はてなキーワード: 製品とは
勿論現状はそうなっているし、これからもそうあるべきだと思っている。
産みたい人だけが産み育てればいいし、その結果社会自体が立ち行かなくなったり滅びるとしても、それは仕方のないことだろう。
少子化対策は存分にやればよい。その上で出生数が上向けば、社会にとっては万々歳だし、大した効果がなくてもそこはそれ。人間の自由と尊厳を尊重した結果滅びても悔やむ必要は何もない。
管理された家畜としての生ではなく、自由な人間としての死を選ぶ。多分みんなそう思ってるから、先進諸国は軒並少子化なんだろう。
人間の『自由』は、こと気候変動対策を始めとした環境問題に対しては適用されないらしい。猫も杓子も環境配慮にSDGs。いやそれ自体は別に良い。何たって人間は自由だからね。生きたいと思うのもまた人間らしさなんだろう。
問題は環境問題への対応が、半ば強制力を伴って実行されようとしている点だ。化石燃料メインで作られた製品の不買だとか、石油関連会社をデモで封鎖だとかの動きが世界的に起こっているらしい。
要は環境に配慮しない者を、社会の爪弾き者にしようという風潮である。
少子化問題では許される自由が、環境問題では許されないのは何故か。(と言うよりは、少子化問題での禁じ手が何故環境問題では許されるのか)
少子化問題も環境問題も、そのまま進めば現状の社会の維持が難しくなる、という点では同じ様な問題に思える。
少子化への対策として、"いい歳して子供を持たない者を社会の爪弾き者として扱う"みたいな政策をとった国ってあるのだろうか?(ネット上ではそういった意見も見たことないではないけど)
大体は子育て支援の拡充とか、税制優遇とか、子供を『持つ者』への優遇措置が主だと思うんだけど。
環境対策もそういう"アメ"メインの政策に出来ないんだろうか?
河野太郎が「原発再稼働はある程度必要だ」と言ったことが話題ですな。
まず前提として、わかりやすくするために「大筋はあっているけれど細かい点は議論が必要」という論調にするね。
そうしないと色んな主張が飛び交って議論が始まって主題が吹っ飛んでしまうから大体こんなもんだぞって程度にとどめておいて、細かい点は各々好きに考えろって感じでお願い。
んじゃいってみようか。
もっとも意識してもらいたいことなんだけど「我が国は困窮すると戦争しがちである」んだよなぁ悲しいことに。
マジでこれ義務教育レベルの話なんだけどさ、江戸幕府が倒幕されてしまう前後で日本にはどんな事が起きただろうか?
まぁ簡単に言えば外国勢力が日本(というか東アジア)に旨味を覚えてしまい、自分たち外国勢力の影響下圏へ置こうとする動きを察知して内戦して倒幕し対外戦争の準備を始めたんだね。
まぁもしかしたらこの「日本国の正史」に違和感を得てる連中も居るかも知れないけど、一応コレは「日本国の正史」だし、たいていこんな感じの解釈が一般的だから異論は他でやってくれ。
ていうか内戦を例にすると戦国時代や各年代の幕府、政権が倒れたときも日本国は困窮していて、それが開戦のきっかけになっているんだけど細かいことはどうでも良いか。
んで、日本がボロっクソにやられた太平洋戦争なんだけれどもコレも日本は困窮していたよね?いわゆる「ABCD包囲網」ってやつの影響で輸出入が滞っちゃって経済的に大打撃を受けたばかりか頼みの綱の継戦能力さえ失われる懸念が、何なら日本国が体をなすための国民を維持することすら難しくなりそうだったわけだ。
そこで日本は明らかに工作していたアメリカへ宣戦布告しちゃうんだね。島国だからね貿易しないと好景気で膨れ上がった国民と企業の数々を維持できないのよ。
その当時、まぁ今もだけど、非常に重要だったのは石油。石油はエネルギー密度が非常に高くて(江戸時代と比較して)高度に発展した製造技術を支えるには石油はメチャクチャ重要な輸入品目だったんだ。
石油は燃やしてエネルギーを取り出す他にも残り滓すらアスファルトとして利用できるし、今の我々現代人もアスファルトの恩恵は凄く受けているよね。プラスチックだって石油が元だし、今人気の不織布マスクだって素材はプラスチック、つまり原料は石油だ。
まぁ流石にその当時は現代ほど石油を広く活用できていたわけではないが、製造にも輸送にも石油は非常に重要なものであってのは想像に難しくないだろう。
外国勢力に怯えていたのが嘘のように高度に発展した日本国の生命線だったんだ石油は。
その生命線である石油を外国勢力によって抑えられてしまった日本は外国勢力を打倒して奪うという選択肢を取らざる得なかったんだな。だって他の選択肢はほぼ間違いなく「今の日本」には繋がることはない選択肢であったろうから。
さて変わって現代に進めるけれど、過去から現在にかけて日本の主要領土は日本列島であることは変わっていない。
現代日本は第二次世界大戦当時から比較しても更に高度な発展を遂げており、輸出入へ頼らざる得ない立地条件であるのは言うまでもないね?
しかし世界経済の動向は第二次世界大戦当時と比較して大きく変わっている。
なんと「石油使いすぎたら自然破壊へ繋がるし石油使用量を抑制すべきじゃね?」って議論が本格化してしまっているのだ!
特にEUは先鋭的で「一定以上の石油使用量(≒Co2排出量)を超えた製品はEUで販売させません!」っていう規制(CAFE規制)を設けちゃった。
これには各国大慌て、だって現在の世界経済を支えているのはほぼ間違いなく石油で、石油があったからこそ経済発展したし、高度な製品も生み出せてこられたんだからね。
ただこれには抜け道があって、いわゆる「再生可能エネルギー」で補完した部分はノーカウント扱いで良いよって言ってくれてる。再生可能エネルギーって水力とか風力とか原子力とかそういうエネルギー源ね。
じゃあ石油から再生可能エネルギーへ乗り換えたら良いじゃんって思うでしょ?
実は再生可能エネルギーでもっともエネルギー密度が高いのって原子力なんだよねぇ。そして日本は東日本大震災で多くの原子力発電所を停止していたり、制限的な稼働をせざる得なくなっているというのが現状だ。
さてまとめてみよう。
というわけで河野太郎が「原発再稼働はある程度必要だ」と言ったのは何も勢いとかノリで言ったわけでなくて、河野太郎は色んな評価があるけれども一応は日本の政治家なので日本経済を気にしてこういう発言してるわけですわ。あと「困窮するくらいなら原因を打倒したら良いんじゃね?」って選択肢が挙がらないようにする意味合いもあると思うのよね。
ドイツのビスマルクさんも「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」って言ってるし。まぁビスマルクさんの後輩がメッチャ迷惑かけてきてんだけどねw
とまぁこんな感じですよ。
あぁそうそう原発反対派の皆さんに言いたいけど別にこのエントリは原発再稼働の支持を広める目的で書いたわけでなくて、河野太郎がなんでそんなことぶっこんできたのかをわかりやすく解説するために書いただけだからカッカッしないでほしい。
個人的には原発に変わる安心安全な高密度エネルギー源があるならそっちでも良いなぁと思ってるよ。
人類は小規模で、ほぼ自給自足し、互いに敵対する部族で進化してきたので、好意の追跡の必要性を減らし、これまで検討してきた他の人類の富の移転制度を可能にするために、収集品を使用することは、人類の種の期間のほとんどにおいて、物々交換の規模の問題よりもはるかに重要であった。実際、収集品は互恵的利他主義の仕組みを根本的に改善し、他の種にはない方法で人間が協力することを可能にした。他の種では、記憶の信頼性が低いために互恵的利他主義は大きく制限されている。他の種には、大きな脳を持ち、自分で家を建て、道具を作って使うものもいる。しかし、互恵的利他主義の仕組みをこれほどまでに改善した種は他にない。その証拠に、この新しい開発は紀元前4万年には成熟していた。
メンガーはこの最初の貨幣を「中間商品」と呼び、本稿では収集品と呼んでいる。刃物のように他の用途にも使える道具は、収集品としても使える。しかし、富の移転を伴う制度が価値を持つようになると、収集品はその収集性のためだけに製造されるようになる。その性質とは何か。ある商品が価値ある収集品として選ばれるためには、収集品としての価値が低い製品と比較して、少なくとも次のような望ましい性質を持っていなければならない:
1. 偶発的な損失や盗難からより安全であること。歴史上ほとんどの場合、これは持ち運びが可能で隠しやすいことを意味していた。
2. 価値を偽造することが難しい。これらの重要な部分は、以下に説明する理由から、偽造できないほど高価であり、それゆえに価値があると考えられる製品である。
3. この価値は、単純な観察や測定によって、より正確に近似していた。これらの観測は、より信頼性の高い完全性を持ちながら、より低コストであっただろう。
世界中の人間は、これらの特性をよりよく満たすアイテムを集めたいという強い動機を持っている。この動機の中には、おそらく遺伝的に進化した本能が含まれている。このような物は、(特に優れた明確かつ近接した理由ではなく)集めることを純粋に楽しむために集められ、そのような楽しみは人類の文化においてほぼ普遍的である。直近の動機の1つは装飾である。アリゾナ大学の考古学者であるメアリー・C・スタイナー博士によると、"装飾は現代人の採集者の間では普遍的なものである "という。進化心理学者にとって、このように、自然淘汰という観点からの最終的な説明はつくが、快楽以外の近親的な根拠がない行動は、遺伝的に進化した快楽が行動の動機になっているという有力な候補になる。例えば、このエッセイの推論が正しければ、希少品や美術品、特に宝石を集めるという人間の本能がそうである。
(2)については、もう少し説明が必要である。コストが高いという理由で商品を生産することは、一見すると非常に無駄なことのように思える。しかし、永遠にコストのかからない商品は、有益な富の移転を可能にすることで、繰り返し価値を高めていく。取引が可能になったり、コストが低くなったりするたびに、コストはより多く回収される。最初は全くの無駄であったコストは、多くの取引で償却されていく。貴金属の貨幣価値は、この原理に基づいている。また、収集品は、希少性が高いほど、また、その希少性が偽造できないほど、価値が高くなる。また、芸術品のように、証明可能な技術や独自の人間の労働力が製品に加えられている場合にも適用される。
我々は、この3つの要素を兼ね備えた製品を発見したり、作ったりしたことはない。アートや収集品(この言葉は現代文化で使われている意味ではなく、この論文で使われている技術的な意味で)は、(2)を最適化するが、(1)や(3)は最適化しない。一般的なビーズは(1)を満たしているが、(2)や(3)は満たしていない。宝石は、最初は最も美しく、あまり一般的ではない貝殻で作られるが、最終的には多くの文化において貴金属で作られるため、3つの特性をよりよく満たすことができる。偶然ではないが、貴金属の宝飾品は鎖や指輪のような細い形をしていることが多く、無作為に選んだ場所で安価に鑑定することができた。貨幣はさらに改良されたもので、小さな標準的な重さと商標を鑑定の代わりにすることで、貴金属を使った小さな取引のコストを大幅に削減した。貨幣は、収集品の進化のほんの一歩に過ぎない。
旧石器人が作っていたモバイルアート(小さな置物など)も、この特徴によくマッチしている。実際、旧石器人が作ったものの中で、実用性がなく、(1)〜(3)の特徴を備えていないものはほとんどない。
ホモ・サピエンスには、役に立たない、あるいは少なくとも使用されていない火打石の不可解な例がたくさんある。我々はクロヴィス族の使えない火打ち石について述べた。Culiffeは、ヨーロッパの中石器時代に発見された数百個の火打ち石について述べているが、これらの火打ち石は丁寧に作られたものであるが、顕微鏡写真の分析により、切断には使われなかったことが明らかになっている。
フリントは、宝石のような特殊な目的を持った収集品に先立つ、最初の収集品である可能性が高いのである。確かに、最初の火打石のコレクターは、刃物としての実用性を求めて作られたはずだ。富の伝達手段としてのフリントの付加価値は、本稿で紹介する制度を開花させるための偶然の副次的効果であった。このような制度は、特殊な目的の収集品を製造する動機となったであろう。最初は切削工具として実際に使用する必要のないフリントであり、その後、ホモ・サピエンス・サピエンスが開発した他の様々な種類の収集品である。
新石器時代、中近東やヨーロッパの多くの地域では、一部のジュエリーが標準化され、美しさよりも標準的なサイズやアセイ性が重視されるようになった。商業地域では、このような宝石の量が伝統的な宝石の量を大きく上回ることもあった。これは宝飾品と貨幣の中間的な段階であり、収集品の一部が貨幣的な形態をとるようになったのである。紀元前700年頃、リディアンの王たちは前述のようにコインを発行し始めた。標準的な重さの貴金属は、市場で、賃金労働者が、あるいは徴税者が、ランダムに選ばれた場所でコイル状のワイヤーを切断する代わりに、商標、すなわち造幣局のブランドを信頼して「評価」することができるようになったのである。
収集品の属性が、貴金属やコイン、そしてほとんどの非現金通貨を支えてきた準備商品と共通しているのは偶然ではない。本来の貨幣は、これらの特性を、人類の先史時代のほとんど全ての時期に使用されていた収集品よりも純粋な形で実現したものである。
20世紀の新機軸は、政府による不換紙幣の発行である。(「フィアット」とは、それまでの金や銀をベースにした通貨のように、基軸商品に裏付けられていないことを意味する。) 不換紙幣は、交換手段としては一般的に優れているが、価値の保存手段としては非常に劣ることが証明されている。インフレで多くの「たくわえ」が破壊された。前述の収集品に共通する希少品やユニークなアート作品の市場が、前世紀にルネッサンスを迎えたのは偶然ではない。我々の最も進んだハイテク市場の一つであるeBayは、これらの原始的な経済性を持つ物を中心にしている。進化の過程で重要な役割を果たしていた頃に比べて、我々の富に占める収集品の割合が減ったとしても、収集品の市場はかつてないほど大きくなっている。収集品は、我々の本能的な欲求を満たすと同時に、安全な価値の貯蔵庫としての古代の役割を果たしている。
一方的なものも相互的なものも、自発的なものも強制的なものも、多くの種類の富の移転には取引コストがかかる。自発的な取引では、双方が利益を得る。真に無償の贈り物は、通常、親族の利他主義の行為である。このような取引は、何かを作るという物理的な行為と同様に、一方または両方の当事者に価値を生み出す。貢物は勝者の利益になり、損害賠償の判決は被害者の利益になるだけでなく、さらなる暴力を防ぐことができる。遺産相続は、人間が次世代の親族に財産を渡す最初の動物となった。これらの家宝は、商品の取引の担保や代金、飢えをしのぐための食料、あるいは結婚の際の花嫁代金などに使われた。このような移転を行うためのコスト(取引コスト)が十分に低いかどうかは別問題である。このような取引を初めて可能にしたのが、収集品である。
ほとんどの動物が非親族との遅延互恵的な協力関係を築けないという「囚人のジレンマ」を解決するために、収集品は我々の大きな脳と言語を増強したのである。それは、どの人が何をしたかというエラーと、その行為によって生じた価値や損害を評価する際のエラーである。一族(部族のサブセットを形成する、小さくてすぐに地元に帰れる親族グループ、または大家族)の中では、我々の大きな脳はこれらの誤差を最小限に抑えることができたので、世間の評判と強制的な制裁が、相手が将来協力したり欠陥を犯したりする能力によって提供される限定的な動機に取って代わり、遅延した互恵関係の主な執行者となったのである。ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスもホモ・サピエンス・サピエンスも、同じように脳のサイズが大きかったので、地元の一族の全員が、他の地元の一族の全員の好意を把握していた可能性が高い。小さなローカルな親族グループの中では、収集品を取引に使うことは最小限だったかもしれない。部族間では、好意の追跡と収集品の両方が使用された。部族間では、評判に代わって収集品が完全に互恵関係の執行者となったが、暴力は依然として権利の執行に大きな役割を果たしていたし、高い取引コストのためにほとんどの種類の取引ができなかった。
一般的な富の貯蔵と富の移転手段として有用であるためには、収集品は、少なくとも1つの制度に組み込まれ、発見や製造のコストが複数の取引で償却されるような閉ループのサイクルを持つ必要があった。さらに、収集品は、単なる美しい装飾品ではない。身につけられる安心感、隠したり埋めたりするためのコンパクトさ、変えられない高価さなど、一定の機能性を持っていなければならない。そして、その高価さは、現代のコレクターが収集品を鑑定するのと同じように、譲渡を受けた人が確認できるものでなければならなかった。
本稿で示した理論は、これらの文化で交換される「貴重品」にこれらの特徴があるかどうか(あるいはないかどうか)を調べ、これらの貴重品が移動するサイクルから得られる経済的利益を調べ、(現代を含む)さまざまな文化でこれらの特徴を持つ物に対する嗜好を観察することによって、検証することができる。
前例のない協力の技術により、人類は地球上で最も恐ろしい捕食者となっていた。彼らは移り変わる気候に適応したが、一方で、アメリカ、ヨーロッパ、アジアでは、狩猟や気候の変化によって、何十もの大きな群れの獲物が絶滅に追い込まれたのである。現在、地球上のほとんどの大型動物は投射物を恐れているが、これはたった1種の捕食者に適応したものである。また、狩猟よりも採集を中心とした文化も大きな恩恵を受けた。ホモ・サピエンス・サピエンスは、骨が弱くなり、脳の大きさが変わらないにもかかわらず、地球上のより多くの地域に、ネアンデルタール人の10倍以上の人口密度で住むことができた。この増加の多くは、効果的な富の移転と言語によって可能になった社会制度、すなわち貿易、結婚、相続、貢ぎ物、担保、そして復讐のサイクルを弱めるために損害を評価する能力に起因していると考えられる。
原始時代の貨幣は、我々が知っているような現代の貨幣ではなかった。現代のお金の機能の一部を担っていたが、その形は家宝や宝石などの収集品であった。これらの使用は非常に古くから行われており、収集品を探求し、収集し、作り、展示し、鑑定し、大切に保管し、売買するという欲求は人間の普遍的なものであり、ある意味では本能的なものである。このような人間の欲望の集合体を「収集本能」と呼ぶことにする。多くの古代人は、貝や歯などの原材料を探したり、収集品を製造したりすることにかなりの時間を費やしていたし、多くの現代人は、趣味としてこれらの活動にかなりの資源を費やしている。その結果、具体的な実用性とは異なる、初めての確実な価値の具現化、そして今日の貨幣の先駆けとなったのである。
鑑定や価値測定の問題は非常に幅広いものである。人間にとっては、好意の返礼、物々交換、貨幣、信用、雇用、市場での購入など、あらゆる交換システムに関わってくる。また、強要、課税、貢ぎ物、司法上の刑罰の設定などにおいても重要である。動物の互恵的利他主義においても重要である。例えば、サルが背中を掻くために果物を交換することを考えてみよう。相互に毛づくろいをすることで、個人では見えないし届かないダニやノミを取り除くことができる。しかし、どれだけの毛づくろいとどれだけの果物を交換すれば、お互いに「公平」だと思える、つまり離反しないお返しになるのであろうか?20分間のバックスクラッチングの価値は、果物1個分であろうか、それとも2個分であろうか?また、どのくらいの大きさの果物であろうか?
血と血を交換するという単純なケースでさえ、見かけよりも複雑なのだ。コウモリは、受け取った血の価値をどのように見積もっているのだろうか。重さ、大きさ、味、空腹を満たす能力、その他の変数で価値を見積もるのだろうか?それと同じように、「あなたが私の背中を掻いてくれたら、私があなたの背中を掻く」という単純な猿の交換でも、測定は複雑になる。
大多数の潜在的な交換において、動物にとって測定問題は難題である。顔を覚えてそれを好意に結びつけるという簡単な問題以上に、そもそも好意の価値の推定値について双方が十分な精度で合意できるかどうかが、動物の相互的利他主義の主な障壁となっているのではないだろうか。
現存する旧石器時代初期の人類の石器は、我々のような大きさの脳には複雑すぎる面がある。誰が誰のためにどのような品質の道具を作ったのか、したがって誰が誰に何を借りているのかなど、彼らに関わる好意を記録しておくことは、一族の境界線の外ではあまりにも困難であっただろう。それに加えて、おそらく残っていない多種多様な有機物や、身だしなみなどの刹那的なサービスなどがあるであろう。これらの物品のほんの一部でも譲渡され、サービスが行われた後には、我々の脳は膨れ上がっていて、誰が誰に何を借りているのかを把握することはできなかった。今日、我々はこれらのことをよく書き留めているが、旧石器人には文字がなかった。考古学的な記録が示すように、氏族や部族間での協力が実際に行われていたとすれば、問題はさらに悪化する。狩猟採集民の部族は通常、非常に敵対的で相互に不信感を抱いていたからである。
貝がお金になる、毛皮がお金になる、金がお金になるなど、お金が法定通貨法に基づいて政府が発行した硬貨や紙幣だけでなく、さまざまなものであるとすれば、そもそもお金とは何なのであろうか。また、飢餓の危機に瀕していた人類は、狩猟や採集にもっと時間を割くことができたはずなのに、なぜネックレスを作って楽しんでいたのであろうか。19世紀の経済学者、カール・メンガーは、十分な量の商品交換から自然に、そして必然的に貨幣が進化することを初めて説明した。現代の経済用語で言えば、メンガーの話と似ている。
物々交換には利害関係の一致が必要である。アリスはピーカンを栽培してリンゴを欲しがり、ボブはリンゴを栽培してピーカンを欲しがる。たまたま果樹園が近くにあり、たまたまアリスはボブを信頼していて、ピーカンの収穫時期とリンゴの収穫時期の間に待つことができたとする。これらの条件がすべて満たされていれば、物々交換はうまくいく。しかし、アリスがオレンジを栽培していた場合、ボブがピーカンだけでなくオレンジも欲しかったとしても、運が悪かったとしか言いようがない - オレンジとリンゴは同じ気候では両方ともうまく育たない。また、アリスとボブがお互いを信頼しておらず、仲介してくれる第三者を見つけられなかったり、契約を履行できなかったりした場合も、運が悪いと言わざるを得ない。
さらに複雑な事態も起こりえる。アリスとボブは、将来的にピーカンやリンゴを売るという約束を完全に明確にすることはできない。なぜなら、他の可能性として、アリスは最高のピーカンを独り占めし(ボブは最高のリンゴを独り占めし)、他の人には残りかすを与えることができるからである。2つの異なる種類の商品の質と量を比較することは、一方の商品の状態が記憶でしかない場合には、より困難になる。さらに、どちらも凶作などの出来事を予測することはできない。これらの複雑さは、アリスとボブが、分離した互恵的利他主義が本当に互恵的であったかどうかを判断する問題を大きくしている。このような複雑な問題は、最初の取引と互恵的な取引の間の時間的な間隔や不確実性が大きいほど大きくなる。
関連する問題として、エンジニアが言うように、物々交換は「スケールしない」ということがある。物々交換は、少量であればうまく機能するが、大量になるとコストがどんどん高くなり、労力に見合わないほどのコストになってしまう。取引される商品やサービスがn個ある場合、物々交換市場ではn^2個の価格が必要になる。5つの商品であれば25個の価格が必要となり、悪くはないが、500の商品であれば25万個の価格が必要となり、一人の人間が管理するには現実的ではない。貨幣を使えば、500の製品に500の価格というように、n個の価格しかない。この目的のためのお金は、交換媒体としても、単に価値の基準としても機能する。(後者の問題は、暗黙の保険「契約」とともに、競争市場が存在しなかったことから、価格が近しい交渉ではなく、長い間進化してきた慣習によって設定されることが多かった理由でもある)。)
物々交換に必要なのは、言い換えれば、供給やスキル、好み、時間、そして低い取引コストの偶然の一致である。そのコストは、取引される商品の数の増加よりもはるかに速く増加する。物々交換は、確かに全く取引をしないよりははるかに効果的であり、広く実践されてきた。しかし、お金を使った貿易に比べれば、その効果はかなり限定的である。
原始的な貨幣は、大規模な貿易ネットワークよりもずっと前から存在していた。貨幣には、もっと早くから重要な用途があった。貨幣は、信用の必要性を大幅に減少させることで、小規模な物々交換ネットワークの働きを大きく改善した。好みが同時に一致することは、長い時間の間に一致することよりもはるかに稀だった。お金があれば、アリスは今月のブルーベリーの熟度に合わせてボブのために採集し、ボブは半年後のマンモスの群れの移動に合わせてアリスのために狩りをすることができ、誰が誰に借金をしているかを把握したり、相手の記憶や誠実さを信用したりする必要はない。母親の子育てへのより大きな投資を、偽造できない貴重品の贈与で担保することができる。貨幣は、分業の問題を囚人のジレンマから単純な交換に変えてくれる。
多くの狩猟採集民が使用していた原始的な貨幣は、現代の貨幣とは全く異なる姿をしており、現代文化の中では異なる役割を果たしており、おそらく後述する小さな交易ネットワークやその他の地域的な制度に限定された機能を持っていた。私はこのような貨幣を、本来の貨幣ではなく、収集品と呼ぶことにする。人類学の文献では、このようなものを「お金」と呼んでいるが、これは政府が印刷した紙幣や硬貨よりも広い範囲で定義されているが、このエッセイで使う「collectible」よりも狭い範囲で定義されている。また、曖昧な「valuable」という言葉もあるが、これはこのエッセイの意味でのcollectiblesではないものを指すこともある。原始貨幣の名称として他の可能性がある中で、コレクティブルという言葉を選んだ理由は明らかであろう。コレクティブルは非常に特定の属性を持っていた。それらは単に象徴的なものではなかった。コレクティブルとして評価される具体的な物や属性は、文化によって異なる可能性があるが、恣意的なものではない。収集品の第一の、そして究極の進化的機能は、富を貯蔵し、移転するための媒体であった。ワンパムのようなある種の収集品は、経済的・社会的条件が貿易を促進するところでは、現代人が知っているような貨幣として非常に機能的である。私は、コイン時代以前の富の移動手段を議論する際に、「原始的な貨幣」や「原始的な貨幣」という言葉を、「収集品」と同じように使うことがある。
人々、一族、あるいは部族が自発的に貿易を行うのは、双方が何かを得ることができると信じているからである。価値についての彼らの信念は、例えばその商品やサービスについての経験を積むなどして、取引後に変わることがある。交易の時点での彼らの信念は、価値についてはある程度不正確であるものの、利益の存在については通常正しいものである。特に初期の部族間貿易では、高額商品に限られていたため、各当事者が自分の信念を正しく理解しようとする強い動機があった。そのため、貿易はほとんどの場合、双方に利益をもたらした。貿易は、何かを作るという物理的な行為と同様に、価値を生み出した。
個人、一族、部族はそれぞれ好みが異なり、これらの好みを満たす能力も異なり、これらの能力や好み、そしてそれらの結果として得られる物について持っている信念も異なるため、貿易から得られる利益は常にある。このような取引を行うためのコスト(取引コスト)が、取引を価値あるものにするのに十分低いかどうかは別問題である。我々の文明では、人類の歴史上の大半の時代よりもはるかに多くの取引が可能である。しかし、後述するように、いくつかの種類の取引は、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生した頃まで、一部の文化にとっては取引コスト以上の価値があった。
取引コストが低いことで利益を得ることができるのは、任意のスポット取引だけではない。これが、貨幣の起源と進化を理解する鍵となる。また、家宝を担保にすることで、取引の遅延による信用リスクを回避することもできた。勝った部族が負けた部族から貢ぎ物を取ることは、勝った部族にとって大きな利益となった。勝利者の貢ぎ物を集める能力は、貿易と同じ種類の取引コスト技術の恩恵を受けていたのである。慣習や法律に反する行為に対する損害賠償を請求する原告や、結婚を斡旋する親族集団も同様である。また、親族は、タイムリーで平和的な相続による富の贈与の恩恵を受けていた。現代文化では貿易の世界から切り離されている人間の主要なライフイベントも、取引コストを下げる技術によって、貿易に劣らず、時にはそれ以上の恩恵を受けていた。これらの技術のうち、原始的な貨幣(収集品)よりも効果的で重要なものはなく、また初期のものでもなかった。
H.サピエンス・サピエンスがH.サピエンス・ネアンデルターレンシスを駆逐すると、人口爆発が起こった。紀元前4万年から3万5千年の間にヨーロッパを占領した証拠から、サピエンス・サピエンスはネアンデルターレンシスに比べて環境収容力を10倍にしたこと、つまり人口密度が10倍になったことがわかる。それだけではなく、彼らは世界初の芸術を創造する余裕があった。例えば、素晴らしい洞窟壁画、多種多様で精巧な置物、そしてもちろん貝殻、歯、卵殻を使った素晴らしいペンダントやネックレスなどである。
これらは単なる装飾品ではない。収集品や、その時代に進歩したと思われる言語によって可能になった、新しい効果的な富の移動は、新しい文化的制度を生み出し、環境収容力の増加に主導的な役割を果たしたと考えられる。
新参者であるH.サピエンス・サピエンスは、ネアンデルタール人と同じ大きさの脳、弱い骨、小さい筋肉を持っていた。狩りの道具はより洗練されていたが、紀元前35,000年の時点では基本的に同じ道具であり、2倍の効果も10倍の効果もなかったであろう。最大の違いは、収集品によってより効果的に、あるいは可能になった富の移動だったかもしれない。H.サピエンス・サピエンスは、貝殻を集めて宝石にしたり、見せびらかしたり、交換したりすることに喜びを感じていた。ネアンデルターレンシスはそうではなかった。これと同じことが、何万年も前にセレンゲティで起きていたのである。
ここでは、コレクションアイテムが、自発的な無償の相続、自発的な相互取引や結婚、法的判断や貢ぎ物などの非自発的な移転など、それぞれの種類の富の移転において、どのように取引コストを下げたかを説明する。
これらの種類の価値移転はすべて、人類の先史時代の多くの文化で行われており、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生したときから行われていたと考えられる。このような人生の一大イベントである富の移転によって、一方または両方の当事者が得られる利益は非常に大きく、高い取引コストにもかかわらず発生した。現代の貨幣と比較して、原始的な貨幣の速度は非常に低く、平均的な個人の一生の間にほんの数回しか譲渡されないかもしれない。しかし、今日では家宝と呼ばれるような耐久性のある収集品は、何世代にもわたって持ち続けることができ、譲渡のたびに相当な価値を付加することができたし、しばしば譲渡が可能になることもあった。そのため、部族は、宝石や収集品の原料を製造したり、探索したりするという、一見すると軽薄な作業に多くの時間を費やしていた。
富の移転が重要な要素となっている制度では、次のような質問をする:
1. 事象、移転された財の供給、移転された財の需要の間には、時間的にどのような偶然の一致が必要だったか?偶然の一致があり得ないことは、富の移転にとってどれほどあり得ないことか、あるいはどれほど高い障壁になるか?
2. 富の移転は、その制度だけで収集品の閉ループを形成するのか、それとも循環サイクルを完成させるために他の富の移転制度が必要なのか。貨幣の流通の実際のフローグラフを真剣に考えることは、貨幣の出現を理解する上で非常に重要である。多種多様な取引の間で一般的に流通することは、人類の先史時代のほとんどの期間、存在しなかったし、これからも存在しないであろう。完結したループが繰り返されなければ、収集品は循環せず、価値がなくなってしまう。作る価値のある収集品は、そのコストを償却するのに十分な取引で価値を付加しなければならない。
おえかきちょう、または、らくがきちょうとは、幼稚園児や小学生、または絵描きの人がよく使うあのB5サイズ程度の無地の紙のことだ。
だいたい文房具屋で100枚で110円(税込)で買える。Amazonなら80枚110円ほどだ。
結論から言うと、あれは買うべきである。なぜ買うべきの根拠を説明していきたいと思う。
そもそも紙媒体の良さとは、ペンでサクッとなんでも描けるところにある。よくわからないオリジナルな記号や、複雑怪奇なダイアグラムをすぐさま描くことができる。
もちろん、ペンタブやiPadでも同じように描くことはできるが、ペンタブやiPadに無い利点がある。まず、物理ペンは圧倒的に描けるスピードが速い。
文字に関してはタイピングの方が速い人も多いだろうが、別に真円である必要のないただの丸や四角形を書くときは、紙の方が速いものだ。「A→B→C」という図を描いたあと、そのBに別方向からDを追加して…のような図をササッと描きたいときは、紙が圧倒的な速度を誇る。ものの5秒で終わってしまう。起動時間などもない。ペンと紙があればいい。
また、紙はマルチディスプレイ化しやすい。iPadは1台が高価なので、3台も持って同時に使うことは難しいはずだ。充電も3倍しないといけない。一方で、紙は3枚並べるだけでいい。この紙とその紙とあの紙を机の上に並べるだけでディスプレイと化す。費用はなんと3円だ。
ちょっとしたToDoリストや、何かのプロトタイプ用の図面になるのである。
もちろん、正式な図面の作成には紙は不向きだ。紙媒体の苦手な点は上書き保存・状態の頻繁な変化なので、こうしたデータを保存したい場合は紙媒体でない方がいい。また、人とデータを共有したい場合は紙媒体は不向きである。これらの話は、「電子媒体ではなく紙媒体を使え」と言っているわけではなく、あくまでプロトタイプ的使用、メモ的使用の段階では、紙媒体は相当な利便性を持つということだ。紙は遅延しない。
紙は破れる。
紙は破れるのである。
本のしおりにすることができる。「SOS」と書いて窓に貼り付けることもできる。
「入るな!」と書いて自分の部屋のドアに貼り付けることもできる。紙をぐしゃぐしゃに丸めて投げて「これが放物運動だよ」と説明することもできるし、紙を何回折りたたんだら月まで届くかという説明にも使える。
だいぶ薄くなったおえかきちょうはうちわにもなる。
まさに万能素材。
電子媒体はこうはいかない。iPadでハエを叩いたりはしない。精密製品であり高価なことが目的外利用を妨げている。
そのため、即使い、即破り、ガンガン書いていくスタイルにはかなり適している。
破りやすいことで、何枚でも並べることができる。マルチディスプレイができる。
賛否両論あると思うが、罫線は書く速度を500msほど遅延させるように思える。また、図を見たときに、罫線がノイズになってしまい、理解の妨げになる。
汎用性がとても高い。何にでも使えるので、ありとあらゆる「書く」というものに使うことができる。
科目別に何か紙を分けるなどということをする必要はない。仕分けはクリアファイルですればよく、最高速でペンと紙を用意して、とにかく思ったことを書くということができる。
メモ帳でも同じことができるが、メモ帳は何かをたくさん書くには余白が狭すぎることが多い。
買った瞬間に持ち運ぶことができ、使いたいときにすぐに開くことができる。
ルーズリーフや印刷用紙は、取り出す手間やケースに入れたり出したりする手間が大きい。おえかきちょうはそのまま出してそのまましまえばいい。
この点で、キャンパスノートやリングノートやレポート用紙の機能性を持つ。
100枚で100円という破格の安さのため、どれだけ使ってもそれほど大きな影響をもたらさない。
1日10枚使っても、1年で3650円である。1日に10枚使うとは相当な量だがそんなもんである。キャンパスノートはだいたい1枚あたりの単価が3円ぐらいであるが、おえかきちょうはとにかく安い。
安く頭の中を高速で整理できるなんてこんなに良いことはない。
キャンパスノートとほぼ同じレベルで、おえかきちょうは人気が高い。100均や文房具屋なら、誰かが買い占めていない限りほぼ売っているものだ。ネットでももちろん買える。
「アッ、しまった。紙がない」と思ったときに、すぐにスーパーなどに駆け込んでおえかきちょうを入手することは、おえかきちょう大好き人間なら誰もがやったことがあるだろう。
レア度が高い文房具ではこうはいかない。たとえば無印良品でしか売っていないような文房具は、今日今すぐ手に入れようと思ったとき、無印良品まで行かないと手に入らない。そしてそこで売り切れていたら、別の無印良品まで行かなければいけない。
おえかきちょうは、表紙がとても可愛らしい。
仕事用でも学習用でもなく、おえかきのために作られたものだからだ。
そのため、表紙を見るたびに「自分のしていることは究極おえかきと同じことなのだ」と少年少女の気持ちをもたらしてくれる。
常にボーイズビーアンビシャスを思い出させてくれるおえかきちょうに、買うたびワクワクさせてもらえるのだ。
おえかきちょうは、何も自分だけで使う必要はなく、家族で使うことができる。自分がおえかきちょうをストックしているだけで、家族全員がその利益を享受できるのだ。
自分だけでなく、家族全体におえかきちょうの効果をもたらすことができるという点はかなりの強みだ(まぁこれは別にほかの紙媒体でも同じだけど)
そもそも「絵を描く」ためのプラットフォームが家になければ、誰も絵を描くことはできない。iPadがあっても、家族全員に同じタイミングでiPadを配ることは難しい。
「そういえばおえかきするための紙がなんかたくさん家にあるな〜」という、紙に何か書くことへのハードルの低さが、家族への知識向上をもたらしてくれる。
おえかきちょうを買おう。そして紙を破りガンガン最高速で物を書くという作業を実感しよう。
おえかきちょうは1セット110円で買える。
新紙幣の話題でブコメでもTwitterでもよく見かけた「考え抜かれた結果なんだからこれでいいんだ」という意見にすごくモヤッとしている。
こういう人達が主張する"日本のデザインは一見地味で見栄えが悪いが実は考え抜かれた素晴らしいもの。一方で欧米のデザインは派手で一見美しいけど浮ついていて配慮が足りていないもの"って決めつけ、一体どんな根拠があって言ってるんだろう。見栄えもするし中身も考えられたものっていくらでも存在しているわけで、考え抜いたことがアウトプットのクオリティの言い訳になんてならないと思うんだけど。(そもそも考え抜かれてないからアウトプットで誰も感動させられないんだと思うし)
日本人の中にある「派手なものには大体中身がない、一見地味なものほど中身は優れている」信仰が怖い。こういう人たちってやたら「機能美」って言葉を使いながら欧米や中韓の製品をバカにしてるけど、そういう謎の信仰が日本のコンシューマー向け製品を壊滅させたことをもう少し自覚した方がいいと思うよ。
たとえば「トマトが嫌いだ」と公言している人がケチャップのかかったオムライスを食べているとする。
馬鹿はそこで「こいつには一貫性がない!」「トマトが嫌いだというのはその場凌ぎの嘘だった!」とか言い出すんだが、
普通に考えれば「つまりこの人は生のトマトの青臭さや独特の食感が嫌いなのだ」ということが分かるよな。
それは十分に一貫した態度なのだが、「間違い探し」に取り憑かれた人は「トマト(を用いた製品)に好意的かどうか」という単純化した構図しか見えなくなってるわけだ。
このあいだ「ブルーインパルスを見たい」と言っていた人が「ブルーインパルスを飛ばすのは適当なパフォーマンス」みたいなツイートをしてダブスタ扱いされていたが、
これも「ブルーインパルスに絡めて正負どちらの発言をしているか」という一軸でしか判断してないからダブスタに見えるだけで、
普通に考えれば「ブルーインパルスには好意的」「ブルーインパルスを飛ばすという適当なパフォーマンスをした政府には批判的」で何ら矛盾も破綻もないわけだ。
いま挙げた例はむしろ分かりやすいほうで、もっと「隠された大量の前提のもとで論理が一貫している」ということは世の中にいくらでもある。
しっかりしたスタンドに取り付けようとすると、取付金具が絶対にその窪みに入らない。
スペーサー挟んで長めのネジを用意しないと取り付けられない。
俺は届いたらすぐ使いたいんだよ!!!!
何mm窪んでるかは製品によってまちまちだし、取扱説明書にはそんな数字は書いてない。
新型コロナウイルスが蔓延して1年半が過ぎた。今日ワクチンを打ってきた。異物混入が騒がれている例の製品だが。腕は上げられるが、痛くなるのでやめておこうというレベル。まだ12時間くらいしか経過していないので何とも言えないが。
自分の好きな界隈が少しだけギスギスしているので、そのことを書いて風呂に入ろうと思う。
好きな界隈に入り浸って3年目。ファンクラブにも入るくらい好きだ。どうしても、イベントは対面が必要になってくることもあり、コロナになって活動が少し減っている。そんな中、最近イベントやるよというお知らせがなされた。自分は純粋に嬉しかったが、同時に不安もあった。SNSを開くと案の定というか賛否両論である。「ヤッター嬉しい」「この状況でやる?ありえない。」「待っていました絶対行きます」「ちょっと今回は厳しいかな…」まあこんな感じで、行く人行かない人で分かれた。そしてチケットの抽選でも少し分化した。行く人を非難する人、地方遠征までしっかりする人、当選したことを勝ち組と称し、マウントをとる人。地獄絵図である。
この状況を見て感じるのは「コロナさえなければなあ…」というありふれた感想である。好きなものは同じなのに、コロナのために行動や考えが対立してしまうのは悲しいことだ。そして、界隈の雰囲気が悪くなると、修復するのは時間がかかる。最悪、戻らないかもしれない。自分の界隈だけではないと思う。コロナで娯楽であるエンタメが死んでいくように見える。特に、既存のものほど維持することが難しいのではないだろうか。維持するために、提供している側は新しいことに挑戦しようとしている。受け手側はふるいにかけられているのかもしれない。
※本メールは2021年9月1日時点のQrio Smart Lockへの登録情報に基づき配信しております。
重要なお知らせのため、メール配信をご希望されていない方へもお送りしています。
お客様各位
平素よりQrio Smart Lock (Q-SL1)をご利用いただき、誠にありがとうございます。
弊社にて販売しておりました『Qrio Smart Lock(Q-SL1)』のソフトウェア更新終了について、ご連絡させていただきます。
2015年の発売開始以降、多くのユーザー様にご愛顧いただいておりましたが、 最終出荷より3年が経過し、開発環境の維持が難しくなってきております。
つきましては、誠に勝手ながら、旧製品である『Qrio Smart Lock(Q-SL1)』のソフトウェア更新の提供を終了させていただくことになりました。
ご利用中のお客様には大変ご不便をおかけいたしますが、何とぞご理解いただけますようお願い申し上げます。
■ ご利用中の『Qrio Smart Lock(Q-SL1)』について
(状況に応じて、サービスを終了させて頂くこともございます。その際は別途お知らせいたします。)
■ Qrio Smart Lock(Q-SL1)用アプリのソフトウェア更新について
※ご使用中のスマートフォンOSのアップデート等により、Q-SL1用Smart Lockアプリが正常に作動しなくなる等の可能性がございます。
■ サポート窓口について
ご不明な点がございましたら、お手数ですがサポート窓口までお知らせください。
これまでのご愛顧に対し厚く御礼申し上げます。
元記事は証拠や語録収集に寄っていて落としている悪行がかなりあるので尻馬に乗って勝手に付足し。
https://note.com/osamu_iga/n/nd17e78fe4a1b
国内で市中感染が始まった2020年2~3月の行政検査数は僅か数件~30件程度/日で帰国者以外の検査は拒否されていたので患者や掛かり付け医の検査拒否への嘆きがSNSで多く見られた。
ところが検査抑制論者のフォロワーは「検査要求=医療崩壊を企む悪人」と扇動されており、これら患者や医者を探し出しては炎上させるという事が繰り返されていた。
今では「不必要な検査の不要論だった」との誤魔化しが流行しているがだったらこれは何だったのか釈明せよ。
4月に国が「検査が少なすぎて問題」との認識を示すと彼等はバツが悪くなり「検査派が医療者を襲いそう」などと医療者を盾にしだした。
孫正義が検査難民の増加に答えて無料PCRセンターを作ると発表すると大炎上。
「検査キャパが低かったので抑制すべしと言った。検査そのものやキャパ拡大には反対していない」との誤魔化ししてる抑制派が多いが、だったらなぜキャパ拡大策に反対して炎上させたのか。釈明しろ。
「医療外部のPCRセンターじゃなくて検査会社を買収して規模を拡大、規模の経済で単価を下げるメインストリーム路線の方が良いですよ」検査キャパ拡大に賛成だが孫案に反対ならこういう提言であれば筋が通っている。だがそんな提言をする抑制派は居なかった。
PCRキャパ問題が現状でも大問題となっている為に忘れられているが、中国での流行初期は同クラスタは「新型コロナはインフルより死者が少ない」「エピカーブを緩くする感染で集団免疫を」という甘い見通しを流布していた。それで例えばはてなでもSIモデルを活用した全員感染なんていう意見が席巻していた。
だがこんな愚策が成り立つエビデンスなんて最初から全く無かった。中国の各病院は最初からその症状や死亡率、経過などを英語で発表しており関心がある医師はそれを読んでいた。何故なら英語版wikipedia等からリンクされていたから。ネットインフルエンサだけが読まなかったのだ。
各国がロックダウンするとその根拠は消え、彼らは総括なくその意見を捨て去った。だが彼らの一部は医局向けの業界誌などにも執筆しており、鵜呑みにして病院のニュースレターにコロナはただの風邪と書いてしまった医者も居る。良い赤っ恥だ。
彼らがこのただの風邪集団免疫論を捨てる直前の20年3月末に「言論カフェ」という集まりがあり、そこで三浦瑠璃、東浩紀、小林よしのりのB級インフルエンサがこのネットインフルエンサの意見を鵜呑みにして議論をした。この後に小林はSPA!上でコロナ風邪論を発表。発行部数がまあまあある雑誌なので「老人の命の為に若者が犠牲に」という扇動は影響を与えた。
直後にあった都知事選に国民主権党が出馬、ノーマスクキャンペーンなどを展開して後の反ワクチン論へを繋がっていった。
だからコロナ風邪論も反ワクチンムーブメントも元の種を撒いたのは抑制論クラスタなのである。
入院時の全数検査は重要で、市中感染での致死率は1~3%程度だが病棟でクラスターが発生すると2割を超える。戸田中央病院の例では患者148人が感染して31人が死んだ。2割強である。
これについても彼らは事前確立が低い検査は害悪として防疫反対の立場を取った。
特に悪質なのがBuzzfeedで、女子医大が医学生への全数検査を決定すると記事にしてバッシングした。メディカルディレクターの岩永がこの決定を知ったのは学生からのタレコミであろう。同誌のデマを信じた学生の歪んだ正義感がタレコミさせたと思われる。検査料が高い事を除いては妥当な決定だ。この時バッシングした大学には謝罪しなくていいのだろうか?
buzzfeedは偽陽性を根拠とする検査抑制論が間違っていた事をやっと認識すると「99%でも99.99999%でも議論は同じ」と間違いを認めない方向に舵を切った。
これに山本一郎が統計分野の人間バカにしてるのか、との動画を出す。メンツの為に防疫妨害を継続しているのが見え見えであるので当たり前だ。
するとピタッとその意見は引っ込めてしまう。古くからネットやってたら山本の炎上惹起力や面白おかしくネタにする能力は誰でも知っている。
だが批判者は誤認識やデマの流布が致命的な状況を作っているので批判していたのであって、それより炎上インフルエンサの方か怖いとはどういう倫理観なのか。
防疫の為に広く検査隔離が必要だとの意見に「逼迫した治療の必要のない者を検査しても意味がない」と、医療検査の意義で答えるというごはん論法を延々と続けている。防疫妨害の未必の故意がある。
検査は社会的隔離の為に行うが、これを検査しても隔離しないのだから意味がないと言う。こっちの方はただの児戯でしかない。
だがこれを延々と1年以上続けている。結果、家庭内感染が大量発生してしまっている。
PCR検査料が2万円であるので広域検査をする場合に2万円に回数を掛ける計算をして国費の無駄だと言う。
これはゼロ年代経済論的な考えで、10年前にネオリベが流行ったのは給与所得者の経済観を敷延して世界を説明した為だ。需要が増えると参入が増えて競争とスケールメリットで単価が下がるという観点が無い。
実際はプライマーは国産なら@1000円程度でありPCR機も直ぐに償還する。機械が500万で粗利@1000であれば5000回で償還となる。あとは利益だ。薬価が@10とか@30円である理由が判らないのだ。
タカラバイオは宝酒造の子会社だが、日本語で初心者向けPCRの解説や技師向けマニュアルを公開、製品単価も表示するなどしていて重宝するサイトを公開している。故に抑制派は「タカラバイオのサイトに書いてありますよ」とよく言われるのだが、一向に見に行かない。自分の間違いを認める為に努力するなんて出来ないのだ。職業人失格の態度だ。
更にタカラバイオの系列会社が中国にあるのを見つけて「同社は中国企業」と言い出す抑制派も現れた。
その精神も愚劣だが、製薬業界の仕組みを知らないのだ。創薬と製薬は分離されるのが製薬業の流れで、最初から全部ライセンス生産とすることで海外でも展開出来るし、途上国民も新薬の恩恵に与れる。技術も移転される。ベンチャーのモデルナがワクチンを大量に生産できるのもこのせいだし、中国で初期の治療にアビガンが使用されたのもこのせい。技術移転のおかげで世界がパンデミックにも強くなれる。
このような業界構造を知らない人間がフォロワーを沢山持ちインフルエンサーとして振舞っているのである。
まだまだまだまだまだあるのだが疲れたので誰か続き書いて。
最低賃金が上がったことを、竹中平蔵は嫌がっているのではないか。
などと思ったので書くことにした。
ご存知の通り、この国には「政府」およびその一群と膨大な数の「私企業」と「国民」がいる。
「私企業」は「国民」を労働力として雇用し、商品を製造して「国民」に販売する。
「政府」は「国民」を雇用し、「政府」と「国民」から費用を徴収しつつ調整にあたる。
「国民」は「政府」か「私企業」から賃金を受け取りながら生活し、労働力などを提供する。
本当は、これ以外にもたくさんあるのだけどとりあえず単純化する。
「聖域なき構造改革」、「規制緩和」を振りかざした小泉改革の大きな点は、私企業にとって有利な様に日本のルールを変えていった点だ。
それは労働運動などで「国民」が勝ち取り「政府」が保障したことだ。
これは「私企業」にとっては非常に都合が悪い。
同じ製品が出来て、同じ値段で売れるのならば製造にかかる費用や、販売にかかる費用は安い方が儲けが大きいからだ。
そうして「政府」は「私企業」の要望に応えて「国民」の雇用に関する権利を保障することをやめた。
つまり、当時の政権では「私企業」を手厚くもてなすことにより競争力が上がり、結果として国の力も上がると考えたのだ。
これは、間違いだったと結果が出ている。
「私企業」も「政府」もすべては「国民」が構成し、利益の多くは「国民」を当て込んでいるからだ。
「国民」から搾取するかのような国家運営の結果、「国民」貧しくなった。当然、購買力も激減し、納税額も落ち込んでいく。
稼げる「私企業」というのは、豊かな「国民」の中から生まれる。
労働者の権利や保護という「聖域」は本来、侵すべきではなく「規制緩和」などするべきではなかったのだ。
余談になるが、水道事業民営化や『稼げる大学』のように、こういう「聖域」を侵す議論は続いている。
結果として一部を除く「私企業」はさらなるダンピングを続け「国民」を大いに貧しくした。
国も全体として貧しくなっていく。
竹中平蔵の罪とは、つまり「国民」への責任を放棄して「私企業」に富を積ませようとし、結果として「政府」も「私企業」も含めた国の全てを貧しくしたことである。
巨大な、消えない罪だ。
その罪がもたらした惨状をいやすためには、小泉政権が破壊した「聖域」を再び築き上げ、(行き過ぎた短期的利益を睨む)「私企業」から「国民」の保護が急務なのである。
漆には抗菌、殺菌作用があるとの研究結果が報告されていることから、同社は、新型コロナウイルスに対する効果を調べようと日本繊維製品品質技術センター(本部東京)に試験を依頼した。5センチ四方のアクリル板に、同社の伝統的製法でつくる漆を塗布し、コロナウイルスを付着させて調べた結果、24時間で99%以上のウイルスを減少させる効果を確認したという。
「漆に新型コロナウイルス減少効果」 福井県の漆店が確認、24時間で99%以上減少(福井新聞ONLINE)
https://news.yahoo.co.jp/articles/ad8c6ebfb9462ee2ff5997604a9174bafc4ecb7a
よし、みんな健康のために漆を飲もう! 世の中ヴィーガンブームだから「米や麦などの穀類の食を断ち、木の皮や木の実を食べ」て体の中からキレイになろう! 世の中ソーシャルディスタンスだから「生きたまま箱に入り、それを土中に埋め」て「節をぬいた竹で箱と地上を繋」げば対策もバッチリだね!
チンポは年に一度、夏の満月の夜が明けた早朝、ギンギンになる
そのタイミングを逃すとチンポはみるみる萎れ、出荷できなくなる
普段より早く就寝し、翌朝太陽が登る前に制服に着替え、準備をする
ただ力を入れすぎると生ちんぽの先端から白い乳液が飛び、萎れて製品として出荷できなくなる
jkたちは失敗を繰り返しながら、乳液塗れになりながら100エーカーもある畑でチンポを丁寧に一本一本抜いていく
上手に抜くコツは外皮を少し剥き、内部の実を持ち、先端にあるフック状の突起に指を引っ掛け、一気に引き抜くこと
収穫の時期にはその風景を一眼見ようと各地から加齢臭がキツいハゲ頭のおじさん達が集まる
そして抜かれた後のチンポは厳しい出荷検査を経てその日のうちに、チンポに自信のないおじさん、LGBT、生ディルドメーカー、高級料亭の元へ配送される