仮想通貨については前置きで本題は宗教の方なんだけど、背景としては次のようなものがある。
・仮想通貨の相場がいま全体的に上がっている。ただ、知ってのとおり乱高下の激しい市場なので、損が出たときはもちろん、儲かっても精神的にものすごく消耗しやすい
・宗教云々言っているが、俺は無宗教で無神論者だ。いつか信仰が雷撃のように俺を打ってくれればいいと思ってはいるが、たぶんそういうことはないだろう
・人は必ず死ぬ
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一昨日、仮想通貨の銘柄の一つであるxemが高騰し、前日比で20%ぐらい額が上昇した。約3年前に日本の取引所からハッキングで流出したために話題となり、あまり良くない意味で有名な銘柄だ。
俺も保有していたので利益は出たが、想定以上の値上がりにかえってテンパってしまい、しょんべんくさい利確を繰り返して微妙な収支に終わった。そういうわけなので、「あのときああしていれば…もっと…」という強欲な後悔がいくらか割と残っている。
この後悔の根っこには、あるルールが俺の中で不在だったことが原因にある。株でもFXでも仮想通貨でも、あらゆる金融の教本やサイトで共通して書いてある「自分との約束を作り、これを守れ」というルールだ。例え、いくらで利確しいくらで損切りしろ、とは書いていない教則でも、この原則だけは必ず書いてあるのだ。
結局、運用にあたって売買の目安となる約束を自身との間に設けておかないと、今回の俺のように場当たり的な売買を繰り返して心の底から疲労し、収益を素直に喜べない。というか、利益が出たからまだいいものの、これで損失が出ていたら立ち直れない。
妙な気もするが、投資においてはまずは自分との約束を律儀に守ることが優先され、純利とはそこからもたらされる精神の平安に伴って自然とついてくるもの、なのかもしれない(本当にそうかは知らない。何しろ俺は金融に関してはポンコツなので)。
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ただ、ここで約束という行為には、もうちょっと観念的な意味合いがあるんじゃないか、と思っている。それは、何かを決めてそれを守る、というルーチンを徹底することで、流れていく時間の上に想像上の節点を置き、好循環を意識させる働きがあるんじゃないか、ということだ。
例えば、
・「当初の目標の+値に達したから売った」→「得た利益で他の銘柄を買い、それも値段が上がった。一方、売却した銘柄はその後チャートが下がった」
という具合だ。
これは時間の流れに約束という節目を置いたからこそはじめて自覚できる好循環だ。約束をする、そして守る、という時間の区切り方によって、人間は自分が良い流れの中にいる、というイメージを持ちやすくなり、次のアクションを取る精神的な敷居が下がる。そして、それがさらに良い結果を生む、という具合に好循環が持続する。反対に、ここに約束が介在しないと、漫然と得をしたり損したりを繰り返すうちに精神がすり減っていくことになる(特に負けがかさんだ場合)。
え? そんな都合よく転がるか?
転がらない。
実際は、目標の含み益に達した銘柄は売却した後もさらに上がり続けるし、事前に設定した一線を下回ったので売った銘柄は、その直後に反転して値が上がり始めることも多い。
ただ、それでも約束が無意味ということにはならないと思う。ここには、人間の精神というやつの良くも悪くもいい加減な本質が関わってくる。
俺は、人間は直近の近視眼的な損得に一喜一憂するのと並行して、長いスパンの時間で因果を良い方に解釈することを自らに許す生き物だと思っている。
この世には値段が上がり続ける銘柄なんてものはないので(例外除く)、早めに利確しすぎて指をくわえて見るしかなかったものも、一晩寝れば結局落ち着いていたりする。損切直後に反転して悔しい思いをした銘柄も、やっぱり一晩寝ると、起きたら大幅に値を下げていたりする。
ちゃんと約束を守っている者の目には、利益は出ているように「見える」し、損は抑えられているように「見える」ことが多い。実態としてどうかは関係なく、好循環なんてのは結局は主観次第のサジ加減一つということだけど、俺はこれも知性の一つのかたちだと思う。
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で、約束という行為を骨子にして俺たちのメンタルを安定させ、好循環という錯覚、あるいは人生観そのものを構成しようとする営みが、金融以外にも、もっとデカいフレームとして存在する。宗教だ。
あえて断言するが、たぶん、約束という概念がない宗教は存在しない。聖書の旧約・新約なんてまさにそのもので、これは、「(神との)旧い約束」、「(イエス・キリストとの)新しい約束」という意味だ。
宗教は時節によってやるべきことを定め、やってはいけないことを定め、本来は脈絡なく流れていくだけの時間の上に節目を作る。設けられた節目は他の節とつながって、約束を守ってきたから生きてこられた、という好循環(に見えるもの)を形成する。宗教とはある意味、約束を守り続けることで自分はいま良い循環の中にいると感じるためのシステムと言い換えられると思う(実際のところ、キリスト教の背景には「これまでの神との約束、厳しすぎて正直しんどくねえ?」というのがあるが、話がややこしくなるので触れない)。
この状況では、約束を破るのは人生を放棄するぐらいのインパクトがある。本当に執行されるのかは知らないけど、イスラム教なんて棄教したら教義上は死刑になるぐらいだ。つまり、約束を破ると文字通り人生がぶっ壊れてしまうのだ。
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ところで、人間は必ず死ぬ。死後の世界云々は置いておいて、とにかく確実に死ぬ。つまり、金融における好循環の終点に目標となる利益があるように、人間の終着には死があらかじめ確実に設置されている。
ここでたちはだかるものすごくデカい問題は、人間が自分の死に様を選ぶことがほぼ不可能だということだ。順風満帆に生きていても病魔で苦痛にまみれて死ぬかもしれないし、反対に辛酸をなめ続けてこれ以上つらいことがあるかと思ったら結局もっと苦しんで死ぬかもしれない。事故でいきなり死ぬこともあるかもわからない。死は完全に中身が不透明な箱だ。その中から何が出てくるかその瞬間までわからない。
最後に待つブラックボックスから逆算して、それでも人生を好循環によってとらえようとするとき、どんな人生観ならちゃんと機能するのだろうか? 生きていく勇気を持てるだろうか?
何もかもがフラットにゼロ価値だ、という超物質的なニヒリズムを除くと、俺は宗教しかないんじゃないかと思う。フツーに無宗教で生きてます、ってかなり苦しい。俺がそうだけど。「生きて生き続けた最後に、お前はめたくそ苦しんでこれ以上なくみじめに死ぬ」という貧乏クジが一定の確率で出てくる箱に手を入ざるを得ないとき、「何にしたって、とにかく自分は神(あるいは霊的な何か)との約束だけはこの人生で守りとおした。だから人生はちゃんと好転していたはずだし、この死にも意義が存在する」という以上に人間の精神を守るように機能する人生観って、正直マジでないんじゃねえかな? と思う。
投資家なのに死を恐れるなんて変わっているな。恐れるべきは生きること(長生きしてしまうこと)だろ。だから、将来に向けて投資をしているんだろ。違うか?
だめだな こっちは空洞化してない
無神論とニヒリズムって地続きじゃない? 神(無から有)を信じるから在る事に価値を見出す。本当に無神論者なら自分は自然の一部でしかなくそれって元から在ったもので意味を見出せ...
なにか信じるものに従えば必ずおちんぎんもらえるって一点張りの無知を知性とか信仰とかいうとあとで悲しくなるかなと思うよ 宗教だって思ったりするのだとしたらその制約を誓って...