はてなキーワード: 葬儀とは
https://ncode.syosetu.com/n2053bd/
https://ncode.syosetu.com/n9123ch/23/
https://ncode.syosetu.com/n9123ch/1/
(´・ω・`)「…むぅ、なかなか重厚な。あと、主役の多い話だった。」読んでいる途中で身近な人の葬儀にかさなったこともあり余計に重厚に感じましたニャー
父は気に入らないことがったらすぐに家族を殴る性格の人間だった。
挨拶を忘れると殴られ、箸の持ち方が汚いと殴られ、服の着こなしがだらしないと殴られた。
父との生活が嫌すぎて大学を出てすぐに家を出て、実家に帰るのは年に多くても1回くらいになっていた。
父は家事のほとんどを母にさせており、母がいなくなった今、それを俺にやらせようとした。
俺は断固断るとこれまで育ててやったのにどうのこうの言い出すので、なんだこいつうるせーなと思って思いっきり顔面をぶん殴って「いい歳こいて駄々こねるんじゃねぇ。ぶち殺すぞ」と言いつけると怯えた顔で「すまなかった」と言った。
なるほど、これは手っ取り早いわ。
今の家に帰る段階になってこれからどうすりゃいいんだと言うので、てめーの人生くらいてめーでケツ拭けや。大の大人が鬱陶しいんじゃと一発蹴り込んでもんどりうってる父をしり目に実家を出た。
彼は長男として色々な期待と重圧を受けながらも、両親からとても愛されて育ってきたのだろう。
従兄弟だった彼は、幼かった頃は隣県に住んでいた事もあり、盆や正月には叔父と共によく遊びに来たものだし、私達も両親と一緒に遊びに行ったものだった。
ところが私が中学に上がった頃、叔父の転勤と共に簡単に往復できる距離ではなくなったことから、“もっとも、当時の我が家の状況を鑑みると、理由はそれだけではないようだが”彼との音信は完全に途絶えてしまい、無事就職が決まって今は勤務先の新潟に居るらしい、という事を叔父から伝え聞いていただけだった。
彼の訃報を受け、私は両親と共に叔父の元へ赴くことになったのだが、私達が斎場へ到着した時にはまだ親族関係者の誰の姿もなかった。
斎場の職員に案内された通夜会場には故人の亡骸が納められた棺だけがあり、叔父の到着を待たずに棺の窓を開けて故人と対面した。
驚いたことに、十数年振りに見る故人は少なくとも私の記憶にある幼い丸顔の彼ではなく、彫りが深くてひげの濃い、独身だった頃の私の兄と瓜二つの容貌だった。
甥の顔を久しぶりに見た両親も、死に化粧の所為かもしれないが、と前置きしつつ、本当に寝ている兄のような顔だと。
気がつくと叔父は私達の後ろに立っていた。
正確に言えば会釈するまで、“少なくとも私は”叔父だということに気づかなかった。そのくらいにやつれてしまっていたのだ。
故人の仕事を後押しして遠方に送り出した叔父は、何度も何度もうわ言のように後悔の言葉を口にするばかりで、先に到着していた私の兄と叔母の弟に辛うじて支えられているような状態だった。
その日の夜行われた通夜には、身内だけだと言いながらも、叔父夫婦の関係者のみならず、沢山の故人の同級生や友人達が訪れ、予想していなかったのであろうか、叔父は引きつった表情ながらも、その日一度だけ笑顔を見せた。
通夜が終わった夜遅くに私達は叔父夫婦に家へ招かれ、二人は故人の思い出話、そして故人の最後と、再び自分の後悔の言葉を口にした後で、長男に先立たれた現実を、まるで自分達に言い聞かせるように話してくれた。
実は私の両親は、今日まで叔父の家を一度も見たことがなかった。
叔父には、一度だけでも兄夫婦に自らが努力の末に築いたささやかな城を見て欲しい、そういう思いがあったのかもしれない。
実は数年前、私は一度だけ妹を連れ、叔父の家に遊びに行ったことがある。その時故人はおらず、叔父夫婦が私達の相手をしてくれた。
当時の記憶は薄れ掛けていたが、部屋を案内されて少しずつ思い出してきた。
しかし、リビングやキッチンに荷物が散乱した様は几帳面な筈の叔母のそれではなく、二人の心境をそのまま表しているのが見て取れた。
その後、叔父は一人葬場へ戻り、冷たくなった息子と一緒の最後の夜を過ごした。
翌日の告別式の席上、叔父は喪主挨拶の途中で言葉を詰まらせ号泣したが、振り絞るような声で最後まで読み上げ、叔父、叔母、叔母弟の家族一同で深々と弔問客へ頭を下げた。
皆で献花台の花を分けて棺に詰めて故人を飾ったのだが、沢山の花と思い出の品で個人の顔以外が埋め尽くされた棺の蓋を、叔父夫婦は中々閉じることができなかった。
火葬前にもう一度お顔を見られますから、と葬儀屋に促されてようやく蓋を閉じ、友人と親族で棺を黒い霊柩車まで運んだ。私も棺を持った一人なのだが、両手で抱えた棺は青年となった故人が納棺されているとは思えない程に軽かった。
故人と喪主は黒い霊柩車に、その他はマイクロバス揺られ、住宅街を抜けた郊外にある広い霊場に到着した。
途方も無く広くて、幼い子供たちが芝生の広場で遊んでいる、公園と見紛うような穏やかで緑豊かな風景が.だからこそ余計に、冷たい打ち放しコンクリートの壁で覆われた霊場の中で、故人の棺を囲む我々との落差を大きく感じさせる。
最後に皆で別れを告げ、叔父夫婦もしばらく名残惜しそうに棺の蓋の窓を開けて顔を見つめていたが、叔父が意を決したように閉じ、そのまま故人は荼毘に付された。
火葬が終わった後に行われる骨上げは、当然ながら丁重に死者を敬って厳かに執り行われる儀式であるが、この霊場における骨上げは、霊場の職員がステンレス製の台に乗せられた遺骨の部位一つ一つを細かく説明しながら骨壷に納めていく、という正直なところ厳かとは少々距離を、いや、ある意味では場違いなエンタメ性すらも感じさせるもので、さながらテレビで見る検死のワンシーンか、解剖実習のようにも見えた。
詰め込み始めて間も無く、若かった所為もあって立派な故人の遺骨は骨壷に納まりきらないだろうことが、誰の目にも明らかに映った。
目の前で全てを納めるように親族一同懇願したのだが、霊場の職員は、納めるには遺骨を砕くしかないですが、と説明し、少々躊躇った後で、遺骨を擂り粉木のような棒を使ってバリバリ音を立てて潰しながら骨壷に詰め込み始めた。
“恐らくこれは霊場ではよくある光景に違いない”とはいえ、私でさえギョっとしたそれは、叔父夫婦にはたまらなく暴力的に映ったのだろう、叔母は声にならない悲鳴を上げて顔を真っ青にし、叔父はたまらず席を外してしばらく骨上げの場に戻れなくなってしまった。
しかしながら、骨になって無残に打ち砕かれた息子に背を向けて震える叔父にも、今にも卒倒してしまいそうな叔母にも、声を掛けられる者は、私を含めて誰も居なかった。
ただ骨を潰す不気味な音だけが響き、霊場の職員は黙々と骨壷に遺骨を詰め込み、皆無言のままそれを見つめる他無かった。
来場した時と同じバスに揺られながら、来た道を骨壷を抱えて斎場まで戻るとすぐに、父は叔父夫婦に手短に別れの挨拶を告げ、足早にその場を後にした。
時間が迫る訳でも無い筈。いくらなんでも実の弟になんと冷やかな…そう私は思いながらも叔父達に頭を下げ、父の背中を追って車に乗り込んだ。
すると父は、私の気持ちを察したように車内で私と母に、こう諭した。
冷たいかもしれないが私達が居ても何の慰めにもならない。他の親族の足止めになるだけだ、と。
実は、集まった親族の顔ぶれは叔母関係者が中心を占め、叔父側で駆けつけたのは私達と兄だけという、どちらかというと叔母側の意向が強く見て取れる葬儀と、叔父夫婦の現在の関係性は薄っすらと私にも理解できていたが、父はこの場においてもその事について一切触れなかった。
そして悲嘆に暮れる弟に対する同情の言葉を口にし、人のために涙する父の姿を生まれて初めて見た。
故人の命日は何の因果か誕生日の前日、24年と364日の本当に短い人生だったが、彼にとっては辛くて長い戦いの日々だったのかも知れない。
実家に戻ると家を空けていた間に、少々痴呆気味で放って置けない祖父の面倒を見ていてくれていた妹が迎えてくれた。
両親に促されて、“もっとも、父も母も叔父と会話できるような心境になく、私にこの役目を押し付けただけなのかもしれないが”無事帰宅したことを叔父に電話で告げると、本当に良かった、と喜んでくれたが、これから色々と大変でしょうが…と言ったきり私は言葉が続かなかった。
私の様子を察したのか叔父は、今日はありがとう、それじゃあ、とだけ言い、電話は切れた。後日私の兄から聞いた話では、電話の後すぐに叔父は眠ってしまったらしい。
叔父が長男との淡い思い出を夢に見ながら目を閉じたのか、それともこれから差迫るであろう、暗い現実を想像しながら横になったのかは、私にも分からない。
思い返せば中学生ぐらいから「人と違うこと」に強い違和感を感じていた。
母も変わり者と言われていて、自分は「変わった親を支える健気な息子」という謎のラベルで分類されてて同級生からは「変なやつ」扱いされていじめを受けることもあっても地域や家族や親戚からは普通に接せられたため学校だけが特殊な空間だと思っていた。
父は吃音症を持っていて古希を迎えた今でも時々電話口で吃ったりしている。母は母で何の病気か分からなかったが精神的な何かを患っていたようだった。母の実家は、どうやら部落の歴史を持っている地域らしい。母方の祖母は看護婦だったが、民生委員の方と何か地域の活動もしていそうだった。母方の叔父は、なかなか定職につけないと言われていた。政治絡みのニュースを見たときや何かしら挨拶などを求められると「共産主義がどうのこうの」と呪文を唱え始めるので近寄り難かった。ボソボソ話していたので内容は全然記憶にない。母は若くして亡くなったがその葬儀の席でも呪文を唱えていたので憤慨したことを覚えている。母方の祖母も数年後追うように亡くなり、この叔父は施設に保護されているそうだ。
父方の祖父は戦時中に亡くなっている。父が1歳のとき、父方の叔母が祖母の胎内にいるときに満州で戦死したと聞いている。そういえば母方の祖父にもあったことはない。どちらも祖母はきっと女手一人で二人の子供を育てたのだろう。今、身近にいる子育て世代を見ていると恐ろしい時代だなと思うけど。
自分は昔から不思議と「良き先生や良き先輩」に恵まれると言われる。これは34年間はっきりと発達障害を認識するようになるまで酷いストレス下に晒されて精神を壊されるという経験をしてこなかったことが紛れもない証明のように思う。震災のときに大学を卒業して、無い内定だったときは凄い絶望感だったが当時はそれほどなかった「就職支援サービス」に助けを求めたら1年以内に上場企業の事業子会社という良縁に恵まれたこともあった。
昨年末、父は家族同伴を求められる大きい手術を受けた。その関係で実家と居住地を往復するなど体力的に厳しい日々を送った。加えて昨年下半期、所属部署が人員整理の対象になっていて転職するかどうするか本格的に検討を求められていた。人がどんどん減っていく中で責任ばかりが増大するそんな日々を送ったので年が明けてからとうとう体が悲鳴をあげるようになり休職することになった。
心療内科に初めて通ったのでついでに色々と検査もしてみたが、その中で「発達障害の疑い」も見つかった。
それからASDやADHDについてあれこれ調べたりする中で、昔からの違和感について発達障害だとすると説明がつくようなことが実に多い。ようやくはっきりとしたものが見つかりショックを受けるより今は安堵している。
担当医師によると診察の僅かな時間をみるだけでも「多動障害」のような動きが見られるらしい。しっかり診断するには知能テストを受けてもらう必要があるということなので高額ではあるが一生付き合うだろうし受けることにした。
自分は安堵しているがこれを家族や勤務先はどう受け入れるのかは謎だ。ただ私に早い段階から心療内科の受診を強く打診してくれた同僚は、1年前に休職したときに同じように知能テストを受けたらしい彼はグレーゾーンという結果だったそうだけど自分は恐らくはっきり診断されるんだろう。多動障害は多くは大人になると解消されるそうなので相当根強い何かがあるんだと思うし、多分遺伝的なものもあるんだと思う。
父は母についても認めたくなさそうだったから、息子も病気があると認められるとショックを受けそうで対面でじっくり話さないと駄目だろうなあと思っている。
恋愛については避けていたが、紹介したい人がいるという話をありがたいことに頂いてからこういうことが明らかになっている。父もいつまで元気じゃないということがわかった今、診断を受けて次のステップに動ければいいなあと思う。
姉から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分の意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟だからなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。
ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院に入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。
医者からは一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。
「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」
とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。
「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。
翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子。
溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。
その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法(プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療を検討しようということに。
母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。
程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤の副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。
実家に家族と帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。
副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。
「癌の専門医の先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医の先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。
その道の専門医の先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。
それでも、「やっぱり経験値が高い専門医の先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。
細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果の期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」
とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。
「あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。
ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。
改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医の先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。
これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤の副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してからも状態は改善しなかった。
母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。
この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。
妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャのタイミングだった。
死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー。東京で結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。
12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。
ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態に言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。
足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。
そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。
母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護の段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。
急遽、仕事を休み、実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。
少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。
妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。
「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。
その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。
泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。
訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。
そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。
最後に看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。
看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取りや役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。
一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。
翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係の手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。
覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。
おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分の祖父。自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。
納棺のときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子どもの写真を納めた。
短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから、棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで。
葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族と帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。
夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。
翌日も葬儀、火葬とバタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。
母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通の見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。
それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。
その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。
母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。
当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。
そういえば、ウィッグは友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。
ウィッグの販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。
思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。
癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。
【追記】
たくさんの方に、暖かな言葉をいただき、恐縮しております。ありがとうございました。
私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。
野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。
母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転でドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています。
経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います。特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族の介護+訪問看護の体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家の比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかったこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。
なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード、年金手帳、マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係はほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います。
長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。
死んだ奴らがどう思って死のうが生きてる奴らは生きてる奴らが納得できるように好き勝手に死んだ奴らのことを扱うことができる。
これは許されてるってことじゃなくて、可能の方のできるだ。
だから許されてる方でいえば『死者にあったのかわからん尊厳というものを尊重して言葉を送って死者を想った生者達の中でいい感じの区切りをつける』ってやつだ。
我々は葬式をすることで死者に対して出来なかったことの整理をする、その悔しさと無念の整理をする、出来たであろう最大限の善意をそこで発揮する。
葬式に参加するでもない人たちは労いの言葉を送る。お悔やみの言葉を送る。
そうすることでその死者を知った人達は整理を付ける。
逆に生きている人はこれからも関わるかもしれないのでなるべく最小限の関わり方をする。
だから現実の人間は最低限でも礼儀を持って接していないと生きている人が生きているうちにそのことをやり返される可能性がある。
逆にネットなどではやり返される範疇には無いであろう、実際に会うことはないであろうと考えるから不躾な言葉遣いが横行することになる。
生者に厳しく、死者には優しくなる。
とはいえ、単純に『これが最後とは思わんかったから雑な対応をしてしまった』だけである。
そしてそれは別に普通の人間関係の上でも発生しうることで、最大限リスペクトを持って接していたとしても『もっと良い対応ができていたかもしれない』と思い込む人もいる。
そして逆に『俺は最初から関わってないし、そんなに失礼な態度とってないから特に何もする気ないわ』もいる。
ただその場合は死者に触れている存在ではなくなる為“死者に優しくしている存在”として知覚されることはないのである。
死者には優しくされるというのはそういうことなんだと思う。
割と普通に『死んだらどうでもいいし唾吐いたろ』と考えてるとんでもない奴はいるが葬儀に呼ばれる人間性ではないので一般的なところで見掛けられないだけだろう。
そして本人達もわざわざ表でケガはしたくない為に出回らないだけだ。
時々大切なものと叫ばれる「愛国心」、そして日本やそれに関するものがすごいことをすると熱狂する国民。
ところが私はそういったものに引き込まれないどころか、つい冷めた目で見てしまう。
そんなエピソードを書き綴っていくが、自分でも理由がわからないしどうすればいいのかわからない。
時々ニュースに出てくる、「すごいことをした日本人」。スポーツや学術など分野は多岐にわたる。
言い換えると、だから何、というもので、別に私までうれしくはならない。理由は簡単だ。自分の功績ではないからだ。
スポーツ競技の日本代表は、「すごいことをする日本人」としてメディアに大きく取り上げられるものの代表例だ。
日本代表がスポーツ大会に出る時期になると日本代表戦関係の番組ばかりで埋め尽くされる。
どこもニッポンニッポンうるさい。番組内容もインタビューも日本の応援しかしない。これでは中継・特集番組じゃなくて日本礼賛番組だ。
まるでエロサイトのバナー広告のようだ。1局くらい、日本以外を応援したり、せめて日本に肩入れせずまんべんなく取り上げるようなところがあってもいいのに。
これについても、上記と同じ理由で日本代表を応援できない。勝とうが負けようがどうでもいい。
もし日本代表が勝ったら100万円くれます、とかなら本気になって応援するが、勝ったところでこちらに何のメリットはない。
というか、なぜ日本国籍があるだけで日本代表を応援しなければいけないのか。
別に興味なかろうが、どこか別のところを応援しようが自由ではないか。
その前に、今回のWBC、対戦相手に負けろとかいうのがTwitterのランキングに出てたぞ。恥ずかしくないのか。人のこと言えないぞ。反省しろ。
敬うかどうかはこちらの勝手。単に自分とは関係ない人なので、別に敬う義務はないと考えている。
正直言って天皇が病気になろうが死のうがこちらには関係ない話。ただそれだけの話だ。
メディアでは皇族を様付けで呼び、まるで何も影のない神様のように扱っているが、釈然としない。
まるで問題点を意図的にそらしているかのような印象を受け、どうしても天皇そのものを信用できない。
「天皇陛下は日本国民の幸せを祈っています」とか言われるのも釈然としない。
「日本国民の幸せを祈っています」とか言われても、だから何なの。祈られるだけで幸せになるなら今頃大金持ちだ。
最後に区別しておきたいのは堀江貴文氏のように炎上狙いでわざと天皇を貶しているわけではないことだ。
単純に敬う必要性が感じられないから個人的に敬わないだけの話である。
小学生のころ、「しゃかぽん」(朝日新聞出版)という雑誌を父親が買ってきてくれた。そこには世界各国を紹介するセクションがあり、これをきっかけに海外に興味を持った。
そして中学生のころ、英語・英会話の先生が非常にわかりやすい授業をしてくれて、英語にも興味を持ち、すぐにでも使ってみたいと思うようになった。
(結局使ってみたのは親戚の葬儀の時。故人に手紙を書こう的なコーナーがあり、私はそれをAll Englishで書いた)
背伸びしてワールドニュース(NHK BS1)やThe Travel Show(BBCワールド→Dlife)など英語圏の番組を通訳音声を切って見るようになった。
スマホにBBC Newsアプリをダウンロードし、通学途中英字ニュースを読んだり英語のラジオ放送を聞いていた。
学内には英会話講師が常駐しており、友人がいなかった私は毎日のように通っていた。
大学院のころ、外資系企業でのインターンシップの機会があり、そこで海外留学に十分なだけの資金を得られた。
しかし留学には指導教員の許可が要るものの仲が悪かったので、100円ショップで指導教員と同じ印鑑を買って押印し、そのまま出願した。
事務にはバレることはなく、奨学金(もちろん給付型)付きで送り出してもらえた。
留学の日々は非常に楽しく、刻一刻と近づく帰国の日が恨めしく思えた。
結局帰国の日を迎えてしまったのだが、羽田空港での日系企業の広告を見て「どうせブラック企業なんだろ」と思ってしまった。
ちなみに帰国したのは2020年2月初頭、新型コロナウィルスのパンデミックが始まる2週間ほど前だ。帰れなくなった方がよかったと何度思ったことか。
別に法律で決まっているわけでもないのに、なんで自分の国に協力しないといけないのか理解に苦しむ。
協力したところで何のメリットがあるのか見いだせないので協力する価値がない、と考える。
そもそもこちらは自国に協力するために生まれたわけではない。自分の人生は自分のものだ。なのに、なぜそうさせられるのか。
例えば「子供を産め増やせ」というが、なぜ今までの失策の尻ぬぐいをしないといけないのか。そんなもの移民でもやって自分で解決しろ、と言いたい。
ところで、「みんなで協力しよう」的な言葉がある。
東日本大震災や東京オリンピック前、今回の感染症の直後など、こういったメッセージを目にしたかと思う。
もう一度書くが、だからなんで協力しないといけないのか。私は奴隷じゃない。
協力したい人は勝手にすればいいが、なぜ協力しないことが非難の対象になるのか。
そこまで協力してほしければ、労働契約でも結べばいいだろう。
インターネットはもちろん、書店にも韓国に対するヘイトスピーチが散見される。
私の父親もそれに影響されたかのような言動をするようになった。
ならば私は逆に韓国の人たちと仲良くなりたいと思うようになった。
そこで、上記の留学で一緒になったKAIST出身の韓国人と仲良くなってみようとした。
「今難しい時期だが、ぜひあなたとはもちろん、韓国の皆さんと仲良くなりたい」というと、とても喜んでいた。
それを機にその人とは仲良くなり、毎日食事に行ったり、休日も一緒にするほどの中になった。今ではFacebookで定期的にやりとりしている。
ちなみに、韓国ばかり(日本からの)ヘイトのターゲットになっているが、日本人にヘイトを向ける人はどの国にもいる。
会ってみたらわかるが、韓国人はとても好意的。こういうヘイトスピーチって、外国語リテラシーも渡航経験もない人が想像で言ってるに過ぎないんだな、と改めて感じた。
何というか、個人的には「日本は生まれ育った国に過ぎず、それ以上の感情はない」と思っている。
それに、「別に住みやすければどこでもいいし、なんならそのためにどこでもいきれるようなスキルを磨いた方が効果的」とさえ思う。
イベントだけは東京が最強。美術館・博物館等のの企画展示(今だったらエゴンシーレとか)、ライブ、コンサート、握手会、サイン会、コミケ、コラボストア・カフェ、オンリーショップ、各種食のイベント、とにかくなんでも東京から始まる。
東京で始まらないものだけ遠征すれば済む首都圏と違い、地方はガチでほとんど来ないから全て遠征しなきゃならん。そしてその交通費分で都内のやつはもう一回ライブに行ったりしているわけだ。
モノが買えればよく、限定品に興味がない人にとっては地方と東京には大差ないとは思う。逆に限定品やリアルイベントに通い詰めたいのにいつまでも地方にいたって何も解決しない。
東京にいて手に入らないチャンスより、東京にいなくて逃すチャンスの方が圧倒的に多いのは肌身にしみてるから二度と地方には戻らない。地元のコンサートホール跡地は葬儀場になった。
ゲームさんぽが終わってしまった。いや正確にはまだ終わったわけじゃないけど、自分がYouTubeに齧り付くきっかけとなったチャンネルなので、どこか名残惜しい。
ゲームさんぽを知って、こんな「教養のお裾分け」をしてくれるものが転がっているという事に驚き、それからYouTubeで似たようなチャンネルを探し回っていた。しかし素直に「教育」とか「教養」のジャンルを検索しても、出てくるのは中田のあっちゃんかDaiGoか、あるいはアフィリエイトのにおいのするチャンネルで、ちょっと違うなぁという感じ。とりあえず興味のあるものを片っ端から再生して、関連動画にサジェストされるものを集めて回った。
良い機会だと思って、その中から特に気に入ったものをリストアップしてみた。選出の目安は次のとおり。
・参考文献が明示されていること
(今回はよびのりたくみさんのような、机と椅子に座ってガチで観るべきものは除かせて頂く)
また、最初は動画へのリンクも載せていたのだが、リンクが多すぎてはてなにスパム扱いされたためか、投稿できなかった。
そのため大変恐縮ながらリンクは無効化した。気になったら各自でYouTube検索して欲しい。
東大の生物学系専門家集団による動植物の解説チャンネル。ゲームさんぽをきっかけに作られたというだけあって、どうぶつの森やポケモンなどの考察動画が多め。本家livedoorのゲームさんぽにも出演あり。
専門家がはしゃいでるところが好きな人ならハマると思う。今でも十分面白いけれど、今後はゲームさんぽ系以外の企画も増えてくれると個人的には嬉しい。(自分がまだ見てないだけかもしれないけど)各自の専門分野についてガチでじっくり語るやつとか見たい。
オリジナルゆっくりキャラであるきつねさん、たぬきさんが解説する、生物学系のチャンネル。へんないきもの、という名前になっているが、身近な犬猫から魚類、昆虫、植物、古生物と、動植物ならなんでもアリ。丁寧な説明と、動物と接するときの啓発的内容もあり、子供向けとしても良いチャンネルだと思う。
科学系専門家集団「薬理凶室」に所属する怪人(専門家)たちのチャンネル。普段は立派な専門家だが、匿名の「怪人」になることで、表の立場では言えないちょっと危ないことも言える、というのがコンセプトとのこと。主な活動は雑誌(ラジオライフ)や書籍(アリエナイ理科シリーズ)が中心のようだが、Youtubeでは一般にあふれる疑似科学の解説したり、実験をする動画が多め。中心メンバーのくられ先生が化学専門ということもあり、中高生向けの化学解説シリーズ動画もあったりする。
ゆる言語学ラジオの元ネタ。歴史に詳しい深井さん、楊さんが語り手、樋口さんが聞き手となって、歴史のあれやこれやを語るラジオ。(最近は動画によって聞き手、語り手がちょいちょい変わる。)
特徴は、とにかく一つのテーマを深堀りすること。例えば鎌倉幕府の説明をする(シリーズ全12回)ために、まず前提として平安時代以前の話から始まる。最初の1~4回は律令制や藤原道長、平家の説明をして、シリーズ5回目でやっと源頼朝が登場した。ラジオというだけあってYouTubeでも視覚資料は使わず、全て語りだけになっている。とにかく長尺なので、ながら聞き推奨。
クレオパトラとマリー・アントワネットがかわいいゆっくりキャラになって歴史のあれこれを解説する。コテンラジオは歴史のど真ん中の出来事をガッツリ解説するのだが、こちらは反対に人々の生活やものの移り変わりなどに注目した内容で、少し肩の力を抜いて観ることができる。同じ中の人が以前投稿していた「旧ゆっくりモンドちゃんねる」もおすすめ。
僕は古代エジプトが好きだ。子供のころにかこさとしの絵本を読んだのをきっかけに、世界ふしぎ発見のエジプト回は欠かさず見るようになった。そして令和の今、YouTubeで古代エジプトの遺跡や文化について解説してくれているのが河江先生だ。ギザの大ピラミッドの3次元計測という一大プロジェクトを垣間見れるだけで、古代エジプト好き垂涎の的である。古代エジプトに関するオカルトが好きな人にもおすすめ。
「まいど~、ドクターキャピタルですぅ~。音楽博士やさかいに、ドクターやねん。」というあいさつでおなじみ、ギターの上手い関西弁のおっちゃんが、お気に入りのJ-Popの曲を解説してくれるチャンネル。一通り解説した後、最後はその曲をギターの弾き語りで歌ってくれるので見応えあり。
自分は音楽理論に全然詳しくないのだが、実際に弾き語りを見せられて「どや、このコード、ちょっと○○な感じするやろ~」って言われると、いつも「する!する!」って思って見てしまう。
絵画に詳しい山田五郎さんによる美術のチャンネル。ワダ(25)さんからの質問をもとに、各回に1人の画家にスポットを当てて、その半生を解説するというスタイル。自分は絵画を楽しめる素養が無いと思っていたけど、画家の人生はうんちくとしてものすごく楽しめている。モロに影響を受けて、BSの五郎さんの番組も見てるし、去年の印象派展にも行った。
雑誌のWIREDの日本語版YouTubeチャンネル。動画ごとに色んな専門家が出てくるので、ゲームさんぽと同じくらいジャンルは広め。専門家がTwitterからの質問に答える「Tech Support」、一つのテーマに対して子供向け〜同じ専門家向けに説明のレベルを変えていく「5 Levels」なんかがある。僕は寿司職人と葬儀師の動画が好き。
霊夢と魔理沙が、倒産したり不祥事を起こしたりした「しくじり企業」についてゆっくり解説するチャンネル。中の人が係長だからカカチャンネルという名前らしい。知らんけど。
このチャンネルを見始めてから、自分でも企業の調査報告書をちょいちょい見てみるようになった。ミートホープとか聞いて「そういえばそんなのあったなあ」と思って開いてみたら、あれってマジで肉を水増し(肉に注射器で水入れてた)っていうので驚き。
これは説明不要かも。自分もメンバーシップに加入している。最近、のれん分けから始まった生態学、哲学、天文学、書道、音楽、民俗学のゆる○○学ラジオもそれぞれ面白いので、その他ジャンルとした。
僕が思うに、彼らは動画のクオリティだけでなく、コミュニティづくりも上手い。彼らのメンバーシップコミュニティにの中で、いろんな人が勝手に創作活動を始めており、ラジオ以外のプロジェクトも複数動いている模様。このままフォロワーが増え続ければ、彼らの「ゆる○○学ラジオ」のフォーマットも、ゲームさんぽに続く新しいジャンルのひとつになるかもしれない。
ゲームさんぽはYoutube教養コンテンツ界隈の巨塔だった。専門家と一緒にゲームをして、気になったものを解説してもらうというフォーマットを確立し、他のYoutubeチャンネルでもゲームさんぽスタイルの動画を投稿する人たちが現れ始めた。
僕は書籍化プロジェクトのときに真っ先に投げ銭して、寄進表に自分の名前が載ったのは今でも誇りである。いいださん、ますださんの退職は大変残念ではあるが、いいださんは個人で次の活動を企画されているとのことだし、またゲームさんぽのフォーマットを引き継いで面白いことをする人は今後も現れると思っている。それに一人のファンとして、今でも名越先生のDetroit Become Human解説の続きを待っている。
----
というわけで、まだまだ発掘し足りないから、みんなも好きなYoutubeの教養系チャンネルを教えておくれよ~(∩´∀`)∩
----
追記:
いつの間にやらこんなに伸びてた。みんなありがとう。自分も知らないチャンネルたくさん教えてくれたから、これを書いて良かったよ。こういうの発掘するのもすごく楽しいから。
あと、本当に良いチャンネルだと思ったなら、この投稿に反応するだけじゃなくて、ちゃんとチャンネル登録といいねをしに行こう。それじゃあね~(・∀・)ノシ
残された祖母は茫然自失状態で、結局私の母が喪主をしていた。とにかく大変そうだった。悲しむまでもなくやるべきことが押し寄せてくる様は。故人に近しい筈の人間が悲しむ暇もないってどういうことだよ、という感情を禁じ得なかった。
ところで、祖父母と母の関係性は、あまり良くなかった。孫だった私にとっては優しいおじいちゃんおばあちゃんだったが、まだ幼い私が祖父母の家で甘やかされると、明らか母は不機嫌になり、祖父母の家から帰ると私はよく何かと理由をつけて折檻を食らっていた。最近、お互いが歳をとったことでようやくいろんな感情に収まりがつきつつあったようだけど、たぶん祖父に対しての母の感情は、結構複雑なものがあったように思う。
でも、祖父は急にいなくなってしまった。家族葬だったとはいえ親族や集落(ど田舎なので)の人たちが焼香や弔問に来て思い出話をしていくし、喪主なので親族代表で母は挨拶をする。死んだ人のことは誰も悪く言わない。母も無難な挨拶をした。通夜、火葬、葬儀を経て、勝手に残された人たちの思い出話の中で、「良い人だった」というラベルが祖父に貼られていくのを見ていた。先述の通り私にとっては優しいおじいちゃんだった。でも、わだかまりを持ったままの、娘だった母は、勝手に綺麗なイメージに書き換えられていく祖父像を、どう見ていたのか気になった。
そしてタイトルの話。
祖父母と母の間にいろいろあるように、お察しの通り私と両親の間にも、いろいろある。今は距離を置いて暮らしているし、たまに電話で話し、たまに実家に帰るくらいの距離感でいられるから穏やかだけど、特に母と私は、一つ屋根の下で暮らすには絶望的にたぶん合わない人間だった。許せてないことがたくさんある。でも、この距離で落ち着いている今いちいち掘り返すのは面倒くさい。
でもいずれ両親がなくなったら、喪主をやるか、兄弟に喪主を託せても弔いの場にはいなければならない。その時葬儀に来た人たちが勝手に両親に「良い人だった」のレッテルを貼っていくのだろう。もちろん「良い人」成分も間違いなく私の両親だろうが、それでコーティングされた中身に、結構さんざんな目に遭わされてきた。それを知らない人にはなかったことにされてしまうし、死んだ人のことを悪く言う人はいない。
私はたぶん、それに耐えられない。
なにか増田に書こうと思ったけど、しばらくは混乱していたのでようやく書いてみるかな
葬式って超大変。両親が健在な人こそ読んで!その1|とむよーこ|noteを見た影響も兼ねて、思ったことを列挙する
末期がん、発覚時余命1ヶ月で即日入院(がん自体の治療は不可能、緩和ケアを実施)、約4週間で死去
発覚しなかったのは定期健診で「がん疑いあり」と言われた時に精密検査をしなかったことと、進行して痛みが出たのを「ぶつけたせい」と思いこんだため
写真は遺影のために必要だとは周知されてるし、習慣をつけてる人も結構いるんじゃないかと思う
だけど、静止画だとどんなふうに身振り手振りするかとか、どんな言葉遣いだったかとかを記録できない。音声付きの動画も、年1回適当でもいいから残すといいんじゃないかと後悔してる。
便利な言い訳(という言い方は変なんだけど)スマホを新しく買った時なんかに「試し撮り」なんて体にしておくと気兼ねなく撮れるのでいいんじゃないかと、今更思っている
意識して残すと畏まった物になりがちなので、無意識に残る会話はすごく貴重
(1000件とかで自動上書きされたりするので、余命宣告を受けた時点で一度パソコン等に録音データをコピーするとより多く残せる)
あと、家族集まってファミレスとか行ったらレシートも取っておくと気持ちが安定するかもしれないので、おススメ(最後に一緒に食べたときのレシート、もう二度と捨てられない)
両親とも仏教ではあったが、宗派が違うため無宗教葬という妥協をせざるをえなかった
心残りはある
家が綺麗な場合は問題ないけど、祭壇を設置する場所がないと強制的に掃除する羽目になる
祭壇の大きさは事前に知らされなかったけど、告別式当日の打ち合わせで大中小選べると聞いて中にした
(事前に大きさの選択があるか聞いておくといいと思う)
うちの場合祭壇だけでざっくり2m四方(幅2mは無いから1.5m×2mぐらい)だけど追加で人が座る空間が必要になるので、余裕が必要
小を選んだ場合、祭壇自体は小さいけど花を飾ったりする場所が無くなるので別途設けるなら変わらない
コロナワクチンやHPVワクチンの副反応を気にかけるタイプだった
(他人の接種を妨害するようなことはしないが、「自分は打ちたくない」というタイプ)
その手の不信感がマンモグラフィの「疑い」を軽視する一因になったと思う
私の場合は幾分か影響した(プラスもマイナスもある)ので挙げておく
見た人は分かるんだけど、母を病気で失い、最後に伝えた言葉が感謝ではなくお詫びだったことがずっと心に引っ掛かっているという描写がある
これをみて「最後に伝える気持ちは感謝にしたい」と決心がついて、直接ではなかったけどメールで育ててくれたことへの感謝を綴った
そのメールを送っていなかったら後悔で潰れていた気がする
アイドルの事故死を作品の中心に据えており、身近な人が急に死ぬという可能性を知るチャンスだった(にもかかわらず自分に似たことが起こるとは思わなかったという過ちがある)
個人的には麻奈の楽屋を撮った映像を流す描写を思い返すたび、「真似して母の適当な動画を撮ればよかった」という後悔が絶えない
なんか「親が死んだときにアニメ見てられるか」という趣旨のご意見が来たんだけど
これは母が亡くなる時に見たわけじゃなくて、昔に見ていたのを思い出したって話だよ
掃除の話を追加。一番肝心なこと書き忘れてた
再追記
自分は小さい頃おばあちゃんっ子で、毎日のように祖母の部屋に転がり込んで遊んでもらっていた。祖母のことが大好きだったし、祖母も自分のことをとても気に入ってくれていた。
よく食べ、よく動く人で、身体的にはとても健康で90歳とは思えないほど体は健康だった。しなし痴呆には敵わず、会うたびにいろんなことが出来なくなり物事を少しずつうまく認識できなくなっていき、自分がなにかうまくできていないということだけを認識して悲しそうにしている姿を見るのがとても悲しかった。
以前はそれでもまだ会話が可能で自分のことを認識してくれていたが、ここ数年は自分のことも認識できなくなり、会話はほとんど不可能な状態にあった。こういう状態になったどこかのタイミングでふとあの頃の祖母にはもう会えないんだと思って悲しくなって泣いたことを覚えている。
そんな祖母が先日98歳で他界した。デイケアセンターの職員の方が言うには朝起きたら静かに息を引き取っていたらしい。
その知らせを聞いたとき、正直ほっとした気持ちが一番大きかった。
ほっとしたというのは
葬儀の際も、祖母の遺骨を骨壷に収める際も、あまり悲しさを感じていなかった。甥にどうして泣いてないの?と聞かれてどうしてだろうと思ったけど、悲しくなかったから泣いてないんだろう、しかしどうして悲しくないのだろう。単純にまだ気持ちの整理がついていないだけ?
自分の中で祖母との本当の別れは祖母が自分を認識できなくなったときに一度済んでいたのかもしれない。しかしそう考えると、"自分を認識できなくなった祖母"と会っていたとき自分はその人を祖母だと認識していなかったのではないかと思い、なんというか、自分は自分勝手な人間だなと嫌になってしまった。
弔辞 8月の2日にあなたの訃報(ふほう)に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。
われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第一世代と言っていいでしょう。あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクター。私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して、九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきりと覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。
終わって私のところにやってきたあなたは「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断をこの人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。
それから長いつきあいが始まりました。しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。
赤塚先生はほんとうに優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。
あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を無化していったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月。伊豆での正月。そして海外へのあの珍道中。どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが、京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたはいまこの会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。しかしいまお礼を言わさしていただきます。
合掌。
平成20年8月7日
【続きのようなもの anond:20230328202632】
三年前に祖母が亡くなったとき、私は孫代表スピーチを頼まれた。それで葬儀に出るまでの短い間におばあちゃんとの思いでをふりかえることになった。
そのころ大好きだったアイドルが載っていたMyojoやPOTATOを見せて、おばあちゃんに誰が好みか聞くと、「みんなすてきでかっこいいけど、この子が明るい感じでお話がしやすそう」といって、当時の私の推しを選んでくれた。
画家だった曾祖父の描いた、ふたつのあけびが木になるままにはじける刹那をとらえた、グロテスクで美しい日本画をいつもいとおしそうにながめていた。
横山大観の展覧会に行きたいというから、じゃあ一緒に行こうと博多駅で待ち合わせをした。前日に何度も何度も電話で確認したホームにおばあちゃんはいなくて、慌てて必死に探したら、私の母が以前に贈ったあみめの大きなベージュのレースのよそ着をきて、博多口のすみっこにぽつんと立っていた。
ずっと戦争の話をしなかったのに、終戦70年の年だけは、学徒の鉢巻きを巻いて軍需工場に潜水艦の部品をつくりにいっていたこと、午前中から午後の四時半まで作業して、だからろくに学校にいけないまま学齢を終えてしまったことがとてもくやしく、今もかなしく思うことを、ぽつりぽつりとはなしてくれた。
彼女は何らかの情感を込めて、何かを語り伝えようとして話した様子ではなかった。そのとき自分の身におこっていたことを「それ以上でも以下でもない、ただ覚えていること」として恬淡と、他の話題と何もかわらない調子で話すものだから、太平洋戦争は決して歴史上の出来事ではなく、今日につらなる地続きの事実であり、たった今目の前にいる彼女や誰かの人生なのだなと私は思った。
さきの戦争は、今ここにあり、明日へ続く祖母のきた道の最初の方にあることで、彼女にとっては、そのときすごした日常にほかならないのだと。
そして、桜の咲く時期にみやまの清水寺に行こうねとずっと話していたのに、とうとう行かずじまいになってしまった。
またいつか会える日があれば、絶対に行きたいと思っている。
そういうことを、ひとつひとつ言葉にしながら思い出していったのだけど、そのときその話をきいてくれていた男性と私は、まさにセックスを行おうとしており、私は話しながらも彼の乳首をいじりまくっていた。
彼は私の話をしばらくしんぼうづよく聞いてくれた後、「ごめん、気持ちいいのとしんみりするので感情がくちゃくちゃになる。集中できないので乳首かおばあちゃんの思い出話かどちらかにしてほしい」というようなことを言った。
わたしはそれもそうだなと納得したので「ごめん、確かにしんみり乳首はよくないね」と反省の意を示した。それでしまいのつもりだった。
ところが大変なゲラである男性は、「しんみり乳首」ということばがどうにもツボに入ってしまったようで、ひとしきりげらげらと笑った後、怒り出してしまった。
彼は、エロとしんみりの相性がいかに悪いかということ、自分の考えをまとめるためにしゃべりながら手すさびのように他人の性感帯をさわるのはよくないこと、自分がされて嫌なことを人にしてはならないこと、エロと笑いの相性はエロとしんみりの相性よりもさらに悪いのだから、しんみり乳首などという単語を創出するなということを、怒りながらひとつひとつ述べた。
もう今日はそういう気分がそがれてしまったので一回寝る、よくよく反省したまえ、というようなことを最後にいわれてお説教は終わった。
私はそのひとつひとつのことばに反論するすべをまったくもちあわせておらず、しかし性行為への未練があったためにちょっとはぷーぷー言てみたが、男性の、今日はもうそういうことはしない、という決意が翻らないとみるや、おとなしく就寝した。
セックスは翌朝にした。
そして昨日も、私はその男性と性行為を行おうとしていた。(この3年間恒常的に会っていた)
生理で少し間が開いていつもよりむらむらしていたし、世間話をしながらこたつの中で足をもちゃっとさわりあったりしていたので、頃合いもよいだろうと、私は「乳首が吸いたい」と切り出した。
しかし彼は、勤務先の広報誌の自分が載っているページのことについて話したかったらしく、私の「乳首が吸いたい」という言葉を全く無視して、広報誌を広げて「このページの…」と、しゃべろうとする。
まだそういう気分でないのであれば、その旨を一言述べてくれれば私も一度は引き下がり、そのまま広報誌の話でもなんでもきく用意はある。
が、そういう打診がいっさいなかったので、私は男性の言葉をさえぎり「乳首が吸いたい」と再度申し出た。
男性はやはりその言葉をまるできこえていないかのように無視して、広報誌の話をしようとする。
そのやりとりが4・5回あったところで、私の方が一旦折れ、しかたがないので広報誌の記事についてひとしきり語り合った。
その後、実際に男性の乳首を吸う段になって、私はさきほど「乳首が吸いたい」という申し出をさんざん無視されたことについての苦情を述べた。
別に一言ことわってくれればいくらでも話をきくのに、なぜ乳首が吸いたいという私の言葉を無視するのか。人の言葉を無視するのは人権侵害だ! というようなことを乳首をちゅぱつく合間に言いつのっていたのだが、私はそこでハッと気づいた。
これはもしかしなくとも、三年前の状況に酷似しているのではないか。乳首をいじりながら別のことをしゃべると気がそがれると怒られたあの状況に。
思わず、「あっ、人権侵害だとかいいながら乳首すってたら、またしんみり乳首のときみたいに怒られちゃう。人権乳首じゃん。人権乳首で怒られる!」とあたまに思い浮かぶままにしゃべると、それまであんあんいっていた男性は急に「人権乳首!!」と短く叫び、あのときと同じようにげらげら笑いだした。
男性は「人権乳首ってなんなんや!」(関西人)と笑いながらいうので、「しんみり乳首のときと同じだよ。しんみりした話をしながら乳首をさわらせてもらえないように、人権侵害を訴えながら乳首をさわらせてもらうことはできないっていう事象だよ」と答えると、男性は私の肩をつかんでぐいぐいと遠ざけ、ひとしきりひいひい笑ってから「ちょっと一回お茶飲む」といって寝床から出て行ってしまった。
さすがの私も学習している。このままではセックスできない。だが私は絶対にセックスがしたかった。なのでお茶を飲んで仕切り直し、寝床にもどってきた男性に有無を言わさず襲い掛かり、喘ぎ声を除いて無言の時間の比率を増やすことで笑いのツボを絶対に刺激しないように気を付け、無事に本懐を遂げた。
しんみり乳首のときは私に全面的に非があったのはみとめるけれど、人権乳首に関しては私の言い分に一理あるのではないかというのはちょっと思うが、どっちに理があるにしても相手の気分をそぐとセックスはできないという、ごく当たり前のことを感じた一日だった。
何が怖いって、自分の意思でコントロールできなくなった身体が人目に晒されるのが怖い。
わたしは今でさえ家族や医療従事者にも寝顔を見せるのが嫌なのに、死んだら家族や葬儀屋、場合によっては警察官なんかにも死に顔を晒さなくてはいけない。家族が葬式に人を呼んだら呼んだだけ、わたしでなくなったわたしの身体が衆目を集めてしまう。
遺体も残らない死に方は酷いと言う人もいるけれど、わたしはそちらの方がまだ耐えられる。
生きているうちからバラバラとかは怖いけれど、火を着けてから首吊りとか、睡眠薬を飲んで見投げとか、何かないのか。出来るだけ苦しくなくて、人前に出せないような遺体になるか、遺体も残さず死ぬ方法は。
葬儀会社の人、密葬以上にこぢんまりとした、遺族にも顔を見せないプランとか出せませんか。
生前故人が契約しておけば、死亡確認、死亡届提出、火葬許可証発行までは遺族がやって、遺体は火葬まで葬儀屋の倉庫みたいなところに安置して、順番が来たら焼くだけ焼いて遺骨は配送、みたいな……。
「独り身で身内に面倒をかける厄介な親族」「多かれ少なかれ迷惑がかかるのは姉弟なり甥や姪らなのだ。」について、葬儀社の立場からアドバイスするよ。
・終活は成年後見人制度を使おう!他人(行政書士)にフルお任せ可能。
老人ホームの入居~葬儀の手配まで、全部行政書士に任せて亡くなった方の葬儀をたくさんお手伝いしたよ。来る日のためにお金貯めたり情報収集していれば大丈夫。
・甥姪も相互扶助の精神で看取り手伝ってくれること多いから、生前の関係構築に今から力を入れよう。
遺産が残せそうならなおさら。私は大叔父(祖母の弟)が高齢独身だけど、遺産ももらえるし長いこと可愛がってもらっているから喜んで大叔父のサポートしてる。
既婚だとしても子供がいるかわからないし、結婚歴問わず子供いない方の葬儀はだいたい甥・姪が喪主やってくれたけど、面倒だな~~って感じになってる葬家見たことない。
これからは一人で死ぬ時代!!!自分の面倒を見てもらうための結婚なんてしなくて大丈夫!!
漫画好きなら「ひとりで死にたい」っていう漫画(コミックデイズで無料連載)に書いてあるから、参考に読んでみて。恋愛できない悩みは置いておいて、その先にある孤独を恐れるのはもったいないから気にするな!!!
@otakulawyer
礼拝所不敬罪は、礼拝所に対し公然と不敬な行為をした者にを処罰しています。屍姦は遺体に対し不敬な行為なのですが、死体損壊罪には不敬という文言がないので、死体「損壊」の概念に不敬な行為を含めるという解釈は無理がある。性犯罪は個人的法益に対する罪なので、死体に対する性犯罪はあり得ない。
https://twitter.com/otakulawyer/status/1619179114451308547
https://twitter.com/hyunhwa_2/status/1617843701904207873?
賢花
@hyunhwa_2
·
>「遺体への姦淫行為、つまり死姦については、昭和23年の最高裁判決で『死体に対する侮辱行為、例えば死姦は損壊ではない』と判断されています。死体損壊の『損壊』行為は刑法上、物理的な損壊のみを指します」
dailyshincho.jp
葬儀場の職員が、亡くなった「女子高生」の胸を…被害者の母は涙ながらに「娘のお墓に土下座してほしい」 | デイリー新潮
故人との最後の別れの場で、ご遺族が心穏やかに亡き家族を見送るための手助けをしたい――。…
賢花
@hyunhwa_2
死姦は当然、死体損壊に入るものと思いこんでた。性犯罪に対する考え方がおかしな国なのは十分わかってたつもりだけど、まだ驚かせてくれるとは。
https://anond.hatelabo.jp/20230128133630
https://anond.hatelabo.jp/20230127223502
経済的に余裕はある方だと思うけど
結婚はしたくないんだよ。
自分に人を愛することができるとは思わないし
ただ死に際に一人で死にたくない。
ギブアンドテイクとして
後葬儀の後始末だけやってくれる人がいてくれるだけでいい。
介護もしてくれなくていい。
そのためだけに1000万くらいは出せるんだけどどう?