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2020-03-24

もしかしてコロナって今後インフルみたいに毎年流行るようになるの?

だとしたら人類にとってわりとマジで地獄じゃない? ただでさえ毎年インフル大勢死んでるのに

なんか漠然と、今は騒いでるけど収束したら過去出来事になるんだろうなぁとか呑気に思ってたけどさ

2020-03-20

こじらせててつらいのでカウンセリング行ったら楽になった話

スペック

(いくつかフェイクあり)

この記事を書いた理由

カウンセリングを受けて何かと楽になったので、知見を共有したい。

それに、カウンセリングを終えてからそろそろ1年が経過するので、ちょうど過去を振り返るのにちょうどいいと考えた。

増田でも、多くの人が「カウンセリングに行ってみたら?」と時には本気で、時には冗談で言うのだけれど、そこが実際にはどんな場なのかを知らないせいで、行くのをためらっている人が多い現状を、変えたいというのもある。

増田だけではなく、ネット上の多くの人が、少しでも楽になれるように祈っている。その助けになれば幸いだ。

どのようなことで困っていたか

長くなりそうだし、愚痴っぽくなるのも嫌なので、代表的ものだけを箇条書きで挙げる。

カウンセラーはどんな人?

臨床心理士資格を持っている50代の女性中学生くらいの子供がいるらしい。

髪の毛が長く、少しやせ型。落ち着いた物静かな女性だが、明確な自分の考えを持っている印象がある。初恋の人に似ている気がするがおそらくは気のせいというか、投影しているのは間違いない。

実際のカウンセリングではどんなことをするのか

初回は風景構成法を行った。これはカウンセラーの指示に従って、順番に山や川、家や田んぼ人物などを配置していくもので、専門書に当たれば具体的な解釈方法が書かれているが、自分専門家ではないので省く。当日に描いた作品を今になって振り返ってみると、道のど真ん中に障害物の石が置かれていたり、山が雪に閉ざされていたりと、寒々とした印象を受けた。描かれている人間逆立ちをしていて、何やら不穏である。蛇も不気味にとぐろを巻いていた。

二回目からは主に夢分析を行った。カウンセリングカウンセリングの間の一週間に見てきた夢を記録して、それを材料に話をする。つかみどころがないようだが、意外なことにかなり効果があった。理屈はわからないが、この治療中は同じようなテーマの夢を見るようになる。さらに、肝心なのは夢の内容そのものではなく、夢の話をしているうちに自分が何を思い出したか、あるいは漠然とした印象をどのように語りなおしたかで、それによって、自身の考え方の偏りや傾向が見えてきた。現に、夢の内容を話す時間は案外短く、後半の三十分は、そこから思い出した過去出来事や近況、それについて自分がどう感じたについて話し合うことに費やされた。そうした雑談きっかけに、突破口を開いたこともある。

夢分析が行き詰まった時には、箱庭療法を試みた。これは、砂の敷かれた箱の上に人形模型を配置していくもので、話しながら人形を動かしたり、砂の上に模様を描いたりした。うまく説明できないが、非言語的なものを明確にするのに役立った気がする。例えば「このタヌキ(の置物)は寂しくて困っている。友達がいなくて寂しそう。上下がひっくり返って困っている。悲しくて暴れている」などと比喩的な話をすることで、日常使っている言葉論理で語りたくないことを口にしていた。小さな人形を触っているうちに気分が落ち着いたり、逆にひどく動揺することがあったり、不思議経験だった。箱庭療法最初の一回も、自分心理的混乱が反映されていたのか、人形同士がにらみ合ったりひっくり返ったり無意味に積み上げられたりと、非常に張り詰めた印象のもので、カウンセラーも「ちょっと怖い」という印象を漏らしていた。

これらの技法は、ある種のきっかけというか呼び水だった気がする。どんなことを語っても許されるというか、傾聴してくれる場というのはそれだけで貴重で、話しているうちに自分の思いがけない本音や、ダブルスタンダードに気づいた。また、夢のような一見「どうでもいい」話ができる仲になることで、普通は人に話すこともはばかられるような、野外オナニー願望についても話すことができた。

治療も後半になると、こうした技法ほとんど用いず、通常の雑談に近くなった。自分はこういうことをしてこう言う結果になった。自分気持ちはこうだ。そうしたことが素直に言えない人のために、これらの技法はあるのかもしれない。

カウンセリングの進行、そこで自分はどう変化していったか

始め、自分は藁にも縋るような思いでカウンセリングを申し込んだ。と同時に、どこか疑ってもいた。自分カウンセリング技法についての基礎的な知識はあったし、大体どのようなことをされるのか予想がつくと思い込んでいた。精神分析に関するフロイト著作だって読んだことがあるし、河合隼雄の「ユング心理学入門」も読んでいた。しかし、カウンセリングの概略を知っていることと、実際にカウンセリングを受けることとは、まったく別の経験だった。水泳理論と、実際に水に入って泳ぐこと以上に隔てられている。なんといっても、何年にもわたって定期的に同じ人間と会うのだから必然的相手には強い感情を持ってしまう。結局、人間が強い感情を持つの人間に対してであり、人間が変わるのも対人関係を通してだ。

カウンセリングでは何について話すことも自由だった。幼少期の悲しみ、いじめられた経験、両親から受けた不条理仕打ちなどなど。それだけではない。女性にするべきではないとされている話もした。自分の性生活自慰行為風俗店での出来事など、自分は露悪的なまでに細部を語ったが、しっかりと耳を傾けてくれた。

そして肝心なのが、何度同じ話をしても相手は退屈する様子を見せない点だ。自分は、同じ話を繰り返すことで忘れていた細部を思い出すことがあったし、それに新しく意味付けをすることもできた。

最後に、カウンセリング時間が終わりに近づくと、カウンセラーは僕の話した内容を簡潔に言い直す。そうすると、自分はこういうことを考えていたのか、と毎度のように驚かされる。まとめられた内容を反芻しながら次の一週間を過ごすことで、自分の考えが深まっていった。他にも、自分がすべての不平不満をぶちまけた後で、それに対する解釈を投げ返されることで、その負の感情自分の一部として取り込むことができるようになった。「あなたがそこで腹を立てるのは当然だ」「あなた感覚はそれほどおかしものではない」という趣旨言葉を返してくれるだけで、自分過去を少しずつ受け入れることができるようになっていった。

カウンセリングの中で、カウンセラーを好きになること

ところで、カウンセリングに通ったのが、2014年3月から2019年8月ことなので、4年以上も同じ人と毎週のように会っていたことになる。途中から自分の気分が落ち着いてきたので隔週に切り替えたのだが、それでもかなりの頻度だ。自分は、自分のあらゆる感情や悩みをぶちまけて、それでも受け入れてくれる存在がうれしかった。モテないあまり風俗に浸っている自分軽蔑しない彼女存在が尊く思われた。

珍しくないことだが、自分カウンセラー好意を持つようになった。自分は、職業倫理上その気持ちは受け入れてもらえないことだと知ってはいたけれど、「あなた尊敬しているし、とても強い好意を持っています」と伝えた。カウンセラーからは「私もあなたと会うのが楽しみです」という趣旨の返事をもらった。と同時に、僕は、なぜこのカウンセラーが好きになったのかをじっくり考えだした。すると、自分には好きな人自分の悩みを洗いざらい吐き出したいという願望があったのだ、と気づいた。同時に、自分知的水準の高い女性に強いあこがれを持つことも改めて認識した。年齢などどうでもよかった。比較的若く見えるが、相手は五十代の人妻で、自分が手を出すわけにはいかないのだけれど、叶わない想いだとは知りながら、相手尊敬の念を持ち続けるというのは、思ったよりも悪くなかった。おかげで、自分にとって他人を好きになるとはどういうことかを言語化できたし、他人尊重することを身をもって学んだ。

一人の女性を好きになり、それを軽蔑されたり馬鹿にされたりしないこと安心感を、自分はたくさんの悩みに取り組む支えとしていった。僕は、このカウンセラーのことが好きになれて、本当によかったと今でも思っている。

カウンセリングを通じての自分認識の変化

過去のどのようなつらい経験も、自分はそれぞれ意味があったのだと、迷いなく考えられるようになった。それから、今までは様々な物事を与えられて当然だと感じていたが、やっとのことで与えられた物事感謝することを学べたように思う。

また、自分の恐れの感情トラウマにとらわれずに行動できるようになったことで、自分の外側の世界に対して、うまく働きかけることができるようになった。

もちろん、上に書いたような悩みのなかには、直接解決しなかったものもある。でも、それはそれで仕方がない、と受け入れられるようになった。

何よりも現実検討能力がついた。不安不安のままかかえておけるようになり、不安で頭が真っ白になることがほとんどなくなった。自分の中の膨大な不安エネルギーが、落ち着くべき場所を見つけたかのようだった。

上記の悩みに自分は具体的にはどんな答えを見つけていったか

悩みの解決過程言語化するのは難しい。自分の考えがどんな風に変化していったかを記すにとどめる。人によってたどるべき道のりは異なるし、僕の頭の中の理屈をそのまま文字にしても、納得できないことは十分に考えられるからだ。

過去いじめ、対人関係トラブルはとても悲しいものだった。でも、おかげで自分は人をできるだけ傷つけないようにしようと心掛けられるようになった。それと同時に、絶対に誰のことも傷つけない発言表現というのも無理だとも知った。男性であれ女性であれ、相手を一人の個人として尊敬することが大切であり、それは自分相手は異なっていると認識することだ。だから、できるだけ丁寧に接することは大切だけれども、自分他人は別の存在なので、礼儀正しくしていたとしても、絶対不快な思いをさせないでいることは不可能だ。かつての自分は、自分女性から不快な思いをさせられた経験から絶対女性を傷つけてはいけないというルール自分に課していたのだけれども、それは不可能だと知った。過度に自分を縛る目標は、ある種の呪縛だ。

それに、世間はいろんな女性がいる。優しい人、冷たい人、知的な人、ちゃらんぽらんな人。一人の女性自分暴力を振るったからと言って、そうでない人もたくさんいる。女性一般や平均的女性像みたいなものに、振り回されなくなった。

フェミニズムとの距離感もうまく取れるようになった。納得できることはうなずき、わからないことについては調べ、おかしいと思うことには反対する。それは、フェミニズムだけではない。自分とは違う考えの相手に対する対応の仕方と全く同じだ。

仕事に関しては、転職をした。自分能力に見合った仕事に切り替えることでやりがいも感じられるようになった。給与は下がったが、例えば600万稼ぐ人間が300万稼ぐ人間の2倍偉いのかといえばそういうわけでもないし、僕にとっての一番大切な価値観は、早寝早起き快食快便が守れる生活が維持できるかどうかだと知った。

男らしくないのではないか、というのも気にしなくなった。世間価値観がどうあれ、自分が好きなことを好きなようにする。自分らしくあることが自分にとって男らしいことと定義しなおした。

その中で、家族との関係改善した。今にして思えば、両親は自分と非常に適切にかかわってきてくれた気がする。圧倒的にすがりたいと思っていた両親も50~60代のただの人間なのだ、と実感することができた。しかし、ただの弱みもある人間からこそ、大事にしたく思えるようになった。距離感が適切になった気がする。

処女厨ロリコンも治った。正確には、そういう願望があることそのものに対して、思い悩まなくなった。一つには、50代の女性に恋をすることで、実際に小学生恋愛したって、物足りなくなるに決まっていると心の底から理解したというのがあるし、人生経験豊かな女性の魅力に気付いたのもある。さらに、処女厨の根源にあった、「セックスとは汚いものだ」という意識も弱まった。「セックス気持ちよいものだし、誰かを愛することは素敵なことだ」という感覚しかなかったら、処女喪失を汚れとは認識しないだろう。それよりも、出会った二人が新しく一緒に思い出を作っていくことの喜びに目が向くようになった。まだ彼女はできていないけれども、一緒にデートしたり、他愛のない話をしたり、うとうとしたりしたいし、それに向けて今でも努力している。

女子小学生の裸を見たいという感じもほとんどなくなった。確かにあの年頃の女の子かわいいけれど、それだけのことだ。どんな感情を抱こうとも人間自由だと思えるようになったことで、かえってそうしたロリコン的な願望から自由になった。

同時に、野外オナニー願望も消えた。なんというか、得体のしれないドロドロした性欲のエネルギーに、適切な形が与えられた感覚がある。よく夢で、性器露出したり全裸になったりするパターンが多かったのだけれど、カウンセラーと話すうちに「おちんちん見せるだけじゃ意味ないよね?」みたいな話になり、そうしたことを話しているうちに、セックスって相手あってのことだよね、みたいな認識に到達した(このあたりの話が非常にわかりにくいのではないかと恐れている。ラポール、とでもいうのだろうか、クライアントカウンセラーの間には、長い間の会話の積み重ねからくる膨大なコンテクストの共有があり、ある種のツーカー関係が出来上がっているので、会話だけも書き起こしても非言語的な部分が多くを占めていて、客観的にはわかりにくくなりがちだ)。

死への恐怖は、とりあえず先送りされた。これは個人的な経験だけれど、死ぬのが怖くてたまらないときというのは、何か大きな変化を恐れているときか、未知のものに飛び込まなければいけないときに強まるような感覚がある。

カウンセリングを終えたきっか

カウンセラーには日々の出来事を何でも話すことができたが、別にカウンセラーに聞いてもらわらなくても、別に大丈夫になってきた。さらに、ここで話をしても、これ以上自分は楽にはならない気がするようになってしまった。

とても感謝はしているけれども、自分自分を励ます考え方ができるようになっていて、あとは毎日出来事淡々カウンセラーに報告するだけみたいになっていた。

というのも、自分の悩みを解決できるのは、最終的には自分だと思うようになったからだ。話を聞いてもらって勇気をもらったり、現実的なアドバイスを受け取ったりすることはあったけれども、実際に行動するは他ならぬ自分なのだ

ならば、これ以上ここにいても、自分は変われないのではないか、という気がした。そして、3月という区切りのいい時期であったので、そこで終えることにした。

最後にもう一度風景構成法を行った。山には緑があふれるようになり、街には人がたくさん姿を見せるようになった。蛇は道や川のうねりへと姿を変えた。困ったときには駆け込めるような病院や、芸術を鑑賞できるような美術館も街に描かれていた。そこでは、たくさんの人々が連れ立って歩いていた。ずっと住み心地のよさそうな風景だった。

そして、僕は無事にカウンセリング卒業した。

続き→ anond:20200320072823

2020-03-17

競技プログラミングが好き、AtCoder社が苦手。

私は競技プログラミングが好きだ。AtCoderコンテストも質が良く私は好きだが、AtCoder社の役員がどうも好きではない。

高橋氏はAtCoderのために、競技プログラミングのために尽力しているのはひしひしと伝わってくるが、軽率発言も多い上、女性関係価値観等どうも人となりが苦手だ(人格攻撃になっているが、そもそも主観の話なので許してほしい)。

青木氏は本当に論外で、もう少し自分AtCoder社の役員だという自覚を持って発言をしたほうが良いのではないかと思う。言論の自由があるとは言うが、それは無責任発言をして良いという意味ではない。公式として発言したいならば発言内容には気をつけるべきだし、公式として発言したくないのならば、AtCoder役員としてのTwitter発言するべきではないと思う。あれは甚だ不快であり、高橋氏もなぜ放っておいているだろうか。

このエントリを書きたい気持ちとなったきっかけとなったのは、本日AtCoder社が実施した生放送だ。恐らく今後AtCoderをどうしていきたいか等を話したのであろう。少し見たが、どうしてもイライラしてしまって見ることができなかった。この試みは当然多くの運営好意的に捉えているAtCoderユーザーにとっては良いことだと思うが、私にとっては私がAtCoder社が好きではないということを再確認させることとなった。

好きなコンテンツ運営が苦手という状況はかなり辛い。本人たちにどうしろというつもりは勿論ないが、これからこれが原因で興味を失ってしまうのが怖い。(無趣味にはなりたくないので……)

それとも新しい趣味を早く見つけたほうが良いのだろうか。

p.s. すぬけさんは好きです。

追記:こどふぉに行けば良いと言われているが、当然こどふぉも出ている。SRMやyukicoder、chef等にも出た上で、やはりAtCoderコンテストが好きだ。AtCoderに出ないようになったら、自然競技プログラミングもやめてしまうのではないかという漠然とした不安があるというのが正しい。所詮その程度の趣味なのかと言われれば反論余地がないが、それでも競技プログラミングが好きなことは確かで、できれば続けていたいのだ。

2020-03-14

anond:20200314090900

そもそも勉強してどんな良いことがあるかってのを知らないと、こういう現象があると知ってやらない気がする

親や学校はそこを教えてくれなかった

いまのうちにやっといたほうが良いとか、将来の選択肢が広がるとか、漠然と言われてもわかるわけねえわ

2020-03-13

過去のつらい思い出の話をする。

おはようございますこんにちは。こんばんは。

わたし最近になってやっと意識を獲得した人型の動物です。

などとおかし自己紹介になってしまったのには理由がありまして。

というのも、わたし人生を振り返った時、そのうちの半分は「自らがおかれた環境下で生きることにいっぱいいっぱいだった動物」だったというのを最近になって自覚したタイプの生き物だったからです。

この気付きから過去記憶フラッシュバックが止まらなくなり日常生活が滞ってしまった為、こうして書き出すことにしました。ネットの海に流して供養することが目的記事になります

友人や知り合いに吐き出せるような話ではないし、読んでいて気分が良くなるものでは決してないのと、あくまで「わたし」の為のごくごく個人的文章であることを理解された上で読み進めてください。

また、精神的なネグレクトを受けたと感じた側からお気持ちなどがあるので、そこら辺を見て落ち込みそう/気分を害しそうな人は見ない方がいいと思います

書こうとしたはいもののどこから話せばいいのかな……そうだ、きっかけですね!

これを思い返すことになったきっかけは兄を相手家族の話をしたことだと思います

わたしは兄と二人兄弟で、小さなころから同じ家で過ごしました。兄もわたし所謂オタク趣味にしていて、いつも何かしら共通話題があり、この日もひょんなことから幼いころに感じていた家族についての話になりました。

この書き方だとあまりそういう風には見えないと思うのですが、兄とわたしが話すとき父についてのシリアスな会話はタブーのようなものでした(少なくともわたしはそう感じていました)。なのでこのときわたしは、もう2人で擦り合わせをする機会はこの先訪れないかもしれないと思い、勇気を出してシリアスな話を切り出しました。

真っ暗な井戸の底のほうまで下ろしたと重い桶を、慎重に引き上げていくような心地でした。

家族構成するメンバー祖母、父、母、兄、わたしの5人。祖父もいましたがわたしが幼いころに亡くなった為、「わたし家族」と聞いてまず頭に浮かぶのはこの面子です。

兄と話していて思い出したのは毎晩の食卓のこと。始まりはいつも概ね穏やかな食事でしたが、時間が進むにつれわたしの緊張感は高まりました。

それはなぜか?

答えは「父と祖母の怒鳴りあいがいつ始まるかわからいから」です。

間に母が入り両者を宥めるところまでが1セットの物騒なコミュニケーションは、晩ご飯時間中にどんなきっかけで始まるか、どのくらい続くか、何回起きるかなどわからない尽くしのハリケーンみたいな現象でした。

簡単喜怒哀楽にうっすらとした自我ふりかけただけの「小さなわたし」にとって、父と祖母が行う激しい親子のコミュニケーションは「こわいこと」として分類されたんだと思います。それがほぼ毎日続くうち「一日の終わりに起こるうんざりすること」にもなったのは自然な流れだったんじゃないかな。繰り返し体験するうちにその特殊コミュニケーションに巻き込まれるのも、火種になるのも嫌で、食卓の上で誰かに会話を振られても可もなく不可もない答えを返していたし、誰かの琴線にふれてしまわないよう、割とつねに気を張っていました。

自分食事が終わるとすぐに「ごちそうさま」と言って食器を下げて、兄と一緒に別の部屋へ退散しました。まあ古い家だったので別の部屋へ逃げても怒鳴り声が聞こえてくるわけですけれども。

なぜにこにこと笑っている父や祖母が、一瞬で鬼の形相になってしまうのか。

「それはそういったコミュニケーションの形なんだよ。二人はちゃんと仲が良いか大丈夫心配いらないよ。」

などとハグしてもらったり、教えてもらうきっかけもないまま体験する毎夜の嵐は、わたしの心を大変疲れさせたのではないでしょうか。(ないでしょうかってなんだよって自分でも思うんですが……そのころにあったであろう学校行事や友人とのこまかい記憶などがうすぼんやりしか残っていない為「ないでしょうか」としか言いようがない……)

また怒鳴りあいコミュニケーション祖母と父の間だけではなく、父と母の間でも行われていました。父母の特殊コミュニケーションの日程は決まって土曜日祝日開催。つまり顔を合わせて長く話すようなことがあると、口論としてヒートアップしていったわけです。

小学校から帰ったら夜ご飯と共に家族口論。土日祝日は両親の口論ランダム勃発、のちに夜ご飯タイフーン上陸

以後、このうんざりするようなタイムスケジュールわたし高校卒業してから少しするまで延々、ずっと毎日、十数年続いていきます

たここまで読んでうっすらとお気づきの方もいるかと思いますが、これはコミュニケーション値が大変低い家族の中でなるべくしてなり、起こるべくして起きた地獄しかない日々の思い出を吐き出す記事でもあります。この先も気をつけてください。

そうなんですこの家族、全員が全員ともコミュニケーション数値がおそろしいほど低かった。

ここでいうコミュニケーション値が低いというのは「人との関わり方が上手くない」ということで、人に頼る方法での問題解決能力が著しく低いことを指します。

別の言い方をすると「感情を消化させることが不得意」であったり「困ったことは大体自分一人で解決しようとすること」にあたるのですが。なんとこの家族祖母、父、母の3人が3人とも「本当に困った時は家族相談せず自分一人で決断するタイプ人間」だったのです。

少なくとも小さい子供の前で困ったときに「困ったな~」と息抜きにでも呟くような人間がいませんでした。口下手なので子供の前でふざけることとか本当になーんにもしないの。かっこいい大人背中を見て育てってか?え?口から言語を扱ってから言え!バーカバーカ!

失礼、話が逸れました。

それで、そんな大人の姿を見て育った「わたし」という子供はどうなったのか?

家庭内で困ったことがあっても家族相談してはいけないんだ」とすっかり思い込んでしまいました。

するとどうでしょう自分が困ったときにどうしたらいいのかわからなくなり、解決の糸口がガチでわからず、何かあると問題には触れず解決を先送りにし、心に不安わだかまりを抱えたまま癒し時間に任せて過ごしていくことばかりを覚えていったのでした。

おしまい

……いやもちろんおしまいなんてことはなく、「わたし」の人生はそこで終わらず続いていったので、普通に人との接し方がよくわからない人型の喋る動物が大きくなっていっただけなんですが。(なんですかこれ、言葉にするとめちゃくちゃ怖いな……)

途中でなんとかならなかったのか?という問いには「残念ながら……」という回答しか差し上げられないんです。本当に。残念ながら。

そもそもなぜなんとかならなかったのか。

それは「わたし自我形成される期間中、親への信頼なくなったこと」が多分大きく関係しています

わたしの両親は共働きで、週休2日の週5勤務。母は帰宅したら少し休憩をしてご飯作りを始め、父は帰ってきたら風呂に入ってご飯の前の晩酌をする。まさにひと昔の夫婦って感じでした。

これだけ書いたら「なんだ、普通家族じゃん」って感じなんですが。ここに「夫婦はどちらも自分一人の時間がないとしんじゃうタイプ人間で、作業趣味息抜きも一人で没頭したいタイプ」、「なお2人は仕事クタクタ疲れたコミュ障」という特性が加わると、どうなると思いますか?

結果をお伝えすると、2人の隙を見ては今日の出来事や楽しかたこと、悩み事などを話そうとしていた幼いわたしが、見えないシールドにはじき返されて転ぶばかりになりました。あと癇癪持ち酔っ払い相手(酔った時に話したことは覚えていないタイプ)にする真剣な悩み相談ほど、面倒で参考にならないものはないですよね…。(遠い目)

また、このインターバルにも思える時間を逃すともうだめです。チャンスはありません。最初の方に書いた、いつ雷が落ちるかな?ドキドキ☆晩ご飯タイム()になってしまう為、まともにお話しできるような時間おしまいです。解散

そして「何よりもただただ話を聞いてほしかったわたし」はこのころの経験から、そういった方面での親への信頼をじわじわと減らしていきました。もともとの内向的性格と、両親からいつ発せられるかわからない大きな声への苦手意識ゆえに、その不満を爆発させるような機会もなかった為だと思われます。我が子からのそういった信頼値がマイナスに傾いているなんて事実、両親は知らずに生きていることでしょう。わたしも今更そのころのことを知らせて、改めて地獄を見る気はまったく以てありません。

ちなみに、わたしは小さなころから「手のかからない」と評されてきたタイプなのですが、実情は「親への信頼度の低さゆえに何も話さなくなった子供」になります

忘れられない話なのでついでにここに書きますが、高校性のころ三者面談で割と信頼していた担任

おたくのお子さんのように子供を育てるにはどうしたらいいですか?」

と父を持ち上げたとき

「いやあ、放っておいただけですよ。」

と照れ臭そうに答えた映像がいまだ焼き付いて離れないんですね。「心の底からやめたほうがいい。」と思ったけど、そのときにはもう心の開き方がよくわからない動物になっていたので(あと不意打ちのショックで)、そのことを担任には伝えられなかったことが心残りでならないです。

(他にも、親がわたし子供のころの「手がかからなかったエピソード」を良き思い出のように話すのを聞く機会があると、心が荒れ狂って獣のようなかたちになってしまうんだよなあ。いつか本物の虎にならないよう注意します。)

あとこの記事を書くきっかけとして兄との対話がありましたが、兄曰く

高校大学くらいまでの記憶がとんとない。」

ということだったので擦り合わせのようなものはかないませんでした。ちょっと残念でしたね。



閑話休題

こんな環境の下でグレる気力もなくしたわたしが、体だけはすくすくと立派に育ち、高校生くらいになった時の話でしょうか。

父が仕事で体調を崩し、自宅で過ごすことが多くなっていたころです。

いつものように休日を家で過ごしていた両親とわたしが昼食を食べていたときわたしにとって衝撃的な事件が起きました。

ふいにしゃっくりを出てしまった母、それを見た父が

「母のしゃっくりは相変わらずかわいいな。」

と言ったのです。

…………h、?は?

ハァ????????????????????????????????(フォントサイズ最大)(太字)(赤色)

と、そのときは思わず内心ではバチクソにブチ切れる若者になってしまいました。その後「えへへ…(照れ)///」みたいな態度を返した母に対してもです。

突然のことに(非常に残念ながら)体は驚き固まり動かず。突然見せつけられるリアル夫婦の惚気(十数年間生きていて初めての!)とのにテンションの差でしにそうになりながら、息をするのがやっとだったわたしは、心の底から思いました。

お前ら仲悪いのんちゃうかい、と。(太字)(赤色)

その後わたしの遅めでささやか反抗期挨拶や会話を振られてもちゃんと返さない(面倒な人間相手にぶつかり合うのが面倒になっている為こうなりました)」が発動されることとなりました。

また、今思い返してみればという話ではありますが。

わたしの両親は「限りなくマイペース自分のペースが保てないとストレスを溜め爆発する」、「一人の時間がないとしんでしまタイプ」、「作業趣味息抜きも一人で没頭したい人間」、「疲れるとコミュニケーションの余裕がなくなる(もともとのコミュニケーション許容量が多くない)」という属性のほか、

「親である前に恋人

という隠れ属性を持っていたわけですね!すごい!

もっと早くに知らせてほしかったな~~~~~~~~~~泣きそう!!!!!!!!!!!!!(もう泣いてる)

幼い子供の前で十数年!ガチシリアス雰囲気で怒鳴りあい時に片方と見ていた子供不安で泣くようなギスギスした特殊コミュニケーションが?!痴話喧嘩だったなんてことあるか?!?!?!?!?!?!!!知るか~~~~~~~~い!!!!!!!も~帰らせていただきますわ~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!(実家が住む家)(秒で顔合わす)

ハァ……ハァ……

すみません、取り乱しました。

冒頭に書いた通りですが、最近になってやっと比較ちゃん人間としての心が正しく揺れ動くようになったので、これが「怒り」であり「悲しみ」だというのを”理解”して”発露”してしまいましたね。フフッ ウッカリウッカリ☆(棒読み)

そんなこんなでややダウナー気味の反抗期を迎え、両親との溝を更に深めたわたしですが、更なる問題が発生します。

私が大学に入ってすぐのころ、父が亡くなりました。

大病の末の結果なので、家族として心の準備はできていたと思っていたのですが、それでも誰かがいなくなるのは悲しいですね。

などと心から人間味のある言葉が出てくればよかったのですが、そんなことはなく。ただただ日々感じていたひとつ大きなプレッシャーから解放された自分の心を、不思議な目で眺めるわたしがいるだけの生活になりました。

特に大きく日常が変わることはなく、このまま過ごしていくと思っていました。しかしそのときわたしは気づいてしまった。

「あれ?もしかしてこの先もずっと生きなくちゃいけないのか……????」

そう、そこでわたしは「自分人生真剣に向き合うということをおろそかにしていた」ことに気づいてしまいました。

「家でプレッシャーを放ち続ける父母祖母のご機嫌を伺いその日その日を生きること(解放されるのは外出時と寝る時)」に人生の大半を費やしてきたわたしはどうも「自立する」、「新しいことに挑戦する」、「ペットを飼いたいと交渉する」など、両親との長めの話し合いが発生する場を悉く避けて通ってきたようです。本当に、ここまでまったくの無自覚でした。

まあ気づいたところで急に何かに目覚めるわけでもなく、まずもって気力がないので出来るわけでもありませんでしたが。「このままじゃいけない気がする」という漠然とした焦りから映画漫画アニメなどの創作物に対し、心新たに触れるようになりました。(もともと漫画アニメなどは好きで小さいころから見ていたんですが、日常からの逃避先がそこだった為か、内容を覚えていたりいなかったりするんですよね……記憶がない状態で楽しむアニメ漫画、めちゃくちゃ面白いよ!ヤッタネ☆)

その後なんやかんやで就職できて、何年か社会人経験し、先輩や同僚にもまれたり気の合うゆかいオタク友達との出会いがあったお陰で、やっと「人語を話すけど意思の疎通がはかれない人型の動物から「たどたどしいがやろうと思えばなんとか意志の疎通がはかれる人型の動物」にクラスチェンジできました。

こんなクソ重いありがとうを直接伝えることは憚られるので、ここで叫ぶことをお許しください。

特にかいオタク野郎のみんな~~有難うな~~~!!!これからも仲良くしてくれるよう頑張るよ~~~~!!!!!

相変わらず親に似てコミュニケーション容量が低いままではあるけど、それも含めてなんとかやってます。(しかしここまで来るのがあまりに長かったので、これまでに大変なご迷惑をお掛けした人のことを思うと、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当にすみません。もうこんな(わたしを始めとした)人間未満みたいなもの出会わないようにと祈っております。日々が穏やかで良いものでありますように。)

自分では上記にある辺りの激しめの感情はとっくに昇華されたものだと思っていたのですが、疲れて余裕がないときバラエティなどを見て笑っている母をみると無性に苛立ち、シリアスに泣き出したくなってしまときがありますちょっと危険だなぁと思っています一種ボーダーラインだと思ってそういう時は寝て回復に努めるのですけれども。

この文章を書きながら全然昇華されてなくて自分でも笑ってしまいましたし、いつか本当に追い詰められた時に有事引き起こししまうようなぼんやりとした予感がありますお金が貯まったらちゃんと離れて暮らそうと思います。お互いの為にもね。

また未だに「健康精神状態運営された家族という団体」への憧れは強くあるようで。

誰かが手掛けた創作物キャラクターが心通わせる表現にふれると、あまりに眩しく尊く感じ涙を流したり、TLで健全コミュニケーションが成立し、信頼関係が成り立ったご家族アカウントを見かけると「本当に実在し(ていてくれ)たんだ」と感動してしまます。なんか、アレだ……太陽の光に当たってぼんやりと、あたたかく眩しいなと感じるような瞬間に似ています存在していてくれて本当に有難うございますわたし勝手に救われています

繰り返しますがこの文章は、それなりに情緒が育ちその当時の感情言語化、過去の振り返りおよび分析ができるようになってきた「わたし」が、その気づきとともに過去自分感情に圧し潰され、溢れだす記憶に涙が止まらなくなり、座り込んでしまった「わたし」のための個人主観記事です。

今何かに苦しんでる「あなた」を追い詰めるためのものではないので、もしもここまで読んでちょっと苦しくなっちゃった人は、とりあえず体をあたたかくしてゆっくり休んでほしい。休んで。寝て忘れてね。どうぞお大事に。

ときどき思い出に苦しめられつつ、寝ずに一気にこれを打ったので、ところどころぐちゃぐちゃな文章になっていると思うのですが、ここまでお付き合いいただき本当に有難うございました!

こんなところまで読んでくれたあなたにも、ちょっと良いことがあるといいですね。

それでは。

2020-03-12

彼女いない歴15年だった僕がマッチングアプリ結婚するまで

あくま自分自身しか当てはまらないので自分語りとして残す。

スペック

32歳男性

179cm 72kg

中肉中背

公立院卒

顔立ちを褒められたことはない

ここに至るまでの経緯

彼女いない歴15年と書いたが高校の時に同じ部活女子

1年ちょっと付き合っていただけ。

童貞はそこで捨てたが大学社会人と何もなし。

彼女じゃない人とやれたか委員会的な展開があるわけでもなく、

妻に驚かれたが風俗の類も一切利用していない。オナニーはしていたが。

女性から好意を持たれたのは何回かあったが、

やっぱり自分好きな人とじゃないと付き合えないな、と思って断っていた。

大学社会人になってから趣味サークルも、好きな人はいたが

そういう人にはだいたい相手がいたか、何度か食事に誘ったけど無理な空気を感じて引いていたか

要するにチキンである自分の顔に自信がないのが一番の理由だ。

20代後半に漠然結婚したいと思い、婚活っぽいことをするも全玉砕

転職等の休止期間を挟んで再開し見事成功した。

婚活の種類と戦略反省点など

合コン:25-28歳くらい

10回くらいかな。

でも結局男性側(ライバル)が「年齢や社会的ステータスが近しい人」になるので

差をつけるのは顔面なんじゃ?と思っている。

話が盛り上がった人と2度3度ご飯に行くことはあったがその先が続かず。

最後に参加した合コンでで「父/彼氏/兄/弟/ペットにするなら誰?」みたいなゲームをやらされて

全員からペットにされたところで合コンのもの絶望して行くのをやめた。

今思えば、もっと軽い気持ちご飯や遊に誘ってみればよかった。

誘う=交際前提、みたいな気持ちがあって、

多分向こうは嫌いじゃないし行ってみるかくらいで来てるのに

鼻息荒い俺がガンガン来たらそら引いていくわなという。

Omiai28-29歳くらい。

1年くらいやってた。

当時は年収570万くらいだったけど、ちょっとだけ盛って600万~800万にしてた。

それ以外のプロフィールは盛ってなかった。年収検索条件は結構強いだろ?

こちからイイネをつけて向こうも返してくれるのは2割くらい

向こうからイイネ結構来たが、こちから返すのは5%もなかったかも。

メッセージ交換が続いたのはは30人くらい、会ったのはその半分くらい。

基本的には1回ご飯食べに行って、

連絡したけど向こうからやんわりと断られたのが2回くらい、

お互い察してフェードアウトしたのがほとんど、

何度かご飯に行って向こうはOKっぽかったけどこっちがちょっと違うかな、

となって先に進まなかったのが3回くらい。

転職しようとして両立できなくなってやめた。

敗因は、かなりメセージ交換の期間が長く、とにかく盛り上がってから

(要は会うこと自体断られないくらい続けてから)食事に誘っていたこと。

メッセージ期間で気持ちが盛り上がってしまって、会ったときはうーん...

みたいになることが結構あった。もちろん会ってみたら俺が残念だった可能性はある。

向こうの写真詐欺みたいなのは1人2人いたくらいかな。

友人の紹介:28歳くらい

これは1人だけ。友人の結婚式で最近そういうのよく行ってる、

という話をしたら「じゃあ私の友達紹介するよ」と言われて会った。

住んでいる場所が離れていたので実家に帰るタイミングで会ったけどその後連絡が来なくなった。

金曜の夜でお店が全然空いてなくて彷徨って微妙な店の微妙な席だったのが申し訳ない。

街コン:29歳~30歳くらい

1回目は20代限定に行けなくなる、という理由彼女なしの友人と参加。

一緒に参加した友人のおかげで街コンあとにも1組一緒に飲みに行ったりして結構盛り上がった。

最初に同じテーブルについた女の子と何度か3回くらいご飯に行って、

映画を観に行こうとしたけど当日にドタキャンされて音信不通

その後半年くらいして向こうからLINE来たけどさすがに無視した。

2回目は1回目に参加して半年後くらい。東京駅だった気がする。

参加者が多く、店も多いことを謳っていたが、いざ蓋を開けてみると

女性参加者全然集まっておらず、3:2くらいの比率

しかも始まってからお店チェンジタイミング女性は減り続け、

店で男6人で「全然来ないっすね」とか言って仲良くなったりした。

「次の店では女性グループにするんで」って言われたのに

結局次の店でも男だらけになったところでスタッフ文句言って退店。

この経験がクソすぎて街コンには2度と行かないと決意するが、

この時一緒に行った友人は翌月別の街コンで会った相手結婚した。

マッチングアプリ31

転職し、仕事にも慣れ、更に仲の良い友人グループが軒並み結婚すると聞いて

さすがに焦りが出て婚活を決意。アプリ婚したやつに聞いてゼクシィ縁結びに登録

以前(Omiai)の反省を活かし、2ヶ月で相手と会い、3ヶ月で付き合って退会し、1年で結婚した。

マッチングアプリにおける具体的な戦略

写真旅行とき友達が撮ってくれた自然笑顔のもの

趣味でやっているサークル活動のものなどを使った。

これのために撮ったりとかはしなかった。あんまりキメキメなやつもウケは良くないと思う。

(自分相手のやつを見るときでも明らかに写真館で撮りましたって人はイマイチ響かなかった)

年収は780万だったけど800万~1000万に盛って登録した。

婚活において年収大事でしょ?まぁ次の昇給で乗ったから許してほしい。

年収が上がったからか、恋活から婚活になったからか、前回のときより明らかにイイネが増えた。

無料イイネを使い切ることもなく、流れてくるプロフィールをあるなしで振り分ける作業

自分プロフィールでもそうなんだが、文章を見ているとその人の性格がなんとなくわかる気がする。

丁寧である程度教養のありそうな文章の人はやはり好感が持てる。

ただ、プロフィールに全部書いてしまうとそのあとメッセージが続かなくなるので

あんまり具体的すぎる話はしなくて、最初は書かなかった箇所を膨らませてメッセージをしていた。

メッセージが続いたのは20人くらい、実際に会ったのは3人。

メッセージを2週間くらいしてからご飯を食べに行く約束をした。

ここも長すぎると会ったとき話題がなかったり盛り上がりのピークが来てしまうため、

会話のテンポとか、変な人じゃないのがわかったタイミングご飯に誘った。

OKをもらったタイミングLINEを聞いて移行。

ご飯に行って盛り上がった相手とは10日後くらいに仕事終わりでご飯に行って、

その次の週末もう1回遊びに行って告白して付き合った。

マッチングアプリ不特定多数とやり取りしてるだけに、

印象に残るためには間隔をあけないように、人に取られないように

とはいえガツガツしてる感じでもないくらいの距離感を取った。

地元や好きな食べ物、行ったことある場所なんかの共通点が多い人と

たまたますぐに会えたのは幸運以外の何物でもないと思う。

2020-03-11

7歳年下は恋愛対象だけど、7歳年上は眼中にないみたいなの

当方28の男。冷静に考えたら7歳年上の女性のほうが自分に合ってそうなことに気づく。コミュ障から若いエネルギーが苦手だし、子供はどっちでもいい、養子でもいいので。

でもなんか7歳年上の女性ってなるとやっぱ抵抗感めちゃある。年下だったらいけそうとか漠然と思う。でも実態はそうじゃない。不思議

2020-03-10

婚活つらい。愚痴

27歳女。地方在住。資格従事

とにかく婚活がつらい。つかれた。

自分スペック

容姿ごくごく普通

専門職(年収600万前後)

学部

料理家事できる

フルタイムでの共働き希望(小さい頃からの夢だった職業についているので、辞めたくない。一生続けたい)

デブハゲ可 (むしろデブ男性は好き)

男性側の年収は問わない。真面目に働いていればよい

婚活を始めた頃は、「私はそんなに高望みしてないはずだし、うまくいくはず」などと漠然と思っていたが、現実は厳しかった。

まず、婚活パーティー男性に会うたびに「ええ……年収すごいですね…(引き気味のトーン)」から会話が始まる。つらい。

正直言って職種的にごく普通レベル年収なのだが、

いかんせん、ここは地方都市なのだ。(都内などと比べると賃金相場が全体的に低い)

結果として、婚活マッチングする同年代プラス10前後男性年収の1.5〜2倍の年収ということになってしまっている。

そのせいなのか「男として劣等感が…」「結婚しなくても1人で生きていけるのでは?」「自立しすぎてる」などと言われて振られること多数。既に20回くらいは言われてる。悲しい。

本当に毎回毎回、収入がバレた瞬間に男性の態度が急変しまくる。なんなのこれは…。

なお、収入ドン引きしないでくれる男性もいるにはいるのだが、

ヒモ希望 (主夫でなくヒモ家事も何もかも私にやってほしいらしいぞ。ふざけんな一生ママに面倒見てもらってろ)

義実家家計と支えてほしいし介護家事も全部してください系男性 (家に金を入れてくれる家政婦がほしい系)

年収500万以上男性 (しかし高確率…というかほぼ全員が「結婚したら家庭に入ってほしい」と言う。地方都市なので考え方が未だにこういうタイプの人は結構多いようだ)

上記の3択状態になっている。いや無理。

「まともな独身男性そもそも結婚しようと思わない or 既に結婚しているのだから婚活市場にいる人の9割はヤバい奴に決まってるじゃない!!」

これは学生時代の友人(同じ資格職女。独身。同じく婚活連敗中)に言われた言葉なのだが、とにかくグサグサ刺さる。つらい。とてもつらい。

職場出会いは無い(職場男性は大半が既婚高齢者。知り合う独身同業者も大抵専業主婦結婚したがっている)し、かといって婚活パーティー婚活アプリも全くダメ………

地獄だ〜…

2020-03-09

ホームラン

2,3か月前からホームランを打つ妄想をしている。野球経験はないし、する予定もない。バッティングセンターにもいかない。イメージトレーニングと呼ぶとその先に実践があるように感じられるので妄想と呼んでいる。

ホームランを打ったらきっとスカッとするだろう。そう思って妄想している。理由はそれくらいだ。スカッとしたいのだと思う。

ずっと妄想を続けていると変化があった。最初はただ漠然と球を遠くに打ち上げイメージしかなかったのだが、段々バットをどう振るか、腰の入れ方はどうか、足の動きは、と体の動かし方に注意を払うようになり、最近ではピッチャーの姿や位置想像できるようになってきた。

妄想のものが上達したのか妄想の中のバッティングが上達したのかわからないが、上達というものは嬉しい。妄想の中での打球が以前より遠くに飛んでいる気がする。

2020-03-07

anond:20200307182625

そういう思考パターン、うちの母親に似てるかも。夫の希望子ども希望をかなえてやろうということを人生の最優先事項にしているうちに自分が何したいのか分からなくなっちゃってるの。

でも漠然と「こういうのはイヤだ」「こういうものが欲しい」というのはあるらしくて、例えば一緒に旅行に行こうと行き先をいくつか候補に挙げると「ここには興味がない」とか主張してくる。あと、親子だけあって、私と嗜好が似ているところがあるらしく、私が自分用に買ったものを見せると羨ましそうな顔をすることがある。私が買ったものを見て初めて、「あ、こういうものが欲しかったんだ」と気付くらしい。自分デパートかに行くと「欲しいもの全然ない」とか言うのだが、欲しいもの漠然としすぎてちゃんイメージできてないのと、そういうものを売っている店を探すのが下手なように見える。

元増田友達家族から持ち物を見せられたり、「○○に旅行に行った」という話を聞いて羨ましいと思うことはないの?あまりお金に困っているようではないので、とりあえず羨ましいと思ったらちょっと真似してみたらどうかな。

2020-03-05

俺もお前らも、多分意味不明な行動を取っているときはあるだろう

仕事ができなさすぎて部署の敵、宇宙人怪物くらいに見なされてる後輩がいた。

指示されたことをできないし、「なんでそんなことやったの!?」みたいな余計なことを相談せずに勝手にやるし、とにかく苦しめられた。

なんでメモ取らないの?なんでかえって周りの手煩わせる行動を勝手にとったの?

いかけると、萎縮するでも理由説明するでもなく、呆けたような不思議そうなリアクションで後輩は首を傾げていた。

こいつ自由意志がないのか!?と身の毛がよだったのをよく覚えている。

ついこの前の休日、俺が早朝に出かける支度をしてると起きてきた嫁が驚いたて言った。

早起きしてどうしたの??」

「いやあドラッグストア並ばなきゃ。マスク買いに行く」

 

そしたら嫁がビックリ呆れて言った。

「うちはまだあるでしょ笑 本当にない人いるんだから中止!! 何言ってんのよもう笑」

えー?まあそうか。うーん。

そんなふうに思って結局行くのやめたんだけど、俺の行動が冒頭の後輩と同種であることに気づいて驚愕した。

家にマスクストックがまだ結構あること、本当にマスクを切らしている人が優先されるべきだという常識への賛同、これらが俺のなかにあるのにも関わらずなぜドラッグストアに行こうとしたのか自分でも全くわからなかった。「なんとなく……」としか言いようがない。

多分、どんな人もシチュエーションによっては、他人から「なんでそんなことするの!?」と思われる行動を自分でもなんでかわからずに取ってしまっているのでは?と思う。

クルーズから降りてすぐ寿司屋に行った人も、コロナ陽性後の行動経路確認ウソをついた人も、もしかたらこのくらい漠然としてたのかもしれない。

クソガキ追悼記

中学生の頃の僕は、雪が降ったんだから、何かするのは当たり前だと思っていた。それは僕の中の常識で、誰かの背中を見て学んだ訳でも、道徳時間に教えてもらったわけでもなく、産まれた時から既に僕の脳内インプットされていたんだと思う。絵に描いたようなクソガキで、とにかく楽しい事がしたかった。当時の僕は、楽しい事と面白い事はイコールで繋がると信じていた。クリスマスの夜に、ちょうど雪が降ったので、当時仲の良かった同級生三人組とLINEをして、夜中の11時ぐらいに駅前ロータリーに待ち合わせた。僕は、家の中にある服の中で、一番あったかそうなものを選んだ。防寒対策はばっちりだったが、友達の一人は、真冬にも関わらず、パーカー一枚を羽織ってきた。僕は何も言わなかった。何故なら、彼は、全くそれを不思議に思っていなかったから。ボケてないのに、ツッコむという野暮な事はしたくなかった。僕達は、中学生の頭で思いつく限りの事をした。雪合戦もした。下半身けが異様にデカ雪だるまも作った。無人道路の上を、ソリに乗って滑った。当時「メリークリスマス」の「メリー」の部分の意味がよく分からなかった僕は、とにかく楽しい気分になって欲しかったというのもあって、道中すれ違う人達に、「ハッピークリスマスハッピークリスマス!」と訳の分からない文言を叫んでは、ゲラゲラ笑っていた。頭がおかしかった。今思うと、何が楽しかったのかは分からないが、あの時は確かにしかった。楽しかったという漠然した感情けが記憶の中に残っている。そんな中で、「ハッピークリスマス!」とノリ良く返してくれるサラリーマンもいれば、ナチュラル無視を決め込むOLもいた。でもそんなのどうでも良かった。誰かの迷惑の一部になろうと、自分存在一心不乱にアピールする事が、きっと重要で、こんな事が許されるのは今だけだと焦っていた。僕の人生ドキュメンタリーじゃなく、絶対コメディにしようと思った。途中、スーツをビシッと着こなした30代ぐらいのサラリーマンに、「そのソリ、どこからとってきたの?」と聞かれた。僕は素直に「そこの団地!」と答えた。するとサラリーマンは、深夜の住宅こだまするぐらいの声で、ゲラゲラと笑っていた。あの時のサラリーマンの笑い声も、今でも覚えている。断片的な記憶ではあるけど、あの瞬間の僕は「貴方は癌です。もって1ヶ月の命です。」と言われてもゲラゲラと笑っていたと思う。純粋である事は、人生を楽しむ上で一番楽なツールだと思うが、純粋なだけじゃ、質の良い人生をおくることも出来ないんだと今になって気付いた。22歳になった僕は、フリーターで、毎日ブラブラしている。もしあの時に戻れたら、「そんな事してないで勉強しろ!」って言うんだろうか。僕だけは、僕の今までを否定しない方がいいのか。まだ取り返せる。楽しい事は暫く止めて、資格でも取ろうか。ユーキャンユーキャンマイナビバイト南無阿弥陀仏

敢えて漠然とした話を垂れ流すが

新型コロナ禍とはつまるところ

社会システム冗長性の問題じゃなかろーか。

平時無駄のなさ=有事の余力の無さ。

平時においてはムダなコストとなる余裕を、いかにうまくいろんなところに細かく散らしておくかということ。

まり働き方改革だよ。

正社員いかに定時に帰らすか?なんていう卑近目的意識じゃなく

いか競争力を維持しながら余力を貯められるか?にターゲットすべきなんだよ。

だろ?

現代の著名な社会学者であるギデンズによれば上流階級です。

https://togetter.com/li/1475755

先日、Twitter中流階級自称する東大生炎上していた。

これについて色々と思うところがあったので、身の上話を増田に吐き出そうと思う。

(一応だが擁護のつもりで書いている。読了後には件の東大生がギデンズの提唱通り中流階級に見えてくるに違いない。)

とある地方出身。で、実家は裕福だ。いわゆる「地元の名士」などと呼ばれる家系であるtwitterでは間違いなく「上級国民」扱いだろう。実際そうなのだから仕方ない。実家には代々受け継いできた不動産があり、相当な額の不労所得を得ている。両親の仕事と言えば時折土地建物の見回りをする程度である

私は旧帝大受験に2度失敗し、都内私立理系大学に進学した。親不孝の極み。当時は親に相当な負担をかけることを申し訳ないと思っていた。しかしながら、奨学金なしで子供都内大学に通わせられるのだからそれなりの稼ぎはあるのだろうと漠然と考えていた。甘かった。実際の収入は私の想定していた4倍あった。私の年間の学費生活費など1か月分の収入にも満たない。屁のような額だ。

父は都内私立文系大学卒業後に祖父コネ民間企業就職し、しばらく勤めた後に実家を継いだ。保守的な人で、テレビワイドショー中国韓国話題が上るたびに何かと文句を垂れている。また、「数学なんて勉強しても社会の役に立たない」「ノーベル賞のうち世の中で本当に価値ある研究山中教授iPS細胞だけ、他は全部役立たずの学者のお遊び」が口癖である

母は都内私立文系大学卒業後に地元教師になり、しばらく勤めた後親戚の紹介で父と知り合い結婚して退職。その後はずっと専業主婦だ。

で、教育には人一倍熱心だった。

幼少期から母はあの手この手子供勉強をさせようと腐心していた。

先の東大生都内中流家庭に生まれて恵まれていた事例を十数個挙げていた。こ

2020-03-03

濃厚接触ゼロ

連日、コロナパニックニュースを観てて、

自分には何もない事に気づいた。

どこかのイベントに行く予定もなければ、

誰かのライブに行く予定もない。

友人と会う予定もない。

飲みの誘いもない。

たまに行く立ち飲み屋は、行かなければいい。

温泉に行きたいな」と漠然と思う事はあるけど

具体的な計画は立てていない。


職場と家の往復をするだけの毎日

職場では、ほとんど誰とも話さずにデスクワーク

普段からチャットワークで会話してる。

疲れて、家に帰ってもひとり。

休校ニュースをみて大変だろうなと思うけど。

子供もいない。嫁もいない。もちろん恋人もいない。

もしコロナになったら、私の濃厚接触はいない。

きっと私にうつしたのは誰かを知りたくなる。

2020-03-02

anond:20200302081625

駐輪場が少ない、駐輪場を確保しても電車賃より高い(月1万円前後)、路駐したこといから分からないけど多分すぐ切符切られる、道路も朝は渋滞するので多分電車より全然時間がかかる、雨や風に弱い、会社員だと事故っても労災下りない、天気が悪いと使えない、客先直行、直帰とかすごいめんどい、パッとこんぐらいは思いついたけど…。多分、横浜あたりから都心通勤するなら、バイク駐輪場より月の定期代のが安い。あと電車は朝早くから夜中まで走ってる、ピーク避ければすし詰めってこともない、本数も多い、暖房冷房ついてるし人が多いだけで運転するほどの労力負担はない。

別に思考停止してたりとかじゃないんだよ。各々が合理性を追求した結果、市場形成されてる。

多分増田の考えのように、コロナ怖いし満員電車嫌だからからバイクで行くわと言う人も居るだろうけど、全体の数が多いなかの少数だと思う、目に入りにくいのかもね。東京で働いてる人は1600万人いると言われててな…。

都会、田舎やらのどこに住んでたって人間はある程度は合理的に、それぞれの都合をいなしたりやり過ごしたりしてそれぞれの生活をしているし、一方で、所詮は同じ人間から似た環境暮らしている各々が考えた「合理さ」は、ある程度が似通ってくるんだと思うよ。漠然と「東京の人」とか考えても変なこと言う感じになっちゃうよね。

anond:20200301173451

理想自分てのが漠然としすぎててよくわかんないし

研究者って「なる」より「なりつづける」ことのほうが難しいので

もうちょっと現実見たら?

老いと死を意識するようになった

コロナ騒動のせいで鬱な気持ち拍車がかかってるのかも、とも思うんだけど、最近老いと死を意識というか、避けられない現実なんだとジワジワ実感が湧いてきてなんというか、こわい。

大学卒業して5年会社に勤めて28結婚、29に第1子出産。35で第3子を産んでもうすぐ36になる。産んでみたら結構楽しくて4人目もお金時間に余裕があれば欲しいくらいで、いままでのペースでいくと順調に授かったら38で産めるかもしれない。38…40に近い。40というと私が覚えてる母の誕生日の最小年齢が40代で、けして若いというイメージもなければ子どもを産んだり小さな子を育てているイメージもない。その年齢にさし掛かろうとしていることに気づいて、急に自分は歳を取っていることを実感し始めてしまった。

ついこの前までは子育てが落ち着いたらまた新しいことを覚えて仕事に繋げられたらいいなーなんて漠然と思っていたのに、いまは、40も後半になれば記憶力も思考力も柔軟性も落ちてそんなことは無理なんじゃないかという気持ちが出てきてしまってる。寿命が80歳なんてまだまだ先の未知の世界他人事時間はいくらでもあるような感覚だったのが、突然自分の居場所と地続きになってしまった。60まではまだ頭がハッキリしてるとして、じゃあ子育てが落ち着いて10あるかないかの残り時間で一体なにができるのか。逆算して不安になる。計画的人生を進めてきてないツケなのか。こうやって弱気になってること自体老い証拠なのかとも思う。

これも産後うつなの?コロナ鬱なの?眠って時間が経ったら落ち着くの?私と同年代の人は少なからずそういったことを考えてるの?

吐き出したらちょっとだけスッキリした気もする。寝る。

2020-02-29

anond:20200229162339

あなた愛国心と言っている言葉定義は現状として

「愛政府心」とか「愛政権与党心」という意味にここ数十年かけて巧にすり替えられているので、

自分には漠然愛国心がないと思ってそのことを疑問に感じる状況は正常であり健全

本来意味での愛国心は、あなたにもちゃんとあるのです。

2020-02-25

底辺声優の所感を読んで思ってること

何物にもなれないジブン系の人。ジョーカーかな?

こういう普通の人は声優なんて目指さず大学で学んだ方が潰しがきくといういい例。

何故この人が声優なんていう一見わかりやすい道を選んでしまたかというと、世の中の物事を知ろうともせず見識も狭いからだと思う。

漠然声優っぽく異常者の真似をしてみたが、"普通の人"を捨てる覚悟が圧倒的に足りていなかったのが敗因。

次の道としても漠然大学教員を選んでいるところから推察できる。

世の中歳食って家庭もあるけど進みたい道に行く人も実際いるし、それは「何かになりたい」ではなく「何かをやりたい」であって、どうしてたって自然に滲み出てきちゃうもの

そういう人は好きな物事にかけてる時間が違う。人に与えられる時間平等24時間なのだからその中で取捨選択をやっていくしかないだろうよ。

大学教員になりたい理由もなんだかフワッとしてるし、いい加減わかりやす物事にばかり目が行くのを矯正する必要があると思うなあ。

覚悟に沿った時間の使い方しないとまた失敗するよ。

2020-02-23

買い物すんの下手

買い物すんの下手すぎる

自分が何が欲しいのか全然わかんない

ウィンドウショッピングしてみても

全部みたはずのに10しかたってない

行きたかったお店にわざわざ行っても

みんな可愛くて何買ったらいいのかわかんなくて

散々悩んだ挙句ちょっとしか買えない

しかも買ったあと

「これでよかったのかな」ってずっと悶々とする

なんかもう全部同じに見える

漠然と欲しいものはあるのに、

これっていうのを決められない

とにかく何買ったら自分が満足するのか全然わかんない

いい買い物した〜って思いたい

買い物が楽しい人が羨ましい

2020-02-22

官僚ってなんなの

漠然と、現場とは遠いところでデスクワークに励んでるものとばかり思ってたら、現場行ってコロナウイルス感染してた……。官僚特攻するものなの?

官僚ってなんなの。

2020-02-13

anond:20200213103221

大体「運動能力」ってのも漠然とし過ぎてるしなあ

どの人種がどのスポーツを選ぶ傾向にあるか、という文化の違いもあるし

2020-02-11

脳内爆弾

きょう、「さよならを教えて」というエロゲ存在を知った。

内容の肝は主人公に起こる奇々怪々な出会いイベント精神疾患由来であり、寛解する訳でもなく病状は淡々と進むというもの

古のオタクたちが綴ったブログに書かれた「さよならを教えて」のあらすじを貪るように読んで、10年前に工学部大学生だったころの記憶が厳冬の流水のようにひひたひたと流れ込んできた。

読書が好きだった。特に精神疾患について書かれた本が大好きだった。

医師の目を通して病識の無い人が狂っていく様子だったり、家族措置入院制度悪用して健常者を精神科幽閉する話だったり。

事実小説より奇なりというのはこういうことを言うのだ。

そういう本を読んでいくうちに、ひょっとして自分は何らかの精神疾患を抱えているんじゃないかという疑念に駆られるようになった。

特にひどかったのが、2か月の夏休み下宿に引きこもっていたとき精神状態は乱高下し、将来への不安も相まって最悪だった。

もし自分が狂って居たら、「自分は狂っていない」という自覚はあてにならない。もしかたらこうやって考え続けること自体病気なんじゃないか

今狂っていなくても、いずれ狂うんじゃないだろかという考えが頭の中に渦巻いた。頭の中に時限爆弾的な疾患があって、いつか爆発して発症するんじゃないかと恐怖した。

同時に、両親が私の自立を妨害しているという妄想に取りつかれていていた。何か私の人生良心に滅茶苦茶にされてしまうという根拠のない恐怖を感じた。

怖くて仕方がなかった。人生無意味さや空虚さに押しつぶされそうで、それはおいしいものを食べてもきれいな景色解決の助けにはならなかった。

医者には行けなかった。そういう勇気も無かったし、精神科の本を読みすぎていたせいで怖かった。私の正常性を私自身が証明できないということを認めるのが怖かった。

ひたすらに悩み、孤独を味わい、恐怖を感じて寝れなくて朝焼けの街を徘徊しているとふとストンとすべての悩みが消え去ったりする。

気分よく過ごしているとまた深淵に落ちたりする。

ときは過ぎ、就職して自分収入で暮らすようになると両親の恐怖妄想は消えていった。将来への不安はあるが、仕事上の具体的なものになった。

ただ、漠然とした恐怖と虚無が消え去って、過労と不眠症睡眠薬が手元にやってきただけだ。


今日は「さよならを教えて」を入り口自分過去を思い出した。現実こそが一番残酷で恐ろしい。

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