はてなキーワード: 自戒とは
俺は以前までは努力すれば報われると一心不乱に自己洗脳し、努力を自己に強要してきた。その結果、周囲の環境はそれほど悪くなかったのにも関わらず、自ら精神を破壊し、一般的な生活を送ることが困難になるほどになってしまった。不眠や常に脳に違和感を感じる障害を持ってしまった。心療内科の医者に言わせれば鬱病ってやつだ。今思えば、自分のメンタリティをセルフブラック企業化させていたと思うし、今後二度と、"頑張らないといけない"という危険思想を自分に課したくないし、増してや他人に強要するなんてもってのほかだと強く感じる。
確かに努力することは決して悪いことじゃない。何か自分の得たいものに向かって踏ん張るのは時には必要な時もあるだろう。だが、それを過剰に賛美したりするのは危険な気がしてならないし、自分以外の誰かに努力論みたいなものを語られた時には吐き気がするぐらい違和感を覚える。
インターネットを徘徊していたある時、一つの言葉に出会った。"実のない努力は努力じゃなくて徒労だ"という言葉に。これを見た時、自分は少し救われたような気持ちになった。実のならない努力と分かったり、自分には到底無理だと思ったら努力しなくても良いんだと思ったと共に、努力なんて言葉に囚われる必要なんてないと強く認識出来た。
世の中は案外、努力を要求されるもので溢れている。生まれ落ちた時から、出来ないことに対して踏ん張って出来るようにしろと教え込まれ、中学生になれば高校入学のために受験戦争に打ち勝つため努力しろと教え込まれる。大学受験なんか、いい歳こいたオッサンがその話を飲み屋で延々と話すネタとして持ち出されるくらいには頑張らされる。社会人になったらなったで出世競争、キャリア、ブラック企業、格差・非正規雇用等の問題が多く出てきて頑張る必要が出てくる。また結婚・出産した時には寝る間や自分の心も惜しんで頑張ることを周囲から強要される。
生きてく中でぶち当たる問題が出てくるのはみんな生きてるんだから仕方がないとして、自分は頑張ってるのに上手くいってなくて可哀想だと周りに言ったり、自分は他人より頑張ってるからエラいなどとひけらかしたりするヤツには心底ウンザリする。誰のために頑張ってるんだよ、頑張った先に自分が幸せになれる見込みがないなら徒労に終わるだけだから頑張るのを今すぐにやめろ。
極論の例えを出せば、努力なんかしなくたって、日本は生活保護等のセーフティネットも整ってるし、娯楽もスマホがあれば今や無限にある訳だから工夫すりゃ楽しく暮らせるだろ。生活保護受給することで国が持つ税金が減ると言ったって頑張ることを殆どの人に強要される社会の方が不健全だし、全体の幸福度も下がるだろ。
要するに、自分のために個人が活動していくのが最優先事項なのに、そこを履き違えたヤツが周りに、私はこんなに頑張っているのに...!などた喚き散らかしたり、全く関係ないヤツに努力を押し付けるのは絶対にやめて欲しい。
このコロナ禍で分かっただろ、株式市場の相場は底値から既に脱却し、資本家たちの命は早々に守られたものの、多くの労働者が職にあぶれ、貧困に喘いでいるといった混迷でモラルなんて無い時代の中で"頑張る"・"努力"という意味不明な言葉に踊らされのは賢明なことではないと。
本当に今一度努力とは何なのか、なんのために今頑張っているのかということを。そしてその努力に関して他者を過度に介在させずに、自分の力で自分の人生をより良くしていってほしい。これをする人が1人でも増やすことで、ベクトルの間違った努力をすることで自分を不幸にし、更には他人まで不幸にすることを防げる。現代社会が今よりも凄惨なものにならないよう心がけていきたい。これは自戒でもある。
https://togetter.com/li/1641486
これの2ツイート目も理解できるんだけど世間から見たら許してやれよ案件なんだね
自分は夫の立場も妻の立場にもなりそうなので自戒を込めて残しておく
お金出してあげるって夫の自己満足で、それがスムーズに受け取れないのは妻の中で消化されてないから
出してあげようか?って言った時点で、あれは「夫に買ってもらったもの」になるんだよね
物ってどうやって手に入れたかも重要で、自分も残しておきたいものほど自分でお金を出して買うのが大切だと思う
そしてお金を出す立場だと「買ってあげた」というのがまとわりつく
相手のほしかったものをプレゼントするというより、自分がプレゼントしたという気持ち
自分の方に軸がある
これ本当に良くない
推理小説を子供に読ませることで思考力の育成が期待できます~だとか
そんな言説を見聞きするたびに「エンタメコンテンツから面白い以外の見返りを求めるな!」と今まで思ってきたのだが
「エンタメコンテンツに対し面白い以外の実益を求める人々」に対して、私は今まで見下しの態度をとってきたのではないだろうか
「実益を求め打算的に読むと面白さが損なわれてもったいない」となんとなく思っているわけだが
それは私が勝手にそう思っているだけであって
なにかのブログ記事で読書術みたいなタイトルに釣られてクリックすると、ビジネス本をいかに速読し要約するかみたいな内容で
「はーーー!私が知りたいのはいかに小説の読書体験をより充実させるかなんですけど?」
と思った経験がその見下し態度の原因かもしれない
ここまで書いて自分の中で二つの思いが混ざっていることに気付いた
・「エンタメコンテンツから訓話を得ようとするのはエンタメ性を損なう」と私は思っている
・読書と一口に言っても小説やらビジネス書やらのどれの話かわからなくて面倒なんで言い分けられるといいのになあ
かなり火力の強いことを言う。
私はコミュニケーションのツールとして同人誌を作っているオタクが嫌いだ。正直言って憎い。
オタクとしての歴はそこそこ長いと思うが、私はこれまであまりオフでの交流を行ってこなかった。ぽつぽつと作品を投稿して、信頼できる解釈のオタクだけをフォローする。
ネット上での交流は当然あるし、仲良くなれば会ったりもするが、同人誌即売会を交流の場だと思ったことはなかった。本を出したことがないからだ。
「原稿きつすぎる」「原稿やってないけど遊びに来てる死んだ方がいい」「原稿?なにそれ知らないですね……」
こう言って本を出すことに苦慮している様子のオタクはツイッターを見ればいくらでもいる。私はそのたびに、悪意からではなく純粋に疑問だった。
小規模ジャンルのオンリーならともかく、そんなに時間がないなら原稿が完成してから参加するイベントを選べばいいのでは?
そんなにギリギリの状態で本当に自分の満足のいくものが書けるのか?
自分が本を出すようになって初めて分かった。彼女たちは、同人誌即売会をコミュニケーションの場だと考えている。だから「そこに参加するために」本を出さなければならない。
まず初めから動機が違うのだ。私は同人誌とは、「自分の書きたい、書かなければ気が済まないものがあって、どうしてもそれを形にして残したいから」作るものだと思っていた。
私が初めて出した本はカップリングでもなんでもなくてただ自分の思う推しはこれだ、という解釈を煮詰めて小説にしたものだった。原稿が書きあがってからこれをどうしても活字にして残したいと思って、それから読みたいと言ってくれる人がいたので、イベントに参加することにした。
それが正しいと言いたいわけじゃない。ただ周囲を見たらどうやら多くのオタクはそうではないようなのだ。
即売会を通してできたフォロワーを見ていて思うのは、彼女たちは作品や推しへの愛情よりも、そこを通して発生するコミュニケーションに重きを置いているようであることだ。
「○○さんの小説読みました」「新刊楽しみにしてます」「天才じゃないですか?」「○○さんの書くAB最高です!」「好きです」「マジでよかったです」
そこにおいて発生するのは自己への肯定であることが初めから確約されている。作品を書けば、本を出せばたくさんの人に肯定してもらえる。同人界隈において作品は「交流のためのツール」としての一側面を持つことは確かである。
だからこれは単純に比重の問題だ。初めに原作やキャラクターへの熱情があって、そこに交流が付随するのか。初めにコミュニケーションと肯定への欲求があって、そのために同人を活用しているのか。
本当なら「利用」と呼びたいくらいだ。後者、『コミュニケーション同人』のオタクは交流の機会を確保するためにイベントに参加し続けなければならない。
もちろん一般参加という手段もあるが、そこでの奇妙な一体感を味わうためにはサークル参加しかない。
結果、「書きたいものは決まってないけどとりあえず参加する」という事態が発生する。
この話がどうしても書きたくて、作品として出力しなければ気が済まない! という熱意は存在しない。そのためギリギリのスケジュールでしか書けなくても、本来よりも低くなってしまったかもしれないクオリティに疑問を抱くことはない。
それは同人活動の本当に誠実な在り方なのだろうか? 私は甚だ疑問に思う。
二次創作は自分の推している作品に対する熱意や解釈をぶつける場じゃないのか。私の小説に送られてきた感想を読んでも分かる。この話に本当に感動したわけじゃなくて、フォロワーだから、仲良くしておきたいから「○○さん天才です〜」と言っている人のことは分かる。
コミュニケーション同人をやっているオタクは全員同じだ。作品にも感想にも"味が無い"。
どうしてこうも無味無臭なのか分からないけれど、それは本来第一に優先されるべき場所に「作品への熱情」が乗っていないからなのではないかと思う。
もちろん、それを好きな気持ちが確かにあることは否定しない。だが二次創作を通して交流を求める気持ちの比重がデカすぎるのだ。
そのキャラクターについての解釈を詰めようという気もない。だから時間の経過とともに原作時間軸の創作が減っていき、パロディや転生もの、オメガバースや異常性癖ものといった「オリジナリティ」を演出するための要素に縋るしかなくなる。目新しいものを書くにはそれしか手段がないからだ。
もちろんどんな作品も二次創作である以上、原作からは明確に隔絶したただの妄想である。それを充分に自戒とした上でなお、それでも原作に寄り添った解釈の二次創作を書くことはできるし、できるだけそう努力すべきだと思う。
だってキャラ崩壊みたいな創作はどのジャンルに行ったって同じことができてしまうから。エロは特にそう。
私はどちらかと言うと、キャラクター解釈をきちんと詰めた、原作の物語の穴を埋めていくような二次創作が好きだ。解釈に厳しすぎて読めない作品が多くなってしまう厄介オタクである自覚もある。だからこそ、コミュニケーション同人をやっているオタクが許せない。
ネット上で信頼できる解釈の人とだけ繋がって、ひたすら自分の好きなものだけを書いていた時には気付かなかった。無味無臭の同人誌は買いたくないけど同じ界隈の人たちと○○さんの同人誌ここがよかったよねという話になることが多いから圧を感じる。
このジャンルを抜けたらもう深い交流を持つのはやめて本当に好きな作品にだけ感想を送って本当に信頼できる作家の本だけを買いたい。
もう本当に、ただの愚痴だけど。そうやってどのジャンルに行っても似たり寄ったりの作品を量産して、同じく似たり寄ったりの感想を送ったり受け取ったりし続けているコミュニケーション同人のオタクに思う。
そんなことをしていて虚しくならないのか?
そろそろネタバラシ。みなさん色々と言及してくださってありがとうございました。すでにお察しの方もいる通り、この記事は炎上を目的とした嘘増田です。
先日二次創作者を呪いたい自称漫画家の増田を読んだとき、私はすぐに虚言だと思った。他者への攻撃性・嫉妬感情・自己矛盾の三連コンボ。こんなの誰にだって書ける、ということを証明したかった。炎上しそうな要素をたくさん詰め込んだら案の定学級会になってウワ……と思った。
あんなもんは要点さえ掴めば簡単に書ける。頼むからこういうしょうもない増田にコメントをつけることの不毛さを分かってほしい。「チキ増」が二次創作者を呪うというのなら、私はお前を呪いたい。一刻も早く増田起点の学級会がこの世から滅ぶことを願っている。
昨今はキメハラなんて言葉も話題になったけど、自分もオタクのせいで嫌いになってしまった作品がある。
その界隈の治安が悪い訳では無い。むしろ良い方なんだと思う。人気もめちゃくちゃある。でも、自分はもう話も聞きたくないし、目にも入れたくない。全てに難癖つけたくなるくらい嫌い。
その作品が悪いわけではないし、大多数のファンが同じだとは思っていない。それどころか、自分自身が同じことをしてしまっているかもしれない。断り切れなかった自分も悪い。自戒の意味も込めて書こうと思う。
元々、その作品には興味がなかった。
好きな声優は出ていたけど、絵が全く好みではないし、曲も惹かれなかった。好きな声優が楽しそうで、微笑ましいな〜くらい。
人気がものすごいことになってるのは知ってたけど、友人にハマってる人はいなかったし、自分には別世界の話。なんならマジでどうでもいいと思っていた。
突然、1人のフォロワーが落ちた。
リアルで会うくらいには仲がよかったフォロワーだったのでびっくりしたけど、「へぇ」と思っただけ。身近な人にもついに出たね、って感じ。
でも、そのフォロワーにゴリゴリに布教されるようになってしまった。
「絵も好きじゃないし曲も惹かれない」という話は伝えていた。
でも、自分がその作品と似た作品にハマっていること、声オタであるうえにその作品に推し声優がいること、押しに弱く断れない性格であることなどなど。相手の中では『布教すれば落ちるだろう』という勝算があったのだろうね。
リプ、DM、LINE、リアルで会った時、勧めてくるし絵は見せるし曲は聴かせてくるし、ライブDVDを観ようと迫ってくる。自分が好きな作品の話をしているツイートに、「△△ではね」というリプをつけて、話をすり替えてくる。○○のパフォーマンスがすごいんだよ!と声優で釣ろうとしてくる。
自分は、なるべく穏便に、同時に、興味が無いということを伝えようと、素っ気ない感じの返事を心がけていた。絶対ハマらないよ、とも伝えた覚えがある。
ある時、共通のフォロワーと一緒に、自分への布教のためライブDVDの上映会をやる、と言われた。しかも朝早くから夜まで。自分は冗談だと思っていたけど、本当に企画され、遠方に住んでいた自分が呼び出された。
自分も、もしかしたら推し声優のパフォーマンスでハマるかも、と少しは期待していたが、結局推し声優以外はどうでもよかった。彼らの外見(キャラクター)には欠片も興味が持てなかった。
でも、周りは楽しかったようで、「またやろう!」と言って盛り上がる。当然のように次回の頭数に入れられていて、恐ろしくなった。いや、こっちは全然盛り上がってなかったよな?
しかも、自分への布教なのに、当たり前のように参加費を全額徴収された。自分はみんなより高い交通費を払って来ている上に、ハマって欲しいから呼んだのに?
夜通し、ビデオ通話でライブDVDを見せられたことも何度もある。夜9時10時から午前5時頃まで、ずーっと見せられるのである。というか、寝落ちたフリをしないと解放されない。
ライブのOPのどーでもいい所から全部きっちり見せられ、終わったと思ったら特典映像が始まる。別のDVDに移る時もあれば、関連のYouTube動画を延々見せられる時もある。その両方が来る時もある。
話しかけられても、興味が無い返事をしているのに。
もう、気が狂いそうだった。
今思えば、全部きちんと断れば良かったのだけれど。
フォロワーへの情もあったし、恩義を感じていることもあったので、強く出られなかった。でも、ちゃんと断らなかったせいで、作品の関連のものを見ると嫌な記憶が思い出されるようになってしまった。そうなるともう、「この作品があるせいで」となって、元々興味が持てないものだから、「そもそもこんな作品どこがいいんだ」という暴論にまで至る。
そのフォロワー本人に対して(作品絡み以外でも)思うことも色々あったけど、この件で決定的に嫌いになった。
自分自身もそうならないように、気をつけような。
この人の指摘(↓以外も含めて)それ自体はまともなんだけど、TLを見に行くと董卓とかユンダとかまともじゃない連中をRTしてて「ウッ!」ってなったし、反射的に「その場だけ論破することを目的とした机上の空論」で反論しそうになってしまった。
わかりづらいので別の商品で説明してみます。
この2つは似た形の服ですが、左はセクシーなデザインが商品としての価値のため、セクシーなPR (胸の谷間をうっすら見せるなど)をしても炎上しません。しかし右をセクシーにPRしたら、仕事用に商品を買いたいという人への広告としてズレてしまう。 pic.twitter.com/GNaVDUaWHy— ナヲ (@garakuta_purin) November 7, 2020
(表現の問題を指摘されているのではなく、文脈の問題を指摘されているのだから、二つの表現を並べて「どこに違いが?(反語)」じゃ論点がズレてるんですよね。まあ、そのように論点がズレた責任は批判側にもあるとは思うけど、目の前の個人に「批判側」という勢力を透視して目の前の議論を代理戦争化させるなという話で。)
ツイッターで話題になってた同人女の感情最終話と、同じくツイッターでバズってた今朝の読売の記事を見て思ったこと。
「自分より上手いとは言えない」人が自分より評価されて辛いという気持ちはよくわかる。
それに対する回答は、「他人からの評価ではなく、自分自身を基準にして段階的に進んでいき自己肯定感を高める」という、腐るほど聞いた内容。
そうしていくうちに他人が求めていることが分かり、それを提供できる実力が身につき、真の評価につながるというものだ。
その究極が、同人女の感情に出てくる綾城さんみたいな存在だろう。
ただ、そう言われてしまうと、じゃああの「自分より上手いとは言えないのに評価されてる人」は、上記のプロセスを、少なくとも自分自身よりは先へ進んでいる人格者であり、だから評価されている、ということになる。
そして、自分はそんなアイツよりもガキであるという事実に、より惨めな気分になり絶望する。
本当にそうだろうか?
読売の投稿者のいう「自分より上手いとは言えない人」がどんな人物なのかは知らないが、私が思うに、単に界隈に上手く溶け込めているコミュ強なだけな気がする。
その人は、自分自身と同じ惨めな状態から、上に書いたプロセスを乗り越え、ついに今の地位についた……とは思えない。9割がたは、普通にしてたらそうなっただけだろう。
カースト上位の者は、あらゆる煩悩を克服した人格者集団というわけではなかろう。自然とそうなっただけのコミュ強。
上位集団の中でウケる話題(ある意味、内輪ネタ)を、下位の者が提供するのは難しい。
クオリティに優れていても、どうしてもズレが生じ、「へー、すごいね。で?」で終わる。
綾城さんレベルになればようやく、カースト上位の者を含め広く全体に評価されるようになる。(一部の捻くれ者を除いて。)
その綾城さんですら、本当に凄まじい努力の結果ああなったのかは、分からないけど。
似たような葛藤を経験してはいるんだろうけど、才能と人格が元々圧倒的に優れているのに違いはないだろうし。
界隈で幅を聞かせている、ギャーギャーうるさくて絵が割と描けて評価されてるムカつく奴は、単にある程度の絵の才能とコミュ力の才能があっただけで大した人格者ではない
界隈で重鎮ぶっている、絵が結構上手くて発言も支持され、たまに公式に苦言も呈しちゃうしオレも苦労してきたんだよみたいなこと言っちゃうムカつく奴は、単に結構な絵の才能と中庸な意見力の才能があっただけで壮絶な過去を克服して現在の地位を築き上げたわけではない
界隈で聖人ぶっている、絵が上手くてなるべく不快な発言をしないよう気を遣い、たまに自戒めいたことを言って実質的に周囲へのロジハラになってるムカつく奴は、単に絵の才能と元々穏やかな性格の才能があっただけで修行僧みたいな生活しているわけではない
そして、こいつらは大したことはない!と思えても、自分はこいつらより絵の才能もコミュ力も劣るし、自己肯定感形成プロセスでも周回遅れという事実は変わらないということが分かり、絶望するのだ。
諦めて絵の練習をしても、数年後、いいね数が少し増えた自分にしかならないだろう。記事でいうところの「真の評価」など得られるはずもなく、現在の惨めな状況を認め、ネガティブな感情を感じないようにするしかない。
で結局、そうなるにはどうすればいいのか?それを他人の意見に頼っている時点で永遠に自己肯定感は身に付かない。
歳を重ねれば少しずつ落ち着いていく……が、それだけでは完全に解決しない。
むしろ遅ければ遅いほど自己肯定感を身につけるハードルは高まっていく。
と、こんなことを言っている惨めな自分も含め、ほぼ全ての人には「相対的に下の者」が存在し、妬まれているかもしれない。
界隈の実力者ももっと上を見て妬んでいる。だからこの手のあるある話を見て「わかる〜」とか言う。クソが。
ATSUGIの件、完全にしっくりくる説明が見当たらなかったので(あんまり探してないけど)、自分で書くことにした。
あれって客体化の話なんじゃないの?
「タイツ」自体の魅力ではなく、「タイツを履いた女性」の魅力を描いたから反発を招いた。ATSUGIは「タイツを履いた女性」を売ってるわけではないし、ATSUGIの顧客は「タイツを履いた女性」を買っているわけではない。「タイツを選ぶ女性」が顧客なのだ。買う主体であるはずなのに、買われる存在として描かれちゃったらそりゃ反発はするだろう。
というところまではたぶんこれまでも言われてることだと思うんだけど。
私が違和感を覚えてるのは以下の2つです。
1.ATSUGIのタイツ萌え絵が批判されていることは、私のタイツ萌えも否定されている/他人のタイツ萌えを否定していい。
2.これはマーケティングの失敗であって、フェミニズムは関係ない。
1.ATSUGIのタイツ萌え絵が批判されていることは、私のタイツ萌えも否定されている/他人のタイツ萌えを否定していい。
そんなわけないじゃん。
ということもそれなりに言われていると思いますが、ここは強く否定したいところなので改めて言っておきます。
問題なのは、ATSUGというの企業が公の立場で顧客というタイツを履く現実の人々に面と向かって、タイツを履いている女性に性的な魅力を感じていますって言ったことですよね。まあ「性的な魅力」と感じるかは人それぞれだとは思うんですけど、私は性的に魅力的な絵が含まれていると思ったよ。特に公式ツイッターの推しの絵師さん?の絵のあのタイツの透け感、めちゃくちゃ魅力的だなと思った。
まあでも公の場で人が人に性的な魅力を感じていますと言うのは良くないんですよ。公の場で女性におっぱい大きいねとは言わないし、男性の乳首がTシャツに浮いててエロいなと思ってもエロいですねとは言わないでしょう。私は言うよ!っていう人がいたらちょっと考え直した方がいいと思うな。ピンポンダッシュで度胸試しするイキリキッズと同じようなもんだと思うよ。
ただ、私的な場で同好の士と楽しむ分には何の問題もないと思います。TPOを弁えようってことよ。欲望の主体には男性も女性もなったっていいし、そこには性的に見られる客体が存在する。その客体が、互いに同意の上で欲望をやりとりする相手なら何の問題もないけど、望まれていないのに一方的にぶつけるのは暴力ですよ。異性間でも同性間でもね。でも、直接ぶつけるわけじゃなくて、こっそり楽しむ分には責められることは何もないじゃないですか。そんなの自由だし抑えられることでもないじゃん。
ただ、インターネットって公私の区別がつけづらいところだし、オタクって身内ノリで暴走しがちだから、気をつけないと人を傷つけることにつながってしまう。これは自戒をこめて。私は今はTPOを弁えて発言には気をつけようと思ってるけど、若いころはイキリキッズだったなという反省もあるし、ときどきこの表現鍵なしのアカウントで言って大丈夫だったかなって反省することもあるので……。とにかく気をつけよう。日々反省ですよ。
あと、人の欲望を全否定してくるやつのことは相手にしなくていい。あなたの欲望はあなた自身のもので、扱いにさえ気をつければ、否定する必要も否定される謂れもないよ。
2.これはマーケティングの失敗であって、フェミニズムは関係ない。
私はフェミニズム詳しくなくて、最近ちょっと別件で気になってたことを調べたときの付け焼き刃でしかないので、以下で述べることについては間違ってたら教えてくださるとありがたいし、この論を自分の意見としてどこかで言いたい方がいらしたら、鵜呑みにしないで各自調べてください。
最初に「客体化」の話だ、と言ったけど、私は、フェミニズムって客体化に抗ってきたんだと思ってます。だから、これはフェミニズムとは関係ないって言ってしまうのも、なんだか違うんじゃないかと思う。
一部に人格否定したり暴言吐いたりするようなのがいるから、「フェミニズムではない」って言いたくなる気持ちはわかるんだけど、それはフェミニズムの問題というよりは、日本人が「議論」が苦手って話なんじゃないかなぁ。なんか、誰かの言動を否定すると人格まで否定されたと思ってヒートアップしちゃったり、人格否定の応酬になっちゃうことってよくあるよね。いやいや事象を批判してるんだって。別に人間として嫌いって話じゃないってば。人格否定し始めちゃったらそれは批判として成り立たないよ。ただ、そこはフェミニズムの根本的な考え方とは関係ないと思うので、フェミニズムそれ自体を否定するのは違うんじゃないかなと私は思っています。
私は今、誰かに「結婚すべき」とも「子どもを産むべき」とも言われず、職場でも特に性別によって差別されているとも感じず、比較的自由に独り身を謳歌しています。この自由は、たぶん誰かが戦ってくれたから得られたものだと思っていて。だって75年前には女性は選挙権すら持っていなかったんですよ。それが、おそらくかなり恵まれた状況だとはいえ、私が比較的自由に生きられているのって、「女性の役割」を押し付けられることと戦ってきた人がいるからだと思う。それを全部否定してしまうのは、フリーライドしてるみたいであんまり好きじゃない。
もちろん普段の生活の場に論争が持ち込まれるのがしんどい人もいると思うので、そういう人はあったかくしておいしいもの食べてゆっくりしててほしいと思うんだ。ただ、自由でいることを目指すことを、否定はしないでくれたらいいなと思う。
全部個人の妄想だとしてもそのキャラの背景をなぞったら絶対に出てこない言動、というものはやはり絶対にあるので……。
ただ、二次創作は個人的には願いの文化だと思っていて、こうであってほしいという気持ちはどうしても乗っかっちゃうと思うんだよね。
そしてその『こうであってほしい』の最大公約数的な解がナヨナヨメス受けと性欲に頭支配された攻めの惚れた腫れたなのかもしれない。
(思うに、年齢層若めの作品とそうじゃない作品ではたぶん二次創作の空気感も違うので、それも影響していそうな気がする)
人間という生き物はヒジョーにいろんな面を持った存在なので、どこを切り取って誇張するかでキャラ感が180度異なるということはママある。
正しい解釈だけでは描けないこともあって、解釈と書きたいことと、需要の間にはそれぞれ断絶があるんだよなぁ。
自分もこのキャラは絶対に泣かないだろうと思ってたけど、物語の緩急とウケ狙いで涙するシーン挟んだこととか、ドスケベが見たくてオスキャラのメス堕ちエロとかこさえた事があるので、あんまりどうこう言える側ではないかなと自戒したりした。
このように書くだけでおそらく既に一つの漫画タイトルが思いつく方もいるだろう。
現在、日本を代表するといってしまってもいいほど大流行し、老若男女に親しまれるあの漫画、もといアニメである。
私はこの漫画を1巻から発売日に購入し、映画ではタイトルで涙ぐむほど大好きな漫画なのである。
この大流行を機に、なぜ古参オタクが老害になっていくのか、私の心の変化を書き留めておきたい。
実際、3巻が出るころまでではインターネットの評価は芳しくなく、揶揄するようなコメントも多かったことを覚えている。
私も久しぶりにアンケートはがきを出し、延命に微力ながら期待しつつも、どこか危機感がぬぐえぬままであった。
しかし、あれよあれよと長期連載化、アニメ化、大バズである。この世は恐ろしい。
さて、私の心境であるが、もちろんとても嬉しかった。世間がこれほどまでに推しで一色に染め上げられるとは。夢でも見ているのではないか。
その一方で、どうしてもいわゆる老害的なオタクの面も顔を出し始める。
そのような友人がいないため古参顔ができないことが不幸中の幸いか。
前書きが長くなったが、同じようなオタクたちに、そしてこれからの同志たちに伝えたいことをつらつらと書き連ねていく。
なぜ、一般的に嫌われるとわかっていながら古参オタクの一面が覗くのか。
もちろん、単純にムカつくことはある。例えば、先日〇〇みたいな漫画描け、というような文脈で引用されているのを見た。
先述したように序盤は評判もあまり高くなく、新連載の順位としては…だった時期を知らないでそんなことを言ってんじゃないよというムカつきだ。
しかし、古参アピの本質を語るにはあまりふさわしくない。古参アピはもっと醜いものなのである。
まず第一に、流行っているものに飛びついているのがダサいという気持ちは確実にあるだろう。
社会的な流行に限らず、メジャーデビューやテレビ出演など、注目を浴びているものに無条件で飛びつくことはダサい。
これは「ミーハー」という言葉があることからも共通認識として認知され得ると思うが、まさに「ミーハー」と思われたくないのである。
そして、自分が「ミーハー」でないことの証明として挙げられるのがファンの期間の長さなのである。
私は偶然1巻の購入時、買ってきた旨のツイートをしていたのだが、それがあって本当に助かったと思っている。
ツイートを披露する機会は現実にないが、これがなければ信憑性の高い古参アピールをするのはなかなか難しい。
オタク諸君はもし、今推しているものがあったらすぐツイートするのをお勧めしたい。(ひけらかすのはよくない)
私はこのツイートがなければ他の「ミーハー」と何が違うのか。メンタルが崩壊していただろう。
次に、勝てる要素が歴史だけという点がある。
例えば、私は1巻から買っている古参オタクだが、〇〇の誕生日は?とか、〇〇の好きなものは?と聞かれてもわかるものは少ない。
人生で最も好きなもの、作品だとしてもそのオタク1000人を集めて知識で上位に行けるか、といわれたら自信を持てる人は少ないだろう。
私は声優もあまり知らないから、今街に出て、「〇〇の声優をやっている人は誰ですか?」と聞かれても答えられない。
私はグッズを収集していない。本誌に載っている応募者全員サービスなどは所有しているが、ぬいぐるみやカードなどは所有していないのだ。
単純に収入、金銭面の問題もあるし、集め始めると途方もないということもある。
しかし、いわゆる「ミーハー」として蔑んでいたはずの人達が、自分より圧倒的な熱量をもって自分を超えていく。知識を、金を積んでいく。
もちろん、推しの作品が盛り上がり、ファンが増えることはとても嬉しいことである。お爺ちゃんみたいな気持ちになってファンを見て感傷に浸ることもある。
しかし、それと同時に私より後に、流行りに乗っかっていた「ミーハー」が、黎明期を支えた我々よりも上に行く事実に嫉妬してしまうのだ。
「ミーハー」たちがどうやっても覆せない「歴史」を盾に、マウントを取りたがる。
だが、冷静に見てとても悲しく、醜い姿であることは間違いない。
今古参アピしようとしている人たちは今一度自分を見直してほしい。
そして、今古参アピされる人、この記事で「ミーハー」と呼んでしまった人達、あなたたちは本当に何も悪くない。作品を支えてくれて、好きになってくれてありがとう。
古参が幅を利かせてムカつくときもあると思うが、悲しいマウントだと思って流しながら聞いてほしい。
書き連ねてきたが、私自身初めての体験だったため、こんな気持ちが芽生えるとは、と自身の心境にはかなり驚いた。
これを読んでいる人の中にもきっと自分はそうならない、と思っている人がいるだろうがそういう人にこそ、自戒をしてほしいと思う。
僕は、精神障害を持ちながら、精神科の仕事に関わろうとしている人間だ。メンヘラがそんな仕事をするなとか、そもそも精神障害者は害悪だとか、逆にそういう人だから患者さんの気持ちを汲めるとか、いろいろな意見があるが、取り敢えずそういうのは一旦置いておくとして、僕が仕事に関わる時に心がけていることをここに書き記していこうと思う。後で読み返してまた気付きが得られるようにという目的も含めて。
一番注意していることは、患者さんの前では僕は医療職の一人であるということだ。僕がいくら手首が傷でズタズタで、パニック発作を抗不安薬OD気味に飲んでなんとか抑え、今にも道に飛び出してトラックに轢かれるか目の前にあるビルの屋上から飛び降りようかしそうな希死念慮とどん底の鬱がある身体を引きずって歩いているとしても、患者さんの前では僕は一人の医療職であって病者ではない。僕の具合が悪いからって医療の提供の質を下げることは許されない。僕の状態がどうであろうとその事実は変わらないのでそこは忘れてはならない。最近、抗不安薬を飲み足し飲み足し行っていて、自分のことで精いっぱいでこれを忘れそうになる。自戒。
注意していること2つ目、自分の苦しみと患者さんの苦しみが同義であると勘違いしないようにすること。患者さんが僕と同じ病気にかかっていたり僕と似たような逆境(虐待、いじめ、不登校、無職など)を体験していたりすると、安易に「あ~それわかります、つらいですよね」と共感してしまうことがある。いやもちろん患者さんの苦しみに共感的傾聴をすることはとても大事なのだが、安易な共感は危ない。なぜなら同じ病気の人が同じ苦しみを抱えているとは限らないし、似たような逆境体験だからといって全く同じ体験をしてきたわけではないからだ。僕の生い立ち、家族関係、友人関係、問題の背景、経過は患者さんのそれとは違う。患者さんの話をしっかり聞かないと、僕の体験を元にその人に介入してしまうなんてことになりかねない。簡単に共感できてしまう患者さんのケースこそ、自分との距離を意識的において扱わないといけないのかもしれない。
そして注意していること3つ目は、自分のことをよく理解しておくことだ。自分と患者さんとの境界が曖昧だとたいてい良くないことが起きる。まず、僕が患者さんの感情に引きずり込まれる。自殺未遂して入院してきた患者さんを診た時、ああ僕もああやって自殺したいなという思いが頭から離れなくなり、かなり調子を崩した。患者さんとの間には必要十分の距離をとらないといけないのだ。そして、自分のことをよく理解しておかないといけないのは、お互いの間に望ましくない感情が生起した時に最善の対処をできるようにする必要があるからという理由もある。患者さん→医療者に生じる感情としては、いつも優しい言葉をかけてくれる医療者を患者が好きになってしまったり、逆に患者さんが医療者にトラウマティックな人(虐待してきた親、DVしてきた恋人など)の像を投影して医療者を攻撃してしまったりというものがある。まあこれはよくあることなので医療者側も容易に気が付くし、やんわりと「恋人の関係にはなれないことになっているんです、ごめんなさい」と諭したり、時間を要するが医療者は敵ではないことを伝え続けたりできる。厄介なのが医療者→患者さんに生じる感情である。とある患者さんの言動が僕に不快感を与えるものだったりすると、たとえそれが精神疾患によるもの/生い立ちからどうしようもないこと等をわかっていつつも患者さんの言動が嫌いになってしまうことがある。しかもこの感情は自分ではなかなか気付きにくいときている。医療者側から「あなたのことは嫌いです」「あなたのやっていることは悪いことです」という姿勢が患者さんに伝わると、治療・信頼関係は崩落する。だからこの気持ちは自分でもしっかり気付いていないといけない。僕は患者さんと向き合うと同時に、自分自身とも向き合う必要があるのだ。
でも、精神疾患を持った精神科領域の医療者ってどうなんでしょうね。許されないことなんですかね。迷惑なんですかね。僕にはわかりません…
https://togetter.com/li/1553044
これについてなんだけど、両者とも二次創作で傷付いたり、落ち込んでいたりしているので一次創作をやっている私から見れば、「なんで他人のフンドシを借りて勝負しているのに、自分で生み出した作品のように一喜一憂してるんだろう、あほくさ」としか思えず、共感できなかった。
私個人、二次創作に対して嫌悪感はないがそこまで本気で嵌まり込んでいる人を見るとうわぁと思って引いてしまう。
もし、この漫画の登場人物達が二次創作ではなく一次創作の作品についてだったら少しは共感出来たかもしれない。
でも、この人たちは元ネタになった作品はどうでも良くて、ただネット上の人間関係に依存しているだけかもしれない。