はてなキーワード: ブタがいた教室とは
クラスで家畜を育てて食べるという、実際にあった授業を元に作られた映画らしい。
豚との絆を育む学生達の描写や、教師側や大人たちの視点も描いているあたり、テーマに真面目に向き合って作ってあるなあとは思う。
その他の選択肢もあることを提示しつつ、最終的にきっちりと決断がなされるのも物語としては収まりがいいかな。
ただ、これは本作の主旨そのものの難点だけど、他種に対する命の向き合い方って結局どこらへんに線を引くかって話でしかない(人間目線で見れば)。
そしてどこで線引きしようが、それを人間たちだけで議論している時点で酷くエゴイスティックなのは変わらないわけ。
そのことを多少なりとも分かっている人からすれば、本作そのものが茶番に見えてしまうかも。
逆に、ペットに服を着せるかどうかレベルで思考が止まってる人間には上澄みしか伝わらないか、そもそも理解できない(「ペットと家畜は違う」とか真顔で言いそう)。
正直、ひとつの作品として評価するとそこまでじゃないけれども、琴線には触れたね。少なくとも、久々に長文で感想書きたくなる程度には。
私は子供の頃、ハムスターを飼っていて失敗した覚えがある。二匹飼ってたけれども、一匹は脱走して、もう一匹はケージを日なたに長時間置いていたせいで死んでしまった。いや、殺してしまったというべきだろう。あの時、私はペットを飼うべき人間じゃないって思ったよ。
ただ、それから大人になって色々と考えを巡らせるようになると「愛玩動物」という概念、文化そのものに疑問を持つようになった。だって「動物を飼う」という行為自体、必要のないことだから。もし、それに必要性があるというならば、それは飼う側(人間側)の都合でしかない。
ペットを飼っている人たちが、他種に対する思いやりやら命の尊さを語ることがあるけれども、あれって本気で言ってたら怖いよね。だって読んで字の如く「愛」する「玩」具として手元に置いている立場なのに、その状態で動物の死生観を客観的に語ると空々しくなってしまう。ペットに服を着せて「飼い主側の都合でそういうことをするのは如何か」みたいな意見は昔からあるけれども、そもそもペットとして飼ってる時点で人間側の都合を押し付けてるから。
もちろん、それは動物を飼うということだけではない。食べるため、服の素材にしたり、或いは政治的パフォーマンスのためにお立ち台にあげられる。害獣、害虫、益のあるなしなんて人間社会の決めたこと。自分たちの生活を豊かにするため、時に排除し、時に利用する。グラデーションに違いはあれど本質は同じで、せいぜい細かな差異を人間という第三者たちで語るだけ。結局のところ利己的な対応をとっているに過ぎない。私たちは「命の選り好み」を各々で強いられて、「倫理的バグ」を抱えて現代社会を生きている。
といったことを踏まえると、『マナー・アプリオリ』という作品はえげつない。本作のテーマが何かって言うと明白で、それは「愛玩動物」。それを人間に置き換え、宇宙人の立場から、人間社会が抱えた「命の選り好み」と「倫理的バグ」を風刺的に描いている。『鬼滅の刃』で「生殺与奪の権を他人に握らせるな」ってセリフがあるけれども、もし握らせて相手の倫理に委ねたらこうなるともいえる。言葉で意思疎通を図れるヒト対ヒトでそれなのに、動物相手だったら尚さら。
『ミノタウルスの皿』と比較している人もいたけれども、本作は“愛玩動物”という視点から他種の命に対して問題提起を行っていて、食べるかどうかっていうのは一要素、側面的な話だと思う。『ブタがいた教室』っていう、学生たちが育てた豚を食べるかどうかで議論させた話があったけれども、本作がやっていることはそっち路線。「命を学ぶ」という“学ぶ側の唱えたお題目”によって、ブタの「命を弄ぶ」という側面。
テーマについては解釈の余地はほとんどないと思う。あと、本筋に対しても解釈の余地は少ない。大体のことは作中で語られてるし。最初の1ページで飼い犬が捨てられて、飼い主側の都合やらが語られる。旦那さんの「一日中ケージに閉じ込めてるのはかわいそうだ」だっていうのも、人間のフィルターを通して語られる一方的な倫理。それが人間の身に降りかかるという分かりやすい構図。
例えば「命の選り好み」と「倫理的バグ」については分かりやすい。主役の宇宙人たちの世界でも共食いは犯罪。自分たちと見た目が似ている人間を食うのはゲテモノ扱いで、忌避する者もいるが一応はOK。まあ、これは哺乳類を食べるかどうかとか、クジラを食べるかどうかみたいな感じかな。
人間の子供に情を抱いたサッピは「殺すなんてかわいそうだ」といって、クンダは「それはエゴだ」という。なるほど一理ある。でも後にクンダは「そいつの幸せはとっとと食われて余計なストレスとおさらばすることだ」なんて言う。いや、それもエゴでしょ、ってツッコミは読者がするしかない。けれども、そのツッコミを本気でできるほど私たちは上等じゃない。
個人的に目を引いたのは痛覚のあるなしで是非を決めようとするシーンだね。痛覚がなかったら刻んだり好きなように弄んでもいいのかっていう疑問はあるけれども、これは現代のヴィーガンにも通ずる。痛覚がないから植物で、生物ではない。殺して問題ない命。その判断自体が人間の決めたカテゴライズでしかなく、それは「命の選り好み」の延長線上でしかない。あまり思慮深くないクンダは時々の感情で判断し、サッピの方は独自の基準が多少なりともあるが本質は同じ。無差別ではないが公平でもない。
ここまで語っておいてなんだけれども、私は本作を高く評価してはいない。テーマに対して淡々としすぎてて、ストーリーラインに起承転結の盛り上がりがあまりない。そうすることで残酷さを如実に浮かび上がらせるって意図なのは分かるけれども、それが一作品としてのエンターテイメントから見たとき、やや面白みに欠けるのは確か。
プロットに対しメッセージ性も露骨で、説教臭さが抜け切れてない。宇宙人の文化や倫理観、言葉選びが人間社会とほぼ同じで、語られることも作品内で馴染んでない。ひいては宇宙人の二人も本作のテーマを風刺的に描くための舞台装置、配役でしかないことを意味する。なんというか、『寄生獣』の終盤で環境問題について語りだす件があるけれども、あれだけ抜き出した感じ。有り体に言えば浮いてる。
ただ、私からいわせれば物足りないってだけで、現代社会は「命の選り好み」と「倫理的バグ」について、大衆は割り切るかどうか以前の段階。大半は無自覚的に享受し、狭い範囲内で限定的な倫理を振りかざすのが精一杯。踏み込んで論じる段階にすらいけてない。それで描いても読者の大半はついていけないだろうし、少年ジャンプ+というサイト掲載のマンガとしては丁度いい按配といえなくもないかな。
社畜です。仕事があるだけでありがたい!GWは休みなし!コロナなんて関係なし!
わずかな楽しみの映画館もしまってるし!休みないから映像見放題とかもできないし!
でも映画の話するだけで今は癒されるから付き合ってくれ(今更かもしれないけど)
【舞妓はレディ】
和製ミュージカル!まだ君の名を呼んでいない無名の上白石さんだったので全然売れなかったんだが、監督は「Shall we ダンス?」の周防さん。しっかりとした作りの中に往年の古典的なアメリカミュージカル要素を取り入れて舞妓姿で踊るのがいいんだよ。京都の雨は大体盆地に降るんやで~♪音楽もキャッチー!
3作あるんだけど全部毛色が違うんだ!とりあえずアクション!バイオレンス!探偵が女に惚れる!高田ターミネーター!これだけ覚えとけばオッケー!
東映の社長がなんとしてでも続けるとほれ込んだ最高の邦画シリーズだから見ろ。どうでしょうファンも見ろ。
【南国料理人】
単館映画好きは絶対通るこの映画。ただおっさんたちが南極にとじこめられてなんとか生きれる状態で精神的に追い詰められるドシリアスもの…。
【横道世之介】
南国料理人と同じ監督だ!傑作であるもなんとなく目立ってないのが世之介っぽいな!
今は100日後に死ぬワニを一度ぶんなぐって鍋で煮詰めてエキスにして捨てて新しい鍋で作り直したっぽい作品にも思える。
横道世之介と同じ監督だ!末期がんの父親に会いに行くためデスメタルバンドの息子が田舎に帰省するも父の容態は日に日に悪化していき…。
なんだけどコメディだ!こんな悲しい話の結末があんなドタバタコメディになるとか誰が想像した!?タモリ倶楽部の空耳アワー再現VTRが見れるぞ!
【バクマン。】
ジャンプ実写だけどうまいことやったと思うよ!確かに原作ファンからしたらあれこれ言いたくなるかもしれないが、映画として一本にまとまっているだろう。
色々言いたいことがあるんだが、結局わくわく楽しく見れる。これは負け!原作ファンの負け!
泣ける!なんかめっちゃ泣ける!いわゆるお涙頂戴ものじゃないんだが、実話で繰り広げられる金策…。ああ、金って、金って必死で稼ぐものだよな!
ユーチューバーみたいに楽して稼ぐものじゃないんだよ!わかるか!?ユーチューバーも楽じゃないって!?お前らは通勤電車に乗らない!
【鍵泥棒のメソッド】
半沢直樹の続編を楽しみにしていたやつは見とけ!堺と香川は赤い糸で結ばれているんだ!きっとそうだ!
世界観の作りこみが凄い凄すぎる!映画はやっぱ美術だよね!これ力作邦画だよ!あんまり話題になってないけどさ!
なんかいわゆるスイーツ()みたいな?やつだと思ったらもうローマの休日!とりあえず白黒綾瀬かわいい!
【あやしい彼女】
だからローマの休日!みんなローマの休日好きすぎ!休日ほしい!
パワフル婆ちゃん若くなる!奇想天外の設定にどう結末が転がるか見て!鑑賞後の気分がめっちゃいい映画!
リピーター続出のミステリー!ネタバレ厳禁濱田岳!ボブディラン!
【モテキ】
ドラマ版ファン大激怒の映画化!理由はキャストが変わったからです!
でもいいじゃん長澤まさみがエロいからいいの!好きよ!抱いて!好きよ!
【ブタがいた教室】
リアルに子供たちに台詞全部ゆだねてみたぜ!な鬱映画!タイトルで察して!でも名作っす
【この世界の片隅に】
ちょっと待て…こんな名作がここにあっていいのか……いやよくない…。
映画再開したらこの世界のさらにいくつもの片隅にを見るために、今作を見るんだ!分かったな!
【時をかける少女】
【西の魔女が死んだ】
コロナで閉じこもってる子供に見せろ!お前ら実は魔女修行してるのかもしれないぞ!
【青い春】
見たことある人は分かるこの衝撃的な映画!キャスト結構後々問題児ばっかだけど!又吉先生もいる!
ミステリーとかなんでもないヤンキー主役の映画だけどヤンキー映画にしてはあまりにエモすぎるんだって…
【GO】
アイキャンフライしないほうの窪塚!このころマジで神がかってる…
今思えばこの暴れまわりでノリノリ映画が賞レースとったの時代って感じでいいね
【泥棒役者】
舞台の映画化!舞台スタッフのままで作っているのでそのまま舞台みたいなコメディ!
舞台オタ、行くとこないならこれ見よう
【翔んで埼玉】
教えてくれとブクマで頼まれたので。http://anond.hatelabo.jp/20160818164555
しかしamazonのそういうやつというと、電子書籍レンタルもそうだけどシリーズの1巻目とか…ああいう風にあんまり充実してなさそうだな…。
と思い検索してみたら映画色々あるんだね。まぁなんでも見れるわけじゃ無いか。勉強になった。
ざっとリストを見て、面白いと思っているやつをオススメしていきます。
1はわりと引くほどボコボコになる大泉洋が。2はオッパイに戯れる大泉洋が出てくるんで、親とは見ないでください。
最近の邦画フリークが見ることをノルマ化している山下敦弘監督の映画です。
これも書いたな。ただただ素晴らしいのでぜひ。
これも書いたぞ。あいきゃんふらーいに隠れがちだけど、評価されたのはこっち。名作です。
山田洋次が何故山田洋次なのか、を知りたければ見ると良いと思います。
これも書いた
原田知世とか尾美としのりとか若すぎて、タイムスリップした気分になれますよ。
比較的精神が落ち着いてるときに見ると良い、狂ったやつが集まった場所の話。
余談だけど松尾スズキが演出してるときだけ、クドカンの役者センスが最大に光るのはなんなんだろう。流石師弟?
名作ですよね。
映画なんてこれっきりだと思ったのか、やりたい放題しまくったコミケ舞台のカオス映画。
まさかジヌよさらばで同じキャストで映画とるなんて思ってなかったでしょう。あ、ジヌよさらばもプライムあった。面白かった。
タイトル惹かれるでしょう?そのまま見てください。
いまいち知名度低い方になってるけど、同監督作品見てて気になった人はぜひ。
タイトルに惹かれていかがわしい気持ちで見ると、一気に心洗われてしまう映画。
お、松田優作だ!これは見ておこうぜ!彼を知らない人が見たら「龍平…?」ってなること間違いなし。
周防正行監督作品。おっさんの成長映画として傑作だと思います。
サブカル好き名乗るなら見とくべきかと。名台詞のオンパレード。
この映画の凄いところは、子供たちがほとんどをアドリブでこなしているところです。
実際に子供たちが考え、なにを発するのか。役者なんていらねー、とさえ思わせるリアルさが見どころ。
ここにあがったのってgyaoとかでも無料になってたりするんで、是非どっかで映画みたいなって思ったとき、参考にしてみてください。
面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの。
「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」
http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html
元記事では「ブタがいた教室」
(http://goo.gl/DV423)(Wikipedia)
という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタを飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。
とくに考えてみなくとも、この教育方法が愛玩動物と家畜を意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場や屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務からも解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまり、ブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。
農家で働く人々のなかには、家畜を愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらくいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎の環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつの社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつの労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域で人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。
この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペットを家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だから、ブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物を教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである。
「生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ(屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育の権力と子供の阿りにあまりに幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必要は一切ないのだから。感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的な意味から屠殺を要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。
こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理が子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。
つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペットを屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童の感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命の価値とは、その動物が与えられている人間の愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である。
屠殺に賛成する児童にしても、その意見の後ろ盾となっているのはそのブタが屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義でしかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。
こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童にペットと家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜とペットの存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタは家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為を考察する可能性から遠く離れることになる。
結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜の意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学や職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯に繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。
少し前、といっても50年くらい前だったら各家庭に鶏がいたりして、卵を採ったり、最終的には鶏をしめて食卓にってのは普通にあったんだけどね。
増田の祖父母や曽祖父たちはそういった暮らしだったとか話は聞かないの?
自分の祖先がそういう暮らしをしていても豚じゃなければ別にいいのかな。
俺にはそのあたりの感覚は分からない。職業差別を自分がされたらどう感じるのかな。
まだお子様なのかもしれないし、生理的に無理って言うならそのままの人間でいいんじゃない?
俺は増田とは縁は全くなさそうだから言うけど、俺の友達に食肉関係者いるけど普通に俺はつきあってるけどね。
各家庭で、動物(魚も豚も鶏も牛も・・・)を殺してご飯のおかずにいただく、と言う事をしているとずいぶん忘れちゃってるよな。
前近代とか言い出したのはあんたなのでどうでもいい。
まさか西洋化後の近代日本を持って「東洋的価値観」の代表と言うわけ?
何でそれが平安時代の肉食禁忌令などの反証になるのかわからない。
というか、君の言う「動物も植物も東洋的価値観では」理論だと罪の意識にさいなまれるのは漁師よりもまず農家でなければならないのだが。
どっちにしても、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」なんて映画に象徴されるように、現代日本でそういう生物観が支配的なことは君も認めざるを得ないだろう。
そういう「動物も植物も同じ」「人道的屠殺は偽善」って主張の人が君みたくそれなりにいることは確かだが、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」はどちらも動物の話でしょ。
あとの点はもう面倒くさいから君が勝手に勝利宣言してくれ。俺は菜食主義は正しいか正しくないかなんて議論には興味ないんで、好事家だけでやってくれればそれでいい。
こちらとしては議論の適切さにしか関心がないので、立ったら最初っから首を突っ込まなきゃいいのにと思うわけです。
菜食主義や動物福祉が正しいと言ってるのではなく、元増田みたく薄弱な論理で勝利宣言する連中が気持ち悪いので。
誰がそんな主張した?
大事なのは何を殺して食べるか、とかではなく
自分の命を大事に生きることでしょうよ
この人。そこからの流れなんだが。いまさら誰が、と言われても困る。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。
太字の部分が重要。要するに、向こうの信仰からみてこちらの生物観がおぞましいように、こちらから見て向こうがおぞましいということもあるから「どっちもどっち」であり、そこから先には立ち入るなという話だよ。
ただそこっから、前近代の日本が「動物を食べるのも植物を食べるのも同じ罪だから云々」な文化だって主張を成り立たせるのは誤りだろう。
前近代とか言い出したのはあんたなのでどうでもいい。
一応肉食禁忌の流れは平安時代からあったはずだが、色々な変遷はあっただろうけど。でもそれでさえあなたのいう「東洋的発想」の反証には十分。
とりあえず法然が漁師になにを言ったかぐらい調べてからそういうことを言ってくれ。どっちにしても、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」なんて映画に象徴されるように、現代日本でそういう生物観が支配的なことは君も認めざるを得ないだろう。あとの点はもう面倒くさいから君が勝手に勝利宣言してくれ。俺は菜食主義は正しいか正しくないかなんて議論には興味ないんで、好事家だけでやってくれればそれでいい。
誰がそんな主張した?もう一度俺が書いたことを抜粋するぞ。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。
太字の部分が重要。要するに、向こうの信仰からみてこちらの生物観がおぞましいように、こちらから見て向こうがおぞましいということもあるから「どっちもどっち」であり、そこから先には立ち入るなという話だよ。
勝手に独善的菜食主義者の裏返しみたいな俺様文化帝国主義者にしないでくれ。
あなたのいう「感謝の気持ち」や「業を背負う」ことが大事って主張は、「人道的な屠殺」だの動物福祉だのベジタリアンを偽善と見下す以外に何の意味があるのかわからない。
明らかに俺は「東洋風の信仰」と「西洋風の信仰」という風に相対化して書いてるわけで、東洋風の「信仰」こそが「大事」なんて思ってるわけないだろ。つまらんいちゃもんはよしてくれ。
「曾祖母の納骨を親に”見せられた”小学校1年生の女の子が”PTSD”になってしまったかも」というエントリー。
半数以上の反応が「こんなんでPTSDになるなんて」「親も子供も軟弱」、と否定的で、さらにそれに対して元増田が
みんな、お骨を拾って何ヶ月も悪夢にさいなまれたり発作的に嘔吐したりしながら成長していったのか・・・。
と返している。
どっちも違うなあ、と思った。「ブタがいた教室」に対する是非論と同じ感想。
私は今年26だけど田舎の子だったので「死」は身近だった。
物心付く頃には家に犬がいて今実家で飼ってる犬共の親、祖母、曾祖母と3代を見送った。
1匹はフィラリアであっけなく死んだ。残りの2代は老衰だった。
だんだん弱っていく犬を寝ないで看病して最後を見届けた。死んだら庭に埋めた。
だから死んだら硬くなる事も、どんなに弱ってても生きている内はあった「あたたかみ」が
死んだ瞬間にすっと無くなる事も知っている。
ムクロとか、亡骸、という言葉がどういうものかを経験として知っている。
どんなに大事な人でも存在でも、死んでしまう、死んでいなくなる、のだと「知っている」。
そのハツカネズミを喰ってハラが膨れた蛇が籠から出られなくなって引っかかったまま縊死したり、
婆ちゃんが晩の鍋にする鶏を〆たりするのを見てきたし、
カマキリとか昆虫を枯葉かけて焼いたりもした(いや、超残酷なんですけど子供の頃って結構残酷なことを平気でやらなかった?)。
「いきもの」は「死ぬ」んだと。
それは「分かる」とか「分からない」とかじゃなくて、空気と同じぐらい当然に「そういうもの」だった。
だから幼稚園の時にひい婆ちゃんが死んだ時も、大好きだったから泣いて泣いて泣きまくって
でも「死んだ」事は分かってた。骨を見て墓に収める骨壷に触らせてもらってその無機質さに
「ああ、やっぱり」と受け入れた。
送るというのはそういう事だとわかってた。
でもさー、そういう経験が全くないままにいきなり人骨はつらいだろーよ?
段階を踏んでるからこそ近しい人の死に大泣きしてもすんなり受け入れることが出来るんだぞ。
人生初の「死」がひい婆ちゃんの骨だったらそりゃトラウマにもなるっつーの!
親も「命の大切さ~」とか「何事も経験~」とか頭でっかちに考えて
手順とか段階とかをすっとばしていきなり「ひい婆ちゃんの骨」じゃあ、そりゃ子供がかわいそうだ。
元増田も多分そのあたり感じ取って従姪さんのご両親に対して反感を覚えているんじゃないのかな。
みんな、お骨を拾って何ヶ月も悪夢にさいなまれたり発作的に嘔吐したりしながら成長していったのか・・・。
違うね。
場数を踏んでたの。それかご両親が場数を踏んでいてちゃんと子供に伝えてたの、子供の困惑を受け止めてたの。だから「何ヶ月も悪夢にさいなまれたり発作的に嘔吐したり」なんてしなかったの。。。だと思うよ。
起きてしまった事はしょうがないでしょ。
乗り越えられない事じゃ決してないんだから、いい機会だととらえて両親が子供に真正面から向き合えばいいじゃない。
や、まず最初に両親が「死ぬこと」に対して真摯に向き合う必要はあるけどね。