はてなキーワード: 自戒とは
・党派性の強い人
味方は甘やかそう、敵はケチをつけよう、というのを端から前提にしてる。とにかく日常的に、自分が支持している言説の「味方側が勝ってる」「敵側が負けてる」発言を集めては広めていてる。さらに何かの発言を見たとき、瞬時にそれが「味方側」か「敵側」かの判断をして、色眼鏡をかけて、味方側っぽい人の話はうんうんうなずきながら読む一方(時には読む前に広めてしまう)、敵側っぽい人の話はここにがどう間違ってるのかをあらさがしだけをするように読む。そして味方側の悪いところも、敵側の良いところも、なかったことにする
・属人性の強い人
頭の中に「味方側フォルダ」「敵側フォルダ」を分類していて、そのフォルダ分類に合わせて他人の意見を判断をする。何を言ってるのかを確認しない。「○○という名前を見てそっ閉じ」みたいなことを平気で言う(←これを「こいつの言ってることはどうせ間違ってる」ではなく「私はただ単に閉じただけです」だとか、言った本人も含めて誰も信じてない言い訳はやめてね)。
・敵側には何をしても許されると思っている人
「敵側」と判断した相手への公平さを一切考慮しない。最悪のところ、デマでも誹謗中傷でもなんでも許されると思っている。平気であやふやな情報による攻撃を率先して信じ広めるし、日常から「中傷的な名前の呼び方」なども平気で行っている。
また敵側と判断した相手に対しては、その他のあらゆる部分でとにかく攻撃的にならないといけない、否定しないといけない、譲歩してはいけない――と思っている。例えばある点でとても批判的な相手が別の部分でいいことを言ったりしても、絶対に認めない。あるいはある点でとても批判的な相手の、まったく別の本業の成果などに対して、端からバイアスをかけて否定しようとする。
公平さがない。
・訂正ができない、謝れない人
一度批判した相手は敵側なので、間違ったことを言ったり、中傷的なことを言ったり、なにか言い過ぎたりしても、訂正ができない。ましてや謝れない。「敵側」に対するなんらかの譲歩的なアクションはすべて、こちら側の失点であり、敵側の加点であると考えているので、「敵に対して訂正をしたり、謝ったりするなんて、できるか」と考えてしまう。それが明々白々な間違いでも、いやそうであるからこそ、やれない。
・口汚い人
「アホ」「バカ」「間抜け」などはもはや軽いジャブ、「人のクズ」「虫けら」「ゴキブリ」等々、とにかく口汚く敵を罵る。――なお、一般論として差別用語などを使う人間を批判する人の一部も、平気でこうだったりする。人を傷つけるのはやめようと思っている(ぼくも同意する)人が、なぜそうなるのか、よくわからない。
・自分に甘い人
以上、かなりの自戒を込めて書いた。
これを読んで「自分の考える敵どもって確かにそうだな!あいつらしょうもないな!」としか思えなかったら、それはやめてって思いますね。
おまけ
当たり前だが、最近よく見かけた……というのは、それが「多い」ことを意味しない。ましてや前より増えていたりすることをや。
心理学的に、ヒトは統計数字をうまく呑み込めず、「自分が思いつくこと」が統計的に多いのだと判断してしまうものらしい。何かが何かに比べて多いとか、何かが周りより突出しているとか、そういうのの根拠に「自分や周りの体験」「ネットで見たいくつかの件」を挙げたり、あるいは何かが少なかったりないという根拠に「見たことない」を挙げるの、エラーなんじゃないかなー。
ぼくはここ数か月で街で二回喧嘩を見たが(人生でもめずらしい体験だ)、それで『喧嘩は増えている』と言ったらおかしいのだと思う。そういうこと言う人が昔より増えている。
感情に任せて書いたくだらないクソメンヘラ女の戯言なので、地雷臭に反応してしまった人は読み飛ばして欲しい。
四月一日。新年度が始まった。TwitterのTLはエイプリルフールと新社会人という言葉で溢れていた。
就職先を教えてくれない恋人に対して、世の人はどう思うんだろう。
私の彼氏(年上)は今年度から就職だ。これはまあ順当に行っていればの話だが。細かいことを言うと身バレになるので割愛するがどうやら大学留年疑惑も出ているらしい。いやでも去年の秋口に就職先は決まってるって言ってたよね?就職?就職浪人?留年?休学?今どう言う立ち位置にいるんだろう。べつに留年だろうが休学だろうが就職浪人だろうが自分のやりたいことをやってたんだから特に悪いとも思わないし、どちらかというと将来に対するこれからの努力とかそっちの方に目を向けたい。ただ、もし嘘をついていて働く気のないニートなら別れます。将来のことについて嘘をつく人は信用できません。
聞かなかったの?って思う人もいるだろうし相談した人たちにめちゃくちゃ「聞かなかったの?」って言われた。そりゃそう。これに関しては自分でもものすごく反省している。去年の秋口に「言いたくなったら言って」と溢してしまって以来、聞くのは憚られた。余計なことを言わなきゃよかった。
さらにこの間のデートでは「おいおい言うね」と追い討ちをかけられた。えっと、おいおい話せる仕事って一体何?てかこんだけ引っ張ってて打ち明けられた時の反応どうすりゃええねん。
その日のデートは最寄りの改札から家まで号泣して、そのあとも大泣きして日本酒を飲んだ。
そこからは電話タイムだった。深夜までLINE電話が繋がっていた。人間ってこんなに人と喋れるんだと驚いたくらいだった。
親に相談したら「別れれば?普通に信用できないじゃん。次の人さっさと見つけた方がいいよ。」
兄弟に相談したら「あんたは彼氏のこと信頼できてないじゃん、信じてあげなよ」
友達①に相談したら「とりあえず次会った時に留年した?ほんとに就職した?って開口一番聞いてみなよ。あと◯◯大学(彼氏の大学)レベルで留年するのは大体ヤバいからマジで。やめときな。」
友達②「まあ言いづらいんじゃない?あんた公務員志望だしなんなら院進かもしんないんでしょ?付き合ってそんな経ってないんだから待ってあげれば」
多種多様な答えが返ってきたけど、全部ド正論に聞こえた。次にこれは「彼氏から就職先を教えてもらっていない女がどうすればいいか」っていうことに対するアドバイスだったと思った。それはそう。冷静になりすぎ。
しばらく考えて、「世の中の人間は恋人から就職先を教えてもらえなかったらどう思うんだろう。」っていうのが知りたくなった。朝七時だった。そのあと一眠りして起きたら信じられないくらい浮腫んでいて千と千尋に出てくる坊みたいな顔をしてて自分でも引いた。洗面台のところで見たパンパンの自分の顔にびっくりして声が出るなんて、二度と忘れない瞬間だと思う。あーあ中身が神木くんだったらなあ。
ここで冒頭で書いた質問に戻る。
「就職先を教えてくれない恋人に対して、世の人はどう思うんだろう。」
あの時、彼に対して、自分でもどういう感情だったのかわからないけど、一番は寂しいな 、だった。そして、彼氏に秘密があるという事実が何故か嫌だった。人間誰しも秘密の一つ二つはあるだろうしもちろん私にも彼氏には絶対に言えない秘密はある。だけど秘密っていうのはその秘密の存在すら隠してないかのように振る舞うものだと思っていたから、見せないように見ないようにするものだと思っていたから、こうして改めて秘密があるっていう現実を突きつけられると虚しかった。
世の中にはいろんな人がいるから、少しでも彼氏のことを受け止められるようにいろんな意見を聞いて、どんなふうに考えればこの問題に関して着地点が見えるのかを探りたかった。こんなことをして解決できる問題ではないのだけど。それでも縋り付かせてください。もう限界です。
頑張るのでどうにかうまくいきますように。
<追記>
もう中学生とか高校生じゃないから本気で結婚とかも考えてるから将来のことも知りたいなって思ったんだけど、もしかしてそもそも恋人の就職先って知らなくてもいいものなんですか?
これは同人誌を出したことのある腐女子が、他人の炎上に乗っかって自己顕示欲を満たすチャンスを伺い、隙あらば自分語りをすることで「誰かが大事にしている文化は安易に否定しないようにしよう」ということを自戒も兼ねて訴える文章である。
2021年3月29日、Vtuberのさくらみこ氏が、動画内でBL同人誌を作者の許可なく紹介し、その際の態度が作者へ敬意を払っているとは到底思えないものだったとして多くのオタクの不興を買い、炎上した。
私は脳直Twitter女なので、即座にブチ切れ許せないとツイートをかました。
しかし何事も事実を見つめないまま、尾ひれのついた情報に踊らされてぶち切れまくるのは良くない。
阪神パッケージのばかうけを6枚食べ、レモンティーを3杯飲んで頭が冷えた私はとりあえず現場を見に行くことにした。
現場である元動画は削除されていたので、該当箇所の切り抜き動画を見た。
結論から言えば、イキった中学生の腐女子が友達の家でお菓子を食べながらしゃべっていたことが、そのまんまインターネットに投稿されてしまったんだなというのが正直な感想だ。
友達の家という閉鎖空間でやっていれば数年後あたりに「なんてことをしてしまったんだ」と気付くようなことが、Youtubeに投稿されてしまったせいで全世界に公開され、結果として作者を傷つけ大炎上してしまったんだな、と。
インターネットと考えの足りない人間が組み合わさると不名誉な方向でTwitterトレンド入りという花火が打ちあがるのだな、と現代の恐ろしさを改めて感じた。
ここまで考えたところでふと、私は思った。
私は果たして、彼女のように一度も誰かの大切にしている文化を馬鹿にしたことはないのだろうか?
今回の配信で彼女にスパチャを投げるリスナーのように、誰かの大切にしている文化を馬鹿にするようなコンテンツで笑ったことが、一度もないと言い切れるのだろうか?
私事になるが、私はギャンブルが嫌いだった。父が無職で家に常に金がなかったこともあり、人を貧乏に突き落とすギャンブルのことも、貧乏を承知でギャンブルに金をつぎ込む人のことも嫌いだった。
だからある人から競馬が好きだとかパチンコが好きだと聞かされると、その人のことがどれだけ好きでも「当たらないものに大事なお金をつぎ込む変な人」と軽蔑せざるを得なかった。
しかし最近のウマ娘 プリティダービーの流行に乗って見かけた一つのツイートで、私の価値観は大きく変わった。
『馬、ウマやったから解ったんだけど、あれ、馬券を買う事自体が『推しへの課金』の側面を持ってて、なんと『推しに課金して推しを現地で応援すると推しが勝って金が増える』という夢のシステムを搭載していて「そりゃハマる人はハマるわ」って感じがする。』
https://twitter.com/ebleco/status/1375028099289522176
私は勝手に、馬券を買う人は単純に順位を当ててお金を手に入れることだけを目的に買っているものだと思い込んでいたから、競馬にそういう側面があることを全く知らなかった。
そこからTwitterに流れてくるゴルシの珍奇行動漫画やハルウララ有馬記念アタックに触れるうちに興味が湧いてきて、インターネットで競走馬のことを調べるようになり、王者と称される馬にも勝てなかった馬にも、皆等しく生涯のドラマがあったことを知った。
そして競馬への造詣を深めていく中で、競馬という一つの文化を知ろうとも理解しようともせずにただひたすら嫌い蔑んでいた自分を恥じた。
「他人の文化を知ろうともせず土足で踏み入って否定し、馬鹿にする」という意味合いでは、ウマ娘に出会う前の私の思考と行動は、作者に無許可で同人誌の内容を読み上げ大笑いしたさくらみこ氏と本質的には何ら変わりない。
私がこの文章のタイトルを「誰の心にも""さくらみこ""はいる」としたのは、まさにそういった意味である。
今回の騒動は感情的な側面に限らず複合的な問題を孕んでいるだろうが、その中で特に腐女子が大いに怒った点に関しては、彼彼女らが大切にしている「作品を作る行為は素晴らしい、作品を作る人は大事にしよう」という文化を踏みにじったのが原因だと私は思う。
確かにさくらみこ氏の行った「作者に無許可で内容を公共の配信で読み上げ、その直後に大笑いする」といった行動は、客観的に見ればとてもではないが作品や作者に対して敬意を払った態度とは言えないだろう。
その行動に対して怒りが抑えられないのも、勿論分かる。私とて現場を見に行く前に脳直激怒ツイートをした感情的な人間だ。
けれども、「自分は他人の大事にしてる文化を馬鹿にしたことなんか一度もありません」という顔をして今がチャンスとばかりに彼女を叩きまくるというのは、自分のことを棚上げしているようで見苦しい行いではないか、と思う。
断っておくが、私はさくらみこ氏を擁護したいわけではない。ただ、彼女の行動をきっかけに自分も同じようなことをしていないか振り返ってみないか?と、呼びかけてみたかっただけなのだ。
どの界隈にも、そこに属する人たちが大切にしている文化がある。それが自分の目にはどれだけ異様なものに映ったとしても、その背景を知らずに否定するような人間にはなってはいけない。
異なる文化の中身に触れようとも知ろうともせず、一つの文化を否定したことのある人間として、人は簡単に否定に走ることを嫌という程知っているからこそ、今回の一件は改めて己の振る舞いを身につまされるような事件となった。
違う文化を肯定するのは難しいかもしれない。でも、馬鹿にするのはやめよう。それぐらいなら、誰にだってできる。
私もそう在れるよう、努力し続ける。そして私がその志を忘れ誰かを傷つけたら、石を投げて目を覚まさせてほしい。
おしまい。
軽率に絵を誉めるんじゃなかった。
仲良しの絵師がいた。私はフォロワーが少なく、大体絡むのはその人とだった(以下、Aとする)
絵師は私と同い年で、親近感もあった。私も絵を描き、Aも描き、お互いに誉めあって満足していた。「ここが好き!」という一言だけでも嬉しいのだ。
彼女は美術系の大学を目指していた。そして落ちた。受験中はログアウトしていたが、久しぶりに浮上したDMにAからメッセージがあった。
「あなたに言われた一言で、私は浪人を決めた。私の絵を「あたたかいタッチの絵だ」と言ってくれて嬉しかったからだ」
驚きである。そして、Aに対する申し訳なさと自分の無責任な発言を反省した。
絵師、という言葉は不思議だと思う。プロを指す言葉でもあるが、ちょっと落書きをしただけでもネット上では多分絵師なのだ。インターネットは広い。ペンを持って何か描いた瞬間から絵師と呼ばれる条件はあるのだと思う。
友達同士で絵を描きながら「ここいいじゃん!」なんて和気あいあいとしているテンションだったのだが、Aにとってはすごく意味のコメントになってしまったようだ。正直、単純に素敵だなあと思うのと同時に、自分も誉めてほしいという気持ちもあった。「互いに誉めあう」のが気持ちいい。だから、一方的に感想を送って返信がなかったり、「嬉しいです」というコメントだけだと肩透かしを食らう。私の界隈はみんな良い意味でお花畑なので、誉められたら誉め返す人が多い。ウィンウィンだ。
浪人って、かなり人生を左右する選択だと思う。たかが一年、されど一年。私の無責任な誉め言葉で、Aの一年を奪ってしまったような気がする。
気づけば、Aは絵を描かなくなっていた。もう絵は諦めた、と言っていた。一応浪人して上京し、美術系に進学したようだが就職は一般企業を考えているらしい。絵描きを目指し上京し、周りとの差に悩み、一般企業に入るのは珍しくはないんだと思う。思うが、Aの人生の選択の要素に、自分のこれとなしに言った言葉が入っていると考えると申し訳なく思う。
ホッテントリになってる早稲田の人研のインタビューで書いてるように、
鏡を見ても「現実の自分と理想の自分の乖離」みたいなのを感じない人は問題ないんだよ
でも、その身の丈を自覚してないというか、山月記の肥大した自尊心というか、
「現実を見ろ」「俺が用意した鏡を見ろ」
とは言ってるんじゃないかと思うし、それはそれで自戒を込めてだったり、
ちょっと嫉妬というか、悪い言い方をするなら、庵野氏は優れすぎてたんだよ
それは「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」の前からすでにそうだったと思う
なんというか、はしゃいでるオタクとか、若い世代とか眺めては、
そこは俺がとっくに通過した地点であって、おまえら甘いなあ、
みたいに思ってたと思うし、
シンエヴァは知らんけど、旧劇とホッテントリのインタビューを読んで、
非常に面白いと思うんだけど、どこか自惚れというか、そういうのも感じられる
謙遜しているけど、庵野氏自身としては最善を尽くして出し切った感があっただろうし、
内容に対して、BBSなどで「庵野○ね」みたいに書かれて腹立ちもあっただろうけど、
内心は「勝ったな…」「ああ…」だったと思うんだよなあ
ちょっと話が脱線するけど、Amazonなりネットのレビューを見ていて面白いのは、
例えば「主人公が酷い目に逢いすぎるので☆1つです」みたいな評価を下す人がいて、
視聴者や読者の感情を作品で操作できてる時点で「作者の勝ち」だと自分は思っていて、
まあ、それは炎上マーケティングと似て非なるものだとも思うんだけど、
つまり、毒にも薬にもならないぐらいなら、猛毒を盛った方が作品としては面白い
というか、不愉快であれ、胸くそ悪いであれ、印象には残るわけだ
印象に残らない作品よりはよっぽどいいと思う
あるレベルを越えるとマスの客は単に不愉快なので逃げてしまって、露悪趣味の客だけ残ってしまうわけだけど、
それはそれでニッチを狙ってるともいえるわけだけど、売れる作品ではなくなってしまう
話を戻すと、現実を見ろ云々だけじゃなくて、庵野氏としては天然か意図的かは知らないけど、
それは上述したように、毒を混ぜないとつまらない作品にしかならないから
だから、「現実を見ろ」という主張をエヴァには混ぜたけど、他の作品には混ぜてないかもしれない
それは庵野氏にとっては主張自体もどうでもいいというか、それも作品を盛り上げるためのスパイスでしかない
庵野氏自身は「現実を見ろ」と昔から深くは考えていないのかもしれないけど、
エヴァに「現実を見ろ」という主張を混ぜたら、観客はどう思うかな?炎上するかな?
そういう作中に作者が込めた意図的な挑発に単にのる人は、作品にのめり込み過ぎてる人、つまり、現実を見ろの対象であって、
そうではなくて、作り手側の立場で考えられる人はエヴァのラストもそんなに怒らないと思うんだよね
自分で言うのもなんだけど、自分もエヴァのラストには怒らなかった
というか、TVの25、26は作画崩壊ネタにも思えたし、エヴァはループしてラブコメになってるのも良かった
「え?ここまで視聴者を引っ張り回して、なんの謎も解決しないまま、全部夢オチというか冗談でしたで終わっちゃうの?」
と怒る人は怒るんだろうけど、
なんかそれがガイナックスらしさというか、DAICONフィルムらしさというか、まあ、無責任だとは思うんだけどw
結論としては、庵野氏自身に「現実を見ろ」という信念みたいなものは多分ないんだと思うんだけど、
エヴァに敢えて「現実を見ろ」という演出を込めたら、BBSに「庵野○ね」とか書いてる奴らは顔真っ赤にするかなあ、
だから、そこを楽しめる人でないと怒るんだと思うんだよなあ
あと、自主制作の帰りマンも庵野氏がウルトラマンやっちゃってるけど、あれは自主制作だから許されるんであって、
流石の庵野氏も円谷プロからも依頼されたシンゴジラでは、そういうことはやらんわけだよ、当たり前だけど
でも、自分としては円谷プロは今の東京オリンピックと同じように、お家騒動とかでゴタゴタして会社は傾かせるし、
インタビューで、今のウルトラマンは過去のウルトラマンのメタファーでしかない、みたいに言ってるように、
あの辺が限界だったんだろうなあとか、庵野氏は大人になった、丸くなったんだなあ、とか思って、
それがちょっとつまらない一因でもあったんだけど、まあ仕方がないとは思うんだよね
インディーズで売れない時代にライブで負傷者を出すようなステージパフォーマンスがあってもいいけど、
というか良くはないけどw
売れて日本でいうならミュージックステーション?に頻繁に出るぐらいの知名度を得たのに、
インディーズ時代のノリでステージパフォーマンスで負傷者出したら、マスコミとかに叩かれて消えてしまうだけだと思う
だから、シンウルトラマンも庵野氏がウルトラマンになることは絶対ないんだろうけどw
インタビューで語ってたように、初代ウルトラマンって沖縄問題とかイデオロギーとかのメタファーだった、
どっちかというと左翼的というか、学生運動的な臭いもあったと思うのだけど、
彼なりの初代ウルトラマンのようなイデオロギーのメタファーのウルトラマンが観れるんだろうなあと期待はしてる
ただ、自分としては上述したように、初代ウルトラマンのイデオロギー、左翼的とも言える面は面白いんだけど、
プロ市民とまではいわないけど、普段から少しはそういうことをぼけっとでも考えている人なら、
初代ウルトラマンみたときに、あー、難民問題みたいなもんだよな、バルタン星人、とか思ったりするわけなんだけど、
当然、子供はそんなこと考えないで構わない、正義が悪を倒すのを観て消費してくれればいいし、
大人になって改めて観て、初代ウルトラマンを作る側が何を考えていたのか、意図してたのかを考えてみるのもいい
というか、そういうイデオロギーを作品にスパイスとして込めておくことで、そういう奥深さが演出できる
そこに意味を持たせすぎると、「〜するべき」みたいなべき論を伝える説教臭い作品になるわけで、
そこから視聴者それぞれが自分勝手に自分の人生と重ねたり色々自由に考えて自由な感想を持ってくれて構わないと思うんだよね
だから「現実を見ろ」も庵野氏のスパイスのあくまで一つであって、それは昔から使っていたのかもしれない
使ってても視聴する側が気が付かないだけということもあるし、それはそれで構わないんだと思う
蓋を開けてみると、勘違いやすれ違いに寄るものだったらしく、その元凶となった人物は粛々と界隈から去った。
一応言っておくと私が元凶ではない。その元凶となった人物と交流はあったから非常にショックだった。
これが友達だったら、買い物や飲みに連れて行ったり、愚痴や相談を聞いたりしたと思う。
我々はファンであって友達ではない。自分は大丈夫と思い込んだファンが、第二の元凶に成る可能性は十分にある。私だって嫌われたくはないのだ。
せいぜい形だけの労いと日頃の感謝を伝えるくらいのことしか出来ないし、してはいけない。
推しと交流のあるVもいるので、友人として相談を聞いていてくれたら良いなと心から思う。
娯楽を提供する推し、それを喜ぶファン。そうした一次元的な関係性だけが我々には許されている。
そうした関係性は殆ど他人のようなものだし、推しは他人ほど「何かしてあげて嫌われても良い」と思える存在でも無い。
前半はこちら↓
https://anond.hatelabo.jp/20210306213555
結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界を世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。
その上で、あくまでもそういうインテリ業界や文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的に同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想や感情を表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラルの原則からしても、非リベラルの人の表現の自由を制限するのは筋が通らない。ただしその表現を批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。
しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界はリベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別と偏見にあふれているものが普通だ。
たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本ではいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業は否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成の視線の方である。現在の目で見て、こういう川端康成の視線が女性蔑視的要素を含まないということは難しい。
また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身の体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニストの批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。
私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家の視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティの視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しかし古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの、話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観を攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのりの作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法で保守派の戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。
イシグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本の書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客の歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。
「小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉が移民であり民族的マイノリティであるイシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会の成熟を示すものでもあるだろう。
しかしあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル的価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラルの発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル的社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である。
ところで、私は川端康成や太宰治の作品に差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版にしろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成の文章の美しさも、太宰治の小説の面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。
「キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品を全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想の公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。
この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術を総体として愛するならば、自分の嫌いな作品、理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在の視点で川端康成や太宰治の表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法は作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。
ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかったかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点からの批判も作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成を教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。
最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実や科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。
しかし人間の感情というものが社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在の世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルにももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。
まず現状認識が違い、芸術の世界がリベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に、文学や芸術の世界でまで政策議論の場合のように感情を排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学がトランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶるものは文学や芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実の生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術に表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情や思想の避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学的エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分の人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。
また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的、民族的、性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情を表現することを私は一律に非難したくない。被差別者の表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識の問題になるが、今の社会でマイノリティがマジョリティを攻撃するような表現を公然と行えば、より危険にさらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数のマイノリティはそんなことをせず、むしろ感情の抑制に非常に長けている。
BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制の怨恨を復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカの白人社会はすでに何度廃墟になっているかわからないということだ。しかし現実はそうなっていない。現実のマイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情を表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代が幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。
ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。
私はまんがの編集者やってる。
多分そこそこ有名な、作品名言えば幅広い年代の人に通じる本出してる会社。
私が担当している作品は「超有名!」って程じゃないかもしれないけど
ファンもいるし、そのジャンルが好きな人なら知ってるだろうって作品。
編集って、多分何やってんだかよくわかんない仕事の上位に入りそうな仕事だと思う。
作家の家に原稿取りに行って「できるまで帰りません!」と居座るとか
まんがの描き方は様々なので、
全部自分でネタ出してきて、描き間違いや矛盾がないか確認するだけ人もいれば
「今回はグループで遊園地に行かせたいんだけど、2人きりにするシチュエーションは何が良いかな?」とか具体的に聞いてくる人もいる。
9割ネタ出し丸投げの人もいる。
丸投げタイプも「じゃ~何しまっしょっか?」と会話をするうちにネタがまとまる人がほとんどだから、
完全な編集任せじゃないし、楽しく仕事させて頂いている(と、私は思ってる)。
メインの仕事は文字の校正とか写植の手配とか広告や記事ページを作ったりすること。
あとWEBサイトやネット公開用の漫画を整えたり、複製原画作って営業さんに渡したり販促品作ったり。
私は業務時間の8割くらい広告や記事、販促品作ってる気がする。
この仕事をしていて寂しく思う事が一つある。
本当に貰った原稿をみて興奮したり爆笑したり泣いたりしたから感想を伝えている。
わかるんだ。
私も書店さんから「今回の告知チラシ良いですね」って言われたら社交辞令半分に受け取るから。
でも私は本気で作家に「楽しみにしていました」って言ってる。
じゃなきゃ会社で貰える見本単行本とは別に自宅用に、自腹で購入しないって。
いや、わかる。他人に言われた方が嬉しいのすっごいわかる。
作家は悪くない。
でも最近悔しいから、担当作家が他社で描いてるマンガに応援のアンケートはがきを送った。
他社の単行本にAmazonでLOVEコールレビュー書いた(実際すごく面白かったから嘘じゃない)。
他社の担当さん、感想伝えてください。アンケートはがきを読むと捗るタイプの作家さんです。
今日も、表向きは真面目に数字や読者反応を考えて動ける編集者として応援して、
これ以上めんどくさいファンにならないよう、自戒と愛を込めて。
P.S すべての作家さんへ。
頼む、よく寝てよく食べて適度に運動してくれ。長生きしてくれ。
私は健康にいいむくみが取れるお茶(My担当作家の好きな物)を
森会長の女性差別というやつ、クソフェミたちの男性差別、保育園では何故か隅に追いやられるお父さん、不動産で完全空気な奥さん、と言ったものもそうだろう。学校では女子をなかした瞬間に男子が全部悪いことになるし、教師が力仕事を頼むときにかける一言は「力自慢の男子ちょっと手伝って」だ。今でも女性がお茶くみをする会社は数限りなくあるだろう。
というように日本という国は差別で満ち溢れている(日本以外の国にはないというものではない)。差別が良いのか悪いのかという話はここではしない。
差別をする人たちは自分たちが差別をしようとしていない(と完全に思っている)という結構重大な問題がある。
ストーカー犯罪を犯す人たちは、「ストーカーとかまじでありえない、そんなひどいことするやつは生きていく価値もない、俺達の純愛とは全然違う」と思っているらしい。意味がわからない。
というように自分たちのやっていることを客観視できないというのはあるだろうし、一種そういう病なのかもしれない。
ただ、差別をしている人たちは「あなたのそれは差別だ」という話をしたときの反応が割とテンプレだから、もしその指摘を受けた場合の客観視するための指標にでも使うと良い。
なんとなく常識としてやっている(確かに常識だったことはある)が、「なんでやるのか」というのの根拠が貧弱であるという点だ。直接的な根拠は割と強固な理屈で固められているものもあるが、つまるところ根拠なんかなく、「私がそう信じている」というところにしかいきつかない。
女性がお茶を汲むべき、という差別は浅いのですぐわかる。「女性が入れてくれたほうがお茶がうまいから」なんていう男性をよく見かけたが、そんなのは主観の問題だ。科学的に数値化できるものではない。
男は性犯罪者予備軍とか言うのは下手に突っつくと論破されるが、結局2〜3段階目くらいで言ってる本人のそういう願望でしか無いこともわかる。大概の場合「だってそうじゃん」という辺りに落ち着いていく。こちらも別に世界の起源に到達するまで追求する気もないが、大体の場合は伝聞や雰囲気で認識しているので、説明できない。
差別というものは不思議なもので「なんでそんなことをするのか」という話をすると、大体差別をしている人は怒る。しかも完全に冷静さを欠いた怒り方をする。これは本当に不思議なのだが、とにかく怒る。サラッと認めて直せる人は怒らないが、とにかく怒る。
怒ったときに何をするかは人によって様々だ。暴力を振るう人もいるし、徒党を組んで吊るし上げる人もいる。本人がいないところで勝手にコンセンサスをとって「え?xxさんも問題ないって言ってたよ?」とかやる人もいる。とにかく雰囲気で押し切ろうとする。そして指摘した人を排除しようとし始める。場合によっては狂言自殺すら厭わない。
絶対に理性的で論理的な議論の末にその差別行為がなぜ正しいかを説明しきれる人はいない。まぁ、本能的にそれが差別だとわかっているのかもしれないがね。
例えば差別している相手が「そういうの嫌なんでやめてもらえますか」と言ってきたときにどういう反応をするか。「いやいや、なんで嫌なの?」という反応をするだろう。本人が嫌だ、と言っているのにそれを尊重できない。これもまた本当に不思議だ。
他の人が「そういうの嫌だからやめてよ」というとそういう人って「あっ、すいません、以後気をつけます」という反応をするのに、差別している相手にだけは何故かそれをしない。むしろなぜそれが嫌なのかの説明を求めて納得できないならやめないくらいの対応すらとってくる
自分がやられて嫌なことは人にもするな、というのは割と小学校くらいで習う基本的なことだし、本人もそういう反応をするが、何故か差別する相手には、自分がやられたら寝込んでしまうくらい嫌なことや、言われたら今後一切の関係を立ちたく成るくらいに屈辱的な事ですらやったり言ったりできてしまう。
で、テレビとかで同じような状況を見ると「いや、私こんな事言われたら一生立ち直れないと思う」とか差別している人の前で平気でのたまったりする。
これは説明するまでもないだろう。とにかく自分が受ける差別についてはもうびっくりするくらいに敏感だし、わらから針を見つけ出す勢いで探していたりもする。見つけ出すまで3日寝ずにツイッタのタイムラインを凝視するくらいの執念を見せつけることもある。これについては一体どこからエネルギーが出てくるのかと驚くばかりだ。
ここが本当に怖い。
「っていう自戒の文章ですか?」とか「やっと自分を客観視できるようになってよかったですね」とか「などとアンチが申しており」というような反応をする
眠れないのでネットを見ていたところ、なんか具が少なめの透明な和風スープの画像を目撃してしまい、猛烈にそれが飲みたくなった。
しかし冷蔵庫に入っている汁にできそうなものは味噌ぐらいのものである。
かくして俺は椀に塩・味の素を、ごく少量のみりんで伸ばし湯を入れ飲んだ。
苦肉の策だった。
するとどうしたことだろうか。実態のない、亡霊のようなうま味が俺を襲ったのだ。
いや、実態はある。味の素である。間違いない。だが言いたいのはそういうことじゃない。
つまり、何らかの味に紐づいたうま味ではなく、単純なうま味だけが塩気を伴って舌に浸透してくるのだ。
掴み所も、手応えも、奥行きもない、主役を欠いたような味。
これはなんであろうかとしばし逡巡したのちに得た結論は、「松茸のお吸い物から松茸の味を取り除いたような味と言えるもの」だった。
厳密に言うと松茸だけではなく、海苔や麩の味や風味か。なんとなく、和風の味を得ることができた気がした。
そんな風に謎汁をすすっていると、一つの考えが頭を過ぎった。この判断は舌の記憶によるものではないのかと。
つまり、俺以外の人間がこの塩と味の素の汁を飲んだ時、これはxxからxxを抜いたスープの味だと、身近な、或いは求めていたスープの名前を挙げるのではないだろうか。松茸のお吸い物ではなく、だ。
塩味とうま味しかないお湯である。そこからなぜ松茸のお吸い物の味を見出したのか。
そして、大抵のスープのベースであろう塩味とうま味。これを共通項として取り出してしまった過ちが、存在しない松茸の残滓を舌に錯覚させたのだ。
この汁は鏡だった。
塩と旨味調味料だけで構成されたこの液体は、その人の欲望と記憶を映し出す鏡だったのだ。
こういうことはこの汁に限った話ではないと思った。
人間、何にでも当てはまるような要素を根拠に、自分が知る限りだとこれだ、或いは、こうあって欲しいから、といった具合に、考えを狭め、当て嵌め、望む結論を得ようとしてしまうことがあると思う。
しかしその結論は錯覚なのだ。この汁はそういった人間の愚かさを俺に教えてくれた。
今回の件は一種の自戒のきっかけとして考えるとともに、皆様にもぜひご賞味いただきたいと思いました。
精神科になんとかかかり、鬱症状が見られるとされて服薬中の人間の備忘録。少しでも似たことがあるなら、早めに対処した方がリカバリーしやすいのではないのかなという自戒も込めて。
まぁ記憶がやられているので時期とかは記憶違いない可能性もあります。
以前の私は日付が変わる前に寝て6時から7時に起きる生活を毎日繰り返していました。しかし、昨年ごろから異変が。眠れない。体は疲れているはずなのにいつも通り布団に入っても何時間も眠れない。しかし翌日は平日なので7時までには起きなければいけない。蓄積された疲労は時に限界に達して化粧も落とさず布団もかけずに気絶する、という日々を繰り返しました。
ストレッチしてから〜とか白湯を飲んでから〜とかあらゆる方法に手を出して改善しなかったのですが、一番効果があったのが酒でした。アルコールに弱かったので缶ビール1缶飲んでそのまま寝る、という生活でなんとか行き止まってましたが、今思うとアル中まっしぐらでしたね…(現在は飲んでません。)
元々は食べるの大好きな私。しかし、一時は一日一食でもいいなーというか食べなくてもいいかなーとなっていました。
あといろんなものを食べたがっていたのにウィダーインゼリーみたいなのでいっか、ってなってました。
胃腸が弱りすぎているのか脳は食べたいと思うものでも胃が受け付けてくれないのはよくあります。
その3:趣味への興味が薄れる
私の趣味の一つは漫画を読むことです。近年電子書籍に切り替えたことで収納を気にする必要がなくなり、月10冊以上は買っています。
しかし、頭に話が入らない。面白いと思えない。数ページ読むだけで疲れてしまう。などといった傾向が突然見られるように。この時は私も成長して趣向が変わったのかな、とりあえず買って今度読めばいいや、と放置していました。
他の趣味でも似たようなことがみられ、共通していたことは「集中力不足」でした。30分程度のアニメを見ることもできない。数分の音楽を一曲聴くことが限界。とりあえずツイッターでは周りに合わせて普段通りに振る舞う。
このような状態が続いていたにも関わらず放置し、加えてその他要因が諸々絡み合った結果、今の私は毎日起き上がるのもやっとの生活?になってしまい、毎日泣き死ぬことだけ考えていたので流石にまずいと思い精神科を受診、抗うつ剤と眠剤を服薬をしています。
一番虚無だったのが睡眠だったのですが、睡眠導入剤を処方していただき、寝ようと思ってから30分で寝れる現在の生活は少し楽です。寝れるようになってから酒を飲みたいという感情が一切なくなったのも衝撃的でした。
あと、少しずつ漫画も読めるようになってきました。難しい漫画も楽しめるようになったらいいな。
私はもう限界だ、となってから初めて精神科にかかったのですが、診察の時間が内科などより基本的に長いので予約制のところが多いところがハードルが高いだけで、普通の病院、なんなら普通よりも穏やかなところだな、と感じました。異変をある程度わかりやすく伝えられるスキルさえあればきっと大丈夫。
長文失礼いたしました。
私は来世は絶世の美女になる予定なので今生を耐えるわ(めでたいやつ)
_____ ||// 彡 ⌒ミ|彡⌒ ミ ||/ (n´・ω・)n ) おはようイケメン || (ソ 丿|ヽ )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ u―u'
自戒を込めて
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私がこいつ頭悪いなって判断するポイントは、「こいつ自分で何を言ってるか分かってないな」って思ったとき。例えば、「優生思想はファシズム!バカはガキを生むな!」「私はアライ!ホモウヨは死ね!」「自由な議論を!お前は明らかにパヨクだから却下!」「女性にメイクを強要するな!女性はどんだけ疲れても男みたいにだらしなくならない!」みたいなの。ホントに頭悪いんだなーって思うけど、思うだけ。賢ぶったガワを心の2歳児が暴れだして突き破って「これきらい!」してるんだなーっていう。
それをいちいち取り上げてギャーギャーいう気持ちがわからない。いいじゃんよ世の中9割バカなんだから。9割バカってワードに飛びついて「そうだよね~」って無邪気に私は1割の方って思うやつばっかりなんだから。なんなら「自戒を込めて」って言って「無邪気に1割の方って思ってないぞ」アピをするしょーもな人間ばっかりじゃんよ。
違うんだって、人間みんな9割馬鹿なの。1割くらいしかマトモなところがないの。数%程度の差はあっても人間9割、ほぼすべては、幼稚どころじゃない、気持ちいい気持ち悪いの二元論程度なの。2才児が「やだー!!」とか「いいー!!」とか言ってても、はいはいそうだねーで終わりじゃんね。みんな心に2歳児がいるの。
ことさらに侮蔑する人って人間に期待しすぎじゃない?それ見て誰かが何かの思想を変えると思ってるんだろうか。
ここにいる人たちって世間に比べてすべきことしている人たちだと思ってる。
本当に必要なこと以外で外出てないと思うし、そもそも外出なくても比較的平気だろうし人と会わなくても平気だろうし、仕事とかで外出なきゃいけなくても夜はもちろんお昼も一人で食べてるだろうし、日々最新の東京都や政府の情報を取得してるだろうし、海外の状況も見ているだろうし、自分や若者は感染しても大したことないと知っていてもすべきことをしているだろうし、それが当然だと思ってるよね。
出来るだけバイアスに囚われず、客観的科学的俯瞰的に物事を捉えようとするよね。
もちろん自分もそのようにしてるんだけど、情報を得れば得るほどそうでない人たちの存在に気づけなかったり知らない、どんどん理解できない存在になっていくことに恐怖というかどうしようもなさを感じる。
例えば、一昨年菅田将暉の3年A組でも表現されたし去年は本当酷かったけど、明確に、大人でも他人からのネガティブな言葉で自殺する人がいるとわかった。
今でも過労死レベルで働いている保健所の方や医療従事者の存在を考えると、自分さえ良ければなんてとても思えないと思っていたけど、自分は関係ない、そんなこと知らなかった、感染予防対策そろそろ面倒くさいと思っている人が意外と自分の身の回りにもいることをふとしたことで知ってかなり衝撃を受けたりする。
コロナなんてただの風邪だとか科学的に大したことないっていうのが仮に正しかったとしても、今日々の忙しさや心労に困窮している方がその瞬間から楽になるわけではないし、苦しんで亡くなる方は確実にいる。
津波で家と家族を失った人に向かってあの地震は人工地震だ、そんなところに住んでいたから悪いんだ、なんて言えない。言ったところで悲しみはどうにもならないから、そんなことより寄り添って助け合っていくしかない。
特に自分は弱っている人、辛い人に強く共感とか感情を揺さぶられるHSP傾向なので、そういう人を想像してしまったり、去年の夏から秋にかけてのタレントの訃報の報道とかこの前の医療現場の増田は本当に辛かった。一歩手前だった。
そういう情報を目にしてもなんとも思わない人がいるのは知っている、でも全く理解も共感もできない。
自分は一歩も外出なくても、知り合いに半年以上会わなくてもなんとも思わないけど、人に会わないと逆に不安定になる人がいるのも知っている。
職場の人にお昼みんなで行くのをやめていただけたらありがたいです、と言ったらちょっと不機嫌というか反論みたいのされて少し話したら上記全般のような認識で、どっと疲れたりする。
彼らは彼らですべきことをしていると思ってる可能性もあるんだけど、食事はマスク外さないと食べられないよね、と2Fさんのようなことを返されて。
もう多様性の時代なんだから攻撃し合わずに互いに優しさを持って生きていけたらなぁと、自戒も含めて思う。
直接相手に言わなくて表現しただけで誰かにとっては攻撃になってしまいかねないから出来るだけ気をつけて書いたけど、どうだったろうか。
石破 茂 です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
昨日、一都三県を対象とした緊急事態が再宣言され、昨日発表された東京の感染者も過去最多の2447人となりました。
感染者の増加は確かに重大事ではありますが、冬になって空気中の水分が減って飛沫が遠くまで飛びやすくなるのは当然のことですし、寒冷地では換気の機会も減少することも考えられます。PCR検査数の増加によって陽性者が増えるのもまた当然のことです。
かくなる上は、感染者数ばかりに注目することなく、限界ある国家資源や医療資源を、重症者と死亡者を減少させることに重点化して配分すべきなのではないでしょうか。
「どうすれば重症化・重篤化しないか、どうすれば死に至らないかが重要であり、対策も情報発信も、このことを重視すべき」と昨年の感染初期よりテレビなどでも何度か申し上げてきたのですが、なかなかそうはなりません。
医療関係者の献身的な努力によって、アビガン、レムデシベル、ヘパリン、デキサメトゾンなどの薬、人工呼吸器類(ネーザルハイフローやECMOなど)、普及率世界一のCTなど(この多くを今回初めて知りました)を用いた治療法も随分と進歩し、救命率もかなり上がっているはずなのですが、そのような報道もあまり聞くことがありません。漠然とした感染者数よりも、基礎疾患を持つ方や70代、80代、90代の高齢の方の罹患率、感染者数と死亡者数の正確な分析などの方が知りたいと思うのは私だけでしょうか。
日本人が欧米に比べて人口当たりの感染者数や死亡者数が極めて低いのも、同じ都道府県内でも市区町村によって状況が全く異なることにも必ず理由があるはずで、その科学的な分析が進められれば、もっと精緻な政策が打てるのではないでしょうか。
生活習慣の相違、国民皆保険制度の存在、極端な格差社会ではなく分厚い中間層が存在していることは決定的に重要な要素であり、この持続可能性を維持できるかが最大の課題です。
諸外国、特にスウェーデンの対応についても様々な論評がありますし、同政府のコメントも承知していますが、この国において「『寝たきり老人』(とても嫌いな語感です)が居ない」ということとも関連性がある宗教観や死生観の問題が、改めて問われているように思われてなりません。
日本特有の同調圧力とゼロリスク志向の強さも改めて感じています。「自粛警察」などという不可思議至極な活動は、今のところなりを潜めているようですが、戦争中の「パーマネントはやめませう」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などという「愛国的な」活動が想起されて、とても嫌な思いが致しました。ヘルスリテラシーの低さについても、自らを省みて、これもまた然りと思います。
日本においては大勢の世論(「空気」)に抗って異論を差し挟むことは忌み嫌われますが、政治は世論に迎合しすぎてポピュリズムに堕してはいけない、よく自重自戒せねばならないと思っております。
失業率が1%上がると自殺者が1,000人から2,000人増えると言われていますが、ここ数か月の自殺者の増加、特に女性の割合の増加はとても気がかりです。また、病院にあまり行きたくない、ということで、がんの定期健診の受診数も大幅に下がっています。
風邪やインフルエンザが「根絶」されることがないように、新型コロナウイルスも「根絶」される、ということはないでしょう。ただし治療法が広く共有され、重篤化を防ぐことができ、ワクチンが広く行きわたり、感染拡大が収束した時に、自殺者が激増し、がんによる死亡者が大幅に増えてしまったとすれば、それは「人類がコロナに打ち勝った」証とは言えないのだと思います。
政権は厳しい状況の中であらゆる方面からの批判に晒されながらも可能な限りの対応をしているのであり、我々は少しでも国民の支持と理解が得られるように努めなくてはなりません。
昨日のアメリカ議会へのトランプ支持者の乱入と死傷者発生の事態について、トランプ大統領に責任がないとはとても言えない状況でした。選挙結果について異議を唱えるだけならともかくも、支持者に対して議会への乱入を扇動するようなスピーチなどは、民主主義の実力行使による否定と紙一重であり、見たくもない光景でした。
トランプ大統領が就任した時、「言を左右して相手を困惑させ、自分にとって最も有利な取引を仕掛ける『サスペンスとディールの大統領』となるのではないか」と申し上げたと記憶していますが、まさにその通りの4年間であったと思います。大統領当選時の勢いをもって議会選挙を経た結果、共和党も明らかに変質を遂げました。昨年の大統領選挙でトランプ氏に投票した米国有権者は7380万人、この人々が更に先鋭化するのかも全く見通しは立ちません。
自由を建国の精神とするイデオロギー国家、国民の8割が神の存在を信じ、4割が毎週日曜に教会に通う宗教国家、アメリカ国民という意味での民族国家、こういったアメリカの本質はバイデン政権になっても変わることはありません。そうであれば、それぞれの自画像、理想像、基本的な価値観が対立する米中の軋轢は今後一層激しくなり、日本はより一層厳しい選択を迫られることになります。安全保障についての法体系も、装備も、運用も、アメリカ依存から脱却し根本から見直すべきだと思いますし、今までのような問題先送りでは国益を損じると考えます。
それでもなお、同盟国である米国が新政権によってその美点である復元力を発揮し、アメリカ民主主義の理想に立ち戻ることを心より期待しています。
年末年始、生来の怠惰さに加え、雑事に追われて勉強らしい勉強も出来なかったのですが、中川恵一准教授(東大附属病院)の「コロナとがん」(海竜社)、小林よしのり氏の「コロナ論」(扶桑社)、橋爪大三郎氏の「中国VSアメリカ」、同氏の大澤真幸氏との対談「アメリカ」(共に河出新書)、加藤陽子氏の「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(新潮文庫)、は極めて示唆に富む大変に興味深いものでした。
合間に久々に再読した、没後50年となる三島由紀夫の短編・中編(新潮文庫)の文章の独特の華麗さにも魅了されたことでした。
週末の日本列島はまた寒波の襲来に見舞われそうです。皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。