はてなキーワード: 反知性主義者とは
既存のイデオロギーを再考することなくそのまま受け入れている。保守。公正世界仮説信者。餌。愚民。扱いやすい。畜群。
普遍集団を批判する集団。だいたい嫌われる。うざい。叩かれがち。無視されがち。アホと呼ばれる。実際アホ。
批判集団を狩り、普遍集団を守る集団。普遍集団からの支持を集めがち。嘘つき。
普遍集団のアホさも、批判集団の論理も、あえてわかっていてやっていることが多い。どちらのことも見下している。
正義よりも自己利益を追求する。保守。体制派。だが時流に応じて変節する。狩人。
賛成集団を批判する集団。数はかなり少ない。批判集団からの支持を集めがち。二枚舌。
普遍集団のアホさも、批判集団の論理も、賛成集団の意地汚さも、あえてわかってやっていることが多い。
普遍集団のアホさも、批判集団の論理も、賛成集団の意地汚さも、天敵集団の欺瞞もわかっていて、すべてを無視することにして自己の向上に邁進する集団。自己中。
数はめちゃくちゃ少ない。普遍集団と賛成集団からの支持を集めがち。気を抜いていると下の階層に落ちる。
非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。
沖縄の焦土作戦、本土空襲、原爆、硫黄島やインパールの玉砕、魚雷、帰れない飛行機
こういうものを支持して成立させたのは当時の頭の悪い体育会系の陸軍
今だってスポーツ選手を議員にしようとか言ってるアホや頭のわるい元ラグビー部員が政治家やってる
こういう反知性主義者たちのトップダウンが吉本やakbに数十億も助成金出させたりしてる
知性、洗練されたもの、勉強、成長を促すもの、アート、音楽、ハイコンテクストな何もかもを嫌い、
わかりやすい道化とポルノを好む連中がトップに立ち続け、そういうのを支持してるのがこの国の国民である。
しかもそのスポンサーのエセ右翼の老人はまだ戦前回帰だなどと抜かし、軍拡なんて言ってる
ミサイルを高額で買わされ、お隣の国にはODAやら宗教団体への献金やらパチンコ利権で金を流す
何でか?
この記事(タイトル:「戦後の知性主義が日本を破壊した」自宅にメモ 宮台真司さん襲撃事件 死亡の41歳男書類送検https://www.tokyo-np.co.jp/article/235628)に対して、
反知性主義者のインテリ憎しは安倍やトランプが支持され陰謀論者が跋扈する土壌になった。戦後日本が破壊されたとする妄想がまた安倍っぽい。やはり今こそ安倍を徹底的に清算しないと、日本は悪くなる一方だろう
というコメントがついているのだが、なぜそのような考察になるのかまるでわからない。
しかも、スターがたくさんついてトップブコメにもでてきている。
ますますもって意味がわからない。大喜利としても意味不明である。
誰か教えてくれな烏賊。
一時期、具体的にはアメリカでトランプ旋風が巻き起こっていたころ反知性主義という言葉が流行った。
その概念は日本にも輸入され、主にリベラルが格好つけて馬鹿呼ばわりする時に使用した。
しかし反知性主義とは「反知性」主義(すなわち馬鹿)ではなく反「知性主義」(反エリート)というのがホフスタッターの論旨である。
参考:https://cruel.hatenablog.com/entry/2015/08/20/185544
わざわざ格好つけて言おうとした結果誤用にハマる という意味では「すべからく」と同じだ。
むしろ「すべからく」は単に格好つけようとして失敗しているだけだが、
「反知性主義」の場合は他人を馬鹿にしようとして失敗しているという、より恥ずかしい状況だ。
まともな神経だったら二度とこの言葉を使わないくらいには凹むと思う。
ここまでは単に誤用した人が恥ずかしいだけの話なのだが、問題はその時「反知性主義」呼ばわりされた人(被害者)だ
被害者の主観的には「賢しげなリベラルが知性を振りかざして馬鹿にしてきた。」と映るだろうし、実際にそのとおりだろう。
よほど奇特な性格でもない限り、馬鹿にしてきた相手には反感持つのが人間というもの
被害者は多かれ少なかれ「知性主義者」への反感を植え付けられてしまう。