はてなキーワード: 根付とは
キングダムのアニメ見てるんだけど、中国の昔の戦争時代テーマの作品なわけ。
で、言ってることややってることや基本思想がなかなかブラック企業なわけ。
命張ってでも大将守ることが偉い、みたいな。
ここまで来て誰も逃げたりしないですぜ、みたいな。
命危ないんだから逃げればいいのに!ってなる。
キングダム自体はおもしろいんだけど、ブラック企業的な価値観がたまに辛い。
戦争時代に戦場に集まった人間の考え方なんだから、偏りがあるのもわかるんだけど。
個人より全体の利益を考えて、個人を押し殺し全体のために動く感じが辛い。
死を無駄にしないために振り返らず前へ進む!みたいな感じも。
70年近く経っても。
※非常に気色悪い内容だと思います。読まれる方は承知の上でお願いします。
ついにこの日が来てしまった。
数年前にフリーで予約して出会い、それ以降指名してきた女の子。徐々に人気が上昇して店舗ランキングに載るようになり、予約も取りにくくなっていった。最後に会ったのが7月。以降は何度電話しても予約が取れず、では10月の出勤状況は、と店舗のWebサイトを確認すると。
「退店しました」
血が凍るとはまさにこの感覚。いろいろ情報を当たると、どうも9月末での退店は本人の意向だったようだ。出勤頻度が多かったのはそのためだったのか。
そもそも自分のような、子供の頃から周囲に薄気味悪がられ、女の子にまともに相手をされることのないまま40年以上の人生を送ってきた男にとって、風俗店というのは女の子と触れ合える貴重な場所のひとつである。支払う対価の前には、イケメンもブサイクも、自分のようなハゲデブメガネのおっさんでも提供されるサービスは平等である(少なくとも建前は。もちろんそうでない店舗もあるだろう)。一方で、サービス以上の要求をしてくる客の話は、風俗嬢のエッセイやツイートでは定番のネタだ。自分は非モテの自覚があるつもりなので、せめて仕事でサービスをしてくれる女性に不快感を与えてはなるまいと、ルールを守って遊ぶことを心がけてきた。当然のマナーだと思っていたのだが、そうでない客も多いと知って驚いたものだが。
相手が仕事である以上、本気で入れあげるのは遊び方として非常に格好悪いという認識もあるつもりだった。そういうことを理解していてもなお、このテンションの下がり具合はどうだ。
スタイルが自分好みなのはともかく、本来の目的以上にお話が楽しかった。
あるとき、お出迎えを受けたときに、待合室に持ち込んだ本を手にしたままだったことがきっかけで本の話題になった。「なにか面白い本があったら教えて」との言葉に、その街が舞台になったミステリ小説を渡したら、次に会ったときに「面白かった」と言ってくれた。イギリスの歴史に興味があると聞いて何か本を渡そうと考えたが、ガチの歴史の本をいきなり渡してもちょっとアレかなと思い、学者から転向した作家のエッセイ本を渡したら、それも面白いと言ってくれた。
もしかしたら、興味の対象とズレれていたかもしれない。気持ちを無碍にしないよう、お愛想で「面白かった」と言ってくれただけかもしれない。それでも、感想を伝えられる程度には目を通してくれたのだろう。嬉しかったし、人にプレゼントする本を考える体験はとても新鮮で楽しかった。
事情により日射しが体に良くない、と聴いたときは、本人の意向を確認した上で日傘をプレゼントした。だが事前に好みのデザインを聞くのを忘れたので、デパートの店員に選んでもらった。喜んでくれたようだが、これが本当に言葉通りかは甚だ自信がない。
「自分が気に入った子はなぜかすぐ辞めちゃうんだよね。2回目に会えたことがあまりない」
「そうなの? 大丈夫、やめないよ」
という会話を交わしていた。あれから数年経つ。本人の中でも心境の変化があったのか限界を感じたのか、それはわからない。いずれにしても仕方がないし、むしろ当然のことだ。だが、心のどこかで「(予約さえ取れれば)いつでも会える」「いつまでも店に在籍してくれる」という願望や幻想が根付いていたのだろうか。
交際したいとか一緒に人生を歩みたいとか、大それたことを考えていたわけではない。いや、我知らず「あわよくば」という思いはあったかもしれないが、それが実現し得ないことは他ならぬ自分がよく認識している。
面倒な仕事とストレスだらけの人生の合間にちょっとした癒やしをくれる彼女の存在が嬉しかった。
美味しいと評判のケーキ屋を教えてもらった。甘い物好きと言っていたので、差し入れたら喜んでくれただろうか。
彼女の好きなものについてもっともっと聞きたかった。好きなものの話をする彼女の顔は生き生きとしていた。
提供される「サービス」の思い出以上に、そんな些細な思いが浮かんでは弾ける。彼女の技巧も夢心地だったが、出口へ案内される際につないだ手のひんやりした指の感触のほうが忘れられない。
これではまるで失恋ではないか。自分にとっての彼女はそこまでかけがえのない存在になっていたのだろうか。彼女にとっての自分は大勢の「お客様」の一人、one of themに過ぎないのに。
自分でも説明することの難しい気持ちを整理し立ち直るまでには、まだしばらく時間がかかることだろう。せめて会ってお別れが言えたら良かったとも思うが、それも叶わぬことだ。
ここを見ることはないだろう彼女に伝えたい。
M子さん、今まで楽しい夢を見せてくれてありがとう。そして、貴方のこれからの人生が幸せなものでありますように。
※追記を書きました。
私はこの判断に心から落胆し、新潮社という出版社そのものに心から失望した。
まず断っておくが、私は杉田水脈氏の記事(論文とは決して呼ばない)を一切支持しない。
一切、完全に、ただの一行たりともだ。
続く号で発表された杉田氏の擁護記事も、仮に部分的に事実があるとしても一切の論旨に賛同しない。
だが、私は『新潮45』が休刊したことについても深い憤りを覚えている。
杉田氏の記事ならびに擁護記事に批判が集まったあと、新潮社代表取締役の佐藤隆信氏は以下のようなリリースを発表した。
https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180921.html
弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。……
このリリースで佐藤氏は、『新潮45』が差別的な記事を掲載したとは一切認めていない。
まずはじめに言論の自由をうたい、《今後とも》差別には配慮する=今までも差別には配慮していた、としている。
『新潮45』の問題はあくまで「常識を逸脱した偏見」と「認識不足に満ちた表現」(不足に満ちた?)だ、ということだ。
https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180925.html
会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊を決断しました。
これらのリリースから、新潮社が何を問題視して休刊に至ったのか、私にはよく読み取ることができない。
「言論の自由」を重要視するならば、「常識を逸脱した偏見」という言葉は矛盾している。
なぜなら、偏見は時に常識の顔をして生活に根付いているからだ。それに対抗しうるのは言論しかない。
「言論の自由」をうたうなら、常識から逸脱したことを謝罪するのは自殺行為だ。
「認識不足に満ちた表現」というのもよくわからない。誰の、何に対しての認識が不足していたのか不明瞭である。
(筆者の、LGBTに対する)認識が不足していたというならば、それは表現ではなく論旨そのものに直結する問題だ。
二度目のリリースの「編集体制が十分でなかった」ことから無理矢理意訳するなら、言論としての質が低かったことがもっとも重大な問題、と理解すればいいだろうか。
佐藤氏はこの問題に関して、何よりもまずはじめに言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立に言及した。
『新潮45』は、私の目には差別的・侮辱的で唾棄すべき蒙昧な文字列だったが、
佐藤氏は質が低いことは認めても、差別的であるとは最後まで言わなかった。
杉田氏の記事およびその擁護意見を、新潮社として「自由と多様性」の一部として認めるならそれでもよい、と私は思う。
だが、それが社としての意見だというならば、そして問題は「質の低さ」だというならば、少なくとも新潮社にはこの問題について「質の高い」意見を示す社会的な責任があったのではないか。
そして、「多様性」を庇護したいのならば、杉田氏および擁護意見への反論も意見として熟議し、「多様性のある」議論を展開するべきではなかったのか。
それこそが「言論の自由」を保証した、出版社としてあるべき姿だと思う。
その範を示すことが、長い歴史と信頼のある大手出版社の役割であり、代表取締役が「言論の自由」に言及した意味ではないのだろうか。
質の高い多様な意見を募るには歴史と信頼と知性の集積が必要だ。そんな出版社はそう多くはない。
けれど、新潮社ならできたんじゃないのか。
今回、新潮社は『新潮45』の廃刊という形での幕引きを図った。
批判に応答もせずに。
言論の自由をいちばんはじめにうたったはずなのに、世間の声に反応して言論の場そのものを潰すという、もっともするべきではないことをした。
しかし、新潮社は本当に、この幕引き以外選択肢はなかったのか。
新潮社でさえこんな風に逃げ出すしかないのなら、我々はいよいよ、批判を躊躇わなければならなくなる。
意見を示す出版社側は、「常識から逸脱した」意見を出すときは『新潮45』のように潰されることに怯えなければならず、
批判する消費者側は、自分自身の批判が言論の場を潰し、言論封殺の謗りを受けることに怯えなければならない。
新潮社は「質の高い」反論をすることも批判を受け止めることも投げ出して、結局真っ先に言及した「言論の自由」を蔑ろに踏みにじった。
私にはそう思える。
そして、そんな愚かな選択を、あの新潮社がしたことに心から失望している。
はじめて買った文芸誌はyomyomだった。
100%orangeのかわいい表紙に、めくると広がるとりどりの物語に心をときめかせて創刊から買い続けた。
新潮文庫の背表紙が好きだった。明朝体の文字だけのそっけなさ。
書店に行くたびあの背表紙群を眺めて、次は何を買おうと迷うのが楽しかった。読んでも読んでも読みたい本が尽きない。頼もしかった。
新書の玉石混淆さにはもう十年以上もうんざりしているけれど、それでも新潮新書には基本的に安心感を感じていたし、学生時代の論文でも、参考文献に新潮社の本を何冊も並べた。
今はただ悲しい。
松岡修造は錦織に「お前そんな引っ込み思案だったら伸びないぞ、技術のセンスはいいんだからもっと感情を出して自分の意見を表現しろ」みたいなことをよく言ってたらしいな。
テニスみたいな個人競技だと、自分をPRしてコーチに注目してもらうようなことも伸びるか否かの要なんだろうな。中学時代とかに気の強いカースト上位者が上手いこと教師に取り入ってたりしたろ?ああいう才能もないとバックアップも受けられないのかも。
その感覚でずっとやってるから、言ったもん勝ちみたいなメンタリティが根付いてるんだと思う。
一方で卓球みたいなアジア人が強い競技は、バックについてる団体に忖度しなきゃいけないような国の選手が上位層にいるから、おとなしい印象がついているんじゃね?
子どもは親の所有物だという固定観念が根強いから、毒親問題やらそれに付随する生きづらさが後を絶えないんだろう。
歴史的に、人買いに自分の子どもを売ったり、自分が居ないと子どもは生きていけない(幸せになれない)と思い込んで親が子どもと心中したり、子どもは親の所有だっていうような事象がよくある。
子どもの発達には育ててくれる大人の存在と愛情は不可欠だ。それは確か。でも、それは必ずしも血のつながった親でなくてはならないのか?本当に愛情を与えられるのは血のつながりがある人間だけ?
血の繋がらない人間から受けた愛情も、その子が自分自身を肯定して生きていく糧になり得るはずだ。
血のつながりがあっても、虐待したり、教育を与えてくれなかったりする親だっているじゃないか。なんで子どもは血の繋がりで縛られなきゃいけないんだ?
親は子どもを生んだ責任があるから、自立するまで育てる義務があるだろう。生めと頼まれてないのに自分のエゴで生んだのだから、せめて、この世の中で自分で生きていけるようにしてやるべきだ。
けどそれは子どもを所有するという事ではないはず。だから子どもは親に縛られる義理はないし、子どもは親からしか愛情を受け取ってはいけないわけじゃない。
なのに、子どもは親の所有物、よそはよそうちはうち、という思想が根付いてしまっているからよその子はノータッチ。よその家の事情に足を突っ込むべきではない。
そうして家族はガラパゴス化して外からは見えにくくなる。子どもは逃げ道が無くなる。
親がどんな人間であろうと、逃げられない。社会的にも心理的にも縛られ続ける。
親に虐待されている子どもは虐待を受け続け、親が犯罪者の子どもは犯罪者の子どもというレッテルを貼られ続ける。勉強する習慣がない家の子は、勉強ができなくなる。
自分のせいじゃないのにおかしくないか。なんで親に縛られ、親によって自分の人生が左右されなきゃいけないのか。
教育格差を始めとした子どもの格差は、学校や子育て世帯に金をばら撒くだけじゃきっと根本的な解決はできない。
理想論なのは分かってる。けど、「親∉子」という価値観を廃し「社会∉子」という価値観を持ち、社会全体から守られる一個人として子どもが扱われるようになって初めて平等に教育の機会が与えられる基盤ができるんじゃないか。親以外の誰かに助けを求め、愛情を受けることができるようになるんじゃないか。自分の人生を親に左右されず自分の努力で選び取ることができるようになるんじゃないか。
私は、親の罪で社会から偏見や同情の目に晒され続けた親友を救いたかった。親は関係ない、可哀想なんかじゃないって訴えたかった。
こんなタイトルを書いて、さぞアンチウルトラマンのようにみえるが、私はウルトラマンが好きである。
今放送中のウルトラマンルーブは楽しく見させてもらっている。『ルーブ』とは何者なのか、なぜロッソとブルはグルジオボーンと落ちてきたのか、愛染マコトの狙いは何なのか・・・・・・。現時点で10話放送しており、そろそろ折り返し地点である。
だけどはっきりいえば、何か物足りなさを感じる、というより、面白さに欠けている。楽しく見られているが、面白いかどうか・・・・・・と言われると、微妙だ。
この不満は実は遡ればウルトラマンオーブからある。いや、ウルトラマンオーブで感じたその不満は一部だけで、本格的に感じたのはジードからだろうか?
なにやら最近はそのルーブの登場人物である愛染マコトのおかげで、懐古厨は愛染マコトだ、なんてまことしやかにネタにされているがはっきり言わせてもらうと、最近のウルトラマンには怪獣の魅力に欠けている。
何故怪獣が出現し、何故怪獣が暴れるのか。ウルトラマンの根本的な話の主軸はそこであって、それに対して人間やウルトラマンが立ち向かうものではないか?
最近だとウルトラマンXの「怪獣は動かない」だとか、ウルトラマンジードでも「ココロヨメマス」が面白かった。ちょっと紹介がてらどこが魅力的だったのかを説明する。
ウルトラマンX第10話「怪獣は動かない」には、不動怪獣ホオリンガが登場する。1か月前、山々に囲まれた坂根村に突如として出現したところから物語が始まり、それまで全く動かず無害であることから村のマスコットキャラクターとして売り出そう、という話を村人たちがしている。しかしホオリンガが栄養失調に陥っていることが分かり、Xの世界の防衛チームXio(ジオ)は治療弾を注射する計画をするが、一人の少女がそれを止めようとした・・・・・・。
ネタバレになっても構わないのであれば話すが、実はホオリンガは坂根村に伝わる神様で、ホオリンガは現れると次第に新たな山に生まれ変わる怪獣だった。地面に根付き、栄養を大地に送り、自らが山に変わることがホオリンガの怪獣としての使命だったのだ。そうとはしらず栄養を無理やり注入し、あろうことがホオリンガを動かそうとしたことで、ホオリンガは激怒、花粉をまき散らして暴れ出してしまう。そこで本作のウルトラマン、ウルトラマンXが戦うのである。
次にウルトラマンジード第10話「ココロヨメマス」。例に挙げたタイトルがすべて第10話なのは偶然なのでご容赦願いたい。
突如として地球に、怪獣ザンドリアスが飛来した。なぜザンドリアスが地球へやってきたのか。本作での防衛組織に当たる、犯罪をはたらく宇宙人を取り締まる機関AIB(エーアイビー)の愛崎モアは、相手の心を読むことができる宇宙人、ゾベタイ星人のナビア(地球での偽名はサトコ)と協力してその真意を確かめる。
オチだが、実はザンドリアスは恋煩いを患っており、好きな女の子に告白できず、勝手に玉砕して地球に飛来したのだった。ゾベタイ星人は嘘をつかない性格らしく、このザンドリアスの気持ちを「くだらない」と言うが、モアがそれを一蹴。誰かを思うことにくだらない事なんてないと啖呵を切り、本作のウルトラマンであるジードと協力しているゼロに、ザンドリアスを宇宙に返してくれるよう進言したのだった。
今回あげたタイトルの共通点はまさしく「なぜ怪獣が現れ」そして「暴れるに至ったか」という、怪獣の生態であるとか、怪獣の心象であるとか、怪獣そのものをドラマの中心においている。ウルトラマンらしさを語っているわけではないのだが、怪獣が出現する以上、こういった意味付けは重要だと思う。
だがジード本編における大多数の話と、現在放送中のルーブはどうだろうか。基本的に怪獣は、作品内の悪によって召喚されたものか、悪人そのものが変身したものである。
ジードに登場する伏井出ケイことストルム星人は、ウルトラマンベリアルに心酔し、ジード=朝倉リク同様、ジードライザーを使い怪獣を召喚したり、自らベリアル合成獣として変身したりしている。野良怪獣が現れたのは、ザンドリアスとギエロン星獣の回くらいではなかったか? そして現在放送中のルーブは、愛染マコトが怪獣を召喚し、そして自らも『ウルトラマンダークオーブノワールブラックシュヴァルツ』という真っ黒なウルトラマンオーブになったりする。怪獣が物語にアクセントを足す調味料程度でしかないのだ。
いや、ウルトラマンルーブは世界観として「怪獣が存在しない世界」だから、理由付けとして怪獣を召喚するしか方法がない、という意見は分かるのだが、それにしたって「その怪獣が出現する意味」が無さすぎるのである。第10話に登場し、おそらくそのまま第11話でも出るであろうルーブ由来の新怪獣、豪烈暴獣ホロボロス。狛犬のような見た目の神聖な怪獣っぽいのに、結局は登場は愛染マコトがホロボロスのクリスタルを使って召喚させたに過ぎない。しかも召喚理由は、ウルトラマンルーブことロッソ=湊カツミとブル=湊イサミに、ウルトラマンとしての適性テストと称して召喚されたのだ。これじゃあせっかくの新怪獣もただの試験官だ。これだったら別の怪獣でもいいじゃないか。
別に宇宙人が怪獣を使役したり、召喚することが悪いとは言っていない。遡ればウルトラセブンだってピット星人がエレキングを飼っていたし、帰ってきたウルトラマンではナックル星人がブラックキングを用心棒として使役していた。だが、ただ無意味に召喚させるだけの今のウルトラマンには、話としての物足りなさが露出していて、見終わった後特別何も感じない。
ウルトラマンAだってヤプールが超獣を作っていたじゃないか、それと同じじゃないか。という意見が出る前に一言いえば、ウルトラマンAだって超獣の個性をふんだんに使い、その超獣が話の主軸になっていた。最近の平成作品でもよく出るアリブンタは、地下鉄を襲って人を蟻酸で溶かすシーンは恐怖そのものだったし、二次元超獣ガマスは撮影した時のカメラのネガに潜み、焼き増しすればするほど増えるというとんでもない超獣だった。きちんと怪獣の能力が物語の中心となってストーリーが展開している。でも今のウルトラマンは、人間ドラマにほとんどを費やし、怪獣は結局最後に出現させて倒されて、はいおしまい。これじゃあんまりじゃないか?
過去の怪獣を出すなとか、そういうわけじゃないのであって、さっきも言った通りザンドリアスやギエロン星獣、オーブならまさかの戀鬼やラゴン、Xだとバードンや宇宙化け猫・・・・・・。過去の怪獣でも、何故現れたのか、何故暴れるのか、何をしたいのかを描くことは可能じゃないか。人間ドラマも嫌いじゃないが、そろそろ怪獣がメインの脚本を見てみたい。
ウルトラマンルーブ。おそらくこれまで通り予定では全25回。残りの15回で、見終わった後に清々しくなれるような話が来てくれることを願う。
「国民の相互扶助の精神をかん養するための寄付の促進及び規制等に関する法律」、通称「投げ銭法」。
この制度が導入された経緯は、単純ではない。
プライマリーバランスの悪化、生活保護受給者に対するバッシング・自己責任論の台頭、新たな天下り先を確保したい財務官僚の思惑、利権の匂いをかぎつけた政商の働きかけ、歴史に名を残したい政治家のスタンドプレー、「普通の」国民による与党への盲目的な支持、そして何より、圧倒的多数の国民が政治に無関心だったこと。
様々な要因が絡み合い、比較法的にも特異なこの制度は誕生した。
当初、努力義務だった規定は、罰則付きの義務となり、寄付すべき収入の割合は、いつのまにか増加していった。
「全て国民は、収入の一定割合を他人に寄付しなければならない。」
芸能人の出演料は、低下の一途をたどる。
やがて、ほとんどの出演者は、テレビ局に金を払って「出演させてもらう」存在に成り下がった。
また、貧困層への寄付も––法律の(建前上の)目的に沿って––盛んに行われた。
有志が寄付募集用ウェブサイトを立ち上げ、多くの貧困者が、実名・顔出しで寄付を募ったのである。
もっとも、寄付が集めたのは、寄付する者にとって「分かりやすい」「心地よい」者だけだという指摘もある。
知的障害者よりも身体障害者の方が、容姿の醜いものよりも美しい者の方が、多額の寄付を集めた。
制定当初から、制度の潜脱を防ぐための以下のような規制は存在した。
・過去に自分又はその親族に「投げ銭」をした者への「投げ銭」の禁止
・過去10年以内に「投げ銭」をした相手への再度の「投げ銭」の禁止
制度の抜け穴を探す者とこれを規制する者のいたちごっこにより、その他の禁止事項は膨れ上がっていった。
彼らは、非合法的に、相互に投げ銭をするシステムを構築していった。
ある年、AさんはBさんに、BさんはCさんに、……と寄付し、ZさんはAさんに寄付する。
翌年以降は、これを少しずらして行う。
密告、司法取引、報奨金などの制度により、取締りが図られているが、宗教、人種、地域などに根付いた狭いコミュニティによる互助会は、なかなか根絶しなかった。
だが、この互助会も、ある女性の起こした事件をきっかけとして、姿を消すことになる。
その女性は、手練手管で数々のコミュニティに入り込み、数百に登る互助会に名前を連ねることに成功したのだ。
数回は、互助会の趣旨に従って寄付を行ったものの、その女性は、あるとき、全ての互助会の取り決めを無視して姿を消す。
この事件が知られると、多くの互助会は疑心暗鬼に陥って崩壊した––それゆえ、この女性を政府関係者と疑う向きもあるが、政府はそこまで有能ではないとの反論もある。
のちに「詐互嬢(さごじょう)」と呼ばれるこの女性。
日本は無宗教ではなくて多神教である、ちまたにあふれる宗教イベントを見よ・・・と思っていた。
因果応報という仏教思想は意外と日本人に根付いているのではないか?思うことがある。
元いじめっ子の子どもが他の子に虐められるのが因果応報というようなコメントを見てのことである。(日帝の子孫には何をしても構わないという反日の人を笑えない)
https://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E5%BF%9C%E5%A0%B1/m0u/
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。▽もと仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。
よく見ると「もと仏教語」と書かれている。
元だろうと現だろうと、行為の善悪に応じて、その報いがあるという目に見えない法則というのは宗教的に感じる。
宗教的な感覚を抜きにしたら、あるべき姿や善悪に関わらず起きることは起きるという当たり前の思想になるのではないか。
例えば逮捕されなかった殺し屋の未来が幸せな人生か不幸な人生かは分からない。それを、人を殺したら後で自分自身が苦しむという法則で見なすのが因果応報という事だろうか。
これはやはり宗教的な考えではないだろうか。
因果応報という考えが嫌いとか嫌いではないとかそういう話をしたいわけではない。
左右いずれもガチガチの政治家は、いつまでもガチガチのまま、一割の支持者層で人生を終えてしまいます。私は共産党の人たちにもずっと言い続けました。
「政権を取るぐらいの気持ちで政治をやらなければ、いつまでも一割政党でどうするのですか。これが正しい、あれが正しいと言って政権も取れず、あなた方は政党として支持者に応えているのですか。あなた方を信じて何十年も付いてきた支持者に不誠実ではないですか」 一割で正しいことを言っても、残りの九割に誰も興味を示さないのなら、政党としてやっている意味がないのではないか。 現在の日本の政党状況のように、「一強多弱」では政治が行き詰まってしまいます。それぞれ一定程度の勢力を持ちながら勝ち負けがあるからこそ政治に緊張感が生まれ、民意がそこに反映されるのです。それは政治家がいつも意識していなければならないことだと思います。
私は革新側も批判しています。「憲法九条があるから日本は平和だ」と主張する人たちは、憲法の埒外にあった沖縄の負担のもとで、戦後日本の高度経済成長、平和の継続があったという視点が抜け落ちています。
今の日本の政治はまったく民意を顧みない。国権の最高機関たる国会も、行政府の監視という役割を果たしておらず、与党内においても異論が封殺されています。日本の民主主義が危機に直面しているのです。
そればかりか、「(普天間基地の)もとは田んぼで何もなかった」「基地の地主はみんな年収何千万円」と発言した有名な作家のように、自分たちで日本の安全保障を守ろうという気概もない人たちまでもが、実態とかけ離れた暴言を吐いています。そこには沖縄に対する無知と無理解、差別意識があります。
沖縄という小さな島が、日米両国という大きな権力を相手にして戦うことは困難を極めます。 そうした状況を前にして、「沖縄は独立することを考えているのですか?」という問いが発せられます。 そして、そんな問いを受けるたびに、私は沖縄県民がここまで日本国民として受け止めてもらえないのか、と絶望的な気持ちになるのです。
もちろん、独立論は沖縄で積極的に支持される意見ではありません。これまでは居酒屋談義とされてきました。独立論がまじめに語られ始めた原因は、むしろ本土側にあります。 基地削減を求める沖縄県民の声が無視され続け、これに対して「日本の四七分の一として認めないのなら、いっそ日本というくびきから外してほしい」「独立すれば沖縄の意思で基地をなくせる」という気持ちの表れとして独立論が語られます。
今後、事態の成り行きによっては、独立の意思を表明する人たちが、沖縄から数多く出てくるかもしれません。しかし、それ自体が沖縄の不幸につながると私は思います。
そして、沖縄の独立を語る前に、日本本土が覚悟を決めて、米軍基地を全国で受け入れて、しっかりとした日米同盟をつくってもらいたいと私は思っています。日本国民一人ひとりが、基地問題を自分のこととして考えて、そしてその集約が日本の政治をうごかしていくようにならなければ、真の民主主義がこの国に根付くことはないでしょう。
沖縄の基地問題は、結局自治体と国の闘争という単純な話ではないのだ。基地問題に限らず、政治に関する無関心は、最終的に、大きな民主主義の傷となって日本国を蝕んでいくだろう。
ところで、この場合、基地問題の議論を終着させるのは誰の意見なのか?日本国民の多数決?沖縄県民の多数決?まぁ、現時点ではおそらくそれのどちらでもなく、「政権の多数決」なのだろうな。
まぁ、「多数決」が「民主主義」と思っているような人も多いので、この国の民主主義には期待できそうにもない。(ヘーゲル弁証法や「止揚」は、現社でやったっけ?)
追記の最後の一文で彼女がバイトであることがはっきりするが、追記無しでも読み取ることは可能ではある。
エンベロープというのはおそらく、いわゆるカップスリーブのことだと思われる。スターバックスコーヒーのような業態のショップではコーヒーは紙コップに入れて出される。熱いコーヒーが入った紙コップは素手でもてないのでボール紙などが巻かれる。これがカップスリーブだ。「コーヒーを買いに行って、つまらん冗談を言ってから職場に戻って来る」という表現から、さほど時間がかかっていないことが読み取れるので、つまり飲んできたのではなく淹れてもらったものを買ってきたのだと判る。あまり知られていないことだが、コーヒーショップではテイクアウトでコーヒーを買う場合、紙・プラカップ以外にも、持参したタンブラー ーー 水筒のこと、に入れて貰うこともできる。タンブラーの可能性は排除できないが、その場合エンベロープが何を指すのかがわからない。コーヒー屋で封筒を貰うことはないし、元増田が例えば革製のドキュメントケースを持って行ったとしたらこれをエンベロープと称するのは妥当ではあるが、この種のケースは構造が封筒そのものなので、フラップが邪魔をして内側にメモを入れるのは難しい。ただそれが成されたとしても、「メモを挟む」という表現は似つかわしくないだろう。エンベロープという言葉を説明なしに使っていることから、それは解説を要する程には特殊なものではなく、その状況では自然に在るものだと思われる。「美少女ではないから」などと予想される読者の反応にあらかじめ対応できるほど慎重な筆者が、その点をおろそかにするとは考えにくい。
加えて、最初の一文も読解の重要な手がかりだ。「常連なので顔が覚えられているどころか、数分程度なら会話もする位には仲良くなってる店員さんも何人もいる。」高校生が客の一人なら、この一文には意味がないが、店員なら、仲良くなっている店員のそのうち一人が… というように話の背景を説明するよい導入になる。後に出てくる「日々の雑談」という表現は、日本には他人たるお客同士でフランクに会話するような文化が根付いてないので、もし突然出てきたら面食らうが、最初の文に対応していると考えると、これも引っかかりなく読める。
以上の理由により、高校生は店員、という仮説がもっとも妥当な解釈だと思う。喫茶店の利用シーンに明るい読者はその筋を読み取れるだろうが、多くの人には無理だろう。別に読めなくともアホではない。
追記・偉そうに長々書いてしまったが、俺の読解力では「初々しい」のがどちらなのか自信を持って言えない。ところで今日はコーヒーに関する話がよく出てきますね。高校生、コーヒー・ウスメターノ、馬の小便… どういう星の巡りだ
アメリカで科学者上がりの政治家だか候補者だかが増えたニュースのブコメも
日本の現状を嘆くだけだったり、余計な罵り合いに誘導したり、そんなのばっかり。
「この人はこういう理由で科学界隈の造詣が深い」とか、今後に目を向けたコメントが全くない。
結局日本人の多くにとって「政治はお上がやるもの」という意識がいまだに抜けてないんだろう。
「民主主義の危機」とか言う人も居るが、そもそも日本の民主主義ははじめから形骸化していて全く根付いてなどいなかった。
これから先は「どうやったら日本に民主主義が根付くのか」から議論を始める必要があるんだろう。
知識としては既に義務教育で教えてるわけで、結局のところ当事者意識をどうやって主権者である国民に持たせるかということになるんだけど、政治が利益の奪い合いであるという認識を持ってもらうのが一番早い。
唯一無二の正しい政治なんぞありはしない。
限られたりソースである「土地、金、人、時間その他諸々」を国内で奪い合うのが政治だ。
だから今ネットでよく見る「お上は清廉潔白で正しい政治をしなければならない」というありもしない幻想をどうやって打ち砕けば良いのか、その方法をみんなで考えよう。
と
を書いた増田です。すいません、この2つですが、書いたのは実は同じ増田です。
どのくらい反響があるかを前の増田の影響がない状態で見てみたかったので、2つめはあえて文体を変えて書いてみました。
ばれるかなと思ってドキドキしていたので、今のところ同一人物じゃないかという指摘がなくて良かったです。
今回、東京医大の事件によって、医療界が抱えている大きな歪みが一般の人の前にも明るみに出たので、いい機会だと思って普段なんとなく考えていることを文章化してみました。
読み返してみると2つとも無駄に長いですね。
現代の医者の性かもしれませんが、できるだけ状況を丁寧に説明して相手に選択してもらうような考えが染みついてしまっているので、ぐずぐずまとまりのない文章になってしまいました。
まぁ、もともとまどろっこしい性格なのですが。
こんな長い文章なのに、多くの人に読んでブックマークしてもらってうれしかったです。
あんなにたくさんの増田がある中で拾われるなんて、増田ウォッチャーの方は本当にすごいですね。
たくさんいただいたブックマークのコメントを読んで感じたのは、やはり医療現場の外にいる人に医療現場のことをわかってもらうのは難しいということです。
別にすべての人にわかって欲しくて書いた訳ではないですが、中にいる人間としては、そんなに単純な話ではないんですと思うコメントもたくさんありました。単純に私の伝える力がヘボいだけかもしれませんが。
その現場の中にいる人にしかわからない空気感があるというのはどの分野でもある程度同じだとは思いますが、病院はどうしても病気の人と病気を治す人という特殊かつ閉じられた環境になってしまうので難しいです。
風通しを良くするために、他力本願で大変申し訳ないですが、こうすればいいという考えを持たれている、他の分野、特にはてなユーザーに多数いらっしゃるであろうITエンジニアの皆様におかれましては、ぜひ病院という環境に飛び込んで、自分の分野を活かした医療環境の改善プランを提案していただきたいものです。
ニーズは非常に高いので、ビジネスチャンスはたくさん転がっていると思いますし、なにより実際に環境が改善されれば現場の人間に非常に喜ばれると思います。
さらに、現場の環境の改善はそのまま患者さんに提供する医療の質の向上につながります。
みんな大喜びです。
可能であれば医師側から何か提案したいところなのですが、医師、特にマネージメントに関わるような立場にある医師は、結局その技術で何ができるのかと言うことまでキャッチアップできていないことが多いので、そもそも活用法を思いつきません。「IT活用して何とかして」とか言われたらみんな困るでしょう。
医療者がAIも含めたITリテラシーを高めるのと合わせて、IT側もビジネスチャンスと考えて積極的に医療に関わり、その高い技術力を活かしてもらいたいものです。
偉そうなこと言ってないでお前も何とかしろよと言われそうですが、卒後10年弱で中堅に入りかかった程度の小児科医としては、増田を書いて少しでも理解の裾野を広げることと、自分の周りの環境を何とか良くする程度しかできることがないのがつらいところです。
最後に、前2つの記事ではできるだけフラットな立場で読んで欲しかったので、自分の考えをあまり書きませんでしたが、「結局増田は解決法についてどう考えるの?」というコメントをいくつかいただいていましたので、自分の考えを書いておきます。
前もって断っておきますが、例のごとく非常に長いです。すいません。
今回の事件に限らず医学部入試に黒い噂がつきものなのは、大学の医学部医学科に入学した人のほとんどが医者になるという現状が原因で、これが諸悪の根源です。
つまり、入試不正をなくすためには、ほぼ入学ゴールという現状を変えなければいけません。
すなわち、医学部入学者を増やして医師教育の入り口である医学部入学の門戸を広げて、代わりに国家試験という出口で医師の数を調整する、という方法です。
大学医学部に入れたところで医師になれるかどうかはその後の自分次第なので、不正をしてまで入学するメリットは大幅に減ります。
出口を国家試験にしてしまえば試験による不正は基本的には起こらないはずです。(このご時世なので何があるかはわかりませんが)
現行のペーパーテストのみの国家試験をより実践的なものに変更する改革と合わせれば、現場に出る医師のレベルもある程度保証できるはずです。
国家試験が受験者の大多数が合格できる試験でなくなり、さらにより実践的なものになれば、各大学間で合格率に大きな差が出ることになると思いますし、大学間での競争も活性化されて問題のある大学は淘汰されていく流れになるかもしれません。学生も競争にさらされてしっかり勉強するようになるでしょう。
さらに、医学教育の出口で医師の人数を調整することにより、入り口で調整している現在より速いスピードで医師の需要の増減に対応できるようになります。
問題点としては、医師になる教育を受けたのに医師になれない人が多く発生することです。タイミングによっては、氷河期みたいな現象が起きてしまうかもしれません。
医学生にとっては、大学に入ってしまえばほぼ医者になれる現状に比べてかなり厳しい状況ですが、世の大学生や大学院生たちは、就職においてかなり熾烈な競争を行っているようですので、現状が甘やかされすぎです。
ただ、医師になれなかった学生の受け皿は必要です。医師に準ずる知識や技術を持った非医療職というのはある程度の需要があるとは思いますが、どこまで一般の企業などがそういった人材を、しかも国家試験に落ちてしまった人材を欲してくれるかは疑問です。
準医師みたいな資格を作って病院で働くというのも一つかもしれませんが、どういった制度設計にするかは十分な議論が必要です。
とにかく、国家試験に落ちてしまってもすべて自己責任としてしまうのは今の日本ではちょっと受け入れ難いと思いますし、この辺りは検討の余地が多数残っています。
他の問題点としては、やはり大学の負担が増えることでしょうか。
大学時代によく言われたことですが、医者を一人育てるのにはお金を含めた莫大なコストがかかっているそうです。
国公立大学は言わずもがなで多大な税金が投入されていますし、私立大学でもある程度は学生の授業料でまかなわれているものの、少なくない税金が投入されています。
その税金を、医師教育として医者にならない(なれない)人のために払うべきなのかというのは議論が分かれるところだと思います。
国公立大学でも学生の負担を増やすのは一案だと思いますが、結局お金持ちしか医師になれなくなっては本末転倒ですし、アメリカのように借金してでも大学に入ったのはいいものの、最終的に医者になれなかったのでは救いのかけらもありません。
現状では大学の教員は診療・教育・研究を一手に引き受けており、学会活動なども含めて多忙を極めています。
ただでさえ手薄な教育なのに、これ以上にリソースを割けと言われると行き着く先は地獄です。
解決策は大学教員を増員して診療・教育・研究のうち得意な分野に専念させることですが、そんなことができるお金のある大学は日本には存在しないでしょう。
やっぱり先立つものは金です。
最初の増田に書いたように、医師の労働環境改善は女性だけの問題でなく、今後は男性医師にとっても重要な問題となってきます。
特別に女性が働きやすい環境を作る必要はなく、性別関係なく医師が働きやすい環境を作れば、その結果として女性もあまり無理なく働ける環境になると私は考えています。
そのためには、賢明なるはてなユーザー諸氏と同様に、医師の数を増やし、医師の業務を他の職種に移譲できるものは移譲し、病棟業務については複数主治医制にすることが基本的には必要だと思っています。
この3つのうち根本的かつ最も強力な改善策は医師の増員だと思うのですが、いかんせん現在の制度では増やそうと思ってもどうしても10年近いタイムラグが生じてしまいます。
軍隊みたいに予備役みたいな制度があればいいんですが、医師に関してそんなバッファーを用意できるほどこの世の中に余裕はありません。
増えた頃にはAIの進歩によって劇的に医師の業務はスリム化されていて、既に多くの医師が用なしになっているという未来も想定しておかなければいけないことを考えると、現実的には、今から医師を増やすよりはAIの進歩を待つ方が良いのではないかと個人的には思います。非常に悩ましいところです。
また、医師を増員する場合は、増員した医師の診療科と勤務先が偏ってしまうと増やす意味がないので、国家試験の成績など何らかの形でそれらを制限する仕組みが必須です。
むしろ医師を増やさない場合でも、今後の医療においてこの仕組みは必須になってくる可能性が高いでしょう。
これから医師を目指す学生諸君にとってはこれも厳しい話ですが、医者が好きなように診療科と勤務地を選べる時代は終わったと諦めるしかありません。
業務量の減少に合わせて個々の医師の給与は減ることになると思いますが、総量規制で「人数を倍にしてやるから給料半分な」というのはさすがに厳しいですし、それなりの人件費の増加は免れないでしょう。
また、上にも書いたように医師を増やすことで大学の育成のコストも増加します。
やっぱり先立つものは金です。
私の給料が減ることについては生活に困らない程度までは我慢しますので、国民の皆さんにも納得していただいて、増税のうえ健康保険料の値上げと医療費の自己負担割合を上げさせてもらうしかありません。
医師の業務を他の職種に移譲することについては、現在も徐々に進んできていると思いますが、現在既に忙しく働いている医療者に業務を移譲しても仕方ないので、やはり追加の人員を確保することが問題となります。
医師を雇うよりは人件費は抑えられると思いますが、日本全体で考えれば結構な人件費の増加になるでしょう。
また、処置にせよ事務仕事にせよ、医師の負担を減らせる程度までの業務を移譲するためには、相手にもそれ相応の医療知識や技術が必要です。
その教育や育成にも金銭的・人的コストがかかります。やはり先立つものは金ですね。
カネカネ言い過ぎて、賢明なるはてなユーザー諸氏に「医療現場の問題は放っておこう」と思われないか心配になってきました。
とは言え、退院サマリを書けるくらいの医療知識と高い事務能力を備えた人材がいれば、病院においては引く手数多だと思うので、そういった人材を育成して派遣する会社を作れば儲かりそうです。実はビジネスチャンスなのかもしれません。
複数主治医制についても基本的に賛成です。医師がある程度安心して病院を離れるためには必要な制度だと思います。
「主治医団のメンバーすべてが同様の能力を持っている訳ではないこと」、「チームのメンバーのうちA医師にはできることがB医師やC医師にはできないこともあること」、「緊急時を始めとして常に望む相手の診療が受けられるわけではないこと」。
理性的なはてなユーザーの皆様には理解しがたいことかもしれませんが、この当たり前とも思えることを納得して受け入れてもらうことすら難しいのが医療現場の現状です。
2つめの増田に書いたシチュエーションはほぼ実話で、同じようなことは重症度は違えど年に数回は起こります。複数主治医制での別の主治医とではなく、当直医との間においてですが。
もちろん、実際の状況はあんなに単純ではないので、自分が主治医側の場合もあれば当直医側のこともあります。
私は小児科医なので、実際に起こっていると言うことは、あの場で急変しているのは子どもです。生後1ヶ月に満たない赤ちゃんのこともありますし、中学生のこともあります。
いずれにせよ、急変した我が子を見て、このまま我が子が死んでしまうかもしれないと言う状況で「これも運だから仕方ない」と冷静でいられる人はいません。A医師を呼んで状況が改善する可能性があるのだったら「A先生を呼んで!」と言わない親は現実にはいません。そんな親はみたことがありません。
別にそれが悪いと言っている訳ではありません。自分がその親の立場だったら言ってしまうと思います。
ただ、その希望が常に叶えられるものではないことくらいは理解して受け入れてもらうのが、複数主治医制が根付くために必要な前提条件だと思っています。
簡単そうに思えるかもしれませんが、現場においては本当に難しいことです。
患者さんやその家族が、多くのはてなユーザーの皆さんのように、正しさのためならC先生で我慢するか、と思える方ばかりならいいのですが。
この前提条件が成り立たない状態で複数主治医制を実施すると、前の増田に書いたようなことになって、優秀な医師が病院を離れられない空気感ができあがりA医師が疲弊するだけです。
また、複数主治医制を機能させるためには、どうしても1つの医療機関にそれなりの数の医師を集めなければいけません。
上にも書いたように、医師の増員にはどうしても時間がかかるので、さし当たっては医療機関の集約化を行うしかありません。
中規模の病院を中心に統廃合が行われた結果、中規模以上の医療機関へのアクセスが悪化し、患者さん側にはご負担をおかけすることになると思います。
医師の労働環境改善のための患者さん側の理解という点では、医師の時間外の仕事を増やさないように協力していただくことも重要です。
夜間・休日の不要不急の受診を控える、平日の日中以外に病状説明を求めない、この2点で小児科医の労働環境は結構改善すると思います。
子どもの医療費の自己負担額は多くの自治体でただ同然なので、その受診で人件費を含めてどれくらいのコストがかかっているか無頓着な方が少なからずおられます。
金銭的・時間的にアクセスが容易だから夜間・休日でもとりあえず受診しておこうという姿勢は、上に書いたように医療費の高騰や医療機関の集約化を通してその容易なアクセスを崩壊させ、結果的に自らの首を絞めます。
もちろんどうしようか非常に迷った上で受診して、ひどく申し訳なさそうに診察室に入ってこられる保護者の方もたくさんいますし、小児科に関しては子どものことなので、もちろん心配であれば夜間でも日曜でも受診してもらったらいいのですけどね。
<AIについて>
AIは将来的に医療の様々な分野において医師の業務を助けてくれる存在になると思います。しかもAIの素晴らしいところは、いったん開発してしまえば計算機に電気さえ食べさせていれば文句を言わずに働いてくれるところです。もちろんメンテナンスは必要ですが。
上に何度も書いたように、先立つものは金というこの世知辛い世の中において、人件費がネックにならないのは非常にありがたい存在です。
咽頭の画像を撮影して、その画像からインフルエンザかどうかを診断するAIを作っているベンチャーの記事をどこかで読んだ気がしますが、そういった特定の疾患かどうかを診断するようなAIは実現が間近のようです。
一方で、多くの人がAI診療と言われて思い浮かべるような、患者情報をインプットすることで自動的に診断や治療法などをアウトプットしてくれる夢のようなAIはまだまだ実現は遠そうです。
そういったAIを実現するための最大の課題は、我々医師が診察の現場において収集している情報のうち数値化や言語化が難しい情報を、どのように計算機に Permalink | 記事への反応(10) | 23:00
どこか僕は幸せになれると思っている、今こうしているのは、不幸に続く道だということを理解できていない。
悪を誇示しているけれど、自分の善を誇示するよりも、悪を誇示する方が楽だからそうしているだけの、弱い人間だから。
僕は彼女ほどに自信がない。
幾度となく聞いてきた「お願い! シンデレラ」を聞いて、こんなにも心を揺さぶられる日がくるとは思っていなかった。
2018年7月31日のおねシンのソロバージョンがスターライトステージで更新された。
今日更新されたアイドルは安部菜々、棟方愛海、相葉夕美、佐藤心の四人。
デレマス全体を代表する楽曲であり、何度も何度も聞いている、おねシンを改めて聞いて
こうも、僕の願いとリンクしてシンデレラになってほしいと思ったのは初めてだった。
14歳の女子中学生でありなら、女性の柔らかい部分、彼女の言葉でいう「お山」をこよなく愛している。
彼女に事前告知なく突発的にボイスがついたアニメのシンデレラガールズ劇場第二期二十三話「棟方愛海 最高峰に挑め!3番勝負!」では、
棟方愛海が同僚のアイドル三人にお山を登らせてくださいと懇願する回だった。
お山登らせてください、というのは健康的なハイキングや登山ではなく、要するに乳を揉まさせてくださいという意味だ。
こんな調子で、彼女は登場するたびに同僚のアイドル、事務所のアイドルではないアシスタントの女性、果ては触れ合い会と称してファンと、
とにかく女性のお山、胸に興味津々なアイドル、それが棟方愛海である。
どうだろう。
はっきりいって、危うい設定だと思われたかたも多いと思う。
当たり前だが、同意なくおっぱいを触るのは、女性同士であっても犯罪になりうる。
そうですね。
と、自信が出演したデレステのHARURUNRUNイベントで言っている通りである。
けれども、彼女が初登場したシンデレラガールズ劇場第70話「北海道から来ました?」では、白菊ほたるの胸を同意なく触っているようにも見える。(該当箇所はコマの外で描写されていないため、真相は不明だが)
そして、この同意をとるプロセスも、一歩間違えれば犯罪になりうるかもしれない。
そもそも「恋愛関係にある相手や結婚している相手以外の女性に、胸を触って良いか? と合意をとる」という行為自体、互いの地位に権力の勾配があればセクシャルハラスメントだ。
権力の勾配がなかったとしても、街中で見知らぬ女性に突然「胸を触って良いか?」と尋ねるのは、警察を呼ばれる。
おっぱいを触るというのは、それだけ今の日本社会ではハードルの高い行為なのだ。
どうして、こうも僕はそんな危うい彼女に惹かれるのか。
当たり前だが、アイドルマスターシンデレラガールズに登場する棟方愛海以外の180人以上のアイドルの中で、
中には人見知りでむーりぃーなアイドルや、感情をあまり表に出さない寡黙の女王なアイドルもいるが、それらと人が嫌いには大きな隔たりがある。
そういう意味で、この「人が好き」というのは、あまりにも当たり前な要素だ。
だけれども、棟方愛海の好きには、性的な意味の好きが含まれている。
人にとってそこは特定の自分が決めた相手との合意があって初めて至れる行為と、今の日本の公序良俗が決めているのだ。
そうでありつつ、棟方愛海にとっての最難関のお山とは「「ありがとうー!」の意味に近い「好き!」であって恋愛の「好き」とは違う」と「同じこと」だと語っている。
彼女には、恋愛関係を結んだその先にある性行為の一環として胸を触るべきである、というような、僕みたいな人間が思うちっぽけな倫理観はない。
ただ、そこにある、お山を触りたいだけなのだ。
大きい。
ただただ、大きい。
僕のちっぽけな欲とは格が違う。
本当に大きい。
僕は、他人と仲良くできた試しがない。
根本的に自分みたいな人間を誰かが好きになるわけがない、と思っている。
僕の中に強くあるのだ、僕みたいな人間を好きになる人はいないと。
性行為はその先にある行為なのだから、僕には一生縁のない行為なのだと。
(ソープに行け的な話は全く意味が違うし、行ったことはある、そういう話を今していない)
そして、そんな自分が誰かに好意を向けることもまた、おこがましいとしか思えない。
僕が誰かを好きになるということは、その誰かにとって不快で気持ち悪くて、犯罪なのだ。
それでありながら、僕は性的にムラムラすれば、風俗に行くこともある。
イライラをムラムラに変えては、女性がひどい目にあうポルノを楽しむ日もある。
これが矛盾でなければなんなんだ。
そうして、そうさせる僕の中の男性性ともいうべき忌むべき概念が心底嫌いだ。
けれども、それはもう分かち難く僕の中に根付いている。
おっぱいを触りたいなあ、と思ったら、触らせてくださいと交渉する。
そうしたときに、自分が嫌われたらどうしようなんて、うじうじと悩まない。
否定されたら否定されたで、それだけの話と割り切っている。(ように見える、本当はどうかはわからない)
とても、羨ましくて、とても眩しく見える。
僕は、そうやって、他人を好きだと言えない。
そういうことで、その誰かの気持ちを暗くさせてしまうとしか思えないから。
そんな彼女が歌う、おねシンの「心にシンデレラ、私だけじゃ始まんない」はひどく重く聞こえる。
棟方愛海がただ一人で無人島に漂流したとき、そこにいるのは棟方愛海だろうか?
究極的に言えば、それは違うナニカになると僕は思っている。
棟方愛海は、自分とアイドル、自分とアシスタント、自分とファン、自分とプロデューサー。
島村卯月が世界最後の人間になっても、彼女が笑顔でいれば、それは島村卯月だ。
渋谷凛が世界最後の人間になっても、彼女が蒼ければ、それは渋谷凛だ。
本田未央が世界最後の人間になっても、彼女が三つ星ならば、それは本田未央だ。
だけれども、棟方愛海は違う。
棟方愛海が最後の一人になったら、それはもう棟方愛海じゃない。
最後の一人になって「お山をもう登れないこと」を嘆く棟方愛海は、もうそのイデアを喪失している。
だから「私だけじゃ始まんない」のだ。
断じておきたいが、これは、一人じゃ輝けないといっているんじゃない。
愛海のその、人を好きな様に僕は惹かれているといっているんだ。
僕は、性欲が嫌いだった。
こんな欲で誰かを不幸にするぐらいなら、どこかに消え失せて欲しかった。
だから、女性もこのような欲を抱くことがある、そしてそれをどこか身勝手に露呈することもある、ことを例えそれが創作物の上だとはいえ、自由にしている彼女の様がとても魅力的だった。
自分のように、内心にこのような欲を抱えることを恥じたり悩んだりしない様が魅力的なんだ。
そして彼女個人であって、その主語をそれ以上に大きくしては、絶対にいけないのだけれど。
そう、この主語は大きくならない。
もし、僕が女性なら、この主語を二つに増やせられる可能性があった。
僕は汚らわしい男だから。
彼女に寄り添って、嬉しいことを掛け算して、辛いことを割り算することもできないから。
彼女を否定する言葉に「いやでも実際私は女だけど、女性の胸を触りとと思うよ」と彼女を支えることすらもできない。
僕が汚らわしい男だから。
好きなんです。
好きでいる間だけは、眩しいから自分の中の気持ち悪いのが見えなくなって、ただただ嬉しい気持ちでいっぱいになります。