こちらの記事も拝読しておりました。なかなかお一人お一人の思いにすべて反応できず、余計なご心労をお掛けしてしまったこと、お詫びいたします。
あなたがお怒りになるだけの経緯はよくよく伝わってきました。自分の思い・はからいによって得ようとした結果が、期待していたものとはまったく違ったことを嘆かれている訳ですね。裏切られたような怒り、蔑ろにされたような悲しみが、少なからず私にも感じ取れました。
あなたの仰った通り、その寺院が以前は対応していたはずのところを取り止めた、ということであるならば、御朱印を求めて参拝した方に対する態度・応対というものは、もっと丁寧で親身であるべきだろうと私も考えます。むしろ私ならそうします。どのような形であれ、寺院に足を運ばれた方との貴重な仏縁なのですから。たとえ自宗の教義信仰、方針と違ったとしても、お相手の労苦をねぎらいつつ、また同時に、自身の立場をはっきりと分かりやすくお伝えする義務があると思います。
ですから、寺院の応対の不誠実さという点については、おこがましいこととは承知の上ですが、私が当宗門を代表してお詫び申し上げます。せっかく遠いところから時間と体力を割いて足をお運びになったにもかかわらず、ご期待に添えることができなかったばかりか、宗門そのものに対する疑念と憤りを抱かせてしまったことを、大変残念に思います。
そして、御朱印の記帳を浄土真宗が行わない理由についてですが、私どもの立場をはっきりと申し上げますと、
御朱印を集めても、それが救いにはならない
と信じているためです。
真宗門徒は、お念仏ひとつでお浄土に往生する道を“聞き”ひらく教えです。つまりそこには、お念仏のみ教えを“聞く”という過程が求められます。“聴く”ではなく“聞く”ですから、受け身です。「(俺が私が)聴いてやる」とか、「それなら聴いてもいい」とか、そういう思いでは成り立ちません。仏から、相手から、聞こえてくる、聞かせていただく。このような心をまずお育てにならなければ始まりません。
かつて、浄土真宗のご門徒に、布教師や講師の話を一生懸命ノートに書き写す方がいました。その方はいつでも聞法ノートを携え、全国各地の法話や講義に赴いていました。その熱心さには誰もが驚くほどで、どれだけ遠かろうと時間がかかろうと、その方はとにかく聞法を続けていました。
ある時、宗門では有名な講師が講義をした際、その方は講師の元に駆け寄り、ご自分のノートを講師に見せました。「私はこれだけのことを学んできました、そんな私のノートに、何か一言お願いします」とその方は講師に頼みました。
という強烈な一言でした。
彼はいつの間にか、教えを“聴く”心になっていたのです。いただいた教えよりも、「これだけ教えを“聴”いてきた自分がえらい」と勘違いしていたのです。努力している自分・熱心な自分という姿に陶酔し、肝心要のことがまるで人生と心に響いていなかった。そういう態度を戒められるための一言でした。
御朱印を集めることによろこびや達成感を抱かれる方が多いのは私どももよく理解しています。それが思わぬ形で仏縁をもたらすことがあるのもよく理解しています。
だからこそ、かつて御朱印を取り入れた過去があるのも、そうした世俗の方々との接点を得ようとした苦肉の策だったのだろうと推察します。そして、そうした在り方が、自分で自分たちの教義と信仰を貶め歪めさせるのだという過ちに気が付いて、取り止めたのでしょう。
私自身はこの件について、これまでもこれからもあってはならないことだと考えております。どれだけ世間から非難を浴びても、一貫した姿勢を貫くべきだと思います。ですから、あなたの訴えには宗門全体が耳を傾けるべき意味があると感じております。
そして、あなたの怒りや疑念を受けてもなお、私(と浄土真宗)は御朱印がもたらす作用にうなずくことはできません。
それが何故なのかは、私があれこれと何でも押し付けるよりも、あなた自身の胸に問い掛けていただくことが、何よりも近道だと思われます。
あなたにとって御朱印を集めるということは、どういう意味を持ちますか?
あなたが御朱印を与えてくれなかった寺院や宗派に対して怒りと憎しみを抱いたことで、あなたの心は晴れましたか?
あなたが生きる現在、そしていのち尽きてゆく未来に、御朱印はどう影響しますか?
今後ご返信いただく必要はありませんので、私の言葉をご自分の中で“聞”いていただきたく思います。あなたのお声を確かに受け止めたことに免じて、あなたもまた、私の声を受け止めていただければ、私はとてもうれしいです。
私たちの開祖・親鸞さまは、「念仏以外に救われる方法があるのではないか」ということを問いただそうとして遠方から駆け付けた方々に、こう仰せになりました。
合掌