券。逆だろバカ!
そもそも今の状態で「ワクチン忌避者のせいで接種が進まない」と考えるのが頭おかしくて、街にはワクチン予約出来ない怨嗟の声が溢れ、接種が終わった老人の下の現役世代が死にまくっている状態でなんでそんな発想ができるんだよ。
日本の特にネットでの反反ワクチンの元はHPV(子宮頸がん)ワクチン推進派で、それ自体は立派なことだった。日本はワクチン接種に消極的のきらいがあるのは事実だ。
ところがワクチンには副反応があり、ワクチンによっても多寡が違う。その中で公費負担があるワクチンの中では現状のHPVワクチンは割と副反応率高めになっている。その結果、厚労省は2013年に予防接種問診表を送りつける事を止めてしまった。そのせいで日本の接種率は1%程度と無きに等しいものになってしまった。世界標準からは大きく乖離している。
そこでワクチン推進派がやった事は副反応の言説を潰して回る事であった。当初は副反応の記事を書いたマスコミへの反論だったが、彼らがSNSでインフルエンサーとなると「マスゴミ」呼ばわりするフォロワーが付くようになり、副反応記事を書いたというだけで炎上するようになった。
次に彼らは副反応を扱った学者を批判、炎上させるようになり、SNSやブログでの患者の体験記に「心因性」「詐病」との当て擦りをするようになった。本人は当て擦りでも質の悪いフォロワーが付いてしまっているのだから炎上騒ぎになる。これらの患者は「マスゴミの手先の反ワクチン屋」として思うままに叩かれた。
彼らがコロナ禍初期にPCR検査に関するデマを撒き、そのフォロワー等が検査を受けられないと訴える患者家族や開業医を探し回っては炎上させまくっていたのを覚えているだろうか?普段からフォロワーの家畜をそのように躾けていたからそのように行動したのだ。責任をもって屠れと言いたい。
そもそもワクチンとPCRの医療行政での扱いは似ていて、どっちも世界標準からすると遅れている。更にPCRは医療部門だけが遅れていて、他分野では活用が進んでとっくにコモディティ化している。2005年ぐらいから食品のアレルゲン表示がされるようになったが、あれもPCRの一般化が可能にしている。特異度100%が出来るという特性上、特定生物の体組織が含まれないという証明が出来るから。狂牛病が収まったのも飼料のPCR検査で反芻動物の組織が含まれないという管理が出来るようになったからだ。
0年代初頭にシーケンサーが開発されなんでもかんでもゲノム解析されてきたのでそういう産業部門での活用が可能になったのだ。
だからPCRとワクチンの行政上の扱いが似ている事に気が付けば最初から反PCRなんてする動機を持つはずがないものだった。だが彼ら彼女らは「ネット共同性でのフィルターバブルが担保するだけの正しさ」のみに則って行動し頓珍漢な炎上騒ぎを主導した。
ワクチン推進に防疫妨害と医療崩壊の記号を付着させる致命的なミスだ。それ以前から炎上をベースとした質の悪いコミュニケーションをしているからこうなる。
この防疫妨害で評判を地の底より深く落とした彼らはワクチンのコロナワクチンの副反応をマスコミが報じ始めると一斉にこの藁に飛び付いて叩き出した。でもそれらは事実で、しかもモデルナでは日本人はより副反応が強く出るという事が周知されてきた。
そもそも先行接種国の政府や製薬メーカーは最初から、そしてなんどもアップデートさせながら副反応の事は発表していた。英語でそれらを読むという事さえしなかったのである。
それで接種前に仕事の調整をしておこう、会社も病欠、有給に扱いに理解を示すべきだとの流れが出来てきている。
それが当たり前の対応であって、その当たり前に彼らがならないのはテメエのヘマの誤魔化しで飛びついているからだろ。
世界的に反ワクチン言論が問題になっていて、特にSNSが流布の増幅媒体となってしまう。それは事実だがgoogleなどがそいをつらをアカバンしたり叩くのは社会に害があるからであって、自分のヘマを帳消しにする転換材として便利だからじゃない。
この反反ワクチンの「ヘマを帳消しにする目くらまし」の文脈は明らかに共有されていて、例えば「野党は反ワクチン」などの言説がそうだ。反ワクチン議員が幅をきかせているのか?と思えばそうではなくて「ワクチン一本足打法を批判した」事をいうのだという。実際にワクチン一本足打法の為に未接種世代が死にまくっているじゃないか。
こういう「ヘマ帳消し目くらまし」の為の反反ワクチンのコードの便利さが政治家に伝播したのが若者反ワクチン論だろ。感染爆発で責任を追及された知事が予ねてからの若者悪者論に追加インストールできる若者反ワクチン論に乗っかり、その考えの上で予約なし会場開設→大行列となったという訳だ。
何で「若者=ワクチン忌避」と思い込んでいたかというと、「反ワクチンのレッテリングをヘマの目くらましとして使うというコードがあるから」だ。
だから反ワクチン批判をそうでないものへのレッテルとして使うのを一切止めろ。それは積み上げた信頼を放蕩する行為である。
そして積み上げ型ではない政治家がそれを使うようになる。そもそもHPVで担いだ政治家が三原じゅん子だった。あいつが積み上げ型の原義通りの保守政治家になると思うか?宗教右派のいう事が厚生行政に影響を与えると思うのか?もしそうなったらそれ以外の部分で厚生行政が著しく後退するわ。
そして反ワクチンで稼いでるデマゴギーには突撃せずにテメエのヘマの誤魔化しの為にレッテルとしての反ワクチン批判に加担した連中は渋谷で塩飴配ってこい。あの混乱は貴様らのせいである。
「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210826203711)の著者です。
非本質的な、《誤読か否か》を議論するコメントが依然として多いので、記事を改めて補論を書きます(文中敬称略)。
元の記事では鴻巣の意見から矛盾を示すために使ったまでで、「解釈」という言葉を本文で一切用いずとも問題を整理できるし、他にも鴻巣の矛盾を指摘できるのでそうします。
「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」こと
である。
そしてこの点について鴻巣はスルー、もしくは無理筋の意見を出しているのみである。
①27日13時39分
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
②27日16時43分
繰り返しになりますが、そういった解釈の豊かさ、多様性が大切である一方、今回の
「直接描写されていないことがあたかも書かれているように掲載されてしまった」
は異なる問題だと思います。
ここは、どうも平行線で、同じやり取りをずっと繰り返しているので、そろそろやめたほうがよいかなと。— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭自身は鴻巣との対話をやめたが、外野はこの点について把握しておくべきであろう。
Aさんが重病にかかり、病院のICUにいる描写がある。
場面が転換して、葬儀のシーンになり、棺が運ばれていく。
Aさんの友人が泣いている。
「Aは死んだ」という明示的な記述はなくても、「死んだ」と理解する合理的な理由があります。
あらすじとして「Aは亡くなり……」と書くのはNGでしょうか?— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
このツイートが議論として成立するためには、「描写がある」「明示的な記述はなく」という仮定は客観性を持たねばならない。「主張が正しいか」という検討以前の条件である。
よって鴻巣は、桜庭が言う「直接描写されていないこと」は、主観ではなく客観としなければならない。
④27日11時6分
なにが作中に有り、なにが無いか、その判断もまた作者桜庭さんの主観にすぎない、ということはお分かりいただけないでしょうか。つまり、あるひとりの読者=作者の主観だということです。「読解の自由」はお認めになると。それは作中になにが書かれているかを決める自由でもあるのではないでしょうか。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
お分かりいただけただろうか?
鴻巣は桜庭の言う「直接描写されていないこと」を「なに」という言葉に置き換え、「あるひとりの読者=作者の主観だ」としている。この矛盾について解決しない限り、鴻巣の意見は無理筋であり、鴻巣は桜庭と議論する土俵にも立てない。
なお、鴻巣は主張が成立しないのだから、厳密には「平行線」ですらないだろう。
テクストに「ない」ことを「ある」かのように書いた(ことが検証できる)あらすじなどという珍妙なものを読む機会がないので、そのようなあらすじを目にしたのちにいざ対象のテクストを読み始めた者がどう反応するのか、筆者には確たることは言えないが、あらすじに書かれた鴻巣の解釈だけを前提とし、桜庭の提示した(あるいは以下で私が説得的に示す「真っ当な」)解釈に思い至りもしない、という可能性はあるだろうと考える。
それは「読み」が閉ざされたことを意味する。なお、「どこかでおかしいとわかるはずなのでそうはならない」と言うのであれば鴻巣の書いたあらすじが頓珍漢だと認めることになる。
また、鴻巣はEvernoteでは「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいことです」と述べていたが、「むずかしいこと」ではなく「不可能な」ことにすり替わってしまった。
たいへん明快なご解説を拝読しました。今回、作者は「あらすじと解釈の分離」という一点に要請を収斂されました。仰る通りそれ自体は不可能なのですが、「読む」という行為この根本的なことが、意外にも一般に理解されにくいようなのです。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
こうしたすり替えをわざとやっているのであれば大した度胸だと感心する。同時に、不誠実な書き手だと評価する。
ついでなので、鴻巣の読解が「曲解」であることも示します。(「誤読」とは言いません。桜庭が使わないので。)
不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた。離婚の話が出たことなど具体例を挙げてみるが、「そうだったっけ?」と不審げになる。それから急に目を光らせ、「人の記憶って、その人によって違うね?」と言った。
瞬間、母とわたしが同じ過去の〝ある時〟……七年前に最後に会った時のことを思いだしているとわかったが、いま対立するのは不毛だと、「ふーん……?」と目をそらした。
それから、
「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」
と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。
(桜庭一樹「少女を埋める」https://note.com/sakuraba_kazuki/n/ne3b7aa29cd58)
「不仲だったころ」は「病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってた」を指すのではなく、介護していた「この二十年」を指すというのが鴻巣の読解です。
この読解を支持できる方は根拠をつけて教えてください。「病気になる前」であるという解釈をあえて却下する理由込みで。
なお、この点についてのツイートを鴻巣はなぜか削除していますが、ツイートはこちら(https://twitter.com/maffumi/status/1431506303784943616?s=20)へのリプライの形でした。(スクリーンショットを見たければTwitterに上げても「私は」構いません。)
さて、(桜庭も言及している)「母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」に呼応する、
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。
内心、(覚えてたのか……)と思った。
(Ibid.)
の「内心、(覚えてたのか……)と思った」も、「不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞」いたのも、「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない?」と言ったのも、すべて〈わたし〉なので、「不仲だったころ」をいつとするかによって、母が「お父さんを虐めた」のがいつだったと〈わたし〉が考えているかも決まる(と考えるのが普通だと思いますがどうですか?)。
当然のことですが念のため言っておけば、実際にいつ「虐めた」かは、作中世界では〈母〉のみが把握し、〈母〉の心中に作品の視点は入り込めない。よって問題となるのは〈わたし〉がどう考えているかを、〈わたし〉視点の文章で解釈することです。
私は「不仲だったころ」を「病気になる前」としか解釈できません。よって「虐めた」のも「病気になる前」としか解釈できません。
困りました。私の読解力がないんでしょうか。解釈の自由を標榜する皆様、お知恵をお貸しください。
「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「解釈の対象、つまりは焦点を当てるべきもの(事実やテクスト)が存在しない」ということにはなりません。「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「どのような解釈の試みもうまくいく」ということではないのです。
(ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの小説講座:若き作家の告白』、和田忠彦、小久保真理江訳、筑摩書房、2017年、48頁)