はてなキーワード: ケージとは
パート1 https://anond.hatelabo.jp/20200917183131
パート2 https://anond.hatelabo.jp/20200919051832
パート3
ケーキが切れない少年が、一人で飛行機に乗ることは、できない。
落としどころはこの辺じゃない?
乳幼児とか、寝たきりで立てない老人とか、座席に自分で座れない人とか、犬や猫などペット類は、何らかの介助やベビーカーやケージ類がないと
飛行機に乗れないし、緊急時に脱出もできないわけでしょ。そういう人は誰が何を言おうが現実的には航空会社の事前の手配や介助人なしに乗ることはできないでしょ。
それと同じように、キャビンクルーと会話ができないとか、キャビンクルーの指示(法的な意味のある命令書の読み上げ)が理解できない、
あるいは命令の通りに行動できない子供は、自力で飛行機に乗ることができないんじゃない?
今までたまたま問題なく飛行機に乗れるように見えていたため、保護者なしで飛行機に乗れてしまったとしても、それはたまたまであって、
本当は乗れない子だったのが顕在化したっていうことじゃないの?
(追記)
全然突っ込んでもらえないからネタバラシするけどイマジナリー息子とイマジナリー私のお話です
(追記終わり)
写真を整理していたら色々思い出したので、今更ながら日記に残したいと思う。
何を隠そう、私は動物園が大好きだ。
小さい頃は、休みのたびに両親にせがんで動物園や水族館に連れて行ってもらったものだ。特にアメリカバクやオタリアなど大きくて柔らかそうでヌメッとしていそうな動物たちの不思議な造形と質感が大好きだった。
本当は息子ももっと早く動物園に連れていきたいと思っていたのだが、このご時世おいそれと遊びに行けるわけでもなく、調整に調整を重ねてついに実現できた、満を持しての動物園デビューだ。
私の英才教育のおかげですっかり動物に興味を持って育った息子はもちろん、久々に動物に触れられると思うと私も楽しみで仕方がなかった。カメラに双眼鏡、スケッチブック、前日夜から念入りに準備をした。当日は動物園の近くのコッペパン屋さんに寄ってお昼ごはんを調達し、開園時間と同時に動物園に飛び込んだ。
ちなみに入園は時間予約制となっているので、これから行こうと思っている人は気をつけよう。
予習バッチリな息子はまずオカピを見たいとリクエストしてきた。良いチョイスだ。
知らない人もいるかもしれないので解説するが、オカピは茶色いわがままボディにしましまの手足とお尻がキュートなキリンの仲間だ。
いわゆる珍獣として話題になり、私も子供時代にたいそうおもしろく観察したものだが、今も変わらず珍獣のようだ。オカピの魅力を一発で見抜くとはさすが我が息子。
どちらかと言うと人間に興味がなさそうなイメージのあるオカピだったが、この日は草を喰みながらじっと息子を見下し…見つめてきた。ああ、ちょこんとした角がかわいい。息子も一生懸命見つめ返して、スケッチを取る手が完全に止まっていた。
ちなみに私はオカピの近くにいるハシビロコウがお目当てのひとつだった。ハシビロコウは鋭い眼光と巨大くちばしが特徴的な大きな鳥だ。一時期「動かない鳥」として話題になったこともあったが、少なくとも動物園で見ているぶんには結構動く。大きく形の良い羽がふわりと膨らみ、瞬きするたびに淡く澄んだ灰色の瞳がキラリと輝いて、実はとてもきれいな鳥だと思う。私が見たときはオスとメスが一羽ずつ、一つの大きなケージに入っていた。繁殖にチャレンジしているのだろう。ちょっとオスが奥手なのかな?メスの気が強いのかな?人間目線ではあまり上手くいっていないように見えた。頑張れオス。
この調子で一つ一つの動物を語っていくと永遠に終わらないので一気に端折るが、結果として息子は大変満喫したようだった。
おみやげコーナーで新しい図鑑を買ってあげたら、今日に至るまで毎日飽きずに読みふけっている。ちなみになぜかイルカのぬいぐるみも欲しがったが、動物園にイルカはいなかったので許可しなかった。見ていない動物を実際に見た動物より優先させるのは私の教育方針に反する。ニシキヘビなら買ってあげるよと言ったら、少し迷ってから「いらない」と言われた。それから更に色々迷って、結局ホッキョクグマのリアルな模型を買ってあげた。
そういえばコッペパンも美味しかった。私はやはりベーシックなポテサラが好きだ。息子はいちごホイップが気に入ったらしい。
動物園から帰った日の夜、息子がしみじみと「ぼく、あんなにたくさんの動物に会えたなんていまだに信じられないよ。動物園って天国だね」と言った。
妙にませた口ぶりにちょっと笑いながら、私は「そうだね、でも昔は『狭い檻に動物を閉じ込めるなんて動物がかわいそうだ!』って動物園のことを嫌う人もいたんだよ」と教えてみた。
息子はかなり驚いたようだった。そりゃそうだ。いわゆる「野生動物」が自然界から消えて久しいのだから。
野生動物は絶滅した。動物園でその名残をかろうじて確認できる今の世界しかしらない息子には、自然が溢れ、野生動物が溢れていた時代など信じられないだろう。息子より先に生まれた私でも実際に見たことはなく、最初は理解できなかったのだから。
一部の愛護団体から動物虐待だのなんだのと批判されていた動物園が、動物たちの最後の砦となり、今では動物を愛するものは皆動物園にすがっている。皮肉なようにも見えるが、まあ動物園はもともと博物館の一種であり、動物や自然の保護や研究、教育普及を目的とする施設である。当然の結果とも言えるだろう。
ともあれ、息子の動物園デビューは大成功だった。また近いうちに、息子と一緒に動物園に行こうと思う。コビトカバと息子のツーショット写真撮り損なっていたし。
ネットの言説の主たるはこの言説に集約される。打って組んで投げて寝て、というマーシャルアーツが高いレベルで競技化されているからだ。確かに対応力は一番高く見えるし、実際に殆どの打撃と寝技に対応できることだろう。
格闘技はルールによって強さが変わると言われる。わかり易い例では柔道ルールで戦えば柔道家が強く、ボクシングルールで戦えばボクサーが強いという基準だろう。比較的わかりにくいものでは柔道家と柔術家が戦ってもお互いのルールで一長一短が決まってしまうし、肘なしK-1選手とムエタイやKNOCK OUTの選手が戦ってもかなり間合いが変わってくる。縦肘と言われるガードからの割り込みが使えるため、積極的に狙おうとする者、距離をとって戦おうとする者等スタイルが割れてくるからだ。クリンチが得意な選手も戦法を変えざるを得ない。また、勘違いされやすいが、競技柔術と柔道、総合格闘技ではまるで使える技術が変わってくる。総合における柔術の場合、例えばマウントポジションでは鉄槌やパウンドを狙いにゆくが、柔術の試合ではあくまでマウントからサイドを取って腕十字や肩固めなどを狙ってゆく傾向が強い。決定的なのは双方が足を出した状態から掛けるベリンボロなどの技法だろう。簡単に言えば足を引っ掛けてローリングしつつ相手の背後からバックチョークを狙う技だが、総合ではまずやる人がいない。理由は簡単で、総合の柔術の流れは基本的に上から下へと力を発揮するように振る舞うからだ。マウントではパウンド、足関節状態では掛けずに立ち上がって踏み潰したほうが良いなどだ。そもそもの思想が違う。柔術は組合わなければポイントが取れないため、ベリンボロを仕掛けても相手がそれを返す攻防が発生する。総合ではそんなやり方に付き合う必要性がない。また、柔術のルールで柔道家が戦っても不利だ。柔道家は抑え込みを防ぐために畳の上で団子になる癖が身についており、積極的に関節技に移行しない。逆に柔術家は崩し、払い、投げの練習が希薄なため容易に投げられて一本を取られる。それぞれのルール内ではそれぞれの格闘技が強い。これは格闘技の常識であり、この発想なくして最強の格闘技とは何かと言われても絵空事である。
それでもルールなしなら総合が強いでしょう? と思う人もいるだろう。経験豊富という意味で同意するところもあるが、多少疑問が残る。幾度となく議論されたストリートファイトでの各格闘技の様相だ。この辺りはUFC(DEEP)、RIZIN、巌流島あたりの総合系の舞台を見るとわかりやすい。UFCとDEEPはケージ(金網)による円形に近い舞台を使う。このせいで必ず壁際が発生し、レフリーストップもかかりにくい環境にある。このため各選手はケージ際での攻防を明確に練る必要性が出てくる。抑え込まれた側はフロントチョーク状態を維持しつつ相手の手を抜いたり三角締めを狙いにゆく攻防となり、押し込んだ側はどうにか足を抜いてマウントやサイドを取ろうとする。リングのようにレフリーが割って入ってもとに戻されることもないので、壁際独特の力の使い方が必要になる。リングはただ中央に戻されたり、スタンディングに移行するだけなので特筆するところはないだろう。問題は一風変わった巌流島だ。巌流島の舞台設定は面白い。相撲のような円形舞台から外を崖として設定し、三回落ちたら負けというルールを設定した。なおかつ寝技は30秒以内しか行えない。これは路上での寝技が一対多を想定したものであるからという。結果的に試合は打撃とタックルが得意な選手が多く勝ち上がってくる。普段日の目を見ない武術系・プロレスの人も勝っているあたりが新鮮でもある。
筆者はこの巌流島を見ているうちにある思いに囚われた。総合がいくら強くても、ケージに押し込まれることなく落下するというシチュエーションでは、アマレスの選手が最も強くなってしまうのではないか、ということだ。事実巌流島のある大会においては、低空タックルと押し込みのみで優勝してしまった元拓殖大学レスリング部のプロレスラーがいた。想定が事実なら相手は即死である。
居酒屋を考えてみよう。お座敷とカウンターがある。この2つのうちお座敷の闘いが圧倒的に強いのは言うまでもなく柔術家だ。座った状態で競技が始まることもある柔術のフィールドそのものがお座敷といっても過言ではない。調子に乗った酔っ払いがお座敷で騒いでいたら速攻で制圧できること請け合いだ。一方カウンターでの攻防が発生した場合、強いのは軍隊格闘系になる。彼らから言わせればカウンターは武器の宝庫だからだ。割り箸は折って差し込む武器になり、グラスは相手の鼻を折る武器になる。中身がある場合かけてしまえばいい。
裏口の路地ならどうだろうか。柔術家は途端に不利になる。足場が悪く思うように転がることもできない。逆に強いのは打撃系になるだろう。ではどの打撃系が一番強いのか。ずばり空手家だと思う。路地裏の動きが制限された状態では総合選手がよく見せるタックルのための大振りなフックはそうそう出せないし、ストレート系をメインに戦うことになるだろう。素手を怪我しないために動き回る顔はそうそう叩けなくなってしまう。この条件に最も合致するののが空手だ。空手には顔面攻撃がないが、この場合は有利に働く。空手は試合においては他の立ち技系に比べて出入りが単調な傾向にある。内側に入って鈎突きや突き、下段回しをゴリゴリに押し込んでゆくが、横のフットワークに乏しい選手が多く、回り込みやロープワークなどの発想がない。しかしこの単純で素早い出入りこそが路地裏では生きる。突進力もあるので前に出ながらかわせない連打を浴びるのは恐怖すらある。
他方、ガッツ石松が数人を相手にして路地裏に誘い込んで全滅させたというエピソードも存在する。これはガッツ氏のウェイトとリーチがあって為せる技だ。ボクシングが一競技として路地裏格闘に向いているわけではないと思う。むしろボクサーは横軸が自由に移動できる公園などで強さを発揮するとのではないか。その場合総合でも十分強いと言えるかもしれないが。
いずれにせよ、格闘技はルールと言うより状況の想定で動ける範囲ややれることが変わってきてしまうため、こうした自然のルール=場所の想定がかななり重要だ。場所によっては総合が何が何でも強い、という前提は崩れ去るのではないかと感じている。
正直、ひとつの作品として評価するとそこまでじゃないけれども、琴線には触れたね。少なくとも、久々に長文で感想書きたくなる程度には。
私は子供の頃、ハムスターを飼っていて失敗した覚えがある。二匹飼ってたけれども、一匹は脱走して、もう一匹はケージを日なたに長時間置いていたせいで死んでしまった。いや、殺してしまったというべきだろう。あの時、私はペットを飼うべき人間じゃないって思ったよ。
ただ、それから大人になって色々と考えを巡らせるようになると「愛玩動物」という概念、文化そのものに疑問を持つようになった。だって「動物を飼う」という行為自体、必要のないことだから。もし、それに必要性があるというならば、それは飼う側(人間側)の都合でしかない。
ペットを飼っている人たちが、他種に対する思いやりやら命の尊さを語ることがあるけれども、あれって本気で言ってたら怖いよね。だって読んで字の如く「愛」する「玩」具として手元に置いている立場なのに、その状態で動物の死生観を客観的に語ると空々しくなってしまう。ペットに服を着せて「飼い主側の都合でそういうことをするのは如何か」みたいな意見は昔からあるけれども、そもそもペットとして飼ってる時点で人間側の都合を押し付けてるから。
もちろん、それは動物を飼うということだけではない。食べるため、服の素材にしたり、或いは政治的パフォーマンスのためにお立ち台にあげられる。害獣、害虫、益のあるなしなんて人間社会の決めたこと。自分たちの生活を豊かにするため、時に排除し、時に利用する。グラデーションに違いはあれど本質は同じで、せいぜい細かな差異を人間という第三者たちで語るだけ。結局のところ利己的な対応をとっているに過ぎない。私たちは「命の選り好み」を各々で強いられて、「倫理的バグ」を抱えて現代社会を生きている。
といったことを踏まえると、『マナー・アプリオリ』という作品はえげつない。本作のテーマが何かって言うと明白で、それは「愛玩動物」。それを人間に置き換え、宇宙人の立場から、人間社会が抱えた「命の選り好み」と「倫理的バグ」を風刺的に描いている。『鬼滅の刃』で「生殺与奪の権を他人に握らせるな」ってセリフがあるけれども、もし握らせて相手の倫理に委ねたらこうなるともいえる。言葉で意思疎通を図れるヒト対ヒトでそれなのに、動物相手だったら尚さら。
『ミノタウルスの皿』と比較している人もいたけれども、本作は“愛玩動物”という視点から他種の命に対して問題提起を行っていて、食べるかどうかっていうのは一要素、側面的な話だと思う。『ブタがいた教室』っていう、学生たちが育てた豚を食べるかどうかで議論させた話があったけれども、本作がやっていることはそっち路線。「命を学ぶ」という“学ぶ側の唱えたお題目”によって、ブタの「命を弄ぶ」という側面。
テーマについては解釈の余地はほとんどないと思う。あと、本筋に対しても解釈の余地は少ない。大体のことは作中で語られてるし。最初の1ページで飼い犬が捨てられて、飼い主側の都合やらが語られる。旦那さんの「一日中ケージに閉じ込めてるのはかわいそうだ」だっていうのも、人間のフィルターを通して語られる一方的な倫理。それが人間の身に降りかかるという分かりやすい構図。
例えば「命の選り好み」と「倫理的バグ」については分かりやすい。主役の宇宙人たちの世界でも共食いは犯罪。自分たちと見た目が似ている人間を食うのはゲテモノ扱いで、忌避する者もいるが一応はOK。まあ、これは哺乳類を食べるかどうかとか、クジラを食べるかどうかみたいな感じかな。
人間の子供に情を抱いたサッピは「殺すなんてかわいそうだ」といって、クンダは「それはエゴだ」という。なるほど一理ある。でも後にクンダは「そいつの幸せはとっとと食われて余計なストレスとおさらばすることだ」なんて言う。いや、それもエゴでしょ、ってツッコミは読者がするしかない。けれども、そのツッコミを本気でできるほど私たちは上等じゃない。
個人的に目を引いたのは痛覚のあるなしで是非を決めようとするシーンだね。痛覚がなかったら刻んだり好きなように弄んでもいいのかっていう疑問はあるけれども、これは現代のヴィーガンにも通ずる。痛覚がないから植物で、生物ではない。殺して問題ない命。その判断自体が人間の決めたカテゴライズでしかなく、それは「命の選り好み」の延長線上でしかない。あまり思慮深くないクンダは時々の感情で判断し、サッピの方は独自の基準が多少なりともあるが本質は同じ。無差別ではないが公平でもない。
ここまで語っておいてなんだけれども、私は本作を高く評価してはいない。テーマに対して淡々としすぎてて、ストーリーラインに起承転結の盛り上がりがあまりない。そうすることで残酷さを如実に浮かび上がらせるって意図なのは分かるけれども、それが一作品としてのエンターテイメントから見たとき、やや面白みに欠けるのは確か。
プロットに対しメッセージ性も露骨で、説教臭さが抜け切れてない。宇宙人の文化や倫理観、言葉選びが人間社会とほぼ同じで、語られることも作品内で馴染んでない。ひいては宇宙人の二人も本作のテーマを風刺的に描くための舞台装置、配役でしかないことを意味する。なんというか、『寄生獣』の終盤で環境問題について語りだす件があるけれども、あれだけ抜き出した感じ。有り体に言えば浮いてる。
ただ、私からいわせれば物足りないってだけで、現代社会は「命の選り好み」と「倫理的バグ」について、大衆は割り切るかどうか以前の段階。大半は無自覚的に享受し、狭い範囲内で限定的な倫理を振りかざすのが精一杯。踏み込んで論じる段階にすらいけてない。それで描いても読者の大半はついていけないだろうし、少年ジャンプ+というサイト掲載のマンガとしては丁度いい按配といえなくもないかな。
猫を飼うことになった。
猫を飼いたくてペット可の賃貸に引っ越して早5ヶ月、実際にお迎えするのは1ヶ月後だが楽しみで仕方ない。
(5ヶ月で散々調べてきたが)ここから1ヶ月で猫の部屋を準備するとなると楽しみなことも多いが心配も多い。
部屋は1K。居室とキッチン・風呂・玄関の間にドアがあるので玄関からの猫の脱走、キッチン・風呂での事故は防止できると思っていたが、頭の良い猫はドアノブをひいてドアを開けると聞いてドアのロック方法を検討中。
居室の窓については、私が家を空ける間は鍵をかけて冷暖房、家にいる間は猫を視界に入れた状態で網戸で換気予定だったが網戸を破る猫もいるらしいので脱走防止フェンスについて調べた(網戸は元々防犯のためにロック付)。
部屋は猫のスペースをできる限り広くするために出来る限り家具を減らし、いたずら防止のために収納は全て扉付きにした。しかし、棚やウォークインクローゼット開ける猫だったらドアのロック方法を決めなくてはいけない。
コンセントはカバーをつけ、出来るだけ減らしたり猫の手の届かない棚の裏を通したりするつもりだが、猫がそれでも興味を持ってしまったらをこまめに収納するしかない。
ケージは掃除のし易さを考えて二段のものを用意するつもりだったが三段のほうか猫は喜ぶかもしれないので迷ってる。
独身で猫の留守番時間も長いので、自動給餌器、給水機で新鮮なご飯とお水を常に提供しようと思っているが、コンセント問題が付き纏う。
あと給餌機の餌皿が食べにくいというコメントや、給水機が洗いにくい、水アカがつく、停電した場合に水が飲めなくなるというコメントを見て迷ってる。自動給水機と水皿は両方設置しようかな。
猫のおもちゃに関しても祖父宅のネコが猫じゃらしに付いてるネズミのおもちゃ誤飲したり、実家のラブラドールが小型犬用のボール誤飲しかけたりしたことがあるので誤飲が本当に怖い。誤飲の可能性のないぬいぐるみとかだけ渡して、ボールや猫じゃらしは猫の手の届かないところにしまう予定だけどお留守番中暇じゃないかも心配。
あとまたたびとかキャットニップ入りのおもちゃが多いけど過剰摂取は良くないらしいので使ってないおもちゃを探した。あと猫は喜ぶんだろうけど紐とか羽とかねずみがついてるおもちゃは誤飲が怖いので避ける(もしくは徹底的に収納)予定。
エサ、トイレ、ブラシはブリーダーさんの家と同じものを購入予定。これは安心。
これだけ迷っていて、さらに爪研ぎや歯磨き、寝床、ペットカメラなどについても迷っているが、この迷ってる時間も楽しい。
また週末にブリーダーさんのところに猫に会いに行くので(正確にはそこで正式に猫の予約をするが)、その時に質問あったら聞いて下さいと言われたがここまで全部聞いたら引かれそうってのも悩み。
リン、飼い犬のリンが今日死んだ。いや人気者過ぎて神様だか上位存在のもとに出張してやったのか、あるいはグルメだったから今の世界に飽きてちょっと三千世界だの並行世界だのを渡り歩きに行ったのかもしれない。
感情が高ぶっている。だからこの高ぶりが残っているうちにこうして文章を残す。
ただ今人生で一番の悲しみが、哀しみが、非常に緩やかに、それでいて確実に風化してしまう、過去になってしまう、忘れてしまうことが恐ろしい。
そう、全部昔のことになって、リンのことが、お犬ドッグ、猫ドッグの痕跡がすべて消えるのがたまらなく恐ろしい
ごちゃまぜにしたまま
整理もせずただ出力する
誰かの目に当たることを前提としてはしていない。もしかしたら自分からあてにいくことはあるかもしれない。
もしこれを誰かが見ているのだとしたら、恐らく自分は自分からこれを公開したのだろう。恥ずかしいやつだ。
だけどこれは、この感情が風化してしまう前に、本当にあったんだぞと。この喪失は、悲しみは確かに此処にあったのだぞと歴史に傷跡を残したい一心で残すだけの文である。
いや文ですらない、言葉っぽい何かが連なっているだけだ。いつか赤ら顔で悶絶しながら読み返すのかもしれない自分、それ以外の不幸と幸運の数奇の嵐の
旅路の中でここに立ち寄ったあなたにこれだけは忠告しておきたい。ここから読んでも何も得るものはない。
その時のことは割と覚えている。確か小学校入学を控えた私が出先でペットショップをみかけ、そこで売られていたチワワに一目ぼれして買って!とせがんだ数日後、
母親がケースに入れて
家にやってきたのがこのダックスフントロングのリン様である。えぇ・・・となったものだが
それ以前に「犬を飼うなんて!世話とかできんやろ!」という兄弟たちの猛烈な親への抗議に押されてそれどころではなかった
話は変わるが私の小学校入学までの歴史はうんこである。なんだったか、親がアメリカで真剣争いしただの外国人雇って私を誘拐しただのろくでもないワードが飛び交っている。
そのせいでPTSDだのなんだのを幼くして発症した私は家に引きこもることとなり、入学までに備えておくべき社会性だのなんだのというものはまるでなかった。
当然、学校が始まってからというものまったく馴染めなかった。なんなら字もかけなかったし口もきけなかった。
当然、つらい
そんな私を救ってくれたのがお犬様のリンだった。
何せこいつは素直だった。ごはんがあるとわかるやすり寄ってくるし、おもちゃやらなにんやらを取られるとか不快な思いをするとすぐ威嚇してくる。一般的にはワリとクソ犬の類だったと思う。
だが、やたらとクソみたいな口撃でマウントを取ってくるDQN同級生、肝心な時と肝心じゃないときにまったく役にたっても味方になってもくれない家族、クソみたいな気づかいぐらいしかできない新興宗教にハマってる女性の担任の先生。
本人がクソなら周りもクソが集まる中、お犬はストレートに感情を示してくれたし見た目も人畜生より何倍もよかったから目の保養にもなった。本当にこれだけが私の支えだった。
支えの代価としてドッグフードではなくミンチ肉を要求され続けることになるとは思ってもいなかったが。いやマジでドッグフード単品だと食べなかったよあいつグルメかよ。
んでそんなお犬様を連れて散歩などをしていると、公園に生息している同級生たちはその可愛さにつられてホイホイ♂やってくる。そして当然散歩してる自分との会話になる。こうして私は犬から社会的立場まで与えられたのだ。お犬様バンザイ。
こうして私とお犬ドッグの日々は続いた。日々飽きるごはん!(日替わりじゃないとやだ)テコでも動かない散歩!(俺はこっちの方向に行きたいんだ人間風情が決めるな)
途中で良性の腫瘍で手術することになったり、悪性のがんで手術したりしたがなんか生き残ってた。すごいなリンちゃん
これが2015年ぐらいのお話。当時大学受験を控えていた私は大層メンタルを乱されたがお犬はケロっと生きていた。だからだろう。なんとなくお犬はずっと一緒に居続けるなんて幻想を無意識のうちに抱いていた。
お犬自身はへーきそうに日々を過ごしていた。
18年19年ごろにはぴょんぴょんはねていたような段差が登れなくなった
それでもごはんはいっぱい食べてたし、まぁ多少はねという気持ちだった
20年に入ってからごはんを食べなくなった。元から飽き性だったので中々気が付かなかったが、肝臓が半分ダメになってた。それでもお肉はちょこちょこ食べてたし、大丈夫だろうと自分をいいきかせつつ、注射器でミルクを与えるなどをやっていた
お薬はもらったし、容体も安定してるからまだ
8月に死んだ死んだしああ駄目だ。
16年だ。16年以上一緒にいたのに思い出せない。楽しいと感じてたはずのあの日々が思い出せない。いや大まかにはわかる。でもディティールがわからない。あのとき具体的にどんなことがあってどんな気持ちだったのが、リンと何したのか、リンはどんな顔してたか、リンとどんなことしたのか、リンは、リンは
思い出してやりたいのにずっと最近の畳みかけるような悪化の一途の記録だけが頭をよぎる。
つらい。悲しい。ひどい。
あいつは走るのが好きだった。それはもうべらぼうに早くて、当時ディープインパクトなんて馬が流行っていたからディープコンパクトなんて親が呼んでた。近所の小学生の自転車すらものにしなかった。昨日までだって散歩してたぐらいだ
でもだんだん走ることはしなくなった。ジャンプだってしなくなった
あいつは食べるのが好きだった。しかもグルメ。ドッグフードを与えたところまったく口にせず、苦肉の策の一環でミンチ肉を混ぜてやったらバクバク食べた。以降、それが彼女の常食になった。医師からも適量であればと言われ、犬自身もそれじゃないと食べないのだからこっちは懐痛めてお肉代も出さねばならなかった。それを食べてなお、台所で何かをあさったり、おやつや野菜の切れ端をやると飛んでやってきて全てをかみ砕いて食べていった。さながらブラックホールだった。
でもだんだん食べなくなった。大好きなミンチ肉も、ささみも、きももいらないとそっぽを向いた、おやつだって途中で残した。
耳がよかった。あいつの前で隠れても物音を立てればすぐ見つかった。
聞こえなくなった。
目もよかった。遠くから俺を見つけた瞬間しゅばばばばっと風のようにやってきた
昨日まで生きてた
生きてなくなった
できなくなった、なったなったなった
老化というのは、時の流れというのはあんまりに残酷ではないだろうか
あいつにはいろんな楽しみがあった。色んな特技があった。色んなやりたいことがあったはずだ
でも全部時の流れに奪われた。挙句の果てにまだ生きられたはずなのにみんなが寝てる間に布団が絡まって呼吸困難になったのが原因で死んだ。
きっと、病魔に蝕まれたりするよりは楽だったのかもしれない
それでもあんまりじゃないか。もうちょっと穏やかな死でもよかったじゃないか。
何故私の血肉は、命は、寿命は分け与えるように、捧げられるように作られていないのか。
だから忘れられていく。いつか痕跡もなくなって、私の中からも過去になってしまう
5年前、がんと最初に診断されたときからリンが死んでしまうこと、リンが忘れられてしまうことがたまらなく恐ろしかった。恐ろしかったから、目をそらし続けた。
逸らし続けた結果がこれだ。感情を抑えきれず、認められず、八つ当たりのように何かを打ち続けてないとおかしくなりそうだ。
嘘。半分嘘
何かをやってないと狂いそうなのは本当
でもそれは全部じゃない。
書いている間。ちょうどこの欄をかいてるあたり、気持ちが落ち着いてきた
落ち着いてしまった。
まさしく上に書いた通り過去になろうとしてる。まだ知らせを聞いて数時間しかたってないのに。亡骸みて2時間程度なのに。私の悲しいとやらの感情はそんな程度だったのか。16年とはそんなに軽かったのか。自分への失望が、時の流れへの絶望で砕けそうだから、それからまた目をそらすために、文として意味を成すかも怪しい文章をつづり続けている。
話はここで終わり。
オチなんてない。きっと明日はもっと落ち着いてしまっている。過去にしてしまっている
だから、この感情の迸りだけは、残しておきたかった。その100文の1でも、読んだ誰かに伝わればいいけど。いや無理だなこりゃ
犬が死んだことについてLINEで知人に送りまくった。
天に召されたようちの犬、時々でいいから思い出してやってね。と
さながらスパムメールだ。忘れられてしまう恐怖に勝てずにありったけの種を無造作にばらまいたのだ。
そしたら、結構な人が反応をしてくれた。前から連絡のあった知人についてはすごい心のこもったであろう言葉と、忘れないという宣言をいただいた。
無理やり引き出したような感じではあるが、とても、とても救われた。クソな環境だのなんだのと一番上で言ってたが、今ではいい知人・友人に恵まれてる。というかこの知人友人みんなリンをきっかけにできたやつらばかり。また犬に救われてしまった。
あと、もう一つ。緊急されたって連絡が来たその時間、自分はまだ夢の中だったわけだけど
夢の中でそのリンが出てきた。
ケージの中に入れられてるリンが目の前にいて、おやおやと思って出して撫でてやるとすごい喜んで、顔を擦り付けてくるし伸し掛かってゴロゴロしてくるしでおおどうしたどうしたと、なぜか感じたリアルな重みと温かさを感じていた。そしてメールが着て目がさめて、あとはご存じのとおり。
あいつの人生ならぬ犬生の後半は特にだが、私は飼い主として至らない点が多すぎた
今回死んだのだって、私が交通云々を考えずに実家にいれば防げたかもしれないのだ。
でも、でも、夢に出てきたんだ。それっぽい挨拶をしていきやがったんだ。
きっとあいつ的には、私は及第点だったんだろうか。そう思いたい。
こうして書いてると、ディティールのつぶれた思い出がちょっと輪郭を取り戻してくる。
なんというかあいつはもふもふで、何かとみんなを魅了していた。
それでいて家では猫のようにそっけなくふるまうし、膝にのって寝てくる。ネコドオオッグ
気ままなやつだった。だから入れ込んだ。
あいつは老化と共にできないことばかりになっていった
それでも、それでも、私はこんな都合のいい夢にすがっている。救われてしまっている。
お前にしてはまあよくやったのだとあいつに言ってもらえてるような気がして。崩れ去る寸前のところで踏みとどまれてしまっている。
嗚呼リン。俺がお前にしてやれることはもうないけど、たぶんお前はいっぱいいいことをしたから、あの世やら並行世界やら生まれ変わりやら、どのルートでも幸せになれるよ。
あんなに人を笑顔にして、俺も救ったんだもの。誰も文句はいわないって。
だから、俺がソッチに逝ったときはまた気が向いたら顔見せてほしい。
いやどうせお盆だ。夢の中にでも出てきておくれ。
これから俺はお前の居ない世界で生き続けていくんだけど、さすがにつらいから。
もうちょっと、お顔見せてほしい。
いやしめくくりとしてこの執着はちょっとあれだな。
とにかく、また会ってもふもふさせてくれる日を待っている。
小学生の頃、田舎の祖父宅から送られてきた野菜にくっついてきたかたつむりのあまりの可愛さにやられて、ペットとして飼い始めた。10年ほどの共同生活の記憶は、今でも色濃く残っている。
・思うよりずっと力強いし素早い。一度中途半端にしか閉まってなかった飼育ケージを押し開けて脱走してたことがあった。
・よくうんこを食ってた。自分でしたのも他人がしたのもあんまりこだわりがないみたいだった。かたつむりのうんこはすごい清潔らしいので、究極のリサイクルシステムなのかもしれない。
・たまに殻をぶん回すことがあって、当時は殻体操だ〜とかってはしゃいでたんだけどあとになってあれはかたつむりが不快や身の危険を感じた時に行う動作だと知って申し訳なくなった。思えば他のかたつむりが殻に乗っかってた時や霧吹きで水をかけすぎた時によく回してたな。ごめんよ。
・基本的に何でも食べるけど一匹一匹微妙に食の好みが違う。でも飼ってた全員好きだったのは満場一致でご飯粒だった。でんぷんの甘さがウケたのだろうか?どいつもこいつもあげたらあげただけ完食してしまうので一日一粒と決めていた。
そしてあいつらうまいもの食べてる時は顔がにまーって笑う。マジでマジで。飼ったことない人はみんな嘘だーっていうかかたつむりが笑うとかなんだよって言うんだけどほんとに笑ってるんだよー。大触覚がくるんって丸っこくなってご飯粒めっちゃ凝視してんの。
昔ハムスター漫画でハムも好物食ってると顔が笑うって読んだことがあるから生きものはうまいもん食うと笑うのは真理なのかもしれない。
・お互いのサイズに違いがありすぎると交尾が出来ないっぽい。何匹か飼ってた中で一匹だけでかいやつ(殻の色が緑がかってたのでみどちゃんと呼んでいた)がいて、奴は殻だけで3〜4センチと他のやつらの3倍くらいのサイズを誇っていた。
かたつむりの交尾は恋矢という人間でいうとちんちんにあたると思われるものをお互いの首筋に突き刺し合う割とアグレッシブな感じなんだけど、みどちゃんの恋矢はでかすぎて他のちびかたつむり達の細い首には刺さらなかったのか、恋矢の交換には至らずいつも一方的にちびかたつむりを頭からガジガジするだけに終わっていた。
かたつむりは発情期になると頭にフェロモンを発するコブが出来るんだけど、みどちゃんは体がでかいぶんコブもアホみたいにデカかったので、でかいコブをのっけたまんま行為に至らずその辺をうろうろしているみどちゃんを見てると宝の持ち腐れでもったいないなあと子供ながらに思っていた。
・土がめっちゃ好き。清掃が大変になるので飼育ゲージに基本土は入れてなかったんだけど、野生のかたつむりは土中を好み、さらに産卵も土の中に行うと図鑑で見たので一度産卵の季節に合わせて少量の土を入れてあげたことがあった。
そしたら確かにみんな超大喜びで、けど一番ヒャッハーしてたのはみどちゃんだった。土を入れたペットボトルのキャップに入り込んで、中でずっとゴロンゴロンしていた。キャップはみどちゃんの大きさにジャストフィットだったので、みどちゃんが入ると他のちびかたつむりたちは入れずいつも独り占め状態だった。おまけに体のでかいみどちゃんが暴れるとせっかく入れた土が全部キャップの外に掻き出されてしまって、結局ちびたちはいつもどおりそこら辺のキャベツに産卵してたような気がする。意味ねえ。
・結構長生き。自分で観察した限りでは寿命は体長に比例していて、ちびかたつむりたちは大体1〜3年、でかかたつむりのみどちゃんは自分が小2から高2にかけての9年間も生きた。小学校で拾ってきた時点で既に結構でかかったので、もしかしたら10年以上生きていたのかもしれない。
最後にみどちゃんを見送ってから、次のかたつむりは飼わなかった(飼えなかった)。小さい生きものたちとの別れは悲しい。10年以上経った今も、これを書いたら当時のことが思い出されて涙が出てきている。
アフリカマイマイの駆除のニュースや、食用エスカルゴが屋台の軒先に積み上がっているような映像は、今でも直視出来ない。ヴィーガンの人たちの目には、スーパーに牛や豚や鶏やその他の肉が陳列されている光景がこういう風に映っているのかもしれないと思うと、少しはその気持ちが分かるような気がする。
ただ一歩引いて考えると、人間がカタツムリを食するのはマイマイカブリやロイコクロリディウムの捕食行動と何ら変わらないのではないかとも思える。私はカタツムリを食べる人とは未来永劫考えが合うことはないだろうが、無理に合わせる必要もないだろうし、攻撃するのも間違っていると思っている。
自分以外の生きものを食材とすることについて良いか悪いか悩み、議論している生きものはおそらく人間だけなのではないか。知能を発達させたがゆえの苦悩だし、同時に食べる食べないで悩んでいられる贅沢を享受していると言えるのかもしれない。それが優しさなのかエゴなのか、私にはとても判断出来ない。
あのブログの筆者さんにとってもあのちっちゃなサワガニたちが大切な存在になったんだろうなと思うと、その筆致と語り口、サワガニに向ける視線の暖かさも相まって読みながらやはり泣いてしまう。
特に、花の添えられたサワガニの遺骸はだめだった。日陰の土を錆びたスコップで掘り起こす感触が、すごく冷たくて固くて、余計に悲しくなるんだよね。
調べてみて驚いたが、サワガニは長くて10年ほど生きるのだという。筆者の方とサワガニたちがこれからも楽しく心穏やかな時間を過ごしていくことを願ってやまない。
タイトルそのまんま。
もう何週間か前の話だが、忘れないように書き残す。
自分はとある生命科学系の研究所に所属しており、実験動物としてマウスを飼っている。
コロナ禍で彼等を大量処分することになった。まさか動物が感染したとかそんな話じゃない。研究所の飼育管理の方々がいつ今回のウイルスに感染するかわからない。出勤日を減らさざるを得ない。
我々も状況は同様だ。陽性となればしばらくは軟禁だ。周囲が罹っても軟禁だ。
今までの飼育規模の継続は人的資源の面でのリスクが高い。それから、より根本的に、コロナ禍で出来もしない実験のために動物を飼っておくべきではない。
たくさんの遺体が目の前に折り重なる。
抜けた毛が手袋に付く。
小さいビニール袋に1袋につき20匹ほど入れ、ずっしりとしてまだ柔らかくぐにゃっとした感触がするそれらを飼育室の外に持ち出して、腐らないよう冷凍庫に入れる。
実験を行う者として、実験動物の処分は日常だ。実験動物に相対する時は、感情よりも真っ先に、実験動物を扱う際の倫理とされる行動規範が脳内に浮かぶ。自分は有言無言にそう訓練されてきた。今度の事でも感情の激しい揺れはない。実験できないならば速やかに処分することこそが実験動物の適切な扱いだ。
ただ、現実に巡った思考を忘れてしまうことは、明らかに動物に対して真摯ではないと思う。
普段見ることのない大きさの遺体の山を見たときの、最初は見た目からの印象の強さ。処分しながらずっと、昔に読んだ No.6 (あさのあつこ著) というSF小説を思い出していた。児童向けの顔をして、非常にシビアかつ強い物語だったことをよく覚えている。その小説の中に、人々がうず高く積み重なって死にゆくシーンがある。主人公たちは積み重なった人々を這い上って目的の場所へ向かう。そのシーンを思い出した。
マウスには逃れる術などない、と思う。
あと、これだけ処分できたというかすかな達成感、管理が楽になる、飼育費用が減るというかすかなポジティブな感情。
規模縮小の状況の中でマウスを増やさないため、自分を駆り立てるために必要だった思考。と言ったら美化し過ぎだ。その側面もあるが、自然に巡った思考だ。
普段、実験動物について家で思い出すことはない。ただ今回だけは例外だった。
コロナ禍がペットを飼うきっかけになったとか、保護動物がもらわれていったとか、そういうニュースを読むことがある。でも、人間に寄り添って暮らしてくれている動物達の中で、我々の実験動物はそちら側ではなかった。
4位 YouTuber
今までYouTubeでは動物動画や好きなアーティストのMVしか観てこなかったけど、暇だったので興味本位で観てみたらすっかりハマって、過去動画も漁り始めている。このご時世、最も手軽に家で楽しめる娯楽だと思う。好きなのはHIKAKIN、東海オンエア、キヨなど。明るくて何も考えずに観られるのが良い。
めっちゃ美味しい。ノーマルつぶグミより少し量が少ないけど、それでも普通のグミよりは多いのでとても満足できる。何の楽しみもない毎日に彩りを与えてくれる。一粒が小さいので罪悪感なく食べてしまうが、気付いたら一袋食べ終わっている。職場で板チョコバリバリ食べていた時よりマシだと思って気にしていない。近所のスーパーやコンビニでは見かけないのでおかしのまちおかで買い溜めして毎日食べてる。濃密ベリー味も美味しいのでオススメ。
運動してなさすぎてヤバいのでしぶしぶ買った。本当はリングフィットアドベンチャーが欲しかったけど売っていないのでダウンロード版で買えるこっちにした。楽しいか楽しくないかで言えば楽しいけど、つまらないかつまらなくないかで言えば正直つまらない(単調なので)。ただ、家の中で手軽に汗を流せるのが良い。私の場合、同居人がキックボクシング経験者なので細かいアドバイスをくれたりしてやりがいがあるが、一人暮らしで意志が弱いと絶対にサボってしまうので薦めない。これを一人で毎日続けられる人は、自重筋トレでもランニングでも続けられるのでは?
1位 ハムスター
昨年末に近所のホームセンターから家にお迎えした、ゴールデンハムスターの女の子。とにかく可愛い。初めてのペットだったのでお世話に自信がなかったけど、ずっと健やかに過ごしてくれている。飼い方の本に「あまり触っちゃダメ」って書いてたから触らないようにしていたら結局今日まで私に慣れてくれていない。でも、ケージの外から眺めているだけで爆裂に幸せホルモンが分泌されるのですべて良し。家に来てくれてありがとう。ふわふわしている。餌袋をガサガサすると寝床から出てくる。キャベツが大好き。なんでもかじる。ミカンをあげると顔の周りをぺろぺろする。とにかくかわいい。永遠に長生きしてほしい。幸せにするからね。
一番良く見かける毛色は背中側がこんがり薄茶色で、腹側が真っ白。
顔は眉毛の位置だけ白色になっていて、ファンからは『マロ眉』と呼ばれている。
この顔がなんとも言えずかわいい。
他のハムスターよりも体長が小さく相対的に顔が大きいので、ほぼ2頭身。
オスは体の割に金玉がデカいので、金玉を座布団にして座って寝る。(この寝方が本当にかわいい)
他の種類よりも兄弟間の仲が良いことが多く、一つのケージで何匹も飼育されていることがよくある。
苦しくないのか?というぐらいに一箇所に集まり、折り重なって寝る姿は本当にかわいい。
SNSではロボロフスキーハムスターを飼いならしたハム中毒達が、溢れんばかりのロボロフスキーハムスターの写真をアップしているのでぜひ見てみてほしい。
このロボロフスキーハムスター、ただでさえすばしこいハムスターの平均よりもさらにすばしこい。
より適切に言えば『多動』である。常にわさわさカサカサちょろちょろ走り回っている。
回し車を回す速度も尋常じゃなく、自らが生み出した遠心力により回し車から放り出されることも頻繁にある。
それでも諦めず何回も回してはふっとばされるのを繰り返しているのを見ると、アホだなぁ、と愛おしく思うし、本当にかわいい。
他の種類よりもなつきにくいというふうに言われている(事実俺の飼っていたやつも全然手に乗らなかった)が、
SNSでは野生を失くし飼い主の手の中でされるがままになっているもちもちふわふわの個体もよく見かける。
そういう個体を見ると、歯ぎしりしたくなるくらいの嫉妬に襲われるのも事実だ。
ここで一つ大事なことは、たとえロボロフスキーハムスターが手に乗らなくても、見ているだけで本当に幸せな気分になれるということだ。
俺が帰宅すると、活動を始めたやつら(夜行性)がチョコマカチョコマカとケージ内を駆け回り、こちら側に向かって『メシをよこせ』とアピールする。
ロボロフスキーハムスターはエサ入れに補充したペレットを全て頬袋に詰めて、砂場に持っていって放出する。
(本人は蓄えているつもりだが、衛生的ではないのでしばらくしたら回収して捨てる)
たまにはやつらの好きそうなハムスター用のおやつを購入して与えるが、好き嫌いが激しいのですぐ捨てられたりする。
ショックだが可愛いので許す。
そして回し車を高速で回し、数十分ほど走るとそのへんでひらべったくなって仮眠をとる。
それを一晩中繰り返す。
単純な動きの繰り返しではあるけれど、なぜだか飽きが来ない。
メンタルがやられてろくに眠れなかった俺には、やつらを眺めてただぼーっと時間を潰しているだけでも救われた。
また一緒に暮らしたいと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20200228200523
保護犬の子犬を引き取る予定だったが、縁あって成犬を引き取ることにした話のつづき
俺たちはこの借家の新居に越してくるにあたり、犬か猫を飼おうと決めていたのに付随して決めていたのが、「ベッドを買おう」だった。ペットとベッドである。それは俺と嫁の憧れだった「犬と一緒に寝る」という行為を実現するためのものだった。残念ながらさほど広い部屋ではなかったのでセミダブルのベッドを一つ買うことにして、俺たちはまだ見ぬ犬(猫)がベッドにもぐり込んで来る様を想像してはIKEAのレジの列で鼻の下を伸ばしていた。嫁に至っては子犬がベッドの上り下りがしやすいようにと小さな台まで買おうとしていた。
やがて当初の予定を変更して子犬でなく成犬を引き取ることとなり、トライアル期間はケージを使用する約束だったので夜はケージから出さなかったのだが、「大きめの犬だからケージ飛び越えて来ちゃったら仕方ないよなあ」「仕方ないよねえ」と期待しながらベッドから犬を観ていたのだが、暗闇のベッドから自分を見つめる人間二人の目を無視して犬はケージの中で丸くなり、トライアル期間中に仕方ないことは起きなかった。当たり前だ。この犬は賢い良い犬だからだ。
。
そして遂に正式譲渡がなされた日、俺は昼間のうちに思いっきり散歩した。そして帰宅すると、ばっちゃばっちゃと水を飲んだばかりの犬を嫁が抱きかかえるように風呂場へ連れて行き今度はシャンプーとドライヤーだ。犬はドライヤーとか掃除機とか嫌がるときいていたが、顔に温風を浴びながら、なんかうっとりした顔で目を閉じて座っている。その後はエサを与える。これだけすればこの犬は今日もうクタクタのはずである。俺たちもそそくさと食事と風呂を済ませると「そろそろ寝るかぁ」と犬と一緒に寝室へ行く。ケージはあけっぱなしで俺たちはベッドに入り犬の名前を呼ぶ。
ところがこの犬、俺たちがベッドの上でポンポンすると一応はお愛想で乗って来るのだが、やがて「そろそろいいかい?」とベッドの下に降りてその場で寝そべる。もしかして前の飼い主に躾けられた習慣なのか、そもそも床に広々と寝そべりたいのかはわからない。とりあえずベッドの上で寛ごうとはしないのである。ただ、ケージの中ではなくベッドの下と言うあたり俺たちの傍にいたいと言う意志は感じられたので、なるほどこの犬は定位置をここに決めたのだと納得することとした。
俺の嫁は朝から昼までの間パートに出てる。だからその朝も6時前くらいに目覚ましが鳴るわけだが、俺がぼんやりと目を開けると、犬が昨晩は居心地悪そうにしてたベッドに飛び乗ってきた。そして俺と嫁の顔に交互に鼻をつんつんしながらせわしなくモゾモゾしている。ぺろぺろではない。鼻でつんつんである。嫁が寝ぼけながらも「おふとんはいりたいの?ん?」と布団をめくると「そうじゃない!俺は朝だから起こしにきたんだ!」と言いたげにモゾモゾしている。なんとこの犬は俺たちを起こそうとしたのだ。トライアルのときも目覚ましは当然毎朝鳴っていたがそのときに犬はケージの中で尻尾を振ってるだけだった。しかし昨日からうちの子になったこの犬は、この家の一員としておそらくは重要であろう仕事を見つけ、初仕事をしようとしていたのだ。「起きろ!朝だよ!」と。そうだ。起こしてくれてありがとう。
嫁が仕事に出て数時間後俺も出勤し、さらに数時間後に嫁が帰宅する。そうすると毎日およそ3時間程度この家は犬が留守番することになる。一応引っ張り出されたり壊されたりされて困るものはしまってあるが、とりあえず嫁が帰宅するといつも玄関で座って尻尾振っていて、部屋の中も特に変化がないのだが留守番中の犬がいったい何をして過ごしているのか興味は尽きず、協議の結果「防犯のために必要だからな」「居間と玄関と台所用に3台ね」と言う話になり、事前に中村玉緒似の大家さんから「ワンちゃん何してるか気になるわよねえ!どぼぼぼぼぼ」と笑顔で許可を頂き3台の防犯カメラを購入することにした。VPN接続の工賃も含めて結構な金額となったが防犯のためには致し方ない。
俺が出かけると犬はしばらく玄関に座っている。やがて居間に来ると窓辺に座っている。予想したほど家の中を動き回らない。そしてソファに飛び乗ると長々と寝そべっている。ときおり思い出したように台所に来て、ごみ入れ(フタはしてある)の匂いをくんくん嗅いでまたソファに戻って長々と寝そべる。思ったより面白くない。ようするにちゃんと留守番している良い子なのだうちの犬は。一番面白かったのは昼に帰宅した嫁がやきそばにマヨネーズかけていた所だった。
嫁の実家に行く日、当然のことながら犬も連れて行くことを決めていた。考えてみたらこの犬を車に乗せたのは、トライアルで連れてきたとき以来かもしれない。そのときはトランクにケージごと入れていたのだが、今回は後部座席に座らせた。車が動き始めるとシートの間から首を出して何やら興味深そうに前を見ている。すると嫁がどっこいしょと犬を助手席の自分の膝に乗せた。俺の嫁は小柄なので膝に乗せたと言うよりは自分が犬の下敷きになってるっぽい体勢だ。嫁は右腕にリードをぐるぐる巻きにすると助手席の窓を少しだけ開けた。外から入る風を感じると犬は注意深くではあるがひょいっと窓から顔を出す。
「あぶないからリード離すなよ!ウィンドーのスイッチ気をつけろよ!」「わぁかってるから黙って運転しなさい!」と言い合う飼い主たちを意に介さず犬は顔を進行方向に向ける。どれほど自分が早く走っても決して感じない初めてのスピード、そして風圧。「うぉ!なんだなんだ!早いぞ!俺走ってないのに!うぉぉぉぉ!」と言いたげに犬は嫁の膝の上に立ち上がり尻尾をぶんぶん振りながら上機嫌で前を見てる。やがて信号待ちで止まると不思議そうな顔をして車内に首を引っ込める。隣の車のカップルがうちの犬をニコニコしながら見ている。可愛いだろ?可愛いだけじゃなくて賢いんだぞ?と俺は心の中で鼻高々である。嫁もである。
再び車が動き出すと、今度はためらうことなくまた首を出す。風圧で開けっ放しの口の中が乾いたのか、思い出したように口を閉じて舌なめずりをする。なお途中で運転代わってくれと嫁に頼んだが却下された。高速に乗るときにさすがに窓を閉めて犬を引っ込めると「鼻が冷たくなってる!!」と嫁が笑う。俺は運転しているのでその感触を味わうことができなかった。嫁の実家に着いた頃には俺の車の左側ガラスにファイヤーパターンのように犬のよだれが付いていた。
帰宅するとき助手席のドアを開けてシートを前に倒して犬を促すと、一瞬入ろうとして止まっては「え?後ろ?どうしても?さっきのはなし?なんで?」とこっちを見上げて「こっちかぁ。どうしても?ダメ?」という顔をするのを繰り返している。なんて賢い犬なのだろう、たった一回車に乗っただけで窓の外を眺めることを覚えたのだ。いやしかし毎回そんなことを当たり前にさせるわけにもいかないので後部座席に入れた。まず後部座席に座るのを当たり前にして、車が動き始めたら初めてシートの隙間から首を出すというプロセスを覚えさせるのが良い。そう判断してのことだ。
夫婦そろって犬が好きだ。
去年の暮、ペットを飼える家を借りて、ようやく犬を飼えるようになった。
猫のほうが多いイベントだったが、ポメラニアンやダックスなど子犬も数頭おり、人々の注目を集めていた。
そんな子犬たちのケージから少し離れたところに、成犬が一頭、寝そべっていた。
俺たち夫婦が近づくと、成犬はごろんと仰向けになった。腹を撫でてやった。
子犬たちは確かに可愛かったが、ポメラニアンもダックスもいわゆる座敷犬というやつで、そこまで好きな犬ではなかった。
妻に意見を求めると、「どの子も可愛いけど、あなたはどう思う?」という返事。どうやら妻も似た考えらしい。
もう一度、成犬を見に行った。
さっきと違って成犬はひどく興奮し、立ち上がって何度も尻尾を振った。
俺たちはこの成犬を貰うことにした。
年齢は三歳ぐらいで、山深くに捨てられていたそうだ。
俺は犬と猫が好きだ。嫁も猫と犬が好きだ。だからずっと犬を飼いたかったのだが住宅事情と仕事の関係でずっと飼えなくて、去年の暮に満を持してペット可能の借家を借りることにした。
家は多少ボロいのだがペットOKの条件で探したのでそこは文句なく、中村珠緒似の大家さんに犬を飼っていいか尋ねると「もちろんいいですよぉどぼぼぼぼ」と中村珠緒みたいに笑って許可してくれた。
果たして犬を(願わくば猫も)飼うべく俺たちがまず認識を共有したのは「保護犬(猫)にしよう」ということだった。ここでは生体販売がどうのとか言うつもりはない。ただ、可哀想な子を可愛がろうと思ったのだ。
いくつかの里親募集イベントをネットで調べて二人で出かけてみたが、なんか色々と条件を付けられ「それ必要なのか?」って思うようなものまであって、いくつかのイベントを見送ってはめげずに別の里親イベントの予定を作っていた。
その犬に俺たちが出会ったのは、やや騒々しくある比較的都市部で行われたイベントであった。その日は猫がやや多めだったが、それでも何頭かいた子犬たちがせわしなく動き回り訪れた里親希望者や冷やかしに愛想を振りまいていた。成犬であるその犬、おそらくポインターとかゴールデンレトリバーとかの雑種とおぼしきその犬は子犬たちのケージから少し離れた位置で、子犬目当てで来た人たちに社交辞令的に撫でられては子犬ケージに向かう彼らを見送りながら静かに寝そべっていた。
俺たちも子犬が目当てであったが、とりあえずこいつを一応ひと撫でしようとしたら、俺たちを見るなりその犬は何故か突然ゴロンと仰向けになり腹を撫でるよう促してきた。俺も嫁もそうかそうかと撫でまわしてから子犬ケージに行ったのだが、どうにもその犬が気になる。吠えもしないし立ち上がりもしないでこちらをずっと見つめている雑種の成犬が。
子犬はどの子も可愛かったが、一つだけひっかかった(気に入らないとまでは言わないが)点は、どの子もポメラニアンとかダックスとかいわゆる座敷犬系の犬で、どうも俺の中での犬好きメーターがレッドまでは行くが振り切りはしなかったのだ。嫁に意見を求めると「どの子も可愛いけど、あなたはどう思う?」と返してきた。こいつがそう言う言い方をするときは「私はピンと来ないんだけどあなたがいいならいいよ私はピンと来ないけどね」と言うときなので、何となくだけどあの成犬が気になると伝えたらありがたいことに「あれね!あれも可愛いよね。それに成犬だからもしかして子犬より手かからないかな?」と好感触だった。
俺たちが再度あの成犬の所へ近寄ると、さっきの腹見せゴロンのときとは違い「え?え?また俺の所へ来た?もしかして俺のこと好き?!」と興奮気味に立ち上がり激しく尻尾を振りながら前脚を足踏みし、俺たちの歩みがもう待ちきれないとばかりに何度も上半身を上げ下げし始めた。(この上半身の上げ下げと言う表現で伝わるだろうか)
俺はもちろんだが、予想外に嫁が気に入ったので、この推定年齢3歳という犬を引き取ることにした。
引き取ると言ってもその場で決定ではなく、トライアルと言って数日預かって様子を見てから(予防注射などの経費を負担した上で)正式に引き取るというプロセスがあり、後日その犬が俺の家にトライアルに来た。とりあえずどこでトイレをしてもいいようにとペットシートと雑巾を手に持って家の中に犬を入れると、多少遠慮がちではあるがそれでも「お?お?ここはどこだ?これはなんだ?」と2DKの小さな家の中を好奇心旺盛に歩き回る。3周くらいしただろうか、手に持っていたそれとは別にバスルームの前に「ここにしてくれるといいな」と嫁が敷いておいたペットシートの上に犬がおしっこをした。トイレのトレーニングは済んでいるとは聞いていたが俺と嫁が「えらい!えらい!」と誉めると「だろ?だろ?」と嬉しそうに寄ってきた。ちなみにこの犬がトイレで失敗したことは今日に至るまでない。
一緒に暮らし始めて気づいたが、この犬は常に俺か嫁を見ている。必ず目が合う。窓辺に寝そべっていてもこっちと目が合うとずっと見ている。そして次第にカーテンに隠れた尻尾がぱんぱんぱんぱんと床を叩き始めてやがて「そうかボールか!ボールを投げたいんだな?」とボールを咥えてこっちに来る。俺がいないときも犬は洗濯機の前に座って、洗濯をしている嫁を笑顔で見上げて「手伝おうか?」と言いたげに尻尾を振る。散歩に出ると(嫁のときもだそうだ)、俺の一歩か二歩前を歩きながら俺を見上げる。あまり激しく引っ張ろうとはしない。やや大きめの犬だから運動量が必要だろうと自転車で散歩すると今度は別人のように走る走る!「もっとだ!もっと早くこげ!何なら俺引っ張るぞ!」と言わんばかりに飛ぶように走る。そして飛ぶように走りながらもやはりチラッチラッとこちらを見上げる。
俺と嫁が食事していると(食卓の構造上俺たちは並んで食事をしている)テーブルの向こう側から鼻だけが出てきて鼻の孔がひくひくしている。ソファに座っていると俺たちの間に飛び乗って来て俺に頭、嫁に腹を向ける。言っておくがこの時点ではトライアルである。とにかく「賢くていい子」なのだ。職員の人は「トイレはちゃんと訓練済みです」とだけ言っていたが、ここまでいい子なのは訓練によるものじゃなかったのか?持って生まれた性質なのだろうか?
そして俺たちはもうとっくに気づいていた。この犬は愛されたいのだ。愛されても愛されても愛され足りないのだ。事前に遠まわしに事情を聞いたがこの犬は山奥につながれて捨てられていたそうだ。つながれた理由はおそらくはついて来ようとするからだろうと。保護されたあとも、子犬たちと比べれば確実に成犬の自分を里親が敬遠する経験も沢山したのだろう。だから最初に接触したときにお腹ゴロンをしたのがこの犬にとっては毎回最初で最後のチャンスで、一番可愛い所を見せなくてはいけない勝負のときだったろう。そして何度もその勝負に敗れた末に、遂に俺たちが現れたのだ。
俺は嫁にこの犬を引き取りたいと言ったら「というか私はじめからそのつもりだから」と返ってきた。嫁がこの犬を俺と同じように気に入ってくれて良かった。はじめから決定権が俺になかったのはこの際どうでもいい。
そんな日々の様子を適当に写真に撮って(この作業は約束だった)送るトライアルの期間が終わり、引き取りの意思最終確認のとき、俺たちが当然のように正式譲渡を希望すると、職員の人は「まあそうだと思ってました!」と笑った。俺たちの送り続けた写真がやたら多かったのと、写真にうつる犬が一枚残らずカメラ目線だったのでこの犬は(もちろん飼い主としての俺たちも)大丈夫と早い段階で判断してもらっていたようだ。
一通りの手続き(書類や経費の支払い)を済ませて正式にうちの子になったこの犬に名前をつけよう(トライアル期間中は施設で呼ばれてる名前で呼んでた)としたら、嫁がすでに決めていた。いい名前だ。俺の意見など無用だったみたいだがいい名前だ。
世の中にはこんなに飼い主に愛情をたっぷり注がれているインコもいるのだなと軽いカルチャーショックを覚えた。
私の家で飼っていたインコも、ああいう飼い主の家で飼われていたらもっと幸せだったのかもしれない。ごめんね。
飼っていた9年間、動物病院に連れて行ったこともなかったし、爪切りしてあげたこともなかった。
顔まわりを指で撫でると喜ぶということすら知らなかったよ。
ケージの交換も止まり木の交換もオモチャの交換も一度だってしてあげなかった。ヒーターだって付けてあげたことがなかった。
エサの殻をフーフー飛ばしたりはしてたけど、水の交換が面倒で何日も変えないこともザラ。水の容器がぬるぬるしてるのを洗うのも面倒だった。
小松菜をあげたときはいつも喜んでたね。テンション上がると首振りダンスをしたりよく喋ってたりしたね。
放鳥して一緒に遊ぶのだけはよくしてた。懐いてたと思う。
でも買われたのかうちじゃなかっならもっと快適に幸せに過ごせてたのかもしれない。私の誕生日に買ってもらったのにロクに世話もできない飼い主で本当にごめんね。天国で幸せに暮らしてるかな。
https://tech.nikkeibp.co.jp/it/article/COLUMN/20090702/333080/
すべて「Bash」と呼ぶスクリプト言語で記述する。しかもデータベース管理ソフトを使わず、データはすべてテキストファイルで管理する。「ミドルウエアのオーバーヘッドがない分、処理も速い。ごく普通のパソコンで動作させても、25万件の商品データなら2秒程度で全件検索できる」と山崎課長は胸を張る。
情シス、ベンダーがそれぞれの仕事を全うすることがベストな関係を生む~良品計画がシステムを内製する理由
https://enterprisezine.jp/iti/detail/1380
「無印良品」ブランドでおなじみの良品計画。いまや海外15カ国にも展開するなど、好調な事業を支えるのが、“ユニケージ開発”と呼ばれる独特の開発手法だ。Linux標準装備のシェルスクリプトの他は、開発言語やデータベースなどを一切利用せず、1~2週間というきわめて短い開発期間で、次々にシステムをリリースしていく。
この件⇒ https://togetter.com/li/1452558
ユニケージはbashのパイプで作られた、RDBMSを使わずテキストファイルによる空白区切り行志向レコードへのデータ処理(だいたいプログラム1本の処理内容がメインフレームのCOBOLのそれと同じくSQLクエリ1個に相当する)で、同形式によるマスタとトランザクションファイル(RDBMS内部のredoログに相当)を使う(データに含まれる空白文字0x20はアンダーバー0x5Fに置換する、アンダーバーが複数存在するデータの場合どう扱うかは知らない)
開発と更新は早いんだけど参照が(テキストファイルなので)インデクスが効かないためシャーディングするしかなく、要するに検索機能の柔軟性がなく、リアルタイム性を損なう
おそらく基幹系というか在庫管理をユニケージでやっているので、ウェブサイト自体はユニケージで実装されていないかもしれないけど、しかし根幹に上記のような手作りのデータベース実装があるし、RDBMSに移行するとなると全部を止めてマスタとトランザクションファイルをマージしてインポートすることになる
追記:トランザクションファイルのマスタへのマージは営業時間後の日次バッチとかでやるはず
システムを止めている間も店舗が運営を続けているなら、たとえば店頭在庫を潤沢に積んだうえで、店舗間での在庫の融通は禁止し、店頭での売り上げ分はどこかでRDBMSに計上しなければならない
追記:テキストファイルに対するインデクスをつくって行頭へのシークの高速化をすること自体はもちろん一般的には可能だけど、ユニケージの方法論だとそれをする標準的な方法はないはず。ユニケージはRDBでもNoSQLでもなく、バイト位置でのシークという操作自体がない世界なので。sedとかで行の差し替えをした場合(SQLのUPDATE相当)当然行頭のバイト位置が変更した行以降ですべてずれてしまう可能性があるのでインデクスの更新がひどく非効率になる
追記:文章下手ですみません。ユニケージの良いところはRDBMSの実装の基礎を理解できるところ(これはDate先生の教科書を読んだりOracle Silverの勉強をしたりSQLの書き方を工夫したりクエリプランを読んだりするよりずっと効率的に学べる、ただしファイル編成法の知識はちゃんとした教科書で補う必要がある)、アプリケーション実装技術について横断的な理解ができるところだと思います(USP研究所のシェルスクリプトマガジンには実際勉強になりそうな記事が多い)自分はユニケージへの移行案件を生き残れなかったクチなので。。
追記:Tsukubaiは好きになれませんでした。