「浄土」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 浄土とは

2021-01-20

anond:20210116173104

浄土真宗僧侶増田です。こんばんは。

こちらの記事拝読しておりました。なかなかお一人お一人の思いにすべて反応できず、余計なご心労をお掛けしてしまたこと、お詫びいたします。


あなたがお怒りになるだけの経緯はよくよく伝わってきました。自分の思い・はからいによって得ようとした結果が、期待していたものとはまったく違ったことを嘆かれている訳ですね。裏切られたような怒り、蔑ろにされたような悲しみが、少なからず私にも感じ取れました。


あなたの仰った通り、その寺院が以前は対応していたはずのところを取り止めた、ということであるならば、御朱印を求めて参拝した方に対する態度・応対というものは、もっと丁寧で親身であるべきだろうと私も考えます。むしろ私ならそうします。どのような形であれ、寺院に足を運ばれた方との貴重な仏縁なのですから。たとえ自宗の教義信仰方針と違ったとしても、お相手の労苦をねぎらいつつ、また同時に、自身立場をはっきりと分かりやすくお伝えする義務があると思います

ですから寺院の応対の不誠実さという点については、おこがましいこととは承知の上ですが、私が当宗門代表してお詫び申し上げます。せっかく遠いところから時間と体力を割いて足をお運びになったにもかかわらず、ご期待に添えることができなかったばかりか、宗門のものに対する疑念と憤りを抱かせてしまたことを、大変残念に思います





そして、御朱印の記帳を浄土真宗が行わない理由についてですが、私どもの立場をはっきりと申し上げますと、

御朱印を集めても、それが救いにはならない

と信じているためです。



真宗門徒は、お念仏ひとつでお浄土に往生する道を“聞き”ひらく教えです。つまりそこには、お念仏のみ教えを“聞く”という過程が求められます。“聴く”ではなく“聞く”ですから受け身です。「(俺が私が)聴いてやる」とか、「それなら聴いてもいい」とか、そういう思いでは成り立ちません。仏から相手から、聞こえてくる、聞かせていただく。このような心をまずお育てにならなければ始まりません。




かつて、浄土真宗のご門徒に、布教師講師の話を一生懸命ノートに書き写す方がいました。その方はいつでも聞法ノートを携え、全国各地の法話講義に赴いていました。その熱心さには誰もが驚くほどで、どれだけ遠かろうと時間がかかろうと、その方はとにかく聞法を続けていました。

ある時、宗門では有名な講師講義をした際、その方は講師の元に駆け寄り、ご自分ノート講師に見せました。「私はこれだけのことを学んできました、そんな私のノートに、何か一言お願いします」とその方は講師に頼みました。

なるほどとうなずいた講師が、ペンを取り書いた言葉は、

味占めて 地獄行き

という強烈な一言でした。

はいつの間にか、教えを“聴く”心になっていたのです。いただいた教えよりも、「これだけ教えを“聴”いてきた自分がえらい」と勘違いしていたのです。努力している自分・熱心な自分という姿に陶酔し、肝心要のことがまるで人生と心に響いていなかった。そういう態度を戒められるための一言でした。




御朱印を集めることによろこびや達成感を抱かれる方が多いのは私どももよく理解しています。それが思わぬ形で仏縁をもたらすことがあるのもよく理解しています

からこそ、かつて御朱印を取り入れた過去があるのも、そうした世俗の方々との接点を得ようとした苦肉の策だったのだろうと推察します。そして、そうした在り方が、自分自分たちの教義信仰を貶め歪めさせるのだという過ちに気が付いて、取り止めたのでしょう。

私自身はこの件について、これまでもこれからもあってはならないことだと考えております。どれだけ世間から非難を浴びても、一貫した姿勢を貫くべきだと思います。ですからあなたの訴えには宗門全体が耳を傾けるべき意味があると感じております



そして、あなたの怒りや疑念を受けてもなお、私(と浄土真宗)は御朱印がもたらす作用にうなずくことはできません。

それが何故なのかは、私があれこれと何でも押し付けるよりも、あなた自身の胸に問い掛けていただくことが、何よりも近道だと思われます



あなたにとって御朱印を集めるということは、どういう意味を持ちますか?

あなた御朱印を集めると、あなた人生はどう変わりますか?

あなた御朱印を与えてくれなかった寺院宗派に対して怒りと憎しみを抱いたことで、あなたの心は晴れましたか

あなたが生きる現在、そしていのち尽きてゆく未来に、御朱印はどう影響しますか?




今後ご返信いただく必要はありませんので、私の言葉をご自分の中で“聞”いていただきたく思いますあなたのお声を確かに受け止めたことに免じて、あなたもまた、私の声を受け止めていただければ、私はとてもうれしいです。




最後になりましたが、一つご紹介します。

私たち開祖親鸞さまは、「念仏以外に救われる方法があるのではないか」ということを問いただそうとして遠方から駆け付けた方々に、こう仰せになりました。

おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしまてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。




合掌

2021-01-16

続・浄土真宗僧侶です

今一度、お付き合いいただければと思います

まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わずブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからから渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。

きっかけをくれた(元)増田にもありがとう

「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」

「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」

コメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います

祖父様の生前のご希望・ご親族わだかまり元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。

一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります

たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。


しかし同時に、私が一方的にご親族非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。

元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗教義宗旨のものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております

身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。


今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。

ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。

そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないか検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。

また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います


お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。

合掌


「本当に坊さんなのか」と仰った方に

釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、

「この腐ってゆくだけの身体を見たからといって何になるでしょうか。“法”を見る者が私の姿を見るのです」

と仰せになりました。

釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。

100人いれば100通りのもの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事ねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。

信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。

信じてくださった方には、

「すなわち我が親友(しんぬ)ぞ」

とお伝えしたく思います


「彼に一時期話題になったAmazonお坊さん便についてや、オンラインお坊さん、などについても聞いてみたい」と仰った方に

法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。

どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。

中国善導大師も、

「もし行を学ばんと欲(おも)わば、必ず有縁(うえん)の法に藉(よ)れ」

という言葉を遺しておられます理想的はいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法平等に一切に施されるべきなのです。


「襟を正すとは言わないのね。襟ないし」と仰った方に

これは浄土真宗の三大経典ひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子阿難(あなん)に対して、

「汝、起(た)ちて更に衣服(えぶく)を整え、」

と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております

我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています


浄土真宗の寛容さは良い。そもそも修行しなくてもだれでも救われるって教えだし、坊さん自体も妻帯OK・肉食OK・髪剃らなくてOKだしな」と仰った方に

浄土真宗好意的に感じてくださって、ありがとうございます

さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。

たとえば、もしもあなたが、

世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」

と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?

その通りにして生きていったとして、世間の人から口々に

あんたのところの宗派は楽でいいよなあ」

「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)

「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね

「お寺の息子ってボンボンだよね。坊主丸儲けって言うし」

「お坊さんも肉食ったりセックスオナニーするんすかwww

と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?

我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。

世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗僧侶なのです。

開祖である親鸞さまはそのご覚悟

「僧にあらず俗にあらず」

という言葉で表され、また

人倫(じんりん)の嘲(あざけ)りを恥じず」

と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。

であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。

「徳の高い坊さんだ」、「ありがたい」と仰った方に

ありがとうございますしかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。

もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議現象は、なぜ起きたのでしょうか。

今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。

すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています

私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています

「小慈小悲もなき身にて 有情利益(うじょうりやく)は思うまじ」

と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき今日まで生かされております。この歓喜慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます

真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります南無阿弥陀仏

「どこまで書いて消えてしまったのかを思うと心が痛むほど丁寧でわかりやす文章」と仰った方に

件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。

「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」

と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。

結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏


(以下、今後回答を予定しているコメントをお載せします)

「今のコロナの状況を浄土真宗的にどうお考えか、また、どう乗り越えていけばいいか
無関係な私まで救われた気がする」、「心が洗われた」
「妻の初めての命日は、2月2日です。その日のまえに、このようなものが読めるとは」
「去年亡くなった母の遺影写真なくて父のガラケーで撮った低画質のをスマホアプリで綺麗にして使ったの。ずっと申し訳なく思ってたけどコレ読んだらそう悪くも無いのかな。父は喜んだし、何より良い笑顔だったんよ」
「(まずは他者よりも、わたし自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません)…刺さる言葉だけどなかなかこれが出来ない。モノサシが異なると心を開く事が譲歩に見られてしまう。それも飲み込むべきなのかな」
葬式の時にこういうありがたい話を聞いて身が引き締まるのだが、翌日にはもうおっぱいのこと考えてしま自分がいる」
「“そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁”。興味深い価値観だ。こう言う時に遺言として望むべき振る舞いについて残してあげるのが去りゆくものの置き土産なのかもしれない。身近な人たちに優しくありたいな」
親族に対してどうしてそこまで偉そうに断罪できるのか分からない(大意)」
「死者の本当の想いとやらを都合良く説きすぎ」、「どうして祖父気持ちを代弁できるのか(大意)」
「“縁なき衆生”も救われるのが浄土真宗じゃないのか」、「凡夫の救済である悪人正機みたいのもあるけどどう折り合いつくんだろ」
自分葬式なんてどうでもいい」、「葬式要らない。やるだけ無駄
仏教においては死んで仏弟子となった者の魂は阿弥陀如来浄土へ既に導いたので、葬式というのはただ遺族を慰めるためにやるものなんだよな。だから遺族の気が済めばそれでよい」
檀家がお寺の建て替え費用負担する仏教の教えを教えてください」

現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います

準備ができ次第、こちらの投稿言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。


最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます

南無阿弥陀仏

2021-01-01

100分de名著の既刊を読破して一年経ったけどやっぱり人生変わった気が

あけましておめでとうございます

去年

https://anond.hatelabo.jp/20200101232410

を書いた増田です。

去年は散々な一年でしたね。

私も、去年は個人的にも色々と散々な年だったんですが、そんな中でも「年始には半分釣りタイトルつけたけど、ほんとに人生変わったかも」と思うところがありました。

まぁ正確には、変わってきたかも、、、?ですが。

どう変わったか

以下つらつらと書いていますが、まとめると

読書精神安定剤になった」

100分で名著とは別のジャンルで、去年実感した「知識がつながって読めるようになる」が再現できた」

世界を広げる読書ができた」

それでいて、

本業向けの読書もできた」ですね。

それによって、去年一年で少し世界が広がったと思いますし、それでいつつ、本業必要知識の深化も出来たと思っています

これが何故出来たかと言うと、一昨年本業関係ない本を100冊読むという行為をしたメタ効果じゃないかな、と思うわけです。

以下詳細。

読書精神安定剤になった

いきなり自分語りスイマセン。

去年もちらっと書きましたが、私は趣味の一つとして持久系スポーツをやっています

レベルとしては社会人アマチュアでは上位1-2%くらいには入っていましたので、まぁまぁ本気の趣味です。でした。

が、一昨年(2019)の末に足をボキッとやりまして、都合4ヶ月ぐらい走れませんでした。

長い時間をかけて鍛えてきたものが為す術なく失われるのを見ているだけという喪失感は中々きつくて、だいぶメンタルやられました。

の上、御存知の通りコロナで夏以降の大会も全て中止、日常復帰後の練習モチベーションも上がらず正直一年で別人レベルまで体力落ちたと思います

健全な肉体に健全な魂が宿る、あれは「だったらいいな」という話らしいですが、少なくとも肉体が「健全でなくなるカーブ」を描いているときには魂も降下カーブを描きますね。

振り返るとマジで生活全般にやる気の出ずやっとメンタルが上向いてきたのが晩秋ごろ、という一年でしたが、唯一分量を維持ないし増加させられた生産アクション読書でした。

なんせベッドから一歩も動かずにやれますから

結構これに精神的に救われていた部分もあると思います(クソみたいな1日だったが一応本は読めた。。。と言う感じ)。

春頃はもう死にたいとか思った瞬間もあった気がしますが、今は寝たきりになっても少なくとも本は読めるな、という心持ちでいます

気持ちがどんだけ落ち込んでいても、ベッドの中でできる生産活動がある安心感があるという感じです。

100分で名著とは別のジャンルで、去年実感した「知識がつながって読めるようになる」が再現できた

100分で名著解説本で掴んだペースを維持したかったのもあり、読書方向性を広げる方向として去年はNHK出版テキストを中心に選びました。

本の物理サイズ、厚さ、章毎の分量等々が似ていたからです。(これは今まで読んでいた場所時間、等々がそのまま続けられるということです。)

あと、NHKが好む文化人というのは大体決まっているので、百分で名著シリーズで知っている人が著者だったりして安心感あります

結果読んだ数(下記しますが、28冊)が物語っていますが、良かったです。

NHK番組内容とか受信料であれやこれや言われることもありますが、教育系のコンテンツは極めて良質だと思います

前置きが長くなりましたが、特に読んでよかったのが宗教時間シリーズです。

最初の7-8冊程度は、これは求めているレベルを超えている、九分九厘内容忘れるなと思いながら読んでいましたが、

これも何冊か読んでいうちに「知識がつながって」読めるようになってきました。

一昨年100分で名著で感じていたのと同じ現象です。

この年になっても、何かを身につける、学ぶことができる。それは読書による独学だけでもある程度可能である、ということは個人的に心強いメタ経験になっています

逆に言うと最初の数冊はほぼわからないままなので、数年後また一気に読み返したいですね。

世界を広げる読書ができた

去年は、自発的にはまず読まないであろう本も、読んでみたいと思っていました。

そのための方法として、友人におすすめの本を聞くという方法を取りました。

また、一週間以内くらいには実際に読んで感想を伝えて内容についてやりとりするというマイルール作りました

これによって狙い通り、新しい関心フックが幾つか作れましたが、想定外効果としてある程度親しくなった人とさら距離を縮める手段としてかなり有効だったように思います

一昨年以前の私だったら、それが有効だと知っていても負荷が大きかったでしょうが今なら別に無理せずやれる、むしろ楽しい、というところがポイントです。

もともとコミュ障もので、これはありがたいですね。

今のところ猛烈につまらないものを紹介してきた人がいないのもありますが。。

本業向けの読書ができた

かについて知りたいと考えた時、ネット検索するという初動は変わりませんが、さらに知りたいことがあるor体系化したいor記憶への定着率を挙げたい時、本を読むというアクション自然に追加されました。

これは、仕事の本を読んだ数が増えたことに直結しています

また、読書をするにあたって、ちょっとした障害になっていた事が怖くなくりました。例えば下記のように。

・中断:面白そうな本を見つけたらそっちを読み出してしまう。中断してもまた一週間もしたら読めるのだから。もし中身忘れていたら都度振り返ればいいのだから。とシンプルに考えられるようになりました。自由です。

積読:いま読めなくても恐れることはない、そのうち読めると素直に考えられるようになりました。流石にそろそろ消化に一年ぐらいは掛かりそうなくらい本が積まれていますが、現在のところ三年後の自分を信じられます

読書履歴読書キュー汚染:穏やかでない単語を使いました。これは要するに「話題になっているけど、こんな俗っぽい本を読む時間を~もっと重要な本が~」とか考えなくなったということです。気になったら読みます

これらって結局全部やらない言い訳だと思うんですが、単純に読書に対する心理的ハードルを下げて読書量で解決するというパワープレイ(一昨年の私比)が可能になりました。

一昨年解説本を100冊読んだのは運動部一年生がやるような練習のための練習だと書きましたが、あれはそんなに外してないなと今でも思います

昨年読んだ本

自分で振り返るためにカウントしてみました。

百分で名著シリーズ12冊(2021年1月分の「資本論」も、もう読みました)

百分で名著読書学校:4冊

NHK学びのきほん:10

NHK宗教時間:14冊

NHKこころ時代:4冊

百分で名著の原著12

角川ビギナーズクラシックスシリーズ:7冊

その他趣味の本、流行の本など:8冊

仕事の本:17

で、個人的に出色なのは教養系の読書たっぷりできたことより、仕事の本がたくさん読めたことです。

去年までは年間7-8冊ほど読んでるかな?という感じでした。

ところが、今年は読書に占める仕事本の割合は減ったにも関わらず、倍以上読めました。

本を読むという行為自体スムースになったと言うか、「仕事の本は(趣味教養の本より)重要である」という心の中の序列がどうでも良くなり、いつかは読めるのだから、になった効果だと思います

まさに去年読書筋を鍛えたメタ効果であるように思います

僭越ながら去年読んだ本からおすすめ

百分で名著:ディスタンクシオン

今年のラインナップも面白かったですが、特にこれ。

はてなあたりで使われがちな「文化資本」「分断」あたりの用語社会学的なバックボーンについて理解できました。

はてブ見てると「社会学者って、、、」と思うシーンも多いですが、必要学問だと捉えなおすいい機会になりました。

面白くない話として社会を伝えて分析するのが社会学、という分類はなるほどと思いました。

逆に言えば、美しい弱者、貧者のストーリーなんかばっかり見ている人は社会学者とは言えないのだなと。こういう人はてブあたりでよく見る気もしますが。。。

年末だったのもあり、久しぶりに放送の方も全て見たのですが、やっぱりできたら放送も見るべきですね。

解説本の著者の言いたいことが、スルスル入ってきます。それと、伊集院光さんやっぱすごいなと。ああいレスポンス返せる人間になりたい。

ディスタンクシオンは今年原典行ってみようかなと思います

学びのきほん:役に立つ古典

能楽師安田登氏解説古典説明本です。下記する「史記」でもそうですが、

漢字の成り立ちに纏わる深い知識(今ある漢字が成立した年代には開きがある)から独特な解釈をされています

これが真実なのかはわかりませんが非常に興味深く、この著者の著書をあたったり、この視点で更に歴史を追ってみたいなと思わせてくれる本でした。

百分で名著・読書学校史記

こちらも安田登氏が講師になっている解説本です。

良かったと思った理由上記と同様。

安田登氏の能舞台も見てみたいと思ったのですが、昨今の状況では難しいですよね、、、今年あたり何処かで見に行けるといいな。

宗教時間親鸞聖人から手紙

タイトルのとおり、経典歴史事件ではなく残っている手紙から親鸞聖人人物に迫ろうという趣旨の本です。

上記したとおり「何冊か読んだ効果」が大きいのでしょうが、これ読んで、はじめて浄土真宗わかった気分になりました。

ちなみにうちは曹洞宗なんですが、曹洞宗はいまのところわかったと思う瞬間がないです、、、

宗教時間観無量寿経をひらく

観無量寿経ベースに、浄土系の教えが中国日本で花開いていった過程を追った本です。

私が読んだ中では最も単独理解やすく、去年おすすめした「集中講義大乗仏教」と合わせて読むとより日本仏教の流れが理解できるかなと思いました。

宗教時間は多くが前後編の2冊構成なのですが、1冊構成なのも読み返しやすくて良いです。

著者の釈徹宗さんには、もっといろんなお経の解説書を書いて欲しい、、、!!

ソロモン指輪

原典シリーズです。

大人向けのシートン動物記と行った風情の、動物観察学の本。

単純に、日々の話題元ネタとして興味深くまた著者が「面白い人」であると感じてとても読みやすかった。

独立した章立てで分割した読書もしやすく、何方にもおすすめできる本だと思います

ロウソク科学

原典シリーズです。

子供向けに実施された19世紀科学講義書籍化したもので、科学レクチャーの傑作と言われているそうです。

当時はプロジェクター等も無いため図があまりなく、正直、本として読んだだけでは当時の雰囲気を十分に味わうことは出来ないかと思ったのですが、

ファラデーという当代最高の学者がが全力をもって子供たちに科学の楽しさを伝えようとしていることはとても良くわかりました。

去年は西欧文明というか西欧社会限界的なものが色々見えた年かなとも思うのですが、ソロモン指輪もそうですが、こういった本を著した方々が繋いできたものはやっぱり尊いなと思います

苦海浄土

原典シリーズです。

100分で名著の解説本を読んでから絶対に読もうと思っていた原典の一つ。

下記の、薩摩焼窯元めぐりと合わせて水俣に行く前に読みました。

内容については私が今更感想をいうのもあれなんですが、「読む前と後で違う自分になっているような気がする」読書体験ができる数少ない本の一冊と思います

あとがきにある通り、書かれていることは読んだ印象より遥かに創作比率が高い、ということを差っ引いてもこれは日本人全員が読んだほうがいいんじゃないかと。

故郷忘れじがたく候

原典ではないですが、番組の中で言及があった気がします。

恥ずかしながら初・司馬遼太郎でした。焼き物が好きで窯元めぐり趣味もので、薩摩焼の里をめぐる前にと思って読んだんですが、面白かったです。

声に出して読みたい日本語というか、何でしょう、文章うまいと言うより文章の響きが格好いいというか、流石昭和の大作家ですね。一気に好きな作家リストに載りました。

今、ちょっと重めのものもと思って坂の上の雲ちょっとずつ読んでいます

タイトルの付け方も最高にうまいですよね、、頭にのこるというか。


おわりに

今年は年始から割と大きな人生イベントが幾つかあります

年齢的にも5で割り切れる年となり、色々節目です。気合い入れていこうと思います

去年は私だけでなく、世界が停滞してしまった感じですが、今年は良い年になりますように。

2020-12-26

なろうと仏教

あれのいかんところは、最初の願いが異世界という楽園に行きたいという逃避願望だったのに、段々となりたい自分なら無双して当然だとか、なりたい自分ハーレムで当然だとか、生まれ変わったらクールですかしていて当然という即物的ものに変化したこと

仏教来日したもの大衆化して、しまいにゃ浄土は手を合わせてるだけで悪人すらOKなっちゃった日本気質がよく表れてる。

来日如来。なんちて。

anond:20201226015236

2020-04-26

まりは、選択肢式のエロゲプロトコル

はいつもこう思っている

自分が選ばなかった選択肢の、隣の世界が常にあるんだ」と

今この瞬間にも、隣に無限世界が作られていく

ほんの少しの違いが、多世界を作っていく

今この場の自分の恥でそれを選べないくらいなら、そんな感情なんて蓋をしてしま

今この場の労力を厭いそれを選べないくらいなら、そんな倦怠なんて無にしてしま

しか選べないこの選択肢の視座に於いて、それをできるのが今だけなのであれば

跳躍一つで届く距離に、次の瞬間には那由他距離に遠ざかる浄土があるのであれば

2019-08-17

放送している番組「にじいろシーン」について

源頼朝を「初代」征夷大将軍

空也浄土「宗」

とそれぞれ紹介していた。違和感もたないもんかね?

2019-06-29

浄土るる「鬼」は過大評価だと思う

にゃるらのツイートで一気にバズった浄土るるの「鬼」という作品。絵はかなり下手だが逆にそれが味があると見れなくもないし、話としてはなかなか好きな漫画だった。こういう話はオタク受けもいいと思うので、話題になるのは分かる。

「鬼」で描かれるのはありふれた「現実」であり、その現実を描いた作品も「鬱映画/漫画/小説」などで検索すれば山ほど名作が出てくる。現実創作、どちらにしてもよくある話だ。

だがネットの反応は「怖い」「ここまで救いなく作れるのはすごい」といったものばかりで違和感を覚えた。作者がかなり若い人なので「この年齢でこれを描いたのはすごい」という事かもしれないが、それにしても絶賛されすぎているな、と思った。そしてこの作品に恐怖を感じる人間は、幸福人生を送ってきたのだろうな、とも。羨ましい限りだ。

探せば自分と同じように過大評価だと感じている人もいて、中にはにゃるらとの間に金銭が発生しているのではないかと言う人もいた。自分はそこまでは分からないが、それに対する「にゃるらはオタクコンテンツ精通しているといっても、美少女萌え系以外には疎いんじゃないか」という意見の方はなるほどと思ったし、絶賛している中にもそういう人が多いのかもしれない。

2018-02-07

教養豊かな人なら読んでいて当然の日本文学102選(戦後編)

三島由紀夫金閣寺』『豊饒の海

谷崎潤一郎細雪』『鍵』

川端康成山の音』『眠れる美女

坂口安吾堕落論

梅崎春生『幻化』

武田泰淳ひかりごけ』『富士

佐多稲子『樹影』

安部公房『壁』『砂の女』『箱男』『密会』

大江健三郎性的人間』『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『さようなら、私の本よ!』『美しいアナベル・リィ』『水死』

中上健次千年の愉楽』『日輪の翼』

開高健『輝ける闇』

高橋和巳邪宗門

大西巨人神聖喜劇

安岡章太郎ガラスの靴・悪い仲間 』

小島信夫『うるわしき日々』『残光』

庄野潤三プールサイド小景静物

津島佑子『火の山―山猿記』『ヤマネコドーム

稲葉真弓半島へ』

古井由吉『杳子・妻隠』『槿』『白暗淵』

後藤明生挟み撃ち』『壁の中』

黒井千次『群棲』

藤枝静男『田紳有楽空気頭』『悲しいだけ・欣求浄土

倉橋由美子夢の浮橋

田中小実昌ポロポロ

色川武大狂人日記

金井美恵子『愛の生活・森のメリュジーヌ』『タマや』

富岡多恵子『波うつ土地・芻狗』

河野多恵子 『みいら採り猟奇譚』

石牟礼道子『苦界浄土

村上龍コインロッカー・ベイビーズ

村上春樹回転木馬のデッド・ヒート』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル

高橋源一郎さよならギャングたち』『ジョンレノン火星人

笙野頼子『母の発達』『金比羅』『だいにっほん、おんたこめいわく史』

車谷長吉『鹽壺の匙』『赤目四十八瀧心中未遂

玄侑宗久アブラクサスの祭

池澤夏樹マシアス・ギリの失脚

保坂和志カンバセイション・ピース

堀江敏幸河岸忘日抄』

多和田葉子『雪の練習生』『尼僧とキューピットの弓』『雲をつかむ話』

阿部和重アメリカの夜』『ABC戦争』『無情の世界』『ニッポニア・ニッポン』『シンセミア』『ピストルズ

松浦理英子ナチュラルウーマン』『犬身』

中原昌也ニートピア2010』

町田康夫婦茶碗

舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』『九十九十九』『ディスコ探偵水曜日』『淵の王』

綿矢りさ『かわいそうだね?』

金原ひとみマザーズ

中村文則『何もかも憂鬱な夜に』『教団X』

柴崎友香『その街の今は』

岡田利規わたしたちに許された特別時間の終わり』

川上未映子愛の夢とか』『あこがれ』

水村美苗本格小説

前田司郎『愛が挟み撃ち

諏訪哲史ロンバルディア遠景』

本谷有希子『嵐のピクニック

磯崎憲一郎『往古来今』

青木淳悟『私のいない高校

朝吹真理子『きことわ』

小山田浩子工場

今村夏子『こちあみ子』

滝口悠生『高架線』

高橋弘希『指の骨』

崔実『ジニのパズル

2018-01-28

皆が法華経を信じれば、日本問題の大体は解決する

今の日本は、貧しい人が増え、彼らは明日へ希望を見出せないまま生きる。一方で、少しでも豊かで生活が安定している人間は、自分たちの安定した生活を守る事ばかりを考え、困っている人たちを助けようとする人間は少ない。

その結果、日本全体が保身的になり、より一層悪い方向に向かっている。

貧しい人も、豊かな人も、共通して言えるのは、未来に対する不安だ。

そんな日本を救うのは、聖徳太子時代より日本に伝わる仏教経典である法華経であると、私は信じる。

法華経は、不安に満ちたこ世界こそ、釈尊のおられる浄土であると説く。

本当はもっと楽で、楽しみに満ちた世界に生まれる事もできたのだが、我々は、何の因果か、わざわざこの不安に満ちた境遇に生まれてきた。

なぜなら我々自身に与えられた不安、例えば家族の事とか、仕事の事とか、そう言った問題の一つ一つが、我々に自身に与えられた課題であり、その課題解決するために我々はわざわざ好んでこの地に降り立ったのだ。

法華経によってそのような考えに至ってから、私は前よりも生き生きと暮らせるようになったし、そうしたら、気持ちの持ちようは実際の生活も変えさえて、以前は貧しかったけれど、どんどん暮らし向きも良くなって言った。

法華経新興宗教も含めていろんな宗派が信じているから、時には胡散臭く思えるかもしれないけれど、この教えは何も奇跡必要としない宗教だ。

マジでオススメ

2018-01-22

anond:20180122110349

財産の面と他人の面と、あなたメンタル面と3つに問題分けよう。

といっても、俺は法律をわかってるわけじゃないから、専門家に依頼した方がいい。けど、専門家は何でも屋じゃないのでその専門家の専門範囲以上は解決できない。

具体的に言うと、相続放棄しか期待できない。

財産のこと」

財産のことであれば、じゃあ、相続放棄一択だね。

相続放棄については軽く検索をかけて見つけてきた。それから法テラスと言って無料相談できるところがあるからそこに聞いたらいい。それでしまい。相続放棄リミットがあるから急いで。

https://so-labo.com/inheritance-tax/3110/

それで相続財産のことはケリがつく。

他人のこと」

他人についてはうっとおしい親戚は縁を切ってしまったらいい。母親がその迷惑な親戚の肩を持つようなら残酷だけど母親もね。

注意するのは、迷惑なやつを切ろうとすると、その周りの人間が情や脅しを使って仲を保とうとすること。

けどね、そこで折れたってその周りの人間は何もしてくれないよ。むしろ、それで不祥事になったら周りの人間も一緒になって石を投げてくる。

迷惑なやつと仲直りさせようという周りの人間もまとめて切らないとならない。

ソースは俺。数多く迷惑かけてくるやつがいたが、最後なあなあで許していた。だが、迷惑行為をやめずに、コチラのやること、かつ評判まで巻き添えにして相当苦しんだ。

「お人好しは商売下手の代名詞」という言葉がある。(こんな社長会社を潰す。野口誠一)

お人好しだと、連帯保証人に情で受けてしまって会社を潰したり、こいつは情に訴えたりおだてたら都合のいいことをしてくれるぞと周りにバレて、嫌なことを大量に押し付けられる。

聞かないと思ったら脅しとかきつい言葉込みで。

だけど、結局迷惑な人と関係を持っても幸せなことはない。だから。切るべき。

この本は商売について書いてる本だが、でも、それ以外でも当てはまる側面があると思う。

まあ、迷惑な人以外に対してはお人好しでいいのかもしれないけどね。

デモデモダッテ」と思うだろうけど、でも、基本他人は変えられんものから。ましてや財産目当てで目が円マークになってるやつは。

自分のこと」

さいごに、「貪瞋癡にまみれてるとき地獄なり、それから離れると浄土なり」(一休宗純)という言葉がある。

怒ったり、欲望や、迷いにまみれているときこそが地獄で、それから離れられて、心が平穏状態こそが幸せ世界なんだと。

母親に尽くしたい気持ちもわかる。というか、依存性って、高いストレスで起きるものなので、母親についても、ストレスを落としていかないとならない。

手放すものは手放す、縁を切るものは切らせないとならない。

なお、依存症については、ゆうきゆうマンガで分かる心療内科依存症編、酒、タバコ、薬物」が参考になる。

母親は様子見だし、今までの恩があるからある程度尽くすのもいいけど、あまりにもダメそうなら、捨てる覚悟を。

そうやって高いストレスの頭を休めるのが瞑想意識的に何も考えず、ストレス毒素を落とすこと。

ああ、でも一切宗団体自己啓発セミナーには行く必要はない。むしろあなたみたいな弱ってる人間を虜にして依存させて金をせびろうという団体は多いから行かない方がいい。

図書館マインドフルネス瞑想、禅辺りの本をいっぱい読んだらいい。

霊感商法に取り込まれたらもうどうしようもないね。それが俺の母親だ。20喧嘩してきたが、無意味だった。

霊感商法は不幸を煽って依存させて金をせびるのに特化した集団からね。それでいて不幸の真の原因には目を向けさせないか当人が不幸なのは永久に変わらない。

僕も、最近やっと、自分の人のお人好しさ、僕のお人好しさに漬け込むという人間特性に気づけて、切るべき人間をみんな斬って少しずつ静かになっていってるところだわ。

で、たまにあまりに腹たったらここで吐き出して、たまに他の迷ってる人を助けるかぐらいだね。

2018-01-20

anond:20180120113238

しろ不愉快なことがなくて、ちょっとだけ刺激があるけど、日々穏やかに生きてるぐらいが楽しいんじゃないかな?

地獄浄土とはこの世のことである地獄とは貪瞋癡(怒り、迷い、欲望)にまみれた状態である浄土はそれがなくなった状態である。(一休宗純

2018-01-11

anond:20180111014336

「貪瞋癡(貪り、怒り、迷い)」の3毒に満たされてるとき地獄なり。その3毒が滅した時が浄土(=幸福と捉えている)なり」というのが簡素幸福論だと思う。

けど、それが翻して、日本の厄介なものは避けて通れと、あちこちに細かい村社会が生じている状況を生み出しているようなきがする。

日本村社会から離れて、ムラ社会色がないコミュニティに少し足を突っ込んで

「起きて稼いで食って寝て、あとは死ぬのを待つばかりなり」

幸せ生き方なんだろうねぇ、、、、、。

俺はある意味それと真逆地獄起業社会)に生きているがなwwww

じしんっっっど。

2017-12-21

宝石の国を見て思ったこ

原作はまだ読んでない。アニメしろ」まで視聴。メモ書き程度。


CG制作されているのがうまくいっている気がする。

宝石が光を受けて輝く感じと硬そうな質感、人体にあるべき重さを感じない、妙に無駄のない動きがより無機質な生物ということを表現できている気がする。

手足の欠損に対しての各宝石たちの反応の薄さがぞわぞわする。

宝石たちは痛みというか不快感は感じているのだろうけど、あっけらかんとしている所が制作側(原作者)が自覚して描いてるな、と思った。

欠損表現は、多かれ少なかれ驚きや恐怖、不快感を持って見てしまう。痛みを想像するし、原始的嫌悪感を私は感じる。

それと同時に、欠けた断面から見える内部は宝石であることと、欠けた手足を持ち、気にすることもなく立ち上がる宝石たちに、妙に昂ぶった気持ちと、違和感を感じる。

不完全な美、人の形をした何か、に興奮を覚えるのか。

溶けてしまったフォスの回ではどこまでが自我なのか、と問いかけられている気持ちになった。

身体が砕けてしまってもインクルージョンのおかげで死なない宝石たち。不死の代わりに生殖をせず、食欲も、繁殖のための性欲を持つこともない。

あるのは睡眠欲だけ。それさえも薄れつつあるフォスは何になっていくのか。




あと、ネット上に挙げられていた原作者インタビュー記事にて、「“はかりしれないほどの光”でも、すべては救えない」という見出しに納得がいった気がする。

最初宝石を狩りに来る月人は、いわゆる天女に姿が似ている。浄土にて暮らす天人の姿を模した月人には、宝石は「救うもの」には入らない。

https://ent.smt.docomo.ne.jp/article/12958

2017-11-19

anond:20171119083537

んな物仏教や禅あたりで、よく取り上げられてますがな。

と言っても、葬式仏教徒化したお寺では教えてもらえないが、書物としてはきちんと伝わってる。

ただ、一般化と検証が取り上げられてないか欧米でも宗教担当だ。

人間とは、生きる意味は→「世の中は、起きて稼いで食って寝て、あとは死ぬのを待つばかりなり」(それ以外は些細なこと)

幸福とは→「貪瞋痴(怒り、迷い、欲望)にとらわれている時が地獄なり、それを滅した時が浄土なり」

(双方一休宗純

欧米でも神との契約と、来世がどうのこうのだろ?

あと、イノベーションが起きないのはこの30年ほどの、新自由主義による金回りと景気を悪く、設備投資をしなくなった失われた30年。

ケインズ主義時代日本では日本初のイノベーションバンバン起きていた。1980年代末は一人あたり国民総生産世界一位で、

資本主義陣営社会陣営双方から日本は最も成功した資本主義」「日本は最も成功した社会主義」と言われた時代

新自由主義で金回りを悪くしたのが悪い。

最近イノベーションごっこも、金をださんのに、発想「だけで」なにかいものを作れないという悪あがきに見えるのはそう。

実際イノベーションが起きてるアメリカ金もだいぶ動いている。

2017-10-13

ペンギンは死んだらどうなるの

グレープくんが死んでしまってお悔やみツイートが流れてくるんだけど

・死後フルルの元に行く

・死後天国からフルル活躍を見守っていてほしい

の2パターンあって、

フルルはどこにいるのか、

ペンギンは死後どうなると考えられているのか

みたいなことが気になってしまってしょうがない。

死んだらジャパリパークに行けるのならばどんなに良いだろうと思う。

鎌倉時代浄土思想に傾倒した民衆の話歴史時間に聞いて、

当時はなんだかよくわからなかったけど、今ならわかる。

死後サーバルちゃんが向こうからやって来て

図書館まで一緒に連れていってくれるならなんてありがたいのだろう。

2017-10-07

anond:20171007103903

うそう。むしろこっちの方がヤバい

日本コミックがそこまで海外に読まれなかった頃はよしもとばななとか辻仁成コンスタントに賞を取れてたのだが今はもう…。

春樹より近いとされた津島佑子は近年他界したし、石牟礼道子を出す人もいるがこの人は全ての賞を拒否している。(個人的には『苦海浄土』についてそこまでの作品だとは思わない。)

あとは現代詩吉増剛造谷川俊太郎が挙げられてるが、ボブ・ディランが獲った今スタイルを逆行するものを出されてもキツい。

演劇歌舞伎役者宝塚ジャニーズが未だに尊重される自体終わっておる。

ジャーナリズム?嘘しか書かない立花隆が未だに偉そうだしなあ。

エンタメ?先にキングが受賞しない限りどうしようもない。エドガー賞シルバーダガーを先に取らねえと。

となると本気で春樹しかいねえ。川端ときは谷崎と三島が。大江とき安部公房がいたんだが…。

2017-08-15

https://anond.hatelabo.jp/20170814222506

これで相手が最低の男だったらえ?と思ったんですけど、まともそうな人でよかった。

親に決められた人生というのに不満を抱くかもしれないけど、結果オーライという言葉もありますし。

「貪瞋癡(貪り、怒り、迷い)に満たされた状態地獄である、それがない状態浄土である

「起きて稼いで食って寝て、あとは死ぬのは待つばかり(逆に言えば、それ以外の苦しみなんて些細なこと)」

一休宗純

2017-02-20

http://anond.hatelabo.jp/20170220000931

真宗とかの念仏系って、

南無阿弥陀仏極楽浄土に行けますよ。浄土についたらいっぱい修行して解脱しましょうね」

ってことでしょ?

詐欺かよって思う

おれは悟りたいんじゃ

2016-11-30

http://anond.hatelabo.jp/20161130063550

ちな仏はみんな自分仏国土を持ってて、

阿弥陀如来西方極楽浄土

薬師如来東方浄瑠璃浄土

観音菩薩南方補陀落浄土

そんで北方まりヒマラヤ、つまり須弥山、つまり上方には弥勒菩薩兜率天がある。


ちな、南方の補陀落とはチベットポタラ宮で、ダライ・ラマ観音の生まれ変わり(というか化身)だそうな。

ただ、如来になるとそれぞれの仏国土が出来るという話なのに、なぜか観音や弥勒は菩薩なのに仏国土もってる。

あと、如来になった(悟った)瞬間にそのひと(如来)専用の仏国土がヴァアアアアアアーーーーーっと出来て、

そこの唯一の仏になるのだ、という話もあるんで、じゃあなんで阿弥陀や薬師の力がこの世界に及んでるの?

みたいな話になるし、釈迦仏国土はどこいったん?って話になるし、ようわからん

http://anond.hatelabo.jp/20161129145843

浄土系って、もうちょっと正確に言うと

阿弥陀如来無限の慈悲でどんな人間でも浄土に連れてってくれる」わけじゃん。

で、浄土ってなんなの?っつーと、人間世界にあるような誘惑のたぐいが一切無くて、

清浄な心で仏道に励めるし、人間と違って寿命がうんと長いから、悟り約束されてるという理屈

正確に言うと「阿弥陀如来自体が救ってくれる」わけではないわけ。

阿弥陀如来が、死んだ人を、物凄く悟り易い、修行に打ち込める環境に転生させてくれる」であり、

「物凄く良い環境に連れて行くから、頑張って自力で悟ってね」なわけだ。


その意味で、浄土系は「自分で頑張って悟りましょう」派ではあるんだけど、

「超常的な偉い人(元人、現在仏)にすがって救ってもらう」でもあるわけよね。



阿弥陀如来に「救われた人」は、浄土に連れてかれただけであって、その後は自力で悟る(救われる、解脱する、苦から逃れる)必要がある。

現世よりは、仏が直接教えてくれるし、食や睡眠や性や名誉欲等がないんでその時点でかなり悟りに近いし、そういう障害がないんで修行に集中出来る。

でも、「真に救われる」のは、そこで修行して、自身悟りを得る(解脱する、苦を逃れる)のでないといけないんだよね。

悟りを授ける」みたいのはない。

2016-05-29

http://anond.hatelabo.jp/20160528221349

謎のズッコケ海賊島で、2つに分けた宝の手がかりが不公平すぎて笑った。

3人組が持ってた方は、

女島の南

岩屋あり

浄土へまいるべし

みなそこにかくす」

ってかなりお宝に迫れる内容なのに、

悪人側が持ってた方は、

稲穂の国

はいらずの

仏の道をきわめ

陣内が宝」

って、それでどうしろって感じの内容だった。

2016-02-14

いわゆるファンタジーが難しいので

http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160212/1455256800

90年代オタクコンテンツからいわゆるファンタジーが消えた、というのが異世界転生ファンタジーブームの遠因の一つになっている気がする。

そもそも80年代後半から90年代にかけてファンタジーブームだっただけという説もあるらしいが、その後にわざわざハイファンタジーなのかロー・ファンタジーなのかよくわからない、

現実世界から世界へ移動するファンタジーが勃興した背景には、「自分ではない別の人物・別の世界」への志向から自己投影やす物語需要が変わったからではないかと思う。

現実世界と接点がある」という強みだったものが、最近は逆にうざくなってきたんじゃないだろうか。ルイズ現実世界にやってくる描写には首をひねりたくなるし、

オーバーロードは大変物悲しい。自己を消すという点では百合ブームもあったが現実高校が描かれている。現役中高生おっさんが羨む理想青春がよくわからなくなってきたとしても、

細部までみっちり作りこんだ大きな妄想世界ハイファンタジー?)というのは現代では制作も消費も難しい気がする。そうしてみると自己を残して現実と接点のない(現実を生きたという過去の接点のみを残して)異世界に行く、

というのはよくできていて流行るのもわかる気がする。浄土系が現実を体系に組み込み浄土は死後だが救いは今生」と諭して現実に送り返すのに比べると、異様な感じはするが。

2015-11-21

親鸞悪人正機説イメージがつかめ

浄土真宗開祖である親鸞思想根本に、悪人正機説というものがある。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

という言葉でそれは表されているが、この意味が、どうにもわかりにくい。

辞書的には、

他力をたのみとしない善人でさえ往生できる。ましてや、悪業に苦しみ、ひたすら他力をたのむ悪人が往生できないわけがない。

デジタル大辞泉

という意味だろうが、これでイメージがつかめるだろうか?

善人の何がいけないのか? 悪人がどうして往生できるのか? ひたすら他力をたのむというのはどういうことなのか?

……などなど。

最近、こういうことだというイメージがつかめたので、ここに紹介したい。


善人であろうとすることは非効率努力悪人自覚効率的方法への乗り換え

極楽浄土を、ゴールとする。

善人とは、自分の力を信じて、ゴールである極楽浄土へ向かおうとする人々だ。

道を地元の人に尋ね、一生懸命に走ってゴールへと向かう人々をイメージして欲しい。


ところが弥陀の本願は、この世のすべての衆生を救うことである

涅槃の彼方に究極の慈悲の持ち主がいたとしたら、すべてを救いたいというのがその願いに違いない。


から阿弥陀如来は、救いの手を差し伸べる。

簡単な方法だ。

救われることを信じて、極楽浄土へ生まれ変わることを信じて、ただひたすら「南無阿弥陀仏阿弥陀如来帰依します)」と唱えればいい。

これはつまり極楽浄土行きのバスを走らせていて、

「さあ、これにお乗りなさい。之に乗れば、必ず極楽浄土へと連れて行ってあげますよ」

と呼びかけているようなものだ。

これが、親鸞の言う、

「ひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」

という意味なのだろう。


ところがこれが、難しい。

ただ楽浄土行きのバスに乗ること、乗り続けることがなぜ難しいのか?

それはなぜか? 

ゴールが見えないからだ。先を見通すことがほとんどの人には出来ないのだ。


一寸先は闇ともいう。

人々は、バスにそのまま乗り続けることに大変な不安を感じる。


バスから降りて、歩いている大勢の人に道を尋ねながら、ゴールと思われる方角へ向かう方が安心できるかもしれない。

それにバスに乗っていると、達成感が湧かない、苦しくない、だから自分で走って向かいたい、という人は案外多いのだ。

このような人々が「善人」と呼ばれる人々だ。

自分努力善行を積み、来世でより幸せになろうとする人々だ。


このような努力の結果、もちろん極楽浄土へ到達する人もいるだろう。

これが、

「善人尚もて往生をとぐ」

意味だ。

しかし往生しない人もいるに違いない。

なぜなら、自分極楽浄土へ向かおうとする人々の中には、途中で挫折する人々もいるし、道に迷う人々もいるからだ。

彼等は善人であろうとして、最後まで善人であり得なかった人々だ。


ところが、本来無駄なことをする意味はない。

自分で歩こうとか、

道をよく知らないくせに道案内を買って出るような人に道を尋ねることは、愚かなことだ。

阿弥陀仏がせっかく極楽浄土行きのバスを走らせているのだ。

ひたすら阿弥陀仏を信じて、バスに乗ればいい。

阿弥陀如来の救済を信じきり、バスに乗り続ける人間は救われる。

これが、

「況や悪人をや」

意味ではないか。


ところが、悪人が往生するのならば、善行を積む必要はなく、罪を犯してもいいではないか。

このように考え違いをする人々がいる。

だが、それは違う。


もちろん、そのような人々も阿弥陀如来はお救いになる。

極楽浄土行きのバスに乗れば救いの手を差し伸べる。

極楽浄土行きのバス乗車を断られることは決して無い。

ところが、確信犯的に罪を犯す人々は、バスに乗らないどころか、ゴールへ向かおうとすらしない人々だ。

真宗の教えを知りながら悪行を重ねる人々は、言わばバスから降りた人。

彼らが極楽浄土へ向かうことはなかろう。

無論、自分の足でゴールに向かう人々にも劣るのであって、阿弥陀如来だって救いようがない。


以上のようなイメージを持つことで、悪人正機説全体像をつかめるのではないかと思う。

2015-07-02

そっくり

この前バスの中で見た子と、昔家庭教師(というか宿題監視員)でみてた子が、他人への絡み方がまるっきり一緒でびっくりした。

絡み方というか、見た目や喋り方・発話のトーンまでそっくりだった。

どちらもミッチミチに太っててよく喋る感じ。

家庭教師してた子は、当時5年生だけどこんな感じ↓

「んあー!あー!なー!なーなーなー!」

『なに』

「あんなー、この前涼ハルヒでなー、あ、ハルヒ見た?」

『見てない。ハルヒドリル関係あるんか?』

「えー見てないの!!なんで!?

『はやってるから

「あんなー、俺思うんやけどハルヒよりみくるちゃんの方が絶対かわいいと思うねん」

『ふーん』

だってな!だってな!ハルヒなんか、あっそうやジャンケンジャンケンしよ!」

『ハァン?』

はい!さーいしょーはグー!」

ドリル

「ほらほら負けちゃうぞー!」

ドリル

「負けちゃうぞー!じゃーんけーん……」

ドリル

「ポンwwwwwwエッヘヘヘヘッヘヘヘヘヘwwwはい勝ったぁ~勝ったぁ~不戦勝~」

『おい』

「あんな、これな!ホラこれ!ここがグーで、ここがチョキで、ここがパーやねん!だから負けませぇーん!絶対勝てますぅ~!」

『つかぬ事を聞くけど、チョキで目突かれるのと、パーでハゲるまで頭しばき回されるのと、グー口にねじまれて窒息するのだったらどれがいい?』

「わかった!わかりました!ズルしない!今度はズルしないからもう一回ジャンケン!」

『しねえよ』

「じゃあしりとりしよう!しりとりの【り】からはい!」

ドリルやれ』

「れ……れ……レイちゃん!」

『【ん】ついたかドリルやれ』

「うわーーーしまったーーーー!な、な、な、あんなー、あんなー、レイちゃんはなー」

レイちゃんは死にました。供養の為にレッツドリル

「ちがうし!レイちゃん死んでないし!」

『帰命無量寿如来

レイちゃんはなー!っていうか俺はレイよりアスカが好きなんやけど」

『南無不可思議光~』(ズイッ)

「ちょっ、やめ」

法蔵菩薩因位時~』(ズズイッ)

「ごめんなさいドリルやります

『在世自在王仏所~』(ズズズイッ)

「ゆるして」

『覩見諸仏浄土因 国土人典之善悪』(ドリル没収)

「ああっ」

『建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓』

ドリルやらせてください、おねがいします」(正座)

『よろしい』

こんな調子でもドリルやるだけ奇跡みたいなレベルだったらしく、成績上がってご家族からめっちゃ感謝された。

そしてこの前バスで見た子は同じ調子でおじいちゃんにずーっと絡んでて、

しりとりとかジャンケンとか同じことしてて、しかジャンケンでズル手出すのも一緒だった。

そしておじいちゃんは当然振り回されっぱなしで、なんていうか見てて疲れた

あそこまで似てるのは、本人の性格も周りの環境もきっと似てるんだろうと思う。

どういう要因があるとああいったタイプになるんだろうなあ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん