はてなキーワード: 祖先とは
ジョルジュ・サルマナザールはフランス生まれの白人だったが、ウィリアム・イネスという牧師の協力を得て「キリスト教に改宗した台湾人」になりすました。「台湾人の先祖は日本人である」「香草をまぶした生肉を食べている」などデタラメな風習を広め、独自の「台湾語」まで作りだした。当時のヨーロッパでは台湾のことなど全く知られていなかったので、サルマナザールは25年ものあいだ台湾の専門家と見なされ、彼が執筆した『台湾誌』は知識人からも信頼されていた。しかし、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーが、『台湾誌』に掲載された星図などから矛盾を見つけ出して突きつけたため、彼はついに自らの虚偽を告白した。
数学教授ロデリックと図書館司書エックハルトは、横柄な態度のヨハン・ベリンガーに腹を立て、悪質ないたずらを仕掛けることにした。二人は石灰岩に細工をして、カエルやミミズの化石、彗星や太陽の形をした化石、「ヤハウェ」という文字が刻まれた化石などを作り出し、ベリンガーが化石を採集していた山に埋めておいた。当時は化石が生まれる原因が分かっておらず、神秘的な力によって形成されると考えられていたので、いま見ると明らかにおかしな化石でも、ベリンガーは本物だと信じこみ、図版を収録した書籍まで出版してしまった。話が大きくなって慌てた犯人の二人は偽造であることを明かしたが、ベリンガーはそれを中傷だと考えてまったく取り合わなかったという。
コック・レーンにあるリチャード・パーソンズの家に、ウィリアム・ケントとファニーという夫妻が下宿していた。しばらくしてファニーは天然痘で亡くなったが、それ以来、パーソンズの家では何かを叩くような音や引っかくような音がたびたび聞こえるようになり、パーソンズは「ファニーの幽霊に取り憑かれた」と主張した。ファニーの幽霊は、自分がケントに毒殺されたことを訴えているのだとされた。幽霊のことはロンドン中の話題になり、見物客が連日のように集まってコック・レーンを歩けないほどだった。しかし調査の結果、パーソンズが自分の娘を使って、木の板を叩いたり引っかいたりさせていたのだということが分かり、彼は有罪となった。
ヴォルフガング・フォン・ケンペレンは「トルコ人」という名の人形を完成させた。それは完全な機械仕掛けでチェスを指し、しかもほとんどの人間より強いというものだった。「トルコ人」はヨーロッパ中を旅してチェスを指し、その中にはベンジャミン・フランクリンやナポレオン・ボナパルトなどの名だたる人物がいた。多くの人間がその秘密を暴こうとしたが果たせなかった。ヴォルフガングの死後、「トルコ人」はヨハン・メルツェルのもとに渡り、ふたたびアメリカなどで大金を稼いだが、1854年に火事によって焼失した。その後、最後の持ち主の息子が明らかにしたところでは、やはりチェス盤のあるキャビネットの中に人が入っていたのであった。
宝石商シャルル・ベーマーは、自身が持つ高額な首飾りを王妃マリー・アントワネットに売りたいと思い、王妃の友人だと吹聴していたラ・モット伯爵夫人に仲介を依頼した。伯爵夫人は、王妃に渡すと言って受け取った首飾りを、ばらばらにして売りさばいてしまった。その後、ベーマーが代金を取り立てようとしたことから事件が発覚し、伯爵夫人は逮捕された。しかし「王妃と伯爵夫人は同性愛関係にあった」「本当は王妃の陰謀だった」といった事実無根の噂が流れ、マリー・アントワネットの評判は貶められた。ちなみに、かの有名なカリオストロ伯爵も巻き添えで逮捕され、のちに無罪となっている。
19歳のウィリアム・ヘンリー・アイアランドは、父親を喜ばせるためにシェイクスピアの手紙や文書を偽造するようになった。多くの専門家がそれを本物だと鑑定し、ジェイムズ・ボズウェルなどは「我らが詩人の聖遺物を生きて見られたことに感謝する」と祝杯を上げたほどだった。ついにウィリアムは戯曲の偽作まで行うようになったが、その戯曲「ヴォーティガンとロウィーナ」はあまりにも悲惨な出来栄えだった。また、その頃にはエドモンド・マローンによる批判も広まっていた。ウィリアムは罪を自白したが、世間はそれをウィリアムの父親が息子に言わせているものだと受け取った。当の父親も、無能な息子がそんなものを書けるわけがないと、死ぬまで贋作であることを信じなかった。
イギリスで異国の言葉を話す身元不明の女性が保護された。ある船乗りが「言葉が分かる」というので通訳となった。船乗りによれば、彼女はインド洋の島国の王女カラブーであり、海賊に囚われていたが逃げ出してきたのだということだった。彼女は地元の有力者たちのあいだで人気となり、またその肖像画は新聞に掲載されて広まった。しかし、その新聞を見た人から通報があり、彼女はメアリー・ベイカーという家政婦で、架空の言語を作り出して、カラブー王女のふりをしていただけだということが判明した。
イギリス軍人グレガー・マクレガーは、中南米で実際に功績を上げたのち、イギリスに戻って「ポヤイス国」への移住者を募集した。ポヤイス国は南米の美しい楽園で、土地は肥沃であり、砂金が採れると喧伝された。ポヤイス国の土地や役職、通貨などが高額で売りに出された。それを購入した二百七十人の移住者グループが船で現地へ向かったが、そこにポヤイス国など存在しなかった。荒れ地に放り出された移住者たちは次々に死んでいった。マクレガーはフランスに高飛びし、そこで同じ詐欺を働こうとして失敗した。さらにベネズエラへと逃げて、そこで英雄的な軍人として死んだ。
アメリカの冒険家だったジョシュア・ヒルは、ハワイへ移住しようとして失敗した後、タヒチ島からピトケアン島へと渡った。ピトケアン島は、イギリスからタヒチまで航海したのちに水兵たちが反乱を起こしたという「バウンティ号」の生き残りと、その子孫たちが暮らす絶海の孤島だった。ヒルは、自分はイギリス政府から派遣された要人だと嘘をつき、独裁者として君臨した。逆らう者には容赦なく鞭を振るい、恐怖で島を支配した。それから6年後、通りすがりのイギリス海軍の船に島民たちが助けを求めたことで、ついにヒルは島から追放された。
イギリスの名門ティッチボーン家の長男ロジャーは、1854年に南アメリカ沖で海難事故に遭って亡くなっていたが、その10年後にオーストラリアで肉屋を営む男が「自分がロジャーである」と名乗り出た。翌年、ロジャーの母である未亡人と「ロジャー」はパリで面会した。華奢だったロジャーとは違い、「ロジャー」は体重100kgを超える粗野な男だったが、未亡人は彼こそがロジャーだと認めた。貴族を名乗りつつも労働者であった彼は、イギリスの庶民からも大いに人気を集めた。しかし未亡人が亡くなった後、裁判において彼は偽者であるとの裁決が下され、14年の懲役刑を課されることになった。
ジョージ・ハルは進化論を支持する無神論者だったが、聖書に登場する巨人の実在について口論となり、それがきっかけで巨人の化石を捏造することを思いついた。石膏を巧みに加工し、毛穴まで彫り込んで、いかにも偶然発見したかのように装って大々的に発表した。専門家たちはすぐに偽物であることを見抜いたが、キリスト教原理主義者の一部は進化論への反証としてこれを支持し、また全米から多くの見物客がやってきた。フィニアス・テイラー・バーナムが同様に巨人の化石を見世物にしはじめたことで、ハルはバーナムを訴えるが、その裁判を取材していた新聞記者がハルの雇った石工を突き止めて自白させたため、ハルも観念して偽造を認めてしまった。
ドイツの靴職人ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で軍服や軍刀などを購入し、「プロイセン陸軍の大尉」に変装した。彼は大通りで立哨勤務をしていた近衛兵に声をかけ、十数名の兵士を集めさせると、ケーペニック市庁舎に踏み込んだ。フォークトは、市長や秘書らを逮捕し、また市の予算から4000マルクほどを押収すると、兵士たちにこのまま市庁舎を占拠するよう言いつけ、自分は悠々と駅に向かい、新聞記者からの取材に応じた後、列車に乗り込んで姿を消した。彼はすぐに逮捕されたが、ドイツ全土で人気者となり、時の皇帝によって特赦を受けた。
イギリスのピルトダウンでチャールズ・ドーソンによって発見された化石は、脳は現代人のように大きいが、下顎は類人猿に似ている頭蓋骨だった。ドーソンはこれをアーサー・スミス・ウッドワードと共同で研究し、人類の最古の祖先として「ピルトダウン人」と名付けて発表した。当時は大英帝国の繁栄期であり、人類発祥の地がイギリスであるという説は強く関心を持たれた。しかし1949年、フッ素年代測定により、ピルトダウン人の化石が捏造されたものだと断定された。捏造の犯人は未だに分かっておらず、『シャーロック・ホームズ』の作者であるアーサー・コナン・ドイルが真犯人だという説まである。
後に作家となるヴァージニア・ウルフを含む6人の大学生たちは、外務次官の名義でイギリス艦隊司令長官に「エチオピアの皇帝が艦隊を見学するので国賓として応対せよ」と電報を打ってから、変装をして戦艦ドレッドノートが停泊するウェイマス港に向かった。ぞんざいな変装だったにもかかわらず正体がバレることはなく、イギリス海軍から歓待を受けた。彼らはラテン語やギリシア語を交えたでたらめな言葉を話し、適当なものを指して「ブンガ!ブンガ!」と叫んだりした。ロンドンに帰った彼らは新聞社に手紙を送って種明かしをし、イギリス海軍の面目は丸潰れとなった。
ドイツの曲芸師オットー・ヴィッテは、アルバニア公国の独立の際に「スルタンの甥」のふりをしてアルバニアへ赴き、嘘がバレるまでの五日間だけ国王として即位した、と吹聴した。そのような記録はアルバニアにもなく、当時からオットーの証言は疑わしいものとされていたが、オットーはドイツ国内でよく知られ、新聞などで人気を博していた。オットーが亡くなったとき、その訃報には「元アルバニア王オットー1世」と書かれた。
コティングリー村に住む少女、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトは、日頃から「森で妖精たちと遊んでいる」と話していた。ある日、二人が撮影してきた写真に小さな妖精が写っていたことに驚いた父親は、作家のアーサー・コナン・ドイルに鑑定を依頼した。そしてドイルが「本物の妖精」とのお墨付きを与えて雑誌に発表したため、大騒動となった。50年後、老婆となったエルシーは、絵本から切り抜いた妖精を草むらにピンで止めて撮影したと告白した。しかし、フランシスもエルシーも「写真は偽物だが妖精を見たのは本当だ」と最後まで主張していた。
オーストラリアの現代詩誌『アングリー・ペンギンズ』に、25歳で亡くなったという青年アーン・マレーの詩が、彼の姉であるエセルから送られてきた。『アングリー・ペンギンズ』誌はこれを大きく取り上げて天才と称賛した。しかし、これは保守派の詩人であるジェームズ・マコーリーとハロルド・スチュワートが、現代詩を貶めるためにつくったデタラメなものだった。この事件によりオーストラリアの現代詩壇は大きな損害を蒙ったが、1970年代に入るとアーン・マレーの作品はシュルレアリスム詩として称賛されるようになり、以降の芸術家に大きな影響を与えるようになった。
フィリピンのミンダナオ島で、文明から孤立したまま原始的な暮らしを続けてきたという「タサダイ族」が発見された。彼らの言語には「武器」「戦争」「敵」といった言葉がなかったため「愛の部族」として世界的な話題になった。彼らを保護するため、世界中から多額の寄付が集まり、居住区への立ち入りは禁止された。しかし15年後、保護地区に潜入したジャーナリストは、タサダイ族が家に住み、タバコを吸い、オートバイに乗っているのを目撃した。全ては当時のフィリピンの環境大臣マヌエル・エリザルデJr.による募金目当てのでっちあげだったとされた。
評論雑誌『ソーシャル・テキスト』は、「サイエンス・ウォーズ」と題したポストモダニズム批判への反論の特集に、アラン・ソーカルから寄せられた『境界を侵犯すること 量子重力の変換解釈学に向けて』という論文を掲載した。しかしそれは、ソーカルがのちに明かしたとおり、きちんと読めば明らかにおかしいと分かるような意味不明の疑似論文であり、ソーカルはそうしたでたらめをきちんと見抜けるかを試したのだった。それはポストモダンの哲学者たちが科学用語を濫用かつ誤用している状況に対する痛烈な批判だった。
そんでその世界やらそこに生きる種族を作った事になってるよね。
つまりそこに生きてる人間達って、猿の祖先から進化して今の人間になったわけじゃないから
いくら姿形が現実世界の人類に似てたとしても、全く違う生き物な可能性があるわけだ。
そうなると、現実世界からファンタジー世界に召喚されて、現実では全く望めなかった
ウハウハハーレムに放り込まれたとしても、ちょっと不安感あるよね。
モンスター(ドラゴンとか)と人間との間に子どもが生まれるような世界(ダマラム一生の不覚!)って、
どう考えても卵子と精子が受精して子どもが出来てる訳じゃないよね。
おまけに魂とかも実在するし。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.tachibana-akira.com/2015/01/6712
これのブ米みると「日本の仏教がデタラメ」に違和感を持つ人がいるけど大乗非仏説すら知らないのか?
日本の仏教はほぼ大乗仏教でその経典は釈迦が死んでから数百年後にでっち上げられたもので原典と内容が全然違うというのが定説
代表的なのが夏のお盆のもとになってる盂蘭盆経で中国の祖先崇拝を仏教風の経典にしてるだけ
有名人が言ってもないことをでっちあげた新興宗教の書籍を嘲笑してる人達は釈迦が言ってもないことをでっちあげた伝統仏教の経典をありがたがるなんてことないよな?
まあもちろん中身が素晴らしいとか言うんだろうけどいくら中身がよかろうと釈迦の教えじゃないなら仏教は名乗るべきではないし
独自の宗派を立ち上げないのは高名な釈迦に乗っかっとけば布教しやすい(消防署のほうから来ました的な詐欺同然の有利誤認)ということでしかない
http://anond.hatelabo.jp/20150124122808
ブコメはありがたく全て目を通させて頂きました。考えはまだ拡散してまとまりません。
フェミニズムの延長として、男性にも抑圧されてる面があるんじゃねって視点が出てきたわけで、実はこれはフェミの成果でもあるのよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/c_shiika
『男性権力の神話』の著者ワレン・ファレル氏は元々フェミニストであり、女性の社会進出を助ける活動を行っていたそうだ。
彼が目指しているのは女性差別と男性差別の双方を撤廃することであり、アンチフェミニズムではない。
フェミニズム議論は「男性は女性を抑圧する加害者である」に留まりがちだが、復讐から一歩進んで、
「なぜ男性は女性を抑圧してきたのか」「男性が抑圧されていなければ男性が女性を抑圧する必要が無くなるのではないか」と、
男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである。特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから。
http://anond.hatelabo.jp/20150125113634
他人に価値があると言って貰えないと、自らの命の価値に自信が持てないことに、様々な人間関係上の問題の原因があるのだろう。
人間はゲームの初期設定のように平等なスキルポイントと割り振る自由を与えられているわけではなく、
体力10+知力10+魅力10=総合30点の人間と、体力1+知力1+魅力1=総合3点の人間が存在するのが現実だ。
欲するだけの「客体としての価値」が得られなかった人間が、苦しみのはけ口として男女論を使うシーンは多い。
個人的な苦しみが絡むからこそ、多くの男女論は生産的な方向に進まず、ミソジニーとミサンドリーの殴り合いになる。
人種差別も似たようなものなのだろう。「自らの命の価値に自信が持てない」から、無条件に自分よりも命の価値が低い存在を必要とする。
そして、今「強い男女」であったとしても、老化によって「弱い男女」になっていく。
自分は強い・美しい・賢いから生きる価値がある…といった、条件付きの自己存在承認をしていた場合は、
事故や病気、老いなどが原因で「弱い男女」となったとき、精神的なクラッシュを迎える可能性がある。
また、テクノロジーの進歩によって、自分の役割が「商品」に代替され、存在意義が揺らぐ可能性もあるだろう。
親より友人より恋人より、音声アシスタントの方が有益で快適な話し相手になる時代が来るかもしれないのだ。
他人に求めていただくこと、他人に価値を認めていただくこと…そのハードルは昔と比べてどんどん上がっていくだろう。
特攻隊のような捨て身の献身も、「生産性が無い」「時代遅れ」「死ぬしか能が無い」と冷笑するのが今は主流かもしれない。
「女性が待ち」の構図は戦前の男性社会が作ったんだよね。女性から告白するのは「はしたない」ものだったわけで、むしろ抑圧の象徴だったんじゃないかな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/azutokimiya
女性から男性への告白を禁じることによって、よく告白される男性と全く告白されない男性の格差を隠すことができる。
女性は欲望を持たない清廉な存在だというファンタジーも、女性に傷つけられないためのモノ化手法の一つなのだろう。
男性が「女性Aには興味があるが、女性Bには無い」という感想を持つように、
女性も「男性Aには興味があるが、男性Bには無い」という感想を当たり前に持つものだ。
「男性B」扱いされることを恐れすぎる男性は、女性による欲求の表明を抑圧する構造・風潮を作ろうとする。
たかが一人の女性に必要とされなかったことによって、自らの価値が揺らぎすぎることに原因があるのだ。
性差別問題は、「男性には許されて女性には許されない」「女性には許されて男性には許されない」の解体が最終目標となる。
ただ、もし仮にこの解体が上手くいって、男性だけの苦労や女性だけの苦労が無くなったとしても、
客体としての価値が高い「強い男女」と、客体としての価値が低い「弱い男女」の格差は残る。
「強い男女」同士が同僚・友人・恋人・配偶者として求め合い、「弱い男女」は「強い男女」を求めつつあぶれる結果を招くだろう。
「最貧困女子」が話題になったが、弱い男女は客体としてはストレッサーになる場合が多いのだ。
昨日放送されたNHKの「ネクストワールド私たちの未来」では、73歳の高齢男性が篠田麻里子演じる若年女性に恋をする描写があった。
数年前に放送されたNHKスペシャルでも、重度脳性麻痺の40代男性が、「脳性麻痺ではない健常な女性と恋をしたい」と主張していた。
夫に興味を持てなくなった中年女性が、ヨン様や氷川きよし、K-POPアイドルなどに熱を上げるのも、身近で耳にするレベルでよくある話だ。
こうした欲求に対して、釣り合わないだの、みっともないだの、鏡を見ろだの、要は「欲求を持つな」と強要する人々が居る。
しかし「弱い男女」が「強い男女」を求める気持ちは、禁じても無駄なほど強いものであろうし、求めるだけなら権利があるのである。
ただ「強い男女」にも、「弱い男女」からの求めを受け入れるかどうかを決める権利がある。当然の人権だ。
受け入れられなかった側が「高齢者差別」「障害者差別」「ルッキズム」などと怒ったとしても、
弱者に、強者の個人的交友や時間の使い方の選択権を侵害する権利があるわけではない。
思考メモとあるとおり、従来の男性ロールが別に男にとって素晴らしいものではない理由が並べられながら、だからどうするという結論が存在していないのだが、この増田は恐らく「男らしさ」の物語に強い憧れを抱いているのではないだろうか。増田は巷に溢れる「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性と、その女性を捨て身の献身でもって落とした男性」のストーリーに対し、
と書いているが、男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである。特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから。
だが現在では、男であるというだけでそうした物語の主人公になることはできない。自由恋愛の下に女性と付き合い、結婚し、家庭を持つ必要がある。しかし自由恋愛の下では、男性内での強者/弱者という構造が発生する。「男らしさ」規範を内面化した弱い男にとってこの構造は大問題である。「男らしさ」の物語に憧れているのにもかかわらず、自分はその物語の主人公にはなれないのだから。
降りてしまえば楽になる。だが、降りる自分と「男らしさ」の物語に憧れている自分との折り合いをつける必要があるから、「男らしさ」の物語の酷さを並べて物語を崩そうとする。あるいはフェミに傾倒したりすることもあるだろう。
ただねえ、そう上手くはいかないんだこれが。強いて言えば老いが解決してくれるんだが、そんなこと今悩んでる若い子に言ってもしゃーないか。
デートのイニシアティブを早くとらない男性を「情けない男」と呼び、デートのイニシアティブがあまりにも早く行われれば「レイプ犯」とその男性を呼び、彼がうまく引っ張ってくれない場合「最低な男」と呼ぶ。
この文章が、恋愛について受け身な人の嫌な点を非常に的確に表現していると思った。
鶉まどかさんのブログに出てくる「クラッシャられ男子」は、男子だから情けなくて最低と評されるのであって、女子だったら許されているのが現状だ。そこそこ可愛い女子に生まれて愛想も良ければ、クラッシャられ男子レベルの受け身ぶりでも、口説かれて結婚して子供を産んで…と、ドロップアウトせずに人生の王道を歩み続けることが出来る。
受け身で居ることが許されず、口説いた相手に拒否されるリスクを男性だけが一方的に負わされているのが、「男性性役割」であり、「男性差別」の一つなのだと思う。一方的にリスクを負わされていることに気づき、不平等な関係から降りたのが「草食男子」なのかもしれない。既得権は、得ている側は気づかないものなので、「草食男子」という降りた存在が現れたことで、女性が既得権を失う可能性が初めて可視化されたのではないだろうか。
しかしこれからも、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性と、その女性を捨て身の献身でもって落とした男性」のストーリーは男女の恋愛における憧れの対象として語られ続けはすると思う。フィクションだけではなく、芸能人の結婚話などで定期的に実話が投下されるとも思う。男性が「美貌の女性」に憧れる限り、女性が「捨て身の献身」に憧れる限り、そうしたストーリーの人気は続くだろう。しかし「美」も「献身」も希少であり、非常に高い価値を持ち、凡人には手が届かないものだ。簡単に手が届くという勘違いは、その人にとっての「世界」を「敵」に変える。凡庸な多くの人々にとっては、メジャーリーグやセリエA、オリンピックを観るような気持ちで、遠巻きに憧れの視線を送る程度がちょうど良いのだと思う。
個人的な拒絶を引き受けるよりもむしろ、若い男性は女性をセックスのための物として見るように変えることを学ぶ───物に拒絶された方が彼はあまり傷つけられずにすむ。物として扱われることは彼女に疎外感を与え、拒絶されることは彼に痛みと怒りと弱さを感じさせる。
「男性は女性を物のように扱う加害者で悪人で絶対的強者」という一方的な認識に一石を投じる解釈だと思う。
女性を物のように捉えることは、拒否されるリスクを男性だけが一方的に負わされ、そうした社会は変えられないという現状に対する、個人的な適応なのだ。夫に傷つけられ失望しきった妻の心が麻痺し、夫がATMにしか見えなくなるのも、一種の精神的な適応であると思う。非人間的な考え方の根源には、これ以上傷つくことを恐れるという人間的な理由がある。「だから女は肉便器、男はATMという考え方は正しい」と言いたいのではない。人間関係の問題を解決に向かわせるためには、加害者批判に終始するのではなく、加害者理解が必要なのだと言いたい。
男性は女性を性的に拒否すべきではないという強い規範も存在する。女性が幼い男性を強姦するケースもあるが、笑い話やポルノ的消費で片付けられてしまいがちだ。女性ストーカーに怯える男性も「男らしくない」と罵倒される始末で、男性被害者こそセカンドレイプに晒され続けている。男性がセカンドレイプに晒されることを当たり前と考えていると、女性をセカンドレイプに晒すことも当たり前になる。セカンドレイプの悪質さに、被害者が女性か男性かということは、一切関係が無い。
第二次世界大戦における日本人男性は、「武士道」の訓練をまだ受けていた。「武士道」は、屈従の方法であったので日本の軍人は、進んで天皇および祖先のために死んだ。死以外に勝利への代替方法は許されないと考えるように彼は訓練を受けた。神風特攻隊は、「武士道」、すなわち「他者」への総合的な奴隷になる道の結果である。
『男性権力の神話』には、これまで男性がいかに危険な仕事に従事し、いかに使い捨てにされ、いかに国家に殺されてきたかという話が繰り返し出てくる。若い男性の労働力や命を、「名誉」を餌にして権力者が根こそぎ収奪して富を得ている構造がある。現在も「生活保護という不名誉」から逃れるために過酷な労働をしている男性が数多く居る。「他者」への総合的な奴隷、というのは上手い表現であると思う。
歴史を振り返るに、女性よりも男性の方が、よほど従属的だ。発言や態度が挑発的であったとしても、実際の行動が集団に従属的なのである。最近、男性が従属的で自尊心が低そうに「見える」女性を好むのは、支配欲というよりも共感なのではないだろうかと思う。男性向けの創作で、巨乳の存在に萎縮する貧乳が描かれたりするが、「優れた同性」の存在にやたらと萎縮する傾向は、女性より男性の方が、実際には強いと思われる。身体的な特徴を優劣・上下の関係に単純化したがる傾向は男性によくみられる。強さ議論が好きであり、劣ったものを侮蔑することを好む。男性の自殺が多い原因もここなのではないかと思っている。これが男女の器質的な違いによるものなのか、社会的な扱いの違いによるものなのか、あるいはその両方なのかは、専門家ではないのでわからない。しかし男性は「男は強くあらねばならない」と考えているため、自分が弱者・被害者の立場だったとしてもその事実を受け入れられず、強者・収奪者の価値観を内面化し、「収奪の社会構造を肯定する弱者」となってしまいやすいのではないかと個人的に思う。その結果が「喜んで徴兵される」「経済的に失敗したので自殺する」などの、集団に屈従した行動ではないか。
性的少数派である「ゲイ」と「ロリコン・ショタコン」の違い http://anond.hatelabo.jp/20150128232843
ジェンダー論者による「モテるヒント」 http://anond.hatelabo.jp/20150129001630
男女の人権と欲求と差別と、遠い未来についての思考メモ http://anond.hatelabo.jp/20150125162654
2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。
才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。
これが意味するところは、才能のあるワナビは他人の書いた創作技術本を読んで必死にトレースしたりなどしなかった、という非情な現実である。ノウハウ本を欲するのはいつだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビは今日も選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。
スティーブン・キングがプロットなど不要だと言う一方でディーン・クーンツはプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方は世界から作らないようでは話にならないと言う。
ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。
実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。
手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。
もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。
大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。
Hard work beats talent when talent doesn't work hard.
Tim Notke
本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点でラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的な努力を実現する上での一助となれば幸いである。
本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベルの新人賞に向けてワナビが執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的なラノベの定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題はこのラノベの本質的定義の限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。
本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。
まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。
ラノベ作家は商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田はキャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞は商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビの承認欲求を満たすためにあるわけではない。
新城はラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生」であるとする。飯田はさらにラノベの読者はアニメや漫画、ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本も西谷も水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。
ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。
新人賞の下読みの多くは大学生のバイトであり(あるいは主婦や新人編集者)、選考するのはプロの作家であり、プロの編集者である。いずれにせよ選考過程に中高生は存在しない。
読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロの作家とワナビでは立場が違う。ワナビはラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者が想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本は現実の中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実の中高生には圧倒的にウケるが20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである。
行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかしプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説の煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。
最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア、原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディア、プロット、原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。
本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家も存在する。
一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題を引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。
以下、それぞれの段階についての各論に入る。
「アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語、キーワード、フレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである。
冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディアを連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。
しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。
この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方は主題、世界、人物、物語、文体の5種であるとするし、榎本はキャラクター、世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体が意味を持つものではないが、それぞれが独自の用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。
本稿では主題とテーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである。冲方や大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。
主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚は作成した主人公像の要素を深化させそこから主題を抽出するとしている。榎本はプロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷は執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。
このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。
繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題と関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアとアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。
この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。
設定資料集が好きな人が存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定の物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語の設定資料集など誰も目を通してくれはしない。
このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本は主題を台詞や地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツは主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞や地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。
本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報(名前、性格や容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。
一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則、身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界」である。
いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方や水島は世界が先だとするし、大塚や西谷は登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。
しかしながら冲方と大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。
冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界と時代に左右されたもの」と言い、このような世界だからこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性を要求する。
大塚もまた登場人物の個性については「キャラクターが所属する「世界」の物の見方の価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性を要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方も大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。
ワナビの「世界」について「リアリティが自分の身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校とコンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。
冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。
その一方で登場人物については、冲方はそれが主題に関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島も登場人物はプロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初に長大なキャラ表を作るというワナビにありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物は存在していない」と断じる。
だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツはプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長、体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。
「登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合は最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。
これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときのリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャートを作成するのが良いとして、さらには性格、趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。
ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。
最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである。 Permalink | 記事への反応(5) | 20:41
21才女です。タイトルの通り祖先に女騎士がいたそうなのですが、最近ちょっと困っています。
私はイギリス人の祖父を持つクォーターで、その祖父の祖先の女性が騎士だったそうです。友だちにも何度かその話をしたことがあります。特段誇りに思っているとかそういうわけではありませんが、ただ話のタネとして使っていました。
それで最近までは特に問題もなかったのですが、最近「女騎士はアナルが弱い」とか、そういうネタが流行ってるじゃないですか。最初は気にしてなかったんですけど、あるとき2chで自分の大学のスレを見ていたら、その...まあ想像つくと思いますけど、知っている人からは明らかに私とわかる特徴とともに、私の祖先に女騎士がいたこと、そして私に対して「アナル弱そう」という言葉が書かれていたんです。
その日から、どうにも人の目が気になってしまって。それを読んだ人から「あ、アナル弱そう(笑)な人だ」と思われてるんじゃないかとか考えてしまいます。もちろん「アナル弱そう」なんてただのネタで、実際に私のアナルが弱そうだと思っている人なんていないということはわかりますが...
どうすればいいのでしょうか。
そういえばあまり書いてこなかったと思ったので、今回はなるべくドロドロした事を書いてみたい。
さて、“人間ヒマで余裕があるとロクな事をしない”というのは、歴史的かつ普遍的な事実である。
市役所とかの歴史がそのまま、ドロドロした人間関係の歴史であるように。
まあ大体この辺りが古い大きな神社の職員構成層であると考えてもらっていいし、おおよそ左から順に尊重される。
この序列はコネ順として捉えるとわかりやすい。神社界で物を言うのは人間様のお口ではなくて、コネと金がすべてである。
年功序列、上位下達をこそ金科玉条とする神社界においては当然、職務命令に対する理解よりも遂行よりも服従そのものが求められる。
「伝統を堅く守る」という事 = 「自分の頭で考える余地がない」という事であり、アレンジャーやアドバイザーは不要である。自分の意見を言わずにはいられないタイプの不具者は、転任だの何だの理由をつけていずれ追い出される。経歴に転任の多い奴はこの不具者であるとすぐわかる。
以上の背景を前提として、神社内にも暗闘が存在するわけであるが。
まあこの暗闘てのは一般的には俗界において“社内政治”と言われているものに類する。
より具体的には、世襲経営者もしくは実質的な経営者層に対し、代々職員や兼業神職が、まるで反抗期のガキのように反旗を翻すものが多い。
ただし、待遇改善や職場環境向上を求める声はほとんど上がらず、神社運営における主導権争いがメインになってくるのが特徴的な点と言える。
とは言え、大体の神社において経営者層というのは大体決まっている。どのあたりが宮司になるとかは大体決まっているし、また世襲のところもある。
となれば雇用主と被雇用主は明確に分化されていると言えるし、また、飼い主が誰かわかっていない飼い犬などただの狂犬である。
なのになぜ、経営者の座はどうせ何代経とうが小揺るぎもしないのになぜ、このような主導権争いの暗闘がわざわざ発生するのかというと。
「ウチは代々この神社に勤めてるから」という、自宅感覚で職場に意見する、代々職員。
また、自分の家系で代々ちっぽけな神社の宮司を勤めているというだけなのに“神社界に重きをなしている”と勘違いし、また生活費が稼げないからよその神社様にお勤めして食わせてもらっているのに自宅感覚で職場にて宮司の如く振舞う、兼業神職。
まあカンタンに言えば、でかい会社において、そこに勤めているよそのちっぽけな会社の社長やそこの後継ぎが、偉そうに振舞っているのと同じ感覚である。
経営者としては、こいつらはタダの被雇用者なのだが、先祖代々のコネがあるから無下にはできないし、地縁血縁もある事だから粗略には扱えない。
で、こいつらがしがない雇われとしての自分の立場を自覚しているならいいのだが、神社に入ってくる段階で既に、コネで楽して資格とったりコネで楽に就職決めたりして入ってくるだけに、当然のごとく選民思想に満ち溢れており、強く出れない経営者の立場を逆手に取り、職場においても我が物顔で振舞う。
なので止める者もなく、こいつらは職場の腫れ物と化してゆく。
で、すっかり腫れ物と化したこいつらが必ず何をするのかというと、神社運営における主導権争いである。
自分達だけでやるなら好きにすりゃあいい話なのだが、迷惑な事に職員全体を巻き込んで争いをおっ始める。
宗教家が政治に興味を持ったところで碌な結果には結びつかないし、社内政治においても同様である。
金や権勢や社内政治に興味のない人間でも務まるのが聖職者のはずなのだが、否応なしに巻き込まれる。
まあ嫌そうな顔をして正論を吐く程度の自由は与えられるのが、一般企業とは違うところか。
「ここはお前ん家の神社じゃねえんだよ、そういうワガママなら家に帰ってパパ宮司に言えや」みたいな事をオブラートに包んで言っても、
「そういう事を言い出したら意見なんてできない」みたいな一般論を返すだけでまったく内省の気配すらない。
この辺は一般企業と何も変わらないのだが、もちろん神職の養成機関においても、年功序列、上位下達を重視した教育が施される。
伝統を堅持する神社界に、新しい意見はいらない。その考えにはただ単に飯食う為に神主をやってる私も同意する。てかどうでもいい。
しかし、飼い主が誰かをわきまえていない飼い犬は明らかに不要である。
そこんところはキッチリわきまえ、誰におまんま食わせてもらってるのか自覚し、飼い主に尻尾をきちんと振らない限りは、代々続く家の子孫だろうが何だろうがただの狂犬の群れである。
職場に対して偉そうに意見するのならまずは、テメエん家の神社一本で食ってけない、情けない我が身を省みて大いに恥じるべきである。
やり方次第ではどれだけ小さい神社だろうが、一社の故実を破壊せずに神社一本で食ってく方法なんていくらだってある。でもそれをしない。思わない調べない実行しない。
まずその己の怠慢に対し、親や祖先や神社に対してごめんなさいと言うべきである。
自分ちの神社だけで食ってけないなら、食い扶持を稼がせてくれるヨソの神社に対して偉そうな事は言わない。
何年勤めていようが、何代勤めていようが一緒。雇われは雇われ。
てかそもそも、そういう偉そうな事を言える立場じゃない。
本能的な話です。
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具体的には現在二人。
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すごく大きくて強くて、敵なしになっても滅んだ古代種よりも、弱くても現存しているネズミの方が優れていると仮定すると、優れた物が残るのではなく、残った物が……まあ別に優れちゃあいねーわな。
それでも、子孫を残すことに成功したと言うことは褒められることかもしれない。
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で、二児の親だ。
子孫を残すにはまだイロイロとやることがある。
生涯未婚率が三十年後に五割とかなっちゃうと、四割の確率で途絶えちゃう。
もう一人か二人は欲しい。
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夫婦というのは幸せな物だと見せつけつつ、向上心を背負わせ、それでいて性モラルは高くなりすぎないようにすればもしかすれば孫の代まで続くかも。
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千年前だろうが一万年前だろうが祖先が確実に存在したのに、百年後に子孫がいるかどうかも解らないのが怖い。
チンギスハンがうらやましいぜ。
キリスト教など西洋型宗教は人は神の子であると考え、また祖先を崇拝した延長線上に神がある。
一方、東洋型の神道などでは、神は人間とは別の階層に存在すると考える。
我々がID論など西洋型の宗教観を理解しようとしても、無意識のうちにこのような隔絶を前提としていると、うまく消化できない。
これらの国では国粋主義を叫ぶことが流行しているが、その旗振り役に居るのは西洋型の一神教的価値観の持ち主達である。
彼らが「伝統」を口にしてもどこか空しいのは、彼らがそもそも東洋的な宗教観や価値体系を持っていないためだ。
アフリカへの奴隷制、中東への「ぬれぎぬ侵攻」、そして東京・広島・長崎に代表される、人を人とも思わぬ、計画的で悲惨な国際法違反行為、同じ価値観を持った西洋人同士でも果たして行ったのだろうか。
彼ら西洋人の価値観が、我々の伝統を軽んじ、書き換えようとしている、これらを黙って見て、伝統を重んじる者たちは心が痛まないのだろうか。
その国の伝統をうまく把握できない者が、困難を抱えた時に国民を一致団結させることなど無理であり、統制で誤魔化すのが関の山であろう。
お前らなんでそんなにチビなの?そんな低身長で恥ずかしくないの?
もちろんそのチビには俺自身も含まれるわけだが。。
中国の広州や潮州、福建に行った時も周りは大体同じか低いぐらいだった。
コイツらでかい、かなりの奴が180近くある。中には190近くある奴もちらほら
同一種は北になるほど大きいと言うベルグマンの規則から考えてもおかしいではないか。
さらにおかしいのはフィリピン人でも若い奴は180近い結構でかい奴がちらほら居る。
おかしいではないか。
俺は泣きながら考えた。俺がチビな理由を、チビを理由に女にふられた理由を、そして一つの結論にたどり着いた。
答えは牛である。
いっぱい牛を食う。牛等の動物性タンパク質は高身長に貢献するのだろう。
そう考えると牛乳を飲むと身長が伸びると言うのも理論的に合っている気がする。
また、日本はかつて古墳時代まで身長が伸び続けたらしいが、その後鎌倉から江戸までは平均身長が下がったらしい。
これは仏教による肉食の忌諱が原因ではないか?
俺が子供の頃食べた給食を思い出してみてもあまり肉を食べた記憶が無い。特に牛の肉は稀である。
成長期の大事な次期に牛の肉を食べなかったのは痛い。高身長ならもてていたであろう俺の青春は返ってこない。
非同一性問題の一種か。まあ気にすることはない。
もし第二次世界大戦がなかったらその戦争より後に日本で生まれた人間はほとんど存在していなかっただろう。
それどころか親の性交のタイミングが異なっただけで君は存在しなかっただろう。
それに大体の人間の祖先にはひどい状況で殺人・強姦・強盗的な行為などをしてしまった人がかなりいるだろう。
……強姦的な行為によって新しく存在するようになった人ってのは30代前から40代前くらいまで遡ればまず祖先にいると思うんだよな。
そうだとして、その行為がなかったら自分は存在しなかっただろうが、自分が存在するのはよいことだと考えており、
しかも、これから先、強姦的な行為は世界に少なければ少ないほどよいと思っている人は多いだろう。