はてなキーワード: 一喜一憂とは
去年の話題はほぼコロナ、今年の話題もコロナだろうか。自分はいま某繁華街のアパートの中でこの文章を書く。自分か他の誰かが将来、この文章を見てくれたらいいかもしれない。
ブクマカ、ヤフコメ、Twitterは、コロナの話題になるとだいたい自民党、菅、二階の批判をしつつ緊急事態宣言早くしろの論調だ。ニュースピックスはピッカーは立場上割と冷静だが本音のところはどうだろう。コロナは風邪、の言説はニュースピックスでたまに見る。
ブクマカについては、それまでxevraにしか使ったことなかった非表示機能だけど、コロナについて口汚かったり読んでてつらくなったりしてちょっとでも気になるブコメをしたブクマカは積極的に非表示にするようにした。ガチ医師専門家のアドバイスにオレオレコメントするブクマカほど害悪なものはない。特に医療関係については、100のブクマカより1人の専門家の意見のほうが正しいと思う。
感染者数の多寡で一喜一憂するのにも疲れたが、一喜一憂しているコメントを見るのにも疲れた。
それにつけても政治家はコロナに対する意識が絶対的に緩いと思う。インパール作戦よろしく政治家が後方で宴をやりながら前線には苦労を強いるのをリアルで見るのもしんどいが、会食について自由恋愛だか三店方式みたいなトンチをリアルに聞くとは思わなかったよ。マスコミが飯の種として政治家の会食情報を積極的にキャッチしているんだろうけど、それにしても知らない人と飯食うのはコロナ的に飛沫感染がヤバいって思うじゃん。別に会食じゃないからOKってわけじゃないと思うよ。少なくとも自分はそう思うんだけど政治家の人は思わないのかな?もしかしたら万が一コロナに罹患しても金持ってるし身分の高い政治家だからVIP待遇で十分な治療を受けられるししんどい思いもしないし死にはしないだろうって思ってるんだろうか。どっかのマスコミもそんなこと書いてたし。ワクチン接種が2月から医療関係者を中心に始まる予定なもんだから、実際夏のオリンピックまでにはあらかた終息するんじゃね?とか思ってそうではある。少なくとも2月以降はワクチンでコロナは快方に向かっていくだろうから、今緊急事態宣言を出して経済をまたガタガタにするよりは、かかっても死にゃしない病気なんだから罹患したら運が悪かったねってことでワクチン始まるまで適宜経済回してくれよまである。
街を歩いていると、まあまあ人だかりが多い。実際の売り上げは分からないけど、新規感染者数がどんどん増えてるコロナ真っ盛りにしてはかなり人が多いと思った。店によっては満席なところもある。スクランブル交差点のライブカメラの元旦0時付近は、流石に例年よりは少なめだけどそれにしたって警察が交通整理で出動してたし。
年末年始で閉めてる店や、コロナの影響で閉店しまった店もちょくちょくあるけど、それでも通りがけの居酒屋は比較的満員御礼で客はノーマスクで密集して宴を楽しんでらっしゃる。それを見て自分はとても複雑な気持ちになる。
流石に普段はみんなマスクしてるし、このご時世に積極的にマスクしてないやつなんて絶対めんどくさいから近づきたくないけど、鼻マスクしてない人とか、なぜか喋る時だけマスク下ろしてるやつとか、それはそれでギリギリ許せるようにはなった。目の前でやられたくないけど。
在宅で外に出ないうえに人と会うこともないのになぜか身だしなみと美容院の経済状況を気にして月一で美容院通ってるが、当然ノーマスクなのでそれはそれでしんどい。
インターネットは特にコロナについてアレコレ罵詈雑言が飛び交ってて不安になるけど、街の雑踏を歩いているとみんな普段通り歩いてるしコロナなんて別に大丈夫なんじゃね?って気分になり、それはそれで怖い。
ここまで色々書いたが、自分もコロナにかかるのは怖い。今日にしたってcocoaから濃厚接触通知が来る夢を見てしまった。自分は帰宅後毎回うがい手洗いはしてるし、こまめに手指消毒してるし、気づいた時には顔まで洗ってるし、コロナやべーから本格的にタバコも辞めた。酒もほぼ飲まないし人付き合いも悪いしうるさいのが嫌だから居酒屋にも行かなければ会食にも行かない。知らない人にも会わなくて交流はインターネットだけだ。外出はコンビニとスーパー、贅沢するにしてもデパ地下だ。でも今は本当に家から出たくない。なるたけ気をつけてるほうだし基礎疾患もないけど、それにしたってコロナにかかったら何が起きるか分からないから怖い。
とはいえ、今の自分には、外出会食三密を控えてうがい手洗いするしか出来ることはない。誰かが言ってたがニュースは最早ファンタジーだ。ブコメは確かに娯楽にはなるだろうが、頭の中でこねくり回した妙な理屈や幻想を100文字以内で書き散らす文章構造では起承転結が機能しないから正しくないのも多いし見るのも疲れる。しかも身元もわからずブログもやらないでブコメだけで罵詈雑言を展開するやつとか背景が分からないから余計に読む価値がない。
楽しいことだけ考えて生きていたい。少なくとも今年は生き延びたい。
アイドルグループ「嵐」が2020年いっぱいで活動を休止する。最後のテレビ歌唱は12月31日の「紅白歌合戦」だろう。
おそらく「紅白」で披露するメドレーにはNHKの「NHK2020ソング」キャンペーンとタイアップしていた「カイト」も含まれるはずだ。
本来ならば7月24日に東京オリンピックが開幕し様々な種目の試合結果に世間が一喜一憂しているはずであった。
嵐が7月29日に発売した「カイト」はオリンピックを初めとするNHKの各所キャンペーンで大々的に使用される意図があったことは明白だ。
また嵐自身の活動休止という事情を踏んで、20年以上に及ぶその活動の総決算、ファンへの忘れ形見として製作陣やリスナーはこの「カイト」を据えてもいた。
そして国家総力を挙げた一大イベントのアンセムと日本のトップアイドルの記念碑を兼ねたこの楽曲をトータルプロデュースし制作したのは、これまた稀代のカリスマとして君臨しているシンガーソングライター米津玄師である。
まあ、ここまでは周知され切った事柄であり別段僕が説明する必要もないのだが、日本という国の2020年という時代を背負うことを予め定められたこの激重プロジェクトに「カイト」はどのように応えようとしたのか僕なりに感想を書き連ねた。
米津は前年にもNHKのタイアップソングとして「パプリカ」の書き下ろしとプロデュースを行っている。
結果として「パプリカ」は2019年を代表するヒットソングとなったが、その一要因として歌唱グループであるFoorinの愛らしさと無邪気なダンスがあげられる。
バズヒットの現代において「パプリカ」も例にもれずそのダンスを真似するムーブメントが起きた。「パプリカ」がEテレで繰り返し流されたことやFoorinメンバーと同年代である小学生が親近感を覚えたことも相まって、運動会の催しとして「パプリカ」のダンスを披露する小学校が続出したことはこのヒットの象徴的出来事であった。
おそらく「カイト」のキャンペーンはこの流れを踏襲していた。「パプリカ」と同じように運動会で使用される想定はもちろんとして、「パプリカ」に親しんだ子どもたちの門出を激励する卒業ソングとしても使われることをNHKサイドは期待していたように見える。
ともすれば「高度な技術を持っていない素人でも合唱や伴奏がそこまで難しくない曲を」という注文が米津側に与えられたはずだ。現に「パプリカ」にせよ「カイト」にせよ歌唱音域は1オクターブ半以内にコンパクトに収まっている。コードもところどころ4和音がでてくるものの実際に演奏すればわかるとおり、転回系を利用すればほとんどコードフォームを変えることない上に指の移動も少なくスムーズな運びとなり難易度の高くない造りになっている。
(そうはいっても「パプリカ」の”晴れた空に種をまこう”のノンダイアトニックコード、「カイト」における”高く飛んでいくカイト”の激しい跳躍やサビでの拍の取り方など、個性的な米津節に我々は始め戸惑うのだが)
また学校教育の場での合唱曲として「カイト」を見たときコーラスワークの絶妙な塩梅は見事。基本ユニゾンだが、要所要所で二宮が3度上、松潤が1オクターブ下を歌っている。嵐はユニゾン主体だが大野がメイン、桜井がラップ、二宮が上ハモ、松潤が下ハモ、相葉がファルセットという役割分担がありアレンジしだいでは主メロとは別フレーズを歌うらしく、このメンバー構成を活かしたようだ。なにより飽きが来ないよう工夫しつつもそれを不特定多数の素人が寄せ集められて歌ったとしても収集がつく程度の複雑さに収めているのがいい。ブルーノマーズプロデュースの「Whenever You Call」ではブルーノ自身も加わりふんだんにコーラスを織り交ぜ比較的高レベルなパフォーマンスを見せていたが、とっつくやすさで比べると格段に「カイト」が勝っていた。
なぜ米津玄師はカイトというモチーフで曲を書いたのか。未来を切り開くポジティブさや成長のイメージとして飛翔体をモチーフに据える曲はあまたとあるがなぜ凧なのか。
同じくNHKのテレビ番組とタイアップしヒットした「地上の星」や「365日の紙飛行機」も飛翔するものから見た世界を歌っている。
これらと「カイト」の大きな違いはカイトは出発地点と着地地点が同一であるということである。
「地上の星」は上空を見渡すことのできる渡り鳥を超人的な視座をもった存在として捉え、それに動乱する世界を切り抜ける道筋を教えてくれと訴える曲である。「365日の紙飛行機」は惰性で飛ぶしかない紙飛行機を世相に揉まれる人の人生に準え愚直に一日一日を丁寧に過ごすことを説いた曲である。どちらも世界は常に変動的なものであり人は同じ環境に居続けられないという前提がありそれを踏まえてリスナーの冒険心を鼓舞する内容なのだ。
対照的に「カイト」におけるカイトは作中では常に同一のものとして描写されているため変化がない。そもそもカイトは糸で繋がれているため自由に飛んでいけない物体である。
さらに面白いのはこのカイトは最初から空に浮かんでいるということだ。”小さな頃に見た”からの冒頭4フレーズは、かつて”憧れた未来”は別世界の一番星の横に鎮座しているようだったとその様をカイトに例えて”ぎゅっと強く握りしめていた糸”というフレーズで夢に邁進していたことを説明している。それが二番に入ると成長した今では”カイト”や”憧れていた未来”は”とても古く小さい姿”で”右ポケット”に忍ばせておく程度のものになってしまったと幻滅に近い感情を吐露する。そして大サビでそれでもこの小さいカイトが嵐のように厳しい世間を生き抜く指標であり心の拠り所であることを告白する。
つまりカイトとは未来に向かって邁進する人間そのものの象徴ではなく彼らの先進の当たる親や先輩といった人々なのである。この曲が巧みなのはカイトを地上から見上げる立場であった主人公もまた今は後進から憧れを背負ったカイトであるという双方向性を示している点だ。
カイトへの郷愁や憧れを語りつつもサビでは”君の夢よ叶えと願う”。大サビに至っては”嵐の中を”からの2フレーズでカイトの先に焦がれた自身の憧れを歌いつつ、続く”悲しみを超えて”からは人々の模範となるカイトの先からの視点に移る。何よりすごいのは憧れを一身に集め自身の悲しみすら超越して前に進んでいけと言った直後に”糸の繋がった先まで”帰ろうと優しく口添えしているところだ。
人は絶えず不安や孤独に苛まれる瀬戸際で生きている。そんなきりきりした思いを汲んで「幼年期に自分を形成した、自分が無邪気でいられた場所や人はカイトの手綱を握る人のように自分の足元にある」「自分がカイトとなってもカイトを揚げる側だった頃の場所はなくならない」と安心感を与える文句を曲のハイライトに持ってくる米津玄師の慈悲深さや度量の広さには舌を巻くし、米津玄師がこの時代に指示される所以を垣間見た気がする。
「パプリカ」と「カイト」には”らるらりら”や”一番星”など共通するワードが散見される。また「パプリカ」出だしのキーはA、「カイト」出だしのキーはEであり下属調の関係となり、DかD#かの違い以外は殆ど同じ調である。サビでは短3度下のメジャーキー、つまり平行調の同主調に移るという同じパターンの転調を両曲とも行っている。
これは「パプリカ」と「カイト」は同じ世界観にあり同じ事象を取り扱っているとみていいのではないだろうか。「パプリカ」も先人から思いを受け取ることや後進に託していくことについて語った曲であり、幼少期のシンボルとしてAやEのキーが設定されそこからの成長として短3度下への転調があると。
そう考えれば「パプリカ」内でミステリアスな”誰か”や”あなた”の存在、また”パプリカ”という言葉の意味も合点がいく。「カイト」の世界に照らし合わせればこの”あなた”は自分たちが進む道を作り上げたこれまでの先人たちや自分たちが歩む先の未来にいる自分自身のことだと見なすことができる。
パプリカとピーマンには明確な違いはない。ただ主観的に派手な色味であることや比較的甘味があること等で区別されている。ピーマンが実像の象徴とすれば、パプリカは子どもが憧れる華やかな夢のようなものなのだ。そしてパプリカの花言葉は「同情」「憐み」「君を忘れない」である。僕の解釈では”パプリカ”もまた子どもや次世代を見守りかつて子どもだった自分に郷愁を寄せる歌である。
よって「パプリカ」はサビにおいて、”花が咲いたら”つまり夢が叶えばその立場で私欲を満たすような「実になる期間」をすっ飛ばして後進育成のために種を蒔くことを誓い、自分の描いた夢が自分が憧れた上の世代に伝わっていてほしいと願っている。
「カイト」が下世代への決意を固める歌であれば「パプリカ」は上世代に向けた誓いを告げている。
「パプリカ」の”会いに行くよ”から始まるCメロは、憧れの先人がいる「カイトの先」の次元まで自分もたどり着いてみせるという宣誓なのだ。そして「パプリカ」の宣誓に対し「カイト」は”君の夢よ叶えと願う”と励ましのアンサーを告げている。
これに加えて5人組の子役集団であるFoorinと、ローティーンから20年以上活動を続ける5人で構成される嵐という、歌い手自身の対比や世代間の違いにも意識して両曲が制作されたとまでいうのははたして考えすぎだろうか。
「カイト」という曲は「パプリカ」の続編であり無邪気に夢を語っていた子どものその後を捉えた曲なのだと思う。荒れ狂う嵐のなかで傷つくことがあっても、かつての空を見上げていた自分のように下から羨望の眼差しを向ける子どものためにメッセージを発信し続ける姿を描写し、「パプリカ」から託された”らるらりら”がしっかり自分たちに届き溢れ出していると返答している。
そしてそんな自分を見守ってくれた親の様な存在や友人や”あなた”が投げかけてくれた思いは不変で誰でもそこに甘えたっていいと働きづめの同世代も励ます。
様々な期待を抱え自分を追い込みながら高みを目指すトップアスリートや人気絶頂のアイドルが抱えるドラマテックな感傷のみならず、信条のもと日々頑張る人々や未来に向かって前進する若者なら誰でも共感できる叙情が「カイト」にはある。
この物語は徳島の実家から独立しニコニコ動画からトップクリエイターへと様々な場面や人々を経ながら飛躍していった米津玄師自身にも当てはまる。
ジャニーズではデビュー以前で持ち歌のないJrメンバーがコンサートやテレビ番組で歌唱する場合披露されるのはもっぱら先輩の曲だ。このレパートリーには今は活動していないグループや退所した者の曲も含まれる。歌い継ぐことをテーマにした「カイト」をジャニーズJrが歌うときそこには確実に嵐のメンバーの幻影が守護霊のように現れる。この先何があろうとジャニーズが存在する限り嵐という存在が薄れていくことはないのだ。
オリンピックというドラマに加えるエッセンスや嵐というアイドルグループのメモリアル的な意味合いをしっかりクリアしながら、普遍的な人間の感情を見事に描写しただけでもとてつもないが、それでもなお米津玄師が作家性は微塵も薄らいでいないことでその才能の大きさを再確認させられた。ただの合唱向けのバラードとして割り切れないエッジがこの曲には確かにあって、そういう細やかなセンスが米津玄師足らしめているのだなと唸ってしまった。そしてそれだけの才能の上に立ちながらこの曲を自分のものにしている嵐のタレント性にも感心してしまった。
プレイしてみたけど正直言ってあんまりおもしろくはなかったです。
今はこのカードゲームの話題の八割くらいは中心になってる某店長の奇行になってますが、
それを抜きにしてカードゲームとしてどうなの?って所が大きかったかな。
ルーラーっていうものによって異種格闘技戦的なことができるのが
多分このゲームの一番のウリだと思うんだけど、
散々言われてるけど毎ターン2デッキトップ2枚をタダ出しできるデッキと
馬鹿正直にコスト払わないと出せないデッキが殴り合ったらそりゃさ。
とは言え、坊主めくり側は手札自体が無いから例えば手札回収カードとかは使えないわけで、
そういう所で今後バランスはとれていくかもしれないという希望はある。
そのせいで一見さんお断りの面倒くさい仕様になってるのはいかがなものか。
両方ともテキストの内容なんも違いがないんですよね。
何が違うのかっつったらわざわざカードに書かれたQRコード読み取って
で、実際この2種類何が違うのかっつったらデッキビルディング制限が違って、
所属軍は2種まで、同名カード4枚まで(レジェンドカードは同名1枚のみ)、
H-8ハイランダーはその名の通り、
っていうこんな程度の違いしかないんですよね。
所属軍ってのは遊戯王で言えば属性、デュエマで言えば文明みたいな
カードを組み分けするもんだと思ってくれればいいんだけど、
他のカードゲームだったらそういうのって自分で決めるじゃないですか。
ハイランダー構築も作ろうと思えば好きに作れるじゃないですか。
わざわざカードに指図されることじゃないし、こんなん異種バトルとは言わんでしょ。
精々ボクシングでマウスピースがゴム製かプラ製かくらいの違いしかないじゃないですか。
煩わしい上に自由度下げるだけにしかなってないかなと思いました。
ルーラーについての話終わり。
ルールの説明がわざとやってんのかってくらいわかりにくいのです。
なんで公式サイトにカードの並べ方、置き方すら書いてないのか。
一応無料体験デッキについてるQRコードの中の隅っこのほうには載ってたけど、
【ゲームの準備】【ターン開始時】【ルール】までしか載ってません。
それより先のデッキ構築ルールはさらに個別の詳細ページを見ないとわかりません。
せめて「ここに書かれてないルールがあるのでチェックしてね!」
変に誤解を生むこともなかったと思うんですよね。
どうやら坊主めくりルーラーがめくったカードを使うまで一時的に置いとく場所のことらしいけど、
公式ツイッターがなくて一番話をしてくれるのが某店長のアカウントってのもおかしい。
いや、普通ならそれでいいんだけども、
あの人に今質問したら晒し首にされるしご機嫌損ねたらブロックされるし、
売る気があるのか疑問に思うレベルですよ。
普通のコスト払ってプレイするほうでも基本的にめくりまくります。
デッキトップからダメージ値分めくってダメージゾーンに置くんですが、
そのめくった時にCNT(カウンター)能力を持ったカードが出れば
1枚につき1点分のダメージをキャンセルして効果撃つんですね。
で、今の所はCNT枚数割合上限が16/50のルーラーしかいないので大体1/3です。
ルーラー自身のSTRでも3ダメージ出るわけなので1体でも期待値1枚、
他のユニットと合わせて攻撃したら1度のバトルフェイズで2~3枚くらいめくれます。
このゲームでターン開始時にデッキから得られる枚数は2枚なので、
大体、自分のターンにプレイする枚数とデッキトップめくれて出てくるCNT枚数が
同じかそれ以上になるんですよね。
半数以上をめくって解決するんだから嫌が応でも運ゲー合戦なんですよ。
坊主めくりルーラー使ってなくても結局坊主めくりみたいなもんなんですよ。
戦略もクソもねぇわめくれるかめくれないかのほうが比重が大きいじゃないか。
確かに、デッキ構築を自分のやりたい内容に傾けることはできるものの、
セットしたカードをいつ使うとか誰を殴るかとかのお陰で
辛うじてTCGの体を成しているものの根本的に運運アンド運でした。
ここが本当にどうなのって思ったし面白くなった主要因です。
期待値通りにめくれてくれれば実質18はあるということですね。
びっくりするくらい抑揚がないですね。
それがターン経過で大きなコストが払えるようになっていき~って流れが、
遊戯王もエクストラデッキから出す為に素材集めてどうたらこうたらってあるけど、
序盤から終盤までやってること変わんないんですよ。
そりゃ坊主めくりルーラーは常時無限のコストがあるんだから当たり前だし、
普通に払ってプレイするルーラーもゲーム開始時からある3枚分のコストが
増減することは無いわけですからね。
ターン開始時に2枚めくって使い、殴り、相手のデッキトップをめくってCNT使われ、
今度は相手が同じことやって…。ずっとこれです。
いくつか対戦動画見てみたんですがやっぱり内容は同じなんですよ。
ひたすらお互いにめくりあって出たカード投げ合ってる感じ。
このゲームにおける強い弱いってのは
めくっていいもん引けることを強いっていうんだろうなと。
まだ発売されてないのに無料体験で何語ってんだって思う人もいるかもだけど、
無料体験ってそのゲームの楽しさを体験させるためにあるものなんで。
無料体験ではこのゲームの楽しさはわからないんだぜってそれ売る気あるの?
ルーラーどうこうに関わらず運が介入する要素が多すぎるので、
運ゲーじゃねえかつまらんって思う人はやってもつまらんと思います。
ダメージ判定でCNTがめくれないのが続いたらめちゃあっけなく負けるんで、
真面目に勝ち負け競いたいって人にも向いてないと思います。
めくった結果に一喜一憂してウッキャアアアア!神引きィィィィィ!!
少なくとも精神的に落ち着いた大人の方には合わないんじゃないでしょうか。
運に自信があって、魂のドロー!うおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!
要はプロモーションビデオのノリだよ。あれが楽しいなら楽しいよきっと。
長文でお気持ち表明するなら増田が最適だと増田マスターに教えられたので増田に来ました。ただの学の浅いオタクの文句でしかありませんから、きっと読んで面白い物ではないでしょう。
土曜に虹ヶ咲の11話があったじゃないですか。私はあれで1晩狂って朝まで壁打ちを続けて、日曜の晩の裏世界ピクニックのニコ生冒頭4分をきっかけにして朝まで壁打ちを続けて、月曜日は体力が切れててぐっすり暖かくして眠って、火曜に至ったんですよ。
そんなわけで、虹ヶ咲11話絡みのひっでぇツイートがきっかけでどうも百合好きが荒れているらしい、という事を察知したのは台風が去った後、と言った方がきっと性格なのだと思うのです。もっとも、その“百合好き”も簡易的にではありますが観測したところ、一部の界隈という表現が適切な規模感の様に思いますが。
件のツイート主について調べるとプリキュアの界隈で暴れてきた所謂“前科持ち”の様なお方だそう。関連動画もないのにニコ百の記述が充実してるのはたいてい地雷原ですし、プリキュアというのも守備範囲外の私がとやかくいう言う権利はありませんが、ともかくそういう人物の配慮に欠けたツイートが百合好きの一部界隈の怒りを買った、といった構図の様です。
元の投稿は既に削除されているようですが、削除前のツイートをみた私の所感を申し上げますと、コンテンツに対する向き合い方が私とは致命的に合わない人物であるようには見えました。ニジガク11話未見の方の為に具体的な描写の内容はここでは差し控えますが、要約すると「受け入れがたい描写をとある女性の『友情の暴発が原因一過性の物』だとの証言で安心して受け入れられるようになった」といった内容になるものと思います。
「受け入れがたい物を受け入れる為に他人の感覚に縋る」というのは少なくとも私の感覚とは合いません。受け入れられない物は受け入れられない物として拒絶するべきです。拒絶もまた1つの作品に対する向き合い方ですし、もし受け手にとって受け入れがたい描写がなされたのなら、拒絶するのが最も真摯な向き合い方であるように思うのです。批判をするのなら受け入れがたい物がなぜそぐわないか、を説明するべきであるように思いますが、拒絶する権利は誰にだってあるはずです。無理な物は無理。それも1つの正解です。もっとも、「無理な物を視界から排除しようとしないのであれば」という但し書きは必要な様に思いますが。
あるいは、どうしても受け入れるなければならないにしても、「他人がそう言ったからそうなんだろう」というのもいまいち好きではありません。他人の感想などという物は理解のガイドラインにはなり得ても、最終的に理解するのは受け取り手自身、というのが健全な姿なのではないでしょうか。「あの人が駄作と言うから駄作なのだ」や「皆駄作と言っているからアレも駄作だ」というような事を私の好きな作品は長い間言われてきたものですから、なおさらそう思うのです。
件の人物への恨み節なら荒れているニコ百の掲示板にでも書き込めばいい事です。わざわざ増田なんかに投稿するのは私が拒絶し、否定したいのが件の人物だけではないからです。
私が無理な物は無理と言ってしまって良いと考えている事は先ほど書いた通りです。元のツイート主はアニメを見ていただけで、わざわざ受け入れがたい物の中に踏み込んできて無理と暴れまわったわけではありません。“同性愛的な物を見るのは無理”という彼の素朴な感想は否定されるべきではないと私は考えます。排斥運動でも始めたのなら話は変わりますが、荒れたのでツイ消しして逃亡を図る彼にそれだけの事をする度胸があるようにも思えません。
私は荒れていた界隈についても拒絶したいのです。学が浅く、海よりも深い思慮の上で掲げられたこの世で最も尊重されるべき黄金色に輝く理想を推し測ることすらできない私には、荒れていた界隈の言う事が同性愛的な物を「受け入れがたい物」と表現する人物の言う事と何ら変わらないように見えたのです。友情と愛情の間に線を引き、それを超えたか超えてないかで一喜一憂する事と、異性愛と同性愛との間に線を引き、超えた超えないで一喜一憂する事、私にはどちらも同じくらい愚かな行いな様に見えたのです。そして、物語への感想と実際の出来事への感情をあまりにも簡単に接続し、発言者を否定して見せる様は、私には絶対に私にとって好ましくない人々と重なっても見えるのです。
結局のところ、この長々と続いた文章は、私にとって彼ら全てが受け入れがたい存在であった、以上の内容を持ちえません。あるいは、わざわざ受け入れがたい存在の方に観測気球まで上げてやはり受け入れがたい物であった、と結論づける私は彼ら以上に私にとって受け入れがたい存在であるかもしれません。ただ、恨みを吐いて無理な物を拒絶してみせなければ、クリスマスを健全な気分で迎える事が出来ない。だから、こうやって長々と拒絶するほか無かったのです。
5年付き合ってた彼女にフラれた。理由は自分が悪い。相手のスペックを馬鹿にして内心で見下してどうせ俺から離れないだろって思って好き勝手やったらもう無理って言われた。
彼女は無職だった。でも家は資産家、でももう働くのは無理だろうからってのほほんと家で飯作ってペットの世話して家の会社の社員ってことで給料という名の小遣い貰ってオタ活するニートだった。そして顔は可愛いし巨乳だった。でも性犯罪にあいまくって俺以外の男が基本的に無理だった。飲み会とか男のいる場も嫌いだったし父親と兄と俺以外の男は2次元しか知らないと思う。
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それを見るのがやめられない。オタ活と言っても日常垢みたいなものでアニメ以外にも日常の話もしてる。ちなみに鬼滅に狂ってるようで、最終回で推しカプがほぼ公式だって小躍りしてる。楽しそうでなにより。
そしてなにより彼氏を作ってる。リプやらなんやらで見まくってるとどうやら年上で、父親の得意先の紹介でカジュアルに知り合っただけだから結婚とかはまだ考えてはないようだが、なんでもない日に推しカラーのエルメスのブレスレットを買ってくれて、オタ活に理解があって一緒に無限列車見たらあまりにも彼女が泣いてるからっておろおろしてなんでも買ってあげるって口走ったせいで何故かハイブランドのバッグを買うことになった哀れな男である。
鬼滅のコラボに振り回され、ミシュランに乗るような店でも食事の度にぬいぐるみと写真を撮るのを笑って許してくれて、あまり遠出させられないからってリッツカールトンやマンダリンオリエンタルでグダグダしたり、エクシブのホテルに行きまくったりまぁとにかく色々派手だった。俺の好きだった天真爛漫で少し臆病だけど優しくて、どこまでも可愛いあの性格は健在で愛されているのだなと思った。
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俺はそこそこ収入がいいとはいえまぁ会社員だ。あくまで世代平均よりはいいというだけでエルメスもリッツカールトンもエクシブも無縁である。
元カノの親は愛車はベンツとレクサスとポルシェだったが俺は車を持ってない。情けないけどいつも出かけるのは彼女がパパのお古で街乗りに使ってた古いベンツで行ってた。彼女の車なのにアニメのぬいぐるみを置いたら俺は怒った。きっと今の彼氏は自分の車を出して、その後部座席に鬼滅のぬいぐるみを置いても苦笑いして許すのだろうなと思う。
こんな思いをして、もう二度と自分のところにこの女は戻ってこないとわかってるのにいじらしくツイッターを見て自己嫌悪をするのをやめられない。
なんで彼女はこんな男に女の一番美しい5年間をくれたのかと疑問に思うが、きっと今はいい男に愛されてもっと美しくなっているのだろう。
後悔しかない。振られてから彼女がどれだけ美しくて得がたい性格をしていて、そのせいで世間の汚さに耐えきれなかったのかわかった。そして俺もその彼女を傷つけたうちの1人だと思う。
彼女は俺にエルメスもリッツカールトンもねだったことは無いし、仕事の時は絶対に文句を言わずドタキャンも許してくれたし後に引きずったこともなかった。文句も言わずあのベンツで買い物に行って実家のシステムキッチンとか比べ物にならないうちのワンルームのひとつしか無いコンロで必死で食事を作ってくれてた。それを俺は美味しいと褒めたことがあったのか怪しい。
もっと優しくしていたら今鬼滅のコラボに一緒に行ってるのは俺だったのかもしれない。一緒に炭治郎の活躍に一喜一憂して、煉獄杏寿郎を応援してこの前出た最終巻に泣いてたのかもしれない。
仮想通貨については前置きで本題は宗教の方なんだけど、背景としては次のようなものがある。
・仮想通貨の相場がいま全体的に上がっている。ただ、知ってのとおり乱高下の激しい市場なので、損が出たときはもちろん、儲かっても精神的にものすごく消耗しやすい
・宗教云々言っているが、俺は無宗教で無神論者だ。いつか信仰が雷撃のように俺を打ってくれればいいと思ってはいるが、たぶんそういうことはないだろう
・人は必ず死ぬ
…
一昨日、仮想通貨の銘柄の一つであるxemが高騰し、前日比で20%ぐらい額が上昇した。約3年前に日本の取引所からハッキングで流出したために話題となり、あまり良くない意味で有名な銘柄だ。
俺も保有していたので利益は出たが、想定以上の値上がりにかえってテンパってしまい、しょんべんくさい利確を繰り返して微妙な収支に終わった。そういうわけなので、「あのときああしていれば…もっと…」という強欲な後悔がいくらか割と残っている。
この後悔の根っこには、あるルールが俺の中で不在だったことが原因にある。株でもFXでも仮想通貨でも、あらゆる金融の教本やサイトで共通して書いてある「自分との約束を作り、これを守れ」というルールだ。例え、いくらで利確しいくらで損切りしろ、とは書いていない教則でも、この原則だけは必ず書いてあるのだ。
結局、運用にあたって売買の目安となる約束を自身との間に設けておかないと、今回の俺のように場当たり的な売買を繰り返して心の底から疲労し、収益を素直に喜べない。というか、利益が出たからまだいいものの、これで損失が出ていたら立ち直れない。
妙な気もするが、投資においてはまずは自分との約束を律儀に守ることが優先され、純利とはそこからもたらされる精神の平安に伴って自然とついてくるもの、なのかもしれない(本当にそうかは知らない。何しろ俺は金融に関してはポンコツなので)。
…
ただ、ここで約束という行為には、もうちょっと観念的な意味合いがあるんじゃないか、と思っている。それは、何かを決めてそれを守る、というルーチンを徹底することで、流れていく時間の上に想像上の節点を置き、好循環を意識させる働きがあるんじゃないか、ということだ。
例えば、
・「当初の目標の+値に達したから売った」→「得た利益で他の銘柄を買い、それも値段が上がった。一方、売却した銘柄はその後チャートが下がった」
という具合だ。
これは時間の流れに約束という節目を置いたからこそはじめて自覚できる好循環だ。約束をする、そして守る、という時間の区切り方によって、人間は自分が良い流れの中にいる、というイメージを持ちやすくなり、次のアクションを取る精神的な敷居が下がる。そして、それがさらに良い結果を生む、という具合に好循環が持続する。反対に、ここに約束が介在しないと、漫然と得をしたり損したりを繰り返すうちに精神がすり減っていくことになる(特に負けがかさんだ場合)。
え? そんな都合よく転がるか?
転がらない。
実際は、目標の含み益に達した銘柄は売却した後もさらに上がり続けるし、事前に設定した一線を下回ったので売った銘柄は、その直後に反転して値が上がり始めることも多い。
ただ、それでも約束が無意味ということにはならないと思う。ここには、人間の精神というやつの良くも悪くもいい加減な本質が関わってくる。
俺は、人間は直近の近視眼的な損得に一喜一憂するのと並行して、長いスパンの時間で因果を良い方に解釈することを自らに許す生き物だと思っている。
この世には値段が上がり続ける銘柄なんてものはないので(例外除く)、早めに利確しすぎて指をくわえて見るしかなかったものも、一晩寝れば結局落ち着いていたりする。損切直後に反転して悔しい思いをした銘柄も、やっぱり一晩寝ると、起きたら大幅に値を下げていたりする。
ちゃんと約束を守っている者の目には、利益は出ているように「見える」し、損は抑えられているように「見える」ことが多い。実態としてどうかは関係なく、好循環なんてのは結局は主観次第のサジ加減一つということだけど、俺はこれも知性の一つのかたちだと思う。
…
で、約束という行為を骨子にして俺たちのメンタルを安定させ、好循環という錯覚、あるいは人生観そのものを構成しようとする営みが、金融以外にも、もっとデカいフレームとして存在する。宗教だ。
あえて断言するが、たぶん、約束という概念がない宗教は存在しない。聖書の旧約・新約なんてまさにそのもので、これは、「(神との)旧い約束」、「(イエス・キリストとの)新しい約束」という意味だ。
宗教は時節によってやるべきことを定め、やってはいけないことを定め、本来は脈絡なく流れていくだけの時間の上に節目を作る。設けられた節目は他の節とつながって、約束を守ってきたから生きてこられた、という好循環(に見えるもの)を形成する。宗教とはある意味、約束を守り続けることで自分はいま良い循環の中にいると感じるためのシステムと言い換えられると思う(実際のところ、キリスト教の背景には「これまでの神との約束、厳しすぎて正直しんどくねえ?」というのがあるが、話がややこしくなるので触れない)。
この状況では、約束を破るのは人生を放棄するぐらいのインパクトがある。本当に執行されるのかは知らないけど、イスラム教なんて棄教したら教義上は死刑になるぐらいだ。つまり、約束を破ると文字通り人生がぶっ壊れてしまうのだ。
…
ところで、人間は必ず死ぬ。死後の世界云々は置いておいて、とにかく確実に死ぬ。つまり、金融における好循環の終点に目標となる利益があるように、人間の終着には死があらかじめ確実に設置されている。
ここでたちはだかるものすごくデカい問題は、人間が自分の死に様を選ぶことがほぼ不可能だということだ。順風満帆に生きていても病魔で苦痛にまみれて死ぬかもしれないし、反対に辛酸をなめ続けてこれ以上つらいことがあるかと思ったら結局もっと苦しんで死ぬかもしれない。事故でいきなり死ぬこともあるかもわからない。死は完全に中身が不透明な箱だ。その中から何が出てくるかその瞬間までわからない。
最後に待つブラックボックスから逆算して、それでも人生を好循環によってとらえようとするとき、どんな人生観ならちゃんと機能するのだろうか? 生きていく勇気を持てるだろうか?
何もかもがフラットにゼロ価値だ、という超物質的なニヒリズムを除くと、俺は宗教しかないんじゃないかと思う。フツーに無宗教で生きてます、ってかなり苦しい。俺がそうだけど。「生きて生き続けた最後に、お前はめたくそ苦しんでこれ以上なくみじめに死ぬ」という貧乏クジが一定の確率で出てくる箱に手を入ざるを得ないとき、「何にしたって、とにかく自分は神(あるいは霊的な何か)との約束だけはこの人生で守りとおした。だから人生はちゃんと好転していたはずだし、この死にも意義が存在する」という以上に人間の精神を守るように機能する人生観って、正直マジでないんじゃねえかな? と思う。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20201201/k10012740111000.html
「月曜が他の曜日と比較すると減る(検査が少ないだけ)」のと「火曜は前週と同様の水準に戻る印象が強い」ので「火曜では最多」は驚いた(先週の水準なら500人台と思っていたぶん、最初は「減ったやん」と思った)。
錯視みたいなやつで断片的な数字を観測すると、無限に増えてるようにあるいは減ってるように認識する
そんなのがあるのではないか。
こんなん
(⚠ポケモンショック(てんかん発作)を誘発するかもしれない)
画像では元画像→エンボス加工→エンボス加工の反転、じゃないかなあ、
これでなんか動いて見える。動いて見えるだけならわかるけど場合によっては無限に大きくなってるように見える。すごい。
これを数字に無理やり当てはめるなら、、、、いきなり難関、わかんない。
隣り合う色の明度がある閾値をオーバーするとき白くしたり黒くしたりする、そんなんでしょ知らんけど。
エンボス加工の「効いたエッジ」、これをNHKニュースのタイトルの強調表現ってことにしとこ。なんかそれっぽい。数字じゃなくてもっと外側方面。
google:新型コロナ 人感染確認 site:nhk.or.jp 東京都
エンボス加工の反転ってなんだ?ブコメのツッコミってことにしよう。「恣意的な値で何日連続とか意味あるの」とか
あとは毎日上げたり下げたり。
でも、3Dプリンターがなかった時代はその金型までが大変だったんだと思う
3Dプリンターは…、みたいにダラダラ書いたけど、自分なりの結論としては、3Dプリンターは試作用途には断然アリだと思う
精度が多少悪かろうが、ときどき大失敗しようが、基本CAD通りの物体がとりあえず手に入るというメリットは大きい
だからCADと3Dプリンターを行ったり来たりして試作を詰めていって、
これ以上ないところまで行ったらDMMに頼むとか金型作るとかが3Dプリンターの使い方としていいと思う
最終完成品を3Dプリンターで作って一般消費者に売ろう、とか考えると失敗すると思う
Togetterのまとめのどこだったか失念したんだが、3Dプリンターでミニチュアのライフルとか作ろうとしてたと思う
それをワンフェス?だったかその手のイベントで売りたいみたいなんだけど、そのライフルが曲がって出力されてしまい、
かなり一喜一憂しているのを読んで、あー、光造形でも理想通りにはならんのだなー、と思ったり
うろ覚えだけど、光造形だとたしか印刷する位置によって、真ん中なのか端っこなのかで精度が変わるとかあったと思う
FDMでもあるw普通にあるw
同じ部品を一度に多く欲しいときに、コピーして並べて出力するわけだけど、その出力結果が配置した位置によって精度が異なってしまう
ネジみたいなものだと致命的
まあネジを出力するのは3Dプリンターのパフォーマンス自慢的な意味合いもあるので、規格にあるネジなら3Dプリンター出力はオススメできない
ネジ以外の部品も同様で、規格にある部品はホームセンターに行ったほうが無難
でも、3Dプリンターがない時代だったら、樹脂材ならプラ板とかエポキシパテとかプラモのフルスクラッチまがいのことをしなければならなかったけど、
それに比べれば3Dプリンターの方が断然楽ではある
だから、3Dプリンターは無駄な代物ではないのだけど、夢を見すぎて買うと痛い目に遭うと思う
買う前にThingiverseとか見て、こういう使い方だったらできるのかなあ、と購入後の使い道を想像してみるといいと思う
GitHubにもロボット作ったり人工知能の車とか作ってる人がCADデータやSTLがあるので探してみるといいかも
Thingiverseの注意点は、絶対投稿者本人が出力してないだろ、と思えるような精巧すぎるものとかはスルーした方が無難
あと、いいね!みたいな評価が高くても、評価者も作らずにいいね!を押してるので、
作品ごとに、自分も出力してみた、みたいな箇所があるので、それを見て色んな人がそれぞれのプリンターでどう出力されたかを見るといい気がする
まあ「沼」だね
3Dプリンターは沼
でもArdinoのケース作ったり、Arduino組み込んだロボットみたいなの作ったり、やろうと思えばRC飛行機とか作れるし、
ときどき夢見すぎる人がいて、これがあれば市販のプラモみたいなのコピーし放題じゃん、みたいに思うと痛い目に遭うと思うけど
あと、自分の家の洗濯機と排水口の接続部に問題が会ったので、3Dプリンターで部品を設計して出力して自分で直したw
賃貸の管理人に問い合わせたら、修理業者と一緒に部屋に行くんで都合が良い日を教えろだの、壊したんかーおまえはーみいたいな剣幕で対応されて、
いや、壊してないから、どっちかというと排水口より自分の古い洗濯機の問題だから、と思って、どうしよーかー、と思ってたんだけど、
と思って、排水口と洗濯機の結合部を定規で簡単に測って、簡単な部品を設計して、まずはPLAで出力
水が流れすぎることが原因だと思われたので、流量を制限する部品を設計した
2回目の出力で設計に問題なさそうなことが分かったのでABSで出力し直した、で数年間問題なく使えてるw
PLAは水に弱いしお湯で変形したり溶けてしまうので
ストーリーを読むことに何週間も熱中して、読み終わった時はあまりの衝撃で放心してしまった。
好きなキャラクターがこういう場所にいたら、こういう展開になっていたら、他のキャラとこういう会話をしたら…などたくさん妄想して毎日幸せな気分になっていた。
既に投稿されている二次創作を片っ端から読んで、私もこんな風に心を動かす絵を描きたい!と思って、寝る間も惜しんで絵の練習をした。
当初はSNSをやっていなかったが、まずは上達のために頑張ろう思っていたので、そこそこ長い間、誰からの評価がなくても気にならなかった。
しかしTwitterを始めて投稿を重ねるうちに、もっと評価されたい、いいねが付くと認められた気持ちになって嬉しい、反応が少ないとなんだか駄作に思えて不安になる…といった感情の起伏がだんだん大きくなっていくのを感じた。
描いてるときも「こんなに頑張って描いてるのに評価されなかったらどうしよう」「一番TLに人が多い時間帯に投稿したいから急がなきゃ」「いいねの自己記録更新したいな」など、人からの評価で頭が一杯になっていた。
自分が描きたいから描いているのか、評価されたいから描いているのか、だんだん曖昧になってきた。
そして最近…ウケそうな題材をチョイスして、可愛いセリフをキャラに言わせて、それっぽく仕上げる…という制作過程になってしまった。
きっと二次創作のネタを探すだけになるので、原作を読み返すこともしなくなった。
あれほど好きだったのに…。
原作が好きで好きで、溢れる気持ちを抑えきれなくて二次創作を始めたのに、だんだんおかしくなってしまった。
評価も下がっているような気がするし、いいねがたくさん付いたときしか幸福感を得られなくなった。
他人からの評価は自分ではコントロールできないので、予測ができない曖昧なものに囚われて、一喜一憂が激しくなっていった。
少し前、プッツンと糸が切れたように、筆を持てなくなった。他のことをする気力もなくて、ぼーっとする時間が増えた。
直近で自分の描いた絵を見返すと、なんだかひどいものに見えた。いいねが少ないからとかではなく、本来自分の描きたかったものではないからだ。
SNSを始める前や始めたばかりの頃の絵を見ると、「このシュチュやっぱり萌えるな」とか「この表情を描きたかったんだよな」とか自分の意思を何かしら感じるのだが、最近の絵は「評価されそうだと思って選んだシーンの集合体」に見えてしまった。
絵を描かない日々が久々で、Twitterを開くこともなく色々と考えていたのだが、もう一度まっさらな気持ちで原作を読み返したいと思った。
それでも二次創作や評価のことが頭から離れないなら、私はもう承認欲求に取り憑かれてしまったか、もしくは原作への愛がなくなってしまったのだと思う。
【追記】
二次創作ではなくSNSのせいだとコメントがありましたが、その通りでした、すみません。
原作を読み返してる最中ですが、二次創作は諦めたくないと思っている自分がいます。
私も図太いわけではない。人に言われたことをいつまでも引きずって他のことが手につかなくなるほど心が弱い。
大学時代、幸いそれぞれ別の分野でトップクラスの人々に長期間接する機会があった。どちらの分野の人も皆、小さいことに一喜一憂せず、格好にこだわらず、人の目は気にせず、人のことはあれこれ言わず生きていた。
その人たちを見ていると、自分が過剰に人目を気にしたり、細かいことを気にしているのがばかばかしくなった(他人に対してもそうだ)。
…
あなたが他に人に何か言われて傷つきつつも、意固地にならず、反撃せず、周りとの折り合いをつけて自分なりの楽しみを見つけているのを見て、弱くもないし素敵な人だな~と思った。
今流行りの、真田様(Twitter @sanada_jp)が描かれている同人女の感情シリーズの漫画、実に面白い。立場の異なる様々な同人女の心境をそれぞれの視点で描いてくださっていて、共感することもあればそういう考え方もあるんだと気付かされることもあり、楽しませて頂いている。しかし、お陰で私という同人女は数年前の憎悪に近い感情を思い出したのでここに吐き出す。数年前、私が過ごしていたジャンルに突如綾城さんのような方が現れて、ジャンル全体の雰囲気が一変してしまったときの話である。
その方をここでは彩城さんと呼ぶ。彩城さんはいわゆる神絵師で、フォロワーは5桁、一つ絵をアップすればいいねが3桁は当たり前、という方だった。一枚絵はめちゃくちゃ綺麗だし、漫画も頻繁に描かれていた。質が高いだけでなく筆も早くて数日に1回程度は作品をTwitterに上げていたと思う。そんな方が当時の自ジャンルに現れたのだ。自ジャンルはとあるソシャゲで、時期的には旬だったのかもしれないけど人口はそんなに多くないってなジャンル。あまり詳しく書くとバレそうで怖いのでこのへんにしておく。私も同人女の端くれとしてたまに作品を上げてフォロワー同士でいいねを押しあったり、新作イベのストーリーやガチャで一喜一憂したりととても楽しく過ごしていた。そんなところにある日突然彩城さんが舞い降りた。
RTで回ってきた作品の素晴らしに息を呑んだ。どこかの神絵師様が友人リクエストとかで気まぐれに描いたのかな?とそのときは解釈した。しかし度々RTで神作品が回ってくるものだから彩城さんのホーム画面を覗きにいくとなんとそのジャンルにハマったという。気づけば私の相互フォロワーたちも既に数名が彩城さんのフォロワーになっていた。私もフォローした。彩城さんのパワーはすごかった。先ほども書いたように高クオリティの作品を高スパンで上げるし、萌え語りも面白い。そのジャンルの新しいフォロワーとも、前ジャンルと思われるフォロワーとも直リプなり空リプなりしまくっていた。(本物の綾城さんはおけパ以外と絡んでるところはあんまり見たことないけれど、この彩城さんは周りと絡みまくるタイプだった。)
素敵な方がこんな弱小ジャンルにやってきてくださった!と始めはただただ嬉しく思っていた。しかし、ちょっとずつ異変が起き始める。周りの人たちが、彩城さんのCPに引っ張られていく。私はA×Bが好きだったのだけれど、彩城さんはB×A派だった。まあ私はA×Bといいつつも左右完全固定というわけではなく逆も摂取するので、彩城さんの作品も楽しく見させて頂いた。しかし周りはどうだ。A×B仲間だったはずが「最近はB×Aを見るようになってむしろそっちにハマってしまった」という人、全然違うカプだったはずがB×Aにハマった人…マイナーというほどではないけど少なくとも最大手ではなかったはずのB×Aが、見る見る大手に名乗りを上げてしまった。でも、それほど彩城さんの作品は魅力的だった。キャラや世界観の解釈にやや甘い部分はあったけれど(歴が浅いのだから仕方がない)、原作破壊というほどでもなく絶妙に独自の世界観が差し込まれていて、読んでいて心地が良かった。悔しいながらも「こういう人を神絵師様っていうんだなー」と、唐突に自ジャンルに彗星が如く現れた存在を尊敬するような達観して見ているような目線で見ていた。
しかしこの彩城さん、ジャンル移動が激しいタイプだったのである。(綾城さんを見ていても結構ジャンルを行ったり来たりしている印象があるけれど、神様たちってそういうものなのだろうか。)彩城さんにフォロワーがとても多いのも、神作品たちによって見た者のハートをがっちり掴むということもあるけれど、各ジャンルを渡り歩いて各界隈でのフォロワーたちをがっちりハートキャッチしてきた成果だったのだ。そして今回もまた、我がジャンルで創作してはいいねを総ナメにしていって一年弱くらいで去っていった。公式自体の勢いが縮小した影響もあるけれど、ほぼ同時期にジャンル移動する人が続出した。そのとき私は、「自ジャンルが破壊された」と感じた。残されたのは、B×A(元々私の逆カプ)の人口が微増し、ジャンル全体として人口が減少した気がする自ジャンルであった。公式縮小の影響もあるから彩城さんだけの責任ではもちろんないのだけれど、そのときはめちゃめちゃに彩城さんを恨んでしまった。一緒に活動してた相互さんたちはそのまま自ジャンルに残りながら彩城さんのツイッターはフォローし続けてる人、彩城さんの次ジャンルに引っ張られた人、色々いた。私は自ジャンルを破壊していった(と当時思っていた)彩城さんが別ジャンルで楽しそうに活動している様子など見たくないのでブロックした。
今ではさすがにその憎悪も落ち着いたし、その後私もしばらくしてジャンルを移ったのだけれど、もしも初めから彩城さんが現れなかったらどうなっていたのかなと今でも考えてしまう。彩城さんは別に何も悪くないし逆恨みなのもわかってるけど綾城さんを見ていたらそんなことを思い出してしまった。綾城さん、作者の真田様、勝手に名前をお借りしてお気持ちを吐いたご無礼をお許しください。
ここ一か月弱の感情の変遷を残しておきたい。いや、この二年半の、かもしれない。
初めてその報道を目にしたのは、仕事帰りの駅での事だった。呆然としたまま電車に乗ったのを今も覚えている。全く信じられなかった。たちの悪いフェイクニュースでは?とも疑った。スキャンダルとは無縁のグループで、頼れる兄貴分の彼が、まさか。
その後しばらくのことは、あんまり思い出したくない。四人の謝罪会見。生放送で毎日泣いている太一くん。そして退所が決まり、四人のTOKIOの写真がタヒチにアップされた。どうしようもなく悲しかったけど、受け入れるしかなかった。メンバーの方がはるかに悲しかったと思うから。やっぱりTOKIOが好きだったから。
DASHもトキカケも、四人で続けられた。続いているだけでもありがたいのかもしれない。でも、終われなかった、という一面もあるのではないか。様々なジャンルの仕事を抱えるTOKIOは、存在が大きくなり過ぎたのかもしれない。吹けば飛ぶようなグループであれば、一人の不祥事くらい抱え込んで、うやむやに続けられたんじゃないか。そんなくだらない事を考えたりした。
茂子のリサイタルで、「このままじゃ終わらない」と言う言葉を聞けて、嬉しくて悲しくて泣いた。でもその後、メンバーから、TOKIOのこれからに関する言葉は、きちんとは聞けなかったように思う。
もやもやした状態のままでありつつも、残ったメンバーのお仕事はとても順調なように見えた。それは今まで培った信頼の証であると思うので、誇らしいことでもある。ただ、汚れを切り捨てたからこそ、という面もあるように思えて、悲しかった(自ら退所したのだというのはもちろん承知の上で)
25周年には何かあるのでは?とソワソワしているところに山口くんの週刊誌インタビューがあって、四人で音楽を再開するのでは、と話題が上がったりした。それを歓迎できない自分がいた。
私は特に担当というのはおらず、箱推しというか、五人の絆萌え、みたいなタイプのオタクだ。TOKIOは五人でないとダメで、特に音楽活動は五人以外考えられなくて、でもそれは無理な相談で、自分でもTOKIOにどうしてほしいのか分からなかった。こんなに五人推しだったことに、四人になって気付かされた。それくらい、いくつになってもTOKIOは五人だと思っていたのだ。
彼が事件を起こして、失われてしまったものは数えきれないほどある。大好きな平家派もJフレも、存在が一人欠けてしまった。きっと盛大に祝われるはずだった25周年、それを記念したライブも。聴けるはずだった新曲も。音楽番組でのガヤも。
それらを奪った彼のことを、それでも嫌いにはなれなかった。本当は悪い子じゃないんです、とモンペみたいな気持ちにもなった。長いことファンをやっていて、もう勝手に身内みたいな感覚になっているのだ。
昔から、甘いところ、不注意で軽率な一面はあったと思う。ただそれを、持ち前の器用さソツの無さでカバーできてしまっていた。無免許も離婚もなんとなく受け入れられて、その後の仕事に影響しなかった。それも不幸の元だったのかもしれない。
起こした事は擁護しようのないものだ。それでも嫌いになれないのは、彼の今までを見てきたからだ。
24時間で、ゴールするリーダーを見つめる潤んだ視線。明雄さんのお見舞いで、その手を握る姿。東京に避難してきた北登を撫でて、涙ぐむ様子。まな板事件。思い出すのが泣いているところばかりなのは、彼は悪い人じゃない、と信じたいからなんだろうか。
何が彼をここまで追い詰めたのだろう。
村がまだあったらなら、明雄さんがご存命だったらまた違ったのだろうか、等らちもないことを色々考えたけど、もちろん答は出ない。
おそらくアルコール依存症だと思われる状態になるまで、誰も彼を救えなかったんだろうか。一連のことで私がもっとも落ち込んだのは、この事かもしれない。メンバーの存在は、山口くんの救いにはならなかったという事実。
家族でもなく友人でもなく同僚でもない、メンバーという特別な存在に、夢を見過ぎでいたんだろうか。
一時期話題になった、連帯責任という言葉がもし適用されるなら、彼が病んでいくのを止められなかった、という点ではないか。もちろん実際のところは全くわからないけれど、思ったよりメンバー間の繋がりというのは薄かったのかな、と。アラフォーにもなれば、それが自然なのかもしれないけど、やっぱり悲しかった。
もう彼は見たくない、早く四人で音楽活動を、という声もネットでよく目にした。理屈では理解できるけど、感情的にはまったく受け入れられない意見だった。私には音楽の専門的なことは分からないけれど、例えサポートのベースを入れたとして、それは果たしてTOKIOの音楽と言えるのか。あの甘い歌声、ツインボーカルやハモりの美しさも、TOKIOの音楽の大きな魅力なんじゃないのか。深い信頼をおいた存在が奏でるリズムだからこそ、生まれるものがあるんじゃないのか。表立ってはとても言えなかったが、そんなことをつらつらと考えていた。
ファンの感情をよそに、結局TOKIOが音楽を再開することはなかった。かわりにささやかれ始めたのが、長瀬くんの脱退説だ。まさか、いやでも。また感情が振り回され、DASHやトキカケのちょっとした発言に一喜一憂したりする日々が続いた。
そして7月、正式に長瀬くんの退所が発表された。ショックと同時にああやっぱり、という気持ちもあった。でも、そのショックを打ち消すような、タヒチでの太一くんの言葉で、全てが報われたような気がした。ツイッターで、「浄化」という言葉を使っていた方々いたが、まさにそんな感じで。それくらい、「TOKIOは五人」という言葉はありがたいものだった。
何がつらかったって、まるで始めからいなかったみたいに扱われることで、何かのバラエティの結成秘話VTRで、山口くんの存在が抹消されていたときはもうファンやめそうになったくらいだ(やめてないけど)
だから、ひっそりと彼の痕跡を流してくれるDASHには本当に感謝してたいた。
そんなところに、メンバー本人からの、五人発言だ。大げさでなく涙が止まらなかった。今までの自分の感情を肯定してもらえた気がした。五人のTOKIOが好きだと、堂々と言っていいんだ。それが何より嬉しかった。
その後の会社設立、インタビュー、そして921のサプライズプレゼント。
会報の中でも、彼の話題が出ていた。松岡くんの「兄ぃ」を久々に目にしてまた泣いた。校正でいくらでも修正できるところに、あえてそのままにしてある辺りに、覚悟というか決意というか愛情というか、いろんなものを感じた。そもそも退所した人の話題が載ってるのがすごいかもしれない。更に写真が最高だった。やればできるんじゃんアイドル!なんで出し惜しみするの!でもありがとう!
正直にいうと、1回めよりはショックは少なかった。もちろん、このタイミングでなにしてくれてんの!とは思った。
しかし、ここ最近のTOKIOの動向やら、五人発言やらが影響したのでは、ということの方が気になったのだ。まだまだ回復には遠い状態なのだ、というのが悲しかった。これもネットで見た意見だけど、人様に怪我をさせたりすることがなかったのは、せめてもの幸いだったのかもしれない。生放送でのリーダーの言葉には、少し救われた。メンバー自らの発言はやっぱり大きい。
TOKIOは五人です、と言い切るならば、こういう事も起こり得るという、リスクも伴ってくる。だからそれなりの覚悟を持っての発言だったんだと思う。(まさかこんなにすぐ事件になるとは思ってなかっただろうけど)
これをきっかけに、TOKIOの今後が何かが変わるのか変わらないのか、それもよくわからない。
ただのファンには何もできない。ただ、適切な治療を受けられて、人や自分を傷付けることのない状態にいることを、祈るだけだ。
他のメンバーもだけど、どこでどんな仕事をするにしても、とにかく健康でいてほしい。幸せであってほしい。それが今の気持ちだ。
今もずっと感謝しているし、TOKIO名前を残して、続けてくれることが本当に嬉しい。
何なら今も、コロナやら何やらで結構人生のピンチなんだけど、今はTOKIOに救いを求められない。私はV6との掛け持ちオタクなんだけど、25周年のお祝いムードにもついていけていない。むしろ温度差の激しさで病みそうな状態だ。あったはずのTOKIOの25周年に思いを馳せたりしてしまう。不毛だ。
アイドルのファンでいるって、ただの趣味で、本当はもっと幸せなことであるはずだ。こんなに落ち込んだり考え込んだりするならやめた方が楽だろう。
今まで行ったライブで味わった幸福も、CDもDVDも、大切な宝物でありお守りだ。
一時期聴くのが辛かったけど、今はふつうにTOKIOの曲をシャッフルして、久しぶりに再生したカップリングなんかを聴いて、めちゃくちゃ名曲だな⁈と改めて衝撃を受けたりしている。
未来のことは分からないけど、元気で生きていてさえくれたら、いろんな可能性があると思うので。当分はこんな感じで、低空飛行なオタ活を続けていくんだと思う、たぶん。