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はてなキーワード: 自由主義とは

2019-10-18

anond:20191016163058

元増田意見には概ね同意だけど(自由主義原則解説してるだけだから同意も何もないが)、そもそも自由主義が嫌だって人たちがいたら、元増田はどう説得するだろう?

自由主義が嫌な人というのは、「気に食わないもの排除してくれるなら、消極的自由制限されても構わない」と考える人たちのこと。

なぜこんなことを聞くのかというと、日本人の多数はまさにこういう考えだと思うから

彼らに自由主義について解説しても、「ふーん。それなら日本自由主義でなくて結構」って答えると思う(政府批判ができない中国や、犯罪者をその場で殺しちゃうフィリピンなんかは、その割合もっといかもしれない)

こういう人たちには、そもそも自由主義でないといけない理由説明する必要があると思うけど、何て説明すればよいのだろうか。

anond:20191018003631

自由主義増田です。とりあえず、元の増田だけじゃわかりづらい文脈だけ補足しておきます

これはもともと、anond:20191016112942とか、anond:20191016115936とかから派生した議論なんだよね。

まり、「見たい自由尊重されるべきというなら、見たくない自由尊重されるべきなんじゃない?」と元増田(なぜか消しちゃったけど。消す必要なかったのに)が主張していたので、いやいやその2つの自由は対等じゃないんですよ、前者の方が重んじられるべきなんです、ということを説明したのが、100ブクマくらいは行ってほしいけどまあ無理かなと思っていたらまさかの800ブクマ超になってしまった例の増田anond:20191016163058)です。

から、実はこの件の批判者全体に対してこの理屈で押し通そうとしてるわけじゃないんだよね。あくまで「見たくない自由はありまぁす!」増田に対して「そんな自由は(見たい自由と比べて)尊重に値しません」って言ってるだけ。

追記で色んな論点にも言及してるけれど、基本はこの文脈の中でなされていた議論なわけですよ。

だって太田弁護士は、子供に見せたくないとか見ない自由とかそういう理路で闘ってたんじゃないよね? 私の議論の射程にはもちろん太田弁護士のふるまいも入っているけど、「見たくない自由は見たい自由よりも軽い」なんて太田弁護士への直接の反論になってないじゃん。私の反論あくま元増田の設定した「見たくない自由」というフレームに乗っかったもの自由主義の前提について基本のキから解説したのも元の増田がよくわかってないと思って解説する必要があると思ったから(まさかブコメでもわかってないやつが大量発生するとは思わなかったけど)。もし太田弁護士に直接的に反論したければ自由主義解説なんぞ本筋じゃないからすっ飛ばして「別にセクハラではない」とかそういう性差別とは何ぞやみたいな論陣を張っていたはずだけど、実際はそうしていないわけで(もちろん私は太田弁護士に対しては「セクハラじゃない」と大いに反論したいところだけれど、少なくとも今回私が相手していたのは彼女ではない)。

当然、私はなるべく一般妥当性を持つように議論を組み立てているし、単なる元増田への回答という枠を超えてより広い問題に当てはめ可能議論をしている(つもり)。だから自分議論に大した意味はないと言うつもりは毛頭ない。でも、議論の枠組みとかそういうものはどうしても議論の発端に縛られている。

これは一部のブコメもそうなんだけど、みんなあいちトリエンナーレ作品への批判には文脈読めとか言うのに明らかにリーの一部である増田文脈は読んでくれないのはいったい何でなんだぜ……? まあ今回は前の増田が消しちゃったせいでツリーが追いにくくなってるから仕方ないのだけれど……

表現行為をやめろというのは批判範疇を逸脱しているのか?

赤十字宇崎ちゃん案件と、三浦義隆氏のツイートを見てモヤモヤしてる。

三浦氏のツイートは以下。

https://twitter.com/lawkus/status/1184609284975284224

ystk@lawkus

こんなツイートが何千RTもされてるの本当にどうかしてる。被災して苦しんでてもタワマン民なら嘲笑していいという風潮よくない。あとエレベーターはともかく火災リスクはタワマンしろ低いでしょ。一室で火が出ても延焼しにくい造りになってるはず。

こんなツイートとはこれのこと

https://twitter.com/rikorikosanyade/status/1184247071957585920

りこりこさん(離婚離婚さん)@rikorikosanyade

武蔵小杉のタワマンの件を見てると、私が子供の頃母親がタワマン広告だかを見て「バカと煙は高い所に行くって覚えておきなさい。停電してエレベーターが止まったらどうなると思う?火事が起きたらどうやって逃げるの?アンタはそういう所まで想像できる大人になりなさい」って言ったの思い出す。

https://twitter.com/lawkus/status/1184612137462718464 以下、本題の関連ツイート

ところで俺は要するにタワマン被災者を嘲笑する言動をすべきでない、やめろと言ってるわけだが、これは表現の自由侵害なのかな?んなわけないよね?

このように、「批判はよいけど表現をやめろと主張するのは表現の自由侵害」というたまに見かける主張は明らかに無理筋なんですよ。

国家権力による表現規制は原則的にすべきでない」

国家権力によるものでなくても言論暴力で対抗することは表現の自由に対する脅威であり許されない」

批判OK

以上は概ね合意が取れるはずなので、問題批判暴力境界線付近行為なんすよ。集団的電凸とかね。

それを「表現行為をやめろというのは批判範疇を逸脱している」とか、明らかに一般的妥当性のない雑な議論ちゃう人がいるのは嘆かわしいことだと思う。

ところで俺の用いた「一般的妥当性」という言葉は、日常語的用法だと「世間一般妥当と認められる」みたいな意味に誤解されそうなので補足。ここにいう一般的妥当性は、要するに「あなたが言ってる主張は、他の事例に押し広げても本当に当てはまる?というテストに耐え得る性質」のことですよ。



一方で、自由主義者増田氏の800ブクマ以上ついたエントリ(https://anond.hatelabo.jp/20191016163058)での記述で言えば、「タワマン被災者を嘲笑する言動」は消極的自由なので、個人責任に置いてなんら妨げられるものではなく、三浦氏に「タワマン被災者を嘲笑する言動をするな」という資格は無いという事になるの?

法律にも自由主義にも詳しくないからよくわからんのだが、個人的には三浦氏のいうことのほうに筋が通ってると思う。三浦氏は弁護士であるだけで、公権力は持っていないので。少なくとも自由主義者増田エントリを見ていて、自由主義原則世界が丸く回るようにはとても思えない。明確な原理原則に従って物事判断して行動するというのは個人的に苦手な事であり、またあこがれるところでもあるので、そういう意味自由主義者増田尊敬もするのだが。

発端の太田弁護士がやったことは、以下三つ。(ざっとリプを除く表示で該当ツイートまでさかのぼってみたけども、見つかったのは上2つ。RTは大量にあったが)

  1. 赤十字の宇崎ちゃんポスターについてセクハラしてるようなもんだと発言
  2. 日本赤十字社のお問い合わせ に意見を送りましたと発言
  3. (公共的な団体掲示する内容ではないですね。内部で異議や懸念を述べる人が誰もいなかったのだろうかという人に対して)類似の事例で批判を受けて撤回するような騒動は近年いくつもあったのに、どうして学ばないのでしょうね、と発言

3つ目からして宇崎ちゃんポスター撤回させたい(表現行為をやめさせたい)という意思はあるように見える。アカウントをみるとフォロワ数は3万弱。多いけどめちゃくちゃ多いという程でもない。赤十字電話して長時間文句つけたり、それをフォロワに促すような発言もしていなさそう。赤十字という準公共機関(正確な表現じゃないかもだけど)が、公共の場に張るポスターがセクシズムだ、やめてくれと意見を送る行為問題があるとは、俺には思えない。批判範疇だとおもうから

自由主義者増田も、https://anond.hatelabo.jp/20191017201230 で、以下のように書いている

場合によっては、比較衡量のうえで、大きな積極的自由を獲得するためにささやか消極的自由犠牲にすることもありえるだろう

場合によっては、比較衡量」にあたるかという議論をしているだけじゃないの?議論余地もないほど、積極的自由が小さいのが自明なのかな?TPOが本件語る上で論外だと考えてるみたいだけど、理由がよくわからないので解説してほしい。

あと、一部ブクマカが太田氏をサンドバッグ扱いしてるのも解せない。

2019-10-17

積極的自由消極的自由字面だけで誤読マン多すぎて嫌になる

anond:20191016163058だけど、ちょっとブコメ誤読マン多すぎない? なんで? 3つくらい具体例を示してるのに何でそういう理解になるの?

こんな基礎的概念をいちいち説明するのアホらしいんだけど、消極的に~をやりたくないっていう自由消極的自由積極的にやりたいことやる自由積極的自由ではありません

行動を制約されず好きなことをできるのが消極的自由で、そもそもその行動のためのリソースを得られる、自由物質的基盤を手に入れられるっていうのが積極的自由です。

自由に書きたい本を出版したい! 国家検閲されたり出版禁止されたりしたくない!」という要求消極的自由を求めているいっぽう、

「確かに検閲はないけど紙の値段高すぎて自由出版できる状況じゃないじゃん! 政策的介入してもっとお値段下げてよ!」というのは積極的自由を求めている。

「好きなところに住みたい! 強制移住なんてさせられたくない!」というのを問題にするのが消極的自由で、

「確かに住居選択の自由保証されてるけど特定エリアしか水道引かれてなくね? 実質的に選ぶ自由がなくね?」というのを問題にするのが積極的自由

お小遣い範囲でならどんな本を買ってもお母さんは関知しません」が消極的自由で、

「でもお小遣いが月額500円じゃ新潮文庫も買えないじゃん! せめて3,000円ちょうだい!」が積極的自由

「好きなイラストポスターに描いても検閲されない日本自由の国!」は消極的自由保障されている状態だけど、

「でも好きなイラスト自由に描くためには画材を買うお金がいるよね。イラストレーターの給料が安くて自由に絵を描けない……」という状態ならば積極的自由が損なわれている。

「どんな性教育をしようが親御さんの自由です」が消極的自由で、

「でも事前に歪んだ情報が入ってくるような環境だと私がやりたい性教育ができなくなる」というのは積極的自由を求めているわけ。

こう並べれば、なんで消極的自由の方が重視されるべきか、なんで元増田要求積極的自由とみなされるか、ってのもわかるでしょ。

積極的自由重要だけど、それは消極的自由のほうが重要だって認めた上での話でしょ。

現代自由主義では、消極的自由保護だけだと実質的自由が制約された状況(=積極的自由がない状況)が改善されないので、積極的自由保護していくべきだと主張することが多いし、私もそれを支持する。

場合によっては、比較衡量のうえで、大きな積極的自由を獲得するためにささやか消極的自由犠牲にすることもありえるだろう。

でも、原理原則としては、消極的自由の方が積極的自由よりも重い。

最初増田でも書いたように、国は俺に六本木ヒルズに住めるだけのカネを補助すべきだ、と主張したら頭がおかしい人だろう。この場合、俺が六本木ヒルズに住むための物質的基盤は保障されていないので、俺には六本木ヒルズに住む積極的自由がないことになる。でも、それを問題だと思う人なんているわけがない。

しかし、もしも、合法的居住家賃も毎月きちんと払っているのに、国が俺を六本木ヒルズから追い出したらどうか? それはひどい、住居選択の自由侵害している、国家権力の横暴だ、とみんな怒るのではないか。これは俺の消極的自由侵害されている状態で、それは多くの人に不公正だという感覚を抱かせるだろう。

多くの場合は、六本木ヒルズじゃなくて義務教育とか女子教育とか最低限の住居とかそういったものが賭け金になっているから、積極的自由必要だ、と主張されることが多いんだけど、こういう極端な例を考えてみると、消極的自由原則的に保護されないといけないけど積極的自由はまあ程度問題だよなという話になる。つまり消極的自由の方が重い。

これが消極的自由積極的自由の違いだ。行動や動機積極的消極的かなんてこれっぽっちも関係ない。

なので、

いや、なんとなくおかしいというか、例示の文脈恣意性を感じる。献血にくる人を増やしたいから人気漫画コラボするって献血のあれは、どっちかと言ったら積極的自由って概念に入れるのが正確じゃないかと。

まり公的機関性的イラスト掲示したいと思う積極的自由は公の場で性的イラストを見せられたくないという消極的自由に劣後するわけね。筋の悪い議論

お色気イラストで客を呼びたい、なら積極的自由に、子供環境性的刺激を持ち込まないで欲しい、なら消極的自由になるような(´-`)既特性なんかも考えると視点によってがらりと変わるよね

詭弁原理原則としては同意するが、当該問題への適用が雑。掲示は明らかに他者広報(干渉)する目的でされているか積極的自由ともいえるし、これを差別表現とする立場なら見ることを強制されないのは消極的自由

アホかこいつ公共の場所で性的表現披露したいって方が積極的自由範疇だろ、猥褻絵画を見たくないがなんで積極的自由の追求になるんだ

積極的自由消極的自由”解りやすく言うと「やりたい放題やる」自由と「遮断したい」自由ね。でもそれ精神年齢とかで個人差あるモノだから間尺合う人とだけ付き合いたい

このへんのコメントは軒並み、問題文を理解していませんね、零点、でおしまい漢字は正しく書けてるみたいだから部分点はあげようかな。

追記

anond:20191018033934

ていうか現実問題積極的自由を実現するのって非効率だしものすごいリソースがいるよね。

幸福追求権を幸福権に変えることが可能かどうか考えてみればわかる。

義務教育なんて積極的自由の最たるものでしょ。日本社会における消極的自由を実現するためには日本語の読み書き能力とか日本社会についての基礎知識とか計算能力とかそういったもの必要で、それを叩き込む――つまり自由を実現するためのリソースを与える――のが公教育役割

言論の自由実践するためには表現を世に問うための読み書き能力必要だし、職業選択の自由実践するためには望みの職業に就くためのスキルとかが必要だよね。

政府批判をしても逮捕されない、自由に好き勝手言える、といった消極的自由保障されたって、日本語の読み書きが全然できない人とか日本社会の仕組みを全然知らない人とかは実際問題としてその自由を使いこなすことができないじゃん。だから最低限の消極的自由だけじゃダメ積極的自由必要なんだよ――というのが現代自由主義では割と受け入れられている考え方だと思う。

積極的自由恩恵は俺もお前もこの社会に生きるほとんどの人が受けているんだよ。

ただ、上で書いたようにあくまで程度問題。「女だから十分な学力を持っていても医者になれない」とかは直接的に職業選択の自由侵害されてるから問題になったけど、そもそも大学に行けるほどの教育を受けてないか医者になる道が最初からなかった、というのが問題視されることは少ない。医者になる気があって能力もある人間性別理由に選ぶ機会を奪われるのは消極的自由侵害から絶対にあっちゃいけないとみんな考えてるわけだけど、医者になれるだけの能力を育てる機会を持てなかったかそもそも選ぶ機会そのものがなかったというのは積極的自由が欠如していたということだから問題になりにくい。でもこれも直接的に奪われるのとは違った形で自由を持っていないともいえるよね。ではどこまで国家が介入するべきか? どのくらいの不自由までに国家責任を負うべきか? というのが、現代自由主義でよく議論される点。

我々法学徒は民法最初に出てくる「悪意」で、あっこの世界字面字面通り読むと単位がもらえないんだなーと理解する(理解できないと単位を落とす)が、一般人はそういう洗礼は受けていないので

文学部卒ワイ「なるほど~~~~~~~知らなかった~~~~~~~」

誰かも書いていたが、下手に理解できる日本語なのがいけない

英語でもnegative libertyとpositive libertyだからこれ以外に訳しようがないんだよね……

句点毎に改行入れるのはわかるけど読点に改行入れる人って(´・_・`)しかも全部の読点に入っている訳でもなければ、句点との差や話の区切りの見やすさにつなげる訳でもない

流石にこの文章を読んで読点での改行の意図をご理解いただけないのであればずいぶんと日本語の読解力が、その、なんというか、必要最低限に届いておられない方なのだなという感想しか湧いてこないですね……

前の記事でもこの記事でも増田自身程度問題とわかっていながらその線引きを増田正義における絶対的に正しいものと仮置きして喋ってるように見えるからいかんのでは?

程度問題って書いてるのは「積極的自由をどこまで保障すべきか」なんだけど私そこの線引きに関して何か断言したっけ? 義務教育絶対保護されるべき積極的自由だと主張したけど、そのほかの論点では特に断言とかしてないよね。

まあ、「何が消極的自由で何が積極的自由か」とかそういう話では線引きした上で断言したけど、私そこに関しては「程度問題」って言ってないよね。大丈夫? ちゃん日本語読めて議論の流れ追えてる?

anond:20191016163058

自由主義ってコミュニティの成長/繁栄が結びつかない時ってどう振る舞うんだろう。自分だけ良ければOK

自由への制約は最小限であるべきってあるけど、合理的理由があれば許してくれるってこと?新規の制約には不寛容にならない?

難しい考え方だ…。

anond:20191016163058

当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。

基本的にはそう、ただし、「能動的に刺青を入れ、それを誇示してまわる」という能動行動でもある。

そして、文化圏として「危険ものの誇示」および「示威行為相当」の枠組にあるもの(ただ程度は低いけど)なので、微妙

たとえば、(国によっては)私有地で裸での日光浴は許可されてるだろうけど、公道を含む公共空間での性器露出行為はたいがいの国ではなにかしらの法に触れると設定されると思う。

で、法よりはレベルはさがるし、普段露出しないのであれば刺青自体はいいし、服着てれば歩き回りはいいと思う。

ただそれを公共性がある(自分のところではない)風呂などで誇示するのが、はたして自由にしていいか、はありそう

さらにいえば、安全性確保や健全運営のための(単純な思想だけでない)ゾーニングの1つで暗黙の合意がある所があるから、「公共浴場での刺青体の人の侵入禁止」は「R18へ区切った領域へunder 18の人を連れていくのはよくない」と同程度に明文化された法になくても、総合マナー範疇で無理があるんじゃないかなあ

2019-10-16

anond:20191016151629

胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。

自由ってなんだ??

割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念提唱している。

詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに

の違いねcf. anond:20191017201230)。

現代自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要自由とされている。

これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。

この2つの自由対立という点で考えると、私の言う

というのは消極的自由に属する話だ。一方で増田の言う

  • 子供を刺激の少ない環境で養育したい、そのために最適な環境を整えてほしい

というのは積極的自由に属する。

その環境増田個人努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。

積極的自由消極的自由ならば、基本的後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由後者を制約すべきではない。そして、増田子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。

(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかから健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府強制されたくない」という消極的自由対立する局面を考えてみよう)

ところで、

胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。

思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。

その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人自由に口を出すなと言われるわけで。

なので、

思春期の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?

「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人自分敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者消極的自由侵害してよい理由にはならない、という話になる。

何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。

多様性を見たくない人も多様性勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義破壊しようと主張する政党民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者消極的自由を損なわないという前提のもとで。

なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティ存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュコミュニティとかと同じで。

ところで、私たちが暮らすこの日本ゲーテッドコミュニティではありません。

自由ってある程度整えないと無法地帯じゃないかなぁって思ってて…多様性

人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。

既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?

自由への制約は最低限であるべきだろう。

私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!

はい、それもあなた自由ですね。宇崎ちゃんポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。

追記

anond:20191016163340

その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人自由に口を出すなと言われるわけで。

これはいいんじゃねえの。聞いた側は受け入れる義務ないんだから

これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスター批判する自由もある。要望無視したり批判反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明なっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう

消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加自由」とか「健康文化的生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。

いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為消極的自由積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味夜警国家リバタリアニズムは支持できない。

ポスター非難派の言い分はとどのつまり他者消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味

消極的自由積極的自由よりも優先されるべきだなんて、そんなクソ甘えた理屈民主主義の世の中で通用するとでも?

上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。

じゃあ「山間部の過疎地政府が十分なインフラを整備していない」と「政府過疎地住民強制移住させる」だったらどうよ。

前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。

言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由侵害後者消極的自由侵害です。消極的自由積極的自由よりも重要自由であるのは当然ですね?

(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)

わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。

レーガン大統領カリフォルニア州知事時代にそういう理由バイクヘルメット義務法案拒否権行使してますね。

個人的には、子供には自己生命安全危険さらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人シートベルトヘルメットをつけるもつけないも個人自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売自由

概ね同意だけど、最後シートベルト義務化の話、日本では車対車の事故死亡事故だと相手運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由制限する合理的理由があると俺は思うね

相手シートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合情状酌量減刑すればよいのでは……。

シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費障害家族貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。

ここでは合理性の話ではなくて、自由自己決定権の話をしているので……。

anond:20191017005044

倫理自由って対立しがちなのかね。

倫理って基本的規制っていうイメージがあるな。することなかれって感じ。

そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義優越」というのがある。

何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。

大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人自由侵害しないかぎり、自分道徳を追求する自由権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。

から私は一貫して、最初増田がどんな性教育子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供権利侵害しない限りにおいて自由なので。

でも、それを口実にして他者自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。

そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由作品撤去させたりしてはいけない。右翼フェミニスト雑誌ブログに「この表現いかに許しがたいか」みたいな文章掲載する分にはどうぞご自由に)。

オタクって自由主義者が多いと自分基準勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的認識を示したり、自分に興味がないイシュー博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ頒布罪と同様に単純賭博罪廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女イラストお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。

しかし例えばリアル死体や糞尿の画像レストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニング問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?

私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物屠殺写真を展示するのは表現自由だと思うよ。

肉フェスときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。

anond:20191017100948

刺青を入れた人が公共の場温泉プールなど)で行動する自由」というのも消極的自由になるのかな?

一方で「刺青を入れた人といたくない自由」というのは

その環境を整えろ!と唱える場合積極的自由となるよね?

元増田によるとこれは他者消極的自由を妨げることになるから優先されるべきではないと考えられないか

当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。

刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。

なんで「他人自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。

自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることな公衆浴場に入る権利」よりも「刺青理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場光景自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かにまれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要

刺青少女像巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由制限しようとしたがるんですか?

ツイッター感想並べてネタバレをする自由、やっぱりあった………

ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品ネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。

もちろんあなたフォロワーにはネタバレ理由あなたリムる自由がある。

100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう

ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的施設抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツ強制ヒール強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制からあいトリの天皇アート日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。

2019-10-14

習近平さんが傷つく表現を許すとか自由主義諸国人類の風上にもおけないな

2019-09-23

anond:20190923111515

あなたアンチフェミとまとめて言っている人たちはアンチフェミニズムがベースではなく

その基盤に保守主義の人もいれば自由主義の人もいる

最近だとトランスジェンダー攻撃するフェミニストというクラスタツイッターはいるけれどそれもトランスジェンダー攻撃することが目的ではないように

2019-09-20

anond:20190920220307

①その社会未成年者を性的表象として扱っていることと、「子供の性の私物化」は全く別。

同じだよ。

「するな」も「しろ」も、両方強制。違うと思ってるのは君のお気持ち判断に過ぎない。

異文化に口を出すこと=レイシストではない。首切りカニバリズム奴隷制児童婚等のような文化批判することをレイシズムとは呼ばない。

レイシストかどうかともかく、文化への不当な侵略であり人権侵害であることは間違いない。

③まず作者の性別関係ない。それからこちらは「あの件についてのそういうtweetブコメを見た」ことを述べていて、あれを「故意エロく描いてるだろ」と評したのがフェミニストに限らない、という話をしてるだけなので、反論になってない

フェミニストに限る。

フェミ汚染されて他の属性(人権派自由主義民主主義を除く)と重複するからなんの矛盾もない。

他人人権侵害してもいいというフェミ思想汚染された、立派なフェミだ。

④「広く一般的マジョリティーのための議論は大切」と思ってるなら、あなた問題提起すればいいのでは?

問題提起するまでもない。

民主主義の基本を理解してる人だけならな。つまりフェミ以外ってことだが。

フェミじゃない人の意見まで/フェミ以外の人の意見無視して、ある問題についての気に食わない反応を全て「フェミ」のみに押し付けることを言っているのだが。

3番と同じ。

フェミ思想汚染された者はフェミ

人権尊重することを忘れ、人間であることを放棄したフェミ

2019-09-08

××しにいけるアイドル

ときどき、無性にアイドルっていいなと思う。

その瞬間に「アイドルとは何か」という哲学的な問いが頭をもたげる。

アイドル医師免許弁護士のような資格ではない。誰かが認定してくれるわけでもない。

国家一級アイドル」という称号はおそらく自由主義の国にも独裁国家にもない。

ふわっとした国民アイドルというイメージけが先行する。

ごく普通女の子を「某国では国民熱狂する超一流のアイドルなんです」と紹介されることを想像してみてほしい。

本当かウソかわからないでしょ? ジンバブエドルを見せられて、これx100したら日本円からって言われてもわからないよね。

まりアイドルっていうのはお金と一緒で「みんながそう信じること」によって成り立っているのかもしれない。

想像力を豊かにしていけば、道行く人も、職場の同僚もみんなアイドルに見えるのかもしれないぞ。

2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

2019-09-01

anond:20190901232101

自国になにがなんでも工場を誘致するみたいな政策、あれ自由主義って言っていいのか

2019-08-29

anond:20190829104613

増田だけど、その疑問は共感する。専門家がそこに言及するのはあまりたことがない。

あり得るとしたら、

ちなみにドイツ統一より厄介。理由元増田の指摘の通り、北が独裁から

2019-08-26

韓国民は赤狩りの恐さをわかってないのではないか

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%8B%A9%E3%82%8A

自らが自由主義国ということの意味をよく噛みしめるべきだ。

2019-08-13

頭角を現す人間

頭角を現す人間って、いろんな要素が一定以上揃ってるように見える。

例えばコミケ同人誌制作だと、イラストレーション能力マンガならそれプラス構成力、もちろんスケジュールを守って作業するだけの管理能力、体力、生活力

コミケ印刷所や画材を買うなどの事務処理、

できた同人誌プロモーション

他の同人作家とのコネを作ったりファン形成するだけのコミュ力、人望、人当たりの良さ、コミュニケーションリソースを割くこと、余計なことを言って炎上しない能力

ドベネックの桶なんだよなぁ。

「桶がほとんど完成してるのに、たった一つだけ板が短くて頭角を現せてない人間」って山のようにいるのだと思う。

むかしは国民皆婚だったし1世帯に住んでる人間が多かったので「生活力家事能力」については嫁や家人フォローがあったけど、今はなくなったので、脱落者が増えた。

それに昔は今よりも「ダメ作家編集がいろいろ面倒みてやる」ことで、つまり桶の穴にパッチを充てることで桶を形成してたんだけど、

現代は誰もパッチを充ててくれなくなったので、自力で桶になれないヤツは頭角を現せなくなったよね。

似たようなことはわりと言われてるね。

作家に限らずだけど、他のことでもいえるよね。

パッチ充てればなんとかなるのに、それができなくなってしまった。

自己責任論や自由主義蔓延もその要因の一つなのかね


企業採用なんかでも「単体で桶になるやつ」という上澄みばかりを求めるから人材不足なんじゃないかな。

「チームで桶にする」「柔軟なルールで桶にする」という発想、志向が少ない。

要は管理の怠慢なんですよ、「管理でなんとか戦力化する」という発想がない。

発達障害者採用もそうだし、そこまでいかなくても、健常者にだって凹凸はあるからね。

2019-08-03

anond:20190803105010

贅沢じゃなくて、産みたい人だけが産む自由主義時代ってこと。

義務じゃなくなったから、産みたくない人が無理矢理産まされたり、不妊の人や同性愛の人が責められることも減ってきた。

2019-07-30

表現に関する権利もっと細かく分けて話すべき

これなんかツリー論点がぐちゃぐちゃになってるんで整理しないと俺の意見説明できなさそう

https://anond.hatelabo.jp/20190722182852

なんで整理するな。俺の立場は反規制派。元増田の分類では右派に属すると思う

自認としてはオールリベラル比較的素朴な自由主義者だと思ってる

以下では表現権利について俺が守りたいもの不要だと思うもの、その中間などについて説明する。 

好ましい表現アクセスする権利

これについては右も左も反規制派で反対する者はいないと思う

権力者に好ましくない情報隠蔽してもいいという法律が作られそうになったら

真っ先に反対する

記者クラブのあり方に反対するとかの問題はここに分類されるはず

好ましくない表現アクセスしない権利

これは左右で意見が別れる。ヘイトスピーチとかエロゾーニングとかが相当する

俺としてはここにそこまで忌避感はない

というか見せる/見せないの二律背反ではなく、テクノロジーバリアフリーにすべき

ネット上では情報に適切なタグをつけるとか、親ツリーに分類するとか

うっかり見てしまう前にメタ情報アクセスできることで解消するだろうし

リアル社会では難しいけどエロとかヘイトとかが問題になりそうであれば、特定区画特定時間帯は情報が裏に隠れるとかできればいいと思う

ポイントは欲しい人は簡単アクセスできるようにすべきという点で

例えばエロが高スキル人間アングラで探さなくてはいけないような社会であってはならない

あくまスキルではなく、その人が望むかどうかがフィルターになるべき

好ましくない表現アクセスさせない権利

これは邪悪。ここに無自覚に手を出すのは左派ターナリストであり、反規制派として仲間にしたくない

エロの強い規制を望む人間とかがこの手の思想に染まりがち。

だいたい子供保護言い訳規制をするのが常套手段だが、

何を根拠にご自分は今までの規制のない世の中で「正しい」思想に目覚め、

他人は悪い情報に触れると「悪」の道に進むと思うのか

他人を悪の道に進ませたくなければ自分が善だと思った情報で上書きすればよいだろう、かつての自分のように

 

と、まあ大きく3段階に権利認識が別れていて、共闘できたりできなかったりするのはどのレベルか見定めたら

あいつはこっちとあっちで言うことが違ってダブスタだ」みたいな

不毛なやり取りは少なくなるんじゃないか

id:goadbin

好ましいかどうかは自分判断できると思ってる。正しいかどうかは非常に慎重に判断しなきゃいけないので、複数基準がある方がよいというのが俺の考え。

ちなみに左派よりの人は正しいことを判断するのは誰だという立場にたつのかな?ブコメではそこが読み取れなかった

id:Arturo_Ui

すまん。右派ターナリストも好ましくない表現アクセスさせないよう行動する。

左右の違いはおそらく自覚的かどうかで、右派はハナから自由主義を重視していないと思われる

無自覚に」を追記しといた。指摘ありがと

id:daydollarbotch

そう、俺とお前にとって2番目と3番目は大きく異なる権利なんだが、ツリー見てわかる通りここがシームレスだと感じる人も多い。

積極的自由とか闘う民主主義とかが好きな人たちがここにすっぽり嵌まるっぽい

anond:20190730070428

雇用、利子、及び貨幣一般理論あたり読んでみたら?まんがで読破でもあるから漫画でも読みやすい。

昔の自由主義の結果、格差の拡大、そして、経済低迷が起きた。で、ケインズマルクスがが立ち上がった。マルクス結果的に失敗だったが、資本主義陣営もみなケインズだったよ。

政府が何もしないのが一番ベスト」なんて間違った考え(新自由主義)にこの30年なってしまたからこその低迷。

ただ、100年前の悪夢の再来に過ぎないんだがね。

あ、もちろん、経済政府コントロールできるけど、間違った方へのコントロールは当然景気低迷を起こすよ。

2019-07-26

anond:20190726115850

いま一般に言われる「リベラル」は社会自由主義のこと。

個人自由を実現するために政府がどんどん介入すべきだ」という思想

政府の介入を防げば個人自由になる」という古典的自由主義とは異なるので注意してね。

政府に頼らず自己責任自由にやれ」はネオリベラルネオリベと呼ばれるけど、これもいわゆるリベラルとは対立する考えなので注意してね。

2019-07-22

anond:20190722124339

リベラル定義

社会的公正や多様性を重視するリベラリズム自由主義)やリベラリスト自由主義者)。類似用語社会自由主義進歩主義など。

各人の自由人生設計可能にするため国家支援必要と考える「権力による自由」の発想。20世紀先進諸国社会保障福祉国家を整備した。

別にそこまで外れてるとは思わんが。

anond:20190722123910

自分達が批判された時に「辞書リベラル定義確認してこい!」っていつもの人達が返してたけど

本来リベラル定義を調べられたら一番困るのってこの全然自由主義じゃない「リベラル」さん達じゃないのかね

2019-07-20

めんどくさい類の話。

めんどくさい類の話をしよう。

日本には無駄タブー存在する。

例えば、学生社会人私服学校会社に来てはならない。

例えば、教師や先輩といった立場人間には敬意を見せ従わねばならない。

例えば、場の空気を乱してはならないし、郷に入りては郷に従わねばならない。

例えば、政治宗教野球の話をしてはならない。

もうね、アホかと。馬鹿かと。

お前らな、そんな慣習如きで自分人生を生きてんじゃねーよ、ボケが。

ちょっと考えれば分かる事だが、これアメリカっつーか先進国とは真逆からな。

から見れば分かるが、こんなもんは広義の洗脳しかない。厳密にはマインドコントロールだ。

そりゃ欧米諸国イスラムだって宗教なんつーマインドコントロールに従ってるが、それでも自由主義道徳規範が大なり小なり機能してるだけマシだ。

それに引き換え日本は、なんだ?無宗教とか言いながら夏にはお盆に祭、冬にはクリスマス正月

くそれで無宗教なんて言えたな……?ってくらい、1976年から日本人は「日本教」に染められてる。

その宗教規範が上述のソレなわけです。

で、実を言うとこれ。戦前から存在してるんですね。

日本教において神などの超常存在存在しないと思わないといけない……ってのが不文律としてあるんですが。

これが無駄に強固だ。宗教において神の存在絶対視されるのに、その肝心要の神が「まるで神そのものであるかのように」現実的には居ないものであるとされる。なのに居ると思ってる。

これ、なんか心当たりがないですかね?

炎上覚悟で書きましょう。

「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族優越セル民族ニシテ、延テ世界支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

そう、所謂天皇人間宣言」です。

上のを現代風に言うと「天皇国民とは相互の信頼と敬愛とで結ばれてるもので、それは神話伝承から生じるものではない。同時に『天皇現人神日本人は神の子孫!だから優れた日本世界支配すべきなのだ!』なんて架空観念に基づく結びつきでもない」と言ってるわけですね。

これが「天皇現人神ではない」と天皇自らが否定した事になる……ってのが普通の受け取り方なんですが。実は、これが日本教のポイントだと思うんですよ。

そう、日本教の正体ってのは本当は「天皇教」なんですよ。それもクッソ強固な。

これ実際に聞いた人間以外は、まあ歴史教科書で「天皇人間宣言」って見るだけなんで何も思わないんですが。

だけどWikipediaでも書いてあるように「天皇日本国民祖先日本神話の神であること」を否定してない。そして更に疑った見方をすると……現人神である事は否定したが、天皇自身が「神」である事を否定していない。

これを重度の天皇教が聞くと、どうなるか?想像しにくい場合は、自分にとっての絶対者で想像する。

(例えば嫁や夫だとか推しアイドルキャラだとかネコだとか、そういう自分人生を決める最高の存在な)

1. 神は言っている……お前達との絆は絶対的な信頼と敬愛こそが本質である、と

2. だけど神話とか伝承は忘れろ……それは語り継がれることを許されなかった、遙か古の物語……

3. つまり天皇は神だけど人間のフリをするからオメーら宜しくな」って事か。そんな解釈大丈夫か?

4. 大丈夫じゃない、問題だ。

かくして、日本教はここに成立する。

ここで仮に時の昭和天皇が神の不在を半端にしか言わなかった為、ヤベー存在が量産されまくるのである

なにせ、最初超絶技巧日本国民ガチ感動させてる訳だからね。神ムーブしまくってるからね。

アイドルうんちしないから……なんてレベルでは到底ない。もっと恐ろしいもの垣間見たね。

理想である天皇権威と、現実である総理大臣将軍権力。この恐るべき分業によって構成された上意下達支配構造により、この現人神否定ムーブは「その神意でもって」全体に通達される。

そして、それらがメディアフェイクタイトルによって教科書へと掲載される。

そうなると何が起きるか?

日本教の隠れた神が人間宣言をするのだ、どうやっても劣化した形でそれは受け継がれる。

から日本人は自由を「自分の好き勝手に、自分日本人が神だと思ってるかの如く、周囲に日本人を人間である事を強要する」のだ。

日本人は神を否定する。だけど、そこには自分達こそが神だと言わんばかりの傲慢さと、矛盾した無宗教への信仰が確かに存在するのだ。

そして、そこには昭和天皇意図は伝わらない。それは戦前戦中と全く変わらない。

ただただ、愚かさを再生産し続ける内戦の始まりである

思うに、権威権力の分業というのは……きっと、世界で最も上手くできたファシズムなのだろう。

欧米人の脱権威/脱権力は、その全てが内部からの撃発によって否定された。

まり真の意味民意から革命であり、それは少なくとも「大衆主観では」自発的に行われた。

それが一種虚構である事は今の政治を見ても明らかではあるが、しかし、そこには個人意思こそが優先されるべきという思想根付いたのだ。

では、今の日本人は……それができるか?

例えば天皇踏み絵を用意したとして、それを踏めると言えるか?実際に踏めるか?

まず僕には無理だ。

心理的もの道徳的ものもあるが……それ以上に、周りが怖い。

そんな事をしたとバレたら、きっと僕は今までに得た人間関係の全てを失うだろう。親でもギリギリ、いや知人レベルくらいに避けられるだろう。

それくらいのレベルで恐ろしい行為だ。そうDNAが叫ぶくらいの恐怖を感じる。

我々は、今もまだ「天皇陛下との信頼と敬愛と」に、結ばれ続けているのだと……

僕は、そう畏れている。

それが良いことか悪いことかは、わからないけど。

まあなんでもいいけど、本当に無宗教って神の不在を確信してるなら「宗教の話がタブー」ってのは異常だと思うよ。

本当に神は不在って思うなら勝手に話させとけば良いじゃん。どうせ入信しないんだし。適当に話を合わせておいて受け流しておけよと思わなくもない。

そういう自己保身で、今日駄文は終了なのである

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