はてなキーワード: 「ムー」とは
すまん、「結城友奈は勇者である」みたいなことを言ってるのではないのは分かるよな?
「ダンジョン飯はウィザードリィ等のCRPGにありがちなファンタジー世界をモチーフとしている」等の、ある表現された形や絵に対してのオリジンとなる(何を表現したかったのか)の話をしてるのは分かるよな?
んで、宮崎映画における飯描写は、千と千尋みたいな特定の作品を除いたら「お約束」として出しているものであって何かを表現したかったりして出している<訳ではなさそう>っていうのも理解はしてくれるよな?
んで、一番わかり辛い「崖の上のポニョ」は何をモチーフにした作品なのかって「これ!」って断言できるか?
断言してもいいけど、増田が出せる答えは雑誌「ムー」の記者が書く妄想よりも数段根拠にも理屈にも劣ったものしか出せんぞ。
そういうことや。
全人口に対するネットユーザーの比率はビックリするほど増えた割に
ネットでメジャーになる思想の極端さもまたビックリするほど顕著である
はたまた時代による考え方の移り変わりなのか
自分の回りには自分とともに年を重ねた人間しかいないので今ひとつ分からない
中庸とはかけ離れたある種の怨讐じみた極論が支持を得がちである
個人的に特に分からないのが、運動音痴な連中による体育への怨嗟である
単に体育嫌いが分からないという話では、もちろんない
体育会系の「ノリ」も大嫌いで、徹底してそういう連中とは距離を取って来た
分からないのは、これらの怨嗟がことに目の敵にする「ポイント」の微妙なズレである
ネットの「声」曰く、ドッジボールは「暴力的」で「特定の個人を集団でいたぶる」ことができ、「いじめに繋がる」そうなのだが
寡聞にしてドッジボールがそんな風に受け止められているところをこれらの人々の書き込み以外で見たことがない
ドッジボールは標準的なルールに則れば「顔面セーフ」「一回当たったら外野」「敵は全員平等に倒さないと勝てない」はずなのだが
一体どういう風なローカルルールを作り上げれば「いじめられっこが集中的に狙われる」事態などが起こりうるのだろうか?
ドッジボールと「称して」ボールをぶつける暴力行為の存在は容易に想像出来る
しかしそんな事を言い出したら「野球と称して」棒切れで叩くいじめもあれば
「サッカーと称して」集団で足蹴にするいじめもあることも普通は知っているはずだ
なぜドッジボール「だけ」にこの何か特殊な怨讐は狙いを定めてしまったのか?
ドッジボールに対しては、自分の知る限りでは他の球技に比べより平等な楽しみ方ができる中庸なものという捉え方が多く見られる
「逃げ回ってれば良い/人に隠れてれば良い」から運動音痴でも楽しめたという声は数知れず
とあるノスタルジー系の漫画でも「女子と男子が交じって遊べる」球技として言及されていたし、
「アメリカではドッジボールは実際禁止のところもー」なんて怨嗟連は言うのだが、明らかにオタク系のアメリカ人も
HxHのドッジボール編の感想で「ドッジボール好きなんだよねー」と漏らす始末
もちろんドッジボールにいやな思い出がある人間の存在を否定するものではないが
どう考えてもそういう経験、考え方の方が特殊事例であるように見えることは否めず
どうしてここまで「ひた隠しにされていた真実」といった感じの風を吹かせているのかただただ理解に苦しむ
ことがたかがドッジボールだから大げさに聞こえるかも知れないが、非現実性で言えば「ムー」ともタメを張っている
何のこととは言わないが「ネットの声」というものはおおむね他の事例もこのような極端さを持っている
一、極端な思想は極端な声の大きさを持つ
いわゆる反知性主義という奴か、ドッジボールのような「味方も多い」ものこそ噛み付きたいのかも知れない
コンビニなどで商品への要望を客に聞くと、必ず健康的な商品などが上げられるのだが、実際出しても売れないのだそうだ
自分はこれを「アンケートに答えるような奴は賢しらにアドバイスがしたいだけで本当の要望なんて本人にも分かってない」からだと思っている
有り体に言うと「言ってみただけ」
とにかく何か槍玉に挙げてみたかったからマイナーな攻めどころを探しただけなのだ
はてな村の住人は分析や論理を重んじる。重んじ過ぎている、とすら言える。
先日、昔投稿していた小説サイトを久しぶりに覗いて、過去の自分の作品を読んでみたのだが、技術の如何はさておき、小説としては今はてなで書いている自分の文章よりはるかに面白い。
当時は自分の小説がそんなに面白いものだとは考えていなかった。プロの書くものにはかなわないと思っていた。
歴史ものを書くときには史料にしっかりとあたるように心がけていたが、それ以外のジャンルを書くときには、感性の赴くまま、理性のたがを外すようにして、心の隙間から生まれ出てくるものをそのまま創作物にしている感覚だった。
それは謎を謎のままとして楽しんだり、不可解なものごとに理由を付けず、ただ気味の悪いものとしてそのまま恐れるような感覚を文章にしていたといっていい。
それに比べて最近の自分が書いている文章は、論理的で分析的かもしれないが無味乾燥だ。なぜこんなに心が乾いてしまっているのだろう。
2chやはてなで論争を繰り返し、理論武装するようになってからこうなってしまったように思う。
謎や不可解なものの裏側にある秘密を暴いて、構造を明確にしてゆくと、圧倒的なものに触れたときに生まれた表現への初期衝動は薄れていく。「セックスなんて所詮脳が生み出す電気信号のやりとりに過ぎない。脳の特定部位に電極を突き刺せば同等の快楽は得られる」などという、大脳生理学にかぶれた輩の物言いにも似た事態だ。
とはいえ、その物言いは、事実無根だと切り捨てられないのがもどかしい。たしかにセックスのときに人間が感じている感覚は、脳の反応を見ればただパルスが適当な部位にはしっているだけのことだろう。いや、そうではないのだ、といくら強弁したところで、科学的な根拠は提示できない。ネットの言い回しを使えば「ソースはない」ということになる。
学研の「ムー」という、オカルトの有名雑誌がある。どう読んでもネタとしか思えない。だがしかしひょっとしたら事実かもしれない。そんな虚実の入り混じった面白さを楽しむことが、かつての日本の言論状況では可能だった。しかし、はてな村以降の世界では、虚実の虚には完膚なきまでに論破され、挙句、あんな曖昧な雑誌はなくなってしまえばよい、という科学原理主義者の物言いが正当化される。
別に私もあんな雑誌がなくなっても日常生活に不都合はありはしない。しかし、日常を彩るエッセンスのひとつとして、タバコやコーヒーのように、害を知りつつもほどほどに付き合い、楽しむことが出来るものとして存在していてもいいのではないか、と思うだけだ。
都市伝説のひとつも存在しない、川口浩探検隊のような種類のエンターテインメントがまったくない世の中が、今よりも素晴らしいといえるのだろうか。
サブカルチャーの中で描かれる妖精や精霊は認めるのに、一方で、その源流たるアニミズム的な発想はくだらないオカルトとしてバッサリ切リ捨てるような状況には、矛盾したものを感じなくもない。
散漫になった。まとめると、創作に感動をもたらすのはうさんくさい「隙間」だ。隙間なくびっしりと埋められた世界からは、感動するものは出てこない。逆に言えば、感動は理由づけした時点で死に絶える。批評は重要だが、創作物には作者すら理性的には踏み込めない部分があり、そこは尊重する必要がある。
目に見えない可能性を潰して回っていると、人類の世界を見る目は皮相的な、浅いものになっていくばかりだ。何もファンタジーに限らない。全部理論的に何一つ矛盾なく説明できるSFは突飛さがなくつまらない科学読み物になってしまうし、予測不能の事態が起こらない歴史ものは教科書を読んでいるようであくびが出る。
この文章にも反論はあるだろう。論破しようとすればいくらでも出来るだろう。理屈と膏薬はどこへでもつくのだから。しかしひとつだけたしかなことは、隅から隅まですべてを認識し、理解し、分析しようとする態度は、感性を殺す。仕事のときならそれもいいだろう。仕事は感性と関係がない。しかし仕事と離れた場所で、つまりはてなブックマークや匿名ダイアリーで、仕事のように論理的な態度を崩さずにいることは、不健康だ。もっとはてな村は気楽になったほうがいい。クリエイティブな空間としてはてな村が再生されることを望む。