はてなキーワード: セクシュアリティとは
昨日投稿したら増田の文字制限にひっかかった。8000字が限度っぽい。
前半はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20180504170139
その後、僕はフェミニズムの文献をあさるようになった。性の問題についていけるところまでいってみなければ自分の気がおさまらなかった。僕は男性ジェンダーに批判的になり、一度は大学に「復帰」したものの、卒業しない方が政治的に正しいと考えるようになった。なにかと特権や権力を自己批判するようになり、両親は僕が宗教にでもはまったのではないかと心配したらしい。
実際、フェミニストの方と(特に、男性中心主義社会との闘争を掲げ、意図的に男性を蔑視する方と)交流することで、僕は自己肯定感や性的主体性を失っていったと思う。いいかどうかは別として、フェミニズムにはそのような攻撃性があり、多くの男性が防衛的になるのもあるていどやむを得ない。
また、僕は性欲を男性に向けるように努力し、自分が犯されたり、屈辱的な目にあうことを想像しながらアナルオナニーするようになった。
そしてある界隈に足を運び、男体持ちで僕に性的関心を向ける人と出会い、セックスした。そのときは緊張したが、僕は無事に(?)勃起し、相手のペニスを自分のアナルに入れ、自分のペニスを相手のアナルに入れて射精した。
たしかに性的関心はある程度社会的に構築される、つまり教育や啓発によって、自分の中の異性愛・同性愛傾向を抑圧したり強化したりすることができると思う。しかし、僕はその男体持ちの人に、前の彼女に感じた執着を向けることができなかった。二人の関係は「セフレ」だと伝えたつもりだったが、反対に、その人は僕との関係に本気になった。僕はその人に対して自分のセクシュアリティ(正しい綴り!)をはっきり伝えることができず、なしくずしで関係が始まり、深まっていった。
その人は性的マイノリティであり、IQは高いけれども安定した人間関係を続けることが難しく、広義の「弱者男性」と言えると思う。そしてアカデミックなキャリアが行き詰まり、安定した仕事につけず、セクマイ界隈の一部とも関係が悪化し、追い込まれていくことで僕への性的依存を徐々に強めていくようになった。非モテ男性が異性の恋人によって一発逆転を夢見る心理は、同性の恋人においてもある程度あてはまるのかもしれない。
その人は、フェミニズムを受け入れ積極的なコミュニケーションを取れない「おとなしいコミュ障」の僕のことしか知らない。哲学や科学の一部の分野では僕が堂々と自己表現し、ときには攻撃的にすらなれることを知らない。その人は僕に対して容赦なく感情を爆発させるようになり、僕は一度は距離をおいたものの、あるセクマイ系イベントで再会したのをきっかけに引き戻されてしまった。
僕はそのときも、もうあなたと別れたいとつっぱねることができなかった。その人は、僕と恋人関係にあることを堂々とまわりにアピールしている。僕はそのイメージに流され、僕の意思は違うのだということを言えないままに、あいまいな笑みを浮かべつづけていた。
その人は僕にさらに感情的・性的に依存するようになり、僕は強くなろう、対処法を編み出そうと必死で本を読んだ。google:別れる? それともやり直す? カップル関係に悩む女性のためのガイドは男性ジェンダーとして傷つくことも多いが、つらい関係を終わらせることができるという希望も与えてくれる。ウ・ジョーティカgoogle:自由への旅はしんどいときにつまみ読みした。マインドフルネスのモチベーションを上げてくれ、1時間程度の瞑想ならできるようになった。あと、google:ツァラトゥストラはフェミニズムは奴隷道徳だ、権力を肯定し超人を目指せ!と言っているようで心にしみた。
さて、けっきょく大学を中退した僕は派遣に登録して社会人になった。今は大手メーカーの工場で生産管理をしている。
新しい仕事や住まいがあるていど落ち着いたところで、売り専に登録した。応募はとても緊張した。メールを送ろうかどうか、一か月近く迷っていた。意を決して送信した最初の店は落ちたが、次の店はやとってくれた。
売り専で働く直接のきっかけは、セックスワークについて知り、さらに、男性ジェンダーも性的対象として消費される経験をしてみなければと思ったからだ。友人にもフェミニズムの影響でちょっとだけ売り専をやったことのある人がいた。それに、僕はなんだかんだセックスが好きで、性的関心が強く、その方向で自己実現(?)してみるよいチャンスだと思ったのだ。もちろん、異性にモテてセックス相手に苦労はしないという実現のしかたもあるが、身長が低く押しも弱く吃音気味の僕にはどう転んでもできそうにない。でもそれは性的対象としてはむしろ強みになるんじゃないか?
実際にやってみると、自分に性的な価値があり、それにお金を払う人がいるということは自信になった。僕を指名するひとや、リピーターになる人がいた。僕を買う人はいつも僕の容姿を褒めてくれた。年配の人はチップをくれたりご飯をおごってくれたりした。
あと、僕は中一のときに一度痴漢に遭ったことを思い出した。トラウマとかではなく、自分にはちゃんと性的魅力があったという気づきとして。
僕は男性だが、性的主体でそれ自体に性的価値はないという生き方は向いていないと思うし、男性として性的対象とされることは僕の性に合っていると思う。女性からも自分が性的対象として見られることを意識できるようになり、ファーストキスで彼女が唇を濡らしたように、僕も性的な駆け引きの手段を使っていいのだと思えるようになった。
それに、身だしなみをよくして堂々としていれば、多少のいじりにたいしても動じないし、そのうち相手も一目置くようになるという自信を得た。化粧やファッションが「武器」であり、自分を「戦闘モード」にできるという言い方を女性がすることがあるが、僕もその意味がわかることがある。また実際、その攻撃はある程度効いていて、「向こうが誘ってきたんだ」と言い訳したり二次被害を与えたりする男性は性的な駆け引きにいつも負け続けているのだろうと思う。
閑話休題。得るものは得たと思ったし、またセックスワークを続けることの危険も感じたので僕は半年ほどで売り専をやめた。いままで、僕を買ってくれた人はおおむね常識をわきまえていて、無茶なことはしなかったし「痛い」と言えばセックスを止められた。でも、どこかですごく乱暴な人に出会うかもしれない、という不安をなくすことはできなかった。新しい人とやるときはいつもすごく緊張した。
ちなみに、僕が売り専をしていると知ったとき、当然かもしれないが彼は激しく動揺した。僕がその人以外の人とセックスしていることが耐え難く辛く、またセックスワーカーという挑戦を僕がしたことで、自分が追い越されたと感じプライドが揺らいだのだと思う。
性風俗に対する強い嫌悪感に共感することは、僕には難しい。恋人が風俗で働いたり風俗に行ったりしたことが分かって苦しんでいる(男性・女性の)記事を読むと、こんなに傷ついてしまうのかとやるせなくなる。
もちろん、彼を深く傷つけたと思う。ただ、僕がその人とセックスをするそもそものきっかけは、フェミニズムやセクマイの主張に興味があったからだ。売り専をしたのもそのためであって、新しい恋人がほしかったからではない。その人は性にまつわる社会問題の知識が豊富だったので、僕の行動にできれば理解を示してほしかった。
しかしこの一件で、僕はその人に対して「治療者」として振る舞おうと決心した。僕はあなたの恋人にはなれないということをどこかで伝えなければいけない。しかし当面は、その人が立ち直るのをサポートしようと思った。
そういうわけで、やっとソープの話です。ここまで読んでくれたひとがいるのだろうか…。
僕はこうしてそれなりにセックスを経験したけど、女性の膣に自分のペニスを入れるというセックスだけは一度もしていない。ほんとうは、それは最初に僕を選んだ彼女にあげたいとどこかで思っていた。そういう執着はよくないのかもしれないが、どこかで自分はまだその人の特別な存在になれると思っていた。
しかし、バンクロフトをはじめDV関連の本をあらかた読みこみ、それはDV加害者が被害者に依存する心理と同じであり、僕と別れることをえらんだ彼女に対する甘えであり、僕自身もその人との恋愛から「卒業」しなければならない、と考えるようになった。僕がその人を傷つけたから、その人は別れることを選んだのだと理解できるようになったと思う。
その一方、売り専をやめたことへの区切りもつけたかった。僕はずっと自分を売ってきたが、同じように身体を売っている女の人が何を考えているのか知ってみたかった。それでソープに行く必要はないのかもしれないが、それ以外にチャンネルを知らないし、政治的な連帯というよりはふつうに話しを聞いて体験を共有してもらいたい。もちろん向こうは異性愛男性にサービスを提供するつもりでいるのだから、そんなことは他でやってくれと思うかもしれないが、こっちだってそれなりにお金を払うのだから時間の使い方に多少の自由は許されると思った。
それに、その目的が達せなくても、ふつうの異性愛男性がどういう性的サービスを受けているのかを体験しておくのも意味があるだろう。とかなんとかいろいろ理屈を考えて、ようやく決心して、ソープの予約を入れた。
僕はどちらかといえば、同性や異性に性的サービスをする方が向いているような気もするし、もしそういう仕事があればやってもいいと思う。しかし僕の性的価値がある間に異性に体を売るサービスが一般的になることはなさそうだ。映画google: 娼年を見たけど、お金を払ってあんな乱暴なセックスはしないだろう。まだファンタジーの域を出ていないし、誰か貞操逆転世界な方向でもうちょっとリアルな作品をつくってほしい。
そういえばソープに行く前に、何を思い誤ったかYou Tubeに落ちている女性向けシチュエーションボイスを一晩聞いて「予習」した。本番でまったく使えなかったが、こういうサービスなら僕にもできると思う。
もう少し言うと、異性愛男性がリラックスして射精するというのは分かるのだが、異性愛女性がリラックスしてペニスを入れさせるというのがサービスとして成立するのか?成立しないなら、どういう男性がどういうサービスをするなら成立するのか?そういう需要をホストクラブとかの風俗がどの程度満たしているのかも、ぼくにはよくわからない。レズ風俗が成立しつつあるように、やはりケア役割は女性にとっても女性の方が向いているのかとも思います。
そのときは、男性性欲は男性で解消してもらうのが理に適っているのではないかな…。文句はソクラテスを論破してから言ってください。
「時代遅れの笑い」という批判もあるけど、たけしに「こんなネタは他の国なら、ただ事じゃないんだぞ」と言わせたことからも企画側がポリティカリコレクトネスに自覚的であることは伺われる。自覚の上で放映したという文脈から企画側はポリティカリコレクトネスに(挑戦しながらも)反する意図がないことを読み取らなければならない。
スポンサー降板もあったから局側は問答無用で、おそらく反射神経で謝罪したんだろう。しかし企画意図の説明を完全に封殺してなんの掘り下げもなく、謝罪して片付けてしまったのはちょっと放っておき難い。
そもそも保毛尾田保毛男というキャラクターの強烈さは、彼がセクシュアルマイノリティーであるからではない。30 年経っても忘れられない強烈さの本体は、彼の「得体の知れなさ」である。
当時ですら時代錯誤の、ポマードで塗り固められた髪。石橋貴明の無駄に良いガタイで派手なスーツをちゃっかり着こなすところから、経済力のある人物であることが仄めかされる(御曹司みたいな設定のようだ)。そして青ヒゲが男性であることを強調しつつ、話し始めるとこれが歯を見せずに上品なお姉様言葉。あらゆる特徴がちぐはぐで、掴みどころがない。
さらに言動から同性愛者であることは明白なのに本人に問いただせば「それはただの噂ですから」と言って否定する、(視聴者は心の中で「そんな訳あるかいな」と毎度ツッコミを入れる、)というのがこのコントのヤマである。
少なくとも視聴者には彼が男色であることが明示されているから、この「ただの噂」という台詞は嘘。つまり素性を明かすつもりのない人物なのだという印象を与えられるため、ますます正体不明の不気味な存在となっていく。
わたしたちはその不気味さと、しかしどうにも悪者には見えないそのチャーミングさとのギャップに可笑しさを覚えていた。この笑いの構造自体はほかのキャラクターにも代替可能なもので、同性愛者の揶揄がこのコントの主旨ではなかった。
主旨ではなかったはずだが、30 年前当時にはポリコレなんて概念はなくて、制作者および視聴者の「同性愛者への無理解」がツカミとして機能していたことも確かである。
偏見や差別はあってならないが、一方で多様なセクシュアリティーの存在を認識し、共存できることを確認する視点も公共電波に課せられた同等に重要な使命ではなかろうか。その視点に座すれば 30 年前には異形扱いだった保毛尾田が、時を経て鬼瓦権蔵(←しかも他ならぬ、こんな昔気質オヤジの権化である…)に扮した業界のドン:たけしとふざけ合いながら銀座を飲み歩くなんて、むしろそれこそ現代が差別のない世界に近づいていることを確認する幸福な画面だった。
ところが今回の説明のない謝罪は、あの銀座の一夜を否定し「今後、セクシュアルマイノリティには特殊な配慮をします。安易に画面に映しません」=転じて、テレビ局が頭を下げて「ホモを映したのはダメだった。これからはちゃんと差別します」と宣言するみたいなおかしなことになってしまっている。チャンチャン、まさにお笑いである。30 年を費やした、巨大なコントのオチが局の謝罪で完成してしまった。これでよいのか。
「部室芸」という表現もあるが、芸もなく、技巧もなく、思想もない。ただ笑わせて、笑った方が強い。それがとんねるずの世界観である。フジテレビが謝罪した日は、ポリコレが部室芸に殴られて「お笑い」になった日として大衆の記憶に留まる。
30過ぎてから自分のセクシュアリティに迷いが生じるとは思わなかった。
これまでのおよそ30年間はずっとヘテロとして生きてきた。
ただし腐っていたので男女間の恋愛にはさほど興味がなかったし、あと女子校育ちなので女性の先輩にきゃあきゃあ言ったりきれいな同級生にひそかに憧れたりもしていた。
なんやかんやあって3年後には別れてしまったし今思い返しても稚拙な関係性しか築けなかったなと思うけれど、それでもその人のことは本気で好きだったと思う。
そのときは「この人とは恋愛がしたいわけじゃない、むしろ仕事で認められたい」と途中で気が付いて、それからは良いビジネスパートナーになった。
舞台で活躍する彼女はとにかく麗しく、一目見てすぐ好きになった。
といっても別に繋がりがあるわけではないしガチ恋でもなく、ふつうにいちファンとして彼女の活躍を見守っているに過ぎない。
彼女に対する感情は親心にも近く、とにかく幸せでいてほしいしそのためならなんだってしたい。
でも、彼女の一挙手一投足にきゃあきゃあ言ってかわいいかわいい連呼する自分は、もしかしたら女性とも恋愛ができるのかもなあと最近思う。
その着想を得てから色んな人で脳内シミュレーションをしてみたけれども、全然イケる。
好みのタイプはもちろんあるけれども、むしろ男性との恋愛関係よりしっくりくる気がする。
ただ気になるのは、「男性とは付き合ったことがあるが女性とは付き合ったことがない」という点だ。
もともと超がつく奥手かつ自分自身の恋愛にさほど興味がないから、ここ7年くらい男女問わず誰のことも新規で好きになっていないのだ(※推しを除く)。
特定の男性を好きになった経験はある一方で特定の女性を好きになったことが無いので、もしかしたらこれは女性芸能人のファンをやっていることで自分は女性もイケると錯覚しているだけなのではないかという疑念がぬぐいきれない。
まさか30を過ぎてこんな10代みたいなことで悩むとは思っていなかった。
どっちなんだ、わたし。
今のところ別に恋人が欲しいわけでもないし、そもそもカテゴライズをする必要性もないのだろうけれども、なんとなくモヤモヤしたものを抱えながら今日も生きている。
あーなんか「セックスを推奨してるように読める」だけじゃなくて全体的に話が印象ありきになってるな
こちらがそちらが一番聞きたい部分にちゃんと答えられていなかった、ってのは認めるけど
そちらの
あんたが具体的にあげた項目は性行為の作法以外全部現行の教育現場でやってるって言ってるじゃん。んでそれは流行りの同意のプロセスと似たような話だと思うんだけど、コミュ力ありきで察しろみたいな記事しかないけど教育現場でどう教えるつもりなのかが俺はしりたい。
このへんの発言も単なる主観の域を出てないよね。少なくとも「実践的な性教育は教育の範疇を超える」という増田の理屈は自分にはピンとこない。このまま話し合っても平行線になるし、自分の意見の論拠となるデータをちゃんと提示しあって「なにを拠り所にしてそう考えるか・そう主張するのか」を踏まえ直すべきでは?
- 2「性感染症も妊娠もリスクを0にはできません」 間違った知識から卒業しよう(BuzzFeed Japan): https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/sex-ed-week-hori?utm_term=.jsjvqJPaz#.dhGglvrwx
- 3性教育の欠落で失われる、子ども達の人生(ハフポスト日本版)http://www.huffingtonpost.jp/hiroki-komazaki/the-facts-of-life-children_b_14278952.html
自分が意見形成の過程で見聞きした情報、ないし見聞きした情報と同種の内容が掲載されているサイト。とくに「現状の性教育が不十分である」とする論拠、それから後で書く増田の「実践的な性教育=セックス講習ではない」の根拠ととなっているのは1と5。
1ははてブでもホッテントリに上がるくらいブクマがついていたからもしかすると増田も読んだかもしれないけれど、この記事の中に「1990年代は熱心だった日本の性教育」という項目があり、次のように書いている。
実は、日本の学校教育の現場でも性教育に熱心だった時期はあった。「性教育元年」と言われた1992年からの約10年間がそれだ。1980年代のエイズ・パニックをきっかけとして、「エイズ感染予防のためにも性教育が必要」と言われるようになり、学習指導要領も改訂。「理科」や新たに始まった「保健」を通じて小学校段階から「性」を本格的に教えるようになった。
きっかけは、厚生労働省所管の財団法人・母子衛生協会が中学3年生向けに作成した冊子「思春期のためのラブ・アンド・ボディBOOK」の回収騒動だ。冊子にはコンドームの装着方法やピルの紹介などもあり、2002年頃、国会で「中学生の性行動をあおっている」といった激しい批判を受けた。冊子は結局、全面回収されてしまう。
この当時、国会や地方議会、マスコミを主舞台として「過激な性教育が学校でまん延している」「教室で性交渉の方法を教えていいのか」といった批判が激しくなり、「性教育元年」と呼ばれた動きは教室から姿を消した。
ここを読めば、現在の性教育についての内容が行政の取り組みの段階から過去の教育と比べて後退的であるということが分かる。また3の記事でも00年代初頭の性教育へのバッシングについての言及があり、ここでも同様の見方を取ることが出来る。
「性教育の不十分さ」の可能性については増田も自分とそれほど意見が違っていないようだから、ここはそのまま承服してくれるだろうと思う。
次に5について。これは日本とオランダ、アメリカ、タイといった実践的教育を行っている国との教育内容の比較で、この中からオランダとアメリカの部分を引用する。
オランダでは~(中略)~思春期を迎える前の時期から、性は食事や睡眠と同じように日常生活の一部であり、ごく自然で当たり前のことだと教えられます。小学校によっては高学年でバナナを使って実際に避妊具を被せる実習を行うこともあるようです。
~(略)~
このように、オランダの若者は性に関する十分な知識を身につけているため、10代の出産率と中絶率が世界の中でも極めて低くなっています。
○「総合的性教育(セクシュアリティ教育)」…性を生物学・心理学・社会学など多角的にとらえて1人の責任ある人間としていかに行動するかを教え、避妊・妊娠中絶・同性愛は否定しません。
○「禁欲教育」…結婚まで性交せずに禁欲生活を送ることがいかに重要かを教える教育です。
これ以外のタイでも、これらと同様に単に性機能や避妊方法と言ったごく狭い範囲に教えるのではなく、対人関係、人権の視点と言った多角的な目線で“性”を捉えることを重視している、といったような記述が成されている。
それで、この1と5を踏まえて言えるのは、まず日本の性教育が世界はもちろんのこと“過去の日本にさえ”遅れているということ。また、これだけ行き遅れている状態で性教育についてのカリキュラムを多少なり進展させたところで、それが踏み込みすぎになることはあり得ない、とも言える。
また、コンドームの仮想利用まで教育にとり入れることを容認しているオランダの出産率、中絶率の低さから言っても「踏み込んだ性教育が、乱れた性風紀を生み出すことと直結することはない」というのも明らか。これで自分の
「セックスという行為の存在自体は肯定的に捉えつつ、それはそれとしてセックスする前に必要不可欠な知識はしっかり頭に入れてからやってね」
が単にセックスを推奨するものではない、ということを理解してもらえると思う。
そして最後に増田の言う性教育には限界がある、という主張に対する反論として、先に引用したアメリカの性教育についての文章(抜粋なのでできれば元サイトの文章も)を読んで欲しい。
アメリカの場合は特殊で、「同性愛・避妊・中絶」といった部分までひろく教えるところ、現状遅れているとされる日本さえ先進的に見えるくらいにガッチガチの「反中絶主義・禁欲主義」を掲げるところと、州によって性教育のカリキュラムに天と地ほどの差がある。つまりこれは「性教育の過程で教えるべき知識・教えるべきでない知識」「性教育の限界がどこにあるのか」というのは、単に教育者側・行政者側の主観によってしか取り決められていないってこと。
ともすれば、性教育限界説なんていうのは単なるまやかしで、本当に拠るべきは「性教育の限界がどこにあるのか」なんていう主観でいくらでも変わるものではなく、「実施した性教育が、実社会にどのような結果をもたらしたか」のはず。そしてその「踏み込んだ性教育を実施した結果」は、オランダのそれを見れば分かるように、充分に好意的に捉えていいものになってる。
はじめの増田の記事に自分含めたくさんのブクマが集まったのもこの増田のはじめに書いたように
っていう、主観でしかない「実践的な性教育はセックス講習と同義」「実践的な内容に踏み込むと教育とは違うものになる」という理屈立てをさも自明の理であるかのように書いたからなんだよね。
で、自分含めみんなその理屈立てがそもそもおかしいことに気づききれないまま
コンドームを使いましょう
避妊薬を使いましょう
の部分に突っ込んで、「オーラルセックスの知識は必要」「オーラルセックスの話になる意味がわからない」といったように、概ね「踏み込んだ性教育をするべき」という意見にまとまっているはずなのに、各発言にばらつきが出てしまったわけだ。
それで、この辺の話を踏まえたうえで改めてトラバに言及するけど
元増田でも言ってるんだけど
実践的な性教育って教育の範疇超えちゃうよね。じゃあ、結局性教育ってどうすればいいんよ
ってのが俺の趣旨なんだけど、言いたいことだけ言ってる感すごくない?
まず自分に質問をする前に、増田は自分でさんざん挙げている「教育の範疇」というものについて定義する必要がある。明確な定義付けがなされなければ増田の意見は単なる主観の域を出ないし、主観ありきの出発点で話を始めている以上、そのレールに乗ったまま自分が何か意見を挙げても増田が「それは教育の範疇じゃない」と言えばそういうことになってしまう。これはこれまでのトラバで増田が「どう読んでもお前の意見はセックスを推奨しているとしか読めない」と主張した、またそう主張し続けることができたことから言っても明らかだ。
しかしながらそこで「教育の範疇とは何か」を定義づけするにしても、先に挙げたアメリカ、オランダといった他国の性教育の例を見れば明白なように、教育者・行政者側の視点でいくらでも変わり得る「教育の範疇」に絶対的な基準などないし、もし絶対的な基準というものがあるのだとすれば、その基準にもとづいて性教育のカリキュラムを制定すればいいわけで、増田の「性教育には限界がある」という主張は成立しなくなる。
ただ、こう書いて「煙に巻いただけで、さんざん自分が質問したことには答えてくれていない」と言われるのは嫌だから元増田の
コンドームを使いましょう
避妊薬を使いましょう
自分の主観と、これまでに引用した記事の知見に拠るなら、妊娠リスクを回避しつつ性的快感を互いに感じ合うというのは未成年に依らず性的機能を保持しているあらゆる男女で行われていることだし、別に自分はオーラルセックスの存在を例示するのは何も問題があるとも思わないし、自分はそれが「教育ではない」とは思わない。
ただ、オーラルセックスでも性病の感染リスクはあるわけで、「そうするようにしましょう」とまで言うべきだとも思わない。原則として「妊娠したくない(させたくない)、妊娠しても出産できない状況下では、妊娠リスクを伴う性交渉は最大限避けるように努めるべきだ」としつつ、避妊手段や口淫などの性器同士を直接触れ合わせずに性的快感を感じ合う手段を例示する(実際にそういった手段を行うかの判断は生徒側に任せる)のが理想的だと考える。
どうだろう、増田の意見に沿うかはさておいて、ひとまず確かな一意見の提示として読んでもらえたなら幸いだけど。
2017-08-16 14:29追記: 全体的にタイプミスや意見として明瞭でない部分があったので、論旨は維持しつつ一部文章を手直しした。なんか返信もらえなかったけど、それはそれとしてひとまず読んでくれたのならよかった。
被告は犯行当時、妻子がいたというが、自転車で追い抜きざまに小学校高学年くらいの女児の体を触るなどの犯行を30~40件繰り返していたという。
「放射能検査を装う 女児の体触った男初公判 容疑認め涙 類似の漫画作者に県警申し入れ」
http://www.sankei.com/affairs/news/170622/afr1706220026-n1.html
犯人が妻子持ちってことは、成人女性とも普通に性的関係になれる男だということだよね?
「ロリコンは幼女が相手じゃないと性的充足を得られない」という先入観を鵜呑みにして、それゆえに危険だと敵視する意見も、性的マイノリティだと擁護する意見も、どっちも的外れじゃん。
ついでに言っておくと、クジラックスの漫画で抜いているのは、ロリコンじゃねーから。
これは案外オタクじゃないと分からないことかもしれないけど、二次元でロリキャラが好きなのと、三次元の幼女が好きっていうのは、全然ちがうことだからね。
あと、クジラックスの漫画で抜くからといって、他のエロ漫画でもロリキャラが出てくるものが好きだというわけじゃない。
そのへんは個人差がある話だろうけど、あまり無茶な単純化をしてほしくない。
表現規制の論者はオタクのことを何も分かってなくて、そのセクシュアリティを一方的に決めつけていたり、とんでもない勘違いをしている感じがあるなーとは思っている。
なんでそう極論に振れるのかな。
しかし、ロリコンショタコンには他のマイノリティにはあまりない特徴がある。それは、欲そのものが暴力性を孕んでいるということだ。
異性愛者であっても同性愛者であっても、お互いの同意なしにセックスするのは当然レイプである。
そして子供相手には、性的同意などどうあがいても取れない。なぜなら未熟な子供はそれを理解していないからだ。
だから、ロリコンショタコンがその欲望を果たすというのはレイプ以外になるはずもなく、当然暴力なのである。
同時に、真っ当に大人が性の対象であっても、同意のないセックスにしか興奮しない性癖はやはり暴力であることは注意が必要である。
小児性愛者やレイプでしか抜けない人を「認めろ」って、彼らの欲望をそのまま叶えてやれって意味じゃないよね。
実際の性暴力に手を出さない限り、差別されたり迫害されたりせず、「まあ、性癖は人それぞれだからね」で流してもらえる、好きなものを(それが実際の人権侵害に関わっていない限り)規制されない、って、そこまで不当な要求とは思わない。
これすら認めないってどんだけ狭量な社会?
実際に子供とセックスしたり他人をレイプしたりしたら捕まるのは当たり前で、それは小児性愛者だろうが異性愛者だろうが同性愛者だろうが変わらない。人権侵害をして作られたコンテンツが取り締まられるのも当然のこと。他者危害を認めないという最低限のラインは、小児性愛者その他暴力的なセクシュアリティを持って生まれた人への差別をすることなく設定できるよね。
このいくらでも悩むことのある世の中で、なんで君らはそうセクシュアリティなんかに必死なの?
まあわざわざ増田に書くぐらいだから、深刻に悩んでる人ばかりになるというのはわかるし、
世の中には性に大した熱意のないLGBTがおそらくいるというのも承知してるつもりだけど。
それとも自分が非モテだから、自他問わず性というものが雑に扱われて当然だと感じてしまうのか。
結局、「隠してないと何されるかわからん」みたいな抑圧が全ての原因なんだろうね。
個人としてはそういうのに加担する気はない(そもそも前述したように性自体どうでもいい)けど、
とりあえず、非モテが言ってもしょうがない気もするが、自分の性は自分のものだ。
誰に隠すか、誰に明かすかも本人の自由だ。
「なんだそんなことか」と気軽に言える日が来てほしいと思う。
そうそう
あとさらに言えば
ってみんな言うけど
必要なのは「理解できなくても攻撃しない」っていう道徳でしょ?
自分もLGBTへの差別がなくなった方がいいと真面目に思ってるけど、
彼らの大部分が生きやすくなるとこまで達成するとなると、当分は無理だろうなと感じる。
なぜかというと、「LGBTを差別しちゃいけません!」ってお題目(現状これすら未達成だが)
どうせ残りはキモいとか金がないとか、他の「合理的な」理由で疎外されるから。
一緒にしたらまた怒るんだろうけど、昔からあったオタク差別と構造は大して変わんないよ。
ゲイへの差別さえなくなれば自分の生きにくさが解決する! とか叫んでる人が割といるけど、
そんな僕が最近強く思うのは、家庭を築きたいということだ。
海外では、同性婚が認められていて、ゲイカップルが里親となって子どもを育てていたり、事例はある。
けれども、日本では同性カップルが里親になることはできないし、願わくば血の繋がりのある子を持てたらと思ってしまう。
ゲイの人は、「理解されねぇな」と感じる日常のふとした瞬間に、「普通になれたら」と思うことがある。
「自分のセクシュアリティについて理解してくれて、それでいてお互いに信頼し合える女性と結婚する。その人との間に子どもをつくって、一見普通の夫婦として生きていく。」
そんなことはできないかと考えるようになった。
これは個人的にも妥協だと思えるし、しかも相手の女性にはあまりにも都合の良い要求をしている気もする。
生まれてから20数年、小さい頃に女の子を好きだったことをあった。
大学に入った頃は、「中高は環境のせいだったかも?」と思っては見たものの、相変わらず男に片思いをする日が続いた。
就職後、いわゆる出会い系アプリで、やっと友達以上恋人未満なお相手ができた(男)。
そんな折、大学と違って、職場には家庭を持つ上司がいた。子どもを持つ人もいる。
FBでは赤ちゃん誕生を知らせる友人の投稿を見かける。祖父母は「あなたが結婚するまでは生きていたいわね」と言う。
何より、両親は問う、「いつ結婚するの?」
そうして急に虚しく感じるようになった。
いくら自分がゲイで、性的には心や体が反応するからと言って、それにしたがって男の人との関係を模索することが。
一人の寂しさを実感するようになったし、一人になって親の愛情をより深く理解するようになった。
結婚して、子どもを持って、親には孫を見せてあげたいと思うようになった。
こんな事情を理解してくれる女性と結婚し、子育てをしていくことは、どこか背徳的な生き方だろうか?
ただただ、家庭を持って、親が自分を育てる中で感じていたような幸せを自分も掴んでいきたいと思っているだけなのだけど。
信頼できる女性と、結婚するのか。前途多難だけれど、同性婚・里親の道を模索するのか。
いったいどうしたらいいんだ?
やっぱポリコレドリブンで思考してると本物のバカになっちゃうんだねw
したり顔でアウティングガー(笑)だの弱者にやさしいワタシに酔いまくった偽善ツイート垂れ流してたおリベラル様(笑)
あれですか? イケメンホモなら未成年への性的虐待も許されちゃう感じですか?(笑)
コカイン吸って未成年物色するホモとか控えめにいっても鬼畜の部類に入ると思うけど(笑)
あー、今時はヤク中も病気だから犯罪人扱いしないでくだちゃいねーかわいそかわいそでちゅねーとかいうのがトレンドなんだっけ(笑)
つうか普通に考えてコカインの件がクロだからセクシュアリティガーとか弱者ぶって逃げたんだって普通に考えたらわかるよね?
ポリコレ脳で普段から弱者(笑)にやさしいワタシというセルフイメージにしがみついてるから常識的な推論もできなくなっちゃうんだよ?
だからこれからもお前らの居場所はこれからもどんどんなくなっていくんだよ?わかる?
今年はお前らおリベラル様にとって最低の一年だっただろうけど(笑) 来年からはもっともっとお前らの生きづらい社会になるんだよ?
「放送中のドラマを熱心に追い、エンタメニュースをチェックするような人種」ではない私に対してすら、成宮寛貴氏の薬物使用報道、及び(主に)マスコミによる彼のセクシュアリティの「暴露」は不思議なほど胸に刺さった。その気持ちは脇に置いておくとして、紛糾するTwitterを見ていて更に辛くなったので(擁護・攻撃のサイドを問わず)、いくつか確認しておきたいことがある。とっ散らかったま携帯から投稿しており、単に面倒なので推敲をやめた部分もあるのだが、容赦してくれというか、匿名なのでしょうがない。
とりあえず考えがとっ散らかったままタタキ台として書いてみたところ、「成宮寛貴氏の引退表明に憤るTwitterのみなさん、その140字の文章は何を目的としているか、自覚していますか? そしてその文章、その目的に適っていますか? 他でもない君らのためにたぶんもっといい方法があるで?」というややオセッカイなものになった。言いたいことが言いたいことだけに、読みやすく説得力のある文章を作るべく最大限の努力をしたほうがいいのだが、筋道の通った長い文を作るのは単にしんどいので、この辺りを落とし所としたい。
引退表明の文章は他ならぬ成宮寛貴氏本人の直筆によるものである。氏を擁護したいとか、励ましたいといった感情があって、それを表明したいと思うならば、本人の意思を受け止めることを放棄してはいけない。当然も当然。
主語を欠いた「認めない」の連呼は、もちろん「誰がなんと言おうと俺の気持ちはこうなの!」という表明をするならまだ誠実なのだが、
「氏はこんなバックグラウンドの人物で(だから何だ)/薬物なんてやるわけないって信じてるし(これで真実だったら誰が彼を許せるのだろう)/フライデーは悪!みんなでこの気持ちの正しさを証明して成宮くんを取り戻そう!」
という、正義にかこつけて書き手の気持ちをごった煮にしただけの攻撃的な定型文があまりに多い。これでは氏の気持ちに寄り添うどころかNews欄に怪文書を濫立させてしまうだけである。「私個人の感情としては残念だけど、君が決めたのならそれを尊重する。ゆっくり休んでくれ」という前置きがあまりにも足りない。
宮崎駿氏が怒っているだけの動画が放映された途端に突然市民が騒ぎはじめ、ことのついでにドワンゴの人の外見までもをDisったために氏が減量宣言をするに至ったことは記憶に新しいが、インターネットにはあまりにも「自分の気持ちの正しさを証明してやる!」という不毛な言説が多い。多すぎる。ある考えが本当に正しいのなら、どれだけ不本意ながらも人はそれを認めるんじゃないだろうか? (これ自体、あまり振り回してはいけない考え方ではあるけれども。「それは君の気持ちでしょ?w」と難癖をつけられたら、大抵の場合は「そうだね!死ね!」と返すほかないわけで。)
スッポリ前述の項を含むようだが、インターネットで誰かを説得したいと思ったら、「みんなこう思うよね!?これが正しいよね!?""あいつら""は悪だよね!?」ではまずい。味方が増やせないのだから(もちろん、言いたいことを言って気持ち良くなりたい!という目的で書いたのならこれは充分にそれに適うだろう)。
「これは俺の気持ち。それはそれとしてこっちは一般論。成宮くんが本当に薬物に関してクロで、この文章を読んでいるお前が猛烈な成宮アンチで、お前の家族が講談社勤務だったとしても、流石にこれの正しさは認めるよな?」、自分一人が気持ちよくなりたくて言ってるのでなければ、これが大事。
再三強調しておくがこの文章はとっ散らかっている。書き手の頭が悪いのだ。そのため前述の2項とこれまた微妙に内容が重なっている。書き手の書きスキルだけでなく受け手の受けスキルが要求されることもあるもんだと思ってほしい。ダブスタだと思ったらこの文章が成宮擁護派の味方になろうとして書かれていることを思い出してほしい。
インターネットにぶつけようとした自分の気持ちを一度引いて見たとき、実は自分には「週刊誌の巨悪」みたいなものを断罪してみようという気持ちは、それほどないな、と気付いたとする。これはどちらかというと、「成宮氏の味方になりたい」という気持ちではないか、と。とすると、成宮氏の味方になるには実際、どうすれば良いのだろう。この辺りでたぶん理性の声が聞こえてくる。「何もしないこと、そっとしておくこと。自明だ」。今の成宮氏が最も必要としているのは傷を癒す時間だ。
人間、正しい行動をしようとしても、怒りや悲しみというものは厄介で、これに突き動かされてしまってどうしようもない。とあるベトナムの高層がいて、ベトナム戦争中に傀儡政権側に仲間を皆殺しにされたとき、いくら高僧とはいえ怒りが体を突き動かすのをやめるまで数週間ひたすら耐え忍ぶほかなく、そこまでしてやっと再びベトナムのために立ち上がることができたのだとか。詳しいことはすっかり忘れてしまって、その「感情が静まるまでは我々は待つほかない」という部分だけがいつまでも胸に残っている。
感情に動かされてしまうインターネットのみなさんというよりも、当事者の成宮寛貴氏の気持ちに寄り添おうと考えたときにこれを思う。「疑われたくないなら闘えよ」とか、「ゲイであることが悪いことみたいに振る舞っちゃダメじゃん!堂々としてたらいいのに!(言葉にするのも憚られるくらいおぞましい考えだ……)」とか、動向にイチャモンをつけることは、呆れるほど簡単なんだが、気持ちの問題じゃしょうがない。
泣いている人間に「君が泣くことに正当性はないので今すぐ泣くのをやめるべき」と言ってどうなる。「泣かないで!元気出して!大丈夫だよ!はい今元気出た!元気出たよ!」、これも同じようなものだ。悪意がない分余計につらい。「気持ちの問題はしょうがない。どれだけ時間がかかってもいいからまずは落ち着こう、それまで待つ」、強いて何か言うならこうだろう、と。
以上3点が表題に応じて私が述べるところ。
大学の遠い知人の言葉に「自分を許せるのは自分だけ」というものがあり、至言である。曰く""「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とは言うが俺の喉元は2ミリくらいしかないので落ち込まない。自分を責めて苦しむだけ勿体無い""だそうだ。彼は何留何浪かして他の大学に行ったはずだが、私よりは生きていて楽しそうだ。キラキラしていると言っていい。
成宮くんの喉元はどれくらいあるのだろう。「許してほしい」などと言わず自分で自分を許してやってくれ。そのためには時間が必要だろう。海外に行く、いいじゃないか、ここより暖かくて静かなところでよく食べてよく眠ればいい。それが巷で邪推されてるように高跳びだったっていい。そのために多分金が要るんだろうけどどうしたら君の懐に入るんだ。フライデー不買とか政治的意思の表明としてすら何ら効力を持たないだろうし面白みもない、それなら集英社から出ている君の写真集でもいっちょ積んでやろうと思うんだが。そうだよなあ?
噂に聞いたのだけれど、ある芸能人のセクシュアリティがどうこうってことで騒がれているそうですね。
結論から言って、セクシュアリティの相異(多様性)を認められない日本社会の方が異常です。
セクシュアリティということ自体がそもそもきわめてプライベートなことなのに、それが勝手に暴露されていじくり回される人々って、気色悪いし危険です。
ただでさえ、シスヘテロでない(ヘテロセクシュアルでなかったり、トランスジェンダーであったりする)ってことだけでも、あれやこれやと言われたり、興味本位でネタにされたりする社会です。しかも近年は、少子化問題とか言って、結婚しろ、子供産めっていう、儒教的な教義(道徳)を押し付ける社会的圧力があって、たかがホモセクシュアルでさえも狩られそうな雰囲気です(一種のヘイトです)。公言する(いわゆる「カミングアウト」)ってだけでも、人生や命が懸かるんです。
たとえ公言せずに隠していたとしても噂が流れて社会生活に悪影響が出ます。実際にはシスヘテロの人でも虚偽の噂が流れて社会生活に影響が出ることがあり、「自分はシスヘテロだ」って言って噂を否定することになるでしょうが、それは結果的には世のシスヘテロでない人に対する否定的価値観を表明する効果が出てしまいます(ヘイトの片棒をかつぐことになります)。
私は生まれつき染色体異常で、幼い頃から今までもずっと、周りの人々から酷い扱いを受けてきました。皆、私に対してだけ態度が変わり、職業柄で私に接さないといけない人(店員とか教諭とか医者とか公務員とか)でさえも嫌々やっていることが露骨です。陰口叩かれたりありもしない噂を流されたりするのはいつものことで、勝手にホモセクシュアルだという虚偽の噂が流されていました。面と向かって罵詈雑言を浴びせられもしてきたし、殴る蹴るや盗むや壊すといったことは学校ではしょっちゅうやられていました。私からすると、不条理です。なんで私ばっかり迫害を受けるのか。
人間というのにはどうにも、現実が自分にとって都合が悪かったり好きでなかったりすると、認めたがらない性向がありますね。例えば「正常性バイアス」というのもそうでしょう。
例えば、自分の中にも若干はあるゲイ的性向が怖いから、嫌だから、ゲイを嫌悪する男がいるのでしょう。自分のことを褒めてくれない(承認欲求を満たしてくれない)からゲイを嫌悪する女がいるのでしょう。レズビアンがヘイトされるのも同様ですし、そのほか多彩に実在するセクシュアリティについてここではいちいち言及しませんが。
例えば、現実には醜いから、「美しい国」って言うんでしょ。弱いから「強い」って言うんでしょ。どこぞの首相とか大統領とかも現実を認める能力を欠いているわけでしょうし、現実を認めたくない人々の心情を利用して権力を獲ったんでしょうね。だからきっと、世の中は良くなるどころか、更に悪化していくのでしょうね。自分さえ良ければいいんでしょうし、自国さえ良ければいいんでしょ。けどおそらく、一過性の愉快しか得られず、将来へのツケを増やしていくばかりになると思いますね。
今の人々は、現実を認められないし、現実を観る能力すら欠いてきています。周りの人が言うこと、マスコミが言うこと、SNSとかで流れていることが、現実とすりかわって認識されています。自分自身の眼や脳で見なくなり、自分の脳で感じたり考えたりすることを放棄するようになってきています。こうした異常性について自覚がないから、ものごとはよくなるどころか悪化していく一方なのでしょうね。
異性愛でも、同性愛でも、両性愛でも、人が人を愛するということは変わりないじゃないかと思う。
今の社会は寛容なようでいて、寛容じゃないんだなと思う。
私は同性の恋人と手を繋いで歩くことに、まだどこか抵抗がある。
普通のこと、とされていることを正義として受け取るタチなのかもしれない。
彼氏のこととか、将来の結婚願望について語る友人たちのことを羨ましいと思ったし、自分もいつか異性を好きになれるって思っていた。
でも好きになるのは女性ばかりであれ?って感じてた。
ずっと誰にも話せなかったし、悩んでいた。
親や友人にバレたらアウトだという意識があった。
でもそんな状況自体がよく考えたらおかしいんじゃないかと思い始めた。
自分も結局は、同性愛者である自分自身を差別してるんじゃないか。
それがとてつもなくショックだった。
その差別意識は、異性愛者であることが当たり前な社会の中で無意識に植え付けられたものだと思う。
異性愛者でも同性愛者でも、自由に生きられるような心地よい社会になればいいと思う。
「〇〇くんが好きなんだ〜」「私は〇〇ちゃんが好きー」と軽く言い合えるような環境なら。
セクシュアリティに悩む人が、減るんじゃないだろうか。
気持ち悪いと思いましたか?自然に感じましたか?2人は友達だと思いましたか?
気持ち悪いと思いましたか?自然に感じましたか?2人は友達だと思いましたか?
同性愛者である私が同性愛嫌悪を根底に持っているというのもおかしな話。
メディアや雑誌で笑い者にされてる姿を植え付けられてさ、それを見て自分もそうなんだってすんなり肯定できる?
私にはそんな強さはなかった。
人に何か言われたくらいで、大切なものを失いたくないって思えたから。
好きなものを好きと言える世の中って、本当に大切だと思う。
でも私は至って真面目に、心からそう考えている。
なりたい自分と実際の自分との乖離は、どんなことであってももやもやして悲しい。
自分のセクシュアリティがなんだかよくわからない。(迷子にして答えを先延ばしにしたいだけなのかもしれないが)LGBTQというやつなのだろうか。
恋をする対象か、セックスできる(したい)対象か、それともその先を考えて、長い付き合いの間に愛を育める間柄なのか。
私の場合恋をする対象は、異性なら◎、同性なら○、でもセックスは異性だと×、同性だと○、というようにどっちつかずな状態になっている。(性嫌悪というやつなのか?)
で、最初に戻るが、私はレズビアンになりたい。なんでかといえば、私は百合が好きだからだ。それに対する憧れのようなものがある。
と、ここまで来るとつまるところ私は「バイ」だ。
ここまで子細にわかっていればセクシュアリティがわからないも何もないが、やっぱり私はレズビアンになりたいのである。というより、ヘテロになりたくない。
恥ずかしながら、異性を好きになるなんていう、恋愛至上主義に乗っかった会いたくて震えるなんて考えるリア充な存在に、自分がなりたくないのだ。そうなるくらいなら恋愛なんて面倒なことには一切考えない人生を歩みたいくらいだ。
別に異性に対するトラウマがあるわけでも、恐怖症なわけでもない。理由があるとしたら、たぶんただ中高を同性しかいない環境で類は友を呼ぶ間柄で思春期を過ごしたからこうなったのだ。
同性を好きになったことは何度かある。しかし異性に恋をしない訳ではない。半年くらい前は確かに好きな人がいた。けれどもうこんな思いはしたくないとも最終的に思った。
そんなわけで、私はバイである、もしくは本質的にはヘテロかもしれない自分が受け入れられない。だからセクシュアリティが迷子なのである。
ばかだね。
増田で定期的に投下される「童貞ネタ」でモヤモヤしていたことを把握できたので、記事を投稿してみる。
ツッコミどころ満載だと思うから、変だと思ったらどんどん指摘してもらって構いませんw
増田で投下される自称童貞の記事って、ひどいミソジニー臭がすることが多い。
ブコメではそれに過敏に反応して、記事の一言一言に噛み付いて、「それだから童貞なんだ!」とディスる。
特に女性と思しきトラバ主やブクマカ達は、やや滑稽なほど童貞増田に対する激しい差別的感情を露わにする。
記事に書かれていないことまで邪推して、「あなたは○○な人物だからダメなんだ!」と強い語調で猛省を促すわけだ。
はてな民に限らず、多くの女性はモテない男性に対してやや否定的な感情を持っていると言われている。
モテる男性から酷い目に遭わされ続けていても、それでもモテない男性に対して視野を広げることはしない。
(でも、人間ってそういうものだから、個人的にはそれは悪いことではないどころ、それが自然だとすら思う)
ところが、よく考えてみたら、増田によく出没する自称童貞さん達と、
そうやって童貞増田を激しく糾弾する女性ブクマカ達って同じ人種なんじゃないか、と思うようになった。
というのも、自称童貞さん達はまだ女性と交際したこともないくせに、
「女は○○が悪い。だから女はクズだ」と女性全体を切断処理する。傍目には「すっぱい葡萄の論理」を展開しているようにしか見えない。
一方、童貞糾弾派の女性たちも、実際に童貞さんと実際に相対したわけでもないか、そうだとしても極少数のサンプルだけを判断材料に
「モテない男は○○」と決めつけている。ようは、童貞さんも童貞糾弾派も、頭の中の害悪的なイメージと戦っているだけじゃないだろうか?
童貞さんの「女」と、童貞糾弾派の「童貞」は、とにかく「悪い批判すべき奴」という意味の代名詞程度の役割しかなくて、
「女は○○だから悪い」や「童貞は○○だからダメ」という言説は、単純なトートロジーになっていて、それ故に常に正しくなってしまう。
いわゆる「主語が大きい」問題とも言い換えられるし、この記事内容自体が結構ブーメラン刺さっているところではあるんだけど、
人間は思いのほか個人差が大きい生き物だし、同じ社会的属性を持った人たちが皆、同じ特性を持っていると考える方が無理があるんだよね。
実は最近ちょっと前に話題になった『ルポ中年童貞』(幻冬舎)という新書を読んで、
その中に「外見に自信がないせいで同性愛に走った」という男性のケースが紹介されているんだけど、
それを読んでいるとき、「いや、これは童貞云々が問題じゃなくて、本人がセクシュアリティ(バイの同性愛寄り)に気付いていなかっただけじゃない?」と思い、
そのケースを敷衍して考えた結果、「やっぱり童貞問題は十把一絡げに語れないなあ」という思いを強くしたんだ。
自分自身を言えば、初めてセックスしたときに何か「ああ、俺は童貞卒業したなあ」なんて実感は全くなくて、
むしろ、(後の妻になる)彼女が風邪をこじらせて酷い肺炎になったとき、急遽会社を有給取って休んで彼女の看護していたとき、
この記事を書いたら、もうこのページは放置。振り返らない。読み直さない。読み直したらオレの負けだ。
(長文ですが斜め読みでもしていただければ幸いです)
ある日気づいたら、Twitterのアカウントが5つもあった。
おまけにYahoo!のコメント欄に今年初めから200以上も投稿していた。
整理してみよう。
去年の春、体調不良で会社を辞めてからほぼ引きこもりとなり、その後仕事もせず、家族の金で暮らしている。いわゆる「メンヘラ」ってやつだ。
人から見たらメンヘラなんだろうけど、自分ではそう思ったことがない。単なる持病の一つだと思っているから。薬を飲んで、時々寝込むけど、なかなか働けないという以外は普通に暮らしている。家事も手伝っているし。
家族には本当に迷惑をかけている。心から申し訳ないと思っている。
でも、それ以外は助けてとも言ったことはないし、当然友人たちにもメール攻撃して「苦しい辛い助けて助けて」なんて絶対言わない。
その友人たちとも今は没交渉だ。SNSでたまに絡む程度で、絶対会わない。遊びに行くお金もないし、ドクターストップでお酒も飲めないから。
というわけで、今のオレの話し相手は病院の先生以外は家族だけだ。
病気の話に戻るが、今年になってただのウツがどうもソウになったらしく、横になっても頭だけはぐるぐる回転し、後から後から面白いことが浮かんできて困るくらいだと医師に言ったら、ソウを抑える薬を処方された。
その薬が効き始めるまでは、とにかく自分の素晴らしいアイディアを世界に広めたくて堪らなくなり、用途別にTwitterのアカウントを増やしていった。
3.Yahoo!のコメント欄にリンクさせたアカウント(ヤフコメ垢)
残り2つは昔からやっている個人的なものと、趣味でやっているHPから自動投稿させているだけのものだ。
メンヘラ垢に関して:
ここでは辛いとか苦しいとか○○たい(あえて伏せ字)という心の内をとにかく吐き出した。
時には役に立つ言葉や情報をリツイートし、自分の慰めや励みにしていた。
エロ垢に関して:
これはもう勘弁(笑)。本当に恥ずかしい。思い出すだけで○○たくなる(あえて伏せ字)。
とにかくしたくてしたくて(ああ恥ずかしい)、その手のアカウントをフォローしてはリツイート。異性と意味深なDMのやりとりをしては妄想に耽っていた。
ヤフコメ垢に関して:
Yahoo!のコメント欄を読んでいつも面白いと思っていたので、自分も参加してみようと思った。
オレの考えていることをここに書き込むことで、自己表現ができると思ったのだろう。
自分のコメントに関して「そう思う」という人もいれば「そう思わない」人もいるわけで、批判をされることで自分も打たれ強くなると思ったし、また同意してくれる人もいれば「一人じゃないんだ」って思える気がしていた。
厳密に言うと、エロ垢はずいぶん前に消したし、今日消したのはそれ以外すべて。
まず最初に消したエロ垢だが、ある日調子のいいときにそのアカウントにログインしてみたら、自分のTLにボカシなしの性器画像(リツイートした)が並んでいたのでビックリした。
何やってるんだろう、オレ(本当の性別やセクシュアリティに関しては追求しないで下さい 笑)。
DMが何通か来ていて、その中で異性から「ホントに○○○(性器の口語?)が好きなんだね~」と言われ、自分が心底イヤになり、その場でアカウントを削除した。
後で調べると、ソウ状態の時は性的に逸脱することが多いそうで、まさしくその通りではないか!と思った。妄想だけで実行に移さなくて本当によかった。
今こうやって振り返っても死ぬほど恥ずかしい。
ソウの薬が効いてきて、それとともに副作用がひどくなりしばらく悶絶していたが、最近になって副作用も消えた。
頭がぐるぐる回転して、次から次へと考えが浮かぶこともなくなっていた。
ここしばらくは気分もそれほど悪くなかったのだが、この2,3日ワケもなく落ち込んでいた。
不眠のため軽い眠剤をもらっていて、昨夜はそれを倍くらい飲んでいたので、寝起きは最悪だった。
慰めにメンヘラ垢を開いた。
朦朧としていてあまりよく覚えていないのだが、異常なほどの嫌悪感を抱いた。
鍵をかけていたし、取り立てておかしいことも書いていなかったが、「オレ病気~」って威張ってるアカウントが存在しているから自分がダメになるんだと直感し、アカウントを削除した。
病気であることを書くことが悪いんじゃない。自分にとってその病気は病気であって、人格ではないと思っているから。
オレを慰めてくれたり励ましてくれたりした人もいて、その人たちには心から感謝しているけど、自分はここにいたらダメになると思った。その人たちが悪いのではない。お別れを言えなかったのは申し訳ないと思う。
そしてヤフコメ垢のアカウントを開いた。ヤフコメの投稿にリンクしていた。
正直我ながら鋭い視点で芸能界を斬るヤフコメ民だと思い込んでいた。今思えばちゃんちゃらおかしい。
自分はいわゆるネトウヨではなく、ニュートラルな方だと思うが、「これはおかしい」というものがどうしても無視できなくて、それを片っ端から叩いていたように思える。
特に最近海外でも大人気のメタルを歌う女の子3人組がイヤで(本人たちじゃなくコンセプトが)、同じ考えの人の話が聞きたくて何度も疑問視するコメントを書いたけど、ただのアンチと思われたのか逆に叩かれる始末。
(AKBを叩いてもあんまり叩き返してくる人はいないので不思議だなあと思ったけど)
それだけではない。ある番組の批判をすると「見なきゃいいじゃん」とご丁寧に返信してくるお方もいらっしゃり、「はて、これがオレの望んでいた交流か?」とふと気づいたのが今日のこと。
そもそもヤフコメなどに交流を求めていたということが間違いだった。
いや、ヤフコメ民には意図的に悪意のある書き込みをし、それに対する反応を見て楽しんでいるかわいそうな人たちがたくさんいることを、投稿を始める前にわかっていたはずではないか?
(もちろん常識のある方々がたくさんいらっしゃいました。温かい返信もたくさんいただきました)
自分の考えを表現し、打たれ強くなりたい、とは思ったけど、何もここじゃなくてもいい気がする。
即座にすべてのコメントと、リンクしていたツイッターアカウント(ヤフコメ垢)、おまけにそれをまとめていたブログ(!)をすべて削除した。
あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
すっきりした!!!!!
この数か月、オレは一体何をやっていたんだろう。
ベッドに横たわってケータイを握りしめ、腱鞘炎になるほど書き込み&書き込み&書き込み…(エンドレス)
そんな暇があったら仕事くらい探せたんじゃなかろうか。
家族の金でネットやって、罵詈雑言(+えっちなこと)ばかり書き込んで、オレ本当に最低だ。
気づいたんだ。オレやっぱり寂しいんだよ。
社会に少しでも役立って、お金稼いで、少しでも家族に恩返ししたいのに。
自分はかまってちゃんだと重々承知している。でも、いくらコメントしようがツイートしようが、どんなに頑張ったってバーチャルなつながりしかできない。
やはりリアルなつながりを構築しないと、人はダメになると思う。
かといってお金もないのに闇雲に「遊ぼ~」と誘うわけにもいかないし(笑)、やっぱり社会に出て、貢献して、報酬を得て、胸を張れる自分になって、人脈を作って、友達にも会おう。
こういうことに気づけたから、裏垢作りまくって書き込みしまくっていた時間も無駄じゃないのかな(笑)。
昔から使っているTwitterやFBは今後近況報告程度に使おうと思う。アプリやウェブサイトも都度ログアウトしているが、いつまで続くか自分でも楽しみだ。
何か書きたいことがあればまたどこかに書くだろう。でも今はその時期ではないようだ。