死んだ奴らがどう思って死のうが生きてる奴らは生きてる奴らが納得できるように好き勝手に死んだ奴らのことを扱うことができる。
これは許されてるってことじゃなくて、可能の方のできるだ。
だから許されてる方でいえば『死者にあったのかわからん尊厳というものを尊重して言葉を送って死者を想った生者達の中でいい感じの区切りをつける』ってやつだ。
我々は葬式をすることで死者に対して出来なかったことの整理をする、その悔しさと無念の整理をする、出来たであろう最大限の善意をそこで発揮する。
葬式に参加するでもない人たちは労いの言葉を送る。お悔やみの言葉を送る。
そうすることでその死者を知った人達は整理を付ける。
逆に生きている人はこれからも関わるかもしれないのでなるべく最小限の関わり方をする。
だから現実の人間は最低限でも礼儀を持って接していないと生きている人が生きているうちにそのことをやり返される可能性がある。
逆にネットなどではやり返される範疇には無いであろう、実際に会うことはないであろうと考えるから不躾な言葉遣いが横行することになる。
生者に厳しく、死者には優しくなる。
とはいえ、単純に『これが最後とは思わんかったから雑な対応をしてしまった』だけである。
そしてそれは別に普通の人間関係の上でも発生しうることで、最大限リスペクトを持って接していたとしても『もっと良い対応ができていたかもしれない』と思い込む人もいる。
そして逆に『俺は最初から関わってないし、そんなに失礼な態度とってないから特に何もする気ないわ』もいる。
ただその場合は死者に触れている存在ではなくなる為“死者に優しくしている存在”として知覚されることはないのである。
死者には優しくされるというのはそういうことなんだと思う。
割と普通に『死んだらどうでもいいし唾吐いたろ』と考えてるとんでもない奴はいるが葬儀に呼ばれる人間性ではないので一般的なところで見掛けられないだけだろう。
そして本人達もわざわざ表でケガはしたくない為に出回らないだけだ。
生きてるうちは怒られて、死ぬと優しくしてくれる。 それじゃあ死にたくなっちゃうよ。
そりゃ死んだ奴らは生きてる奴らに何の抵抗もできないからな 死んだ奴らがどう思って死のうが生きてる奴らは生きてる奴らが納得できるように好き勝手に死んだ奴らのことを扱うこと...
死んだ人に優しいのではなく、 いなくなった人を悼む自分に酔っているとか いなくなった人を悼む「優しい自分」を評価して欲しいという承認欲求なんだよ。 そんなものに負けない...