はてなキーワード: 自由主義とは
普段インターネットでふざけた話をしていた人間が急に政治を語りだすのは、辞書の「焼きが回る」の項の例文に載せてもいいくらい典型的な病だと思っているので匿名で書くことにした。
選挙権を与えられて初めての選挙のときもそうだったし、その前もそうだった。おそらく外山恒一と中田考のせいだと思う。
特に外山恒一の2007年東京都知事選の政見放送は今見ると改めてパフォーマンスとしても完成されていることがわかる。時間があれば是非見てほしい。
イチオシは超絶頭の良いコンピュータによる全世界一元管理だが、残念ながら今の所そのようなものは影も形もないので、消極的にではあるが選挙に基づく間接民主制を支持している。
消極的に、というのがポイントで、別に選挙に行くのが正しいとか義務だとか思っているわけでは決してない。
私が祈ろうと祈るまいと世界は何も変わらない。一票差で結果が変わる選挙などまずないからだ。
しかし私は祈ることを冷笑はしない。それは祈るという行為が(私のように)愚かで怠惰な人間が唯一可能な意思表示であり、一種の反射であるからだ。
多くの人の祈りが届けば天は翻意し、我々に何か恵みのようなものを与えるかもしれない。しかし私達の祈りが正しいものであったか、また天からの贈り物が本当に恵みであるかどうかなど事前にわかりはしない。
投票とは所詮そんな、とてつもなく大雑把でどうしようもなく頼りないものだ。
それでも多分、投票率は上がったほうが良いのではないかとうっすらと思う。
投票率が上がれば民意が正しく反映されるとか、若者向けの政策が増えて世の中が良くなるだとかは正直眉唾ものだと思っている。そもそも人間は愚かなので民意が正しく反映されたところで合理的な判断を正しく下せるとは思えない。
しかしまあノイズが増えて右往左往するほうが崖に向かって全力疾走ダイブするよりは幾分かマシだろう。
さて、選挙が近づいてきた。本当に嫌な季節だ。
顔出しアイコンがインテリ仕草で、あるいは匿名アイコンがさも庶民の意志を代弁するかのように、いずれにせよ厚顔無恥な態度で若者よ選挙へ行けと叫びだす。
選挙へ行かない人間は非国民だ、人非人だと偉そうに喚いている。
こんなにも頼りない投票という行為を、どうしてそんなに正義面して他人に押し付けられるのか私にはさっぱり理解できない。
選挙に行かない、または白票を投じる理由はたくさんあるだろう。
単に面倒臭くて投票しないのかもしれないし、どうせ自分の一票では何も変わらないのだから(これはほぼ確実に正しい)と考えてもっと有意義に時間を過ごしたいのかもしれない。納得できる政党や個人が存在しないのかもしれないし、あるいは棄権することで自分より賢い人間に選択を委託するほうが自分にとってプラスだと考えているのかもしれない。
結果的にそれが自分に不利益をもたらす行為であったとあとからわかったとしても、自由主義は愚行権を正当化したのではなかったか。投票を棄権することそれ自体が社会的正義を損なうと、本当に言い切れるのか。
もしあなたが特定の団体からしつこく電話を受け、「X党に投票してよ」と言われれば、多少X党の人物やマニフェストに魅力を感じていたとしてもX党に投票したくなくなるのではないか。
少なくとも私はそういう人間である。選挙自体を否定するつもりはないが、選挙に行くことが絶対に正しいという思想の持ち主からしつこく勧誘されたら絶対に選挙に行きたくないと思う。
なぜ若者は選挙に行かないのか。それは多分、あなた方のことが嫌いだからだ。
この文章が嫌味ったらしすぎて、逆に選挙に行きたくなる人もいるかもしれない。それならそれで良いと思う。もし選挙に行くなら、それくらい感情的かつ雑に選挙に行ってほしい。
Mastodonというか分散SNSネットワークにネトウヨが居ないわけじゃない。
単にほぼすべての分散SNSネットワークユーザが「そういう人も居るよね。他人に強制しなければ好きな思想持ってても良いんじゃない?」と認識しているだけ。
Mastodonに居るネトウヨですらそう思っているためTwitterでいうネトウヨvs疑似リベラルみたいな対立は生まれにくい。
この問題は「そういう人も居るよね。他人に強制しなければ好きな思想持ってても良いんじゃない?」という根幹が揺れる問題のため分散SNSネットワーク全体で沸騰している。
まぁ言ってみれば「ユダヤ教を強制排斥したGab絶対許さないマン」が分散SNSネットワークへ登場して「Gabを強制排斥したらGabと同じやんマン」が反論対立している状態。
「特定の集団を強制排斥したナチは許されないけどナチを強制排斥することは許される」みたいな現代西洋自由主義の矛盾が分散SNSネットワークで可視化され炎上してるんだよ。
僕らの国の政治の最大の弱点は、極端なことだ。
ここでいう極端とは「イデオロギーを持っていないか、イデオロギーを無茶苦茶に振り回しているか」ということである。
この二つの政党の共通点は、イデオロギーがない、柱がないことである。
自由主義を掲げているが、実際はじの字も知らない。
この二つの政党の共通点はイデオロギーを無茶苦茶に振り回して、迷惑をかけている。
要するに、イデオロギー第一主義に陥っている。理想や自分の思考に縛られている。
そして、イデオロギーを持って、かつ振り回されていない政党がただ一つ存在する。
それが「自由民主党」だ。
保守主義というイデオロギーがあって、それに関わらず、現実維持を第一として、政策を実施してきた。
しかし、いま、僕らの国には、「現実維持の政党」か「急進変革の政党」しかない。
漸進的改革は目に見えづらい。故に支持されにくい。
もう、僕らの国は斜陽なのか。
そこはそうでもないんじゃね? 歴史を遡ったらどっかの時点で人類が聖人になって個人の打算なんかもたない時代があったのかって言えば、ないでしょ(キリスト教的にはロト以前はそうだった設定だけど)。
すべての思想ってのは不満ある現場に対するカウンターとして現れるわけで、個人主義や自由主義が現れた背景には、個人や自由がなかったっていう現実があったんだよ。つまり、イケメンだろうが腹筋割れてようが、次男三男ってだけで労働や行動の自由もなく当然恋愛も嫁取りもできないみたいな不自由な封建社会っていうものがあって、そこからの脱却として個人主義や自由主義が出てきた。
いまはてなで「非モテ男性」だの「KKO」だのいう話が出てきても、そこには次男とか三男とか畑がもらえないとか、そういうボヤキはほぼほぼ出てこない。長男だろうが非モテは非モテだし、次男でも要領よくヤリチンになれる。そこが自由主義なわけだ。
封建制の時代には限られたリソースのオート割当として「長男に家財家業と女を優先割当する」「次男三男や定住財産を持たないものや家柄に劣るものは残飯食ってるか死ね」ってルールが当然としてあったんで、そのルールの中で長男’sに平穏と平等があっただけだ。
それに比べりゃ現在状況は相当マシなはずなんだけど、人間やっぱ豊かになると、その豊かになった周辺の中で相対的に貧しい(あるいは相対的に劣位の)自分っていうのに耐えられないんだよね。
もろリベラルやな。消極的自由主義(規制を全部取り払って商売人が自由に)と積極的自由主義(国家が適切に関与して、結果的に自由に)というのがある。
もう一つ、権威主義と自由主義。偉い人のいうことに従うか、各々が自分で考えるかという枠組みがある。
で、、、、、、男が偉い!上の人間が偉い!の腐った儒教思想という権威を振りかざしたいやつが
「どうだ!各々が自分で考えるのはだめで偉いやつである俺に従え」とやりたいがためにリベラルを攻撃するというのに使ってる気がするね。
リベラルというのが消極的自由主義(商売人を自由にする)=右と、積極的自由主義(政府の関与で結果的に自由になるようにする)=左というが両方ある。
王政が打倒されて自由にしたらいいという流れがあるが、そこで一度自由主義になった結果大恐慌とその後の不況を作った。
二・二六事件も国家を守る兵士の姉妹が貧しさ故に売春宿に売られないとならない状況は何たることか!という、自由主義への反動でなされている。
そこで、ケインズが生まれて、累進税や、需要の創出という流れが生まれた。
ケインズ対自由主義の枠組みであれば左側になり、右側は消え去ったんだよ。
と同時にマルクス対自由主義の枠組みともなり、ここでも右側が消え去った。
相対的に、マルクス対ケインズで、ケインズが右側だったのが1980年代まで。
ただ、1970年台のオイルショックのインフレにケインズが対応できなかったことと、マルクス国家の崩壊でマルクスはだめだということで、かつての自由主義が再び起きた。
しかし、自由主義は根本的に国は自由にしたらいいというだけで、経済政策は金の量も金の回転も全く見ないから、失われた30年を作った。
他の観念で、強者を重んじるという右、弱者を重んじるという左、だが、経済政策は両方新自由主義に巻き込まれた。
故に右の小泉自民党でも左の民主党でも経済政策は公務員にボロカスに石を投げて、法人富裕層減税と同じことをやってる。
ゆえに、中初等教育、大学教育、介護、児童保護、医療みたいな経済原理にそいにくい+公務員が多い産業がみなぼろぼろになってしまった。
はてなブックマーク - 「痴漢で一番悪いのは満員電車ですよ」 社会心理学者がツイートした理由とは - 毎日新聞
すごいな~。「満員じゃなくてもやる奴はやる。満員電車じゃなくて犯人が悪い!」の大合唱だ。
いや、俺は賛成だよ。俺は自由主義者だから、たとえ犯罪を容易にする環境があったとしてもやっぱり犯罪を犯すのは自分の自由意志であり、第一に悪とされ責められるべきは犯人であろうと信じている。
だからここで社会心理学者の発言を叩いてるみんなは全米ライフル協会の言うことにも賛同してくれるよな?
「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」ってまさに「満員だろうがそうじゃなかろうが痴漢するやつはいる」ってことだもんな。
どこかの悪人が銃を学校で乱射したせいで無関係なやつが銃を持つ権利に文句つけられるのはおかしいよな、わかるよ。
ガラガラの電車でも痴漢するやつがいる、ってのも、銃が撲滅されたとしても攻撃衝動の高いやつはナイフとか使って他人を攻撃するだろ、という反論と一緒で、それじゃ本質的な解決にはならないってことだよね。
銃規制反対派としては、まさか銃規制の厳格な日本でここまでNRAの主張に賛意を示してくれる人が大勢いるとは思わなかった。すごいぞニッポン。ビバ自由主義!
満員電車で痴漢するのは痴漢が悪い、スクールシューティングは犯人が悪い、満員電車や銃社会をなくしたって根本的解決にはならない、って連帯して言っていきましょう。
https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php
嫌儲板(平均:左派14.1,自由主義19.2/中央値:左派13.9,自由主義16.7)
https://i.imgur.com/lVjKUKK.png
ニュース速報板(平均:右派1.4,共同体主義15.5/中央値:0,共同体主義16.7)
https://i.imgur.com/dGgFsSq.png
はてな民の傾向が知りたい
ポスト自由主義は、自己と他者の自由を尊重する社会的公正を指向する思想体系のことをいう。性的な分野での自由を主張する近代自由主義(モダン・リベラリズム)とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。現代において個人の自由で独立した選択を実質的に保障し、極度の恋愛的、性的は貧富差における個人の社会的自由を侵害する偏見や差別などを防ぐためには、政府による制限や介入をなくしたりするのではなく、政府や地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく。
「公正」とは、ジョン・ロールズによれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する。これは人々に「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想を迫るものであり、機会平等と最小不幸を主張する。ロールズの格差原理では、格差ないし不平等の存在は、それをもたらす関係につく機会が平等に開かれており、かつ、それによって社会で最も不遇な人々の厚生が図られない限り、その存在は公正ではないものとされている。
よって、ポスト自由主義は積極的自由に基づく自己決定を推奨し、国家による性の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、市場原理主義では経済的、容姿的、コミュニケーション的強者が利益を最大化する一連の行為のために、少子化問題や構造的貧困や介護問題などさまざまな弊害・社会問題が生じ、それは近代自由主義の「意図に反して」人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、近代自由主義を修正する思想である。
階級間の融和不可能な対立や中央集権的な統制を是認しない一方で、近代自由主義者のように自由競争が市場における「神の見えざる手」のように最大多数の最大幸福を自動的に実現するとは信じず、政府によって、各人の社会的自己実現をさまたげ、市場や社会における相互の欲求の最適化や調整のメカニズムを阻害する過度の集中や不公正などの要因を除去することが、まさしく「自由」の観点から言っても必要だと考える。
なかでも○○は「自由放任の論拠とされてきた形而上学は、これを一掃しようではないか。持てる者に永久の権利を授ける契約など一つもない。利己心がつねに社会全体の利益になるように働くというのは本当ではない。各自別々に自分の目的を促進するために行動している個々人は、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある」と述べ、アダム・スミスに由来する「見えざる手」に信頼する自由放任論からの脱却を求めるとともに、具体的には不完全婚姻均衡からの脱却のための人口政策が、政府によって実現されることを求めた。
政治面では「俺たちには自由に生きる権利があって国王や貴族でさえそれを侵害できないぜ」という感じ。
経済面では「俺たちが自由に商売すれば自然とバランスが取れるんだから政府は余計な口出しすんな」という感じ。
どちらにせよ、個人の権利を重視して「国家権力は小さくあるべき」と考える。
「社会自由主義」の台頭後は、区別のために「古典的自由主義」と呼ばれる。
自由な市場のために規制緩和をし、法人税を下げたり、国営企業を民営化したりする。
資本主義は格差が激しくてついてけないからもっと平等を目指そうぜ、という感じ。
左翼。
資本主義の発展に伴い、土地や工場などの生産手段を私有する資本家が、
労働者をこき使って搾取するようになったので、それを打破して平等な社会を目指す。
そのためには、労働者自身が生産手段を管理する体制(プロレタリア独裁)を、
暴力革命を志向するテロリスト、スターリンや毛沢東のような独裁者を生み出す。
マルクス主義を反省して、暴力革命やプロレタリア独裁を否定する。
民主主義を通じて政府に働きかけ、平和的に社会主義を達成しよう、という感じ。
何らかの急進的な政治運動に対して、それに反対する立場が「保守」と見なされる。
それぞれの政治体制や歴史的経緯によって何が「保守」となるかは異なってくるが、
現在のところ、政治的には「国家主義」を、経済的には「新自由主義」を指すことが多い。
右翼。
もとは自由主義と連動していて、
誰かに支配されたりするのではなく「俺たち」が主体的に行動すべきなんだ、という感じだったが、
「おまえも俺たちと一緒だよな」と均質化を強要したり、
「おまえは俺たちと一緒じゃない」と排外主義になったりした。
「俺たち」を結びつけるものは「民族」「家族」「宗教」「伝統文化」などである。
「個人の権利よりも国家の利益が優先される」までいくと「全体主義(ファシズム)」となる。
こうなると自由主義とは対極という感じ。
でも、これはいくつかの意味でおかしいと思う。この記事は、多くの人がワクチンを摂取するべきであり、そうしないのは不道徳である、という考えに基づいて書かれている。だが、私にはそれが自明の前提とはどうしても思えない。
そもそも、自分の身体に何を入れ、何を入れないか、決めてよいのは自分だけだ。自分の身体は自分だけのもの。当たり前だろう。これが身体にペニスを挿入してよいかという問題であれば、ほとんどの人がそれを決める権利は自分にしかないと答えるはずなのに、どうして同じ理屈がワクチンでは通用しないのか。
公益のために注射針を刺して弱毒化された抗原を身体に入れろ、なんて、他人に強制してよいこととはどうしても思えない。毒であることが問題なのではない。私はそれがほとんど無害であり極めて低い確率でしか副作用は起こらずおおむね安全であることを知っている。そうではなくて、自分の身体に何を入れるかを他人に指図されるべきではないということだ。
今回はワクチンにすぎないかもしれない。でも、次が行動監視用ナノマシンだったら? 治安の良さは公益だ、やましいところがなければ入れられるはずだ、公益のためのナノマシン接種拒否は不道徳だ。そう言われたらどうする?
自分の身体に何を入れるかを決めてよいのは当人あるいはその親権者だけだ。それを他人に強いるのは不道徳である(もちろん、説得はしてよい。ワクチンの安全性を説き、公衆衛生の重要さを熱弁するのは自由であろう。相手の自由を損なわない範囲においてだが)。
(この立場は、アメリカの反ワクチン運動を紹介しているWIREDの記事でも紹介されていた。私はニセ科学に傾倒した反ワクチンはばっかじゃねーのと思うが、「政府は自分たちの子どもの体内に入るものを強制すべきではない」という主義主張は自由主義者として大いに頷ける)
それでも、そのような自由は公益のために制限されてもよい、という主張もあり得るだろう。では、ジョセフ・ヒース氏の住んでいる国ではどうだか知らないが、我々が住んでいる日本という国においてその理路は成り立つだろうか?
自由を制限し、義務化するのなら、当然その負担は最低限にまで低減されなければならない。だが現実にはどうか。インフルエンザワクチンの接種は自由診療であり、無料でないばかりか保険すら利かない。風疹ワクチンの未接種が話題になったが、ある世代の男性に限っては無料になったとはいえ、多くの人にとってそれは保険外診療として打つものである。
公益のために義務で打てというなら、その負担は最低限のものであるべきだ。高い診療費を払ってわざわざ病院の診療時間に打ちに行く手間とカネを惜しんでいったい何が悪いのか。保険診療にすらなっていない現状で接種は道徳的義務なんてちゃんちゃらおかしい。
公益のために自由を踏み躙るなら、当然それによって被る不利益は最低限度であるべきだろう。高い代償を払ってこれこれのことをしろ、そうしなければお前は反社会的な行動をしていることになるのだ、道徳をわきまえた市民ならばこのくらいの代償は払えるはずだ、などと恫喝してくる国家や社会は、正直かなり胡散臭い。
それでも、ワクチン接種費用程度ならたいした実害はないじゃないか、という反論があるかもしれない。なるほど、もしもあなたが貧困層でなければ、確かにちょっと痛い出費程度で済むだろう。だが、問題はその「義務」はどこまで拡大されるのかということだ。今あなたが遵うべきだと言っているその「公益のための義務」が、いつの間にか「兵役」になっていなければよいのだが。
そして我々が住むこの日本国は、経済的自由主義の名の下に医療費を着々と削っている。小泉純一郎以来この国の福祉は自由主義の旗の下で掘り崩され、削られてきた。このような状況で「道徳的な義務」などというものが持ち出されることには警戒した方がよい。国家が市民の生活に対して負う義務を年々縮小しながら、市民に対して「公益」を根拠に負担を迫ってくる。冗談ではない。なぜもらえるかどうかわからない年金を払い続ける人びとが、そんな「公益」とやらを慮って差し上げねばならないのか?
経済的自由主義で公的サービスを縮小するのなら、民間の自由も拡大させなければ筋が通るまい。もちろんそこにはワクチンを接種しない自由も含まれる。逆に民間の自由にある程度制限を加えようとするならば、失われた自由に見合うだけの大きな政府を実現してもらわねば困る。
感染症にかかった人間が不用意に出歩いてウイルスが拡散され、流行が広がってしまう。なるほど悲劇だ。だがそういう悲劇が起こる度に、公衆衛生を錦の御旗のごとく掲げる人びとは、大元の罹患者に向かってバイオテロだのと心ない言葉を浴びせかける。彼もしくは彼女もまた、病気の犠牲者であることを忘れ去って。
たとえば敵国の社会を壊滅させることを狙ってウイルスや炭疽菌を散布するような意図を持ったテロリストは、道徳的な非難の対象となって当然だろう。だが、不幸にも病気にかかってしまった状態で不用意に歩き回ったという、ちょっと迂闊だった程度の人が、患者が、そこまで非難の対象とされるのは絶対に間違っていると考える。それは犠牲者非難とかいうやつじゃないのか。犠牲者非難を許してはいけない。
病気は人間の意志を超えたところに存在し、運やら体質やらの本人にはどうしようもない状況に付け込んで罹患させる。そのような感染症の患者を、運悪く感染し不用意な行動を取ってしまったという理由で、バイオテロだの加害者だのと責めるのは道徳的に間違っている。そして、道徳的に間違っている主張をしている人間の言うことに従わない人間がいることは当然である。
少なくとも私は、このような言説を振りまく一部の反・反ワクチン派の醜態を見て、風疹ワクチンは絶対に打たないと心に決めた。政策の失敗によってワクチン接種の機会を失っただけの、なんの責任もない特定世代の人びとを加害者呼ばわりする連中に腹が立ったからだ。風疹の流行をめぐって吹き荒れた犠牲者非難の言説は本当に醜悪だった。あれを見てしまった以上、風疹ワクチン接種に加担することはできない。
以上、反ワクチンが必ずしも道徳的に間違っているとはいえず、むしろワクチン接種の強制こそが道義に反していることを示した。自由主義者として、そして犠牲者非難を憎む者として、私は反ワクチン主義にも聞くべき理があると主張する。なるほど彼らは科学的にデタラメなことを信じ込んでいるのかもしれない。だがそれは、彼らにワクチン接種を強要する側の道義的な正しさを裏付けるものではないのだ。むしろその強要こそが、反ワクチン論者に三分の理を与えているのである。
あっ反知性主義者だ
こういうトラバが速攻でつくわけだろ? こういう言説を(たとえ自分宛てのものじゃなくても)見る度に、絶対にワクチンは打たないぞという決意を固めるよね。
権利と他の権利は常に対立するもので100%の正義は存在しないところではあるが、我々は武装する権利や他者を傷つける権利を行使することはできない。
他人を傷つける権利を行使できないというなら、身体に注射針を刺すことを強要することはできないという結論になるはずでは。医者の行為も傷害罪の構成要件に該当することはご存知ですよね? 正当業務行為だから違法性が阻却されるだけで。そして医者にかかる患者は医療を受けることに同意しているわけですが、ワクチン接種を拒否する人たちの身体にワクチンを打つことを強要しようとしたら当然彼ら彼女らの身体への侵害となります。他人を傷つける権利を行使してはいけないというならまずワクチン接種の強要をやめるべきでしょう。
そもそも感染症を他者にうつしてしまうことは基本的に他者への加害ではないわけで。それを加害と呼ぶのなら人より感染症への抵抗力が弱く生まれついた人間としては全力で抵抗せざるを得ないですね。そのような言説を振りまく人間の言うことに従わないという消極的抵抗を今後も続けていきたいと思います。基本的にめんどくさがりなのでデモとかも意義は認めるものの参加したことはないのですが、これはコストのかからない良い抵抗方法だと思うので加害者呼ばわりバイオテロ呼ばわりに憤る人たちにオススメです。
封建制的な社会では、個人の個性や自由以前に社会に要求されるロールのほうが個人を作り上げてたんだよ。社会安定のためにそういう仕組みが必要だった。
たとえば農民(小作農とか富農とか地主とかのクラスわけ)や庄屋や蔵元や名主なんていうロールシステムで農村が作られていて、家庭は世帯主と妻と嫡子と次男三男、娘どもみたいなロールこそがコミュニティ安定の要だった。社会には役割がありその役割を参加者が担うことで安定させていたわけだ。
年齢に関しても一緒で、ある年令になったら子供から若者にロール変更してコミュニティ防衛に参加してもらわないと困るし(自警団や青年団)、もう少し年が行ったら結婚して家庭を持ってもらわないと困るし、一家が自立したら寄り合いに参加してコミュニティ運営の一部を負担してもらわないと困るし、子供が成長したら隠居して発言権を譲ってもらわないと困る。それらが「年齢相応である」ってことであって、それらのロールを義務として果たしてもらわないと、コミュニティが不安定化する。それはつまり社会に対する攻撃でありテロなわけだから、役職のロール、家庭内のロール、年齢なりのロール、そういう役割の放棄は罪だったわけ。
現代になって個人主義自由主義の思想からそういう抑圧は随分減ったけれど、日本では一世代とか二世代まえまではそういう価値観がバリバリに現存してたんだよ。じっさい、今だってそれらのロールを全放棄できるかっていえば、社会観点では異論が出る。全員結婚しなかったら少子化解決しねえだろ!とか声を荒げる人は増田にもいるでしょ?
現在は過渡期なんだけど、過渡期としても後期なんだよ。過渡期の前記は「年齢相応(=年齢要求ロール)ってなにをすればいいかはわかるけれど、そんなの個人の自由でしょ。おれは嫌だね」って反発だった。今は後期なんで「なんで年齢相応なんて概念があるんだかわからねえ。個人の自由でしょ。なにすればいいのさ?」になってる。歴史的経緯の喪失だね。