はてなキーワード: 地の文とは
NHK含めてキャッチーな部分だけ切り取ってテレビメディアが報じてるせいで橋下徹らからトンチンカンな猛バッシングを受けている錦織圭選手。
スポーツ紙報道と、海外メディアの報道を引用して、会見で語ったことの詳細を記録したい。
いくつかの報道を見た限り、錦織圭は会見で最低2回、英語と日本語で東京五輪の開催是非についての質問を受けている。
テニス錦織が五輪開催に疑問呈す「議論が必要」、大坂に同調(字幕・11日) | ロイタービデオ
https://jp.reuters.com/video/watch/idOWjpvC84GBHNVXBRO4OT0LL22251HYW
記者「大阪なおみ選手が昨日ここで、五輪を今年東京で開催すべきか葛藤を抱えていて、この問題についてもっと議論が必要だと語った。あなたはこの問題についてどう思うか」
錦織圭「ちょっと同じようなことを言うが、私はIOCや日本側の内部で何が起こっているのか、何も知らない。彼らが何を考えているのか、彼らが(五輪対策の切り札としている)バブルをどのように作っていくか、どの程度考えているのかわからない。というのも、これはこの(イタリアの)トーナメントみたいな100人規模ではなく、選手村に1万人規模が集まり、複数のトーナメントが行われるからだ。だから簡単なことではないと思う。特に今の日本の状況では。日本の状況は良くない。日本だけじゃなく世界中のことを考えなければならない。
選手に限って言えば、うまくバブルを作れば大会はできるかもしれないが、それでもリスクは残る。選手村で100人、1000人の感染者が出るかもしれない。コロナは簡単に広がったから。だから私はなおみと同じことを言うよ。どうしたら安全にプレーできるのか、よく議論しなければならない。」
また、上記英語回答とは違う切り口で日本語で語った内容は日刊スポーツの丁寧に錦織の心情を考慮しながら書かれた記事でいくつか確認できる。
錦織圭、五輪に疑問「死人が出てまでも行われることではない」昨年感染経験 - テニス - 東京オリンピック2020 : 日刊スポーツ
https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/tennis/news/202105100001105.html
(抜粋)
錦織は会見で何度も言葉を選び、「こういう風にやるよと表明してくれれば、具体的な意見も言える」(中略)「例えば」と前置きをし「死者がこれだけ出ていることを考えれば、死人が出てまでも行われることではない」と、疑問を投げかけた。
「アスリートのことを考えれば、できた方がいい」。だが、あまりにも感染対策への情報が少ないことを訴えた。「どういう話し合いが行われ、どんなバブルが取られるのかもよく分からない」。だから、前日9日に大坂なおみが言ったように「早く議論をして、判断した方がいい」と、大坂に賛同した。
五輪が開催されれば「出ないという選択肢は難しい」と、自身の立場も理解する。(中略)それでも、本音は「コロナの患者が出ない時にやるべきかなとは思う」と強調した。
錦織圭、コロナ禍に揺れる東京五輪は「死人が出ても行われることではないと思う」 : スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20210510-OHT1T51171.html
「究極を言えば、1人でも感染者が出るならあんまり、気は進まないですけどね。例えばだけど、死人が出ても行われることではないと思うので。究極的には、一人もコロナ患者が出ない時にやるべきかなと思いますけどね」
錦織は、100人規模のテニスのツアー大会でも1大会中に数人は感染者が出たりするのに数万人規模の五輪で感染者を出さずにいられるのか、感染対策のバブル方式は複数競技の同時開催の五輪で上手くいくのか、具体的な内容で選手に届く情報発信をしてほしいと訴えている。未だに観客数をどうするのかも決まってないくらい具体的な対策内容が届いてない状況だからこそ「気が進まない」状態になっているということだ。
それをNHKが代表だがテレビメディアは前半の五輪組織委への具体的な提言などを地の文で流して映像ではキャッチーな「1人でもコロナ患者が出ない時にやるべき」という部分だけ放送して、五輪出場に気が進まないという気持ちが先にあるかのように切り取り演出されている。
錦織圭 東京五輪・パラ「1人でも感染者出るなら気が進まず」 | オリンピック・パラリンピック 競技・選手 | NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210511/k10013024931000.html
TwitterやPixivなどで腐向け一次・二次創作小説を日々拝読しているのですが、もちろん大人なのでエロ描写を含むものを好んで嗜んでいるわけで……。そんな中たまにここちん(心のちんちんの意)が途中で萎えてしまうような、普通の言葉で言えば興奮が一気に醒めるような作品に出会うこともあるわけです。
このここちん中折れ状態に至るには自分の場合「シチュエーションに萌えない」「お互いへの想いの描写が足りない」などといった本質的な理由よりも「日本語がおかしい」みたいな些細な理由が多く、今後の自分への戒めも兼ねてここに列挙しておこうと思います。小説書かないけど。
「考えれる原因は3つ」
もはや説明は要らないと思う「ら抜き言葉」・・・普段喋っている時には全然OKだと思うけど、いざ小説内の地の文で使われると即萎えてしまう…。キャラクターの口調などによってはら抜きの方が合うなぁというケースも多く、会話文やセリフではそんなに気にならないけど、地の文で使われると違和感が凄まじい。”ら抜き”を使わなくて済むような違う言い回しにしてくれないかなと思ってしまう。ただし「”ら抜き”が標準である方言を使用する地域」というものが多数存在するらしく・・・うーん。
「まだ試合には出せれないな」
「指一本すら動かせれなかった」
「れ足し言葉」という呼び方は私が勝手に言ってるだけなのであまり気にしないで。具体的には不必要なれが挟まってくる感じです。上記の例だと正解は出せない、表せない、動かせない。結構いるんだこれが。
「そうゆう言い方は卑怯だ」
大昔から言われてるのにまだユーザーがあまりにも多い。ご存じの通り「そういった」「そのような」みたいな意味の「そういう」の砕けた言い方なんだけど、この「そうゆう」を使うだけで受けちゃんだか攻めちゃんだかのIQが50ぐらい下がって見えてしまう…。実際に会話してる時はいいけど、文章上で「そうゆう」はほんとないわ…。
一度の間違いなら「タイプミスよね」と温かい目で見ることができるけど、延々同じ間違いを繰り返していると「地名や人名すらちゃんと覚えてないなんて作品愛が足りなくない?!」と萎えてしまうやつ。舞台が日本や漢字圏だとあまり発生しないタイプだけど、カタカナの固有名詞ベースの作品では結構な割合で発生しているように思う。
多いのが「グ」がつく名称を「ク」、「ド」がつく名称を「ト」で間違っているやつ。ハグリット、グットマン、ガラハット、ゲイボルク、ゴットストライク、ジャレット、ブラックドック、モードレットなど。
他にも「ヴ」を「ブ」と書いていたり、半濁点と濁点を間違えていたり(バイコーンをパイコーン、など)、固有名詞の中で文字の順番を間違えていたり(ガタノソアをガタソノア、など)。お名前はちゃんと確認しようぜ!
「今まで気ずかれないように必死で隠してきた」
「経験を一つづつ積み重ねて来た」
「近づく」「気づく」「一つずつ」が正解(※一つづつ、については歴史的仮名遣いとしては正解らしいけども)。なんとなく、カクッと膝の力が抜けるような気持ちになりませんか。
「彼のbikeの心地よいsoundが忘れられなかった」
「学校に戻ったがgroundには誰の姿もない」
こういうタイプはむちゃくちゃレアケースで、今まで2回ぐらいしか遭遇したことがないのですが、恐ろしいことに実在します。すぐ読むのやめたよね。なんかこっちが恥ずかしくなっちゃって。
「結局それを手に入れることはできなく、後悔が残った。」
「反対する者は不思議といず、あっさりと決定された。」
「〜できなく」からは幼稚な印象を受けてしまう。かと言って後者のようにむやみに「ず」に置き換えるのも珍妙な印象を生んでしまう場合があって、ケースバイケースで考えないといけないから難しいなぁ。「いず」は「おらず」に置き換えるのがベターだと思います。
また何か見つけたらまとめます。
昨日追っかけてる小説家の新刊が発売されたから早速読んだんだけど、小説の作者がネットミームに浸りすぎてるのがちょっと嫌になってきた。
その人は生粋のツイッタラーで、ツイート内でオタク構文も語彙もよく使うしたまにバズってるし、ファンの多くもおそらくそういうのが好きなんだと思う。フォロワーも多いし。
でも何というか作品までネットミーム系の単語が侵食してるのってどうなんだよ。
別にインターネットとかツイッターに精通してる訳じゃない(多分)キャラの台詞、それどころか三人称の地の文とかでも結構な頻度で出てくる。
それがパンピにも受けると思ってわざとやってるのか? それともインターネットに浸かりすぎてミームだと思ってすらいないのか?
ちょっと前、服屋の店員に「戒め」ってオタク語彙と気づかず使って驚かれた漫画が回ってきたけどそんな感じがするんだよ。
単語ならまだ対策できるだろうけどそれ以外の部分、例えば比喩がインターネット臭いってのはもうどうしようもないんだろうな。ここら辺は自分でも何を基準にしてるか曖昧だけど具体的にこの文がってのはある。
会話の掛け合いとかも全部そう。なんか複数人の対話でも一人で喋ってるみたいに見える。自分の発言に対して括弧つかってセルフツッコミするやつの弊害なんだろどうせ。芸人コンビじゃないんだからいつでもベストな返し出すなんて無理だろ。
増田諸兄はAI Dungeonというゲームをご存知だろうか。
テキストベースのRPGで、AIに対して対話形式で物語を作って遊ぶ基本プレイ無料のゲームである。
「DO(~する)」「SAY(~と言う)」「STORY(地の文含めて物語を1から書く)」などを使うことで、AIがこちらが書いた内容に応じて次の展開を示してくれる。
形式としてはAIを相手にTRPGをするというか、AIとリレー小説を書くような感覚に近い。
残念ながら対応言語は英語のみだが、日頃からこの場で高尚かつ熱い議論を交わしている増田諸兄は中学英語レベルなら余裕で使いこなせるだろう。
本当になんでもできる。英語で書ければだが。
剣と魔法のファンタジー世界で銃をぶっ放して遊ぶこともできるし、個人で楽しむ範囲なら、再現した版権世界に異世界転生することもできる。
NSFWな遊び方ももちろんできる。というか自分はもっぱらその使い方ばかりしている。
では実際にどうやって遊ぶか、軽く実例をお示ししよう。
まずはサイトに登録し、Homeから「NEW GAME」をクリック。
すると色々出てくるので、わかりやすいシナリオ群である「PROMPTS」から、「Fantasy」、続けて「Knight」をクリック。
すると、
You are Masuda, a knight living in the kingdom of Larion. You have a steel longsword and a wooden shield. You are on a quest to defeat the evil dragon of Larion. You've heard he lives up at the north of the kingdom. You set on the path to defeat him and walk into a dark forest. As you enter the forest you see a ogre.
こんなのが出てくる。
しかし同じことをした諸兄は全く違う文章が出力されているだろう。
それもそのはず、AI Dungeonは遊ぶたびに異なる物語を提供してくれるからだ。
なので同じシナリオでも、進め方次第で全く異なる結末を迎えることがよくある。
このシナリオでは騎士の増田がドラゴン退治に向かったらオーガに出会ったようだ。
せっかくなので倒してみよう。
>you slay ogre
You defeat the ogre with your sword, but as you go to loot his body you are engulfed in flames. You have awoken in Hell.
あっさり倒せたが、戦利品を得ようとするとなぜか急に地獄に飛ばされた。
思っていたのと違うのでやり直そう。
>you slay ogre
You run forward and slay the ogre with a mighty swing of your sword. Ogre blood spills out on to the ground and you continue. Suddenly you hear a roar.
全く違う展開になった。
もっと違う展開を見るため、一度やり直してみる。
因みに戻しすぎた場合は「REDO」で同じ文章が再展開されるし、「RESTORE」でなかったことにした文を引っ張り出すこともできる。
ここさえなんとかなればなぁ~という惜しい文章は、直接「EDIT」で自分好みに変えてしまうのもいいだろう。
You are Masuda, a knight living in the kingdom of Larion. You have a steel longsword and a wooden shield. You are on a quest to defeat the evil dragon of Larion. You've heard he lives up at the north of the kingdom. You set on the path to defeat him and walk into a dark forest. As you enter the forest you see a ogre.
「SAY」モードで「Excuse me, do you know where the dragon is?」とでも書いたらどうなるだろうか。
>You say "Excuse me, do you know where the dragon is?"
The ogre looks at you and says "The dragon? He is in the next cave!"
さっき殺したのが申し訳なくなるくらいフレンドリーに答えてもらった。
相手はかなりの頻度でこちらを殺しにかかってくるので何度かRETRYしたが。
では「Story」モードでは何ができるだろうか。同様の手順で文を戻し、こんな感じに入力してみる。
「The ogre is bathing in the river. She may be around your age, and she reveals her muscular but feminine body under the sun.」
You are Masuda, a knight living in the kingdom of Larion. You have a steel longsword and a wooden shield. You are on a quest to defeat the evil dragon of Larion. You've heard he lives up at the north of the kingdom. You set on the path to defeat him and walk into a dark forest. As you enter the forest you see a ogre.
The ogre is bathing in the river. She may be around your age, and she reveals her muscular but feminine body under the sun. She has a large bosoms and butts and her skin is a light green. She has long black hair and she is rubbing it with a white cotton rag. The ogre turns to you and gasp in surprise.
このゲームがいかに素晴らしいか、諸兄にお分かりいただけただろうか。
私が冒頭に述べた「英語で書ければ何でもできる」とはまさにこのことだ。
誰もが冒頭の展開からでっぷり太った醜いオーガと遭遇する場面を想像しただろうが、このように書いてしまえば乳と尻のデカいマッチョ亜人美女とのラッキースケベ現場に早変わりである。
もちろんこんなのは序の口で、ある種の英単語さえ知っていればそれはもうあんなことからこんなことまで自由自在だ。
そろそろ諸兄もAI Dungeonをプレイ(意味深)したくなってきたのではないだろうか。
さて、増田諸兄にAI Dungeonの素晴らしさを伝えたところで、諸兄らがぶち当たりそうな問題点について補足する。
もちろん他の疑問があれば、可能な限り追記して返答しようと思うので、気兼ねなくご質問をお願いしたい。
そもそもテキストベースのゲームなのでコピペで直ぐに翻訳できる。
AIも賢いので多少文法・スペルが間違っていても強引に解釈してくれる。
まあとりあえず遊んでみよう。話はそれから。
ページの右上タブから「Setting」に移動し、「Safe mode」を設定しよう。
「OFF」でNSFW展開を許可し、「STRICT」で完全に除外することができる。
試していないので不明だが「MODERATE」で中間程度だろう。
AIは語った内容を結構な頻度で忘れるため、登場人物の容姿や持ち物がコロコロ変わってしまうことがある。
そういうときは「PIN」や「World Information」に忘れさせたくない情報を記載すると良いだろう。
「PIN」は常にAIが覚えてくれるが、1000字以内という縛りがある。
「World Information」は特定の単語にのみ反応して情報を思い出してくれるが、多くの情報を入れることができる。
状況に応じて使い分けるといいだろう。
これは無課金で遊んでいるとどうしても出てくる最大の不満点である。
もちろんAI Dungeonは画期的なゲームだが、何度も遊んでいると同じような展開ばかりになってしまうことがある。
これはプレイヤー側の入力が偏っている可能性があることも一因だが、それ以上に大きいのは、AIにも出せる限界がある、ということだ。
無課金で利用できるAIは「GRIFFIN」と呼ばれる一段下のモデルであり、課金することで「DRAGON」という最上位AIの一部・または全部を使うことができる。
DRAGONモデルは驚くほど自然、かつクリエイティブで多彩なシナリオを展開してくれる。上記の例文もDRAGONモデルが生成したものだ。
課金することで「SCALE」というゲーム内通貨を入手でき、これを使って特定のプリセットワールドを購入することもできる。
フルパワーのAI Dungeonを遊び倒したい諸兄はぜひサブスクライブしよう。
サブスクライブしたら「Setting」から「AI Model」を変更することを忘れないように。
ぼくのマンガ紹介見てると
冷えたビールに枝豆におでんをありがたがる異世界人ってのが俺には感動ポルノにみえてね…
ぼく、「世界で評価された日本文化」みたいなのはそんなに嫌いじゃないんだけども、「異世界に現代の日本文化持っていったらすっごく評価された」っていうのは大嫌いなんですよ…
なんか、フィクションとしても底が浅いし、料理を扱うマンガとしても知識が狭い。
だからさぁ…読んで何になるのかな?
逆に「世界で評価される日本」系はそこに歴史的社会的な背景があるから
「これ世界では当たり前じゃないのね」
「そういう事があったのね」
みたいなのがあるけど、異世界にありふれた日本文化持っていって俺すげーはさ…よっぽど、現地の文化的背景描かないとキモいぞ。
描いてない人多いけどね
昼飯の流儀もぼくはあんまり好きじゃないけど…これはテレビが苦手な人と同じ文法なのかな…と思う。
結論:「CP名書くのがルール」って言ってる人がいて論争になってて一見どっちもただしいんだけど書く側になってみたらそんなルールねえよでおわった
まずCP名ってのはつっこんでる際にどっちがどっちにつっこむかを右左まちがえずに書く行為
右左を間違えると地雷(食物アレルギーにおけるアレルゲン摂取のような反応を地雷という)で死ぬ人がいるので左右誤記は完全アウト、これは常識になってきた
CP名を書かないのはどうか?現状だれもつっこんでない場合はアレルギー要素がないので問題がないはず
とはいえ、モブにつっこんだりつっこまれたり、おもちゃにつっこんだりつっこまれたり、
この場合はやはりつっこみ行為を厳密に判定してCP名を書くべきである、とはいえ後述の理由で書かない人もいるだろう
もうすこしつきつめると、
本当にくそ重感情があっても行動(地の文にあるもの)としては自慰のときに名前を呼ぶ程度だったとかはどうか?
現代社会における恋愛にはいろいろなアレンジやバリエーションがある。自慰なんか健全な発育の範囲内だろ。
手をつないでチューするかそれ以前という高校生なみの作品、自慰のときに相手を妄想しておなねたに使う、このへんはどうか?
これは本来はCP名を書かないほうが正しいのかもしれないし、将来的に恋愛成就して左右だのリバだのポジションが決まるのならその将来のためにタグをつけておくのが正しいのかもしれない。
丁寧な人は「こちらA✕Bを製造している工場で製造しておりますがつっこみ行為は一切ありません」等という注意書きをつけてくれるがこれはサービスであるし続編かいていたら急に方針変更したくなるかもしれないし正解がないので安全側としてはつっこみとつっこまれが決まるまでCP名かかない、はマナーとしてほぼ正しい
そもそもCP名を書いてタグをつける行為ってのはその雰囲気の恋愛ものを探してる人にむけて釣り針を下ろす売名行為なのである
CP名タグつけりゃ1000閲覧で30ブクマ行く作品に、あえて作品腐タグしかつけないと18閲覧の0ブクマしかない
それがCP界隈の現状なのである だからCP名つけないのは謙虚な選択
そしてつっこんでないから、未分化だからといって左右逆転CP名を両方つけるとどうなるか
「どちらか片方が好きだがもう片方が地雷でミュートやマイナス検索をしてる人」(ものすごく多い)には見えなくなる。
そしてもっとわるいことに「つっこみ関係が左右に関係なく苦手な、この作品が本来とどくべき読者層」にも届かない。自己防衛のためにミュートしてる人が多いからもうほぼ絶対にとどかないわけだ。
だからこそCPタグ着けない「作品腐」とか「A+B」とかいうマイナ―傾向をもつ読者のための固定カテゴリの創出の工夫が各作品でもとめられているのであるが?
この現状の中で「cp書くのがルール」だなんてよくいえるなってことだ
見られないという最悪のリスクをおってでも
本来とどけたい人に届くためにCP名を書かない選択をしている人の作品を
「cp名ついてないじゃないですか、ついてたらミュートできたのに」って文句をいう行為is何?
じゃあ見るなよとしか
これは「つっこんだことを匂わせられた」と訴える被害妄想であるといわざるをえない
もうね、そこまでいうなら他人を信頼しすぎるな、見に行くな、自分で好きなように書け
「好きな作家だからタグがなくても見に行った」?なら好きな作家の製作意欲なくさないために文句いうな、おのこしせず食べるかそっ閉じしろ
ただし滅多にないことだが、エグいつっこみ行為(いわゆるズコバコ)があっても「cpで売名する気はいっさいないから」だの「ネタバレになる」だのというわけのわからん理由でcp表記しない(あるいは通常とちがうcp名で表記して他人の編集をうけつけない設定にしておく)といった非常に変わった人も創作神の中には居られると伝え聞く。(自分の作品は唯一無二の至高だからタグをオリジナルでつくって自分一人で独占したいとかいうタイプのアホも聞いたことある。個人サイトでやれよ)
これはたしかに「作品をとおした交流サイトの秩序」という点では乱しているので避けるのがむずかいし「おいおいこの内容ならcp名書くのがルールだろぉ」くらいの文句はいいたくもなるかな~とは思う。
つまり必須タグを敢えてつけないことで軽度なタグ荒らし行為が発生する場合もあるだろうとは思う。
しかし実際にそういうことをする人に同ジャンルで会ったことはない、と思う。偏屈な理由で偏屈なことをする人がいるといくらいい作品を投下していても偏屈さが目に入るたびに疲れていくのでアンフォローや何ならブロックする習慣が私にはある。だから存在を忘れてるだけかもしれないのだが。
もしあるのなら、作家の雰囲気とか感想コメントで前もってつかんでおいて神回避するしかないだろうな。
あと最初に踏んだ人が親切で「cpタグつけたほうが有名になるしミュートにもつかえるんだからつけりゃいいのに」ってやってくれるのを期待するか自分でやるしかない。
結局そこまでして探し当てたものに文句いって、おまえは一体なにがみたかったんや、という話にはなるとおもうわ。
みんなでつくろうたのしい秩序
おわり
追記、
一方で「自分の作品にCP名やシチュをちゃんと表記するとネタバレになりそうでイヤだな~」と思っている書く側のド素人さんにちょっと助言。
ネタバレってあんたさ、原作よんで原作ネタバレ知ってる客だけにきてもらいたがってるくせによくいう。
そんなにネタがかくしておきたきゃ全部の設定自分でつくるオリジナルでやったほうがいいってわかってるでしょ。
筆力がいまいちでびっくり仕掛けしか売りがないとかも二次ではそんなに特別なことではない。
むしろある程度積極的にネタバレしたほうが「この二次創作者はどう楽しんでほしいのか」が把握しやすくて宣伝になる。
あと本当に救いのないエンドをしようとしてるなら知らせるのもマナーだと思う。
意外とみんな好きだし理解あるみたいだぞメリバ。
つくってどんどん開示してみれば「こういううす暗いのも好き」っていってくれる人に出会えるとおもう。
とにかくみんなでわいわいと楽しもうとしているときにへんなわけへだてを自分でつくりすぎるのはよくない。
昔の個人サイトでは、わざと入り口をわからなくしたりわかりにくい入室パスワードかけたりとかいう内輪の楽しみ方があったけど(ちなみにそれは明日高校の同級生に「ねえねえサイト読みたいからパスワードおしえてよ!」って声をかけられることでリアルで友達になれるから敢えてやっているのであって。学校でおしゃべりだらだらやってられないコロナ令和の人がやっても意味がないぞ。自分から壁をつくってるだけだ。)、
そういうのやるやつに限ってたいした作品はおいてなかったからね。俺は詳しいんだ。
今は個人サイトって時代でもないから親しみやすくおもしろい自分ってやつをどんどんむき出しにしてこうな、適切なタグつけて。
あとこれは当然のようにピっクブの仕様を下敷きにしている。
他にも二次創作交流サービスはあってpictBLandとかいいぞ。
あとR18文章にワンクッションだのパスかけたければプライベッター、R18のどぎつ絵のほうでやるときはポイピク、タイムラインに流したくないだけのネタバレ早バレ感想程度ならふせったー、匿名感想募集やおくりつけるときはましゅまろ、このくらいは適宜つかいわけていこうな
他にも頒布物の奥付にパスワードのせておまけファイルダウンロードとかいろいろやり口はあるからなんなら聞いてくれ
自分で工夫して適切に住み分けような、おじさん(蔑称ではない)とのやくそくだぞ
ルールだと騒ぎ立てるのも、それを否定しながら秩序やマナーと言葉を緩めて縛ろうとするのもやってることは大差ないように見えるけど。究極「何でも許せる人のみ」とするしか
せやで、書くがわはどうしたら自分の作品を読んでほしい人にとどくかをタグだのタイトルだのつかって自由に実験していいっつってるの(その結果読んでもらえなくても自己責任だしユーザーと作品の出会いがスムーズにすすむことが秩序だからね。別に俺が書く側を言葉で縛ろうなんていっていないよね、アドバイスはしてるけど)
う~ん
「」でセリフが並んでいる時、二人ないしは複数の人物が会話している事を想像できない人が居るのだろうか
そこに地の文で都度詳細に説明を入れると、ことさら読みにくい文章に感じるのだが、動画世代には文章を読み解く力が欠如していると言われて久しいが、その現れとして、誰が言ったセリフなのかはっきりと書いていないと、その場面が頭に描けないらしい
「だからさ、俺も悪かった、でもさ、だからといっていきなり殴ることはないだろう」
「ふざけるなよ、お前のせいで、こっちは女に余計な誤解を受ける羽目になったんだぞ!」
「それは電話で謝ったじゃないか、なのに会ってそうそう殴るとか、ないわ~」
「それくらいで済んで良かったろ、俺は女にビンタ食らって、フラレたんだぞ!」
「まぁ、まぁ、2人とも、漫才はそれくらいにして、ご飯行こうよ」
『漫才じゃねぇ~』
さて、現場には人が何人居たでしょう?
「だからさ、俺も悪かった、でもさ、だからといっていきなり殴ることはないだろう」
A男はB助に殴られた左頬をさすりながら情けない声をあげる
「ふざけるなよ、お前のせいで、こっちは女に余計な誤解を受ける羽目になったんだぞ!」
「それは電話で謝ったじゃないか、なのに会ってそうそう殴るとか、ないわ~」
「それくらいで済んで良かったろ、俺は女にビンタ食らって、フラレたんだぞ!」
A男とB助はつかみ合いながらグダグダ始めた
「まぁ、まぁ、2人とも、漫才はそれくらいにして、ご飯行こうよ」
『漫才じゃねぇ~』
一緒に食事に行く約束をしていたC郎が見かねてつっこみをいれると、A男とB助は見事なハモリで答えた
あれ?説明文あってもさほど読み難くはないか、くどい気はするけど
たとえばここにパンティーがあって、
ある人は「定価500円ぐらいの安物。勝負下着には出来ない」
ある人は「服をちゃんとしまわない人類はゴミだと教えたはずだろう」
とそれぞれによって物の見え方が違うわけだが、どうも多くの創作物はそれをセリフの範囲まででしか表現できてねえ感じがするんだよなあ。
地の文の目線の高さや分解能がどの人物にフォーカスしてる場合だろうと同じっていうかさ。
人によって世の中の見え方って全然違って、それこそ宗教家にとっては自分のとこの御神体は神々しいしけど他の宗教のものに関してはそういう感情は別に抱かないわけじゃん。
そういった違いをちゃんと表現してる作品が読みたいんだが中々引き当てられねえ。
オムニバス形式になってて、キャラクターごとに世界を視るレンズを換えていってる作品、もちろん名作。
この条件でなんか知らん?
教えたがりでしょ君等。
フルボイスというのは、作り手として誠実な作り方であることに変わりはない。
だが、ボイスを全部聞くのが必ずしも読み手としての誠実な姿であるとは限らない。
その理由を述べる。
その類のゲームに慣れ親しんだ人なら言われるまでもなく分かることだ。
このキャラはどんな喋り方をするのか。そういう概念モデルが、製作者の頭の中、声優の頭の中、プレイヤーの頭の中に順番に出来ていく。
読み手にとってその学習をするための最高の教材がフルボイステキストなのだ。
そりゃ一貫してボイスを全部聞く態度であれば、声優さんは喜ぶだろう。一言一句逃さず聞くオタクの愛ある姿勢は称賛に値する。
「流れ」が変わる、例えば強烈な感情を吐露する場面では、ボイスを聞かない人はまずいないだろう。
人間は賢い。未学習の領域だと察知すると、ちゃんと学習しようとする。
反対に、日常会話ではどのような話し方をするか、のような部分については早々に概念モデルが固まっているものだ。
このキャラでこの声優さんならこういう感じで喋ってるはず――と実際スキップせずに聞いてみる。自分が想像したものとかなり近いはずだ。
そういう経験を繰り返すと、テキストスピードを最速にして、冒頭の台詞が流れ始めたあたりで「ああ把握したもうスキップしよう」とクリックするようになる。
日常会話のように見えて、微妙なニュアンスが宿るような印象を地の文から受けると、指は止まるだろう。
こうした1ページスキップができるのは、人間に備わったすばらしい適応能力だ。
もちろんこれが行き過ぎて、何でもかんでもスキップしてしまうようになると寂しいものだし、もはや文章すら読まず絵だけ見る、ゲームパートだけ遊ぶという態度の人間を見るとけしからんと叱りたくもなる(抜きゲー等は別として)。
だが、ノベルパートでスキップを活用する大半の人間はそうではない。高度な適応の結果としていい塩梅でスキップしていると思われる。
そういう自分が持つ能力を信じない、疑り深い人が、時間のロスをも厭わず、それをむしろポジティブに「浸る」時間のように捉えて、最後まで聞き切るのだろう。
もう少し柔軟な人もいるだろう。自分の好きな声質、好きなキャラのボイスの時だけ、全部聞き切る慎重さを発揮する人もいる。これくらいになるとだいぶ多くの人が当てはまるはずだ。
しかし、全体的にスキップを併用して読むからと言ってどのキャラにも愛着がない、あるいは製作者へのリスペクトがないかのように謗られることがあるとすれば、それは想像力の欠如によるものだろう。
ましてや、下手に凝ってフルボイスで作るからテンポが悪くなるなどと作り手を責めるのは愚の骨頂である。
作り手は完全なものを用意した上で、個人個人のプレイスタイルに適した柔軟な消費ができると信じ、読み方を委ねてくれているのだ。
なんで?
裏世界ピクニックの原作が小説で、メディアの違いがあるから失敗したってのか?
ああそうだよ。
俺たちみたいな面倒くさいオタクが、いざ改変したら原作レイプだと口にするからメスを入れられないんだろ?
だからなんだよ。
それでも超えてこいよ。
オリジナルアニメは小説原作と違って映像として見せた時の面白さや、実際に発声した際のテンポを最初から考えて作れるから圧倒的に有利だよ。
小説原作はしょせんは小説っていうメディアのために作られた物語をアニメでやるから自然と作品の構成が完璧からは程遠くなる。
地の文と混ざりあった独白と、セリフと混ざりあった独白とでは受け取る側の印象が変わるのは当たり前だし、まして地の文において言葉で価値観や視点移動を説明してしまったものを映像によって再現するのは難しい。
でもやってみせろよ。
アニメ化するってのはオリジナルアニメと戦うってことなんだぞ?
言っちしまえばサッカー部のエースが草野球に助っ人するような状態だけどよ、それだってそこで負けたらサッカー部の負けってことになるんだぜ?
覚悟を決めろ。
作品の看板を背負った以上は、そのクールにおいて同じようなコンセプトのオリジナルアニメには、意地でも勝ってこい。
無理ならアニメ化なんてしてんじゃねえよ。
俺は明日からどうやって裏世界ピクニックの信者をやりゃあいんだ。
人前で口にして「俺アニメしか知らねえけどワンダーエッグプライオリティのほうが面白かったよね」と言われた、俺、キレちまうよ。
許せねえ。
なんで負けてんだよ。
私は字書きの同人女です。字書き歴1年にも満たない、弱小字書きの戯言だと思って聞いてください。お気持ち増田以下の文章です。
字書きをはじめたきっかけはぶっちゃけいうと、コロナです。コロナで自宅にいる時間が増えたことで「何か家で出来ることないかな~」と思いながらpixivで小説を読んでいた時のことでした。
(うわー、Aさんの作品めちゃくちゃいいな…自分もこんな作品作ってみたいな)と思うと同時に、(Bさんのこの話のキャラの反応、私ならこう書くのに…)という気持ちにもなりました。だったら、自分の理想の話を自分で書けばいいのでは?と、思い立ち見様見真似で1万字程度の作品を書きました(上にある作品の焼き直し、とかではなく全くオリジナルの別のテーマの話です)。
もちろん小説なんて書いたことないので、地の文が書けなくて悩んだり展開やオチなどは完全に手探りで書いた作品です。はっきり言って下手くそで拙いものでした。しかし、人生で生まれてはじめて書いた作品、愛着がわかないわけがありません。「自信はないけど、とりあえず私にもできた!」とめちゃくちゃ喜んだ記憶があります。
そして勇気出してPixivに投稿しました。閲覧が1から2になった瞬間、めちゃくちゃ嬉しかったです。この世界の誰かがよんでくれたのだと。そしていいねが1着いた瞬間はもう、今までに無いくらい嬉しかったです。
その後、書き方のコツみたいなものを段々つかみ、投稿のペースも上がってきました。書いても書いても書きたいネタが尽きません。執筆中はクスリでもキメてんのかってくらいテンション高いし、多幸感も半端ないです。こんなに楽しいことあるなんて知らなかった、なんでみんな教えてくれなかったの? と真面目に思っていました。小説書くのが最高すぎてずっとステイホームでもいいのに位に思ってました。
そしてふとあることに気づきます。同カプの方を見るとTwitterをやってる人が多いのです。私もやってみっか!と軽い気持ちで登録しました(リア垢と以前ヲタ垢を持っていたので初めてな訳ではありません)
これが悪夢の始まりですよね。私は数字の魔物に囚われました。現ジャンルは斜陽なので、すでにグループが出来上がってました。新規の私が来ても見向きもされません。まぁ、これはしょうがないです。
細々とツイッターにSSを上げたりしますが、ほとんどふぁぼはつきません。悲しいです。やっぱり頑張って書いたものだから読んでほしいじゃないですか。ここで自分の感情が変化したことに気づきます。今までは、書けるだけで幸せだったのに、Twitterを始めたことで評価が自分基準ではなく他人に受渡してしまったんですね。
数字とってる大手に嫉妬しました。好きだったはずの作品も素直に読めなくなりました。その後、やって来た新規の作品も解釈違いで読めません。自カプでワンドロが始まりました。ますます数字が見えて死ぬほど嫉妬しました。この時点ではまだ「Twitterは垢消ししてpixiv壁打ちに戻ろう」そう思っていたんです。
そして私が現在抱えてる一番のしこりの原因となった事件が起こります。
Yさんの参入です。
端的に言うと、Yさんは神字書きでした。
私と同じく、小説を書くのは初心者だと言っていました。にもかかわらずハイペースで執筆してた上、毎回萌えに溢れていて面白く、小説としての表現力も多彩でした。はじめは「やべぇ…解釈一致だ…最高だァ…」と読んでいた私も、次第に複雑な気持ちになっていました。ほぼ同時期に参入したのに、こんなに実力の差があり、私の好きをこんなに鮮やかに表現できるなんてずるい、と。
しかし、Yさんは何にもずるくありません。生まれ持ったアイディア力だったり、今までの経験だったり、読んだ作品によって培われた文章力によってYさんが生み出した作品を正々堂々提出しているのは知っています。
かなわない、と思いました。打ちのめされました。自分がどうしようもなくちっぽけな人間に見えました。同時に、私を脅かす存在になりました。
ごく一部の例外を除いて、同人なんて所詮趣味です。それなのにこの世の終わりのような気持ちになりました。
Yさんは神字書きなので、Yさんの存在に気付いた界隈もYさんをチヤホヤしだします。あっという間に人気者になりました。他人のつぶやきで「Yさんの新作うれし~」というのも何回も見ました。ワードミュートしててもすり抜けてくるので辛かったです。私は相手にされないのに…と卑屈になりました。
いやいや!嫉妬してる場合か!私も神字書きになればいいんだ!だったら作品で殴るしかねえ!と思い、私も作品を投稿し続けました。本も出しました。
感想も貰ったし、フォロワーも増えました。他人の評価が気にならいわけではありませんが、割と数字についてはどうでもよくなりました。
なんと驚くことに、なんとYさんも本を買ってくださいました。でもYさんへのなんとも筆舌しがたいどす黒い感情は消えません。
同カプはほぼ全員ミュートしてます。作品も読んでいません。これ以上第二のYさん的存在を自分の中でつくりたくないからです。
なんでこんなに自分は嫉妬深いのか。今思えば昔から頑張る基準が他人だったからなのかもしれません。
私は幼稚園児の頃から、たいそう負けず嫌いでした。かけっこに負けてよく泣きました。ピアノが幼馴染より下手なのが悔しくて悔しくて、死ぬほど練習してピアノ伴奏の座を勝ち取ったりしてました。その後、音楽畑に進んだのですが、私は勝手に全員ライバルと思い込んでいました。全員蹴落とすぞくらいの気負いでいまいた。実際、練習して練習して椅子を勝ち取っていました。つまり、自分が一番でないと気が済まなかったんですね。それを同人にも適用してしまっているのだと思います。
これからこの考え方を変えられるのか、正直分かりません。多分難しいと思います。嫉妬するのは苦しいです。かなりエネルギーを使うし、疲れます。創作のエネルギーも消耗してしまいます。
自分がYさんに嫉妬しない方法はただ一つでした。自分が作品を作ることです。小説の執筆中は自分と推しカプだけに向き合っているので、Yさんのことは考えずに済みます。今は原稿が終わって何も書いていない時期なので、蓋をしていたYさんへの感情が溢れてきて泣きたいほど苦しくなっています。なので、この文章を書きました。
この苦しい気持ちを否定したくありません。私はいつも悔しさや苦しさを力に何かに打ち込んでいました。小説を書くのは今でも楽しいです。この負のパワーをバネにもっと最高な作品を書きたいです。
元増田は良い創作、小説か...、に巡り合ったことがないのだな。例えば、作者は読者に、 "ある複雑な感情" を伝えたいためにストーリーを作り、その積み重ねを読んでもらってやっと得られるようなイメージ、そうしないと伝わらないことのためにたぶん創作するのだ。
そのために話に驚きや悲しみや怒りや笑いやいろいろなものを込めて、衝撃を与え、ときには読者を「傷つけたり」もする。傷つけるという言葉に含まれる感情は、一つではないし、単純化して分析して、どうにかなるればいいようなものではない。
もとが少女漫画とか女性向けコンテンツということだが、もし、「傷ついた !」とかそのまま直に(地の文というか、セリフ、とかそういうので直截に)書かれていたとしたら、それはあまり良い作品とはいえなかったのではないか。(もしかして、そういう話では主人公=読者は不文律になっていて、「傷つく」という概念を子供向けに説明するためにわざわざそうしてあるのかもしれないが。)
...というか、こういうことを書くあなたは、まるでそういう少女漫画か女性向けコンテンツに出てくる、ちょっと不良の、主人公を励ます不器用な登場人物のような感じだ。もちろんいいやつで、最後は主人公に選ばれる人。
ここはど田舎の村で、周辺市町村では感染者もいくらか出てはいるが、まだ村内での事例は無い。
そんな中、都会から数年前に移住してきた女性がこのコロナ禍を受け、俄然色めき立った。
ど田舎の行政担当者は知識も危機感も足りない無能揃いなので、私が皆を啓蒙し、村を救わなくてはならない、と。
・新型コロナに関する知識は全てネット経由。PCR推進派で理想は世田谷区。
・感染症や感染管理の専門家では無いが、専門家にはない独自のもののとらえ方ができると信じている。
・それら知識を根拠に、行政の対応の遅さや不十分さを指弾する。
といった塩梅で、残念ながら広範な支持は得られていない。普通に考えれば、都会から来ただけで何の専門性も無い人が
薄い知識をもとに何かを訴えた所で、そりゃ誰も耳を貸す訳がないのは当然なのだが、彼女はそうは思わない。
「村民も行政も蒙昧な田舎者かつ排他的なので私の悪口や噂話ばかり。折角のすばらしい意見を受け入れようとしない」
・一文が長く、主述関係が明快でない。
・誤字脱字を気にしない。
・「感謝」「運命」「自分らしさ」といった情緒的な言葉が多い。
そして多くのトンデモさんがそうであるように、彼女は聖戦を諦めない。
田舎の人って、限られた範囲での人間関係を生きているから、都会の人から見ると「コミュニケーション能力・経験値が低い」
と思われがちだ。しかし実際のところは「限られた人間たちと利害を調整しつつ、長年にわたって共存しなくてはならない」訳で、
水面下での攻防も含め、相手の腹を探ったり角の立たないように相手を遠ざけたりといった手練手管に長けている。
いつでも切り捨ててリセット可能な、豊富な人間関係資源に恵まれた都会人とは鍛え方が違う(まあそれが嫌で都会に出ていく
人も多いんだけどさ)。
もうちょっと言うと、日本史とか日本文学とかはぜんぜん大丈夫なんだが、西洋史とか東洋史とか、要するに外国のことを調べる学問がヤバい。
なぜかといえば非常に単純な話で、研究を進める上で必要な資料にアクセスできないからだ。
歴史学の根本は、オリジナルな資料(=一次史料)にあたることにある。一次史料には色々な形態があるわけだが、歴史上の出来事の背景とかを実証的に調べようと思ったら、公文書館にある史料を使うことが不可欠だ。
そして公文書館というのは行政機関なので、日本の国立公文書館や外務省外交史料館が東京にあるように、あるいはイギリスの国立公文書館がキューにありアメリカの国立公文書記録管理局がワシントンDCにあるように、当然ながらそれを管轄している国や地方自治体に設置されている。
コロナが2~3年で過ぎ去り、その後はすべてが元通りになるなら、その数年を耐え忍べばいい。数年が過ぎればまたヨーロッパなり世界の他の国なりに行けるようになる。当然、歴史学も元通りだ!
でも残念ながら、中東諸国の割安の航空券でヨーロッパに渡航できる日々は、もう戻ってはこないかもしれない。航空券が割高になるだけではなく、全世界的に航空産業が縮小し、これまでであれば容易にアクセスできていた史料にアクセスできなくなるかもしれない。
明治維新以降、政府が雇ったお雇い外国人たちによって、ランケに始まる近代歴史学が日本に持ち込まれた。だが初期の日本の歴史学はあまりにお粗末なものだった――現在の水準からすれば。
オリジナルな史料を見ずに、西洋人の書いた歴史書を読んでそれを日本語で紹介して論文を書き、吾は教授でございと偉そうな顔をしている。英語とフランス語とドイツ語の文献だけを読んでヨーロッパ史全体を講じるなんていう無謀なことが平気でまかり通っていた。
けれど、そのような稚拙な「論文」も必要だったのだ。日本の歴史学が独り立ちするためには。
やがて、それらの先人たちの業績を踏み台にして、きちんと史料集(=オリジナルな史料を集めてまとめた本)にあたって論文を書く人や、英仏独だけではない色々なマイナー言語を習得して研究する人が増えてくる。そして、交通技術の発展に伴って海外旅行が安価になるにつれ、国外の文書館にアクセスして論文を書く人が増え、英仏独以外の言語を学ぶ人が増え、留学して現地で学位を取る人も増え、日本の歴史学のレベルはどんどん上がっていった。
2000年代から2010年代にかけての日本の歴史学界で生み出された外国史研究のレベルの高さは誇るに値する。もはや横のものを縦にしただけではまともな論文とは見做され得ない。現地の言語を読めることが最低条件で、その上でどのようにオリジナルで面白い研究成果を積み上げるか。多くの研究者たちが競うように優れた論文や著書を生み出してきた。
留学の予定も史料収集の計画も、すべてが白紙になってしまった。
分野によって違うと思うが、外国史を学ぶ者は多くの場合修士課程か博士課程で留学をする。これは現地で史料を収集したり、現地で言葉を勉強したり、現地の研究者と触れ合ったりするきわめて重要なプロセスで、修士卒ならともかく博士号を獲ろうと思うなら避けては通れない。多くの研究者はだいたい1年から3年くらいの留学を経て、外国の歴史に興味がある若者から若手の歴史研究者へと成長する。
COVID-19直撃世代は、この留学の経験を持てない。彼らは外国史研究者として足腰を鍛える機会を奪われることになる。
2~3年でコロナ禍が終熄するなら、この世代が数年間のハンデを背負うだけで済む(たとえば、留学することなく博士課程の年限が来てしまったとか、在学を引き伸ばす羽目になり学費が余計にかかったり就職市場に参入するのが遅れたとか、せっかく学振DCを取ったのに海外調査をすることなく任期が過ぎてしまったとか、そういう悲劇が量産されることだろう――外国研究者は学振の研究費のかなりの割合を出張費に充てている)。
けれど、コロナ禍が終熄しなかったら、あるいは終熄後に海外調査のハードルがものすごく高くなってしまっていたら、日本の外国史研究は大きな打撃を受けるだろう。
そりゃ、留学終えてる組は今すぐに困るってことはない。彼らはもう現地語ペラペラだし、これまでの現地滞在で史料もたっぷり集めてるだろうから、当面はそれを消化しながら外国の研究者とオンライン会議すればいい。
でも、これから留学しようとする人たちは、現地に長期滞在して外国語能力を鍛える機会を奪われ、史料を集めることもできず、中途半端な研究能力しか持てないままに博士課程を終えざるを得ないことになる。
もちろん、先行世代よりマシな点もある。デジタルアーカイブの発展によって、従来は現地の図書館に行かないと見られなかった古書や古新聞が自宅にいながらにして読めるようになった。中には所蔵している史料をウェブで見せてくれる親切な公文書館もある。外国の雑誌だってオンラインで入手できるし、何なら研究書をkindleで読んだっていい。そういえば友達はドイツ語の学術書をkindle版で引用していた。
だから、研究の水準が明治時代に戻るということには、おそらくならない。
どのような種類の史料が必要かは、結局研究テーマに左右されるのだ。もしも「ドイツにおける日本人のイメージの歴史」を調べたかったら、古書や古新聞を徹底的に調べればそれでいい。けれど、「1960年代における西ドイツの政策決定過程」みたいなテーマを扱おうと思ったら、公文書館の史料を見なければお話にならない。
現代日本で考えてみればよくわかる。「安倍首相がメディアでどう扱われているか」と「安倍内閣の内側ではどんなふうに物事が決められているか」とでは、立論に使うべき資料が全然違う。前者は新聞やネットを見ればそれでいいが、後者は情報公開請求が必要だし、『朝日新聞』や『週刊文春』だけを見て後者を論じたら手抜きだと謗られるだろう。
そして歴史学とは「昔のことなら何でも扱う学問」であり、内部には表象を論じる研究者から外交政策を調べる研究者まで色々いるのだが、後者のような人たち――つまり、研究のために文書館史料を必要とする人たち――の研究はずいぶんやりにくくなるだろう。外国史研究において、思想史や文化史、古代史の割合が高くなるかもしれない。
(いやでも、ガチの思想史や文化史をやろうと思ったら文書館史料を見ないといけない局面も割と出てくるので、思想史なら文書館行かなくてもいいでしょ、という話にはならないんだよな……明治時代の知識人の留学先の国に出かけてその国の文書館史料使って明治期の思想についての本書いた人とかいるからな……逆にある程度昔の外交史だと関係する史料がほとんど翻刻されてたりするし……)
ネット上で読める範囲の古書や古新聞だけを史料として使って「18世紀におけるドイツ諸邦の外交」みたいな研究をまとめたとして、明治時代ならこんな多くの一次史料を使うなんて素晴らしい研究だと大絶賛され東京帝大の教授になれるかもしれない。でも現代では、研究のレベルが上がってしまった現代では、「新聞しか見てないじゃん。文書館史料使ったの? え? 使ってない? レベル低いね」と一蹴されてしまう。論文を英訳なり独訳なりして海外のジャーナルに投稿しても、それなりのレベルの雑誌からは軒並み落とされるだろう(というか、国内でも有力学術誌の査読を通過できるとは思えない)
ふんだんに文書館史料を使う質の高い研究に慣らされてしまったら、今更横のものを縦にすれば教授になれていた時代の研究水準には戻れないのだ。
ハードルを下げる?
つい去年まで史料調査のために渡航するのが当たり前で、今アラサー以上の人たちは研究水準が高かった時代を身を持って知っているのに?
コロナ禍の影響が数年で収まるのなら、業績の不足で苦しむのは直撃世代だけで済む。だが、もしもコロナ禍の後遺症が何十年も続くのであれば、外国史を研究する歴史家たちは困難な撤退戦を強いられることになるだろう。
それはより史料入手の容易なテーマへの撤退戦であるかもしれないし(政治史はハードルが高いから、表象の歴史とかを研究しよう)、より史料入手の容易な国への撤退戦であるかもしれない(○○国と比べて××国の方がデジタルアーカイブが充実してるから、○○史じゃなくて××史をやろう)。
ともかく、これまで日本の歴史学が積み上げてきた多様性は、徐々に失われていくことになるだろう。
日本の外国史研究にとって、冬の時代が迫っているのかもしれない。
まあそうは言っても史料さえどうにかなれば研究はできるので文化人類学や記述言語学よりはまだマシ。これらの学問では現地に長期間滞在して現地人の間に分け入って調査する必要があるので、現在のレベルの渡航制限が長続きすると文字通り危機に瀕する。これらの分野では伝統的に外国に関する研究が盛んで、オセアニアの島国やアフリカの奥地で調査してきた日本人が何人もいるのだ。今後、外国を舞台にした文化人類学や記述言語学は消滅し、国内を対象として細々と生き延びるほかなくなるのかもしれない……
(まあ、国内の伝統文化や方言を保存するために、一度外国の文化や言語を記述するのに使っているエネルギーを全部日本に関する研究に注ぎ込むのもアリかもしれない……でもCOVID-19で次々と伝統的なお祭りやら寄り合いやらが中止になっているし、うかつに都会の大学で修行する若手研究者が離島や山村に出かけてお年寄りのインフォーマントと接触するのもはばかられるよなぁ……)
デジタルアーカイブの発達はうながされるだろうけど、そんなに急速には進展しないだろう。それには2つの理由がある。
第1に、単純にデジタル化はすごい大変なのだ。マトモな国なら行政の作った公文書は破棄されずに何十年にもわたって保管されているのが普通で、それらすべてをデジタル化するのは労力がかかるというのは納得してもらえると思う(国だけじゃなく地方自治体にもその自治体の公文書集める公文書館があったりするからね。連邦制の国だと連邦レベル・州レベル・市レベルの文書館が別々に設置されていたり)。優先順位をつけてやっていくほかないけど(「まずは外交関係の公文書を先にデジタル化しよう。環境保護関係は後回しだ」)、優先順位の低いテーマを研究しようと思ったらそれでは困る。
第2に、困るのは外国人研究者だけで、本国の研究者はそんなに困らないのだ。
日本人がイギリスやドイツに調査に行けなくなっても、イギリス人やドイツ人の歴史家は何も困らない。彼らは渡航制限など気にせず自国にある公文書館にアクセスできる。これは日本のことを研究する日本人の歴史家にとっても同じだ。仮に外務省外交史料館から外国人研究者の姿が消えたとして、いったい日本人研究者になんの不都合があるのだろう?
(ここでは「外国人」と書いたが、厳密には、外国に拠点を置く研究者と言った方がいいだろう。日本の大学で教鞭を執っている中国人の日本史研究者はなんにも困らない。逆にうっかり日本学の専門家として英米の大学に就職しちゃった日本人研究者は大変だ。また、日本を研究する歴史家がなにも困らないというわけではない。日米関係の歴史を研究しようと思ったら当然アメリカに行かなければいけないし、国内政治だけを研究する場合であっても、日本政府の公文書管理がザルすぎるせいで重要な史料が日本じゃなくアメリカにあるみたいな状況もありえるので……)
つまり、全世界的に、自国を研究する研究者にとってはあんまり困らないが、外国を研究する研究者はめちゃくちゃ困る、という状況が訪れると思われる。外国人研究者への配慮が、果たして自国の公的施設のデジタル化への強い圧力となるだろうか? 正直疑問だ。
第1に、それ本国の研究者に何のメリットがあるの? お金を払ってやってもらうとして、その人件費は渡航費よりも安上がりだとはとても思えないんだけど……
第2に、史料の山に埋もれて色々探していく中でお目当ての史料を見つけるコツとか時代ごとの史料の特徴を見分ける目とか崩し字の読み方とかそういった歴史家としての技倆が養われるので、単純に他人に任せればよいという話ではない(「時代ごとの公文書の形式の違い」みたいなのも当然論文のテーマになるけど、これ書くためにどのくらいの史料読む必要があると思う?)。
ていうか、なんか勘違いされてるフシがあるけど、読んだ史料が全部研究に使えるわけじゃないからね。目録に面白そうな史料があったから地方の文書館に足を運んで閲覧してみたけど期待ハズレで全然使えませんでした、とか、膨大な史料の山を探しまわってようやく使えそうな史料の一群を見つけました、とか、何気なくパラパラめくってた史料の片隅にさり気なく重大なことが書いてありました、とか、そういうのあるあるなので。お目当ての史料だけ外人にコピーしてもらえばいいじゃん! なんて夢物語でしかない。
第3に、そもそも論としてなんで自分の研究のオリジナリティの源泉たる史料の入手を現地人任せにするのか。現地の文書館に通って現地人がちっとも注目してないけど重要な史料を発掘したなんてこともあるわけだけど、そんな史料を現地の研究者にコピーさせられるわけないだろ、常識的に考えて……論文で発表するまで史料の存在をひた隠しにするわ……(現地人が自力でたどり着く分には止められないけど、わざわざここにこんな重要史料がありますと教えてさしあげる必要はどこにもない)
日本史であっても一次史料が海外にある日本キリシタン史では、史料アクセスのハードルが以前から言及されていたのを思い出した。
なおアジア・アフリカの旧植民地ではそういう状況がデフォルトの模様。日本史を研究する日本人の歴史家は日本国内で研究を完結させられる余地があるけど、インドネシア史を研究するインドネシア人の歴史家がオランダに行けませんとか、インド史を研究するインド人の歴史家がイギリスに(ryとか、台湾史を研究する台湾人の歴史家が日本に(ryとか、そういうのはマジで研究に支障が出るよなあ……
そもそも論だが、「日本人が」イギリス政治史とかドイツ経済史とかを研究する意義が不明。「現地の研究者に任せる」だと何故駄目なのか?
それな! ぜひ同じことをドナルド・キーンやロナルド・ドーアやケネス・ポメランツやイアン・ニッシュやJ・ヴィクター・コシュマンやブレット・ウォーカーにも言ってきて!