はてなキーワード: 「夢」とは
ひょんなことから、いろんな要因で働けない、働きづらい若者(っていうのは39歳までを指すらしいです)の就労支援に関わることになった。
若者支援をやっている人たちは、多数の「働くことのダブルバインドで動けない若者」のことを全くイメージしていないか、だ。
まず自分のことを書いておこう。
とりあえず生きるために工事現場に働いたり、服屋で働いたり、
そんなことしているうちに、懐かしの◯◯占いブームで、ライター稼業をすることになり、
2週間徹夜でテキスト上げれば80万が振り込まれるみたいな生活をしていた。
昼も夜もなく、残業代ってなんですか?みたいな世界にずっといた。
「夢」や「やりがい」「ここをステップにて」「まだ若い会社なのでポストはがら空きです」
という言葉が飛び交っていた。
今では「今すぐそんな違法企業は潰れてしまえ」とネットで言われて然るべき環境だったと思う。
でも、別にそれでどうでもいいと思ってて、しばらくしたら違う世界が見えたんで、
今は違うことを本業として、いくつか声がかかったプロジェクトに関わりながら生きている。
さて、ネットに飛び交っている言葉は、それが本当かどうかはさておいて、心に響くと思う。
労働基準法を守れない会社はとにかく全部潰せ、そっから新しい社会が始まる。
うん、一理あるかもしれない。
株式会社セブンコードの濱野氏に関するまとめはとても面白かった。
何より、これだけマメに若者(かどうか不明だけど)の声に答えている人はいないので、単純に尊敬に値する。
https://togetter.com/li/1061401
もちろん、労働基準法の方が問題だと表明したエイベックスCEO松浦氏のブログも読んだ。なんてナイーブな方だと思ったが。
http://ameblo.jp/maxmatsuura/entry-12230798500.html
そうやって、今の空気を作りだされているんだろう。
ただし、一応疑問を呈しておくと、本当に働けない若者呼ばれる人たちが、このような言説に目を通しているかはわからない。
実は、30~40代の連中だけが、大きなテーマで話したいだけなのかもしれない。
それを考えると謎が謎を生むので、いったん保留して、
働くことに踏み出せない若者と呼ばれる人が、
などなどの言説に影響受けてるでしょ?と思う。
「いや本当は若者みんな働きたがってるんです。一歩が踏み出せないだけで」
「親身になってくれる経営者さんの元で、イキイキとしてきてます」
「実際に体験や実習で働くこと、働いた結果「ありがとうございます」と言われると喜ぶんですよ」
なんて言葉をよく聞くんだが、
んー、これって「そういう支援者さんを喜ばせる言葉を言っているだけなんじゃないの?」って思うんだけど。
いや。みんながみんなそうじゃないと思うけど。
ようするに何が言いたいかと言うと、
●ネットでの働くことに関する言説を、
「まぁそうは言うけどネット論壇は所詮討論のための討論だったり、『正しいこと言ったもん勝ち』でしょ?」
とクールに見ているのか?
でも、どっちなんだろう?
そもそも、カプ萌えでも単体萌えでも架空の存在を好きになる時点で親近感や憧れといった自分の中の感情が投影されるので、
自己投影なんてオタクなら大なり小なりしてて当然だと思うんだけど。
自分は受けに自己投影している自分を自覚している腐女子で、商業BLは読まず、二次創作オンリー。
はっきり自覚した時から夢小説や夢漫画もチェックしてみたけど、どうしてもあまり好きになれなかった。
(ここでいう「夢」は原作キャラと恋愛したりセックスするタイプのものを指す)
理由は簡単で、夢主人公は多くの場合「原作にいないオリキャラ」だから。
なんでキャラに自己投影するかっていったら、そいつが好みだったり憧れだったり親近感があって、その原作世界に生きていることが大事なわけで、
ただ「原作に介入したい」「原作キャラと交流したい」という動機で作られたオリキャラではダメなんですよ。異物感がすごい。
NTRものを読んだような気分になり、「なんでこんなどこの馬の骨ともしれない奴を好きになってんだよ」という嫉妬が湧いてくる。
早い話が"作者がチラつく"ということ。
「自分を見たくない」んじゃなくて、原作世界に割り込む「他人を見たくない」のだと思う。
(逆に、そういった異物感を意識しないで夢系作品に没入できる人は羨ましいと思う)
(そしてそれとは別として、原作キャラとしての視点を書き手や読み手と共有することで、ジャンルやカプクラスタとしての一体感、
共有意識みたいなものが生まれると思う。それの良し悪し、交流する・しないは置いといて、自分はこの一体感が好き。
夢だとこの一体感が味わいにくかった。刀剣乱舞なんかだと女審神者が一大規模だけど、見た目や設定も千差万別だし、
自己投影してるって言うとじゃあ夢でいいじゃん~みたいに言われるけど、そうじゃないんだよなぁ…。
追記
どういう流れだったかは忘れたけど
宝くじ当たったらとか
金ためて何したいか
みたいなくだらない話をしていたときだと思う
俺は最近家建てたんだけど後輩はどんな家がいい?一戸建?マンション?
みたいなことを聞いた(田舎でフルローンでも賃貸の家賃と同等か安いくらいだからか家を建てたり買ったりするのは当たり前の地域だ)
さぞピカピカな夢を語ってくれるんじゃないかと思ったんだけど
出てきた言葉は
「そんなことより(定年退職後)有料老人ホームに入りたいですね」
というものだった
それも「どうせこんな時代だし老人ホームに入るのが夢でいいや…」みたいな諦観や絶望でそういってるんじゃなく
「将来は庭付き一戸建てに愛する妻と我が子と住んで、大型犬を飼うんだ」
みたいなテンションで言ってる
もともとこの後輩は冷めてるところがあるので、そんなこと言ってるのかなと思ったんだけど
驚くべきことに近くにいた(後輩の)同世代の人たちも
「あーそれいいねー」
とか
「家もいいけどやっぱ老人ホーム用に金残しておきたいよねー」
とか言ってる
オイオイマジかよ
しかも
「今度隣の県にこんな老人ホームができるらしいぜ」
とか
「でもあそこ入居費だけで○○万円とかでしょー」
とか具体的な話で盛り上がってる
いま新築でもお前らが入る頃にはオンボロだぞというツッコミは置いといて
そんだけ具体的な話ができるということは
老人ホームに入ることを真剣に検討しリサーチしてるということだ
20代の、新婚が
それが「将来老人ホームに入るための資金」ってのはなんか悲しい
でも俺の観測範囲では20代には一定の同意が得られるってことは
「20代が老人ホームを夢見るのは悲しい」って考えはオッサンの価値観なんだろうなあ
と、なんだか寂しい思いをしたものの
これってもしかしてなんらかのビジネスチャンスなんじゃないか?
「20代に自分が入る老人ホームを売る」ってのはなかなか想像しにくいけど
なんか上手いことビジネスにできるんじゃないのか?
それとももうあるんだろうか
もしかしてまだ誰もやってないんじゃないのか?
「夢があるなら、なぜ命をかけないのか」
この言葉には同意しかない。だけれども、「命をかけたいほどの何かがない人」はどうしたら良いのだろうか。「命をかけたいほどの何か」が欲しくてたまらないのに、それを見つけることができない人はどうしたらいいのか。そんなことを悶々と考えながら生きてきた自分が、やっと自分の中の答えにたどり着いたので、そんな同士に向けて書く。
「夢」であったり「やりたいこと」であったり「成し遂げたいこと」の必要性を、僕らは教育の中で植えつけられてきた。教育だけでなく、僕らが目に触れる言葉の多くは、「何かを成し遂げた人の言葉」だったりする。それゆえに、「夢を持てない自分」に対して劣等感を抱くようになってしまう。「やりたいことがない」状態は異常なんじゃないかと感じてしまう。そして、「やりたいとがある彼ら」に対しての異常なまでの憧れが元で、その劣等感に拍車がかかってしまう。そんな自分を変えたくて「自分探し」みたいなことをしてみても、偽りの夢しか見つからず、結果として何も変わらない。
そんなときに「彼ら」は、「夢を持つ必要性」を大事そうに教えてくれる。「夢に向かって努力すればいずれ夢は叶う」と。何かを成し遂げるためには、まずは「夢」を持たなくてはと。大きなお世話だ。そもそも、本心では何かを成し遂げたいと思ったことなどない。そのことを、「彼ら」が理解することはない。「彼ら」には何の悪気もない。「彼ら」の性質上「夢」が必要であって、それを達成することが生きがいだったから。そして、自分が感じる生きがいを、他の人が感じないわけがないと思っているから。
「何かを達成していくこと」に生きがいを感じる人と、その部分には何も感じない人がいる。この単純で明快な事実を、僕らは一度も教わったことがない。教育どころか、世の中全体として、その事実をひた隠そうとする。いや、隠しているのではない。「彼ら」の考えの中には、「何かを成し遂げたいと思わない」人など存在しないだけだ。隠していることに気付いてもいないだけだ。だからこそ、心に留めておいてほしい。「彼ら」の世界が全てではない。そこに気付くことができなければ、自分の人生を価値がないものと思ってしまうから。
「やりたいことを成し遂げる」こと自体は、素晴らしいことだ。だけれども、人の生き方や性質は、それだけではない。やりたいことなんてなくても正常だし、それでいい。そこに悩む必要はない。そんな人生にも意味がある。何かを成し遂げない楽しさも存在する。何も成し遂げられなくとも、何かをしている「過程」自体が楽しいという性質の人もいる。根本的に、「彼ら」とは違う人種なんだ。ただそれだけなんだ。やりたいとが何もなくても、劣ってるわけでもなんでもない。正常だ。「彼ら」が何を言おうが、耳を傾ける必要はない。ただ、人種が違うだけなんだ。そこだけは覚えていてほしい。
ただ、「やりたいことができたのならば、命をかけてやれ」。
近頃、一部の夢小説界隈がざわついている。
ことの発端は「腐女子こそ夢小説を書くべき論」という投稿なので、読んだことがない人はご一読をお勧めする。端々に攻撃的な言い方がされているが意図的だろう。
この記事への反応は「わかる」から「わからない」まで様々だが、筆者が気になった反応のひとつに「腐向けと夢界隈は結局相入れないんだから棲み分けるのが大切だよね!」というものがあった。
腐向けと夢界隈は棲みわけられるのだろうか?最初に結論を言うと、不可能である。
腐向けの夢小説作品は男(またはオスなど)主人公が男(またはオスなど)キャラが恋愛関係にあるものを指し、これはBLDと呼ばれている。Boys Love Dreamの略だ。
BLDサーチなども複数存在することから、需要供給は相当数あることが推察できる。
腐向け作品と夢作品の棲みわけ推進派は、そもそもどうやって棲みわけをしようというのだろうか?
発表の場がpixivなどの作品投稿サイトならわかる。それぞれ腐向けタグをつけるなり、夢小説タグをつけるなりすれば作品単位での棲みわけはある程度可能だろう。
しかし個人サイトになるとどうだろうか。個人の作ったコンテンツがまるごとその個人サイトには載っている。ヘテロ恋愛のみを書く者、同性愛のみを書く者は問題ないが、いわゆる雑食者はヘテロ恋愛も同性愛も家族愛も同じページに載せる。
それについてとやかく言うことがナンセンスであることは火を見るよりも明らかだ。
参加するランキングやサーチには、先述したようにBLD専門のサーチがあったりと様々だがそこからサイトに飛べば異性愛を好む者が同性愛作品を目にすることもあるし、その逆もありえる。
夢小説を求めたサイトにBL小説(原作に登場するキャラのみのCP)も置いてあるということも珍しくない。
個人サイトで棲みわけをしたいということ自体が、自分の目的でない作品が目に映るのを許せないとする傲慢ではないだろうか。
話はややズレるが、「夢小説」というジャンルについて、少々誤解しているオタクを散見する。
この定義は間違ってはいない。間違いではないが、果てしなく狭義であると言える。
夢小説はそのまま「夢」という単語を取っても意味が通用するぐらい、幅の広いものだ。
間違ってはいないが、限りなく狭義であることがお分かりいただけるだろう。
日常を描いたものや友情を描いたもの、冒険譚から離婚待った無しのドロドロ不倫ものも存在する。
主人公も思春期の女性に限定することもない。男主人公も動物主人公も、スライムが夢主人公の話もある。
夢小説とは可能性だ、と筆者は感じている。いるかもしれない人物、あるかもしれない展開。その無数のifか夢小説という名前によってまとめられていると。
夢小説には興味がない、原作キャラ同士のCPだけで満足だ。という者も勿論いるだろう。
その上で夢小説を誹る者には少し想像してほしい。ゲーム画面の向こうにいるキャラクターが、「君もおいでよ!」とプレイヤーを誘ったり。遊園地のアトラクションで「今日初めて参加する君たちに、このツアーの主旨を説明するね!」とまるで来園者がその世界の住人であるかのように語りかける。ポケパルレでポケモンがかわいい仕草でハートを飛ばしてくれる。
人の趣味を笑うことはとても恥ずかしいことで、間違っても「#夢小説あるある」タグで夢作品を好きな者を笑ったり、夢小説を誤解したままにしないでいただきたい。自分がどれだけみっともないことをしているのか、少しは自覚したほうが良い。
かつて夢小説を好きで、今は「卒業」したという人。昔以上に夢小説の多様性は広がっているので、男夢主や人外夢主をないことにはしないように(そもそも男・人外が主人公の夢小説は少なくとも10年以上前には存在していたので、見ていた範囲がかなり狭かったことが予測されるか)。
睡眠薬のんでも床について3時間寝られなかった。結局酒を買ってきた。もう3時だよ。つらし。
酒なしの場合はたいてい↓のごとくなる
1.床につく、目をつぶる、じっとする。
2.思考がぐにゃぐにゃになってくる →通常の人々ならここで睡眠に陥るであろう
どこかの情景があわられる。数人の登場人物が出現する。
登場人物たちが、なんかよくわからないことを言う、する、それにつられて主観視点の人物(俺?)も動く
なんかよくわからない世界でなんかよくわからない状況が進んでいく
4.うん、これ、どう考えても「夢」だねこれ。でもさ、俺完全にずっと起きてるから。意識あっていつでも体動かせるし目を開けたら布団があるし離脱もできるから。
頼むから夢見せる前に寝させてくれや。これで3時間とかほんとつらい。脳休まってるならいいけどどうせ違うんだろ?
眠る時に見る夢は、
それが「夢」だ。
私の夢にはよく母親が出てくる。
もう20年近く疎遠になっている、
私は母親と仲が悪かった。
父親とも仲が悪かった。
どちらかというと母親のことが好きだった。
母親の夢を見た翌日は、
少し悲しい気持ちになる。
みな上司に近いのかもしれない。
不思議なことに「私」一人しか登場人物が出てこない夢というのは少ない。
見ているのかもしれないが、目覚めると記憶に残っていない。
時折魅力的な異性が登場し、私の心を試すような言動をしていくが、
そう。私の夢には、母親と仕事先の人間以外がほとんど登場しない。
整理し取捨選択するほどの情報量を持った人間関係が無い、ということなのだ。
睡眠導入剤を飲まないと眠れない。
だから寝ている時間、夢を見ている時間は幸いにも短くて済んでいる。
しかしそんな私の夢に、最近あるものが頻繁に登場するようになった。
Twitter,Facebook,LINE,そしてはてなだ。
私宛に意中の相手(アカウントだ)からリプライやコメントやメッセージが届く。
それはそれは夢のような、私が喜びそうな内容のものだ。
もちろん夢なので、
目が覚めて急いでそれらSNSをチェックしても、
(ブロックでもされているのかもしれない。)
当然のようにこの週末は誰にも会わず誰とも会話しなかった。
もちろん、週末前には「一緒に飲もう」「一緒に遊ぼう」などのLINEを送っているが、
いい返事がこなかったが故の結果だ。
決して私は受け身な人間では無い。
なんというか、
非常に縁が無い。
今日立ち寄った駅のホームでは「夢で逢えたら」という歌が流れていた。
ああ、あなたに、夢でもし会えたら。
せめて夢のなかでもいい、もしあなたに会えたら。
どうか、どうかこれを読んでいる皆さん、
あなたの夢には、あなたの愛する人が登場することを願っている。
でももし、もし私と同じように、
最近見る夢の中身がPCもしくはスマートフォンの画面(2次元)の
ぜひ教えて欲しい。
それで多くの人が「自分だけではなかった」と救われるかもしれない。
そして、そんな我々は少しだけ未来を生きているのかもしれない。
http://method-of-pharmacist.hatenablog.com/entry/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF%E3%80%82
>そもそも「入れ替わり」の原因って何?
>二人が入れ替わった理由って、物語中で明示されていましたっけ…
>三葉の家の血が、「入れ替わりの夢」を見せる力を持つからってことでしょうか?
>一葉おばあちゃんも「昔私も同じような夢を見た」って言ってましたよね?
>「入れ替わり」が起こったのは、三葉が持つ特殊能力?
二葉さんにも、同様の事が有った様です。
「妄言は宮水の血筋か」と、宮水トシキ氏(三葉と四葉の父)が言ってましたから、彼も、常識的には理解しがたい事を、奥さん(二葉さん)から聞いて居た筈です。
一葉さんとの会話で、瀧入りの三葉の「その能力は、この時の為に有ったのでは」て発言が、部屋に飾ってあった宮水家歴代の方々の写真が映っている画面で、有ったかと思います。
>都会のイケメン男子として暮らしたい」という三葉の願い(遺志?)が、
>3年先の世界で生きる瀧との入れ替わりを実現したんでしょうか?
過去の隕石落下当時や、200年前の大火でも、似た様な事が有ったのかもですね。
>なんで瀧と入れ替わったの?
>なんでわざわざ3年先に生きる17歳の瀧と入れ替わったの?
>三葉の死亡、糸守町の壊滅を防ぐために?
そうであろうかと思われます。
>「3年のずれ」、途中で気づきませんか?
>二人の世界に3年のずれがあることを、
>お互い入れ替わっている間に気づかないもんなんですかね。
>スマホ開けば今は何年何月何日かとか、
>友達と話せば微妙に話題がおかしいこととか、気づかないものですかね…?
>本編では瀧は「糸守町は3年前の事故で壊滅した」ことを、実際に岐阜県に行って初めて気づきます。
>そして、三葉が2013年までしか生きられなかった人物であること、
>自分が「入れ替わり」で経験した世界は2013年だったことを、そのときやっと気づきます。
>正直、もっと早く気づかないんですかね?週に2~3回は入れ替わってたし、日記もつけていたし。
入れ替わりの発生期間は、何度も有ったにせよ、そんなに長くはなかったのでは。
もう少し長く続いていれば、また違ったかもです。
それと、日記では、年は省いていたのでしょう(確か、スマホのアプリでも月日だけだった様な)。
また、「夢」で見聞きした情報は、醒めた後は、断片的に不鮮明に成る様です。
よって、戻っている間は、時間のずれに気付けなかったと思われます。
瀧が糸守町を探していた折りも、探索中は名前を認識していませんでしたが、ラーメン屋夫妻から聞いて「そう、糸守町!」と思い出しました(一旦認識はしても、覚醒中は薄れるという事)。
>なんで瀧は三葉を好きになったの?
>なぜ瀧が三葉に入れ込んで
>命がけで三葉を助けに行くまでになったのかが、あんまり伝わってきませんでした。
>このとき三葉と出会った記憶が無意識に刷り込まれていたから、
>瀧は三葉のことを好きになったのかな。
>序盤でも、三葉に組紐を託されるシーンが夢の中に出てきていましたよね。
思春期の少年にとっては、可愛い女の子と知り合えた時点で、大事件ですよ。
ましてや、その子が死んじゃう(死んじゃっていた)んですよ?
で、瀧の感情は。
入替わりの日常化/
奥寺先輩とのデートと其の不調、「別の誰かが意中に居るのでは」と指摘される/
入替わり起きず、連絡も不通。不安/
諦めきれず、御神体の所まで行き、口噛み酒を飲む/
トリップ。三葉の人生を俯瞰し、三葉が自分に逢いに来てくれ、組紐を託してくれた件を認識(その時の事を思い出す)/
最後の入替わり発生/
カタワレ時、奇蹟的な出会い
て過程で、強まっっていったのでは。
こうやって見ますと、特に、《三葉が自分に逢いに来てくれ、組紐を託してくれた件》で、キュンときますかねえ(“刷り込み”も、有るかもですが)。
>別に東京が舞台じゃなければならない理由って、なかったかなーって思います。
>3年前の事故とはいえ、彗星が日本に落ちて500人以上死亡したって、
>未曽有の災害だと思うんですけれども。
災害を知ってはいても、自分が入れ替わっている人間の住む町との認識が、上述の理由により、無かったのでしょう。
最後、瀧は就職したばかりで22-23歳くらいで、三葉は25-26歳くらいです。
>そういや三葉は東京へ瀧に会いに行ったとき「14歳の瀧」を見つけたわけですけど「あれ?子供じゃん?」って思わなかったのかな。
彼が、入れ替わっていた瀧だと、見て、直感したのでしょう。
>あのとき14歳の瀧に邪険にされたから、そして組紐を瀧に託したから、三葉は髪を切ったんですね。
(文責.ID:popoi)
2016年度全国キャンペーン:ライバルは、1964年|ACジャパン
ACジャパンが今年7月1日より開始した『ライバルは1964年』というCM。
自分がよく聴く民放ラジオ(基本的にTBSラジオ)では結構な頻度でこのCMが流れている。
自分はこのCMを耳にする度に、得も言われぬ不快感に襲われる。
とはいえ単なる根拠に乏しい繰り言でしかないので、そこは留意してほしい。
このCMにおいては、「笑顔」や「夢」、「思いやり」といった根拠の不確かな理由で過去を美化している。
加えてこのCMには「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢、思いやり、心の豊かさで負けているのではないか」という言外の意味も込められていると考えられる。
そうでなければ、律儀にあの頃の日本人と今の日本人を比べる必要なんてないはずだ。
つまり、居酒屋談義としての「昔はよかった」の変奏でしかない。
また、この10年ぐらい俗流の「昔はよかった」に対するカウンター的な言説も勃興している。
これらのカウンター的な言説の場合、だいたいは統計などのデータを用いた上で「昔はよかった」的言説の欺瞞を浮き彫りにしている。
『ライバルは1964年』で提示される「昔はよかった」を構成する要素のうち、「思いやり」は犯罪件数の推移をもとに論駁が可能であるかもしれない。
しかし「笑顔」や「夢」の場合、犯罪統計のような定量データは存在しない。そのため、「笑顔」や「夢(の大きさ)」を昔と今とで比較するのは至難の業である。
結果「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢で負けているのではないか」というCMのメッセージに論駁することすら叶わなくなる。
論駁不可能な概念を持ちだすということは、それだけ「昔はよかった」ことをゴリ押ししたいのだろう。そこにはある種の狡猾さすらも感じさせる。
このCMにおいては、東京で五輪が行われた1964年と東京で五輪が再度行われる予定の2020年とが対比されている。
2020年に向けて日本を考えようというのは、東京五輪に向けた行動をとれというメッセージを婉曲して表現しているということは容易に推測できる。
また、ACジャパンの公式サイトの記載より、「日本を考える」ことは具体的に「(東京五輪に向けた)ポジティブなモチベーションと、日本人の活力を高める」を指すようだ。
今の日本において、五輪は政治的な意味合いが強いイベントとして意識されているようである。
例えば、2012年に取りまとめられた「スポーツ基本計画の策定について」には以下のような文言がある。
(中略)
国際競技大会等における我が国のアスリートの活躍は、国民に日本人としての誇りと喜び、夢と希望をもたらし、国民意識を高揚させるとともに、社会全体に活力を生み出し、国際社会における我が国の存在感を高めるものである。我が国のアスリートによるメダル獲得は、その一つのあらわれである。
また、2009年には塩谷立文部科学大臣(当時)が以下のような発言を行っている。
2016年のオリンピック招致については、立候補ファイルを2月12日までに国際オリンピック委員会に提出することになっていまして、そのために今準備を進めているところですが(中略)やはり、国威発揚ということも含めて、ぜひ、招致を実現したいと思っています。
これらのことを踏まえると、今の日本において五輪は政治的意味合いが非常に強いイベントと位置付けられているようだ。
特に「国威発揚」や「日本人の誇り」といったナショナリスティックな意識の醸成のための手段として強く意識されているようである。
これは、IOCの掲げる「政治的・商業的利用がなされない五輪」という理想とは大きくかい離したものである。
さて、ACジャパンの行うCMの特徴として、政治的・宗教的な事柄は一切扱わないということがある。
(中略)
一方『ライバルは1964年』においては、政治的意味合いが強いイベントである五輪に向けた行動をとれというメッセージが提示されている。
解釈によっては、「日本人の活力を高める」ということもナショナリズムと連関したかたちで捉えられる可能性もある。
このことから、『ライバルは1964年』は政治的・宗教的な事柄は一切扱わないというACの方針とは大きくかい離したCMであるといえる。
可能性として一番高いのは、制作者サイドがIOCの提示した「政治利用されない五輪」という理念を無邪気に信じ込んだということである。
一方、五輪の持つ「国威発揚」や「日本人の誇り」といった事柄は政治的事柄ではないと誤認している可能性も完全には捨てきれない。
愛国心の醸成といったイデオロギー丸出しの教育が「偏向ではない」と見做される時代である。
なお、2002年にも公共広告機構(当時)は『ニッポン人には、日本が足りない』というCMを放映していた。
しかしこれは国際交流の推進を目的とするものであり、『ライバルは1964年』とは似て非なるものである。
ACジャパンの公式サイトに新聞広告の画像データが掲載されている。
小学生が作ったような(プロとしては)粗雑なコラージュに、テレビCMのナレーションが文章としてこれみよがしに綴られている。
どうせちゃらちゃらした恋愛物語を見せられるのだろうと思いつつも、あんまり評判がいいから見に行ったが、実にすばらしかった。
新海誠はデビュー作の『ほしのこえ』だけ見たが、この作品もこれと似たところがあった。「時をこえる」というのが彼のテーマなのだろうか。
本作は、ある村に隕石が落ちて大勢の死者が出るのだが、それをある事情から主人公は事前に知ることとなる。隕石が落ちる前に村民を避難させられるか、というのが大きなテーマの一つである。これはおそらく東日本大震災の影響を受けているが、ぼくはそれより思い入れの深い、先の大戦のことを思い出していた。東日本大震災であれば地震が起きる前に、先の大戦であれば空襲や敵の攻撃の前にそれを伝えて、人々の命を救うことができるかということである。あるいは、もっと個人的な物語を思い出す人もいるかもしれない。
結局村人の避難は成功するのだが、そのために尽くした人のこと、自分が尽くしたことは、「夢」のように忘れてしまう(詳しくは映画見て)。東日本大震災での人命救助、復興のために尽くした人のことや、先の大戦で国難に殉じた人々のことを忘れることと似ているかもしれない。
一点気になったのは、主人公の男女二人が「好きだ」という恋愛のことばを用いるところである。彼らはしばらくの間、こころとからだが入れ替わった時期がある。そのことによって、そして何よりヒロインと彼女が住む村の人々の命を救うための共闘によって、互いの心は強く結びついている。それは確かだが、それが恋愛に発展するシーンは描かれておらず、むりやり恋愛の要素を入れたようにしか思えなかった。恋愛でなくても、人と人とが強く結び合うことはできるし、村人とヒロインの命を救うための戦友としての魂の結びつきを描けばじゅうぶんであったように思われる。『シン・ゴジラ』で庵野が、恋愛要素を入れろという圧力に屈せず、男女がゴジラから日本と世界を救うという仕事の一点で協力する様を描いたが、本作もそのように、必ずしも恋愛に基づかない男女の関係を描くことができたらおもしろかったのではないかと思う。
今回は裏サンデー
そこに現れる主人公。
そして、ハッタリきかしつつも、実力でムカつく奴を倒して、読者の溜飲を下げる。
こ、これは……間違いない。
凡百のスポーツマンガだ。
このご時世に、読み切りでも連載作品でも散々みてきた構成のスポーツ漫画を読めるなんて、ある意味ですごい貴重だぞ。
まあ、でも私はこういうの食傷気味なんで。
いや、モザイクかかっているから読者の私には分からないが、作中のキャラの評価曰く有り体に言って「ブス」らしい。
そこに編集者が介入、「マンガってのは夢を描くもんなんだよ」、「幼なじみをかわいくしろ!」と作者に言い渡す。
作者もそれに従うが、ねじが「どうして幼なじみがかわいいのが「夢」なのか、納得する理由を説明して欲しい」と、それらの意味を尋ねてストーリー進行を拒否。
また、シビアなとこに突っ込んできたなあ。
こういうのって往々にして、各々が様々な物を背負って語り倒すから、面倒なことにしかならないってのに。
まあ、「あくまでマンガのキャラクターの設定」という言い訳はあるけれども。
私としては、即物的なものの見方で人間を評価することがクソというより、その評価基準を悪として目を背ける風潮こそクソだと思うんだけれどもねえ。
だって、人間が主観本位な生き物な以上、美醜含めてそういう評価基準はなくならない。
その感覚的にどうしようもない部分に対して、社会通念上どう振舞うかってことでしょ、大事なのは。
さて、次回、彼らはどう話を決着させるつもりなのだろうね。
えー、高層ビルを身一つで10分ちょいで登れることについては、なんか超人的な能力を持つ奴らが多い世界観という解釈をするなら、まあよしとしよう。
でも、その最中に、窓を見て誰もそれに気づかれなかったってどういうこと?
あのビルの設計的に、明らかに窓に映ってるっぽいんだけれども。
登っている最中もそうだけれども、窓割る瞬間まで気づかず会話しているシーンとかアホすぎる。
さすがに無理があると思うので、次回ちゃんと説明して補完されることに期待。
一応それ関連の記事などは一通り読んだつもりですが、報道内容や該当JKのツイッターなどから「本当にその生活が貧困なのか」というような部分に火がついているのだろうと。
産まれた家庭の経済面で他人と比較したことがないですから、相対的に自分の家が貧困だったかは分かりませんが、うちは非課税世帯だったので裕福ではなかったとは思ってます。
そういう家庭で育っているので、うららさんが言っているように将来の進路を選択する時には「金」の問題が常についてきました。入学金の多少、学費の多少、生活費の工面、奨学金などの制度。進路の選択には偏差値などの学力に関する問題と併せて「金」に関しても考えないといけなかった。
しかしこのことについては、よっぽど裕福な家庭に産まれでもしない限り「みんな」同じように考える問題だと思います。こども自信が考えるのか、親だけが考えるのか、考えた結果、選択可能な進路はどれくらいに絞られるのかが違うだけで。そしてこの最終結果となる選択可能性については、特に親の将来設計で大きく変わるのはことは知っています。
そして当事者である子ども本人です。うららさんは「みんなが当たり前にできることが自分だけできない」「夢を持っているのに目指せない自分は不幸」と言っています。この考え方なんですが、自分自身が進路で悩んでいる時と同じなので強くは責められないし、責める資格もないと思う。しかしまぁ、同じようなことを考えていた人だけに何か書かずにはいられないもので。
まず「夢を持っているのに目指せない」ではなく「実現しようとしていない」だけだと思います。確かに親が自分の将来の学費をどれだけ貯めているか、貧乏か裕福かで「進路選択時」だけ切り取れば一見かわいそうな自分が見えてくると思う。でもそれは、そもそも自分が裕福な家庭に育っておらず、将来やりたいことのためにはどれだけのお金がかかるのかを早くから認知していればいくらだって対処法はある。うららさんの言う「夢」はいつから叶えたいものとして彼女の中に湧いたのか、叶えたいものとしてどれくらいの重みがあるのか分からないですけど、本当にやりたいことであれば真剣に考えていれば方法は見えてくるはずだし、見つかるまで考える。
それから、「みんなが当たり前にできること」なんて実はないです。学校なんかで集団生活を送っていると、ほんとうは個人単位で見た時にはそれぞれ出来ない部分があるのに、ある程度おおきな集団の一部になると一部の出来ないものは見えづらくなって「みんな出来る」ものに見えてしまうものです。これは今回のような貧困もそうだし、たとえば自転車の運転、なわとび、計算の速さ、記憶力の違いなんかもそうです。
ほんとうは個人個人、身体的な障害なんかの非常に見えやすい違いを除けば、それぞれが自分の出来なさを克服しながら前に進んでいて、それぞれがそれぞれの苦しさを抱えていると思います。
人は産まれ持つ能力を選べません。自分の将来設計をする上で、たとえば夢を語る時に「才能がないから」という理由で簡単に諦めるような夢ならば語らない方が良い。人より体格が劣っているからメジャーリーガーの夢を諦めていたなら今のイチローは存在しない。夢を実現させたかったら人との差、足りなさを埋める努力をしなければいけない。
産まれ持つ能力を選べないように、産まれる家の財力も選べません。これも言い替えれば「才能」のようなものです。自分に備わってないものは何かしらの手段で埋めるしかありません。
100メートル走で一番になりたいという夢があったとして、その夢はボルトと同じ身体能力を持って生まれ、同じ環境で育つというフィールドが整わないと夢の実現の可能性がないのか。
今回の場合、うららさんがやりたいことはキャラクターデザインの勉強なのか、それとも「お金」がかかるから実現できない(と思っている)専門学校に行くことなのか。
日本は5〜6人に1人(正確じゃなくすみません)の子どもが貧困層らしいです。ひとクラス40人なら7〜8人が貧困層であって、珍しい存在ではありません。ただ実際問題、学校生活で貧困などが問題として表出するのは義務教育以降です。
貧困層の子どもはたいてい学力が低いので、高校に行かないか、行っても同じような貧困層で学校を構成します。なので数字上は珍しくもない貧困の子どもが認知されにくいんだと思います。
貧困だから将来の選択肢が狭まるというのはある意味正しいと思うのです。だから子どもの貧困について知らない人に知らせるというのも大切だとも思います。
自分が貧困だということに早く気づくこと、現実を受け入れること。子どもに対して伝えたくない事実だとは思うけど、親がきちんと伝えること。そして現状を知ったら解決に向けて何が出来るのかを調べること、考えること。
貧困だから叶わない夢って、まぁ金がなきゃ叶わない夢も当然ありますけど、たいていは貧困だから「楽には」叶わない夢なんじゃないでしょうか。
就職面接なんかで「将来の夢は?」と聞かれたりする。会社興すとか、老後に移住するとか、庭付き一軒家をたてて自給自足とか、本を出版して後世に名を遺すとか、1000人友人をつくるとか、そんな大きなこと考えている奴ももちろんいるんだろうが、、
他人からくだらないと思われそうなことを重点的に、まずは本当にやりたくて今すぐでもできることをやってみる。困難である必要も、費用や時間がしこたまかかることでも、他人と違うことである必要も、ふだんの生活を犠牲にしてひとつに絞ることも、他人から羨望あるいは感謝される要素を入れることも、収益をあげる・節約につなげることも、知識・鍛錬・技能向上につながることも、そんなもん必要ではないわ。そんなの夢って言えるのか?と他人から言われるような、ちっぽけすぎることでよし。
あと、誰かが作った「夢」イメージにうっかり誘導されると、それこそ無駄でつまらない時間と費用をつかう羽目になる。本当に海外旅行行きたいの?住宅欲しいの?せめて、騙されたつもりでやったほうがいいと思うよ。テレビあたりはとくに注意だね(海外旅行を否定しているのではなく、実際大抵楽しいもんだけどさ)
金澤 翔子(かなざわ しょうこ、1985年6月12日 - )は、東京都目黒区生まれの書家。母も同じく書家の金澤泰子。
母・泰子が高齢出産にあたる42歳で翔子を出産。新生児期に敗血症にかかり、後にダウン症と診断される。
当初はその事実を知った泰子は我が子と共に死のうとも考えたが、夫の熱心な想いと遅咲きながらも少しずつ育っていく子の姿を
見て思いとどまったという。金澤の書道は母の師事によるものから現在の作風に至っている。
講演会や個展、席上揮毫などに金澤が出席する際には必ず泰子が同席している。
271文字の般若心経を練習し、字を見て父親が誉めてくれた。趣味は、カラオケとプール。カラオケはモーニング娘。を歌うことが
好きで、俳優の小池徹平の大ファンでもある。好きな文字は「夢」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%BE%A4%E7%BF%94%E5%AD%90
もともとは字書きなんですが、以前に数年ほどDTMにハマっておりました
15曲ほど作ってみたのち、「ああ、向いてないんだな」と実感しましてやめたのですが、そのときに歌詞を考えた経験がちょっと懐かしいです
最近になって、歌詞に困るDTMerさんの話を耳にしまして、歌詞の書き方くらい検索したら出てくるんじゃないかと思って検索したら本当に山ほど出てきたので、順番に読んでみて納得したりこいつなに言ってんだと思ったり技巧派に感心したりして大変楽しかったのですが、なんか気になるところもありました
テーマとか世界観とか押韻とか破擦音とか基本的なところはいろんなサイトさんを見てください
あと、たぶん有料の書籍などでは普通に書かれているんじゃないかと思いますので過剰な期待はしないでください
単なる個人的まとめです
・メロとイントネーションをあわせる
ありがちなのが、歌詞では「好きなの?」と疑問形なのに、耳にすると「好きなの」と告白してるようにしか聞こえないといったパターン
メロが音階上がるところはイントネーションも上がる言葉、下がるところは下がる言葉を使ってください
わざと逆にもっていって強調する術もありますが、多用は禁物です
・同音異義語に注意する
「疾走」「失踪」とかです
「夜の闇にシッソウ」など、どちらでも通ります
間違えられることは少ないと思うのですが、とくに体言止めの場合には注意が必要です
・撥音に気をつける
「ん」です
一音として数えないほうがいいことも多いですしテンポもよくなります
もともと発音しにくく、強調する場所で使われると歌いにくくなりますし、補正するのも大変だと思います
ボーカルさんが上手ならそれほど気にすることはありませんし、歌うときにしゃくることが前提で強調させるのは逆にいいと思います
・促音は一音として扱うか
「っ」です
一音として扱わないほうがいいことが多いのですが、フレーズごと強調したいときだけは数えるのもありでしょう
長音「ー」として扱うことで強制的にしゃくらせることも可という感じでしょうか
ずっと真面目に一音一字はだるいので、二番のAやBをわざとすこしあわない字数にして変化をつけるのもありです
四分音符を八分音符ふたつに刻んだりですね
わりとよくあります
メロやオケとの兼ね合いで考えてください
「夢」を「希望」に置き換えたとすると、夢は曖昧に憧れるものに対し、希望は明確に求めるものの意味合いが強くなります
前者は夢見る乙女もしくは玉の輿狙いでしょうが、後者は王子様その人にすでに心当たりがあるようです
・耳慣れない言葉は浮く
かっこいい言葉や気を惹く言葉を探すより、よく使う言葉のかっこいい言い回し、気を惹くフレーズを考えたほうが失敗しません
「漆黒の夜に君とふたりで」より「暗い部屋で朝を待つ僕ら」のほうがマシです
さすがに「漆黒」とか使う方はもういなさそうですが
などとまあ長々と書いてみたのですが、実際に歌詞の書き方なんてものを全部きっちり守っていたらたいがいつまらないものしかできないでしょうね、というのが実感です
何事も斜に構えてモノを見るようになったのは、自信と夢が無くなったのが原因かも知れない。
目標だけがピシッと残ると、それはそれでただのレベル上げになり、味気ないもんである。
人生をざっくり前と後に分けて、前は「ガムシャラ期」後は「安定期」としよう。
まず、ガムシャラ期は、人生の意味や自分の夢についてゴリゴリに考えて、ガムシャラに行動する。
これは、人によって長さは違う。
ガムシャラに事を進めていると、たくさんの壁にぶち当たる。これをひたすら壊す事に心血を注ぐ。
燃え尽きるか否か。エネルギーの個人差によって期間はそれぞれ異なる。
その中で、分かりやすい「夢」を叶えるのは、このガムシャラ期に事を成した人達だ。
夢とは、余計な打算を抜いた力技で掴み取るものだ。。。と個人的には思う。
その夢には大小がある。
宇宙飛行士、経営者、代議士。。。のようなものから、「絵に描いたような学生生活を送りたい」というものまで。
夢はフーセンみたいなもので。。。
1.しぼんでくると、無くなる事もある。
2.もしくは、大小に関わらず、夢を掴む。
このどちらかの条件を満たすと、人生のフェーズが、ガムシャラ期が安定期に変わる。
安定期については、以下のような事に意味を強く感じるようになる。
人を育てる、後世に何かを残す、自分の手の届く領域を守る…など。。。
ガムシャラ期に感じたもの、手に入れたもの、手に入らなかったもの、その分析…など、夢に向けたホニャララの全部を活かした人生がまた始まる。
つまり、夢とは人生の本題であるが、無くなった所でその後には目標が残る……
という持論です。全然違うと思う人もいるやろうけど。
アラサー独身OL、初めての彼氏と5年付き合った末に失恋しました。
(お前の性格に問題があったんじゃないかというツッコミ批判はあるかと思いますが、そこは今回の主眼ではないので置いといて)
***
別れ話が出てから、別れて、数日は泣いていたけど、そのうち涙も出なくなり。
あんな嫌なやつ別れて正解だったと思ったり、だけど、もし復縁できたらと考えたり。
そんなぐらぐらした時期は過ぎたのだけれど、別れてから約4ヶ月、なんだかまだまだ引きずっているようで気持ち悪いんです。
***
別れてすぐは、悲しみに蓋をして、過活動のようになっていました。
悲しいことを考えたくないから、思い出したくないから、仕事に精を出して、家では新しい趣味を始めて。
SNSで元彼が知らないコミュニティに入っていって、活発に交流して。
少し落ち着いた今は、新しく始めたはずの趣味のグッズは埃をかぶっているし、
ネット上のコミュニティは私には大きすぎて、頻繁に鳴る通知によりネット依存気味となり、少し距離を置いています。
今は、以前の過活動状態から少し落ち着いているのだけど、私の中で何かしっくりこないものがある。
***
未だに元彼が夢に出てくることがある。それは、だいたいが復縁に関する、まさに「夢」なのである。
気持ちとして、もう復縁するつもりはないし、したってうまくいかないことは分かってる。
悲しい感情に蓋をしたせいで、蓋の下で悲しみが蠢いて、失恋したという事実をまだ私が受け入れられていないのかもしれない。
***
それならば、蓋を開けるのがよいのだろうか。
悲しみを直視して、現実と向き合って、そうしないと前に進めないのかもしれない。
だけど、そうするだけの勇気がまだ持てないのだ。
引きずりたくない、新しい彼氏もほしい。
大好きな君へ
○○くん、元気にしてますか?
わたしは春休みで暇なのに、○○くんを生で見られる機会がなくて、ションボリしながらバイトしてます。
突然ですが、わたしはもうすぐ就職活動を始めなければいけません。
「わたしの夢ってなんだっけ?」
以前同じ教室で勉強した仲間は、バンドを組んでCDデビューしたり、バイトをしながら小劇団に入ったり、はたまたお母さんになる夢を叶えた子もいます。
もちろん明確な夢を持って、それを叶えて生きている人の方が少ないことくらいわかります。
でも、それでも、ふと不安になります。このままでいいのかなと。
わたしはきっとこのまま、親や先生が望むような職業を選択し、何にもないままフラフラと生きていくと思います。
なんとなく結婚して、子供を産んで、育てる未来が、わたしには待っているでしょう。
これが不正解でないことは確かだけど、正解でないことも確かです。
そんなわたしにとって君は「夢」です。どんな強がりを言っても、わたしは君に「夢」を見ています。
君がいつまでもステージで輝いてくれることが、もう自分に夢を見ることができなくなった、悲しいわたしの夢です。
前は何回コンサートや舞台に行こうが「ただ好きだから」って思ってました。
でも多分、本当は違います。わかったんです。
「君」の夢が叶ってくれるのが「わたし」の夢です。
「わたし」の夢を叶えるために、わたしは「君」を精一杯応援します。
○○くんに良いことがたくさんありますように。
小さなファンより
「好きなバンドにお金を落とそう!」という風潮が苦手 - サササササーカス・ディディディディディスコ
上記記事を読んで、そういえば…と思い出したことがあるんで書いておく。
(別にお寺とお布施とか戒名高すぎィ!みたいな話は出てこない。申し訳ない)
「好きなバンドのためにお金を使おう」といって、ファンならなんでもかんでも買うような同調圧力はどうなの? という話だと理解している。
基本的に私は、その趣旨に同感の立場であり、音楽だけではなくあらゆるサブカルチャーに共通の問題だと感じている。
「好きなものが継続してほしいから金を出すんだ」というスタンスが間違っているとも決して思わないし、
実際そういうお金の使い方をするファンのおかげで生き延びている作り手やコンテンツはいくらもあるだろう。
しかし、そういった「お布施」的な金の使い方の先に、「作り手と消費者の馴れ合い」があり、
さらにその先に待っているのは、なつかしの「男性との交際が発覚し、丸坊主になって動画をアップしたアイドル」の姿ではないかと思っている。
上記記事の裏返しにあるのは、
「そのモノ(音源、グッズ)の魅力如何にかかわらず、その人(作り手)のためにお金を支払う」という態度だ。
これは、たとえば「推しアイドルを選挙で上位に上らせるため、同じCDを何枚も購入する」という、一時期盛んに喧伝されたAKBファンの姿と重なる。
同じシングルを何枚も購入するというのは当然、そのモノの価値のためではなく、その先にある人のためである。
作り手が、「消費者はこのモノにお金を払うのではない。この人のためにお金を払うのだ」と思った瞬間、
そこにはモノをすっとばした「私のこと好きだったら、払ってくれるよね?」「もちろん君のことが好きだもん、払うよ」の馴れ合いの関係が生まれるのではないか。
その、「作り手と消費者の馴れ合い」が最悪の形で出たのが、例の「AKBの一人がスキャンダル→丸坊主で謝罪」だったと思っている。
あの時は随分騒がれたが、いちばん唖然としたのは、あのあとの秋元康の言葉だった。
明文化して「恋愛をしないこと」と定めた規約はない、のだという(実際には契約書があったとかなかったとか言う話もあるが、ともかく秋元康自身はそういっている)。
しかしながら、AKBのアイドルたちは恋愛が発覚すると、脱退したり、他グループに「左遷」されたり、研究生に「降格」されたりしている。
そしてそれを、消費者も、アイドルたち自身も、当然の事態として受け止めている。
消費者たちはCDという「モノ」に対してお金を支払っていない。
まったく同じたくさんのCDという「モノ」には、支払ったお金分の価値を感じていないのだから、それ以外の「対価」を求める。
その対価こそが、「俺たちのために彼女は『普通の女性』ではなく『アイドル』でいてくれる」「彼女は処女であり特定の男と恋愛などしない」というものだ。
私は、アイドルファンが、アイドルに恋人がいてほしくないと願うことを否定しない。
「誰にでもあって当然の感情」ではないが、「そうなってもおかしくない感情」であるとは思う。
だから「スキャンダルがあったからファンをやめる」のも、アイドル側が「商売的な戦略として恋人がいない体裁を繕う」のも否定しない。
だがしかし、金を出したからといって、消費者が「私生活においても恋愛しちゃいけませんと言える権」を買えるか、
といったら、それは、絶対に、まちがっていると思う。
そんな商取引は成立しようがないし成立してはならない。ただの責任を薄めた人身売買だ。
だが、AKBに関しては、その商売が成立しているかのような錯覚を、消費者にもアイドルたち自身にも与えていた。
その対価を提供できなくなった者=スキャンダルのあった者に、「左遷」「降格」「脱退」といった実際的な処分を与えることによって。
これこそが、消費者と作り手の「馴れ合い」が行き着く、最悪の形だ。
作り手は消費者が求める「本当の対価」を知っていた。
そして、CDにお金を払っている形式をとりながら、それ以外の――本来ならば差し出してはならない――対価を、暗黙裡に差し出していたのだ。
モノにお金を払ってもらうことを放棄し、人にお金を払ってもらう結果、その人の自由や私生活や主体性を差し出すしかなくなったのだ。
そして、「お金を受け取るだけの対価」を失ったアイドルは自ら丸坊主になった。
彼女はライブをこなし、CDで歌っているだけでは、お金をもらえない。
彼女が恐れたのは、ファンが減って選挙の順位が下がって、という、正当な資本主義的淘汰ではない。
もっと根本的に、AKBであることとは私生活を対価として差し出すことであり、
それを怠ったことが発覚したら、AKBの一員としてやっていく資格を持たない。そう、彼女自身が考えたゆえの事件ではなかったか。
「モノ」ではなく「コンテンツを生み出す人」にお金を支払うというのは一見理想的な消費行動だ。
アイドルも、消費者が先に言ったような「対価」を求めるのでなく、アイドルと言う「夢」に対してお金を支払うのなら、彼女は坊主にならずにすんだだろう。
「俺たちが支えている」「俺たちの金こそが彼女のためになる」という幻想。
しかし、実際には、消費者たちは「夢」だけでは満足せずに「対価」を求める。
「(金を出した自分の)理想どおりであれ」と求める権利である。
わたしの、理想どおりの存在であってくれ。理想どおりの作品を作ってくれ。
そして、金を出して支えてきたわたしには、「それを求める正当な権利がある」……という、幻想。
それが幻想ですめばいいのだが、AKBの例のように、作り手の側がその求められる「対価(=消費者にとっての理想)」を鋭敏に察知し、積極的に提供しようとしたならば。
そのとき、「馴れ合い」はたちまち対価という名の鎖になって、作り手を縛るだろう。丸坊主になったアイドルのように。
そして、ファンに対して真面目で真摯な作り手ほど、その傾向は高くなる、…かも、しれない。
対価のための「消費者の理想」ばかりが追い求められ、「作り手の主体性」は死んでゆくんじゃないだろうか。
勿論、すべての人が、「それ以外の対価を求める」といういわば暗黒面に落ちるとは思っていない。
http://anond.hatelabo.jp/20151223021454
http://anond.hatelabo.jp/20151223201827
すみません、御二方に便乗する形になりますが、少し思うところがあったので。
未知なる快楽に挑戦するといった観点からは、たしかにアナニーもサイニーも有効なアプローチですし、そういった活動に真摯に取り組まれる方を心から尊敬しています。
ですが、もしも本当に《快楽の彼岸》へ辿り着こうとするならば、私たちは現実を捨てなければならない。私は長年の自慰研究において、そう確信したのです。ややマイナーな部類ではありますが、ここではユメニーをご紹介いたします。
ユメニ―というのは、その名の通り「夢」のなかでオルガスムスに到達する方法です。
前提条件として
1.夢の内容を記憶していること
2.夢を自由自在に操れること
の3点が必要です。そう、つまりは明晰夢によって極地に達するわけですね。
ユメニーの場合、男性は大変ですね。男性は性的な夢を見ると、無意識的に射精をしてしまう性質(夢精)があります。これがユメニ―修行の大きな難関として立ち塞がります。
男性はこれまでの経験から、「射精の瞬間」を悦楽のクライマックスだと誤認している。まずはこの認知のエラーを修正する必要があります。(手始めにアナルを開発すると良いです)
夢のなかで満たされる快楽と、精液を放つ快楽とでは、まさに「月とスッポン」です。たかだかスッポンの快楽に溺れて愚かな行為に走ってしまう人が後を絶たないことを、私は悲しく感じますし、憐れみさえ覚えるものです。
私たち人間は、理性ある動物として、肉体的な快楽と決別すべきです。さらなる高み、上位の快楽次元を追求し《超人》を目指すのです。
快楽上位次元への到達が唯一可能なのは、ユメニーだけであると私は考えます。
いいですか? 夢のなかでは、時間も、空間も、すべて私が支配する。《空間と時間》というアプリオリな概念を夢によって塗り替えるのです。
私たちユメニストは、日頃から「夢日記」「アクティブイマジネーション」「瞑想」「補色残像を用いたイメージ拡大訓練」「体外離脱」「自律訓練法」「意図的に金縛りを引き起こす」などの血の滲むような修行を積んでいます。明晰夢の完全会得には、私も4年の歳月を要しました。
初心者の方には「夢日記」をおすすめします。夢の内容を忘れてしまうのではユメニ―など夢のまた夢ですので、まずは夢を忘れない能力を身につけてください。
夢日記を1年間も続ければ、かなり鮮明に夢の内容を記憶しておくことができます。
夢日記は、枕元にノートとペンを置いておくか、もしも初期投資を惜しまないのであればポメラを買って活用するのが良いです。
私はすべての夢をポメラで記録していますが、あれはとても楽です。Wordに移して確認してみたら、夢日記の総文字数が300万文字に達していました。小説を書くわけではないので、文体はめちゃくちゃで、箇条書きや単語の羅列でも構いません。とにかく「継続すること」が大切です。
夢を記憶できるようになったら、次は明晰夢(夢のコントロール)を会得します。詳しい訓練法と書くとこのスペースではとても書ききれないので、ググってください。
『最近幽体離脱にはまった』というタイトルの2chウィキがおすすめです。
幽体離脱と聞くとオカルトな印象がありますが、言ってみれば身も蓋もない「明晰夢」のことです。したがって「幽体離脱を会得する=明晰夢を会得する」と考えて頂いて大丈夫です。
幽体離脱ができるようになったら、いきなりエッチなことをするのではなく、まずは「夢の滞在時間を伸ばす」訓練に努めてください。私の場合は「夢世界でカップラーメンを作る」という修行を積みました。これで最低でも3分間は夢世界に滞在できるのです。
自称「明晰夢者――クリアドリーマー」には、たった10秒間くらいしか明晰状態を維持できないのに「俺はできる」と思い込んでいる人がいます。私もかつてはそうでした。
しかしそこで満足していては成長がありません。明晰夢ができるようになっても、現状に甘んじてはいけません。人間はいつだって成長できる。精神的に向上心のないものは、馬鹿です。
熟練のプロともなれば、夢世界で3年近くを過ごせる人もいます。(3年というのはあくまで体感時間であって、現実時間ではありません)
年レベルでダイブするにはコツがあって、それは「夢のなかで眠り、もうひとつの夢を見ること」(夢中夢を意図的に作り出すこと)です。夢中夢をある程度コントロールできるようになれば、目が覚めてもそこは現実世界ではなく夢の世界になりますので、理論的には半永久的に夢のなかに留まり続けることができます。(理論通りにいかないのは、人間の肉体としての限界が必ずどこかで生じるからです)
ユメニ―の素晴らしさを知らない人が「たかだか夢のためにどうしてそこまで努力するんだ?」と疑問に思われるのは仕方のないことです。しかしよく考えてみてください。もしも夢のなかで、なんでも自分の思い通りにできて、しかもそのリアリティが現実を上回るのだとすれば、それに優る幸福がこの世界のどこにあるというのでしょうか。
私は夢のなかではすでに、恋人と5年以上付き合っています。夢のなかでは友人にも恵まれ、永遠の青春を満喫しています。現実世界のことで悩んでいる人たちを見ると私は「まだ現実で消耗してるの?」と声をかけたくなるのです。
まずは夢日記、それから明晰夢です。高度に情報化された世界では、夢の操縦法なんてものは検索すればいとも簡単に情報が手に入ります。最初の第一歩を踏み出すのは、これを読んでいる方々です。
えーっとどこまで話しましたっけ。というか今私は文章を書いていますが、ここって本当に現実世界なのでしょうか。
多分書いたと思いますが、今ここにいる彼女が、5年間付き合っている私の恋人なのです。
近いうちに結婚する予定で、ええ、幸せな家庭を築けるように頑張らなきゃですね。イブに増田なんてよしてよ、とアヤコが笑っています。あ、そんなとこ触ったらくすぐったいって。あ、アハハハ。
関西の方の知り合いが突然「リライフなんたらの認定資格を取って、コーチング事業を始めたので悩みとかあったら相談してね!今ならコーチングセッションが1時間3000円のお試し料金だから!」と言って来た。
そこまで仲良いわけでもないし、意味がわからないので無視してたんだけど、最近やっとわかった。
こいつは怪しい宗教にハマったんだ。
つまり、「仲間」「夢」「ポジティブ」とか言う単語を使って人を集め洗脳して、セミナー料金と言う名のお布施を集める。こいつはいいカモになるとなれば、認定資格という名の位をあげてそいつにさらに布教をさせる。やってることはまんま宗教。いわゆる自己啓発セミナーってやつだ。
「愛される人間になるキラハピセミナー 参加費5000円」とか言われても俺はドン引きなんだけど、本人達はすげえ真面目にやってる。コーチングって怖い。
本当にそのとおりだと思います。この本は本当に素晴らしいことがたくさん書かれてますね。
この本を読む限り、渡邉さんは2005年ころからはワタミの経営の現場についてはあまり把握されていないようです。
「呼称店長」(店舗数目標を達成するため、研修が終わってなくて資格がない人を店長にして後で研修を受けさせる)問題について気づいたのも、この本によれば1年以上経ってからであり、
それに気づいてからはノルマを廃止するよう指令を出されていたそうです。
このように、渡邉さんの「夢」を実現するために経営陣や現場はいろいろと「工夫」や「チャレンジ」を繰り返していたようです。
まともにやって数字が出ないとおこられ、工夫やチャレンジをして数字を達成しても怒られるでは割が合わないですから、渡邉さんが急いでノルマ廃止したのは合理的な話です。
元増田に出てくる彼女を擁護したいわけでは全然まったくないけど
共働き世帯の数が片働き世帯の数を超えるようになったのは、大体90年代の半ばくらい
今20代~30代の人が生まれたのは80年代~90年代前半なわけで
専業主婦が「あこがれ」「夢」になるのも別におかしくはないと思うけどね
逆に言えば、現代じゃ半数以上が共働きを選択するけど、それはここ10年程度の傾向であって
その前は「専業主婦になろうと思う」ことなんて叩かれることでもなんでもなかったわけで
てか、いまでも体質の古い業界だと、会社トップのおっさんが「奥さんに働かせるなんてかわいそう」って言うし