はてなキーワード: 考察とは
みんなキミと同じことを言っている
後からそう解釈しようとして考察してみればそう読み解れなくもない
みたいな話で
他人の駄作判定を覆すなら、その部分が作品を傑作たらしめる要素が妥当だと思うが
あれを神の話と読み取ってみても、作品全体のぼやけた感じが変わらないので
本文では、弱者男性とミソジニーに関連性が見られる理由について考察した上で、弱者男性に対してある提案をする。(なお、ここでは、「弱者男性」の定義は恋愛において女性から選ばれにくいヘテロシス男性とします。)
※この文章では、ミソジニストはどのような考えでそうなるのかについて考察する部分があるという都合上、ミソジニー的な思考を正当化しかねない部分があります。男性恐怖症の方などは即ブラウザバックすることをおすすめします。
※本文中では弱者男性個人の心のあり方を批判的に検討していますが、これは弱者男性の境遇が完全に自己責任だという立場に私が立っていることを意味しません。社会的に弱者男性の情緒的問題や、そこから派生するさまざまな問題に対応するべきと私は思っています。
まず、ここではミソジニーの定義を「女性の自由・主体性を認めない/限定する」こととします。例えば、「女は男に比べてバカである/判断力がない」という主張は、「だから女に与える自由は限定すべきだしその分保護しなければならない」にすぐにつながるのでミソジニー的な主張と言えます。また、「女は男に比べて悪人が多い」というような主張も、「女に与える自由は限定すべき」に繋がるのでミソジニー的です。
さて、少なからぬ男性、時には女性までもする主張があります。それは「男が女を襲うのは(特定の条件が揃いさえすれば)自然現象のようなものであって、男を責めることはできない」です。もちろんこんな世界観は私から見ればミソジニスト・ミサンドリストの妄想もいいところですが、今回はそのミソジニストの妄想こそが語るテーマですので、深掘りしていきましょう。
まず、この「男が女を襲う」という「現象」を引き起こしているのは、ミソジニストに言わせれば女性です。女性の方が誘っていて、男性がそれにしばしば抗い切れないから襲ってしまうらしいです。もちろん本当に女性が誘ったケースもないとはいえませんが、ミソジニストの感覚として、「たとえ主観的に女性が『私は誘っていない』と思っていたとしても実際は誘っている場合が無視できない数ある」というものがあると思います。
誘うという行為は主体的であるにもかかわらず、女性が意図せず男性を誘ってしまうとはこれ如何に。しかし、この現象は「魔女」という概念を考えるとよく理解できます。
ここからはしばらくミソジニストの妄想の中の話になります。念のため、これは筆者の考えと違うという元を強調するために引用の形式にします。
ミソジニストの考えでは、一人の女性のうちに、その人の表向きの人格(以下「人間」とする)と、「魔女」の2つの存在が同居しているのです。
この「魔女」は男性を自身の性的魅力によって狂わせるのが目的です。何か「人間」自身が得するように男性を騙したいとかそういう打算的な話ではなく、「魔女」にとっては男を弄び狂わせることこそが存在目的なのです。ミソジニストに言わせれば、女性は意識の上では自分が100%「人間」だと思っているけれど、その実は心の中に潜む「魔女」に多大な影響を受けているのです。
「魔女」は性的に飢えている人間を狂わせるためならなんでもします。例えば、受けたら社会的に死ぬような「誘惑」をしてみたり、あるいは弱者男性を嘲笑うために街でこれ見よがしにカップルで歩いてみたり、モテない男をいじめたりします。これらの行いは、全て性的に飢えている人間を狂わせるというただそれだけのためのものです。(あるいは、それによって自分の性的魅力の高さに陶酔するためかもしれません)
「魔女」によって狂わされることから逃れるためには、恋人を手に入れるしかありません。ここでいう「手に入れる」とは、単にある女性と恋人関係になることにとどまらず、その女性を支配する、ということです。カップルで男女対等な関係にでもなれば、「魔女」に狂わされそうになった時に対抗できないかもしれません。「魔女」は見境ないので、時に恋人にすら牙を剥きます。男性にとって「魔女」の影響を受けずに済む状況というのは、自分より立場が下の女性を緩やかに支配すること以外にありません。これによって、たとえ恋人以外の女性の中にいる「魔女」に狂わされそうになったとしても、代わりに従順な恋人とセックスすれば「魔女」の誘惑から逃れることができます。
「魔女」は全ての女性の中にいます。そして、性的魅力が高い女性の持つ「魔女」ほど人を狂わせる力が高いです。(ある意味当たり前ですね)
そして、多くの女性はこの「魔女」の存在に気づけません。自分の判断が「魔女」に影響されていることに気づかないままです。あるいは気づいても、それに抗って「人間」としての行動をすることなく、「魔女」の命ずるままに男を狂わせることに快感を覚えます。なので、意識で考えている欲求と実際無意識下で抱いている欲求にすごく大きな差が出ます。これはすなわち女性は男性よりも自分は何をしたがっているか判断する能力がないままに「魔女」という恐ろしいパワーを持っているわけです。こんな存在を野放しにしたら災いが起こる。現に弱者男性なんて「魔女」による災いを一番受けている立場です。
さて、これでミソジニスト、とりわけ「下から目線」「弱者男性」のミソジニストの世界観を、それ以外の人たちにもわかりやすく伝えられたと思います。
もう、まず「全ての女性の中に男を狂わせることに快感を覚える『魔女』がいる」というような考え方からして陰謀論臭さを感じます。なんというか、自分がたまたま女関係で狂っているからと言って、「自分が狂ってしまっているのは自分が狂うと得するやつがいるからで、それが女だ!」というのは、端的に粗雑な思考と言わざるを得ません。というか、自他の区別ができてない。
また、「男が女の性的魅力と接して狂う」という状況を、100%女の責任にしているようなところもいただけません。ぶっちゃけた話、女性がフェロモン放ってるのも、男性がそれに魅力を感じるのも(それ自体は)自然現象であって、その時点で特別誰が悪いとかはないはずです。で、その上で男性は市民として生きていく上で日頃理性で本能を抑える必要があります。それが人によって難しい、という話はわからなくもないですが、それは人類の理性や社会制度が全然進歩していないことが原因であって、「女性の中に魔女がいるから」悪くて、女性の自由を制限して男性が女性の上に立てばいいという話ではありません。
要するに、この種のミソジニーの弱者男性は、本来社会制度の未発達(もちろん、社会を作るのは社会の構成員全てなので、そう言った意味で女性の責任が皆無とは言いません)と自分の理性の未発達が原因であるはずの問題を、なんだかよくわからない女性の中にいる「魔女」のせいにしているのです。そして、その「魔女」は自他の区別ができないがためにミソジニストが作り出した幻影です。
さて、ミソジニストを狂わせているのが女性の中にいる「魔女」ではなく、未発達な社会制度と自身の理性の欠如だとわかったことで何が変わるでしょうか?
女性とコミュニケーションを取る際に、女性を恐れなくて済みます。「魔女」の世界観でいえば、女性は(無意識に)あなたを狂わせることを望んでいるわけであって、あなたが悪戦苦闘すればするほどにっくき「魔女」の思う壺です。だったらいっそ「復讐」してやる、とばかりにセクハラなり痴漢なりレイプなりに及んでしまえ、のような発想になるかもしれません。しかし実際は「魔女」はいないので、あなたが適切な振る舞いができるかどうかは単にあなたの損得の問題です。誰もあなたの内心を覗いて嘲笑ったりしていない、というわけです。
もちろん、全ての「弱者男性」問題がこのような被害妄想であり、「弱者男性」の意識改革だけで解決する、などとはいいません。しかし、少なくとも、ミソジニストととなる「弱者男性」には大きな認知の歪みがあることが多いのではないか、その認知の歪みに見られる共通点はなんなのか、と考えたところ、このような結論に至りました。
■なんでイス?
車いすのメタファーと思われる。 足が欠けて3本しかないのは、欠損の暗喩かもしれない。
物語序盤で綴じ師の青年が腕を負傷するシーンがあったが、構想段階では足を負傷して車いすに乗るという案もあったのかもしれない。
PS.
自身はロッキングチェアに座り推理だけを行い、捜査は助手に任せるタイプの探偵を、安楽椅子探偵などと呼ばれることがあるが、
究極の安楽椅子探偵と例えられる、ジェフリー・ディーバーのリンカーン・ライムシリーズがある。
脊椎損傷により寝たきりのベテラン刑事が、無線で新人の女性刑事に指示を出し、鑑識捜査を行っていくストーリーだ。
...そういえば病床に伏せる老綴じ師も出てきましたね。
①中の人はどうせおばさん
②キャバクラと一緒
みたいなやつだけど、①はお前もアニメ見てんじゃんで終了。②は別にキャバクラでも何でもないので終了。
キャバクラ行ったことないんか?前金制でマンツーで話すキャバクラとVtuberは全く違うし、そもそもそれ配信者すべてに当てはまることだからVtuberだけを叩く理屈としては不適格なんだよね。
むしろ3次元の配信者の方がキャバクラホスト寄りなんだから②を使うならまずそっちを叩けよっていう。そっちは同じ視聴者と同じ次元にいるわけだからイロコイもあり得るわけじゃん。
①も大概だけど②は本当に理論的思考のできないバカですっていう自己紹介にしかならんからやめた方がいいよ。
で、バカ丸出しにもかかわらずこんな風に嫌ってくるってことは、それはもう感情なわけじゃん。その感情ってのが何かっていうのを考えたんだけど
Vtuberってのはロールプレイングなわけ。そのロールプレイングに参加している視聴者も当然ある程度のロールプレイングを求められるわけ
「私は異世界からやってきました」って女の子がいたとして、そこを否定したり矛盾を引き出すためにガッツリ深堀したりするコメントはしないわけよ、視聴者側は
そういうものだという前提で配信を通じてロールプレイングに参加してるわけ
三次元の配信者が異世界から来たとか言ったら嘘乙ってなるだけだし矛盾を引き出すためのコメントであふれるだろうけどさ、二次元はすんなりと受け入れられるわけよ
まあ、言ってみれば大人数でごっこ遊びしてるだけではあるんだが
多分このコミュニケーションのあり方に宗教的なにおいを感じて、かつそこにスパチャという形で金が絡むから嫌悪感を持ってるやつがいるんだろうなって思ったね最近
視聴者としてロールプレイングに巻き込まれたくないとか思ってるんかなってね
この増田読んでずっともやもやしてたんだけどようやくわかった。
この増田はまあ確かに合ってるところもあるけど、根本的にファンを数字でしか見てなくて質を無視してるんだよ。
だから「ぼく勉に話の良さを期待していたファンなどほとんどいなかったのだから、話の出来が悪かったから盛り下がったのだという主張は失当である。」みたいな的外れなこと言うんだよ。
1個ずつ反論するわ。
これはまあそうだね。好きなキャラのルートしか読まない人も少なくないだろうから読者が減ってくのは同意する。しょうがないよね。
これは半分詭弁だと思う。確かに本編の内容と関連付けて語ることはなくなるかもしれないけど、それだけじゃないじゃん?
考察みたいな頭使うことしなくてもここのキャラが可愛かったとかこのシーンが好きとか普通に語れるじゃん。
それに1人しか好きなキャラがいなかったら他のキャラのことは冷めた目になるかもしれないけど、大体のファンって箱推しじゃない? 1番好きなキャラがいても次に好きなキャラがいるとかみんな好きとかが普通でしょ。
ギャルゲーだってあるヒロインが好きだとしても、他のキャラのことも普通はある程度語れるし、いいよねって他のファンとも言い合えるじゃん。
ぼく勉でそういうことを語る人がいなくなったのは単純に話がクソでみんな離れてったからでしょ。
パラレルルートの始まりにヒロインを脇役にして今までに1話しか出てない幽霊とサブヒロインメインの話されたら誰だって呆れるわ。
文乃にしても本編ですでに許されてるのにまた許されないだの何だの言い出しても結果わかってんだから緊張感ないし、怠慢も生徒と教師とかいう旨味をかなぐり捨てて教師同士の恋愛とか誰も求めてないことやりだすし。
唯一良かったあしゅみーだって離島で大人になった後の話で、成幸の父親とあしゅみーの父親が親友でしたとか無から湧いた設定まで出てきて今までのぼく勉と何の関係もねえじゃん。成幸の父親も町医者に手術しろとか頼み込むアホになって株クソ落とすし。
たとえパラレルルートで読む人数が減ったって、この辺のストーリーが良ければその話で盛り上がれるよ。
たとえファンが減ったとしても語りたいと思える内容ならそういうファンが盛り上げてくれるんだよ。ファンの質ってそういう意味な。
単にストーリーが良くないからこんな思い出共有したくなくて盛り下がっただけ。
これはもう詭弁じゃね?
「中途半端に与えられると足りないものが目についてしまう。半端な救済は逆に恨みを買ってしまう」とか「それまでの話にいくらいいシーンがあったとしても、個別ルートの出来が良くなければ満足されない」とか抽象論で言えば確かに正しいけど、じゃあ具体的な満足されるラインって決して「全教科満点取れば入試に受かる」ほど高くないでしょ?
理珠派 ほぼ関城さんがメインで理珠がサブ扱いなので不満の声が目立つ。
文乃派 話自体にはそれなりに満足しているがパラレルがなければ本来は文乃が勝っていたはずだという幻想に縋って不満が渦巻いている。
あすみ派 とりあえずやってくれたことに満足している。
これを例に挙げてるけど改善点なんて明らかじゃん。
うるか→花火のアップで終わらせない、サプライズの発表にしない、ちゃんと正史だと言うか言わないなら他と同じ扱いにする。
理珠→関城さんじゃなくてちゃんと理珠がメインの話にする。
文乃→そもそも焼き直しの話をやるから本来は勝ってたとかいう不満がでるんだから焼き直しの話にしない。
真冬→生徒と教師のままにする。(マガジンで女教師と男子高校生の恋愛なんかいくらでもやってんだから少年誌じゃ無理だとかいう妄言はやめろ。作者が逃げただけだ)
このあたり普通にやってればファンは満足するわ。こんなの誰でもできるぞ。
評判いいあしゅみーのルートだって成幸の父親筆頭に細かいとこ粗だらけだけど、あしゅみー好きみんな満足してるしそれ以外のファンもいい話だとか言ってるだろ。
誰もぼく勉に非の打ち所がないストーリーとか求めてないんだから、なんとなくそれっぽい雰囲気の話が読めれば満足するんだよ。
誰でもできることを作者が出来なかったから呆れられてるだけなんだから、あたかも実現不可能な高いハードルかのように言うなよ。
ぼく勉が盛り下がったのはパラレルストーリーが悪いわけではなくぼく勉が悪い。
パラレルストーリーでどんどん読者が減っていくことは確かだけど、それでも残るファンはいるし、残るファンが語れるようなストーリーをやれば盛り下がるだけにはならない。
そして残るファンが満足するようなストーリーをやることは決して高いハードルではない。
ファンなんて元々作品に好意的なんだから、よっぽど酷いもの出されなきゃ普通に歓迎するわ。
ぼく勉はそのよっぽど酷いものを何度も見せられたからファンが呆れて見限られただけ。
「ぼく勉に話の良さを期待していたファンなどほとんどいなかった」かもしれないけど、それでも80点のようないい話の期待じゃなくても赤点回避の30点くらいの期待はしてたんだよ。
その程度の期待に応えられなかったのはぼく勉が悪いでしょ。
パラレルストーリー自体はラブコメ漫画の新たな可能性なんだから、ぼく勉のような失敗作を例に挙げてパラレルストーリー自体を否定するようなことをしないでほしい。
まあ信頼を切り売りする手段なのは間違いないから、一度パラレルやった作者が次にラブコメやったときにまたパラレルやるんでしょって思われたら熱心な読者はつかないかもしれないけど。
あとついでに人気がないからメディアミックスのボイスドラマ打ち切られたって書いてたけどこれは間違いだから。
うるかの分は単に元から作る気なかっただけ。アニメで3分位やったでしょ? 作者にもアニメサイドにもあれで十分って判断されてんの。
自分の考えた話を別物に改変されたあれで十分って判断する作者なんだから、話にこだわりないのわかるよね。
これから観るつもりの人は回れ右!!観るつもりない人もこれだけ読んでもおもんないし回れ右!!観た人だけスクロールしてくれ!!!
すずめの戸締まりを観てきた。ネットでネタバレを踏みたくないのと、たまーにレイトショーで映画を観ると気分が良くなるので公開初日にレイトショーで。感想としては「すずめちゃんカッコイイな」とか「やっぱ映像綺麗だな」とか「今回はPV演出やらなかったんだな」とか「ドライブしてるあたりが一番面白かったな~」とかそんなところ。個人的には君の名は。と天気の子には及ばないけどなかなかいい映画だった。ネットでもいくつか既視聴者の感想を検索してみたが、刺さった部分の感想は人それぞれでありつつ、それなりに好意的な評価が多かったように思う。また、劇中でははっきり名前こそ出さないものの、「東日本大震災」が起こった世界を正面から描き、主人公の追悼と成長を描いている点も、今のところはおおむね評価されていた。一方で、事前の予告では東日本大震災を直接的に取り扱った物語であることは示されておらず(私の知る限りでは、緊急地震速報の流れるシーンがあるとかその程度の周知だったと思う。小説読めばわかったらしいけどまぁ読まないよね)、物語後半に割と不意打ち的に311の描写があることへのある種の懸念と、個人的な嫌悪感を示す人も多少見られたと思う。これらのレビューについて、皆それなりに首肯できる部分もあり、個人の感想と照らしあわせながら楽しく読ませてもらった。でも、これらの世に出てきたレビューを読みつつ、個人的に気になった点が一つある。
みんな「世界観と設定」について、全然話題にしてないな?ということ。この映画の最大の瑕疵、というか問題点になりえるとしたらこの世界設定の部分だと感じていたので。
あまりにみんな何も言わないので、匿名ブログを書いてしまった。匿名なのは卑怯といわれるかもしれないが、そもそもブログやってないので…。
すずめの戸締まりの世界観と設定について、私が映画をみた限りでの理解を以下に記す。あくまで私の理解なので、誤っていたらご指摘ください。
どうだろうか。列記すると滅茶苦茶カルトな設定だなと思う。作中ではもう少し自然に描いているのは確かだ。でもそもそもこの映画を観たら、「映画として面白かったかどうか」とは別に「この設定が受け入れられるか否か」がかなり心に引っかかるのではないだろうか。個人的にはちょっとウェッという感じで、この設定使うなら311じゃなくて君の名はのように架空の災害として扱うか、もしくは311はミミズ由来のものじゃなかったことを明示しとくべきじゃないかと思った。福島で地震に遭遇するシーンでミミズが現れないことから、「あぁ、すべての地震がミミズ由来ってわけじゃないのね…」と少し安心したら、そのあとの「草太さんが抑えてくれてるんだ!」というセリフでずっこけた。ほんとにカルトだよ。
「結局創作なんだからいいじゃん、現実と創作は別だよ」という意見もあるかもしれないが、311は実際に起こった災害であり、それを作中で扱ったにも関わらず原因ミミズなんです、はちょっとなんか、私はイヤですね、という感じ。
ちなみに「作中では311は止められなかったのか?」という至極当然の問いに対しては作中では特に答えはないが、ファンコミュニティ間では「そもそも震源地が海だから無理だった」とか「草太の父世代の閉じ師が出てこないことから察せる」とか色々考察があるようである。まぁ書いててむなしくなるような話題である。
なお、現実世界の話をすると阪神淡路大震災は震源淡路島南部の直下型地震、関東大震災は神奈川県西部、東京湾北部、山梨県東部が震源の三つ子地震だったといわれている。作中でもふたつの震災は起こっているっぽいので付記する。
上のような設定について、私は「みんな特に何も違和感をもたなかった」とはあまり思えない。みんな「違和感があるけど口にだしていないだけ」なんじゃないか……と、他人の心中を勝手に想像している。ツイッターやインスタ等の短文SNSだったら確かに「面白かった!芹澤いいわ~」で終わりだろうけど、ブログやレビューサイトで長文のレビューかいててこの世界設定に触れないとかあるの?と思っている。ただ一方で、確かに語りにくいよなと感じる部分もあって、これもその理由を列記する。
1について、実際の被災者の方はどう思っただろうか。上記の不意打ち的な311描写も含めて、東北の劇場では結構トラウマえぐられた人も多いのではと勝手な心配をしている。ちなみ当時東京に住んでいて被災といえば計画停電くらいだった私でも、日記のシーンと燃え盛る瓦礫のシーンはちょっと心にきた。
2については皮肉抜きに新海誠を尊敬する。「シン・ゴジラ」も「君の名は。」もアフター311の映画ではあったが、東日本大震災そのものとしては取り扱わなかった。押しも押されぬ超人気監督として、期待のかかった商業映画で東日本大震災をメインテーマのひとつに据えた心意気は本当に見上げたものであると思う。扱い方は個人的にはうーんではあるが。また、ここで難しいのが、すずめの戸締まりにおいて311はメインテーマの「ひとつ」でしかないところである。311の映画ではない。
3については、これからファン層以外にリーチしたときにどうなるのか気になるところ。例えば金ローで放送したときとかさ。
現在ネット上で閲覧できるレビューはほぼファンによるもので、おおむね好意的なものが多い。これから本職の映画評論家や、メディアによるレビューが始まるだろう。彼らはおそらくこの世界設定について、ファンレビューのように目をつむることはできないのではないかと思う。上記1のような問題もあり、どのような評価がされるのか気になるところである。
ちなみに、IGNJapanの11月12日(公開翌日)付レビューでは以下のような一文がある。
>> しかし僕が気になったのは別のことだ。3.11後の物語性や震災の歴史、そして天災を鎮める世界観として神道を引っ張ってくる意図についてはこれから他メディアでの評論やレビューで嫌になるほど言及されるだろう。そこに自分の関心はあまりない。 <<
この筆者本人は関心がないそうだが、記載の通りよくもわるくも嫌になるほど言及されるだろう。
みんなどう思った?俺はめっちゃ違和感あった。映画のできそのものを否定するわけじゃないけど、世界設定については滅茶苦茶やんけって思った。気にならないって人のほうが多いのかな?
近所にたまごかけごはん食べ放題1800円の店(都内)がある。それで、1800円払ってそれを食べる価値はあるのか?と考察をはじめることによってTKGに目覚めた
地方に住んでいたときは300円や700円ちょっとでたまごかけごはん食べ放題を楽しんでいて満足感が高かった。
1800円の店は食べ放題といっても自分は大食いではないためそんなにたくさんは食べられないし、一つ300円の箱庭たまご茜というたまごを置いているらしいがそのたまごは一個までしか食べられないというルールらしい。他のたまごは食べ放題。
東京でたまごかけごはん食べ放題の店に行くくらいなら自分で高級たまごを買い、家でTKGを楽しむ方がコスパいい。たまごかけごはん食べ放題の店でたまごだけ買うこともできるらしい。
私は、些細なことで死にたくなって、死にたくなるなら何もしないほうがいいと逃げる行動を繰り返していた。
毎回そうして逃げていては疲弊してしまうので、どのような些細なことで死にたくなるのかまとめてみた。
さらに、逃げたことに対する罪悪感から、当時の記憶を忘却の彼方に送る現象も確認した。これが同じ失敗を繰り返す要因の一つであるかと示唆される。
月日が経つにつれ活動エネルギーが溜まっていくが、考えなしに働いてもすぐにつまずいて病むことから、対策を立てて動くことが重要である。
私が死にたくなる些細なことは以下の通りです。
私の死にたくなる感情は実際に死にたいものでなく、≒消えたいに近い。
ネタバレは避けてたんだけど、震災被害者はPTSDに注意みたいなまとめタイトル見ちゃってショックでPTSDになった
後ろ戸が開くとミミズが出る
クソ猫やんけ…
クソ猫がよ…
オアアアァ!!クソ猫オァァァ!!!
あれ、クソ猫…?
クソ猫はクソ猫じゃなかった…いや呪い押し付けてたしやっぱクソ猫だわ
まとめ
その上でエンタメとして傑作
こっから長文垂れ流し
オッサンになると中学生と高校生は無条件で怖い。不良が怖いんじゃなくて集団に対する根源的恐怖っつーか…小学生と大学生は大丈夫なんですけど…
で、ネタバレも昔は大丈夫だったんだけど年取ったらダメになった。真っ白な状態で見て不意打ち食らいたいんだよね。呪術の死滅回游が好きなんだけど、週刊で読んでてそうきたかー!って気持ちよさがあるから。私鉄純愛列車とか相撲だぁー!刀ぁー!とか最高で…まぁ、二週目の面白さもあるけど、初見の面白さは一回切りだし大事にしたい。
で、3.11ね。震災後5年だか7年後だかに、立入禁止区域の近くまで行こうとした事があるんだけど、道路脇に土を集めたり草刈りしてる作業員が大勢いて、いわゆる汚染土がコンテナか何かに積まれて(結構記憶が曖昧)、互いに見て見ぬふりしながら、この人達はどこに住んでるんだろう?と考えていたことを思いだした。立入禁止区域は当然バリケードされて近付けず、それより帰りのバスで乗り合わせる女学生が美人揃いだったことが印象に残っている。
まぁ、当時ですら震災は終わった扱いで、PTSDのネタバレ食らった時も、数年振りに震災を思いだしたくらいだった
そう考えると、神戸に行ったことで阪神淡路大震災も思い出したりして。関東大震災もな~。はよ南海トラフ起きて都民全員死ね!とかあんま言わないようにします(浄化)
懐メロについて、吉幾三流れてたっけ?と思いながら、シンエヴァの吉田拓郎を思いだしたりとか。しかし考えると芹沢って俺より若いのに年上として見てたな…俺は幼稚なジジイなんやなって…
エンドロールのKOUSHIROUさんは不意打ちだった。考えると突然興奮する患者なんだよな…すずめの戸締まりはナイフの行方の後日談だった…?
結局東京行くのはいいんだけど面白い。君の名を見た時、新海は地方出身者に違いない、と何となく確信したんだけど、地方の(元)若者にとって東京ってのは一種の聖地で、一方地元への愛憎はすさまじく、進撃の地ならしとかチェンソーマンの銃の悪魔みたいな虐殺も地方への復讐なのでは…みたいな、まぁ、これも「作者の意図」とやらを勝手に読みとってる訳で、
そういう当て嵌めで正しい読みとやらを考察するバカを嘲笑してたりもしたんだけど、ワイはそのアンチテーゼ(この言い方も…)としてロランバルトのテクスト論を持ち出したりする。ただ、実は大学の講義で聞き齧ったことを断片で吐いてるだけで、実はバルトの著作なんて読んだことも無いんだもんね~。結局
「ロランバルト」知ってる?知らない?というマウンティングをしたいだけなんだよな~。エセインテリとしてのコンプレックスだよな~
あと、天気の子の世界より一人が大事ってテーマ、半水没くらいなら大丈夫じゃね?みたいに、ポジティブな所と相殺されちゃってた感じもあったが、いざどっちか選べってなると無理だよねそら…
でもまぁハッピーエンドで終わるわけで、珍しくストレートにセリフで語ったりもする。個人的な事を言えば、盲目的な楽観論は好きじゃない。感染増加中のピークアウトするはずとか、景気は緩やかに回復基調とか、精神の安定のためにネガティブな情報から目を逸らしてる感じがどうも…だからって黙らせたところでしょうがないんだけども。
シンエヴァもだけど、人との繋がりがテーマになってる感じっすね。社会に出ろ、みたいにネガティブに受けとる人もいたりするけど、コミュニケーションは大事って話ですよね結局。
https://gyao.yahoo.co.jp/episode/636257de-a14f-41cf-a54d-26d3fe68c2d7
https://youtu.be/I84Y-mFG4Ls?t=401 上下同じ動画です。
※ネタバレ注意※
今年のM-1グランプリ東京予選3回戦で大事件が起きた。歴史的な無風を喫したコンビが現れたのだ。
M-1グランプリ3回戦といえば毎年300組前後しか進出しない狭き門。今年は参加組数が激増し7261組がエントリー。倍率が24倍を超えるという厳しい戦いだった。
しかし3回戦とは言えスベってしまうコンビも多数現れ、とりわけスベったコンビは毎年ネタにされる(2021年のEverybody、2019年のちゅんま等)。
そんな中これ以下は今まで無かったと言える驚異的なゼロ笑いを記録したコンビが今年現れた。ビクター所属のきつね日和である。
なんと無観客で行われた2020年の1回戦よりスベってる(5~6人の審査員は会場に入っていたので時々笑い声が入った)。
全体的に客が重く低調な会場だったとは言え、なぜこんな事になってしまったのか。ネタを考察する。
このネタはツッコミのおいなり達也(以下おいなり)が定番の質問である「遊びに行くなら海か、山か」という2択にウンザリし
「もう答えは決まってるんです!山っ!山一択です」と主張する。
即座にボケの松本が「海のほうがいいけどなぁ」と返し、おいなりは「お゛ーっ!?こんな近くに敵が居たか お゛ーっ!?」と急沸騰。
松本に対し「じゃあディベートで決着つけようじゃないか」と勝負を持ちかけるというものである。
以上が導入であり、ここまでの問題点はおいなりが2連続で甘噛した程度である。
おいなりはまず「山は頂上からの景色が綺麗」とアピール。松本は「景色が綺麗と言っても辺り一面 白一色。代わり映えしないでしょ?」と否定する。
条件を真冬の降雪時にしている。しかし、確かに今は11月。初冠雪を記録した山も既にあり違和感はあるが極端に変なことは言っていない。
おいなりも「あ、そう?」と相槌を打つ。
続いて「しかもその山さ、頂上に登るまで1ヶ月はかかるからね?」と言う。ここで条件が一気に海外の8000m~7000m峰になっている。
明らかに理不尽な条件のすり替えではあるが、何故かおりなりは「そんなにぃ?」と流す。
松本は何食わぬ顔で海をアピール。「一方海は綺麗に透き通っていて、サンゴ礁が見えて、海の周りにはハイビスカスの花が咲いているんだよね」と言う。
するとおいなりは「ダメだろー!!お前の海、多分、沖縄だなっ!お゛ーいっ!!!海の最高峰沖縄を出してくるなっ!こっちは平均的な山でやってんだ!!!!」と
叫喚の全力ツッコミ。視聴者は松本の言った条件が沖縄かどうか、なんてこと全く気にしていない。
そもそも海派が"沖縄の海"を挙げること自体なにも問題ないように思えるし、勝手においなりが自分ルールで沖縄を持ち出された事にキレている。
何より問題なのは松本が勝手に「その山は頂上まで1ヶ月はかかる」と不利な条件をすり替えた事、現時点で視聴者が抱く最大の違和感に対してはおいなりがノータッチな点だ。
「あとっ!山はですよ、空気がおいしい!とにかく空気が透き通っております!」とおいなりが山をアピール。
返す刀でまたしても松本「空気がおいしいと言ってもさ、氷点下だから肺が凍っちゃうよ。しかもその山さ、今まで300名以上が亡くなってるからね」と条件をすり替えながら否定。
この時点で松本が勝手に山派の条件をヒマラヤ山脈にしている事は全視聴者が察する。にも関わらずおいなりは「あそう?」「あそんなにぃ?」と特に関心を持たない。
そして松本、海の魅力主張のターン。「一方海は焼きそば、焼きとうもろこし。文字通り美味しい空気が楽しめるからね」と言う。
「ダメだろーっ!!!お前の海、海の家ついてるなっ!!!お゛ーいっ!!!!!」
なぜか海の家がある事についてブチギレるおいなり。意味がわからない。
「沖縄のビーチ」と「海の家がある海」なら圧倒的に後者の方が身近である。「一般的な海」を想像して海の家が無い情景を浮かべるほうがレアケースだろう。
むしろ松本はおいなりに「沖縄のビーチ」というリゾート地を最初に挙げた事にキレられたので、おいなりに合わせて庶民的な海の楽しいところを挙げたように思える。
なのにキレるおいなり。自分の条件をヒマラヤ山脈にされているという理不尽にはノータッチで、理不尽なツッコミ。視聴者の頭の中はぐちゃぐちゃである。
もうこの辺で「まさか終盤でこれを伏線回収してオチに使うつもりなのか…」と不安がよぎる。
恐ろしい事にこのブロックはまだ終わらない。
おいなり「人の手使うなよ!こっちは人の手使ってないんだからっ!!さあっ!!」
山が自然そのもので人の手は全く加わってないかのような言い様である。言うまでもなく、おいなりの主張する「平均的な山」の場合…
というかレジャーを前提にした「平均的な山」だからこそ、登山道が整備され安全に登山が楽しめるようになっている。
草木が登山客の妨げにならないように伸びたら随時刈ってるだろうし、第一「山小屋」や「自販機」は富士山の頂上でさえ置いてある。
違和感に次ぐ違和感。ここで視聴者はある可能性について考える。ヒマラヤ山脈の場合、おいなりの言う事の筋が通るからだ。
「エベレストなどには整備されてないルートもあるはずだ。山小屋も多分無い。まさか、おいなりが最大の違和感にツッコまないのも、おいなりもエベレストを想定して言っているのか…?」
などと想像を巡らせながら漫才を見ている。笑えるわけがない。そして怒涛の展開が始まる。
おいなり「あと山はですよっ!とにかく美味しいものが沢山っ!もう山菜とか取れますからねっ!」
おいなり「あそう?」
おいなり「そんなにぃ?」
松本「一方海はスパムむすび、ロコモコ丼、なんでも食べれますからね」
おいなり「ダメだろーっ!!!お前とうとう、ハワイで来たなっ!!お゛ーいっ!!!!!」
大問題である。ここで遂に「山派の条件がエベレストになっている」という可能性も崩れてしまった。
頂上まで1ヶ月、300名以上が死亡、入山料が100万円という条件は疑いようがなくエベレストだ。しかしこれらの条件に「フキノトウ」が加わってしまった。
一応、調べてみた。日本語だけではなく英語でエベレストにフキが生えているか。案の定なかった。
なお、ヒマラヤユキノシタというヒマラヤ山脈原産の植物があり、これは氷点下46℃でも生きていけるという事は分かったが分類上はフキと全く関係がない。
多分これは単純な情報のミス、リサーチ不足だろう。というより視聴者がすぐにウソか本当か判断できない情報を無闇に出すべきではない。
フキノトウという100%生えてないとは即座に判断できない植物を出してしまったせいで「エベレストにフキノトウってあるの?」と視聴者は思ってしまい、余計な想像をする。
違和感の蓄積と「まさかこのままエベレストオチで終わらないよな?」という不安で視聴者の緊張はピークである。
そして恐れていた事態が起きる。
おいなり「お゛いっ!!ハワイ行ったじゃないかお前は!海外の最高峰を出してくるんじゃないよ!こっちなんてフキノトウ一本なんですからねっ!」
おいなり「…ダメだろーっ!!!俺の山、ずっと、冬じゃないか!!!お゛ーいっ!!!!冷たい景色に冷たい空気にフキノトウ、なんで俺は冬で戦ってんだよ!!!!」
おいなり「…ダメだろーっ!!!俺の山もしかしてエベレストだな!!!お゛ーいっ!!!!入山料めちゃくちゃ掛かって人が死んで一ヶ月かかる、これエベレストしか無いんじゃないか!!!!」
間髪入れない連続ツッコミ。これが最大のネタバラシであり盛り上がりどころと想定したと思われるが、視聴者は全員エベレストである事に気づいている。
ここまで引っ張ってエベレストじゃないパターンを期待していた。そして問題のフキノトウも全く処理されていない。それどころか畳み掛けでフキノトウというワードが繰り返し出たことで
違和感がいっそう強まっている。「エベレストにフキノトウってあるの?」という疑問がチラついてしようがない。まだフキノトウが無ければ幾らかマシになっていた。
そして終盤30秒を切ってようやく条件をすり替えられた事においなりがキレる。
おいなり「世界一の山でもレジャーとして厳しすぎるぞっ!もう反則負け!海の負け!山の勝ちでいいですかっ!?」
松本「いや絶対海の勝ちですから。だって海は水着美女たくさん見れますよ」
おいなり「ダメだろーっ!!!じゃ~あ、海の、勝ちでーす!!!来年一緒に行こうなっ!!どうもありがとうございました!!」
ここまで異常なまでに山に熱量を見せていた男が水着美女でコロっと白旗を上げる妙に気持ち悪いサゲで漫才は終わる。
■結論
漫才はツッコミのテイストに関わらず、基本的にボケが違和感の残る発言をし、それをツッコミが適切に指摘・解消する事で笑いに繋げる。
きつね日和は一度も適切に違和感を解くことが出来ず、最後まで違和感が蓄積し続けて笑いにならなかった。
「的はずれなツッコミを続けるおいなり」に笑うというケースも考えられ、もしかしてそれを意図して作ったネタの可能性もあるがM-1予選で使うにはあまりにリスキーである。それにだとすれば松本の指摘も少なすぎる。
とは言え特徴的なツッコミや同じパターンの反復で多少の笑いが起きても良いと思うが… 板の上の魔物
■きつね日和はどうすればよかったのか
・おいなりが「俺の山もしかしてエベレストだなっ!」と言った後に松本が矛盾点をつつき追い詰める展開を作る(「エベレストにフキノトウなんて生えてないよ」「山好きなのにそんなことも知らないの」「一般的な山だって登山道は人の手で作られてるよ」「山一択のくせにアピールポイント弱いな」等)
おいなりが海の家にブチギレたくだりですが、20回ほど視聴したところで
もしかして、おいなりは 「山は空気がおいしい!とにかく空気が透き通っております!」と自然の空気の良さを主張したのに
松本が「焼きそば、焼きとうもろこし、文字通り美味しい空気を楽しめる」という人工的なものをアピールしたので「人の手を借りるんじゃないよ!!」と言った可能性に気づきました。
それならば「海派か山派か」という大きな括りの議題の他に「"自然を"堪能できるのは」といった細かが議題を冒頭で言う必要があります。
おいなりが主張する前にそれぞれ「どっちが綺麗か」「どっちが自然を堪能できるか」「どっちがグルメがおいしいか」といった議題を言ってけば混乱を免れる事ができました。
今の状態を完結に表現すると、ストレスフルで何一つ楽しみがなく(最近一つだけ出来た)、睡眠時間も十分取れない身体的精神的にかなり悪い状況。ストレスフルなのは先輩と同期のせいで、何一つ楽しみがないのは時間的精神的に追い詰められており娯楽を楽しむ余裕がない。じゃあ過去に戻ってこの状態を回避できたかと言われると多分僕にはできない。今とほとんど変わらない状況に収束すると思う。
弊研究室はM2一人、M1二人、B4二人の比較的小規模な研究室なのに、様々なところから来る測定の依頼や共同研究を行っているせいで常に忙しい。そもそもの人数が少ないので学生の負担が大きく、一人欠けるだけでかなり厳しい。じゃあ学生同士で協力しあって頑張ろうね!と普通だったらなるはずだし、自分もそう思うが、残念ながらそうはなっていない。M2の先輩はほとんど大学に来ないし、同期のM1は指導教官の先生が言わないと実験を行わない。幸いにもB4の二人は非常に真面目で優秀であるが、ただでさえ一人の負担が大きいのに、5人分の負担を3人で回していることになる。これは誰が悪いんだろう。誰しもバイアスがあり客観的に見るなど不可能だが、無理やり第三者目線から見るとB4の二人以外、つまり先生、先輩、同期そして僕は少なからず今の最悪な現状に負の方向で貢献していると思う。先生は単純に仕事を抱えすぎで、一学生が何を生意気なと思われるかもしれないがもっと仕事を取捨選択すべきだと思う。先輩と同期は一言では書き表せない。僕は周りに仕事を振るのが絶望的に下手なのが良くない。みんな悪くてみんな良い。以下先輩と同期の悪口が延々と続くので注意。
弊研究室に一人しかいないM2の先輩は二ヶ月くらい音信不通になって最近復帰したせいでそればかり目立っているが、そもそもほとんど実験しない人だった。じゃあ何をやっているかというと、学生の居室で延々とtwitterか違法サイトで漫画を読んでいる。本当に救いようのない人間で、こんな人間に修士号を本当に与えてしまうのかと大学制度に絶望している。M1の頃はよく覚えていないが、M2になってからは本当に数えるほどしかそもそも大学に来てないと思う。1~5月は就活云々で来てなかったし、内定が出てからも全然実験している様子はなかった。週二くらいで大学に来て↑をやって帰るだけのゴミカス大学院生。けど本人はおそらく自分が研究活動を行っている自覚はあったのだと思う。音信不通になった理由は研究室の雑用や研究活動が嫌になってしまったのが理由と先生に聞かされたときは本当に理解が追いつかなかった。雑用というのはおそらく研究に使う測定装置の作製工程のことを言っているのだと認識しているが、それにしてもおかしい。なぜなら装置の在庫管理は全て僕が行っているし、作業工程をみんなに均等になるように分配していたのも僕だし、なんなら自分には少し多く仕事を振っていた(緊急時の対応などで)。先輩がやっていたことはバイトでいうと皆同じだけのシフトをこなすだけの、週3~4時間ぽっちの作業で、それが辛くて大学に来たくないなら大学を辞めるか研究室を変えればいいと思う。研究が嫌になったというのも理解ができず、義務教育じゃないんだから大学院中退して就職すればいいのにと思ってしまう。研究はしたくありません、けど修士号は欲しいですというのは通らないということが24歳にもなってわからないのかな。最近音信不通の状態から復帰して実験室でなにか作業をしている様子だけど、相変わらず謎にPCに向かい合っている時間は長い。実験していないからデータはなく、シミュレーションなども行っていないので何をそんなにPCでやっているんだろう。更にムカつくのが、上記にある測定装置の作製はしたくないのに、測定装置は平気で使っていく。どういうメンタルしていたらためらいなく使うことができるのだろうか。無銭飲食とやっていることは変わらず、こういう人間が部下の手柄を自分のものにする上司にゆくゆくはなるのだと思うと本当にイライラする。大学院は博士を増やす前に修士をもう少しまともに審査してほしい。先輩のような人間が自分と同じ学位を持って社会にでることが何より嫌だし、修士の価値を落としていることを自覚しながら先輩には生活を送って欲しい。僕も研究結果的に特段優秀な学生というわけではないので、修論審査に落とされるのは構わないが先輩のような人間に修士号を与えないような仕組みづくりをして欲しいと切に願う。とりあえず最近のイライラの原因の9割は先輩の存在。ほかはおまけ。
次に同期。こいつはやれといえばやるが、逆に言わないと何もやらない。修士の学生って自走することを求められるはずなんだけど、それすらも僕の認識が誤っているのかな。自分の研究も考察するところは全て先生か他の人任せで、すべて用意された環境でちょっとだけ実験をしてそれで卒業するつもりらしい。先輩もそうだが、このような人種は他人が自分のために何をやってくれているのかに興味が無いのだと思う。もしほんの少しでもその意識があればやれることをやっているか、本当に性根が腐っていて何も感じていないかのどちらかだと思う。そいつが5月に実験したデータがまだ解析されておらず、急にそのデータが必要になったので何故か僕が睡眠時間を削って死ぬ気で解析をしている。なんで???。当然本人にやらせようと思ったが、本人はそもそも解析について理解していないだろうし、過去の先輩が作ったプログラムをアレンジする能力もないので言うだけ無駄と判断した。これで同期が困るだけなら僕は絶対に協力しなかったが、先生及び親しい関係者の方に迷惑がかかるのでそれは避けたかった。先生も当然解析が終わっていると思っていただろうし、僕もそう思っていた。この半年何やってたんだお前は。これで常人のフリして就活してるから本当に終わっている。やっぱり短い時間でその人が優秀かどうかなんて特に新卒採用だと見分けるの不可能。先輩ですらいわゆる人気企業に内定をもらっているわけで、もう本当にやるせない。
自分が修士に夢を見すぎていると言われればそれまでだが、それにしても限度というものがあるはずで、僕が常識知らずなだけで大学院生の平均はこのレベルなのか?
https://anond.hatelabo.jp/20221105115632
ぼく勉と五等分、かぐや様とではクオリティに差があるのだから、パラレルストーリーが悪いのではなくぼく勉が悪いのだという説が散見される。
これはぼく勉の話がつまらなかったから盛り下がったのだという趣旨で一理あるように見える。
しかしあえてぼく勉ではなくパラレルストーリー自体が悪いのだと私は主張する。
まずメディアミックスであるがぼく勉より単行本売り上げが低かったゆらぎ荘の幽奈さんですらゲーム化している。
単に人気が低いというだけではゲームより遥かにコストが低いボイスドラマが打ち切られる理由にはならないだろう。
またそもそもジャンプで2年以上連載していた作家に対してお前がうまく出来なかったから悪い、もっとうまくやれたはずだと言うこと自体傲慢極まりないと一蹴しても良いだろう。
そもそもの話として、ぼく勉に話の良さは求められていたのだろうか。
ぼく勉は元々1話完結を繰り返す構成であり、長編と言われるものでも4話程度の連続した話しかない。その中ですら粗が目立った。
そして本編終盤の強引さを鑑みればその後のパラレルストーリーの出来についても推して知るべしであったが、そのような中でも多くのファンはパラレルストーリーを歓迎していた。
同じ作者が描くのだから、話のクオリティが急に上がるわけがないのは誰しもがわかっていたはずだ。
つまりぼく勉は話の良さなど期待されていなかった。強引でもいいから自分の好きなキャラの思いが成就することだけが望まれていたのであり、実際にそれは叶った。
読者の求めていたことを叶えて、それでも盛り下がってしまったのだからこれはぼく勉が悪いわけではないだろう。
まとめると
ぼく勉に話の良さを期待していたファンなどほとんどいなかったのだから、話の出来が悪かったから盛り下がったのだという主張は失当である。
となる。
ぼく勉はキャラの可愛さで人気を獲得し、長編の話作りが下手であることもわかった上でパラレルストーリーが歓迎されていたのだから、ファンが望んでいたのもキャラの可愛さだけのはずだ。話の出来の良し悪しは関係ない。
作者は今まで通りキャラの可愛さを引き出していたのだから、十分にうまくやったと言えるだろう。(理珠ルートはキャラが出なかったのでまあうん)
もっともこれはぼく勉は話を期待されていない漫画だから、話の出来が悪いのが悪いという批判は成り立たないということに過ぎず、話を期待されている漫画であれば話が良ければ受け入れられたのかという課題が残る。
そこでぼく勉が仮にストーリー面も期待されていたものと仮定して、以下にパラレルストーリー自体の問題点を上げていくことにする。
読者が自分の推しキャラが終わった時点で満足して読まなくなることは想像に難くなく、読者が減るのも当然である。
ぼく勉の場合、頭3つほど抜けた人気のあった真冬がヒロインであった最後のルートですら大した盛り上がりを見せず(事実単行本売り上げが他より上回っているわけでもない)、最終回でもトレンド入りすらしなかった。
トレンド入り自体はジャンプの打ち切りになるレベルの漫画(例:レッドフード)でもすることがあるものであり決して高いハードルではない。アニメ化していない作品ですら円満終了なら最終回のトレンド入りは定番となっているので、ジャンプ連載作品ではむしろしないほうが珍しいと言って良いだろう。
読者が減少するということはすなわち作品が連載中であるにも関わらず、話が進むごとにどんどん盛り上がりが減っていくということになり、活気の減った漫画は余計に見向きがされなくなるという悪循環を生んでしまう。これはぼく勉に限った問題ではなく普遍的な課題だろう。
五等分の花嫁やかぐや様では作中の描写がどうだ、ここの描写がああだと言った考察が盛り上がっていたが、ぼく勉はパラレルストーリーが始まった時点でこれまでの描写が語られることがほぼなくなり、考察ブログも更新を停止することが目立った。
これはパラレルストーリーが本編の描写と連続するものでない以上、何がきっかけで彼を好きになったのか、何がきっかけで彼女を好きになったのか。そういったことを本編の描写から考察することが出来ないのだから当然だろう。したところで意味は無い。話を期待されていたのであれば、なおのこと虚しくなるだろう。
個別ルートは本編の描写と繋がっていない。であれば推しキャラを持つファンは本編の描写を語ることが虚しくなるだろう。それが個別ルートまでの間にあった出来事なのかどうかわからないのだから。
全く語らないことはないだろうが、以前までと同じ熱を持って語ることは出来ない。同じキャラを推すファン同士であれば個別ルートの話題で盛り上がれるだろうが、違うキャラを推すファンとはそれで盛り上がることは難しい。無意識にどこかで俺の好きなキャラのルートではその出来事はなかったという冷めた目線が生まれてしまう。
SNS時代の今、語られなくなることは作品にとって致命的である。パラレルストーリーは二次創作需要の先食いですらなく、ファン交流の土壌ごと奪っていることに等しい。
これは恋と嘘のように最初からマルチエンドにすると決めていた作品であれば回避できる問題ではあるが、現実的には難しいだろう。週間少年漫画誌で人気と伏線を両立させることは困難であり、ぼく勉のように途中でなんとなく決まることが大半のはずだ。
最後にたとえパラレルストーリーをやったとしても各キャラのファンを満足させることは難しいという最大の問題がある。
パラレルストーリーに対する各キャラのファンの主な反応はこうだ。
- うるか派 とにかく発表方法やその他の扱いにキレている。※
- 理珠派 ほぼ関城さんがメインで理珠がサブ扱いなので不満の声が目立つ。
- 文乃派 話自体にはそれなりに満足しているがパラレルがなければ本来は文乃が勝っていたはずだという幻想に縋って不満が渦巻いている。
- あすみ派 とりあえずやってくれたことに満足している。
- 真冬派 圧倒的な人気なのになぜか先生と生徒じゃなく先生と先生の恋愛になるという扱いにキレている。
※参考
作者に嫌われているキャラクターを好きになってつらい
https://anond.hatelabo.jp/20200724234926
【追記】作者に嫌われているキャラを好きになったら特典でも冷遇されてつらい
https://anond.hatelabo.jp/20210308181806
【替え歌】作者に嫌われている。
このように手放しに満足しているのはあすみ派だけだ。
なぜ満足しているのかといえば、登場が遅く人気も低いためエンドヒロインになる芽が一切なかったのに、奇跡的にヒロインになる姿を見ることが出来たから満足しているのだ。
この点真冬も同じく設定的にエンドヒロインになる芽が一切なかった。ではなぜこちらはキレているのかと言えば、パラレルストーリーをやること自体が真冬の圧倒的な人気を背景に生まれたものだと信じられているからである。
つまりパラレルストーリーをやるきっかけが真冬の人気によるものなのだから、当然話のクオリティも素晴らしいものであるはずだという期待があったのに、その期待が裏切られたから不満を持たれているのだ。
このように元々芽がなかったキャラのルートをやったにも関わらず、そのルートの出来が良くなければ恨まれてしまう。
芽があったキャラであれば、話が良くても悪くても本来は勝っていたはずなのに二番手以降に追いやられたという逆恨みをされてしまう。
元々なければ諦めがつくが、中途半端に与えられると足りないものが目についてしまう。半端な救済は逆に恨みを買ってしまうという、社会問題でもよく見られる現象と同じことだ。
結局のところ満足ができるのは元々芽のなかった不人気キャラのファンだけであり、人気キャラのファンは余計に不満を持ってしまうのである。
本来ルートがなければないであるもので満足できる。五等分の花嫁を見ればわかりやすい。
一花のあの思い出だけは嘘じゃないんだよの泣き顔で切なくなれるし、二乃のあんたを好きって言ったのよという告白で痺れることができる。三玖の私は私を好きになれたんだという独白に感動できるし、四葉が私の分の仕事をお願いしますという台詞をようやく言えたことも胸を打つ。五月の私は私の意思で母を目指しますという宣言が嫌いな人間はいないだろう。
(各キャラの台詞は筆者の趣味でピックアップしたものであり、あくまで例である)
結ばれようが結ばれなかろうがそれぞれのキャラに素晴らしいシーンは存在していて、通常キャラのファンはいいところを見つけて満足できる。満足出来ないファンもこういうルートがあればよかったと理想を追える。
パラレルがある場合それは出来ない。各キャラのファンが見たいのは結ばれるところであり個別ルートである。
すなわちそれまでの話にいくらいいシーンがあったとしても、個別ルートの出来が良くなければ満足されないのである。
そして一度公式に提示された以上、それは違うこれが正しいと自分の理想を追える気概のあるファンは少ないから、ファン活動のハードルもパラレルの有無で段違いになってしまう。
自分の好きなキャラの思いが成就する場面をやるのであれば、誰だって自分の中の理想の形で成就することを想像する。当たり前だが多くの場合理想通りに行くはずはない。
漫画である以上、あまり長い話数は出来ないのだからなおさらだ。
普通であれば期待外れに終わるのは一度だけ、一人のキャラのファンだけだが、ぼく勉のようにした場合はヒロインの数だけ期待外れに終わることになる。
作者に対する失望が増えるほど作品に対する興味も冷めていく。当たり前のことであってぼく勉に限った話ではない。
失望されなければいいというのは一つの理想ではあるが、それは全教科満点取れば入試に受かると言っているようなものだろう。
仮に話のクオリティが期待されていたとしても、パラレルストーリーを連載する以上
というパラレル自体の問題点があり、仮に万が一クオリティが高かったとしても盛り下がっていたと考えられる。
よってぼく勉が特別うまくやれなかったのではなく、パラレルストーリーという形式がそもそも悪いのだ。
なおパラレルストーリーという形式をぼく勉が選んだ事自体が悪いというのはそのとおりだろう。
ただその場合の批判は、作品ではなくそれを選んだ作者に及ぶべきではないかと考える。
これがまさにパラレルストーリーをやったことの弊害ではないだろうか。
作品の内容を評価される手前、パラレルをやった意義で評価されてしまうのだ。
この話題がぼく勉である意味は何もない。内容について踏み込まれないから作品の理解を深めることは出来ない。
子供や女性に大人気!アナウンサーも毎朝癒やされてるらしいよ!
毎話一週間限定でyoutubeにだすと100万再生するちいかわの世界をはてなの皆さんにお伝えするよ!これで知らないあなたもバッチリ流行りについていけるよ!!
ちいかわ達は非力な生き物だ。
草むしりやシール貼りなどのアルバイターとして生計を立てている。管理者は人型の鎧たちだ。賃金を与えたり店を出して労働者を雇ったりする。
小さな怪物から大きな怪物までおり、報酬ランクがつけられている。大きな怪物たちは容赦なくちいかわ達を食べる。中には仲間だと擬態している知能が高い怪物も居る。鎧たちはそいつらに警戒するが、ちいかわ達はよく騙される。ただ命を奪ってるだけの怪物もおり、単純に食事をしているだけでは無さそうだ。遊び、もしくは快楽があるのだろう。
この世界には魔法があり、それはキラキラした夢を見せるものではなく、多くがちいかわ達を怪物化させるものだ。その魔法によって「ちいかわ族」と「怪物」の心と体を入れ替えたとみられる個体も確認されている。
ちいかわ族と怪物との関係性は不明だが、なんらかの影響でちいかわ族が怪物化するという考察も多い。憶測ではなく確かにそのようにとれる描写がある。
ちいかわ達は純粋でか弱い生き物だが、討伐上位ランカーである強者「ラッコ」もいる。報酬は高く顔に傷を残しつつも世界を生き抜いている。
しかしそうはなれなかった者も描かれている。アル中の「くりまんじゅう」だ。酒とつまみで生きている。あと「シーサー」もいる。努力家だ。
その他にも色々なキャラクター登場する。
ちいかわ族に肩入れしている鎧
ラーメン店主の鎧
見たものを石化する蛇
檻に閉じ込める残忍な怪物
これらが、それぞれ魅力的に描かれている作品だ。ハッピーエンドで終わらないことも多い。
その執筆スピードも凄く、ほぼ毎日新作が公開されている。作者の生活リズムは狂っているため昼間や早朝や深夜に投稿されることがある。おそらく描いてすぐアップしている。週刊連載よりもハードだ。
先日かぐや様は告らせたいが最終回を迎えた。
これをもって一時代を築いた貧乏な学生が主人公のラブコメ(貧乏ラブコメ)3作品※が全て完結を迎えたことになる。
※かぐや様は告らせたい、ぼくたちは勉強ができない、五等分の花嫁のこと。
これらは同時期に連載していて同じような設定の主人公で同じような時期にアニメ化したことからまとめて語られることも多く、それでいて全く違う終わり方をしたことからよく比較対象になっている。
各作品の終わり方
ラブコメ漫画はとかく完結後炎上しやすく、どういう終わり方がいいのか議論になることが多い。
同じような時期に同じような設定で始まり全く違う終わり方を迎えた3つの漫画。これほど比べるのにちょうどいい環境もそうそうないだろう。
せっかくの機会なので各作品の軌跡を振り返っていきたい。
ミラクルジャンプで連載開始。好評のためかその後ヤングジャンプに移籍。
ラブコメというジャンル名でありながらほぼラブがメインなことが多いラブコメ漫画の中では珍しく、コメディを中心に据えた作風で人気を博し、貧乏ラブコメ仲間の一つである五等分の花嫁に抜かれるまでの2年以上、全週刊漫画誌で連載中のラブコメで売上No.1の座を守った。
白銀とかぐやが付き合ってからはコメディの割合が減ったり裏主人公である石上メインの話が増えたりしたために若干不評な時期もあったが、白銀たちが1年生のときの生徒会や思わせぶりな新キャラなどで考察好きのファンの間では変わらず盛り上がりを見せ、アニメ化の成功や実写映画化の大ヒットも手伝い最後まで人気のまま完結を迎えた。
シリーズ累計発行部数は1900万部(Wikipediaによるとうち100万部以上はスピンオフ)。仮に原作が1750万部とすると1巻あたり発行部数は約65万部。
週刊少年ジャンプで連載開始。
ラブコメとしてはオーソドックスなヒロインと主人公の交流を繰り返していくタイプであるが、ストーリーの連続性の薄さやヒロイン同士の交流がほぼ皆無であることなど、1話完結を繰り返しストレスなくキャラの可愛さを愛でるという構成はライトなラブコメの一つの究極でもある。
単行本1巻発売時にはあまりの人気に重版が追いつかない事態となり、当時としては異例の紙書籍と電子書籍がほぼ同時に発売するという措置を取られた。(当時は紙書籍から1ヶ月遅れて電子書籍が配信されるのが当たり前だった)
その後アニメ化決定あたりをピークとして徐々に人気が落ち着いていったものの、本編最終回と同時に週間少年漫画としては前代未聞のパラレルストーリーを発表したことで大きな盛り上がりを見せた。
ただそれ以降はあまり話題には上がらず、その影響もあってか最終回でのTwitterトレンド入りを逃すという、アニメ化作品としてはある意味異例の結果を残した。
シリーズ累計発行部数は440万部。仮に原作が420万部とすると1巻あたり発行部数は約20万部。
とかくキャラ人気に引きずられて話が本筋から逸れて冗長になりがち(キャラの魅力が大事なジャンルなので冗長になった部分こそが魅力だという面もあるが)なのがラブコメというジャンルだが、その中で珍しく一切の無駄を省いて本筋だけを通って完結まで走りきった。
元々人気作ではあったがアニメ化をきっかけにさらに人気が爆発。貧乏ラブコメ仲間のかぐや様は告らせたいから全週刊漫画誌で連載中のラブコメで売上No.1の座を奪取した。
原作の完結時には結末に納得の行かないファンたちや駆け足での完結に反発したファンたちでネット上は荒れたものの、引き伸ばしがなく人気絶頂のまま完結したためか一般層の評判はさほど変わらず、完結後も売上が伸び続けるという異例の大ヒット作となった。
シリーズ累計発行部数は1600万部仮に原作が1500万部とすると1巻あたり発行部数は約107万部。
(2022年12月現在2000万部。仮に原作が1900万部とすると1巻あたり発行部数は約135万部)
高クオリティの作画に鈴木雅之の主題歌という話題性も手伝いヒット作となる。
テレビアニメは3期まで放映され、新作アニメーションの劇場先行公開も決定。4期もおそらくやるものと思われる。
声優ユニットを組んでCDを出すなど音楽面には力を入れていたように思うが、アニメ自体はそれなり。ぼく勉の前クールに放映していた超豪華声優陣の五等分の花嫁や高クオリティのかぐや様に食われてしまったためか、ヒットや原作読者の獲得には繋がらなかった。
緩いラブコメが好きな層からはそれなりに好評だったが、アニメ2期最終回で途中から唐突にアニオリ展開が始まり、原作の完結より前に原作の結末が明かされ炎上した。何だったんだこれ。
1期は不安定な作画が、2期は原作の取捨選択がそれぞれ原作ファンからは不評。一方でヒロインは花澤香菜、竹達彩奈、伊藤美来、佐倉綾音、水瀬いのりという超豪華声優陣に恵まれアニメとしてはヒット(もちろん原作の面白さがあってこそではあるが)。
YouTubeでの頻繁な無料公開で若年層の獲得にも成功し、今年上映した映画は小中学生連れの家族や女子高生など幅広い層が見に来たうえ原作ファンも絶賛。上映規模が100館程度の作品としては異例の観客動員数150万人以上、興行収入22億円以上の大ヒットを記録した。
主人公の白銀にジャニーズの平野紫耀、ヒロインのかぐやに橋本環奈を採用した実写映画は興行収入22億円超えの大ヒット。続編も作られそちらも興行収入10億円を超えるヒットとなった。
スピンオフも活発で、かぐや様は告らせたいの二次創作同人を描いていた作家を起用したかぐや様は告らせたい同人版をとなりのジャンプで連載したり、新聞部の2人を主人公にしたかぐや様を語りたいをヤングジャンプで同時掲載するなど幅広い展開を見せた。
その他にノベライズがオリジナルストーリーが1冊。漫画、映画のノベライズが計5冊。
強いて言えば単行本の有償特典として付属したボイスドラマがヒロイン5人中4人分存在する。
スマホゲームとしてごとぱずと呼ばれるゲームが配信されており、その他にコンシューマーゲームとしてADVが2作発売されている。コンシューマーゲームのADVは好評のため3作目も決定していて、さらにごとぱずの1年目のストーリーをまとめたものもコンシューマーゲームとして発売することが決定している。
メディア展開とは異なるが、ごとぱずが公式のDiscordサーバーを設置しておりそちらでもファンの交流が活発。
その他には映画までのアニメをノベライズしたものが5冊。各ヒロインのキャラクターブックが5冊。フルカラー版のコミックスが原作と同数出ている。
ここまで貧乏ラブコメ3作品の辿ってきた軌跡を追った。どれも押しも押されもせぬ人気作品と言って良いだろう。
ただ連載中の売上やアニメ化に伴う売上の増加は終わり方の良し悪しとは関係がない。終わる前の話であるから作品の面白さやアニメの出来に左右されるものである。
では何が終わり方の良し悪しを決めるのかといえば、やはり完結後のメディア展開や語られ方、盛り上がりといった雰囲気から見る他ないだろう。なのでそういった観点から、全く違う完結を迎えた3作品の終わり方はどう評価されたのか見ていきたい。
※終わって間もないが、付き合った時点で終わるのがラブコメのスタンダードのため付き合った後も続いた場合はどうかという視点で考える。
付き合った後も続けるのは蛇足と言われがちだが、かぐや様は付き合ってからも3年以上連載が続いていた。読者からの不評の声がなかったわけでは無いが、人気が落ちたようなことは見受けられなかったため大きな影響はなかったと判断して良いだろう。
付き合った後もアニメは人気で、実写映画化も果たした。かぐや様を語ったり考察したりするファンも大勢いた。最終回を惜しむファンも数多くいて、作者のツイートには27万以上ものいいねがついた。
そもそもハーレム系ラブコメではない、ラブよりはコメよりの作風だった、というのもあったかもしれないが、付き合った後も続けるという手法が悪いと言えないことは明らかだろう。
今ぼく勉について語られるのはパラレルストーリーの是非がそのほとんどを占める。作品の内容自体が語られることは限りなく少ない。
読者が一番見たい主人公とヒロインが結ばれるところとそれまでの話に連続性がないのだから、それまでの話を語る意義がないため当然ではある。実際にパラレルストーリーが始まった後に更新を止めた考察(感想)ブログもあった。
パラレルストーリー発表後の連載中も作品の盛り下がりは顕著で、掲載順はぼく勉史上初の最下位を記録し、単行本も右肩下がりを続けた。最終回では作者が全感想にリプライ返しをするという読者サービスをしていたにも関わらずトレンド入りを逃してしまった。
メディアミックスという点で見ても、ボイスドラマという低予算でできるであろうものすらヒロイン5人中4人で打ち切りと相成った。(作者に嫌われているから残り一人は出なかったのだという過激派も散見されるが、おそらくさすがにそれはないだろう)
これはぼく勉のそれまでの実績から見れば異常と言ってよく、パラレルストーリーによって読者の熱と興味が失われた結果だろう。
発表当時は二次創作需要を取り込んだといわれていたが、むしろファン活動の土壌ごと壊してしまったという印象を受ける。
作品の内容が語られることはなくなり、ファンの熱意が冷め、メディアミックスも打ち切られる。
完結当時から結末に納得の行かないファンや終わり方が駆け足だったことへの批判は少なからずあったものの、同時に考察好きなファンが今までの描写を振り返って数々の伏線を見つけ出すなどファン交流は非常に活発だった。
完結後に配信、発売されたスマホゲームやコンシューマーゲームもヒット続きで、グッズも出せば出すだけ完売するなどファンたちの熱量も衰えず映画の大ヒットへと繋がった。
完結してから2年以上経つ今でもファン同士の交流は活発であり、今も新規グッズが毎週のように発売されて完売している。新しいゲームも発売するなど今もコンテンツとして生き続けている。
原作が本筋だけを描いたために、脇道に当たる部分をゲームが補完している面もあるので一概にこれが正解だということは出来ないが、少なくとも主人公とヒロインが付き合って終了という終わり方が悪いと言えないことは明らかだろう。
ラブコメにおいてオーソドックスな終わり方だが、オーソドックスになったのには理由があったということがわかる。
貧乏ラブコメ三国時代を彩った3作品はそれぞれ人気作であったが、終わり方によってその後の評価に大きな差が出てしまった。
五等分のようなスタンダードな終わらせ方も、かぐや様のような付き合った後も続けるやり方もそれぞれに良い面があるが、ぼく勉のようなイレギュラーは望まれていないと言って良いだろう。
貧乏ラブコメ三国時代は終わったものの、その後もカッコウの許嫁や甘神さんちの縁結びなど貧乏ラブコメの灯火は絶えることなく続いている。
貧乏な主人公が勉強などを通してヒロインと仲を深め、ヒロインはその人間性で主人公を成長させる。王道の類型であり、個人的にも好きな設定だ。今後ともこういった設定の漫画を読みたいと思う。
後に続く貧乏ラブコメたちもこれらの人気作たちの終わり方を参考にして、それぞれがより良い最終回を迎えることをいちファンとして期待している。
それはそうだけどこの増田では同時期に争った三国志の話をしたので始皇帝の話を持ち出されても……(ハヤテが始祖という意味じゃないよ)
時代が違いすぎて受容のされ方もまた異なるだろうし、そもそも最後まで付いていった読者が減りすぎてるので比較対象には適さないかと思う。
すでに言われてるけど古見さんとか高木さんとかトニカクカワイイとか人気よね。最近も帝乃三姉妹あるし。
同じ時期のサンデーラブコメなら"古見さん"かな?メディア展開は最も遅かったけれどコメディ重視で群像劇風かつ未だ継続中。発行部数からいってもハブられる存在じゃないと思うんだけど。
大量投票を重ねたら他ファンも対抗してきて、泥試合になりそうになった最後の最後の投票では目先を変えてガラスの靴を贈ったのはスマートすぎて惚れる。
マリーの見合いの相手になったのはまあマリーファンじゃなかったから個人的には素直におめでとうなんだけど、マリーファン的にはどうなんだろね。楽が嫌われてたからOKなんだろうか。