はてなキーワード: 地の文とは
事件記者のパーカーは、連続殺人犯のリッキーを正義感から助けたが、恩を仇で返され殺されかけた。
再び収監されたリッキーだったが、ある日刑務所を脱走して行方不明となる。リッキーからの報復を恐れ、警察に付き添われつつ逃避行したパーカーだったが、護衛に着いてくれたスッタッグ警部補に好感を持ちはじめ……。
すごく面白い訳じゃないけど、つまらなくもない。終盤、もしリッキーが復讐に訪れたら、その時パーカーはスタッグ警部補に何をしてもらいたいと願っていたのか、その胸の内を白状するところが、人間臭くてよかった。
柴からのプロポーズを受けて、結婚するのもいいかなと思った、秋山くん。だが、自分と柴がふわっふわしていて地に足が着いていない有り様を仲間達に指摘され、自分がしっかりしないと、と決意したのだった。
進路選択を機に我に返って現実を見る、というのはあるあるだけれども、世間に歩調を合わせて妥協するのではなく、「結婚する」という目標はブレないまま、それぞれ成長していくところがよかった。
柴と秋山くんだけでなく、柴の友人のじおんくんやちえちゃん、秋山くんの悪友達も彼らなりに考えて成長し、互いに影響を与え合っている様もいい。
そして、地方のヤンキーや底辺高校生達の人生を回すスピード感がリアル。彼らは都会の大卒がアラサーで悩むような事に、高校在学中に悩み決断するんだよなぁ。
BL漫画を描くような人が、こんな感じの市井の人々にスポットを当て、「ヤンキー」という形だけでなく彼らの暮らしぶりのリアルを肯定的に描くのは意外な感じがした。
第1巻の、かなり酷すぎる性的虐めからのまさかの展開の時点では想像もつかなかった、大団円。よかったわねぇ、皆……と近所のおばちゃんの気分でほろりとしてしまった。
記念すべき第80号。飛ぶ鳥落とす勢いの人気小説家、凪良ゆう先生の作品をコミカライズ! というスペシャルな感じがあるんだけど、寄稿者の人数が今月も少なく、大丈夫なの……? と一読者の私は若干心配になるのだった。朝田ねむい先生の『スリーピングデッド』が2話分一挙公開! さもなければ雑誌がもっと薄くなってしまったよね。私は電子派だから、リアルに本の厚みに一喜一憂は出来ないのだけれども。
ちなみに、『Canna』のテイストはエロ大人しめで、青年漫画に近い感じかな。変わった作風のものが多いと思う。じっくりストーリーを楽しみたい人向け。
ではでは、作品ごとに感想を書いていくぞ。順番は掲載順。文章量があからさまに思い入れに比例してて御免。
昨今はあまりにも小説が売れないが、ストーリーを作れるのはやっぱり小説家、ということで、小説のコミカライズがお盛ん。しかし小説のコミカライズを読む度に、大体原作の方が面白いなって思う。やっぱ、漫画には漫画の、小説には小説のやり方があるんじゃないかな。
という訳で、この作品もやっぱり原作読んだ方がいいんじゃないかなという感想。私自身は凪良ゆう先生の作風が好きだけど、『積み木の恋』は未読。原作の方が好きになれそうと思った。
凪良先生の良いところは感情表現とユーモアで、ユーモアの方は台詞に出がちなのでいいとして、感情表現は地の文に出がち。しかも行間を読ませるというよりは分析的な文章なので、漫画の余白とか空気感で表現はしづらいんじゃないかなと思う。
コミカライズ担当者がまずいという訳ではない。漫画化との相性がいい原作を選んだの? と疑問に思うだけ。
現在、他誌でも凪良ゆう先生の作品が漫画化されているんだけど、そちらは近々ドラマ化される『美しい彼』で、コミカルな台詞回しが多く、少女漫画のセオリーを綺麗に踏襲しつつたまに強烈な逸脱を見せる作風で、より漫画向きな感じがする。
すごく評判のいい作品なのだが、私はつい最近(4、5号前かな)から読み出したせいで、話がさっぱりわけわかめ。最近までは悪魔Jの過去話で、現在は主人公のマコトちゃんがなんか生首持ってJの家に来たところ。
まあ、よくわかんないけど、マコトとJのどろどろの愛を楽しむ漫画なの? 今回はやばやばエロ回。Cannaの漫画っておかしな性癖のエロはあまりない感じなんだけど、本作の今回は若干アブノーマルかなぁ。最中の台詞を読んで、それ奴隷商人痴皇(@『幽遊白書』)が言ってた台詞のやつじゃん、とツッコミを入れたりなど。
ストーカー?×恋愛の美味しい所だけ味わいたいグラスハート のおっさんずラブみたいな感じ。画風がサラリーマン向け雑誌みたいだが、エロはがっつり腐女子好み。エロシーン多め。「×」というよりは「VS」が似合う関係性のようにも思ったが、受けの人は粘着されて嬉しそう。まじかよ。
第1話を掲載した後数回休むってすごいな! と、これまで読んできた漫画雑誌といえば有名少年漫画・少女漫画雑誌くらいの私は思うのだが、Cannaにはよくあることなのかもしれない。
別にBLでなくてもよくないか? と思った。まあ、こういうBLが好きな人もいるさ。
相変わらずタイトルの響きが最高だなあ、ベルガモットアンドサニーデイ! 声に出して読みたいタイトル。
働く大人女子向け漫画っぽいもだもだした恋愛もの。別にBLでなくてもよくないかという気がしないでもない。
オメガバースって、二次創作においては行きつく所まで行ったニッチな性癖感あるけど、オリジナルBLにおいてはネタの範疇に妊娠と出産も一応入る為に社会派の側面もあるよねー。ということで、これもうっすら社会派っぽい雰囲気のある作品。
とはいえ、大概のオメガバースはαとΩのやり過ぎエロとかΩの業の深さを楽しむものだとも思う。本作も社会派っぽい面はあくまでおまけかな。
イエーイ今回一番楽しみにしていましたイエーイ!! 2話ぶん一挙掲載にしても凄い分量がある。全部で80ページ越えだもんな。
ネタバレをしながら書くので、ネタバレ無しで読みたい人は読み飛ばしてください。
今年の8月末日に刊行された第一巻の続き。殺人事件に巻き込まれて理不尽な死を遂げた佐田が、マッドサイエンティスト間宮に拾われ理不尽にもゾンビにされ、これまた理不尽にも食人をして生きることになったのが、第一巻までのストーリー。
巻末辺りで、間宮が実は顔見知りだったことを佐田は思い出す、という謎めいた展開に。
今回は、佐田の記憶に結構ぼこぼこに抜けがあるのが判明しつつ、視点は佐田から間宮に移る。
これまでもっぱら佐田視点で物語が進み、佐田の人となりを読者は佐田の自己認識という形で知ってきた。ところが! 間宮の記憶に残っている佐田の人物像がとても意外。いや、表向きは佐田は昔から非の打ち所のない、ほどほど善良な人物だった。それを間宮はスクカー最底辺のひがみ根性から「偽善者」と決めつけていたのだけれど、あることがきっかけで、佐田の邪悪な一面を垣間見たのだ。
一巻までは、クレイジーな科学者間宮に翻弄されるごく普通の善良なスパダリ佐田、という構図だった。けれども一皮剥けば、間宮は科学的探求心に突き動かされていない時には案外まともな感性を持っているのに対し、佐田は無意識ながら自身の暴力性を発揮する隙を窺っているようにも見える。
理由も無しに暴力を振るわない間宮と、理由さえあれば嬉々として暴力を振る佐田。彼らは似ているようで根の部分は真逆。
佐田の仮面を剥がすと現れるのは、過去に間宮を虐めた奴らと同じような気性で、間宮が佐田に惹かれるのはストックホルム症候群のようなものに思える。お、これって同作者の『マイリトルインフェルノ』じゃん? 『マイリトルインフェルノ』のあとがきに、最初はいじめられっ子が悪魔の力を借りていじめっ子に復讐する話だったが暗くなりそうだからやめた、と書いてあったと記憶しているが、今回はそのテーマに再挑戦するということなのだろうか?
間宮と佐田の過去編にはBLなのに若干百合みを感じる。陰湿×陰湿だからかな。
感情を表情や言葉で表すのが大の苦手な間宮の、一巻までの言動の伏線は全部一巻内で回収(あーこいつ実は佐田のことかなり好きだな、と。)されたものだと思っていたが、そのなかでの特に重要な台詞や表情の一つ一つが、実は二人の過去(しかも佐田には綺麗さっぱり忘れられている)に掛かっていた、というのにはやられた。なんてすごい構成力なの……。
ここまで見てくると、間宮の佐田に対する一方的な想いが実にエモーショナルに感じられ、間宮の佐田に対する言動の一つ一つが愛らしく思えてくる。間宮が佐田の死顔を見、「……あまり変わってないな、キミは」と呟き佐田の頬を撫でるシーンにはちょっと涙が出てしまうな。一巻収録ぶんを未読な人には、変な人の変な行動にしか見えないかもしれないけど。いまだ紆余曲折の真っ最中にあり見た目にまで苦労の滲み出ている間宮が、昔のまま歪みなく順風満帆に大人になり夢も叶えた佐田に対し、羨望と嫉妬以上の眼差しを向ける、名シーンだ。
ところで、佐田が肝心の所をまるで覚えていなかったのは、何かの影響による障害にも読めるし、加害者と被害者の記憶のギャップにも読める。佐田は間宮を虐めた人ではないけれど、佐田の心根にはいじめっ子的な所があるというか。間宮が佐田のことで強烈に記憶している部分というのが、佐田にとっては他人に対する悪意を解放した部分である(佐田本人はスカッといい気分)であるから、そりゃ覚えている訳はないか。
間宮と佐田の過去と二人の関係性、そして間宮の佐田に対する想いは明らかとなった。だが、ゾンビ化が佐田に与えた影響という伏線はいまだ回収去れていない。これが今後どのようにストーリーに関係していくのか。ゾンビものの定石として佐田が人格を喪い人食いモンスター化し暴れ出すとかいう展開も予想出来る流れだし。
次回が待ち遠し過ぎる。
えっ、この漫画もう第5話なの? あらまあ! 時の経つのは早いなあぁ。そういえば、私が初めてCannaを買ったとき、ちょうどこの漫画が新連載として載っていたような記憶がある。
ハードっぽい作風と画風で、日本の漫画という由りは海外の、フランスとかの漫画っぽい雰囲気なのだが、やっぱりBLはBL。急速に恋が始まり、油液が飛んだ。(←何かの隠喩ではない。)ここまで一応事件はあったものの凄い急展開が起こった感はないのだけど、もう5話。一巻以降も続く感じかな。次号とかで終わったら、何だったのかよく分からない漫画になってしまうし。
娼館ものでかつ猫耳獣人ものという欲張りセット。連載が長く続いているのもあり、私にはさっぱりストーリーがわけわかめ。
この間まではなんか過去の話をしていなかったか? 攻めの人がどっか遠い所に行っちゃうような話では? と、前回までの話を把握していないまま今回を読んでも理解出来るはずもなく……。絵が綺麗。しかし、何故レディコミではなくBLなのだろう? という疑問もなくはなく。まあ、こういうBLが好きな人もいるさ。
イエーイ、これもすごく楽しみにしていましたイエーイ!! だが、ストーリーはそんなに進まなかったので、ネタバレのしようがない。
前回までの色々が解決も進展も後退もせず。フィーは子供時代に犯した過ちがシャングリラに及ぶことを恐れて怯え続けれており、一方アポロといえば、輝く白さのホワイト労働のはずがまさかの自身の性質によって馴染むことが出来ずに進退を考える局面に差し掛かっていた。
アポロが試情夫として正規雇用されて依頼、なかなか接点を持てないふたりは、それぞれの悩みを一人で抱え込んだまま、ひたすら悶々とし続ける。
精神的に詰みそうになったタイミングで、運良く二人きりになれたとこまでで次回を待て!
なんとも言いようがない。ただ、座裏屋蘭丸先生の描く、男子達がより集まってあーだこーだ言い合うシーンは最高だなあ、ということくらい。
絵柄がすごく綺麗なのに、背景を真っ裸で歩くフィーの超遠目に映ったおちんが白抜き修正されてしまうのが、地味に悲しい。全身クローズアップ絵では脚とかで隠し切っているのになぁ。
別にBLでなくてもいい気がするのだが、BLじゃなかったらこのモフモフが観れなかったので、BLでよかった。
つむぎの狐Ver.の口元のふにゃふにゃさと狐らしいお手々の感じが癒し。だが今回は人間姿でこってりエロ回。モフモフしっぽガードがよかった。
この作品はかなり人気があるようで、Cannaの代表作といえばこれ、みたいな扱いをされているけど、私はあんまり好きじゃないんだよなぁ。BLなんだけど、少女漫画特有のねっちりさがあるところが、あまり好みではない。そういうのが良ければ少女漫画を読むよ。しかし世間ではこれが王道綺麗めBLなのかもしれない。知らんけど。
***
個人的に、「BLなのに百合みがある」は正直な感想でありつつ褒め言葉でもある(と言いながら、私はあまり百合は好き好んでは読まないのだが)のだけど、「BLでなくてもよくないか?」は明確にdisりとして使っている。
せっかくの増田。何もしがらみのない場所なので、そりゃ忌憚のない感想をかくさ。
では今日はこの辺で。
https://www.youtube.com/watch?v=NSS-dl4Wop8
③ガウマン:ダバオに七人からの閣僚がおネンネしているってのがアホなんだよ。
⑤マフティー:我々は、現在の地球連邦政府に反省をうながすために、やむをえず攻撃をした。
⑦ケネス:おれが、奴の首を刎ねてくれる。
⑧ギギ:マフティーのやり方、正しくないよ。
⑨ハサウェイ:じゃあ、教えてくれよ。この仕組みの深さを破壊する方法を。
⑫ハサウェイ:僕は代わるよ。変えてみせるよ。
https://www.youtube.com/watch?v=MJSgeewMd_E
①ケネス:彼は、危険人物だ。地球連邦政府の秩序を乱すものだ。
③ハサウェイ:そうだね、クェス。僕は代わるよ。変えてみせるよ。
⑤ハサウェイ:来るな……!?
⑦ハサウェイ:なんとでもなるはずだ!
⑧レーン:ガンダムだと!?
⑨レーン:逃がすか!
⑩ギギ:やっちゃいなよ、そんなニセモノなんか!
⑫ハサウェイ:敵をかかえこんでいるんだ。いろいろとなっ!
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の動画配信及び見放題サービスが
■見放題配信
・Netflix https://www.netflix.com/gundamhathaway
・バンダイチャンネル https://www.b-ch.com/
・Prime Video https://www.amazon.co.jp/gp/video/storefront
フィクションをフィクションとして楽しませる普通の小説とかなら有り得ないことを書こうが面白ければそれでいい。
一方、嘘を本当にあったことして書く場合には、有り得ないことが書かれてる箇所って萎える要素でしかない。
たとえばもしも半沢直樹が小説として発表されるのではなく、主人公を視点に置いた自分語りの形式※に書き換えて「俺の身に起こったこと」という体で増田に発表しても全く伸びないだろう。実際の大企業で不正融資からの倍返しみたいな劇場型犯罪もびっくりな華麗なことはまず起きないから。
社会人としての経験に照らせば「嘘松」とブコメを残すにも値しない。したがってホッテントリに入らない。伸びない。
伸びて燃える嘘松を量産するには真偽が微妙で賛否両論を巻き起こしはてな村住民に同士討ちを起こさせるようなものでなければならないのだ。
そういうなさそうでありそうなことを書いていくためにはある程度社会に揉まれる必要があると思う。でないとたちまち露骨な虚構を書いてしまってボロが出るだろう。
ようするに、以前そこそこバズった増田にあった「たしかに俺は、父親はごく普通の石油王で母親はごく普通のCEOという平凡な家庭に生まれ、MITを主席で卒業し~」みたいなバズりそうな言葉を単純に記号のように並べただけみたいなものは駄目なのだ。人生経験か発想力のいずれかが薄っぺらい人という事実ばかりが透けて見えるから。
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※主人公以外の人間の会話文の主人公を指す認証を増田に変えて、地の文の主人公を三人称的に指してる箇所を一人称に書き換えるようなことを言っているのだが、なんかそういう意味を端的に表す言葉があった気がするけど忘れた
たとえば、次のような文があるとします。
-------
「おはよう」
彼は眠気をこらえながら言った。彼女はおかしそうに笑いながら応じる。
「おはよう。眠そうだね」
-------
「眠気をこらえながら」は「彼」の内面です。
では、今度はどうでしょう。
-------
「おはよう」
彼は眠気をこらえながら言った。彼女はその表情を面白く思いつつ、
「おはよう。眠そうだね」
-------
-------
「おはよう」
彼は眠そうに目をこすりながら言った。彼女はおかしそうに笑いながら応じる。
「おはよう。眠そうだね」
-------
「このときの彼には知る由もなかったが……」などと、
あとになって発覚した事実がいきなり入るケースです。
大枠としては上記のように捉えておけば良いでしょう。
>ただ、純粋に怠け者で、性格が悪く、無能で、人とコミュニケーションを正しく取れない人間だ。
>努力が報われるのが嫌だ。
>
>
>私は立ち上がる気もないし、他人を幸せにする気もないし、やって当然のことをめんどくさいという理由だけでやらない。
>みみっちい嫌な人間が、みみっちい嫌な人間のまま、救われて欲しい。
>
>不徳が不徳のまま肯定されて欲しい。
なろうを読めばいいよ。
日間・週間・月間・年間・累計のランキング上位を読めばいい。
なろうで受けている代物の九割九分くらいにおいて、主人公はあなたの言う「嫌な人間」だ。
そんな輩が、異世界転生の際に神様からチートをもらうとか、特殊なスキルを手に入れるとか、とにかく何か棚ぼた的にすごい力を手にする。
周囲のあらゆる存在が「噛んでこないアリ」程度にしか感じなくなるくらいの圧倒的な力だ。
で、それを得た主人公は……別に何もしない。強大な悪に立ち向かうとか、困っている他人を助けるとか、力に伴う責任を果たすとか、考えない。
ただ周りに流されて、力の一端を時折披露してしまい、それを見たヒロインどもや取り巻き連中からすごいすごいとおだてられるだけ。
力に群がる現金な(作中では描かれないけど、客観的にはそうとしか見えない)ヒロインたちを拒むのも面倒だからハーレムになる。
そんな「嫌な」主人公が、精神的には何一つ成長せず、自身を省みることもせず、もちろん自己変革もしないまま、作中では何も咎められない。
ヒロインズと太鼓持ち連中は徹底的に主人公をヨイショする。「敵」は主人公を批判することもあるけれど、当然アリが踏みつぶされるように扱われる。
さらにすごいのだと、三人称の地の文まで一緒になって主人公を持ち上げる。「主人公ちゃんは何も悪くないよー、いけないのは全部他の奴らなの」と言わんばかり。
地の文が主人公の一人称モノローグ形式の物語で、主人公の内面と作者による主人公の性格設定・他の登場人物からの主人公に対する人物評価が解離していることの何が悪いのか、ということについて追記。
これは地の文に主人公の真の性格が出ているというよりは、おそらく作者の主観(視点)が混ざっている。それが良くない。主人公視点で物語を書くならば、あくまで主人公から見た世界を書くべきだと私は思う。それは外の世界だけでなく主人公本人の内面世界を描くときも主人公の目から見た内面を描くべきだということ。
気立てのよくて親切で気の利く人間が、内心では物事や他人の言動を斜に構えた目で見て一々底意地の悪いジャッジをするだろうか? まあ、現実にはそういう人もいるかもしれないし、そういう人物像を狙って書いているならばそれはそれで構わないのだが、そうではなく、ただ視点というものに関して注意が足りないゆえに無自覚にやらかしている失敗であることが多い。
その斜に構えた視線、というのが誰のものなのかといえば、主人公ではなく作者のものである。俯瞰的な視点で人間関係をシニカルに観察することは、今現在渦中にいる人間(主人公)にはなかなかできない芸当だ。そういう、神の視点ともいうべき視点で物語を書きたいのならば、いくら書きやすくても主人公の一人称文で書くのはよして、三人称で書くべきだ。
でも、三人称文ってなんか偉そうな感じがするから、文章に親しみを持たせたくて、一人称で書いちゃうんだろうな。
それでも一人称で書きたいならどうすればいいのかというと、物語を過去のものとして、主人公が当時を振り返るかたちで書けばいいのだ。その場合、当時の自分と現在の自分で、そのとき起きた物事や他人の言動に対する感想が違ってくる。要は当時の自分と今の自分という二つの視点が入るという難しさがあるけれど、冷静な目で当時のことを分析できるという利点がある。
また、当時の自分と今の自分(地の文)の雰囲気が違っていても、おかしくはない。過去の自分はもっと世界をピュアな目で見ていたが、人生経験を積んだ今となってはだいぶ皮肉的な目線で世界を見るようになった、というのはあり得る。
たとえば、「私は優しい人間だ。何故なら私がそう思うから」というのは通用しない。他人に対して優しくない行動を繰り返していれば他人から「優しくない人」と決めつけられる。
それは現実だけではなく、創作においてもそうなのだが、現実とは違い、創作物の登場人物の性格はたいていまず最初に作者が設定する。設定がまずあって、それからその登場人物の優しさを表現する小さいエピソードの積み重ねにより、登場人物のその性格を証明してゆくのだ。
ところが、プロアマ問わずに登場人物の性格を「この人は優しい人なの。何故なら私が優しいと決めたから」とでもいうような、設定とは異なる人物像を書いて平気な作家がけっこういる。
私がとくに気になるのは、地の文が主人公の一人称モノローグになっている物語で、主人公の性格設定・他の登場人物からの主人公の人物評が地の文から読み取れる主人公の人物像と大きくかけ離れている場合である。
よくあるのが、主人公が何らかのポジティブな性格を有していると、作者も物語のその他の登場人物も認めているが、主人公のモノローグが糞ひねくれていて物事や他人を酷く意地悪で斜に構えた態度で見てはネガティブジャッジを繰り返している、というもの。
それは、根は腐れているが表面的にはいい人そうに見えるキャラクターだというのとは違っている。糞ひねくれた地の文に引き摺られるように、言動もやはり糞ひねくれており、しかし何か物語が動くポイントで形だけ良いことっぽいこと(これも深く考えてみるとなかなか怪しい)をしているだけなのだ。
物語を書くとき、登場人物の人物描写をするときというのは哲学の時間だと私は思う。優しいとは何か、意地悪であるとは何か、残酷だというのは何か。そういうことを突き詰めて考える時間だ。
と、思うんだけど、世の中には設定と実際の性格がちぐはぐの登場人物を書いて平気な作家はいくらでもいるし、そこらへんを一々つつく読者も滅多にいないので、「このキャラは優しいんです!」と言い切ったもん勝ちなのかな。
ちなみに私は、『鬼滅の刃』の竈門炭治郎の「頭が固い」という性格と、鬼舞辻無惨の身勝手ワガママな性格が、徹底的に首尾一貫としていてすごく良かったと思う。
・最強スキルの価値日本人さえ気づいてなかったのに分かった途端イキる
・転生前は無職や社畜の類だったことを悲しい過去アピールしてイキる
・名家に生まれた落ちこぼれとして人格が歪みまくっており歪んだままイキる
・オープンスケベやラッキースケベだらけでとにかくスケベでキモい
・とりあえず女は口説きにかかる
・とりあえず男にはイキりにかかる
・イキっておいて作者都合でチンケな罠にかかる
・とりあえずヒロインや太鼓持ちが拍手喝采してベッドインしたりする
・雑魚扱いされて踏みにじられたので自分が踏みにじる側に回るという低俗なマウント合戦をする
・強さからの余裕を見せているように見えて実際は人間の小ささを読者に見せてくる
・文字を書いてる!凄い!
・ヒロインがマジシコですね!
・こんな設定初めて読みましたわ!
日本語というか言語全般の話になってるかもしれないけど何で学校の先生は「本の解釈には正解がない」みたいに教えるんだろうか。問題として出してるとき正誤を出すことに対しては苦しい理由をつけるくせに、自分で読むときは自由に読みなさいとか言っちゃう。
だったら全ての場面において「文章には一定の解釈がある」と教える方がまだ筋が通ってるし合理的だと思うんだよね。
現状の教育だから、一部の人間は話し言葉もまた文章を読み上げたようなものに過ぎないから解釈には答えがないんだとか思い込んじゃって、あらゆる会話は自分に都合のいいように受け取ってしまう無敵くんになったりする。
対話を求めてどんなに問い返しても論破を志向した天邪鬼な解釈で逆ねじを食わせるばかりの人間になってしまう。また、マスクをつける意義を唱えられたら「こいつらは自分達の利権のために真実とは正反対のことを言ってる」などと妄想するような陰謀論者になったりする人が出てきちゃうんだよ。
確かに言葉の解釈が一つに定まらない状況もあるが、それだってまずセンテンスとして一義的に定まる部分があって、そこから枝分かれするように生じるようなものだ。
文学とかでよく言外の意味とか言われるようなものもあくまで本義に照らされた影の、蜃気楼にも似た不明瞭な「ふち」ようなものであって、その本義を担っている話されたり書かれたりした言葉そのものの真実性を疑ったり無秩序な解釈したりするようでは、影の見え方そのものが変わってしまう。
そもそも言語は意思伝達のためにあるのだから、あらゆる場面で無秩序の解釈をしてよいというなら何のために言語は存在するのか。
自然科学の学術書も、地の文は自然言語で構成されているからといって自由に解釈してよいという態度で読まれては用をなさなくなるのは言うまでもないし、そういう人間は何を読んでも、つまりどんな情報を与えられてもそれとは全く無関係に思考を走らせるだけなのだから小説を与えられる価値もない。材料があってもなくても同じように思考するのだから、一人で死ぬまで妄想してればいいだけだ。
なんでも自由に解釈していいと教えるのではなくて、そうでない場面もあるからそれを見極めよという、読み方の切り替えの重要さこそを教えるべき。
長編小説の序盤を読み進めるのが辛いのはSFに限らず分かるけど、話の流れをつかめたら一気に面白くなるのが有名作品に共通のことなので、序盤は流し読みでキャラの会話を追うだけでもいいから「おっ」と目線が止まるところまでとにかくページをめくりまくるのが小説読書のコツ。
難解な文章を読むのには言語能力の高さは必要だけど、ヘタクソな文章読むのには言語能力の高さは必要じゃない。というか、ヘタクソな文章なんか本当は読まなくていい。
ヘタクソな文章ってのは文章としての能力が低いので、高い言語能力があっても読み解くことは不可能。
山田悠介の初期の小説の文章なんかクソオブクソだけど、言語能力の低い若者層にはバカウケだったでしょ。
小説を読むにあたって
1.設定とシチュエーションを読む
の二つの目的が存在していて、まぁ、だいたいは入り混じってるんだけど
言語能力が低い人ほど前者を重視しがち、というか後者ができないからウエイトが前者に非常に偏る。
文章なんて大まかに意味が取れれば多少ヘタクソだろうが関係ない。
なぜなら文章の細かい文法とかねじれとかはそもそもよくわかんから深くは気にしてないから。
これがイキすぎるとどうなるかというと、匿名掲示板で一般的な「セリフだけのSS」みたいなことになる。地の文なんかいらんかったんや! 状況説明とキャラがいればそれでOK。
文章を書くという行為そのものの敗北であり、文章読むのが好きな身としては非常に原田大志ことではあるんだけど、それでも絵が描けないなりに何かを伝えたいというパッションを形にしたというところは評価でき。
Twitterで同カプ内の狭い人間関係にどっぷり浸かってると苦しくなってくる。ジャンル内でも自分の立ち位置みたいなものを感じ取って苦しくなってるんだろうな。
自分は昔ノリで書くタイプの字書きだったけど、起承転結や地の文がしっかりしてて何万字も書ける人が羨ましかった。字書きの中でも真に実力のある本当に一握りの存在が神絵師から認められてた。小説でも漫画でもない中途半端なSSしか書けない自分が苦しかったよ。
この日記の著者は、「起承転結があって地の文がしっかりしてる小説」を書くのが好きだし、そういう作風に誇りを持ってるんだなっていうのが伝わってきた。
自分ではヘタレって言ってるけど、本心からはそうは思ってない。狭いジャンル内で自己価値が見出せなくなって自信を失ってるだけ。
のどっちだと考えているんだろう?
自分の小説を「読んでも結局何が言いたいのか全くわからない」と評しているけど、この文章も「何が言いたいのか全くわからな」かった
「とにかく文章の構成が下手だ。語彙の使い方もダサい。てにをはがなっていない。一文が長すぎる。読んでも結局何が言いたいのか全くわからない」
「人様に読んでいただく文章として下の下の下」
「文章力もなく、面白みもなく、萌えもしない文章など誰が読むだろうか。」
「日常を切り取った中でもまた起承転結を付けてしまう。どうしても「物語」を書いてしまう。」
「htrのくせに伝えたいこと、書きたいもの、作風は常に一貫していた。」
「皆、物語そのものに対して興味がないのだ。読み手が読みたいのは「ほのぼのでラブラブで誰が読んでも理解できるセリフの多い日常の切り取り短文」であって、私のクソ文ではない」
「何よりも私の文はWeb二次小説との相性が悪い。読み手側は起承転結のついた物語や地の文が濃い文章など読みたくはないらしい」
「下手な文章しか書けない私が悪い」という建前の中に「私の文学的な小説を理解できないバカが悪い」という本音が紛れ込んで文章が破綻したのだとしか思えない
正しい以外の何者でもない指摘だが。実際警察は重大な事件ほどやりたがらない。下手すれば自分の出世に響くから。
これはそうだな。
「免許を取って1年以内は二人乗りできないことは知っていた。しかし重要な決まりとは思わなかった」
思わんな。田舎っていうのは基本的に免許取りにゆくために無免で車運転して教習所の駐車場に停める、みたいなやつがゴロゴロいる。悪く言えば半不良的で、よく言えば牧歌的だ。この牧歌的田舎の価値観をそのまま作品化してるだけで、注釈があればよいだけの話だ(ないのかもしれんが)。当然これを都会でやっちゃまずい。田舎だから許容されてるところがある。
この辺の文化的な特性を作品として表現しただけで、そこに咎を求めるのは見当違いだと思うが。なぜそんなに文化を窮屈にしたいのか理解できない。
アニメ『スーパーカブ』の6話で、免許取って間もない主人公・小熊がカブで二人乗りをする。
カスタムで125ccの第二原付にしているから「免許所得から1年経てば二人乗りはできる」が、
1年経っていないから違法。でもする。この描写についてネットでは
・おいおい…… というモニョり派
が喧喧諤諤。
……「という話になっている」
「という話にされようとしている」?
全然ちがうって。
「アニメをアニメとして楽しめない人は」って言ってる人、絶対読んでないだろ。
俺は読んだ。で、この描写辺りの小熊の心情描写で小熊嫌いになったというか、
「この作者の価値観は無理」と思って読むのやめた。
捨ててしまったから完璧な引用はできないけど、大体の言葉は覚えてるので書いとく。
単純に言うと、原作小説「スーパーカブ」はかなり粗が多くて、下手。
全然話を書き慣れてない人が、1つ1つのエピソードを思いつきで書いてるのが丸わかりで、真面目に読むときつい。
コミカライズやアニメで、どのように専業プロの手で整えられたのかは知らない。
ただ、小説については読んでいると状況について矛盾というか無理のある場面が多く(夏休み入って初雨とか)
かなりの作者ルールを飲んで付き合うことを作者側から要求されるという感じ。
俺はそういう小説は「まだ全然上手くないな」と思って読むやつ。
ただ「おいおいおい」「そりゃないだろ」と思ったのがこの二人乗り前後の話。
全文キャラを立てようとしてないってぐらい淡泊な筆致のわりに、
たまに解説される小熊の心情はかなり歪みや偏りが見えてキツい。
特にねずみ取りしてる警察に対して「公道で小遣稼ぎをする泥棒」みたいな唐突な心情独白があって、
しかもそれがライダー全員の共通認識みたいに書かれていて、「マジか」と思った。
俺はバイク乗ってるけど、そういう認識全くなかったので「やめてくれ」と思った。
第一ライディングの経験が浅い小熊がなんでそこまで警察を目の敵にするか
(むしろないない尽くしの少女にとっては味方側だと思うのだが)が不明で、
小熊というより作者出ちゃってるなぁ、トホホという感じだった。
で、高校の修学旅行に小熊は一人カブで向かうというたくましい話が続くのだけど、
その道中で「パンク修理すら自分でできない、情けないカブ乗り」の少年に出会う。
俺は、店のピットにお金払って作業してもらうのこそ安全と思っているので情けないとは思わないが、
小熊(淡泊で物語られないので作者、としか思えない)にとってはそうらしい。
で、小熊はパンクを修理してあげたあと、
同じカブ乗りとして親近感を覚えて近づいてきた少年のすねだか膝だかに蹴りを入れて、そのままカブで逃走。
「あんなやつがカブ乗りなんて!あんな情けないのと一括りにされたくない!」て感じで癇癪を起こしながら修学旅行先に向かう。
で、話題になってる「二人乗り」の話は、
原作だとその「自分はダサいカブ乗りとは違う」と描き切った直後、修学旅行先の宿に着いてすぐの話なのだ。
しかも、
「免許を取って1年以内は二人乗りできないことは知っていた。しかし重要な決まりとは思わなかった」
というものすごくサラッとした1行か2行かの地の文でOKになり、礼子とタンデムするのだ。
小熊ヤバいというか作者ヤバイ、さらに言うと違法を知っててケツに乗る礼子の株も下がった。
俺からすると、さっきのパンク修理できない少年の何倍もダサい。
これ成立するのか?この作者の中では?ってのが俺がこの作者無理だと思ったところ。
善なるヒロインとしてこのストーリーラインを受け入れてもらえると思ってるなら、かなり読者を選ぶ作品だなって。
ぶっちゃけ、同じバイクを愛する者?として俺は「この小説、流行って欲しくない」と思った。
チンピラ的ダブスタがチンピラ漫画で書かれるなら全然いいのだけど、
ないない尽くしからカブっていう皆に寄り添う名機を手に入れた少女が、
カブを手に入れたことで当然に迎える「美しいもの」や「成長」のエピソードとして法軽視を書いてほしくなかった。
保険金払われないから任意保険入ってる意味もなくなるし、誰も乗せなかった。
ただでさえ白眼視されやすいバイク乗りの誇りって、俺的にはそっちだと思ってたから。
変なこと言ってるとは思わない。
とまあ、そんなわけで、「小熊も、作者も、モラルはない」ってことが、
「アニメだからたぶんこの世界は法律が違う」とか「アニメに突っ込む人間ダサイ」とかじゃなくて、
堂々と「仕事してる警察は敵」で違法行為は「重要と思わないから犯す」っていう、
「重要でない要素」としてサラッと出てきたのが視聴者に「……え?」ってなってるんだって。
リアリティラインが違うヤンキー漫画やコメディ漫画につっこんでるわけじゃなくて、
カブ文化を賛美すると標榜する美少女×スローライフ作品に「当然の確信的違法」が入ったから、
ガラガラの道路で白バイとかねずみ取りとかめんどくせえなあとは思うときはあるけど
そんなとこ。
なんか「アニメをアニメとして見られない可愛そうな人」にされそうだったから、
「公式も作者も焦って、今そういうことにしようとしてんだよ」って言いたくなった。
流行ってほしくないとは思ったが、
べつにこの作品がこういうスタイルを許されずに潰れてほしいなんて思ってない。
全然違う変な結論を作り上げて、それで哀れまないでくれって感じ。
オタク同志たちがあっさり丸め込まれてるのも見てて辛いわ。おわり。
追記:
美少女×ほのぼのスローライフ、って言葉を使ったのは俺がショボかった。
俺の感想としては
純朴×スローライフ×成長譚×HONDAスーパーカブの素晴らしさがテーマっぽい作品で、
軽い気持ちで一線を超えた違法を美しいものとして書くのは困惑することで、
俺的には直前のエピソードの整合性とあわせていろいろと無理に思った、その方が正確。
それが「フィクションをフィクションとして楽しめないやつ」呼ばわりだから、
これは持ち出したコンセプトと照らしてツッコミ入れたくなるレベルだからツッコミ入ってるんだよ、
って言いたくなった。追記おわり
※追記
htr=ヘタレ
ヘッタクソな創作物しか生み出せないゴミカスのこと、下手くそ創作者の叩きスレ発祥
サイト時代を含めて約5年半。1つのカプに執着する期間としては比較的短い方かもしれないが、それでも私のオタク人生の中では最も濃くて幸せな夢を見せてもらった。良い時間だった。
海を見れば潮の匂いを浴びながら夕陽に照らされる夏の終わりの推しカプを想像した。山を見ればキャンプ飯の匂いに腹を鳴らしながらビールを煽る推しカプをそこに登場させていた。
世の中のラブソングは全て推しカプの曲に聴こえていたし、いつも2人のことばかりを考えて行動していた。
24時間365日ずっと日常の全てにカットインしてくるような推しカプだった。腐女子やカプ厨の方なら多少はご理解いただける感情かと思う。
それでも世に出した作品は30足らず。5年半という歳月から見ると相当少ない。遅筆の私は2~3ヶ月に一本新作を出すのが限界だった。どこにも出していないものを含めると100は書いたが、全て納得できずHDにしまい込んだ。
なんせhtrなのだ。ここまで読んでいただいた皆様にはバレているだろうが、とにかく文章の構成が下手だ。語彙の使い方もダサい。てにをはがなっていない。一文が長すぎる。読んでも結局何が言いたいのか全くわからない。
読み手側は起承転結のついた物語や地の文が濃い文章など読みたくはないらしい。
伸びている文、評価されている作品はみな「ほのぼの」「ラブラブ」「わかりやすいセリフが多い」「日常を切り取った2000字ほどの短文」これに気付くのに4年かかった。
私のような作風の書き手は本当に上手い人しか評価されない世界だった。
文章力もなく、面白みもなく、萌えもしない文章など誰が読むだろうか。ここ半年で作品への反応が一気に落ちた。コメントはおろか、ブクマも二桁止まりという有様。
ツイッターで作品アップの告知をしてもいいねは1つも付かない。
もちろん日常切り取り系にも挑戦してみたけれど、どう頑張って削っても8000字前後は書いてしまう(普段が数万字であることを考えるとこれでも私の中では進歩だった)。日常を切り取った中でもまた起承転結を付けてしまう。どうしても「物語」を書いてしまう。
htrのくせに伝えたいこと、書きたいもの、作風は常に一貫していた。読み手の皆様からすれば検索結果に出てくる邪魔なゴミである。
斜陽ジャンルのマイカーカプだから仕方ない……ここで書く人がいなくなったらジャンルが衰退してしまう……なんて言い訳で自分を奮い立たせながら強がって書き続けていたけれど、先日ついに心が折れた。
「普段小説とか読まないから字書きさんのページは正直飛ばしちゃうんだよね」
仲のいいフォロワーさんから出た一言だった。もちろん私が長文htr字書きであることは知っている。そして彼女は神絵師だった。
創作に携わる人間でも普段から小説を読まない人がいる。カルチャーショックだった。
ROMの方なら確かに分からなくもないのだが、産み出す側の人間でさえそうなのかと何も言葉を返せなくなってしまった。
「最後に小説を読んだのは読書感想文の課題だったかな。アニメは見るよ。漫画もたまに読む。映画?うーん、推しが出てたら……」
皆、物語そのものに対して興味がないのだ。読み手が読みたいのは「ほのぼのでラブラブで誰が読んでも理解できるセリフの多い日常の切り取り短文」であって、私のクソ文ではない。
その頃ちょうど、私はまた1つクソ長htr小説を完成させていた。自分で読み返してもわかる。これも伸びない作品だろう。
一度書き上げた作品は推敲したその翌日にアップロードするようにしていた。だけど、今回はそれができなかった。
ジャンルを離れよう。もうここで書き続けていても自分が壊れてしまうだけだ。
ツイッターにはちまちまと絵を投げていたけれどそれも全部消した。
絵も描けないわけじゃない。今まで出した本の挿絵や表紙は自分で描いてきた。そちらの道で勝負したほうが良いのではないかと何度も何度も考えた。
だけどやっぱり私は小説が好きだ。
作品の評価に拘る時間を減らして、これからは私生活を充実させていくつもりだ。
読みたかった本もたくさんある。家族との団らんを素直に楽しんで、今まで以上に仕事にも打ち込もう。幸い、職場はホワイトを極めたようなホワイト企業で仕事内容も楽しい。もちろん創作だって続けよう。
書きたいときに書きたいものだけを書いて、いつかまた活動したいジャンルが現れたときにオンでもオフでもなにか作品を出してみよう。
ジャンル移動というよりジャンル離脱と呼んだほうが正しいかもしれない。
女性向けジャンルは男性向けジャンルとは少し毛色が違い、作家ではなくジャンルに人がつく。ジャンルの切れ目が縁の切れ目である。
現ジャンルは活動者も少なく村社会化しているから、仲良くしていただいたフォロワーさんには少し申し訳ない。ただ、私のようなhtrが消えたくらいで衰退するような場所ではないだろう。
「検索するときこの人の作品が邪魔だなあ」くらいにしか思われていなかっただろうし。
今参加中のアンソロ(脱稿済)の献本が届いたらツイも支部もアカウントを消す。サイトはもう閉じた。
離脱する私が言うのも変な話だが、少しでもジャンルが長く太く息をしてくれることを願っている。これは本心だ。
こんなにもジャンル離脱に体力を奪われるものだとは思ってもいなかった。今から気が重い。いっそのこと、あの人がいなくなってよかったね、くらいに思ってもらった方が気が楽かもしれない。
それも私のわがままだな。
東京五輪のバッハ会長「誰もが犠牲」発言は翻訳ミスでは? 同じ会議で「全員の安全と安心は最優先」とも(篠原修司) - Y!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20210524-00239524/
こいつこそちゃんと原文読んでる? 「The IOC chief said everyone has to make some sacrifices」(誰もが犠牲)はインド紙の原文に最初からある。デイリーが誤訳したというのは完全に間違い。デマ検証がデマでどうすんの[あたまがわるい]
https://b.hatena.ne.jp/entry/4703073858996694690/comment/gothicgirl
インド紙の原文?とは?はて。
それバッハ会長の発言の原文でなく、The Times of Indiaの記者が書いた文(地の文)だよね。
星付けてる連中も、よく平気だな…
今年1月に超メジャージャンルAのドドドマイナーCPの1万字の話投稿して、2ブクマ4いいね。
2月に落陽ジャンルBのマイナーCPのSSまとめ投稿して、ブクマ1いいね0。
4月に落陽ジャンルCのモブ×受の本を出して、はけたのは1冊。
完全に私の心が弱いのが問題だと思うが、この低評価三連発で心がバチボコに折れてしまった。
ジャンル自体がマイナーだから数字が少ないと言い聞かせるのは簡単だが、自分の作品が下手くそだから評価されないという可能性を捨てきれない以上、「マイナーだからしょうがないじゃん」と開き直ることもできない。
「評価がほしいというのなら、もっと上手い小説を書けばよかったのではなかろうか」と自分を責めるような気持ちを止められず、心が折れると同時に一旦筆を置いてしまった。
改めて自分の心を見つめ直してみると、評価がほしいというよりかは「あなたの書く小説は下手ではない」という一言がほしいのだろうな、と思ったりする。
自分としては持てる力の全てを使っていいものを書いたつもりだ。
けれどもそれを投げてみて反応が少なければ「上手いと思っているのは自分だけで、他の人にとってはただ下手な作品として映るのだろうか」という疑いを捨てきれない。
そうなると「面白い話を上手く書きたい」という、私の書く理由に対する取り組みが全部無駄になってしまったんじゃなかろうかという気持ちまで湧いてきて、どうにも次の話が書けなくなってしまっている。
また投稿して低評価になり、自分の下手さ加減が原因かもしれない事象を直視するのが怖い。
情けない話だが、これが今どうしても筆が進まない理由なんだろう。
かといって、何も書かないままではどんどん腕が劣化していく。地の文に必要な語彙やキャラクターの性格に関する考察も頭の中からすっぽ抜けていくし、魅力的なストーリーラインも日常的にネタ出しをすることを忘れてしまった脳では描くことができなくなっていく。
創作のスキルは筋肉と同じだ。クオリティを保ちたければ走り続けるしかない。低評価を食らったぐらいで倒れていては、本当に下手くそな文章しか書けないただの人間になってしまう。
それが分かっているのに、立ち上がることができない。私の心は恐怖という得体の知れない不安に打ち倒され、地面に横たわったままソシャゲの画面を見つめている。
「一流の選手はあらゆる努力を払い速やかに立ち上がろうとする。 並の選手は少しばかり立ち上がるのが遅い。 そして、敗者はいつまでもグラウンドに横たわったままである」
私はいつでも、創作というフィールドで一流の選手でありたいと思う。実際のスキルが一流の作者には遠く及ばなかったとしても、心意気や志といったものはそうでありたいと願っている。
自分よりも上手い作品を見たときに、妬むことも嫉むことも羨むこともなく、素直に賞賛し己の足りない部分を磨く人間でありたいと思う。
だが今の私はこの言葉の区分で言えば、恐怖に負けグラウンドに横たわったままの敗者だ。
みっともないことこの上ないが、まだその恐怖にタックルする勇気が湧いてこない。横たわったままの敗者である一方で、「私も創作を始めたいから勉強する方法を教えてほしい」と言ってくれるフォロワーに自らの通った道を簡単ながら教えている。
それのなんとちぐはぐなことか。情けないことか。現役のプレイヤーでなければコーチになってはいけない道理はないが、三流の敗者が己の道を語るほど滑稽なこともなかろう。
時間を置いて心を癒せば、この上なく情熱を燃やせるような作品に出会えば、あるいは誰かから「あなたの作品は下手ではない」と保証してもらえば、私はまた恐怖に立ち向かい新しい小説を書くことができるだろうか。
でもそうしたところで勇気が湧いてくる保証はどこにもない。いつもらえるか分からない他人の言葉など、あてにするだけ愚かだ。
となると、自分の膝の上にどんと手を置いて、なんとか立ち上がるしかないのだろう。たぶん。
すりむいた傷が痛くても、それをいちいち気に留めて手当をしてくれるほど世界は優しくない。