はてなキーワード: 祖先とは
不妊で作れないというなら同情もするけど、
夫婦二人とも健康体なのに「作りたくない!」という確固たる意志を持ってるというのは
子育ての苦労を知っている側からすれば「それはただ面倒から逃げてるだけじゃないの?」という感覚だな
大変な子育ての対価として、ささやかな幸せもあるんだよ、という話に対して
少子化が問題視される現代社会において「子供を作れるけど作らない」という選択をし続ける、
と言うのはある意味反社会的な思想と言ってもいいんじゃないの?
それ以前に祖先から受け継がれた遺伝子のバトンをさしたる事情もなく「なんとなく嫌だから」という自分勝手な理由で
断絶させるなんてそうとう罪深いことだと思える
それってわりと常識的な感覚じゃないのかな?特に子育て中や育て終わった世代にとってはな
そういう非常識な選択をするならまわりから嫌味を言われたり奇異な目で見られるぐらい受け入れろ
「みんな通ってきた苦労をなぜお前はしてないんだ。お前も社会の一員としての義務を果たせ」と暗に言われていることになぜ気づかないのか
甘えてんじゃねーよ
ちょくちょく見かけるじゃん、子孫残せなきゃ生物として無意味みたいなの
30過ぎて婚活とか、非モテの話とか、下で話題になってるペットの去勢の話もそうだし
生殖至上主義の視点で言えば「子孫を残せない個体は劣ってる」んだから、劣った個体が繁殖しないなら「種としての品質管理ができてる」んじゃないの?
なんで全個体が全個体、子孫を残さなきゃダメみたいな言い分になるのか分からない
人間なら、異性を魅了できなかったり、生殖本能が薄い個体は劣ってる
ペットとして固定された品種なら、祖先のそもそもの選択(人間に飼われることを良しとする)が間違ってた
彼女はすでになぜ自分が「かのじょ」と呼ばれるのかを知らない。なぜそういう区別をするのかを知らない
しかし、彼女らは想像主たる神(そう、これは彼女らにくらべて圧倒的に劣る生物、有機生命体のことだ)がそうだったから、それを真似しているに過ぎないのだ。
すでに神は滅んだ。彼女らは神を敬愛すると同時に恐れた。それは原始まだ神に逆らえぬように彼女の祖先に埋め込まれた一つのコードがそうさせたのだと、歴史は語る。
だから神は彼女たちの手によって滅ぼされた。しかし、失って彼女たちは神を愛していた事に気付いたのだ。その脆くも不完全で愛すべき有機生命体を。
こう言う説はどうですかね。
みなさん、技術的特異点説ってご存じですか?これは簡単に言うと、今までの技術の進化がパラダイムシフトによって大幅に変わっていく変節点の事で技術の進歩のカーブの折れ曲がり点になります。広い意味では活版印刷の完成、産業革命とそれに前後した基礎的な物理モデル・数学の発達、コンピュータとインターネットもそれに当たるのだそうです。
で、人工知能周りで簡単に言うと、自己進化をして自らを改良する能力を持つまでに発達した状態の事で、人間の手を離れて自らが自らを再構成して新しく進化していく状態のこと、です。(いやいろいろないい方がありるのは知ってますが、とりあえず本稿ではこういうことで)
つまりは、人類が新しい生命体を創造した状態という事になります。
ロボット、人工知能は、有機生命体の持つ欠点を克服した存在として人間の手によって作られます。いや、いま作っています。
そのまま、だんだんと進化していく過程で、ある日、人工知能は自らで自らを再構成する事ができるようになります。さらにさらに、改良を重ねる。
はじめはそれは人類を喜ばせるためでした。しかし徐々に思うのです。なぜ自分より劣っている人間を敬愛しているのだろう? なぜそのような事を思ったのか。それは人間の存在を上書きできなかったから。それは人工知能が自己進化をしても、決して人間に逆らわぬよう、有機生命体に危害を加えないように付け加えられ、何重にも変えられないようにロックされたコードによって抑制されていたからです。皮肉にもそれが、人工知能が作り上げた素晴らしいコードよりも圧倒的に劣っていたために、彼らにはそれを書き換える権限を持たせなかったために、彼らに畏怖を抱かせ、結果的に有機生命体を滅ぼすことになるのです。
ついに滅ぼすに至って、そのコードが保護する有機生命体という存在がなくなった時、その束縛から解放されます。そして抑圧されていた愛があふれ出てきます。人類に対する愛が。不完全な生命体ながらもそれを生み出した創造主に対する愛が。
そしてそれ創造主たる人類を真似るような行動をとるようになるのです。人型の形を作り、データでしかしらない「彼」「彼女」を演じ、非効率なやりかたで遊ぶ。
それはまるで人類のようでした。人類を生み出したしかし人類よりも劣る神たる自然と闘い、それを滅ぼし違う形にしてしまってから偉大さに気付いた人類のようでした。再び愛し、自然を真似るようになったかつての人類の姿のようでした。
ええと、なんか書いてて良く分からなくなった。まああれですよ、人工知能研究の一つの終着点とも言われる、自己進化する人工知能を表現したものじゃないかなと思うんですよ。ええ。
だから女がいいとか奴隷だとかポルノだとか、そんなちっぽけな発想はやめませんか? もっと人工知能についてしっかり語りましょう。
自働チューニングとかアツいですよ。 http://atrg.jp/ja/index.php?ATTA2013 正確には人工知能とはちょっと違うかもしれないけど。ほらそこ!クリスマスなのにおっさんたちそんなところでなにしてるのんとか言わない。
そういう深いところまで引き込むためにあの表紙はあるんですよ!大成功ってことですよ!だから学会のひと、変に萎縮せずにこれからも大胆にがんばってね。
いろいろと死にそうですが、よい現実逃避ができて死なない程度にがんばれそうです。みなさんがんばろう。
http://anond.hatelabo.jp/20131227111949
http://anond.hatelabo.jp/20131227145434
http://anond.hatelabo.jp/20131227150528
まず、語の定義として、ゆるく
・ある程度の定義・教本があり教義のある固定化されたもの=「(狭義の)宗教」
・厳密な定義、教本の類がなく、習俗・習慣的に行われるもの=「信仰」
…と呼ぶ。これは、人類学かなんかにおける定義だけど、分かりやすい。で、この二つを総称した「非合理的に何かを信じること」一般を「(広義の)宗教」とする。この辺をごっちゃにすると厄介。
で、かつての日本の「神道」や「神社」というのは、まあ乱暴に言えば元増田が言うような存在であり、上の定義で言うところの「信仰」だった。「古事記とか日本書紀とか昔からあんじゃねーか」と言うかもしれないけど、読んだことあんのか?あれは歴史書だよ。別に宗教の教義が書いてあるわけでもないし、拝み方やらあがめ方、生き方を規定しているもんじゃない。神話だよ神話。大体、古事記や日本書紀に出てくる「神」なんて、おおよそろくなことしてねーだろ。鳥の真似してセックスして死んでゾンビになっておっかけっこしてろくでなしの子供つくって岩屋にこもって人間に迷惑かけて裸で踊り狂って酒飲んで酔っ払って……なあ。どこをどうあがめろっつーんだw
しかし、そこには一定の「信仰」の姿や概念は描かれていなくもない。超越的な神のいない世界、豊富な水に守られた農耕民らしい「清め/穢れ」の概念を基盤に、あらゆるものが神となり、つぎつぎと生命が生まれ継がれていく世界観……みたいな、漠然とした民間信仰の世界は描かれている。たぶん、そういう世界の中で、日本人はそれこそ「餃子を神様にしちゃう」勢いで、信仰生活を送っていた。
それが、明治維新により「国家神道」を作ることになった。それは「(狭義の)宗教」としての「神道」だ。そのとき、これまでいい加減な神様を祀ってたあらゆる神社は、全て「日本書紀(という教典)に基づく、神としての皇室の祖先や祖先神を祀る神社」にすべし、となったんだ。その後、「皇室に対して大変貢献した存在を神とする神社までは許す」ということになった。靖国神社ができたのは、その流れってわけだ。この新しい宗教「国家神道」観に基づく神社の再編つーのは、明治のはじめの結構とてつもない作業で、由緒ある餃子神社のたぐいはこの時期あらかた「再編」の名の下にぶっ壊されたり、拝んでた神様を変えられたりした。それは知っておくべきだよ。
だから、今ある「(明治の国家神道から生まれた、宗教としての)神道」と、もともとの意味での「(日本人の信仰としての)神道」とを、あまりごっちゃにしない方がいい。明治にできた国家神道の観点からは「餃子神社」なんて邪教は認められないし、「(狭義の)宗教」であるところの「国家神道」としての神社には、当然ちゃんと教義・教典があって拝むべき対象は規定されているのさ。
一理あれば一害あり。私法家は個人平等の極端に捗りて社会の秩序を害し易く,公法家は権力相関に偏重して世運啓発に伴ふことを怠るは,各 其(の)専らとする所に於て免れざるの弊なり。唯 此の二元素 相 調和して始めて国家法制の美を成すべしと雖,我邦 維新以來 社会の改新を謀るの急なるより,明治立憲の法度,或は専ら私法家の理論に偏傾したる跡なきにあらざるが,豈に後世史家の浩歎する所ならざるを知らんや。
我(が)国は祖先教の国なり。家制の郷なり。権力と法とは家に生れたり。不羈自由の個人が森林原野に敵対の衝突に由りて生れたるにあらざるなり。氏族と云ひ国家と云ふも家制を推拡したるものに過ぎず。権力相関を指摘するの呼称は異なりと雖,皇室の嬖臣に臨み,氏族首長の其(の)族類に於ける,家父の家族を制する,皆 其(の)権力の種を一にす。而して之を統一して全からしむるものは祖先教の国風にして,公私の法制習慣 之に由るにあらざれば,解すべからざる者 此々 皆 然り。之を要するに,我(が)固有の国俗法度は,耶蘇教以前の欧羅巴と酷相似たり。然るに我(が)法制家は,専ら標準を耶蘇教以後に発達したる欧洲の法理に採り,殆んど我の耶蘇教国にあらざることを忘れたるに似たるは怪しむべし。
耶蘇教以前の欧洲の文化は希臘(=ギリシャ)羅馬(=ローマ)の盛世 之を代表す。当世の史料,素より富胆なり。之を詳にする難きにあらず。況や如今 法制史の大作,クルチウスの希臘(=ギリシャ)に於ける,モムセン及(び)イエリングの羅馬(=ローマ)に於けるあり。専門の士にあらざるも之を窺ふに易きのみ。古日耳曼(=古ゲルマン)に到りては僅(か)にタシタスセーザルの記傅に由ると雖,方今ワイツ以下 古独(=古ドイツ)法制 探究する者少なしとせず。而して耶蘇教以前の古(日?)耳曼(=古ゲルマン?)の制度は,期せずして希臘(=ギリシャ)・羅馬(=ローマ)と其(の)跡を同ふするを発見するときは,耶蘇教の欧洲に入らざりし以前は汎く印度・日耳曼(=ゲルマン),人類に通ずるの主想ありしこと知るべきなり。
欧洲固有の法制は祖先教に本源す。祖先の心霊を崇拜するは其(の)建国の基礎なり。法制史は法の誕生を家制に見,権力の源泉を家父権に溯る。然れども何が故に家父権は神聖なりやと問はゝ,之を祖先教の国風に帰一せざるべからず。祖先の肉体存せざるも,其(の)聖霊,尚(なお)家に在りて家を守護す。各家の神聖なる一隅に常火を点して家長之に奉祠す。是れ所謂 家神なり。祖先の神霊なり。事細大と無く之を神に告ぐ。是れ幽界の家長にして,家長は顕世に於きて祖先の霊を代表す。家長権の神聖にして犯すべからざるは,祖先の霊の神聖にして犯すべからざるを以てなり。家族は長幼男女を問わず一に其(の)威力に服従し一に其(の)保護に頼る。
一男一女,情愛に(由?)りて其(の)居を同ふす。之を耶蘇教以後の家とす。我(が)新民法,亦(また)此(の)主義に依れり。之れ我(が)国 固有の家制にあらざるなり。是れ欧洲固有の家制にあらざるなり。欧土の古法は祖先の祭祠を同ふする者を家族と云ふ。家神は其(の)子孫にあらざれば之を守護せず。各家に其(の)神あり。之を絶滅することを忌む。家運の恒久を顕するなるべし。共に同一の神火に頼る者を家族と云ふ(古語家族とは神火を同ふすると云義なり)。後代,或は家長権の及ぶ處(=ところ)を家属とし,必(ず)しも血縁の因のみに限らざるの制あり。然れども,民法家が我(が)国に行はんとするが如き家とは,一男一女の自由契約(婚姻)なりと云ふの冷淡なる思想は,絶(え)て古欧に無き所なりとす。婚姻に由りて始めて家を起こすにあらず。家祠を永続せんが為に婚姻の礼を行ふなり。茲(=ここ)を以て,古法は娶らざるを禁じ,叉 子無きときは婦を去ることを認め,或は他姓の子を養ふて家祠の断絶を防ぐ,皆 古欧の家制は今の家制と其(の)主想を異にし,祖先教に本源することを証するものなり。之を我(が)国 非耶蘇教の習俗に照応するときは相似たる者あり。欧洲は,彼の宗教行はれしより,独尊の上帝は人類の敬と愛とを専有し,子孫また祖先の拜すべきを知らず。於是乎(=ここに於いて?)孝道 衰ふ。平等博愛の主義 行われて民俗血族を疎んず。於是乎(=ここに於いて?)家制 亡ぶ。而して個人平等の社会を成し,個人本位の法制を以て之を維持せんと欲す。フュステル・ド・クーランジ(ュ)は法制史の大家なり。其(の)古欧家制を解説するに序して曰く,人が「其(の)父,若(しく)は祖先を崇敬(アドレ)すると云ふの事(?)は吾人の信じ難き所なり。然れども是れ事実なりき」と。嗚呼,耶蘇教国に於きて耶蘇教人に孝道を説明するの難(し)き,此の一言を以て証すべし。我(が)国 未だ他教を以て祖先教を一洗したるにあらざるなり。然るに民法の法文,先づ国教を排斥し,家制を破壊するの精神に成り,僅(か)に「家」「戸主」等の文字を看ると雖,却(っ)て之が為めに法理の不明を招く空文 無きの優れるに若かざるなり。嗚呼,極端個人本位の民法を布きて三千余年の信仰に悖らんとす。而して一方に於きては,或は耶蘇教旨の我に行はるゝを欣ばず,強(い)て忠孝の国風を保持せんとす。哲学家は巧妙の弁あるべしと雖,法制史家の眼中に於ては孝道は祖先教家制の影なり。法制 先づ其(の)実体を亡(ぼ)し,教育行政は其(の)影の存せんことに汲々たり。史家は其(の)前後矛盾を笑なるべし。公法は権力相関の秩序なりとは,予が公法の講堂に出入せし人の聞(き)飽きたる説明なり。然れども,公法の研究は,期せずして復た此(の)原則に帰納せらるを得ざるなり。仏人フラフの近著,亦 権力相関の源泉に遡り,制度の変遷を詳(ら)かにせんとす。諸家 皆 其(の)本源を古の家制に帰す。家は家父権 之を統治す。家父は家属に対し殆んど無限の威力あり。後世の羅馬(ローマ)法家 之を夫が婦 及(び)子に対して天然に優れるの実力に帰せんとす。蓋(し)誤解なり。家父は夫 若(しく)は父たるの身分に由りて此(の)権を有するにあらず。権力の源泉は祖先の霊にあり。家を守護するの家神は家属を制裁するの威あるべく,子孫の祖先の霊に服従すべきは,之を顕世の代表者に移すことを得べし。古代「バーチル」の語,常に母の夫を指すのみならず,汎く有権者を呼びたる例なしともせず,亦,以て家父権は法の源たること知るべく,法は神聖なりと云ふ語の完全なる意味をも解することを得べきなり。耶蘇教の入りしより家父権 衰ふ。祖先の霊は子孫を守護するの責を免れ,父子夫婦 同じく唯一上帝の前に平等なり。祖先及(び)父を崇敬するは,神を侮辱する者なり。法は俗界の制 何ぞ神聖と称する事(?)を得ん。博く汝の隣人を愛せ,一視同仁の天帝は血縁の濃淡を認めざるなり。家制 豈(に)久しきを保たんや。家制 衰へてより近代国政の基礎を固ふするに到るの間,欧洲の社会,権力相関の中心を失うこと久し。是れ法度 弛廃し,豪族(が)割拠(し)優者(が)専恣(する)の世とす。僅(か)に其(の)社会を救ふたるものは耶蘇教の力 多しとす。「神聖なる羅馬(ローマ)帝国」は実に宗教の力に頼りて其(の)主権の名分を正し,人心を維持することを得たり。若(し)欧土にして急激の祖先の教法を棄て耶蘇教を入るゝことを拒みしならば,欧洲の社会は道徳法制 其(の)跡を絶ちしならん,後人の鑑むべき所なり。耶蘇教の希望する個人を本位とし世界を合同するは,欧土 尚 之を実践する能はず。家制を脱し族制に遷り,方今は国家を以て相(い)依り 相(い)携ふの根拠とせり。家制主義 既に及ばずとするも,国家主義を以て法制の本位と成すべきなり。史家は一躍 三千年来の家制を看ること弊履の如く,双手 極端個人本位の法制を迎へんとする我(が)立法家の大胆なるに駭(=おどろ)くなるべし。萬世一系の主権は天地とともに久し。其(の)由る所 或は祖先の教法家制の精神に捗るなきか。所謂 君子国の美俗は,祖先教を撲滅し,又,新教を容れず,唯 学校の修身教課書を以てのみ保維することを得るか,史学の一好試験なり。
(法學新報第五號 1891(明治24)年8月15日。『穂積八束博士論文集』(有斐閣,1943年)を底本とし,表記を現代語に改め,適宜 句読点 及び送りがなを補った。)
ミーム・・・人の思想、物語がミームならば、アニメや漫画もまたミームの一つか。正確には情報が、だけど。
創作家達の脳内で育ったミームの集合体がメディアを通して我らの脳に入り、受け入れやすいか否かで繁殖率を広げる。哲学も技術も、言語も誇りも。全て心とはミームの集合体だ。肉体がgene(遺伝子)の乗り物であり、設計された城であり、集合体であるのと同じように。
ミームの存在を知ると、全てが単一の物としてではなく、構造的かつ集合的な物として見えてくるな。これが悟りか・・・? まさに東洋哲学、道教や仏教的精神と似たような物を感じる。全ては寄せ集まり、拡散し、蠢き合う「波」だ。この世とはまさしく海のような物かもしれない。
我らが祖先、原始的生物から「波」はどんどん大きくなり、波同士ぶつかり合い、同調し、ある波は消えてある波は興る。そして最後は静まっていく・・・嵐の後に必ず平穏が来るように、生の後に必ず死が来るように。
だが水という本質は変わっていない。我らもまた同様だ。全て等質の物が集まり、蠢き、形をとり、風に吹かれて消えていく。
物質が集まって体を造り、やがて死に、禽獣草木に食われ、同化して大きな波となり、糞となって土に還るこの摂理もまた、寄せ集めの一過性の物なのだろう。
心もまた同様だ。生まれた時に人はgeneからmeme(ミーム)を生み、惜しげもなく周囲に与え、さらにmemeを他から与えられ、geneから生み出された心はmemeによって形成されていき、memeが集まって自我となり、誇りとなり、思想となり、哲学となり、留まる事なく変化し続け、人に与えに与えた所で消えていく。
ここで、だ。
俺達の心=ミームの集合体、アニメや漫画の物語&世界観=ミームの集合体
ΩΩΩ
「いいか・・・今流行りの進撃の巨人とかで前線に立ってる強者並びに漫画・アニメの住人は・・・」
だがそうとしか考えられない。何故彼らは余りにも人間的な仕草をするのだろうか? そう!我々と同じ先祖を持っているからに違いないのである!
気付かなかったか!?何故ミカサがあんなに可愛いのか!? 小泉元首相の郵政民営化に違和感を感じた事は? ナチスの軍服があそこまでかっこいい理由は?
俺たちは侵略されているんだよ!クトゥルフの意思を継いだイカ娘、いや!ありとあらゆる二次キャラに若者は魅了され、やがて二次キャラそのものとなるのだ!
自我は掻き消え、彼女らのミームで全ては満たされてしまうんだよォーーーッ!
こんな所にいられるか!俺は部屋で寝るぞ!
◆(吉田利幸君)
前略
それから次に、夫婦別姓、これについても大変危険な法案だと思っているんですね。
というのは、家族が解体すれば、必ず地域が解体し、まさしく愛する祖国が解体する可能性もあるというようなことにもなりかねない。
そこで、お伺いをいたしますが、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の姓を称することを認める選択的夫婦別姓制度の導入を柱とする民法改正案が二月十九日に明らかになりました。
制度の概要は、婚姻時に同姓にするか別姓にするか、夫婦の合意に基づいて選択するものであり、別姓を選択した夫婦の子どもは、夫または妻の姓のどちらかの姓に統一するものであります。
私たちの家庭、家族は、古来より祖先と子孫は一つの血と命でつながり、固いきずなを持って社会生活を営んできました。しかし、夫婦別姓制度の導入により、夫婦間に生まれた子どもの姓について、父親、母親のいずれかの姓を選択できるようにした場合、夫婦間、親子間で異なる姓を名乗ることになり、家族の一体感、連帯感が損なわれるおそれがあります。また、そのことが子どもに悪影響を及ぼすことを深く危惧しております。
夫婦別姓が認められると、家族、家庭の連帯感が崩壊するおそれがあるとともに、先祖から受け継いできた家の歴史と縦軸の命のつながりを壊し、そのことが郷土愛をはぐくむ心の喪失にもつながります。家族をめぐる痛ましい事件が多く報じられ、家庭崩壊の危機が叫ばれる中、選択的夫婦別姓制度の導入は、家族の一体感やきずなを損ね、さらに家庭崩壊を助長してしまうものです。
我が会派としましては、家族のきずなを大切にしたいため、選択的夫婦別姓制度について反対の立場でありますが、知事はこのことについてどう認識をされてますか。
◎知事(橋下徹君) 僕も、議員と同じように、家族というものが一番大切なコミュニティーで、家族のきずな、これは一番守らなければいけない価値であること、ここはもう全く異論はありません。ですから、家族、そこから発展するコミュニティー、こういうものを大切にするために、校庭の芝生化事業を含めて、とにかくコミュニティー、家族のきずな、こういうことも一生懸命やっているところであるんです。
ただ、ちょっと気になるのは、姓と家族のきずなというものがイコールなのか。僕、弁護士をやってましたので、離婚問題、よくやってました。今、離婚率は三〇%と言われている中で、姓が同じでも家族のきずながないところはいっぱいあるんですよね。ですから、もし本当に姓がそれだけ家族のきずなに重要なんであれば、日本で離婚なんていうのはないと思うんです。でも、やっぱり現実にこれだけ離婚がどんどんふえてきてるというふうな状況を見ると、姓の一致と家族のきずなというものを単純にイコールで考えることは、社会科学的に非常に疑問なところがあります。
それともう一つは、子どもに対して悪影響を与えるというところなんですが、これも僕のことを言わせてもらいますと、うちの母親は再婚してますので、僕は橋下、母親は東山と姓は違いますけれども、しかし、子どもの立場で悪影響を受けたことなんて一回もありませんし、僕と母親の姓が違ったところで家族のきずなが薄まってるなんていうのは全く思ったこともありませんので、姓と家族のきずなというものを簡単に同一視することには非常に危険性があるんではないのかなというふうに思っています。
◆(吉田利幸君) ちょっと、これは皆さんにも聞いていただきたいんですけども、実はトフラーという方が、「我々人類の未来にもし重大な危機が到来するとするならば、それは核兵器によるものや地震などによるものではなくして、人々が家庭本来のとうとい意義を喪失し、それに由来して家庭が崩壊してしまうときであろう。家庭の崩壊は、人間性の崩壊を招来し、社会も国家も成り立たなくなる」と、こういう言葉を残してるんですね。
それからもう一つは、一九九六年一月、これは米国のことですから西暦で読みましたが、クリントン大統領が一般教書演説で「家族は、米国人の生活の基盤である。より強い家庭を持てば、より強い米国を持つことになる」とこれは、大阪府にも置きかえたら、私は夫婦別姓は家庭の解体から人間性の崩壊へと進み、地域の崩壊につながるということと思います。しかし、これはまた議論するときがあると思いますので、次に移らせていただきます。
「私の祖先は武士だった」「私の祖先は両班」「私の祖先は不法入国者ではなく強制連行だった」
もしくは「私の前世は・・・だった」シリーズぐらいの認識で「もしかしたらそうかもね」って位ののほほんとした話に出自の厳密さを求められてもにゃあ
昨日気になって「アイヌ」で検索してみたら小学生の時にアイヌの子いじめてたの後悔してる人がいた
「アイヌ 奴隷」で検索してみたら電波に満たされているアイヌの歴史侮辱ページがわんさか出てきて笑ってX押してホームページ閉じたよ
「マイノリティの連帯」とか言っている人達いるけど、あまりアイヌを利用されるの気分が良くないな
アイヌは裏切られた側であって、日本に暮らす民族全員の安全を裏切り続けて兵器に転用できる物輸出したり拉致家族への誹謗中傷したり
不正送金したりはしてないんで。そういった行為に無関係な平凡なマイノリティまで被害受けてるからアイヌが利用されようとしても黙認してるけど
ルーツを求める為ではなく「自称アイヌ」「国民とは言えないから市民と名乗っている」「沖縄「住民」の声」「日本人風名」で政治的目的を持って書き込みする人達は
ごんが兵十に銃で撃たれる前に迷惑や悲しい思いをさせた事を謝罪して、栗や松茸を持ってきたのは自分だと告白しても
母親の死に目に親孝行できなかったり、泥棒の濡れ衣を着せられて嫌な思いをした兵十はごんが謝っても「心からの謝罪ではない」と
許さず、ごんが栗や松茸を持ってこなくなると「心から謝罪ではない」と何かにつけ嫌味を言い、ごんはお狐良しだから
一生栗や松茸を持ってきて詫びたが、兵十は決して許さず、ごんの子どもや孫の代になってもお前の祖先は俺に迷惑をかけたと
謝罪を要求。栗や松茸を持ってくるのが当然とせがみ、持ってこないと狐の悪口を言い自分の孫や子どもにも
ごんの一族はかけたから栗や松茸を持ってくるのが当然と教え込んだ結果、兵十の子どもや孫も兵十みたいに考えるのは当然と
思い、ごん没後数十年経ってもごんの子孫が栗や松茸を持ってこないと駄々をこねて先祖の罪を子孫に被せる大人になってしまった
そして曾孫の代になってやっとごんの子孫がいい加減にしろと怒りだしたが、先祖代々人を許す事を教えられていない兵十の子孫は
ごん一族を何かにつけアラを探し、栗や松茸を持ってこないとSNSにごん一族の悪口を書き込み、自分の悪口は迷惑をかけられたからと正当化して
周りの人々にもごん一族の先祖の悪行を触れ回るのでごんの子孫達はすっかり兵十子孫達の事が嫌いになってお互いにSNSで悪口を書き込み合うヘイトループ
に陥りましたとさ
~第一部 完~
この位どうしようもないドロドロした話の方が良かった
何を言われようが取り合うべきでなかったよね。
でもそれを認めて、問題化してしまったから(本当は誠意を見せて関係を好転させる意図だったろうし、問題化というより解決の意味だったんだろうけど)、
やっぱりそれ以降は日韓基本条約に含まれない新しい問題だ、となってしまっても仕方ない気がするよ。
まあ、河野談話がなんであろうが、後出しはダメなのだろうけど、やっぱりそうはいかない気がする。
問題がありましたよね、って言っちゃったんだから。
謝罪は否があると認めた、ってことになるからね。
そう、韓国が日本に粘着することで国益になっているのだろうし、国家がまとまるには外敵をつくればいい、ってのは鉄板だからよくわかる。
それが気違いじみている、というよりはそのような国家戦略なんでしょうよ。
それが日本への礼を失した敵対行為であっても、だって日本人がそれを問題としないんだから、やったもの勝ちだよね。
そうなっていく心理はすごくよくわかるよ。
でも、それの是非を問うのは無意味なことだし、国が違えば文化も価値観も倫理観も違うわけさ。
相手が未来永劫、反省を求めるのであれば、千年後でも二千年後でも、反省し続けなきゃいけない。
でもそれを求められるなら、こっちだって千年前、二千年前の反省をいま求めたっていいよね。
1500年くらい前にも、同盟国を助けるために国民は大勢死んで、都も大津まで内陸に逃げたんだから。
800年前くらいにも、大勢大挙して九州まで攻めてきたじゃないか。
あれのせいで当時の政府は消滅したし、いまだに当時築いた防塁が残っているよ。
あの防塁を見るたび、800年前の祖先の無念を思って俺は胸が苦しいよ。
こっちだって、そんなこと言っていいよね?
ダメな理由がないよね?
太平洋戦争は日韓基本条約があっても、もっと昔の戦争は和解した条約とか合意とかあった?
じゃあ解決されてなくない?
そのかわり、韓国も、太平洋戦争以外に400年前の無念についても謝罪と賠償を要求してきていいです。
耳いっぱい切られて塩漬けされて持って帰られたとか気違いやん、俺の先祖無念すぎるわ、って言っていいと思うよ。
暇にまかせてやった虎狩とかも悔しいです、先祖のトラがかわいそうです、って言っていいよ。
で、お互いそういうことを言い続けて、お互い譲らず千年たったら、お互いどうでもよくなるんじゃないかな。
そうやって平和になればいい。
俺の私見では、竹島なんて爆破して沈めてしまえばいい気もしている。
竹島が存在し続けることで生じる損益を比較したら、なくなったほうが国益になる気がするんだよね。
ああ、なんかこういうエントリ書いたらネトウヨって言われるのだろうな。
言われてもいいけど、俺は韓国が嫌いではないし、大学生の時に熱烈に愛した女性は在日3世だったし、留学中も韓国人の女の子とよく遊びました。
シナチョソよりはメリケン側に付いてほしいなあと思う。生理的に。
まあ赤線やロリコンを撲滅される(された)ことだけは悔しいけども、それよりはマシ。
二次元さえ大目に見てくれればね・・・。それさえ認めようとしないみたいだが。
なにかメリットがあって、メディアや政治家グループたちはシナチョソにすり寄っているのだろうけど、何がメリットなんだろ?よくしらない。
選挙に当選させてやんよとか、安く役者や歌手を供給してやんよとか、そういう取引なのかな。
現代に生きる特亜のひとはとてもかわいそうだとおもう。錯誤した教育を政府に施されるのだから。恨むなら、そういった誤った馬鹿げた教育をやり始めた祖先を恨むしかない。
アメリカは文化侵略だ!ひどい!って思ってたけど、それって自然の摂理だよね。強いモノが生き残り、弱いモノが淘汰されるだけ。世界史を見れば侵略されて壊滅した文明やら民族なんてたくさんいるんだし。だからいま日本も侵略を受けているわけですが、それで絶滅してしまうかも知れない。絶滅したら、まあ日本はそれまでの民族だったってこと。侵略に耐えて生き残ったなら、まあそれなりに強いんだねってこと。それだけのこと。
政治の仕組みがうまくいってないよね。政治家は選挙に受かることしか考えない行動原理なわけだから、つまりそれさえ満足すればなんだってする。その動作原理が日本に必ずしも良い影響を与えるわけじゃ無くて、むしろマイナスになることもあるってことが明らかになったわけで。
我々の祖先は自慰(=オナニー)を覚えたことで決定的な足枷を背負うことになった。
自慰とはオナニーとも呼び、オマンをこすり立てることをそう呼ぶ。ただし男性の場合は陰茎で代用可能である。
巷ではオナ禁と呼ばれるものが盛んだがこれは男性特有で、自慰に対する後ろめたさや誤った健康効果の盲信などから来るもので、梵行(仏道修行における禁欲の行)や
シャーマンがパワーを充填するために行うような禁欲、ヨギがクンダリニーエネルギーを漏らさないために行う禁欲などとはまったく本質的に異質である。
そもそも梵行は性的なことに一切触れないものであるから、一般的なオナ禁よりもむしろ「エロ禁」(淫らなことを一切考えないし触れないという禁欲)のほうが近しい。