はてなキーワード: ミイラ取りがミイラになるとは
陰謀論やQアノンというとみなアレルギーのように恐怖を感じて距離を置くと思う。その行動は正しい。
これらはカルト宗教のようなものだからだ。知識がないのに深く入り込むとミイラ取りがミイラになる。
だが今回は特別に、陰謀論・Qアノンなどについて自分の知る範囲で納得感のある説明をしたいと思う。
ところどころ、というかふんだんに間違っているところがある。だが概要は理解できるはずだ。
読むのを途中でやめても一向にかまわない。
ちなみにこの話は、嘘を嘘と見抜けない人には、難しいです。
2chにどっぷり使っていた人間ならわかると思うが、2chに来たデジタルに弱いおバカキッズを釣るということは昔からよくやられていた。釣りは楽しい。
2chをやっていなくても、ある分野の常識を全然知らない人にふざけて嘘を教えるということをやったことはないだろうか。
たとえば「飛行機に乗るときは靴を脱ぐんだよ」とか「吉野家に置いてあるサラダは食べ放題だから好きにとって食べていい」とか「日本では初対面の人に挨拶するときお辞儀しながら合掌する」とかそういった類のものだ。
こういうのは騙された人を見ると愉快で愉快でたまらないものだ。なぜおもしろいのかはわからない。だがとにかく、おもしろいのだ。
2ch発のおバカ現象は、「コイル2位」や「田代をTIMESの表紙に載せようぜ」とかだろうか。まあそういう輩がアメリカにもたくさんいると思ってほしい。
こういう文化は「ちゃんカルチャ〜(英: Chan Culture)」と呼ばれている。外から見ると理解不能だが、なんJやVIPにいたねらーには理解しやすいだろう。
要するに「アメリカのインターネットに疎い老人を4chanにいる人々が釣った」というのが陰謀論の発端である。ガチ???
アメリカの4chanというサイトは2chを真似て作られたものだ。
あろうことか2chのカルチャーまで真似られた/(^o^)\ナンテコッタイ
4chanの作者はmootという人だ。
mootさんはGoogleで働いたこともあるらしい。だが調べたところ自分には真偽不明。まあたぶん本当だろう。どうでもいいけど。
mootさんは田代と同じくTIMESで「世界で最も影響を与えた100人」の1人に選ばれている。
ただしこれは4chanの人々の仕業による(https://techcrunch.com/2009/04/21/4chan-takes-over-the-time-100/)。
どう見ても縦読みです。本当にありがとうございました。
しかしここで「ひろゆきが陰謀論の黒幕ということ?!」と早合点してはいけない。それについては後述する。
ここまでの話を聞くと嘘のように見えるのではないか。世界がそんなアホみたいな理由で迷惑をかけられていると信じたくない気持ちはよくわかる。
まあともかく、4chanにて初めに誰か(誰がやったかは実のところ不明)が、整合性のあるそれっぽいことを言ったのであった。
ここでは、
ピザ屋の地下室で、子どもの人身売買や児童性的虐待が行われている。
ヒラリー・クリントンら民主党幹部らがそれに関わっている。
という風説が流布された。おそらくネトウヨらによる。しらんけど。
初期のころは、この内容に釣られた人々がとんでもない嫌がらせをたくさん行っていただけだったが、ある釣られた男がライフル銃を持ってピザ屋を襲撃して大問題になった。
しかもこれでヒラリー・クリントンは落選して、トランプ大統領が誕生した。
ΩΩΩ<な、なんだってー!?
4chanの人々は嘘をつくのが上手である。上記の内容をそのまま言うのでは誰も信じない。
そうではなく情報を小出しにする。情報を小出しにして「詳しいことは言えないが…」とか「これってもしかしてこういうことかもね」とかそういうふうに情報を提供する。
そうすると情報を提供された側は「そ、そ、そ、そうか!!!!!そういうことだったのか!!!!???!?」という究極のアハ体験を感じることができる。
あほすぎわろた。
そうだな。もし2chに鮫島事件について詳しく知りたがっている老人が急に現れたとしたら、2ちゃんねらーはどうするかを想像してもらうといいかもしれない。
ちなみに鮫島事件を語ることは自分には許されていないのでご容赦願いたい。
AnonとはAnonymousの略である。まあ2ch風に言えば「名無し」のことである。
ではQとはなにか。一応これは「Qクリアランス」のQとされている。Qクリアランスとは「アメリカのエネルギー省の最高機密にアクセスできる権利」のことだ。Qクリアランス自体はガチで存在する。
だがしかし、ここからは俺の憶測にすぎないが少し聞いてほしい。
アメリカにはOK Boomer(意訳: はいはい団塊さん)というインターネットスラングがある。4chanでは2015年初出のようだ[要出典]。
OKを合体させるとQっぽくなるし、OK Qupidという出会い系サイトがアメリカではやや有名だ。そこから転じて「Q」となったのではないかと思っている。まあ違うと思うけど。
--------------------憶測ここまで--------------------
ただし注意点がある。「Qが誰であるか」は、いろんな人々がガチになって死にものぐるいで探している。しかし誰も特定できていない。まあ匿名掲示板だからね。しかたないね。
そもそもQは複数人いるかもわかっていない。ある「Q」によれば「Qは10人以下しかおらずそのうち3人が非軍人だ」とされている。
だが2chで鍛えられた俺にはこれは「なんかそれっぽいこと言ってるだけ」のように見える。俺は詳しいんだ。これは釣りだ。
まあそれは置いといて、そうした釣りを行う人々(Q)がスレに書き込む内容のことをQ Dropという。
Dropとは「しずく」という意味の英単語だ。Qがぽとっとスレにネタをちょびっと落としていくという感覚だろう。
こうした一定の書き込みがさまざまな4chanの人々によってまとめられ、正典とされていたようだ。あほらし。
だが「あほらし」とも言っていられない。
釣られる人が増えれば増えるほど、それを利用する人も増える。大量の人間は金になる。
ほんまかこれ?
かつての2chはジム・ワトキンスというおじさんに経営権を握られてしまった。今は5chという名前になっており、ひろゆきは5chのミラーサイトである2ch.scを新たに作ってそちらを運営している。
このへんはややこしい話だが、ひろゆきは2chの商標権(日本の)を持っているがジム・ワトキンスは持っていないというためだ。
一方4chanからは8chanが分裂した。これは陰謀論だけを除去するためのサイトである。2chのwikipediaを見るとわかりやすいはずだ。
やがてのちに8kunという名前に変更された。「ちゃん」から「くん」に変わったわけだ。
8kunはQAnonの本拠地とされ、さまざまな勢力が集まってなんかいろいろ話しているようだ。
8kunには日本語版もある。日本国内の陰謀論の最前線本拠地だ。
個人的に、根本をたどるとQAnonの始祖のような存在がひろゆきになってしまうというのはおもしろい話だなと思う。なぜか彼がフランスに住んでいるのもなんとなくおもしろい。
はっ!もしかするとひろゆきはこの世界を救うために天界から降臨した救世主かもしれない……。もしかして亡命してる???
ちなみに以上の話は全部フェイクニュースです。
Q万歳!
We Are Q!!
非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。
ミイラ取りがミイラになるように、Woke嫌いがWokeになるような