はてなキーワード: 私事とは
本記事では、自分が今までまとめてきた服飾史についての記事のリンクをまとめる。また、それぞれの記事のブックマーク数を、各々の記事の内容や傾向、投稿時刻などと比較し、どのような記事が増田ではよりバズりやすいかについて考察する。
導入で述べたように、ブルマーに関する記事についての傾向を調べる。また、項目の一つとして、どの程度IMRAD形式に従っていたかについても調査する。
IMRADとは論文を書くときの基本的な文章の構成方法だ。Introduction, Methods, Results And Discussionの略称で、おおよそ次なような構成に従っている。
もちろん、これはまったくの趣味で書いた文章であるので、ところどころ自分語りが挿入されるなど、厳密にIMRADの形式には従っていないし、結果と考察も一つにまとめられている。そこで、どの程度厳密にIMRAD形式の通りに文章を書いたかを三ツ星でランク付けする。例えば、導入部が省略されているときには、星を一つ減らす。自分語りが長いと感じた場合も、星を一つ減らす。
また、ブルマーとは関係なく書いた随筆についても後ほどその結果を掲載する。
タイトル | 執筆時点のブクマ数 | 投稿日 | 投稿曜日 | 投稿時刻 | IMRAD度 |
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日本人のブルマーとイギリス人のブルマー | 382 | 2020/06/28 | 月 | 07:56 | ★★ |
ドイツ人のブルマーとソ連人のブルマー、となりのトトロのパンツ(1) | 37 | 2020/07/27 | 月 | 07:44 | ★★★ |
イタリアと南米と中国のブルマー(修正版)、その1 | 2 | 2020/08/25 | 火 | 07:45 | ★★★ |
チアリーダーのブルマー、テニスのアンダースコート | 51 | 2020/09/01 | 火 | 08:02 | ★★ |
フィギュアスケートの見せパン、新体操のレオタード、陸上のブルマー | 488 | 2020/09/07 | 月 | 07:52 | ★ |
競泳水着と全裸水泳、海女さんのふんどし | 27 | 2020/09/08 | 火 | 07:55 | ★ |
ビーチバレーのユニフォーム、極小ビキニ強制の歴史 | 272 | 2020/09/14 | 月 | 07:38 | ★★ |
バレエのチュチュ、スカートの中のフリルとパンツ | 40 | 2020/09/17 | 金 | 07:50 | ★★ |
気が済んだので、またブルマーについて書くとはあまり思わないが、書くとしたらほどほどに私事やユーモアを入れてくつろげる文章にしたい。ブルマーについてだけではなく、日常で感じる素朴な疑問についても調査し、読んだら疑問が解消されてすっきりするものを目指したい。
また、具体的にどんな文章がバズるかは、どんな文章が読みやすいことと表裏一体だと考えられるので、こうした知見も仕事やブログの記事に役に立てていきたい。また、自分語りをするときであっても、読者にどう配慮すれば読みやすくなるかも、考え続けたく思う。
他人に迷惑をかけるつもりなどさらさらないが、全裸になるのが好きなので、オーシャンビューとか山の中の露天風呂とかが大好きだ。その好きが高じて、オーストリアの混浴サウナにまで行ったことがある。そこには25メートルほどのプールがあり、遠慮なく裸で泳ぐことができて大変気持ちがよかった。サウナと往復しながらだとそれこそ整うわけだが、こういう場所が日本にないのは残念だ。何も混浴にしろとは言わないので、素っ裸で泳げる広いプールはないだろうか。
さて、昨日(anond:20200907075225)の続き、競泳水着についてである。
以下の歴史は、wikipedia英語版の「History of Swimming」や「History of Swimwear」の拾い読みによる。
有史以前から人間は泳いできたが、大抵の場合全裸であった。ローマ時代にはビキニのようなものを身にまとった女性の壁画が残されているが(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/27/PiazzaArmerina-Mosaik-Bikini.jpg)、これが水泳に用いられたという証拠はない(この古代ローマのビキニには漫画「テルマエ・ロマエ」からも言及があった)。つまり、絵画の水浴図で誰もが全裸なのは、西洋の画家の猥褻な妄想ではない。
水着の歴史は、海水浴と入浴着との歴史が密接に絡み合っている。17世紀の終わりから欧州では公衆浴場で女性がガウン上のものを身に着けるようになったが、男性が裸で泳ぐことはしばらくは当然のことであった(河出文庫のシャーロック・ホームズ「ライオンのたてがみ」の注釈には、このシーンで登場人物は全裸で泳いだと思われる、とある。また、E. M. フォースターのどの作品だったか忘れたが、全裸で泳いでいる男性に悲鳴を上げる女性が出てくるシーンがある。「眺めのいい部屋」だったっけ? また、時代をさかのぼれば「デカメロン」で女性陣が男性陣の目を盗んで裸で泳ぐ場面がある)。
ところが1860年代にイングランドでは男性でも裸で泳ぐことが禁じられた。しかし、身体を見せることを極端に禁じたヴィクトリア朝の反動だろうか、それ以来、全身を覆う水着から現代のビキニへと、肌を見せる方向に回帰しているし、ビーチによってはトップレスが許容されている(親が持っていた海外の観光案内に、トップレスの女性の写真があって、面食らった覚えがある)。いまでも、ヌーディズムが盛んなドイツ・オーストリアなどの中欧では、裸で泳げる場所は少なくない。結局のところ、素っ裸が気持ちいのではないだろうか。
また、一部のスポーツ施設では、男性が全裸で泳ぐことを学ぶことは珍しいものではなかった。昔のYMCAがそうだったらしい。また、驚いたことに、wikipediaの「naked swimming」の項目には、1900年頃に男の子が裸、女の子が着衣で泳いでいる写真がある。こういう日本のCFNM系エロ同人みたいな状況が現実のものだったとは、驚きである(リンクを直接貼るのはなんかまずそうなので割愛)。
なお、女性の水泳の普及が遅れたのは、恥じらいとは別に、生理時の衛生管理の問題もあったそうである。
ところで、意外なのが川や湖ではなく、海で泳ぐ習慣は比較的最近のもので、17世紀ごろからのものだそうだ。海洋国家イギリスの娯楽としての海水浴の歴史は、意外に浅いのだ。また、人が速く泳ぐようになった時期というのも驚くほど遅い。たとえば、1870年代にアマチュアによる世界記録が打ち立てられたのだが、1878年に自由形100ヤードは、なんと76.45秒であった。ちなみに、マシュー・ウェッブ大尉がイギリス海峡を泳いで横断したのもおおよそこのころだ(1875年)。古式泳法もそうだろうが、おそらく速く泳ぐことよりも、長く泳ぐことや、戦場での実用性が重んじられていたのだろう。
この時期はVictorian Sports Maniaと呼ばれる時期で、水泳は数十年にわたって英国が世界をリードする国家的運動となったそうである。このあたりはジョン・サザーランドの英文学史の本にも載っている。
海水浴で使う水着とはまた別の歴史をたどったのが競泳水着である。
https://www.glamour.com/story/the-evolution-of-olympic-swimwear
上記の記事によれば、女性がオリンピックで泳ぐことを許されるようになったのは1912年のストックホルムでのこと。競泳水着の歴史は、ここから語られるべきだろう。
初めの競泳水着は絹でできていたそうだ。また、太ももの露出は少しずつ増えて行ったが、1928年頃まではあまり下着らしく見えないように、下半身が少し膨らんでスカート状になっていたそうである。
ナイロン製になったのは1964年で、1976年頃に少しずつハイレグっぽくなりはじめる。
1984年になると、どういうわけか突如かなりのハイレグになる。男性の水着の面積が極小となったのもおおよそこの頃だし、日本でも時期的にハイレグ水着の流行したバブルと被る。クレヨンしんちゃんのハイグレ、懐かしい。で、話題を戻すと、以前の記事に書いたような女性スポーツウエアのハイレグ化の時期(60年代)とは、若干ずれていることがわかる。しかし、肌を見せることによるスピードアップには限界が見られた。
そんななか、2000年代に一気に普及したのがスピードのボディスーツだ。今はこれが主流だ。簡単に言えば、水の抵抗を減らすために、大きな渦を減らし、小さな渦を作るそうだが、層流とか乱流とかその辺のややこしい話になりそうなので、省く。
つげ義春の「コマツ岬の生活」にはふんどし姿の海女さんが出てくる。これは能登地方のサイジと呼ばれるふんどしの一種らしく、この地域では1960年代前半までこの姿であった(これも写真があるが、今までのスポーツウエアと違って乳房の露出があるのでリンクは控える)。エッチなマンガの読みすぎか、日活ロマンポルノの影響か、なんとなく海女さんといえば、ふんどしというイメージがある。「海女(あま)のいる風景」という写真集の表紙もそうだ。しかし、浮世絵を見てみるとほとんどが腰巻である。私も、太田記念美術館で見たことがある。
https://www.ijikasou.com/monthly/2016/06/
https://www.pinterest.jp/pin/309481805630462018/
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Yoshitoshi-Ariwara_no_Yukihira.jpg
これは恐らく、磯ナカネと呼ばれる別種の木綿の布である。江戸時代のこと、おそらく江戸湾近辺では海女さんはふんどしではなく、この格好だったのだろうと推察される。
昭和時代、中にはレオタードをまとって漁をする人々もいたという。というか、今でもいるそうだ。レオタードの中に海産物をしまうことで、取りすぎることを防ぐそうである。
http://www.chie-project.jp/001/no15.html
たぶん、女性のふんどしの使用は、生理用品としてのみに限られたのではあるまいか。団鬼六作品をはじめとしたイメージから来ているかもしれないが、SMは不勉強なもので詳しくない。そのうち調べるかもしれない。
考えてみれば、自分はふんどしについてそこまで詳しいわけではなかった。女性用の下着としてふんどしがどれほど用いられてきたか、あるいはそもそもふんどしとはどのような下着であったのか、その歴史についていずれ調べてみたい。
仕事・私事・ネット上問わず色んな人と会う中で診断済みの発達障害者や、明かされていないものの発達障害の特徴を持っている人と多数交流を持って実感したことがある。
彼らは当然そうではない人々と同じように人から受け入れられたい、愛されたいという願望を持っているが、それを満たすのは個人には無理だ。
想像してみれば、大変な苦境であるとは思う。人間なのだから受け入れられたい、愛されたいと思うのはおかしいことではない。
けれど一部の満たされていないその人たちは満たされないが故にその欲求はより大きくなり、受け入れられることや愛されることへの幻想が大きくなって更に飢餓感が強くなる。
そこに発達障害の特性である自他の区別のなさや他人の心情を想像できないことが加わると大変なことになる。
というかなったのを沢山見てきたし、当事者として巻き込まれたことも何度かある。
でも良く考えて見てほしい。
特性は色々あるので一部の例になるが、
・待ち合わせをしても必ず遅刻する、あるいは来ない
・こちらからはどんな切っ掛けか分からないまま、突然パニックを起こされ振り切れた感情のままを見せられる
・こちらが相手に対して好意を持っていると勘違いされ、そのような行為をするべきであると強く要求される
・会話をして盛り上がっていると、突拍子もない(聞いている人間が不愉快になる発言をして場を凍らせる
・秘密にしておいてほしいことでも、口止めを忘れてたくさんの人に広める
これは障害のせいなのだから、受け入れろと言われるのならば仕事や深くはない友人関係であれば交流はできるだろう。
でも、個人的に深く親密な関係を築くのは無理だ。発達障害だからじゃない。深く付き合えば、こちらが病気になってしまうからだ。
最初は、差別は良くないからと根気よく向き合った。次に、理解しようとして発達障害について調べた。でも、もう無理だ。
発達障害を持っていても人として尊敬できる人もいるだろう。でももう懲り懲りだから、なにかおかしいな?と感じたら距離を取ることにする。
差別はいけないのだと、人なのだから努力すれば良い関係になれるのだと思ってきたけれど自分は自分が思っていたよりも差別主義者だったことになによりがっかりしている。
ごめんなさい。もう無理です。
これから会社に行かなければならない。今の部署には合理的配慮が必要な発達障害者がいて、私は今から彼の今日一日のスケジュールを立てることと週末までの仕事の確認、一部業務の付き添いと休憩時間の面談(と分からないような雑談)をしなければならない。
またあの素っ頓狂な会話を根気よく噛み砕いて理解して返事しないといけない。最近段々上から目線になってきて俺が教えてやるみたいな態度になってきたけど、言っても理解できなかったようだからがまんしないといけない。
アニメ視聴歴9年ほど。深夜にやってる作品を動画サイトで見てる。
ここ数年、アニメを見るのが辛い。
ひとつの作品を視聴するのに通常の2倍の時間がかかる。23分のアニメなら45分くらい。2時間の映画だったら3時間以上かかる。
なんでかっていうと、視聴中に以下のような症状が出る。前からずっとだ。健常者には理解不能だろうけど聞いてほしい。
・同じ場面を何度も見てしまう。本当に何でもない人物描写や背景のシーン(ex 今終わったカットで、あのキャラの口角が上がっていたか?)なんだけど、いったん疑問が起こってしまうと、それ以降は集中できなくなる。何回も巻き戻して、見返してしまう。それが何十回にも渡って続く。
・自分が特定の場面で特定の行動を取ることができない(ex 動画が始まって1分以内の適当だと思うシーンで飲み物を口に入れる)と凄まじい後悔になる。視聴を進めるのが困難なくらい悩み考え込んでしまう。以後は視聴に集中できず、上のような症状にもなりやすくなる。
・違和感。例えば、もの凄く作画数が多いシーンがあったとする。最近だと、つぐももの9話だ。くくりちゃんの戦闘シーンがめちゃくちゃ動いてたよな。普通の人だと感動するところだけど、私には難しい。具体的には、戦闘シーンが始まってすぐに、「自分は今、完璧に集中してみることができていたか?」という疑問が湧いてきて、それを肯定しようとしている間にシーンが進んでいく。肯定ができたとしてもそれが信じられずに、やはりシーンは進んでいく。結局、神作画をまともに楽しむことができない。新しいプリキュアが変身するシーンなどでよくなる。
気にしないのが一番のやり方だってわかってる。それでうまくいくこともある。
でも、うまくいかないことの方が多い。
アニメを見始めたばかりの頃はこんなことなかった。純粋に楽しめていた。でも、ギルティクラウンの4話だったかな。映画レベルの神作画だったんだけど、この辺りで上のような違和感に気が付いた。
それで何が言いたいかというと、増田の人は私のような症状になることはないんだろうか?もしなったことがある人がいたら、どうやって直したんだろう。
私事だけど、がんを発病してる。
長くは生きられない。1年くらいは生きられると思う。
もうすぐ会社を辞めて自宅でゆっくりする予定なんだ。最後にアニメをたくさん観たいな、というのが願いのひとつだ。
アニメが好きだ。アニメを楽しみたい。もし私の悩みに応えてくれる増田の人がいたら嬉しい。
・答えを持ち得ないし、上手く言えないけど、増田にとって毎日が充実したものとなりますように
どうしたらいいのかはわからないや、ごめんね。気楽にやってくれると嬉しいな
・ここにいってみたら?
→多分もうだめなんだ。奇跡に賭けるお金もない…でも、あと1回だけ挑戦してみようかな。サンクス。
・1と3はわかるなぁ。強迫性だねぇ。 いつの間にか気にならなくなってた。 増田はやめたいのかな。 自分のことをおかしいと思わないで、受け止められたらいいね
→私も気にならなくなりたいな。今のところは、とにかく動画に集中し続ける訓練をしてる。
・1と3はわかる。2はどうだろ……ないと思うがあるような気もする。
ひどい時期に比べて巻き戻す頻度は下がったんだけど、なんでかはよくわからない。
リアルタイムで見ると(ストレスではあるが)巻き戻せないので見切るしかない……のを、
繰り返したら減った気がする……いやどうかな、やっぱり1.5倍くらいの時間はかかるかな……。
生き続けたとしても全部は見きれないので、すごく見たいもの以外は流す……と決めるとか、かな。
役に立てなくてごめん、いい視聴体験ができるよう祈っている。
→助言ありがとうございます。十分です。そうだね、作品は厳選しないとね!
→なんでがんになっちゃったんだろう。まだ20代後半なのに...覚悟はできてるから、あとはもう笑うだけだ。
こんなことになったのには心当たりがある。あなたも健康に気をつけてください。
・わかる、私も1と3にばっちり当てはまる。
たぶんアニメが好きな分、特別視しすぎてるんだと思う。ちゃんと見なきゃ、って。
そのうち録画したアニメを見るのがおっくうになってきてアニメ自体あまり見なくなってしまった。
→アドバイスありがとう!挑戦してみる。特別視とかしないで、緩い気持ちで観れたらいいのにな。そのとおりなんだよ。わかってるんだけど難しい。
とは言え、わが子は生まれついてのものでしたから、元増田様の心中は察して余りあるものがあります。
ですので、あまり無責任なことは言えないのですが、文章を読む限り元増田様なら(今は状況を消化できないでしょうが)いつか動ける日が来ると思っております。
そんな日が来たら、まずは行政(都道府県or市町村)に頼ってください。病院でも案内があったかもしれませんが、障害者とその家族を支援する制度がなにがしかあるはずです。どこに相談すればいいかわからなければ役所の総合窓口へ。該当する部署を紹介してくれます。
[(隙自語)私は転勤が多く、色々な場所に住んだ経験がありますが(自治体によって違う部分があれど)何も制度がないということはありませんでした。]
とにかく行政と繋がっておくことが重要です。行政に記録が残っていれば、将来的にも支援が受けられやすくなりますし、時には行政側から情報が得られます。
そして、ぜひ療育施設を利用してください(これも行政から紹介してもらったり、繋いでもらえたりします)。そこでは、同じような境遇で一生懸命頑張ってる親御さんと楽しんで頑張ってる子供たちがいます。親同士のつながり、子供同士のつながりは、ともに心の支えになります。
[(隙自語)私事でいうと、現在は(前述のとおり転勤のため)療育施設に通っていた頃とは全然違うところに住んでいますが、娘はそろそろ成人するぐらいの歳になっているにもかかわらず、今でも当時一緒に頑張っていた者同士連絡を取り合っていて、数年に一度ぐらいは集まることもあります。さながら"戦友"です。]
また、施設に預けている間は少しだけ子育てから解放されます。寝るなり好きなことをするなりして、ちょっとだけでも体や心を休めてください。
お互い、適度にさぼりながら頑張りましょう。
また何かあったら書き込みに来てください。
https://wwr-stardom.com/news/release523/
正直、存じ上げない方だったし、テラスハウスも見ていないので事のいきさつはよくわからない。
見出しが目に入ったとき、事故死か、急病か…もしかしてコロナ?…とか思った。いずれにせよ若いのに残念なことだ、と。
原因(と思われる事象)は、ネットの歴史で嫌というほど繰り返されてきた、ありふれた事件のひとつではある。具体的な案件、被害者を挙げればいとまがない。対処法も千差万別、裁判所に持ち込んで徹底抗戦をする、これも有名税と割り切った対応をする、など。
ただ隣国・韓国で相次いだ、トップアイドルと言って差し支えないレベルのタレントの自殺事件があって、様相がすこし変わってきてもいた。そしてついには、日本でも 同様の事件が起きてしまったということか。
いわゆる、こうしたネットイナゴ/ネット暴徒にどのように立ち向かうか、また、そもそもここで言う悪とは何なのか誰なのかといった論は差し控える。付け焼き刃の知識で雑な論を書いても何も実るものはない。
ただ、私自身、この事件に腑に落ちない、わだかまりを感じている。すなわち、SNSで叩かれて、なぜ自ら命を断たなければならないのか、ということに、左脳的なところでは承知していても右脳的なところで納得がいっていないのだ。
私事で恐縮だが、昨年書いた増田がプチ炎上をした。頭の悪いことにセルクマなんていうものをしていたため、はてブの通知は大変なことになった。ブクマ数が10を超えたところで「おや?」となり、そこからはあっという間だった。ブラウザを更新するたびに数字は増え、アプリを開くたびに通知が届いていた。最終的に300くらいになっていたはず。というのは、該当する増田およびブクマをこころの裡に封印しているからだ。思い出したくもない屈辱である。
そんなに大したことのない数字ではある。しかし、こちとら鳴かず飛ばずで10年やってきた。今回もひっそりと増田の片隅に埋もれるものだと信じて疑わなかった。そういう身に、これはかなり刺激の強いできごとだった。
このとき私が試みたのは、アプリを消すということ。10年やってきてそこそこスターもつけてもらったアカウントだし、物書きなので、一度書いたものはどんなに拙かろうが残すべきである、それを含めて責を負うべきなのだ…などと半端なプライドがあったりもした。アカウント/エントリーを消す、という方策は初めから俎上に上がらなかった。代わりに、アカウントと実世界で生きる「私」との間にある接点を切り離すことにした。
どれだけ反論してみても意味はない、ただ時間が過ぎるのを待つしかない、ということを長年のネット経験で感覚的に理解してもいた。そうして半年ははてなのサイトには近づかないようにしようと誓った。その代替として、グノシーだのスマートニュースだのを入れてみたが、これらは端的に言ってクソだった。
私は1980年代初頭の生まれでいわゆるアラフォーという年代なのだが、ネットの世界は極論的には物理の力で強制的に遮断できる、という観念がどこかにある。
「勇午」という漫画で、敵に逆探知(?)かけられそうな時に電話線もろとも切断する、というシーンがあったはずなのだがまさにこういうイメージだ。
ところが今の10代〜20代前半の人たちの文章を読んだり、動向を追ったりすると、SNSが日常やこころの深いところまで入り込んでいることが見えて驚きを禁じ得ない。
「言葉の暴力が人を殺す」とはネット時代以前から言われ続けている。それ自体は新鮮な論ではなく、ここに疑いの余地はない。彼女を死に至らしめた誹謗中傷を許さない。書き込んだ奴らは恥を知れ。まったくもってその通りである。
ただし、善人ばかりで回らないのもこの世の常。防衛の手段としてなんらかのオプションを持つことも生き抜くためには必要な知恵かと考える。その際、SNSを、そこで持つペルソナを自身から切断するという手段は、もはやネット黎明期の牧歌的な幻想なのだろうか。
4期目はないと自ら言っているので続投はないのでしょうが、引き続き頑張ってください。
番組やSNSでは叩く声も目立つようになってきましたが、支持率調査では40%付近を維持できています。
打ち首にせよ!的な過激な一部の声が大きいだけで、今のところ大勢に影響はないようで何よりです。
者ども総じて浮動票を獲得しようと印象付けをしているため、それを不安視した擁護の声も大きくなり、
リモートワークになったこともあり、世間のリアルな声を耳にする機会が減りました。
安部首相や政府や自民党について、これまでリアルで居酒屋の政治談議も含め口にしたことはありません。
製造業など日本を支える産業の分野では民主党時代に比べ格段に好況になっていますので
造語ではありますがアベノミクスの恩恵を享受し、年収・生活レベルとも向上しています。あくまで私事ですが。
機会さえあれば、この7年間の安定した生活向上について、同様の想いをもつ人々と談義したいところです。
が、風潮的になかなか政治の話を市中ですることがはばかられます。
欲張りなひとが増えたのでしょうか。コロナ封じ込めと経済対策を同時に行うことはできません。
作品内で天祥院英智(以下、英智)が「リベンジポルノを撒き散らす」という発言をしたことにより、先日よりTwitterをはじめとしたSNS界隈で炎上している。
これに対して色々な意見が述べられているが、どうも「何が」問題なのかという点がズレてきているように思えたので、一個人としての考えをまとめさせてもらいたい。
この投稿を見ている人で、あんさんぶるスターズ!!(以下、あんスタ)をプレイしていない人ももちろんいると思うので、英智がなぜそういう発言をするに至ったかを簡単にまとめておく。
Crazy:Bというアイドルユニットが、他のアイドルたちの過去を捏造して公表したり、センセーショナルに煽ったりしたことで、アイドルへのヘイトが集まるようなパフォーマンスをした。
彼らの行いを放置することは、アイドル業界にとってよくないことだと判断した英智は、彼らを大人しくさせるための対抗策の一つとして、Crazy:Bのメンバーの情報を集める。
その際、英智は「やられっぱなしでは癪に障るからね。(中略)彼らの弱点を掴めたということだよ。だからもし、『Crazy:B』が【アイドルロワイヤル】での卑劣な戦術を繰り返すようなら、同じように僕たちも彼らを破滅させるために手に入れた情報を公開する。彼らの、恥部をね。毒針ならぬ釘を刺してあげるよ。目には目を、歯に歯を、ヘイトクライムにはヘイトクライムを。悪評を立てられたら、その報復としてリベンジポルノを撒き散らすよ (アンサンブルスターズ!! メインストーリー 第五章 第百三十八話より引用)」と発言している。これがどのような情報であるのかは、メインストーリー上では明確にされていないが、少なくとも、Crazy:Bにとっては触れられたくないような話であることは匂わせている。
さて、ここで問題となっているリベンジポルノとはどういうものなのか。
リベンジポルノとは、離婚した元配偶者や別れた元交際相手が、相手から拒否されたことの仕返しに、相手の裸の写真や動画など、相手が公開するつもりのない私的な性的画像を無断でネットの掲示板などに公開する行為のことである(wikipediaより引用)。日本でもリベンジポルノ防止法(私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律案)が制定されており、犯罪行為である。
これを踏まえて、今回の問題点は大きく分けて二つあると筆者は考える。
そもそも、文脈から考えると英智の行動は、リベンジポルノではないと言える。
今回、彼が示した対抗策は、簡単に言うと「ライブ会場やネット上で誹謗中傷を受けたので、こちらもCrazy:Bが嫌がる情報を公開してやろう」ということである。今回のCrazy:Bの行動も、英智が用意している策も、リベンジポルノも名誉毀損であることには違いないが、Crazy:B及び英智の行動は「性的なもの」ではないため、リベンジポルノという例えが当てはまるかは疑問である。著者である日日日が、何かの理由を持ってこの表現を用いたのかもしれないが、少なくともその説明が作品中で行われていない以上、適切な表現ではないだろう。
また、リベンジポルノという単語の使い方が適切でない以上、会社や作者が性犯罪に対して鈍感であると捉えられても仕方がないように思えてしまう。ただでさえ、日本は外国と比べて性犯罪に対する認識が甘いと言われいる。エンターテイメント上での表現とはいえ、十分な配慮を持って使用するべき単語であることは間違い無いはずだ。膨大なテキストを公開しているあんスタであるが、しっかりと複数の目を通して校閲していれば、そもそもこの問題は起きなかっただろう。(他の文章でも所々、使い方がおかしい文章や、誤植が多いことから、普段から校閲が甘いのだろうというところではあるが)
SNS上では、あんスタは、そもそも現実世界と同じ基準で考えるとおかしいところがたくさんあるから、あんスタはあんスタ世界の独自のルールに基づいている、と考えているので気にしない。という意見も見られる。フィクションと現実の乖離について弁えていることは大切なことであり、否定はしない。しかし、今回の問題はもう少し配慮するべきところが隠れているのではないだろうか。
問題となった「悪評を立てられたら、その報復としてリベンジポルノを撒き散らすよ」という台詞についてであるが、もしも「悪評を立てられたら、その報復として彼らを社会的に殺すことも厭わない」と表現されていたらどうだろうか。この表現は、簡単に言うと「相手の行動により名誉に傷がついたので、相手にも傷をつける」と言っているようなものだが、そう表すことで、眉を顰める人はもっと多くなるのではないかと筆者は考える。倫理的な対応ではないからだ。
SNS上では、「リベンジポルノの被害にあっているのは女性がほとんどで、その女性がメインユーザーのゲームなのにその単語を使うのはどうなの」だったり、「実際にリベンジポルノが原因で自殺したアイドルがいるのに配慮に欠けている」だといった意見も見られるが、個人的にはアイドルものの作品でリベンジポルノという単語が出てくることに対しては構わないと思っている。もちろん、先にも述べたとおり、単語の正しい使用や、道徳・倫理的な配慮を十分にした上でのことである。
また、フィクションだから、といった理由で暴力的な表現や、唾棄されるような単語を許容してしまうのは危険である。ゲームという大衆にむけた作品である以上、物語上の出来事であるとはいえ、世界の何処かに、その言葉、そのストーリーに傷つく人がいるかもしれないのだから、その存在を考慮しないことは、あまりにも視野が狭いと言わざるを得ない。少なくとも傷ついた人に向かって「気にしすぎだ」などといった対応をとるのはあまりにも人の心に対して鈍感だ。
あんスタはスマートフォンでアプリをダウンロードして楽しむゲームであるが、その対象年齢には制限がない。中高生はもちろん、下手をすると小学生だってプレイ可能なゲームである。常識を弁えており、ある程度の道徳・倫理観を持った大人がこの話はフィクションだから、と判断することは構わない。しかし、情操を養っている最中の子供たちが触れるゲームとしては、あまりにも過激なストーリーになってしまってはいないだろうか。今回の炎上は、昔から、あんスタで過激に表現されていたところが改めて問題となって浮上してきたため起きたのではないだろうか。今回のことをきっかけに、対象年齢や、作品としての方向性を今一度定義し直すべきではないかと個人的に思っている。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000028599.html
ゼロ葬とは、宗教学者の島田裕巳氏が2014年に出した著書「0葬 あっさり死ぬ」(集英社)の中で提起した葬法。
冠婚葬祭なんてよくわからず年長者の真似をしてそういうものだとなんとなく学び、特に葬式なんて葬儀屋やお寺の言うままアレコレと準備してホイホイお金を支払って終わらせる人が多いと思う。
葬式、お通夜なんてしなくていい、お盆の時期に墓参りも掃除も必要ない。そう言うと年長者は目を剥いて怒鳴り散らすか困惑したまなざしをこちらに向ける。
私事になるが小生の嫁は昨年祖母を見送り、今年祖父が後を追うように亡くなった。両者コロナではなく大往生だった。
身重の妻はコロナへの感染を恐れ葬式に行くことをかなり悩んでいた。
結果、かなり配慮してもらった様なので参加してた。
妻とよく話すのは「葬式は亡くなった人への生者の配慮」であり、感情の問題とよく伝えていた。
だから妻には交際中から、高齢の祖父母とはよく話し相手の生きざまを聞くようにと言い聞かせていた。「彼らの価値観や選択の仕方を今のうちに聞いておけ。そうして何か問題が起きた時に彼らならどういう答えを出すか、それが分かるまで話した方がいい」と。
妻はのちに「あの時はそんなもんかなと思って話してきてたけど、いざ居なくなった時にも寂しいけど心がだいぶ楽になった」と言っていた。
葬式というのは、精神的にお別れさせるための大掛かりなセレモニーなのだ。
「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません」とある。
本当にその通りだ。
そこには厳しい言い方だが愛する方の残骸しかないのだ。
場所によっては遺骨の引き取りも断れる。遠方で、もう高齢で、など様々な理由で墓に行けないことで罪悪感を感じずに済む。亡くなった人に今後の人生を拘束されなくて済む。
もちろん選択するか否かは一族の考え方もあるし価値観もある。小生は永代供養より墓そのもの、葬式という儀式そのものからの脱却をしてもいいんだという知識が広まればと思い書いている。
僧職なんですが、ね。
・こんばんわ。今日マクドナルドで女子高生の2人組が「10万円入ったら何に使う?わたし新しいiPhone買おうかな」「私は……全部赤十字に募金しようと思う」と話してて、それを横で聞いていたおじいさんが「素晴らしい!ワシもそうしよう!!」と叫んで、店内はスタンディングオベーションに包まれてました。
・こんばんわ。私事ですが祖母の手術の手続きのために今日どうしても日中に近くの病院に行かないといけない用事があり、本当は自分の職場は勤務時間中に外に出るのは禁じられているんですが14時の昼休みに「コンビニに行ってくる」という事にして、職場からすぐ近くにある病院に行ってきました。埼玉市内にある病院なんですが「ちょっと説明を聞いて同意書にサインをするだけ、すぐ終わりますよ」と聞いてたんですが、説明だけで30分以上、サインをしないといけない同意書は全部で13枚あり、ちょっとコンビニに行っただけのはずなのに1時間近くかかってしまい、職場に戻って「どこ行ってたの!」ってちょっと怒られました。
・これは「今日わたしが祖母の手術の手続きのために職場を抜けたら思ったよりも長くて職場に戻ったら怒られた話」という大筋では本当なんですが、私の職場の昼休みは14時ではないし、埼玉市内の病院には行ってないし、同意書は全部で13枚ではありませんでした。万が一、自分のことを知っている人がこれを読んだら、またはネットに長けた誰かの悪意や暇潰しによって本来の病院の所在地や職場の昼休みの時間、同意書の枚数から自分の職場や病院を特定されたら、またそこから自分の事を特定され、職場や病院に電凸されたり、自分の住所に記念撮影や夜中にご訪問されだしたらかなわないため、いくつかウソを混ぜました。
・基本的にインターネット上における誰かの発信する情報なんて「本当に本当の情報」なんてひとつもない、くらいの姿勢でいいと思う。目の前にある誰かが発した何かの情報に対して、受け手にしても送り手にしても「それを本当だと確認する方法」「それを本当だと証明する方法」がないからだ。しいてできることは、その相手がどういうバックボーンで、今までにどういう情報を発信してきているか、というところからの累積的な信頼度を測るか、相手と自分との間にどれくらいの信頼関係があって、その人の発信することに対して「わざわざ疑う必要があるか/ないか」の段階まで持ってきているか、くらいしかないと思う。ゆえに、少なくとも自分は、自分の知らない(疑う必要がないくらいまで信頼関係の出来上がっていない)人がインターネットで発信している情報に対して、少なくとも自分が「これは本当だ」「これは本当ではない」を100%で見分けることは出来ない。繰り返すけど、それを本当だとこちらから確認する方法がないし、それが本当だと向こうから証明してもらう方法もないからだ。
・という前置きをした上で、とはいえ人間はある程度の直感なのか何なのかわからないけど、自分の中で受け取った情報に対して「その話が本当であるか/ウソであるか」をなんとなく嗅ぎ取れる機能を有していると思っている。スカッとジャパンを観て、あれが本当に視聴者から寄せられた本当にあった痛快な話だと全部信じる方がそんなにきっと多くないように、コウメ太夫の「偏差値の低い学校に入ったら先生がチンパンジーでした」というのを聞いて、本当にそういう偏差値の低い学校が存在すると真に受ける人がいるとは思えない。人間はある程度の「度を超えた情報」が入ってくると、自動的に「これは本当の話ではないんだろうな」と思うフィルターを搭載している。と思う。
・人がわざわざ「本当でない話」をする時、理由はふたつある。ひとつは「何らかの理由で、本当ではない情報をこしらえながら、本当であるかのように伝えたいもの」で、もうひとつは「本当の情報なんだけど、何らかの理由で自分自身のIDにまつわる情報を特定されると困るために、本当でない情報を混ぜていく必要があったもの」だ。
・この2つは似ているようで違う、と思う。どちらも結果的に「本当ではない情報」という分類に落ち着かせることは出来るが、そこに込められた意図は本当は180度違う。前者は自分の主張を広く伝えたいという目的やバズを稼ぎたいなどの虚栄心やPVによる収入目的などのために、話の根幹に事実でない創作を混ぜていく。後者は話の根幹に事実でない創作を混ぜるつもりはないが、何らかの理由で自分自身を守るために話の枝葉の部分に事実でない数字や情報を混ぜていくことで自分自身の特定を出来ないようにしていく。(本来はそのためのフェイクでさえ好ましくないとは思うが、インターネットの世界というのはケツ毛バーガー以降ちょっとでも油断して自分のリアルIDを晒してしまえば無数の暇人が職場や自宅に押し寄せ、家族や上司から付け狙って迷惑をかけ、最終的に本人を社会的に殺していくことをモンスターハンター的なレジャーとしている民族であることは間違いなく、それを知っているものならばそれからの防御としていくらかの自分の保護のためにフェイクを混ぜるのは致し方ないように私は思う。)
・というところで、目の前にある情報に対して、自分自身の直感や読解力を失い、自らの検索力や「他の人もこう言っている」を頼りにして、その情報にあるフェイクの部分はその情報の根幹の部分なのか枝葉の部分なのか、その情報の送り手は何を伝えんとしているのか、を読み取れなくなってしまうのは、不幸なことではないかな、と思う。「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と言ったのは20年前のひろゆきだが、今のSNS時代は、そのウソは何のためのウソなのかを読みとける人でないとインターネットを使うのは難しい、のかもしれない。
わたしはSNSにおける匿名性っていうのを諸刃の剣だと思っている。
わたしが現実世界で他人と関わろうとするとき、趣味の話ってそれなりに仲良くなってからじゃないとできない。
けれどSNSは逆だ。
仲良くなる入り口は趣味であることが多く、個人の価値観や信条などといった日常生活は後回しにされる。
だからこそわたしはツイッターで同じ界隈の人間と交流するときには注意している。
楽しく推しの話をしているが、日常生活に関わる部分の話はある程度ひととなりが分からないとしないようにしているし、ラインの交換なんて同人イベントで何度か会って「このひとなら大丈夫」と信頼できる相手としかしない。「このひとはわたしと合わないかも」と思えばそっと距離を置くようにもしている。
わたしがそういった『宗教上の理由』を抱えていることを前提に話をする。
前にいたジャンルが、まさにそういった人間関係のトラブルを原因に、ほぼ全焼した。
わたしが今いるジャンルはかれこれ五年くらい居座ってるところなんだけれど、公式の供給がなくなってしまって、そんなときにハマったのが前ジャンルだった。
Aさんはめちゃくちゃ“上手い”ひとで、狭い村状態の前ジャンルでは人気のあるひとだった。
字書きさんなんだけど、紡ぐ言葉がうつくしく、わたしはほんとうにそのひとの書く作品が大好きだった。
ただひとつ、わたしにとって合わないと思うところがあり、それがAさんの交流のハードルの低さだった。
わたしは前述の通り、そういったのが苦手なので、ひやひやしながらAさんが周囲と交流するのを眺めていた。
しばらくして、わたしが恐れていたとおり、Aさんはトラブルを起こした。
内容については割愛するが、まさしくAさんが交流していた周囲の人たちとのトラブルで、関係がないわたしや他のひとまで気まずくなり、狭い界隈の空気は悪くなってしまった。
自然と人が減っていき、繋がりも切れていって、ジャンル移動などもあって今では界隈が存在しないといっても過言ではない。
好きな作品だったが、そこで起きた事件のことを思い出すとどうしても憂鬱になり、わたしも筆がとれなくなった。
Aさんは筆を折るとまで言って界隈を去ったが、ひととなりは別にしてAさんの作品をわたしは好いていたので「筆を折らないでください」と最後に言葉を送った。
わたしは今のジャンルで、これまでこんなに推したことがあっただろうかというくらい、とあるキャラを推している。
Bさんの作品を初めて読んだとき、ひたすらに心が打ちのめされたのをつよく覚えている。
もう、すごいとしか言いようがなかった。
わたしの推しはそこそこ人気で、支部やツイッターにいろんな二次創作があふれているけど、そもそもあまり内心が描写されていないこともあって解釈が割れがちなキャラだ。
シチュ萌えやCP萌えの作品がほとんどだが、わたしはそういったのを舐めるように読んできたし、実際に「すごい」と思う作品にも出会ってきたけれど、Bさんの作品はそれらが霞むくらいにはわたしの心を震わせた。
推しについて、解釈がじぶんと異なることは分かったけれど、一本の筋が通っていて、舌を巻かざるを得ない。
漫画という手段で、論文のように完成された推しについての物語を描く。
わたしはこういうのが読みたかったんだと、Bさんの作品を読んだあとに泣いたくらいだ。
ただただ圧倒され、Bさんの抱く推しへの愛に敬服した。同時に、自分は何をやっているんだろうとも思った。
Bさんよりも長くキャラを推しておきながら、わたしはその推しについて作品をつくったことがなかったのだ。
わたし自身、二次創作でまともに物語を書くようになったのが最近だったということもあるけれど、それにしたって推しについて作品を書こうと思うきっかけはあったはずなのに、今まで「よく分からないから」と怠ってきた。
Bさんの作品を前にそれを悔やんで、わたしは推しについてきちんと考えるようになったし、Bさんの足元にも及ばないけれど、推しを中心にした作品も書くようになった。
やっぱりわたしはこのジャンルが好きだなあと、心の底から思った。
その、わたしのだいすきなジャンルにAさんがやってきたのは、Aさんが姿を消して一年くらい経ったときだ。
ジャンルにハマったきっかけはわたしがツイッターで何度か語っていたからだという。
正直言うと、こわかった。
「筆を折らないでください」とつよく願っておきながら、Aさんが前のようにわたしの大好きなジャンルを荒らすんじゃないかと危惧した。
わたしとAさんは再び繋がったが、ジャンルで好きになったキャラがぜんぜん違ったことと、以前の事件があったのですこし距離を置いていた。
それでも、以前ほどではないけれど、たまにリプを交わし合ったりふぁぼを投げ合ったりして、仲良くしている。
さて、死ぬほど前置きが長くなったけれど、わたしがこれをしたためる原因のきっかけはAさんが復活して二か月くらいしたころに起こった。
はじめは何とも思っていなかった。Aさんの作品はとても素敵なので、ジャンルでもそこそこ認知されつつあるひとだったし、Bさんのような神作家と繋がるのは当然のことだと思ったから。
しばらくして、Aさんが別垢をつくった。私事をメインにつぶやく、交流メインの鍵垢だった。
Bさんも同様の鍵垢を持っていて、ふたりはそこでも繋がったようだった。
Aさんの前ジャンルでのやらかしを知っているわたしは、そういった交流メインの鍵垢をつくることは良いことだとおもっていた。とくに私事に興味を持たない(いわゆる愚痴などが垂れ流されていると不快なので目にいれたくない)わたしは、AさんやBさんの鍵垢についてはフォローしていない。
そのうちAさんやBさんは鍵なしの本垢には現れなくなって、ときたま作品や妄想をツイートするために浮上するだけになっていたから、AさんBさんがどういった交流をしているのかをわたしは知らない。
そんなAさんとBさんが、先日、合同で本を出すと言った。
それを知ったときに、わたしは得も言われぬやるせなさに包まれた。
AさんBさんの交流なんてぜんぜん気にしてなかったのに、合同で本をだすとか、AさんBさんが互いに本に収録するプロットや下書きを見せ合ってるとか、そういうことが分かるツイートに気が遠くなる心地がした。
AさんもBさんもすごいひとだ。わたしはそれを知っている。どちらの作品も読んでいるから。
わたしは、わたしにとっての好きな作家と神作家が合同で本を出すことを喜ばないといけないのに、どうしてもそう思えない。
わたしがけして届かない神々のお戯れが、わたしの心をかき乱す。
Aさんが前のジャンルを瓦解させたひとりであっても、たとえ、人間としてどうなのとわたしが思う部分を抱えているひとでも。Aさんはすごいひとだから、そうやってBさんと奇跡みたいな合同本も出す。
そう思うと、心が淀んでゆくのをかんじた。そういうAさんと交流するBさんに対しても、交流のハードルが低すぎるんじゃないかとか、Aさんについて何も気づかないのかとか、思ってしまった。
新しいポケモンの化石ポケモンが話題になっていて、ずばりギリシャ神話のキマイラのことではなくて、普段からよく話題になる想像上の生き物で「複数の動物の特徴を掛け合わせているやつがいたなぁ」って思ったりしてたんですよ。
そいつ「ドラゴン」とか「龍」とかいう呼び名でよばれているんですけど。
個人的な分類なのでそれが常識ということは全然ないので構えずに聞いていただければ幸いなんですが、ドラゴンって呼ぶ時は西洋伝承の竜、「龍」って呼ぶ時は東洋伝承のリュウを意識しています。西洋伝承との比較の話題のときにはわざわざ東洋龍をドラゴンとかよんだりして自分からルールを破るので、本当にそこは私事ですよね。
ちょっと前にNHKの特集でドラゴン伝説に関する番組があったりしたんです。
テロップに「人類学者」「歴史学者」「宗教学者」って表示される人の他には、古生物学者さんとか比較生物学者さん、気象学者さんなんかもコメントしていたのが印象に残ってます。あと世間話でドラゴンって話題に出すときには、地理学を勉強している知人と話していることが個人的に多かったりもしますね。結構、色んな分野からドラゴン伝承というものを話題にすることができるってのは面白いなと思います。
古生物学的な知見から語るドラゴンとはずばり恐竜の化石の話でした。僕たちの世代ともなると人間何人ぶんくらいの恐竜の化石が見つかったとして、それは人類が成立する前の時代の、大昔の生き物の痕跡であって「こんな生き物がいまも生きて闊歩している」とは咄嗟にも思わない訳ですが、それは今日に至るまでの研究成果とそれを知識として普及できる教育の賜物であって、それがなかった時代の人たちはそうは思えなかったって話です。
番組ではルーマニアで有名な翼竜の化石が見つかっていると言及されていましたが、ルーマニアはドラキュラ伝承の元になったヴラド・ドラクル公の故郷ですよね。「ドラクル」という別名は彼の自称で「悪魔の子」って意味だとよく言われますが、本当は「竜の子」とかそういう自称だそうです。言語には明るくないのでもっと正確な意訳ができず恐縮でありますが、無知の身上なので「音が似てますもんね」とか言います。どうしてそれが「悪魔の子」だなんて受け取られ方をしたかと言えば後述したいと思いますが「ドラゴンは当時の人々にとっておそろしい敵役で、悪魔に連なるキャラクター」だったからです。竜の子なんて自称するのはその宗教的事情を考慮するならば自ら悪魔の敵役を名乗る型破りなことだった訳ですね。かなり話が脱線しましたが、竜の子ヴラドの伝説的な話が根付くルーマニアで、空を飛ぶ恐竜の化石が見つかっているという話がなんだか面白いなと僕は思う訳です。「無関係とは言えないだろう」とか僕なら思っちゃうし言いたいですし、当時の文献記録に化石の発掘らしき出来事の記述とかあるならそれは想像が捗るので素敵な話だと思います。
比較生物学的な見地からはいまも生きている生き物、特に蛇が槍玉に挙がっていました。ずばりって感じがします。番組では「何故ドラゴンは火を吐く?」という疑問に対して、蛇がちろちろと舌を出す様子に触れつつ、この蛇の習性が「誤った情報伝達の仕方をして」ドラゴンに火を吐かせるようにしたのではないかという話をしていたのでこれが面白かったですね。
まずドラゴンという想像上の生き物が成立する。次に「ドラゴンは想像上の生き物で、実物を人前に持ってきて伝えることができないから」人間は想像を絵に描いて伝えようとします。この間に、ドラゴンというのは実在しない生物なので、かわりに実在する他の生き物の特徴を取り込んでイラストとして出力されてしまう訳です。無いものを描くことはできないので、かわりに実際に有るものの特徴を代用して想像を膨らませていく。会話で比喩表現を使うようなもんですよね、「奴は蛇のようにずる賢い性格なんだ」とか「鳩が鉄砲で撃たれたような顔してるぜ」とか。
それで番組に出てきた絵なんですけど、たぶん火を吐いてなかったんですよ。イラストの横に難しいラテン語でびっしり説明文書かれていましたが、「これは火を吐いている絵ではなく、蛇のように舌をちろちろさせているドラゴンのイラストです」って言われたら僕はそれで納得してしまいます。そんな絵でした。
ところで遠い土地に住んでいる人に自分の描いた絵はこういうものだと事細かく説明できますか? 僕はそういうのが得意ではないので、しばしば伝言ゲームみたいになっちゃうんですよ。これが誰もが当たり前にまだラテン語を読めなかった時代で、聖書の記述すら読み書きの技術を持つ教会の神父様に読み聞かせていただかなればならなかった時代となると、もっと大変だったと思います。もちろん、そういう誤解が広がらない為にバチカンの偉い司祭様たちは色んな対策を立てたと思いますが、果たして「悪魔の姿形まで全員の意見を一致させようと手を回す余裕があったのか」はわかりません。イラストというのは文字や言葉より強烈です、写真の無かった時代ならそれは写真の代わりすらつとまったほどに。それでもやはり限界はありますよね。実際にあるものを観察して正確に描いたものなら兎も角、空想の風景を自分が見たことのある風景に喩えながら暗中模索で描きあげたらしいドラゴンのイラストですから尚更。もちろんそれを見せる相手が目の前にいたなら言葉にして説明できたでしょうが、その絵が本に載って遠い土地にいる人たちの手に渡った時、そして彼らが字を読み書きできないとかそもそも違う言葉を喋っている人たちだったりしたら、蛇の舌の絵が火を吐いているように受け取られたりしても即座に訂正したりできないのでそのまま広がってしまいますよね。
ここでちょっと本旨に触れていますが、空想上の生き物は実際にはいないのでそれが絵や銅像といった形にされる際、実在する動物の特徴をつぎはぎにして成立する時がある、というのが比較生物学的な知見で言いたかったことであるように思います。
恐竜の化石にしたって、伝説に語られるファブニールやヒドラそのものにしか見えない代物が発掘されている訳じゃありませんから。そもそも恐竜の化石から想定した想像図が最近すこしずつ変わっているらしくて、僕が映画で見たティラノサウルスはコモドドラゴンじみた堅そうなウロコに覆われた姿でしたが、いまは鳥のように羽毛が生えていたのではないかと言われているそうです。ここはもう少し言及すると、恐竜の末裔はいまも空を飛んでいる鳥、特に渡り鳥である、なんて話にも波及していきそうですが、僕はそのへん浅学なので触るだけで容赦していただきたく思います。
最後に歴史学、人類学、宗教学、あとすごく恐縮なんですが地理学から見たドラゴンの話をしたいな、と思います。ここがすごく自分が興味ある分野になるので話が長くなりそうなんですが、そのほとんどが他の人からの受け売りの知識・聞きかじりの知識であることを先に明言してから話したいと思います。この話を僕にしてくださった皆様に限りない御礼と尊敬を。
まず、先程までドラゴンが火を吐くのは、蛇の舌の特徴を取り込んで描いた想像図を見た別の人が、その絵の様子を「火を吐いている」と誤解して広がったからではないのか、と話題にしていました。さらにここを掘り下げて「何故火を吐いている姿に見えた(誤解した)んだろう?」という話をしようかと思います。
ドラクル公の話にも戻りますが、西洋ドラゴンは悪魔に連なる存在であり、人々にとっておそろしい敵役だったと言います。これは特に難しい理由がある訳ではなくて、人間より大きく、翼を持っていたり、人間の頭を咥え込める大きな口にずらりと牙が並んでいたり、ずばり「人間に噛みついて攻撃してくる蛇という生き物が人間よりでかかったら食べられそうで怖い」という恐怖心が、当時の宗教的道徳観で形成されている独特の恐怖心とつよく結びついた結果だと思います。恐竜は人間を食べそうだから怖い、ドラゴンは人間を食べるから怖い、悪魔は地獄にいて人間に悪いことをするから怖い、というのが全部同じ話になってしまった時、「ドラゴンは悪魔の手先である」という話になるんですね。そこにバチカンの神父様まで話を合わせはじめるともう誰も待ったをかける人間がいなくなる。恐怖とは使い方があるのです。「食べ物を粗末にすると目が潰れるからしてはいけない」なんて言い回しが日本にはありますが、本当にそうなのか?といえば絶対にそんなことないですよね。それが本当の話になってしまうと、目が見えない障がいと向き合って生きている人たちはみんな「食べ物を粗末にした」罰でそうなったという理屈が通じてしまうので大変失礼な話になります。ぶっちゃけこの言い回し、嘘か本当かで言えば嘘の話ですよね。でもいま食卓に並んでいる食べ物を、少なくないお金を支払い、少なくない労力を駆使して調理し、なんとか苦労して食卓に提供し続けている親からすれば、それを子供に台無しにされるのはひどくつらいことであるしその悪癖を矯正しないまま大人になっても子供のためにはならないからなんとかやめさせたいと思うのは当然なわけです。しかし、突然の家庭不景気に陥れば金銭交換ままならず明日にでもご飯が食べられなくなるという話を、お金の単位すら知らない無知の子供に納得してもらうまで言い聞かせるのは大変な交渉スキルと言語センスを必要とされます。これが「何故人が人を殺してはいけないのか?」「何故人が人から物を強奪してはいけないのか?」というレベルから説明しなければならないとなれば途方もない気分になってきますよね。なのでそれを説明する側は、悪いことをしてはならないという理由として「悪いことをすれば怖い目に遭う」と方便…つまり一種の嘘を用いるという苦肉の策を導入することにしました。これが日本で言えば「目が潰れる」とか「人攫いにあう」とかで、キリスト教が国教である場所では「悪いことをすれば悪魔のいる地獄に落ちるぞ」とか言われるようになる訳です。ドラゴンに食べられるのは誰だって嫌ですよね、僕はジュラシックパークでティラノサウルスに食べられるレベルから嫌ですしサメだって怖いですから、悪行に対する応報としての悪魔、地獄で罪人を責め苛む悪魔がドラゴンを操るなら当時の人たちにとって2倍の怖さになる訳で、時の宗教家たちはおそろしいドラゴンを悪魔に与えることでみんなが神の御言葉をもっと信じて慎ましく穏やかに生活する世界(=悪人が悪魔とドラゴンをおそれて悪行を思いとどまったり、間違えてからでもそれを悪いことだったと反省して償いをする世界)が形成されることを期待したわけです。なので実は違う種類の複数の恐怖が、宗教道徳という枠組みの中で融合するのは全然難しい話ではないってことですね。ドラゴンが英雄に退治される話が多いのも似たような理由です。人間の勇者が悪いドラゴンを退治して財宝と美しい伴侶を獲得して幸せに暮らす…というのは敵が強いぶん本当にそれを乗り越えられるならば素晴らしい成功であるように思える訳ですね。実際に、ドラゴン退治の伝説は宗教に組み込まれた結果、聖ジョージのドラゴン退治など、有名な宗教説話としてたくさんの人々に親しまれています。強いドラゴンが悪であったほうが都合がよかった時代や場所があったということです。
この長い前提があって、ドラゴンが火を吐く話が続きます。まず多くの宗教において死者の国・地獄とは地下世界に想定されます。そして程度の差はあれど、地獄とは炎の世界で、罪をおかして死んだ者はその炎に焼かれてずっと苦しむと説かれます。これはキリスト教も例外ではないというか、悪魔が住む地獄とはその典型例であるように思いますね。何故地獄が燃えているかと言えば、人間が火に焼かれる痛みを強烈に忌避する話の他に、古い時代の街並みが火災に弱いというのが挙げられます。日本でも江戸時代の平屋づくりなんか想像してくだされば分かりますが、木材を含む家屋が道の両脇にずらりと並んでいるのは火災に脆弱なんですよ。火災の真の恐ろしさとは「燃え移る」「燃え広がる」ことです。デマゴーグが人々の間であっという間に拡散して個人の名誉毀損の度合いがもう取り返しがつかなくなってしまう様子を「燎原の火」などと喩えますが、あれは草原に火を放つと一瞬で更地になるほどの規模の火災になることのようだと言っています。この草が家に置き換わったようなことが頻発しやすい都市計画というのが密集した家屋群にあたります。隣の家同士の距離が近ければ近いほど深刻だという認識で間違いないと言えます。対岸の火事なんて言い回しもあるんですが、実は一つの川を挟んだ対岸で火事が起こっているとしても、風向きと風速次第では火の粉が飛び火してきて火事になることも珍しくないらしいです。キリスト教の地獄の話をしているのでその圏内にある国の歴史を話題にするなら、ロンドンのテムズ川を挟んだ両岸の街々が飛び火が原因の大火事の被害に見舞われたことがあるそうです(これはNHKのドラゴン特集の受け売りです)。時代が昔に遡れば遡るほど消火技術というのが未熟なので、燃え盛る地獄のイメージが成立したほどの大昔となると一度家に火がつけば街一つ灰になるのも特に珍しくなくて、それが冬越し前ともなれば家の壁と屋根なしで厳しいヨーロッパの冬を耐えなければなりません。みじめなんてものではなくて、死にます。火事から助かったとしても家も財産も食べ物も燃えてしまっていて、最悪の場合助けてくれる隣人の家まで飛び火で火事になってて誰も助ける余裕なんかないとなれば、そういうのを「地獄のような風景だ」と言うのでしょう。これを避ける為に毎晩高台に見張りを立てるなどの習慣が根づいたそうです。ファンタジーでやぐらに立つ見張りといえば敵国の侵略者を瀬戸際で発見するだとか怪物が村や街に侵入しないようにする為だとかいうイメージで、もちろんそういう意味での見張りもありますが、一番怖かったのは火事だそうです。というか、敵国の兵士に火付けされることだってあります。火攻めとか言われる戦法で、この場合は侵略者と火事が同時にやってきます。侵略者は火で街の財産がすべて灰になる前に大急ぎで火事場泥棒をはたらくので容赦する時間的余裕はありませんし、火をつけられた街の住人だって火に焼かれるか人に殺されるかの極限状態ですから狂乱しています。ただの火事より、もっと大勢が死ぬでしょう。侵略者はまさに地獄からやってきた悪魔や化け物に見えたでしょうね。そうやって実際にあった大火災の惨事の記憶が、架空の風景である地獄のイメージを補強して、いまの地獄絵図というものがあるそうです。だから「悪魔の手先であるドラゴンが火を吐く(操る)のは当然だ。地獄からやってきたのだから」と言われれば、なんだかすごく話の筋が通っているように思いませんかね?
その上で更に別の解釈を交えます。地獄は地下世界にあると先述しましたが、地下にあると言えば何を想像するでしょうか。道具や芸術品の材料や貴重品そのものとして今でも生活の身近にある鉱石や宝石も地面の下から採掘される資源です。しばしばドラゴンは財宝と関連づけられることを思い出させられますね。化石も地下から現れることが多いです。ドラゴンが地獄に住まう悪魔のペットであることと、ドラゴンのイメージを形成するのにひと役買ったらしい恐竜の化石とがつよく関連づけられるような気がしますね。それで、マグマも地下には流れていますね? マグマによる火災被害、つまり火山の噴火というのはそれほど頻繁に起こる訳ではありません。少なくとも、毎日地球のどこでも火山が噴火しているともなれば人間の生存圏はもっと狭くて、地球は人間には住みづらい星だったでしょう。将来的にそうなるかもしれませんけどね。それはそれとして、噴火は頻繁に起こらないので毎日人間がマグマに殺されているというほどではないと思いますが、それ故に今でも予測して対策が立てづらく一度起こってしまえばおそろしい被害規模となる天災でもある。邦画にもなった漫画テルマエロマエの舞台くらい昔のローマにおいては、伝説的な火山の噴火によって当時の大国が大打撃を受けたらしい…そしてそれはただの伝説という訳ではなく、地質学や考古学的な研究からも実際に大災害が起こっているという史実的な話だそうです。ところでテルマエロマエという作品に触れましたが、これはお風呂をテーマにした漫画です。日本でも観光地各地が抱える温泉施設というのは間欠泉という自然現象を利用したお風呂であることは周知ですね。この間欠泉…温泉というのが、地下の水源がマグマによってあたためられて地表に噴き出す現象で、多くの温泉はそのまま人間が入浴するには適さないほど高熱だったりします、死ぬような大火傷を負うほど熱いこともあります(程度の差はあり、中には最適な Permalink | 記事への反応(1) | 14:56