はてなキーワード: 反知性主義とは
安倍首相が、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と憲法記念日のビデオメッセージで発言したことが、改憲論議を活発化させている。
安倍首相が改憲の焦点として挙げているのは第九条だ。また、第九十六条を改正して改正発議要件を緩和すべきという議論もある。しかし、第二条をめぐっては、天皇の退位の問題に関連して言及されることはあっても、改正すべきという議論は聞こえてこない。しかし、第二条ほど改正を必要とする条項は他にないのではないだろうか。
問題は、皇位を世襲のものとしている点だ。世襲制度の採用が合理的か否かはケースバイケースだが、現行の天皇制が世襲制度を維持することに、果たしてどんな利点があるのだろうか。むしろ弊害のほうが大きいのではないか。
本稿は、皇位の世襲制度は廃止すべきであるという立場から、この問題を論ずる。
日本国憲法第二条が定めている皇位の世襲制度には、次の二つの点で瑕疵がある。
以下、詳論する。
ワタミフードサービス、電通、ゼリア新薬、ベネッセコーポレーション、LDHのような、長時間労働の強要、洗脳、退職勧奨、暴力行為といった、社員に対する人権侵害が常態化している企業は、「ブラック企業」と称される。企業の社員とは言えないが、天皇が置かれている境遇もまた、あたかもブラック企業の社員のごとく、人権侵害が甚だしい。
天皇に対する最大の人権侵害は、職務の過酷さだ。天皇の職務が過酷だと思わない者は、所功『天皇の「まつりごと」』を読むとよい。そうすれば、天皇の仕事量がいかに膨大であるか理解できるだろう。
信教の自由を奪われていることも、天皇に対する人権侵害の一つだ。天皇が信仰を許される唯一の宗教は神道だ。明治維新までは仏教の信仰も許されていたが、それ以降、天皇が仏教に帰依することは暗黙のタブーとなっている。
天皇の職務の過酷さも、信教の自由の侵害も、その原因は世襲制度だ。天皇の職務が過酷であるのは、天皇という一人の人間に二人分の職務が課せられているからだ。すなわち、国家の機関としての天皇が果たすべき職務と、祭祀王としての天皇が果たすべき職務は、それぞれが一人分の仕事量に相当する。天皇が信教の自由を侵害されているのも、天皇が祭祀王を兼任しているからだ。
皇位の世襲制度を廃止するということは、国家の機関としての天皇と、祭祀王としての天皇との分離を意味する(後者の呼称は「天皇」以外のものに改称されることが望ましい)。天皇が二名に分離すれば、職務の過酷さの問題も、信教の自由の問題も解決する。新たな制度における国家の機関としての天皇は、宮中祭祀の重責から解放され、信教の自由も獲得するだろう。
余談だが、現行の天皇制において人権を侵害されるのは、皇嗣として生まれてきた者のみに留まらない。その者の配偶者もまた同様だ。
皇嗣の配偶者になることは自身の自由を放棄することだ。誰が喜んでそんなことをするだろう。雅子さまも、本人の意思によって浩宮さまと結婚されたわけではない。Newsweek誌は雅子さまをThe Reluctant Princess(不承不承のプリンセス)と呼んだが、この言葉は彼女の身の上に何が起こったかを的確に表現するものだ。来る悠仁さまのお后選びでは、このような悲劇が繰り返されないことを願いたい。
子供は親のクローンではない。ゆえに、鳶が鷹を生むこともあれば、逆に鷹が鳶を生むこともある。世襲制度を厳格に運用した場合、もしも生まれてきた者が鳶ならば、鳶が何らかの地位を継承することになるが、これは悲劇を生む蓋然性が高い。
次のような事例がある。
https://twitter.com/osakadenshi/status/863981952474300416
ウィキペディアによれば、この学校がこれまでに輩出した卒業生の数は3万人だそうだ。しかし、現状がこれだとすると、4万人に到達する日は永遠に来ないだろう。
この学校が急激に衰退した原因は、世襲制度だ。生まれてきた者が鷹ではなく鳶だった場合は、どこかから鷹を連れて来て禅譲すべきだった。世襲制度に拘泥した結果がこの悲劇だ。
現行の天皇制もまた、鳶が皇位に即く危険性と無縁ではない。皇位の世襲制度に固執し続けるならば、日本はいつか、鳶が天皇に即位する日を迎えるだろう。天皇が庶民の前に姿を見せる必要がなかった時代においては、鳶であろうと雀であろうと問題はなかったかもしれないが、象徴天皇制における天皇が鳶に務まるかどうかは心もとない。
皇位の世襲制度を廃止すべきという主張に対して、おそらく保守派の人々は、「万世一系の血統」乃至「皇室の伝統」というような議論を持ち出すだろう。しかし、国家の制度において血統や伝統を維持することにはいかなる合理的な必要性もない。さらに、皇室の伝統には宮中祭祀という宗教的活動が含まれているが、これは憲法第二十条に規定される政教分離に抵触しているおそれがある。
おそらく日本の国民の大多数は、皇室が保有している血統や伝統にはいかなる価値もないという主張には賛同しないだろう。ゆえに、それを維持すべきであるという主張にも一定の合理性がある。しかし、何らかの組織が血統や伝統を維持するために、それが国家の機関であることを必要とするだろうか。血統や伝統を維持している民間の組織は枚挙に遑がない。
「皇位の世襲制度を廃止するということは、国家の機関としての天皇と、祭祀王としての天皇との分離を意味する」と上で述べたが、それらが分離されたとき、それと同時に皇室は民営化されるべきだ。そうすれば、憲法第二十条に抵触することなく宮中祭祀を維持することができる。
本稿の目的は、皇位の世襲制度は廃止すべきだと主張することであり、それに代わる制度について述べることは本稿の目的ではない。しかし、世襲制度に代わる制度について、付論として筆者の見解を述べておきたい。
世襲制度に代わる制度としては、公選制度が望ましいとする意見が出されることが予想される。しかし筆者は、皇位の公選制度には反対だ。その理由は、天皇の人選には反知性主義的な見解が反映されるべきではないと考えるからだ。天皇は、今上陛下がそうであるごとく、正しい歴史認識を持つ者でなければならないが、公選制度によって選出された天皇がその条件を満たすとは考え難い。
世襲制度に代わる制度を設計する上で参考となるのは、元号の選定の制度だ。なぜなら、元号の選定もまた、反知性主義的な見解を避けなければならない制度の一つだからだ。元号は、漢文学や国文学関連の有識者が候補を考案することになっていて、決して一般公募ではない。しかし、これに対する異論は寡聞にして知らない。大多数の国民はDQN元号やキラキラ元号を望んでいないからだろう。
割れ窓理論とは、1982年にアメリカの心理学者、ジョージ・ケリングが考案した理論である。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」との考え方からこの名がある。
日本における様々な社会問題は、いじめ問題や貧困による問題などを見ていく限り、小さな問題が大きな問題につながっているケースが多い。例えば貧困の問題は、福祉システムや税金システムの不備という小さな問題が平均所得の下落を引き起こし、最終的に絶対的貧困者の生活苦や体感的貧困率の増加に繋がっている。
例えば日本の三大疾病のひとつである癌は、初期の段階で放置しているとやがて少しずつ悪化し、最終的には生命の危険に至る。だから、どこの保健機関も「癌は早期発見し早期に治療せよ」というのがスローガンになっている。
では、割れ窓理論が実際にどのように活用されてきたのか?一番有名なものはニューヨーク市の治安改善である。1980年代に治安の危機を感じた当時のニューヨーク市は軽犯罪を徹底的に取り締まることを徹底した。最初は強い反発もあったが、次第に軽犯罪の取締りの強化に伴い中規模犯罪や大規模犯罪の発生件数が減少し、現在ではニューヨーク市はアメリカでもっとも治安のよい都市に位置付けられるようになった。ニューヨーク市の成功事例を受けて、日本でも7大都市圏を中心に軽犯罪減少キャンペーンが展開され、現在は犯罪件数は毎年のように過去最少を記録するようになっている。
ブラック企業や貧困がまかり通るようになったのは、富や労働力の再分配が不十分であることが原因である。富の再分配とは、税制の改造や富裕層の自助努力によって富の一部を貧困層や中流に分け与えることを指す。すなわち、消費税のシステムを日用品や公共インフラには非課税にし、贅沢品にはなるべく高い消費税(10%程度が望ましい)を課すように改善することや、脱税の取締りの強化を行わなければならない。もちろんこれは政治家や官僚のモラルが善良であることを前提としている。
ブラック企業に関しては、人事が体力・メンタル的に仕事面で合わない人間を採用しないようにする、労働力を最適化する、長時間労働を抑制する賃金システムにするといった複雑な改善が必要になってくるだろう。それ以前にゆとり世代やさとり世代といったメンタルやモラルに欠陥のある人間に対する啓発や再教育なども必要となるが…
現在ホットな話題になっているのがまさにこれだろう。人種差別や歴史修正主義や反知性主義の台頭を野放しにしてきた結果が現在の安倍政権であり、欧米における右傾化がある。これに対しては人種差別や歴史修正主義や反知性主義に対して知識層が批判・非難し続けることで鎮圧させることが重要だ。
2017年9月8日に東京京橋のtwitter本社前におけるデモが話題になったが、まさにこれも割れ窓理論に基づく運動である。SNSにおけるヘイトスピーチに対する粛清行為は、ニューヨークの場合における軽犯罪の取り締まりに相当する。これを政治の場面でも活用すべきではないかと思う。
現在の日本人には鉄道=迷惑施設というイメージが定着しており、そのためか鉄道趣味も1990年代や2000年代に比べてかなり下火になっている。鉄道利用者のモラルの低下も叫ばれているが、この大元の問題はインフラの老朽化などにあるのではないか。
地震対策や鉄道の故障やトラブルによる定時率低下が叫ばれるようになってから、人身事故(鉄道自殺)や痴漢犯罪が社会問題化されるようになった。解りやすくいえば、安全対策や防災対策が不十分の、老朽化した鉄道車両や鉄道施設が野放しにされることにより、鉄道会社が注意を払っていないと認識した悪徳利用者が鉄道自殺や痴漢行為を引き起こしている。
この問題については、完全な結果を出すことは難しいのかもしれない。何せ日本は世界的に見ても珍しい、鉄道会社が都市企業化かつ多様化している国だ。しかし、大幅な改善は可能であろう。きちんとホームドアを設置する、監視カメラを設置する、鉄道インフラを更新する…こういった地道な努力をすればよい。
氷河期世代やゆとり世代やさとり世代の台頭以降、日本人の低能ぶりが露見する自体が多発している。学力の低下、政治意識の低下、娯楽中毒…挙げていけばきりがない。
彼らに対する対策は学力、政治意識、適度に娯楽と向き合うことの大切さや大変さを学校等で学ばせることにある。日本人は学習能力の高い人種であるといわれているので、人種性に合わせた教育を行えばよい。もちろん、違う人種に対してはその人種に合った教育法で教えさせるべきだ。
最近、ニセ科批判とネトウヨの結びつき、みたいなのについてツイッターでよく見るので、思うところを書いてみることにする。
先に、俺の立場について書いておくと、もともとニセ科学批判クラスタにいる(た)人間である。以下、いろいろと書き連ねたような事情もあって、最近はニセ科学批判クラスタを批判的に言及することが多くなってきたが、やっぱり世界は科学だろう、という思いは変らない。
余談だが、ニセ科学批判クラスタを批判する人、というのがニセ科学勢力とか、トンデモ勢力というのは意外に成り立たない。そういう連中を自分が積極的にフォローしてないというのもあるかもしれないが、その手合いはまず自分たちに批判的な人がいることについて詳しく言及すること自体が不都合なので、あんまり触れないのではないかとも思う。クラスタの言説に詳しく触れながら批判する人というのは、何だかんだいって「ニセ科学は嫌い」寄りの人間が多いようだ。
あらかじめ書いておくと、自分の見解は、「ニセ科学批判とネトウヨは本来、つながらない」である。しかし、そう言い出す人がけっこういる、というのも理解できないではない。まして、「またネトウヨ連呼厨ガァー!」などと言い出す気にはなれない。なので、どうしてそう思われるようになってしまったのか、といういくつかの自分の思っている理由について書いてみようと思う。
なお、あくまで自分の観測範囲ベースなので、それ以上のエビデンスや統計的な根拠はない。ほしかったら基盤Bでも持って出直してきたら調べてやらんでもない。
ニセ科学批判とウヨの親和性、という問題が語られるようになったのは、やっぱり3.11以後が決定的である。いちおう、3.11以降について、特に放射能デマをめぐる後始末についていうなら、ニセ科学批判派がおおむね正しかった(細かいとこで間違いや軽口があったのは否定しない)というのは間違いないので、これはどんどん認めていくべきである。そして、その上で、致命的なレッテルを引き寄せる結果となったことについてもそろそろ考えるべきだと思う。
3.11直後にデマ批判をする人が、今となってはかなり信じがたい形で「ウヨ」と手を結んでいたのは確かだ。これはひとえに、デマの流布をほっておくことが人権問題になりかねない状況だったことによる。一例としては、ゴリゴリの左派な左巻健男が石井孝明をRTしていたことがあるくらいである。それは、個人的にそこはRTしなくてよかったんじゃないかと思うツイートだったが(別にどうしてもしなきゃいけないRTでもなかった)、しかし当時はそれでも連帯できるところは連帯しないといけない事情だったのも確か。とはいえ、そのRTを見てニセ科学批判派の中にいる自分でも嫌悪感を覚えたので、その外にいて、かつ左派寄りの人がどうとらえたかは想像に難くない。
元々、デマ批判を発信していた人には政治的には左派が多く、その中には、事態が落ち着いた今は左派クラスタのなかへと帰っていった人も少なくない。今となっては、「福島差別」について関心が高いアカウントというのの少なからず割合がただのウヨアカウントであり、人権問題に危機感を抱いて近づいてきたというよりは単に「ダシにしにきた」ことも明らかになりつつあるのだから、この時期のことについては、ちゃんと後処理をしておくべきではないかと思う。一方で、安易にウヨレッテルを張った側も、そのレッテルについて再検討する必要がある。
ニセ科学批判というのは多層的に発信される。最初の発信者、つまり、積極的に資料をあたったり文献をあたって、情報を発信していた人はもちろんいるにしろ、その人たちの話がどう広まっていったかといえば、メディアが広めた場合ももちろんあろうが、ツイッターなどネットではそれを再発信する人によって広まったわけだ。この人たちの中にも濃度がいろいろあって、「なんとなくRTした人」「そういう話を見たら積極的にRTする人」「RTして、自分でもそれをベースに意見をいったりする人」「それがさらにバズって積極的にニセ科学情報を集める人」とまあ、いろいろだ。
こうなると、ニセ科学批判クラスタといっても、もともとの「ニセ科学批判派」の声は流通する情報の割合的にはごくわずかということになる。
俺がやばいと思う層は、じつはこの水増しされた部分である。デマ批判が機能したのはこの部分あってこそなので、水増しという言い方は語弊があるのかもしれないが、しかし、ネトウヨとニセ科学批判がむすびつけて論じられることに責任があるのはこの層ではないかとも思う。
この層、とひとくちにいっても、いくつかある。
まあこれは文字通りの「ウヨ」層だ。前述の石井孝明とか、池田信夫なんてのもそうだろう。この亜種(1A)としては、ウヨというよりは「左派が憎い」というイデオロギーをかぶせていくケースもある。佐々木俊尚とか、伊藤剛あたりがそうだろうか。そうそう、伊藤剛と昔仲良し今は犬猿の仲の唐沢俊一も忘れてはいけない。君たちお仲間だよおめでとう。あるいは、こうやって膨らんだ層を客層にあてこんだ「御用文化人」というケースも亜種(1B)の一つだろう。いちえふの作者なんてのはそうだと思う。最初はけっこうまじめな信念を持って作業員のルポを始めたんじゃないかなー、とは思うのだが。
言っちゃあ何だが、科学は正義である。しかも、ある程度実証が積み重なれば、相対化しようがない正義だ。本当は正義とか正しさなんて一ミリも興味はないのかもしれないが、とにかく人を叩く根拠がほしいならず者にとって、こんな都合のいいものはない。しかも、人権問題としての問題意識までくっついている。人権なんて一ミリも興味がないのかもしれないが、以下同文。
正義の暴走がデンデンという人はネットによく転がっているが、あまりこの点には言及しない、どころかこの正義だけは振りかざすのが大好きだったりもする。彼らの心情は、よくわからない。
一昔前のメディアに流れる文章には、理系に対する嘲笑や偏見がいりまじったものというのが結構あった。それを見た理系人が、お前ら哲学で作った飛行機に乗れるのかよ、というような反発を持つのは想像に難くない。俺も昔はそうだったし。それは仕方ないところもあると思う。
ところが、ネットは理系の研究者がどっぷりつかっていたり、エンジニアがどっぷりつかっていたりする場なので、そういう人が意外にマスをもてる世界である。それはいいことでもあるんだけど、結果、「理系カルト」のようなものが出来てしまうという面もある。その結果、「文系」をバカにするようなアカウントが出来上がる。昔、科学ネタやアニメ談義が話が合うという理由で高専生や理系大学生をけっこうフォローしていたのだが、どうもこういう方向に流れていく人が多く、非難がましいツイートが増えた結果リムられたりリムったりブロックされたりが増えた残念な記憶もある。
これらの人が、放射能デマ批判、さらにはより広いニセ科学批判に群がったわけだ。どれもこれもあまり近づきたくないタイプである。
しかし、本来の意味でのウヨはこの中では(1)か、せいぜい(1A)までに限られる。それが全体のうちどれくらいの割合を占めるかというと、あんまり高くないと思われる。おそらく、悪印象のかなりの部分は(2)(3)に起因しているのではないか。(2)と(3)は、本来的にはウヨ思想とは関係がない。しかし(2)はそもそもモラルを欠いている層で、ネットイナゴといわれる集団に近い。そういう人が、ネトウヨ思想に親和性を持つのはまあ時間の問題である。(3)は正直因果関係を断定しづらいのだが、確かに自分の観測範囲では重なる人が多い。理系でもウヨ色の薄い人は理系絶対主義みたいなところには陥らない、みたいな雑な印象がある。
そうすると、本来は関係のない「ウヨ」と「ニセ科学批判」がセットで観測されるということが大量発生する。しかも、(2)(3)は人間性として最悪の、できればブロックしておきたいタイプだ。どこをどういじっても、ニセ科学批判がいい印象を持たれる展開がない。しかも、こういうアカウントに限って、やけにRTされる数が多く、ダメな方向にネットへ広がっていく。
(この部分追記)「冷笑系」と呼ばれるような集団がともかなり重なっている、というのもいくつかの反応で見かけた。これはもっともだと思う。特に(1A)や(3)あたり。
後出しじゃんけん承知で言うと、推敲前は言及していたのだけど、定義にやかましい人の怒りが二乗になりそうなのと、話がとりとめもなくなったのでなんとなく端折ってしまった。けれど、ニセ科学批判との関係について考える場合には、「いわゆるネトウヨ」より重要なカテゴリーかもしれない。
ネトウヨの定義というのは曖昧である。むしろ、厳密に定義したところで境界線附近の人間が大手をふって歩き出すだけなので、ある程度曖昧でいいと思う。ライトノベルの定義みたいなものだ。物語シリーズはラノベかとか三毛猫ホームズはラノベかと言ってる分には意味もあろうが、そこにかこつけて「聖書はラノベでは」とか言い出す奴はつまみ出せばよい。
しかし、世の中には問題児がいる。自分たちはつまらない理由でネトウヨ扱いされた、だからネトウヨを名乗ってトンチキなことを言い募ってやる!と言わんばかりの連中である。いまどき子供でももう少ししつけられていると思うのだが、そんないい大人がネットにはたくさんいる。被害者意識をこじらせているとしかいいようがない。本人はネトウヨ認定したほうが悪いと思い込んでいるのかもしれないが、申し訳ないが狂人の真似だと言い張って東大路通を走る人間は京大生でなければ狂人である。京大生でも狂人かもしれない。
菊池誠氏があんなふうになったのは、一つのきっかけはここにあると思う。しかし、年齢的にも知性的にも社会的立場的にも、責任能力を逃れられる人ではなかろう。自分の不始末は自分でつけていただきたい。きっかけのもう一つの原因(と俺が思ってること)は、次の項で述べる。
ジャンルは違うけれど、所謂「キモくて金のないおっさん」を名乗りたがるネット住民、についても似たようなことが言える。
ツイッターにはRTとかふぁぼという機能がある。ふぁぼはまあいいとして(最近はこれもTLに流れてくるようになったが)、RTは誰が何をRTはしたかが、ある程度分かる。
RTの基準は人によっていろいろだろうが、まあ第ゼロ近似としては「それに共感するんですね」だろう。直後のツイートで批判的に言及でもしておかないと、そう思われないほうがおかしい、と思う。
ここでめんどくさいのは、「それに共感するんですね」の「それ」はツイートの文章そのものであるかツイートしてる本人であるか、である。直感的には、前者だろう。後者は雑な見方に映る。ただ、発言を属人的に見ない、というのはけっこうなことに見えるが、発言主と合わせて文意を判断しない、ただの無責任な態度となることもある。見てる側が、いつも「こいつはどうしようもない奴だな」と認識していれば、それをRTする方も同類とみなされることもある。そんなのおかしい、という人もいようが、そういうものだ。
さてここで上のニセ科学批判情報の発信の話になる。発信者する側も、自分が発信した情報を受けて賛同し、意見を述べたり非難したりするツイートを自分のRTという形で放流するということをよくやる。別に発信者じゃなくてもやると思うから、ニセ科学批判に集まった人も、さらにそれをやるわけだ。
ところが、その放流元が「札付き」であった場合、それを「ニセ科学批判に賛同してくれた」という文脈だけで読んでくれる人は、あんまりいない。ごくふつうのアカウントなら、はいはい賛同者だね、ということになる。ところがそうじゃない場合は問題だ。そりゃあ、ツイート単体ではいいことを言ってるように見えたりするかもしれない。でもそれを、みんな属人的に見ないでくれるだろうな、というのはおめでたい。
でもまあ、そういうことが一度や二度あった、というだけなら、まあどうということもないかもしれない。しかし、これを長く繰り返し続けていくとどうなるか。
「お前はそういうやつなのか」で離れる人というのは離れられる側にとっても、分かりやすいし素直だ。だが、「お前のRTうぜえわ」で離れる人も出てくる。離れられた側は、もしかしたらなんだか事故にあったつもりになるかもしれない。自分はただ「賛同できるツイートを流しただけなのに」、と。
それもそうかもしれない。でもそれが繰り返されるうちに、クラスタ自体が、濃縮されてだんだん汚染されていく。そして、やり取りをする相手というのは、本人も気づかないうちに影響を与えていく。フィードバックされちゃうのだ。
2012年か2013年くらいまでは、きくまこ先生もそこまで変ではなかったが、その後加速するようにヘンな発言が連発されていくのは、こんな感じだったのではないかと考えている。
ニセ科学批判そのものを凶器として振り回す層というのが出来た結果、その印象がネットイナゴ、あるいはネトウヨと非常に近いものになってしまう。あとは災害が広がるのみだ。子宮がんワクチン、水素水、EM菌。本来ならネトウヨと関連付けられる要素なんてないものも、そのスジのアカウントが言及してはバズる、という光景は、「そこ」がイニシアチブを握っている、と認識されることになる。そうなれば、ウヨに批判的な人は近寄りがたくなる。もちろん、もともと発信元として活動していたような人は、自分が左派であろうと発信を続けるだろう。でもそこまで中心にいない人は、距離を置くか、あるいはニセ科学批判派の語り口に疑問を持つようになる。
このような先鋭化の過程で、本来なら近しいところにいるはずの、歴史修正主義批判や、反知性主義批判(本来の意味も、日本で独自に派生した意味もどっちも含まれる)との溝が深まっていくことになる。めんどくさいことに、これらの集団は原発や巨大科学のようなものには批判的で、甚だしい場合は放射能デマに一定の親和性がある人もいたりするので、頭が痛い。
よく、ニセ科学批判クラスタはこれらのニセ社会科学・ニセ人文科学の問題には無関心だと言われる。発信する側については実際には必ずしもそうではないアカウントも多いのだが、群がっている層については確かに無関心…… どころか敵意を持っている人が少なくない。理系人が多いので馴染みが薄いし慎重な態度でいる…… というのはなくはないのだろうが、どうもそれだけで済まないところがある。歴史問題や法律あたりに目をつけて観察していると、「馴染みが薄いからかかわらない」ではなく嬉々としてトンデモさんを引っ張ってきて何かつぶやいている、という光景を目にして頭を抱えることになる。
「Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか」はほっといてくれというのは分からないでもない。ただ、それは本当にたまたまのこともあれば、党派性を後ろに秘めてみて見ぬふりをする場合もあるので、けっこう一概には言いにくい論点である。状況証拠次第によっては、判断材料として持ちたくなる疑問であるのは確かだ。また、別にこういう「疑問」はニセ科学批判クラスタだけが受けるものではなく、左派がいちゃもんのように昔から言い立てられてきたことでもあるので、やはり状況しだいでこう問いたくなるのも当然だろう。
こんなことが続いていくうちに、ニセ科学批判クラスタは「身内」に甘い、というような見方もされてくる。そんなことないよ、と言いたいところだが、最近たまにはてブあたりに上がってくるニセ科学批判批判へのブクマコメントなど見ると、妙にニセ科学批判サイドへの批判を矮小化しようとする「ニセ科学批判者」のコメントが見受けられたりして「ああこの人もかあ」という気分になってくる。
先日ツイッターで問題になっていたのは、これのようだ。mika_berry氏というツイッタラーがリフレとニセ科学批判とネトウヨのつながりについて言い始めてそれにニセ科学批判派やネトウヨの定義が気になるタイプが反発して少し炎上のようになったらしい。
経済には明るくないので、具体的なところには踏み込まない。が、ニセ科学批判クラスタ、あるいはもしかしたら理系クラスタまで枠を広げてもいいのかもしれないが、けっこうな割合がいわゆる「リフレ」に近づいたのは確かにそうだなと思う。
ただしここも距離の違いはけっこうあって、単に「反緊縮」に近づいた人もいれば、はっきり「リフレ」に近づいた人もいる。俺も反緊縮については多分同意すべきなんだろうな、と思う。
なぜこういう動きが起きたかは分からない。単に、時代的に緊縮はもういい、という風潮だったのかもしれない。反緊縮は数字を勘定してイメージしやすい「ロジカル」なものだからという、もっともらしい理由がつけられるのかもしれない。それはわからないのだが、しかしこの「リフレに近づいた側」の少なからぬ人が、その後決定的にウヨに近づいていくことになる。
これも理由は分からない。反緊縮には賛同する、という程度の人は、あまりそっちへ動かなかったからだ。アベノミクスなるものがあったからといって、他の論点がいっぱいあるのだから、ウヨに近づく理由にはならないのである。むしろ経済で結果を継続して出せるように安定させるためにこそ、おかしな動きは徹底的に批判すべき、と思うのだが、なぜかそうならない人というのがいた。ニセ科学批判クラスタの外にもそういう人がやはり「なぜか」いて、新たな集団を作るようになる。リフレで経済的に豊かになることを期待するクラスタ、というよりは「政権を応援しマスコミを憎み野党のアラ探しをする」クラスタとなる。経済には明るくないのでよくわからないのだが、アベノミクスのような政策はほっとくだけだと企業が潤うだけだと聞く。こういう人が「再分配を求めるべき」「企業は給料をあげよ」というような動きをしたという話を寡聞にして聞かない。本当に経済が大事だと思っていたのか、いまいちよくわからないところがある。
昔ながらのニセ科学批判は、党派性から距離を置いているつもりの人が多い。これは「左派が多い」という、上で書いた話とも別に矛盾しない。もちろん、ノンポリもいる。俺だって党派がかるのは大嫌いだ。
それはいいんだけど、そうありたいと思うこととか、自分たちはそうだと思い込むことは、あんまり何かを担保してくれることではない。
ここ10年くらいのインターネットの歴史は、ノンポリが政治的な層、特にウヨに振り回される歴史だった。
1970年ごろの学生運動家だって、多くは本質的にはノンポリだったという話はよく聞く。でも、左翼運動の迷走についての責任を問われないかといえば、そんなことはないだろう。
俺が思うのは要するにそういうことだ。ニセ科学批判=ネトウヨというくくりは、なるほど雑だ。だけど、それを一笑に付せる無邪気さは、ちょっと俺には持てない。
自分の気にくわない奴に反知性主義ってレッテル貼ってりゃいいと思ってるようにしか見えん
でもそういう人達に足りないのって知性じゃなくて知識じゃないの?
自称知識人ならそういう人達に自分の持ってる知識を教えてあげてこその知識人なんじゃないの?
生活が苦しくて10年後の100万円より明日の1万円を取っちゃう人をバカにする為に勉強してきた訳じゃないだろう?
そういう人達を助ける為じゃないのかよ
内容は理解できなくてもそこに乗っかった悪意はちゃんと相手に伝わるんだぞ
余計に溝を深めてどうすんだよ
そういう態度のどこに知性があるんだよ
理解して欲しい相手をバカにしてどうして理解を得られると思うのかさっぱり分からん
あいつら何がしたいんだ
全人口に対するネットユーザーの比率はビックリするほど増えた割に
ネットでメジャーになる思想の極端さもまたビックリするほど顕著である
はたまた時代による考え方の移り変わりなのか
自分の回りには自分とともに年を重ねた人間しかいないので今ひとつ分からない
中庸とはかけ離れたある種の怨讐じみた極論が支持を得がちである
個人的に特に分からないのが、運動音痴な連中による体育への怨嗟である
単に体育嫌いが分からないという話では、もちろんない
体育会系の「ノリ」も大嫌いで、徹底してそういう連中とは距離を取って来た
分からないのは、これらの怨嗟がことに目の敵にする「ポイント」の微妙なズレである
ネットの「声」曰く、ドッジボールは「暴力的」で「特定の個人を集団でいたぶる」ことができ、「いじめに繋がる」そうなのだが
寡聞にしてドッジボールがそんな風に受け止められているところをこれらの人々の書き込み以外で見たことがない
ドッジボールは標準的なルールに則れば「顔面セーフ」「一回当たったら外野」「敵は全員平等に倒さないと勝てない」はずなのだが
一体どういう風なローカルルールを作り上げれば「いじめられっこが集中的に狙われる」事態などが起こりうるのだろうか?
ドッジボールと「称して」ボールをぶつける暴力行為の存在は容易に想像出来る
しかしそんな事を言い出したら「野球と称して」棒切れで叩くいじめもあれば
「サッカーと称して」集団で足蹴にするいじめもあることも普通は知っているはずだ
なぜドッジボール「だけ」にこの何か特殊な怨讐は狙いを定めてしまったのか?
ドッジボールに対しては、自分の知る限りでは他の球技に比べより平等な楽しみ方ができる中庸なものという捉え方が多く見られる
「逃げ回ってれば良い/人に隠れてれば良い」から運動音痴でも楽しめたという声は数知れず
とあるノスタルジー系の漫画でも「女子と男子が交じって遊べる」球技として言及されていたし、
「アメリカではドッジボールは実際禁止のところもー」なんて怨嗟連は言うのだが、明らかにオタク系のアメリカ人も
HxHのドッジボール編の感想で「ドッジボール好きなんだよねー」と漏らす始末
もちろんドッジボールにいやな思い出がある人間の存在を否定するものではないが
どう考えてもそういう経験、考え方の方が特殊事例であるように見えることは否めず
どうしてここまで「ひた隠しにされていた真実」といった感じの風を吹かせているのかただただ理解に苦しむ
ことがたかがドッジボールだから大げさに聞こえるかも知れないが、非現実性で言えば「ムー」ともタメを張っている
何のこととは言わないが「ネットの声」というものはおおむね他の事例もこのような極端さを持っている
一、極端な思想は極端な声の大きさを持つ
いわゆる反知性主義という奴か、ドッジボールのような「味方も多い」ものこそ噛み付きたいのかも知れない
コンビニなどで商品への要望を客に聞くと、必ず健康的な商品などが上げられるのだが、実際出しても売れないのだそうだ
自分はこれを「アンケートに答えるような奴は賢しらにアドバイスがしたいだけで本当の要望なんて本人にも分かってない」からだと思っている
有り体に言うと「言ってみただけ」
とにかく何か槍玉に挙げてみたかったからマイナーな攻めどころを探しただけなのだ
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/book/15/101989/031500021/
今日見たこの記事みたく、ヒラリーとトランプの比較を典型に、なぜリベラル勢力が支持を得られず、ポリュリストや極右が支持を得ているのかっていう説明にあたって、最近の言論ではその理由をリベラル勢力が自慢に思っている多様性の尊重やら社会正義、洗練された知性みたいな美徳に、ポリュリストや極右が支持を得ている理由を彼らの反知性主義やら田舎臭いアホっぷりや偏狭な頑固さのような悪徳に帰する言論が多い気がする。リベラル勢力は有徳で優れているから負け、ポリュリストや極右は劣悪で悪徳にまみれているから勢力を伸ばしているってことかいな。
何かがひっくり返っている。何かが。
皆さん、おはこんばんちは。bonchacchanga、gudachanことグダポンです。私は文筆業と趣味で社会を動かす所存です。活動の暁に、私自身の夢を実現したいと切望しています。
恐らく1度しかない現世を大切に生きたいと願うことは、誰もが等しく同じであります。私は、社会の現状を改善する政策として、脱サブカル・脱日本を提起しております。詳しくはインターネットで公開しておりますので、ぜひご覧いただき、みなさまに実現に向けてお力添え賜りたくよろしくお願いします。
社会としては、具体的にまぁいろいろ考えておりますが、まず日本の課題として、大日本帝国時代以降の社会問題について、後世課題への取り組みが70年なおざりになっております。日本が日本であるために、日本人の私たちがなすべきことは娯楽社会の清算、モータリゼーションの適正化、知性主義への回帰でございます。反知性主義が60年以上、日本社会を担ってまいりましたが、日本人が反知性で故郷を腐らせてきた、これは紛れもない事実です。その象徴たる娯楽社会、この前時代的制度を排して、本当の意味での知的社会を確立する。そのためには反知性主義の衰退、知性の回復、まぁこれは様々な問題にもリンクしますが、私人からもこれを提起いたします。
日本で問題になっている鉄道社会は2050年代までに、国際標準水準にまで進める、これが私の政策です。鉄道が利己主義に一人勝ちしても、利己主義に徹して「客」などの関係者だけいい思いしても、自動車などの犠牲で鉄道社会があることを考えなければ、日本の鉄道社会はもう明日はありません。特に私鉄社会は、次の大災害後に、復興を機に脱却できるように、それまでのその場しのぎのインフラとし、いまは次の大災害への備えとして自身で非常時の移動手段の確保をすべきだと考えます。
また、地方の復興に向けて、都市鉄道と高速鉄道は公有化した上で、残りのJR含めた私鉄をインフラ事業からビジネス・観光産業に転換して、鉄道はもっと文化と商業に徹した、インフラ色を薄くしたビジネスとして振興していくことを考えております。その際に、私は都市の道路を改善すべきと考えております。そして、インフラと商売交通機関の分離と徹底します。そうすることで、日本にはいくらでも産業化しうる資産が、たくさんまだいくらでも眠っているのです。
日本人とりわけ日本人の云う都会人がいま、いまというよりこれまで平穏で来られたのは、地方や郊外でほんとうに犠牲になっている車社会の被害、貧困問題の被害、必要以上の富裕層人口の増加、そうした困窮を横目に一人勝ちしてきて、閉鎖的社会に閉じこもっているという現実がございます。そうしたものから目を背けて、自分たちばかりのことを考えても、日本いや都会や地方の社会自体良くなることはございません。現実を良くするためには、外へ目を向けることが必要です。
詳しくは、ぜひインターネットに掲げてありますので、ぜひ細かいことについてはそちらを読んでください。皆さまのお力添えをよろしくお願い申しあげます。
留年して,モラハラ人間のいる学年を抜けた.モラハラ人間のいる部活もやめた.
抜けてやめて気づいた.モラハラ人間のいる集団は,知性のレベルが低くなる.複雑なものを理解する努力はしたくない,諸説ある状況は嫌でわかりやすい結論がほしい,自分にも原因があるとは考えたくなくて全て他者のせいにしたい,というのは人間の自然な欲望だ.だけど普段は向上心によってこれらの欲望を抑制している.
そこにモラハラ人間がすり寄ってくる.複雑なものなんか理解しなくて良い,「意味がわからない」の一言で拒絶して良い,悪いのは我々じゃなくてあいつらだ,とささやいてくれる.諸説を否定してわかりやすい一面的な結論を提供してくれる.人々はここに安心を得る.こうすることで,モラハラ人間はその集団から向上心・理解力・知性を追い払ってゆく.
http://blog.tatsuru.com/2016/11/15_1128.php
その理由はとりあえず周知されていない。誰でも知っている理由なら、こんな特集は組まれない。
ふつうリベラル批評家が発言力を持ち続け得るのは(事象に即した言説のクリーンヒット時の「ご祝儀」を除くと)批評のまなざす先の恩沢に現にリベラル市民が浴しているからである。
だが、内田樹はそうではない。
特別顧問で参画した大阪市政改革は頓挫した。旗を振るったSEALDsは見るべき成果を上げていない。野党連合の結託をいくら煽っても鳥越の醜態や民進のグズっぷりばかり悪目立ちしてしまい 自民党打倒の糸口が見えない。安保法案への言及ではシーレーンや国防、自衛隊員の命の軽視と反知性主義の態度が露呈した。五輪計画や福島原発や豊洲移転問題では共産党の走狗となり知性の欠如があきらかになっている。どれも老いたリベサヨの末期の徴候である。にもかかわらず内田は高い読者数を保持している。その根拠は何なのか?
一番簡単なのは、「リベサヨ市民は現状認識の適否を判断できないほど愚鈍になった」という解釈である。
リベサヨの過半が愚鈍であるなら、こんなあげつらいも何の意味も持たないからだ。だとしたら、問いの次数を一つ上げるしかない。「リベサヨは内田を支持することでどのようなメリットを得ているのか?」である。
保守速報などネトウヨまとめサイトの観測によれば、内田支持理由のトップは「他に適任者がいないから」である。
だが、現実には「他にどのような言論人が適切か?」という問いは誰も立てていない。いずれ支持層が急逝して「ポストリベサヨ」がリベラル市民の話題になればリベラル市民は「人気投票」を行うだろうけれど、今は話題になっていない。
私の解釈はこうだ。国益が損なわれ、国民が日々損害を被りそうな諸言説を垂れ流すにもかかわらず、「内田を黙らせろ」という声が上がらないのは、リベサヨ代表格の適格性を最終的に判断しているのは「リベラル市民たちではない」とリベサヨが思っているからである。
残念ながら、リベサヨ界隈において、内田言説の適格性を判断しているのは理性ではない。
リベサヨは自分たちの歪んだ情念から現実を歪ませて認識することはできる。でも、現実に即した言説に身を委ねるはできない。
リベラル市民たちが誰を選んでも、中共が「不適格」と判断すれば、リベサヨメディアでのオピニオンリーダーの座には就けないし、就けても短命に終わる。そのことをリベサヨは知っている。知っているけれど、知らないふりをしている。それを認めてしまうと、リベサヨは権力の圧政に反して日本社会や市民生活をより良くしようという正義や善意の集団ではなく中共の野望の片棒を担ぐ工作機関であるという事実を直視しなければならなくなるからである。
2008年頃からネトウヨ嫌韓豚の吹き溜まりである保守速報などのまとめサイトで「朝日新聞は中共の工作機関である」との言説が広まった。反日朝日の誌上におけるオピニオンリーダーの任免権は事実上中共が保持している、と。
日本のリベサヨ言論はこの発言をまともに取り合わなかった。違うと思うなら反論すればいい。だが、「反日朝日は中共の工作機関ではない」と述べたリベサヨ言論は一つもなかった。
サントメプリンシペの政治学者ガバーヌ・マンコニックは〜中略〜同じことを指摘した。だが、リベサヨはそのような意見がネトウヨ社会では当然のように行き来している事実そのものを組織的に黙殺している。
内田樹は「宗主国中華人民共和国の属国の報道官」である。実質的な権威づけは中共が握っている。もちろん、外患誘致に問われるから、権威付けの作業は「アウトソーシング」されている。中共の情報誘導は朝日新聞や日刊ゲンダイへの記事やコラムを通じて醸造され、外国人特派員クラブやワシントンポスト、ニューヨークタイムズなど外信へ逆輸出することでマッチポンプ効果で言説の信憑性がより強化される。そういう仕組みでリベラル言説が制御されていることをリベラル市民はもう知っている。知っているけれど、知らないふりをしている。
「他に適任者がいない」というのは朝日新聞など反日工作メディアの判断である。
内田樹は日本の国益よりも中共の国益を優先的に配慮してくれる「理想の言論人」である。だから反日メディアがそう評価するのは当たり前である。そして、リベサヨの多くは朝日新聞の判断の方がリベサヨ当人自身の生活の延長線上にある主観的な現実評価よりも夢想的でありかつ幻想的であると信じている。
「追記」
ただ、アメリカの大統領がドナルド・トランプに交替したことで、「宗主国の代官」にどのようなタイプのオピニオンリーダーを選好するかについての判断基準がこの後変わる可能性はある。
これまで、「属国の代官」の適不適を事実上判断していたのは辛淑玉たち「差別の当たり屋」であった。
リベサヨのグズっぷりに「市井の人々」は巨大な「マイノリティ利権」をひさしく貪っていた「差別の当たり屋」たちから取り上げようとするだろう。
「差別の当たり屋」たちのお気に入りであった日本のリベサヨ言論人たちはこれから新たに「オーディション」を受けなければならない。
明日11月17日に安倍首相はトランプを西側首脳として最も早く表敬訪問をするが、これは「日本の総理大臣」である以上当然のことであり、これは安倍首相にとっては「新しいカウンターパート」に対する「牽制」に相当する。
日米の関係がより進歩的に発展するという「(中共にとって残念な)結果」になった場合、反日メディアではオピニオンリーダーもリテラもマガジン9も「アベシネホントシネゲリグズ野郎」と(はじめはおずおずと、そのうち猛々しく)言い始めるだろう。
【目撃者】
海の向こうで反知性主義が始まったと嘆く人々がいる。
反知性「主義」?
すごいなあ、人間はいかなるときも、その日常生活でさえ、知性的な判断をするんだそうだ。
決して、衝動買いなんてしたりしないし、後輩にいいところを見せようと、奢ったりもしない。
僕には、かの国の新大統領が掲げる偉大なるアメリカというのが本国の人のようにピンとはきていない。
ただ、「感覚的に」わかるのは、あの時代のアメリカを、いい時代の自分たちを取り戻してくれる、と明言してくれた候補にすがりたくなったその人間的な感情だ。
人間は知性だけで動くはずはない。衝動買いもしたりするし、カっとなったり、かと思えば気前が良くなって人に料理や鞄を奢ったりするだろう。
それが人間だ。
「ありがとう」と愛しのあの子に言われたならば、つい破産の仕方をgoogle検索で探してしまう。
ただ、「ありがとう」と言われたくて。
アカデミズムの世界で、その知性を轟かせる先生方も、SNSではつい感情的になる。
今回、「知性」を信じた人々は、対になる概念を黙殺してしまった。
本当に知性的ならば、見落としなんてなかったかもしれないけれどね。
人間は自分の信じたいことだけを信じ、自分に有利な情報を仕入れ、確証バイアスで頭の中はフロートソーダさ。
僕は、昔から繁華街でバカをやっていた友人とカフェバーで、そいつを待った。
しかし、待てども待てども、来やしない彼女に業を煮やした僕らがウエイターを呼び止めようとしたとき、後ろの席から声がした。
「気づきなよ」
僕の記憶の中の彼女は(どちらかというと)美人顔でとても薄幸なオーラを醸していた。
僕と一緒に彼女を待っていた友人は、人違いだ帰ろう、と言った。
僕は、目の前の彼女の目(整った二重にタレ目でどちらかというとかわいい系だ)の奥に、鈍いものを感じた。
彼女は僕の手をとって、私の家に泊めてあげた恩を忘れたの?とのたまう。
ああ、こいつだ。
この恩着せがましい話し方。間違いない。彼女だ。
僕が、東京に来たばかりの頃、彼女に振られて、自暴自棄な状態で歌舞伎町で朝を迎えたことがあった。
ホストたちは僕に邪魔だ、うっぜーなと声をかけて、みんなして帰宅していた。
僕が道の真ん中から端っこに移動して、寒さに凍えている頃。
彼女は現れた。
泥酔していた僕は、彼女の家の廊下で倒れて、数時間経つと頭痛と吐き気と共に起きた。
便器と友達になった後、僕はお風呂を拝借して、置手紙をして帰った。
ヴィトンのバッグからは、睡眠薬や安定剤、精神薬に痛み止めが溢れ出ていた。
僕は、その光景を見て、みんな苦労して生きているんだな、と思った。
彼女は、当時キャバ嬢だったが、風落ち(風俗で働くようになることをギョーカイではそのように称す)して、その後、AV嬢になった。
僕が自暴自棄だった頃、僕は彼女に連れられて、ホストクラブに行った。
男の僕が行って楽しいのか、とは思ったが、思いの外、楽しかった。
ホストたちは、召使のように注文を取りに訪れ(跪いて御用聞きだ)彼女の横に座る。
そして、僕にも飽きないように話を振る。
僕は、好奇心が旺盛なのでギョーカイの話を聞くだけでも楽しかった。
彼女がドンペリやリシャールをぽんぽこ入れるので、どのテーブルよりも彼女への待遇は手厚く、そして連れてこられた僕もまるで、どこかの国の王子のように振る舞えるのだった。
僕は、その時思った。
理性や合理的判断は論文を書く時だけで十分で好きな人や頼れる人を探すのに、直感、感情、その発露を起源にして何故いけないのか、と。
楽しい毎日を望まない人々がいたら、なんだか、ロボットみたいだし、現実的でも、夢がなければ、きっと快楽の世界に溺れようとするよ。
ある種の人々は。
ついでに、胸の方も少し眺めた。
僕は少し思案した。(隠しておきたいのか?でも、真反対だからなあ、気づかないふりは……)
僕は彼女に言った。
「可愛く整形してもらったな。どこのクリニックだ。腕がいい。
でも、胸はパッドを詰めりゃいいんじゃないか。代わりに可愛いワンピースでも買うといい」
「君にはばれるか。500万でこれだから安いよー、シャンパン開けてたら、1000万以上なくなったのに笑」
僕と彼女の会話の間中、僕の連れは口をあんぐり開けて、小声で人違いに失礼だぞ、と言っていた。
(シーッ、静かに。愛は静寂に包まれて割れてしまうクリスタル)
僕は笑いながら
「あんたじゃなかったか、人を見た目で判断するのは良くないつったのは。
ついでだから、言っとくが正義の味方にでもなりたいんだったら、何をもってしても人を判断してはいけない。
人は等価値だ。例え、悪人でも愛すべき人間だ。そうだろ、正義の味方くん」
僕は、つい本音を口にしてしまったが、彼はそれを気にもとめなかったようだ。
どうでもいい。僕は、人を見た目で判断するが、その人物が同一かどうかを見た目以外で判断することができる。
見た目で人を判断しないと言っている人に限って、見た目で人を確認しているのはどうにかならんかね、全くw
彼女は
「足が朝から痛くて、つっちゃって」
「仕事か」
「単価上がって、万々歳よ、整形代の元は取れるよ。人は見た目だねえ、だって、私だって人を見た目で選ぶもん」
彼女のこういうあっけらかんとした本音で話すところは嫌いになれない。
公共の福祉や他人を害するのでなければ、シンプルに生きたっていいじゃないか。
「私、復讐する。だって、モテるようになったんだもの。金も稼いで、男をはべらかして、復讐する。あの頃の、自分に聞かせてあげるの。
シンデレラになったよって」
「いいぞいいぞ」
「まあ、この際、それもいい」
「ところで、君、私の意見に賛成しているのは、私が可愛いから?それとも私の意見が納得できるから?」
「難しい質問だ。ねえ、世界って複雑なんだよ。復讐のしがいがあると思わない」
「ポエマーはすぐポエる」
「ツンツンしたこと言っても、容姿が良ければ、言い返す手間がいらなくていいな」
世界は、整理されていない。
たくさんの人々がいて、たくさんの考えがあって。
「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって / 前田拓也 / 社会学 | SYNODOS -シノドス- | ページ 2
小田嶋隆さんは、『超・反知性主義入門』(2015)のなかで、「本音」の痛快さが消費されていく現状に疑義をさしはさみます。
近年、「『学級委員長』的言説」が忌避され、「『本音』が、まさに『本音』であること自体によって免罪されるはずのものだということを、強烈に信じ込んでいる」(p107)人の声がとても大きくなってきているように感じます。
「善悪や正邪とは別に、『本音』と『建前』という座標軸が現れた時、無条件に『本音』を神聖視する考え方が力を持」ち、「『露悪的な人間ほど信用できる』という倒錯が生じ」ています(p109)。
引用されている部分以外で小田嶋というひとがどういうことを言ってるのかは本がないので知らないが、
ここで「『学級委員長』的言説」といわれているものはいわゆる「心にもない綺麗事(上の引用部では『建前』)」というやつだろう。
「心にもない」という部分が重要だ。
「綺麗事」の脆弱性は、まさに「本人が心にも思っていない」点にある。
だから、露悪的な『本音』トークが『建前』に勝つのは当たり前だ。信じていないものと信じているものが衝突したときに、残るのはかならず後者だ。
『聲の形』という漫画がある。映画化されて、昨日公開されたばかりの作品だ。
この漫画にはまさに「委員長」である川井という少女が出てくる。彼女のキャラを一言で説明すると、偽善者だ。
小学校のクラス内のいじめに消極的に加担し、しかしそのいじめが糾弾されるようになると「わたしは止めようとした」と一転して自己保身に走る。高校生になると入院したクラスメイトのために「千羽鶴を作って贈ろう」とクラスで提案する。自分の容姿の優位性や「涙は女の武器」であることを巧みに利用して周囲を操り、それでいていかにも私は良い人ですという面で歩いている。
しかし彼女は自分自身を偽善者だとは思っていない。「私はいじめに加担してない」と本気で思っているし、「千羽鶴を折ることが良いこと」だとも本心で信じている。
メタ認知になれたネット民からすれば「浅い」人間に思われるだろう。漫画で後半、彼女は自分の無意識の計算高さに勘付く展開になる。それは置いといて、現実にも「千羽鶴を折って送ることがいいことだ」と何の留保もなしに信じている人間はいっぱいいる。
それをネットでは「自己満足にひたりたいだけの偽善者」と呼ぶ。でも本当にそうした人々は「自己満足」なんだろうか。
こと千羽鶴に関しては「ごみ処理する手間がかかる」「送られる本人は千羽鶴なんかより欲しいケアがあるはず」などといった「送られる相手を慮れ」問題が絡んでくるので一概には言えないが、「良くなって欲しい」と虚心坦懐に、千羽鶴にまるでまじないでもかかっているかのように信じている人は一定数いる。
素朴な人々、とネット民なら言うだろう。
だがその浅薄な思いやりはかつては「本音」だった。今だってそうだろう。
それが、「建前」や「心にもない綺麗事」であると、いつのころからか批判されるようになった。
思いやりには相手の事情を勘案しない「浅い思いやり」と相手に寄り添った「深い思いやり」があって、後者だけが本当の「親切」であると、いつのころから、そういうことになった。
単に「こう言えば賢いように思われる」「こう言えば周囲の仲間たちにデキるやつだと思われる」という、昔からよくある付和雷同的な同調圧力の結果なんじゃないんだろうか。
「反知性主義」だの「本音主義」だの言ってる人々は、自分の「本音」が何で、どういう部分が「建前」なのか、一回も考えたことのない人たちなんじゃないのか?