はてなキーワード: 鬼軍曹とは
推敲してないので途中で口調が変わるけれど許して。ブームが去る前に公開しておきたい。
2000~2001年の話です。そのとき生まれた娘は健康に育ち独立して離れた場所で生活。私は当時の夫とは娘が1際の時に離婚し、その後、娘の高校卒業と同時に別の相手と再婚しました。
前情報だけでおわかりの通り、産後の恨みが原因で離婚しました。そして産前から出産の時も含めて広い期間ダメダメだったので、『産後の恨み』どころか『出産前後およびその他諸々の恨み』が正しいかも。今はもう相手のことを恨んでいることはありませんが、それはスッパリと関係を断ち切ったからであり、今でも共同生活を送っていたなら、頭の中でグチグチと恨みを反芻させ骨髄に入るまで温存させていたでしょう。
当時の夫とはデキ婚でした。この時点で当時の自分を説教したいのですが二十歳そこそこの世間知らずの恋愛脳だった自分には、説教したところで、どんな言葉も右から左に貫通していったこと間違いなし。ほんとにしょうもない。体験して失敗しないと脳に染み込まない。本当のうえで理解したのは全部が終わって数年たったころだったと思う。相手もまた1歳年上の二十歳過ぎたばかりのペーペーです。
この時点でアカンと思うでしょ。私も書いてて「こりゃ、アカンわ」と思ってる。
とにかく妊娠をきっかけに結婚し、新居として安アパートを借り新生活開始。妊娠による体調不良であれよあれよと働けなくなり退職。
田舎だったこともあり『育休産休』という制度はあっても実際に取っている人が周りに居なかったため、辞める以外の選択肢があるなんてその時の自分には思いもよらなかった。男性だって明らかな労災でも自己負担で病院に行ったりしていたのが普通だったため、そういうものだと思ってました。
というより育休とる以前に、安定期入る前に何度も貧血を繰り返し、ホルモンバランスが崩れて顔・体全体にアトピーが出てしかも赤ちゃんのために薬も飲めず、肌がグルート(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにでてくる木のやつ)みたいな見た目になって人前に出るのがまず精神的に無理になった。膿んで乾いたカサブタが、振り向くたび、お弁当を食べて大きく口を開くたびにこぼれてデスクの周りが汚れた。客前に出ることはおろか、お茶を淹れることも、書類仕事にも支障が出た。上司(女性)からはその都度迷惑そうに「もうお茶淹れなくていいから」「書類汚れてるので、長袖かつ手袋できないだろうか」「また貧血? もう帰ったら?」と言われた。
「働きたかったけれど、働けなくなった」という気持ちは微塵もなく、逃げ出すように退職して、もう人前に出なくて済むと思ったのが当時の心境。自分視点で書いてるから被害者っぽい書き方になっちゃうけれど、上司視点から見て私は困った対象だったと思う。ギリギリの人員で回している仕事を私の都合で滞らせていたので、迷惑だっただろうなと。当時は優しい言葉をかけて欲しかったけれど、求め過ぎな気がする。今、自分は同じ立場になって、昔の自分のために当事者に気遣いの言葉をかけるようにしている。
ホルモンバランスが不安定で誰にも会いたくない状態で病院通いだけしていたころ、夫の友人がお祝い持って当日にアポ無しで現れた。
こんな顔で人になんて会いたくなかった。しかし部屋が汚かったので、リビングに座ってもらいながら大急ぎで片付け、その周りの掃除機をかけた。すごく迷惑そうな顔をしていたと思う。夫友人が少しだけ話しをして申し訳無さそうにお祝いを置いて帰ったあと、夫には「せっかくお祝い持ってきてくれたのに」と小言を言われた。自分自身も申し訳ない気持ちになって落ち込み、具合が悪いからと部屋で休んだ。
8時過ぎに目が覚め、夕飯を用意してなかったことを思い出して、「ごめん、夕飯用意してなかった」とキッチンへ行った。夫は優しい気遣う声で「気にしなくていいよ。もう食べたから」と。シンクにはカレーヌードルの汁だけ入った箸の刺さった容器と、お湯を沸かしただけなのに、そこら中にお湯が飛び跳ねている状態になっていた。もちろん外装フィルムもそこに横たわっている。なんならストックしてないはずのパックご飯のカラもあったし、ゲームしてる夫の脇にはポテチもあった。コンビニで買ってきたのだ。そして私の夕飯はもちろん買ってきておらず。
その光景だけ見て、私は脱力し再び寝室に戻った。夫から「〇〇(私)の分どうする?」という言葉もなく、朝起きたら、ゴミはゴミのままそこにあった。私のことを気遣ってほしかったし、自分で出したゴミは自分で捨てて欲しかった。けれども、当時は言葉にするのも面倒で、ただ黙ってゴミを捨て、キッチンをキレイにしてから朝ご飯を作った。
夜の生活も続いていた。妊娠のある期間は中出しOKのボーナスタイムという知識はあったらしい。
それで妊娠はしないものの、出されたものがそのまま留まってくれるでもなく、しばらくして排出されたものをトイレで流す必要があって億劫だった。ゴムをしているときより滑りが良いと判断したのか、回を重ねるごとに前工程が雑になっていって辟易した。ついにはキス、胸、即挿入になってビックリした。今、書いてて不思議に思うけれどグルート肌の女を良く抱けたな。
そして臨月。お腹が大きくなって寝返りもうてなくなった。腰も痛いし、便秘になるし、車に乗れば車酔いするし、妊娠期間中は種類の違うあらゆる不調が手を変え品を変え一身に降り掛かった。体型が変わって服も替えなければならなかったが、幸いなことにホルモンも安定期に入ったらしくこの頃には、「ちょっと肌荒れが酷い人」くらいまで回復した。買い物している時、重い荷物など明らかに大変なものは持ってくれたが、かがむ必要がある軽いダンボールなどは放置され、お願いすると「これくらいでも?」と言われ、「これくらいでも」と返した。夫のぺったんこのお腹が恨めしかった。
そして出産。予定日になっても生まれず、あらかじめ病院に入院して陣痛促進剤を打って臨む運びとなった。前もって出産日がわかるというのはありがたい。夫は有給をとって分娩直前まで一緒に居てくれることとなった。(立ち会い出産は断られていた。このころ周囲でもテレビでも今のように「立ち会いがむしろデフォルト」のような時代でもなかったので、そういうものかと受け入れていた)
朝一番から付き添ってくれるハズが夫は来なかった。夫が居なくても処置は進む。促進剤を入れ、やがてジワジワと兆しらしい変化が現れ、そして昼過ぎには痛みは最高潮。それが夕方まで続いた。
夫が現れたのは14時過ぎ。あとで聞いたところ朝方までゲームしていて寝過ごしたそう。出産までの陣痛マックスの時も夫は病室の隅っこの椅子にちょこんと座り、手を握ることもしてくれなかった。原因不明で子どもの心音がとまり、慌ただしく右往左往する先生や助産師さんの邪魔にならないようにしたかったのかも。メチャメチャ苦しがってる私に何をすればいいのかわからなかったのかもしれない。夫は部屋の隅で怯えていた。
原因不明の心停止は、あるとき突然原因不明のまま復活。そして分娩。生まれた。
いざ、産み落とす!となった瞬間から急に助産師さんが鬼軍曹になって叱咤してきて、まじでビビった。命に関わることなので、それくらい追い立てなきゃスムーズにことが運ばないんだと思う。それは出産後の入院時期にも続き。いろんな助産師さんがいる中で、比較的若い人は穏やかに、経験値の高そうな人ほど厳しくビシビシと授乳や寝かしつけ、沐浴などの指導がされた。(そして点滴やらおっぱいマッサージやらは、そういう厳しい人ほど巧い) 結婚する以前までは、自分の目指すべきところは『プリンセス』にぼんやり置いていたけれど、出産した直後からは『ソルジャー』になることを求められた。そうしないと子供が死んでしまう。強く賢く逞しくならないといけない。生まれたての弱々しい我が子を抱いて、自分の目がカッと見開いたような気持ちになった。
入院中、夫はあまり見舞いに来なかった。義両親が来た時に案内して少し話してすぐ帰宅。2~3週間の入院期間の内、来たのは3回くらい。夫が毎日会社帰りに寄って、面会時間ギリギリまで一緒にいる同室の夫婦たちを眺めていたので羨ましかった。
退院の数日前、夫に「◯日の◯時に、車で迎えてにきて欲しい」とお願いしたら、「出産日に休んだので、会社に申し訳なくてもう休めない」と言われた。は? 真冬に、新生児を抱えて、2週間分の入院の荷物と、これからのためにと持たされたオムツやら何やらを一人で家に持ち帰れと???? 私、ついこの間、股が裂けて縫っているので、重い荷物とか持って踏ん張れないんですけど?
退院日なんて入院する前から決まってた。しかも出産日に休みをとったって、お前現れたの午後じゃん! ゲームして寝坊してきて、来たあとも全っっっっ然、役に立たなかったじゃん! 実際の処置は医療者じゃなきゃ無理にしても、励ましの言葉もかけてくれなかったじゃん。さすがにキレて怒った。そしたらキレ返された。「お前に俺の何がわかる!」
全然わからない。苗字も体調も体型も仕事も生活も変わらず、私がこれまで持っていて失ったものをほとんど失わず、健康体で子供のことを気にせず働けて、余った時間でゲームを楽しめる人の気持なんて何一つ。
結局、退院日は母にバスで来てもらい、帰りはタクシーを使った。
帰宅後、愕然とした。部屋が寒かった。お互い地元で結婚し、新居を構えたのでそれぞれの実家が近い。私の入院中、夫は実家に帰ってご飯を食べそのまま寝泊まりをキメていた。人の住まない北国の部屋はひときわ寒い。そしてうっすらとそこら中に積もった埃。休日は家でゲームを過ごしていたらしい場所だけ埃はなく、人型にそこだけ綺麗だった。ゲームもドライヤーもコップも出しっぱなし。何かあればうっかり死んでしまう新生児が私の腕の中に居た。「赤ん坊をウィルスから守って」と言われた退院していた。ストーブを焚き、母に子供をみてもらいながらそこら中を掃除をした。この件に関しては怒ったら素直に反省してくれた。キレ返さないだけでも嬉しかったのを覚えている。
さて、ここから季節が変わるまで記憶が定かじゃない。どうやって新生児期を乗り越えたのかとんと思い出せない。若くして子供を産んだこともあり、体力があった。「母親になった。子供を死なせちゃいけない」という、これまでにないプレッシャーにアドレナリンみたいなものがドバドバ出ていたと思う。夜泣きも平気だったし、数時間おきの授乳も辛いとは思いながらも、病院で指示されたとおりにやれた。私は助産師さんからの指導の甲斐あって『ソルジャー』にクラスチェンジしてたのだ。ある時、友人に誘われコートを着て買い物に出たら、「え、なんで暑いの? 空気が張り詰めてなくて穏やかなんですけど!!?」となって春の訪れを知った。
夫は沐浴とか『これは父親の役割』という分かりやすいことはやってくれた。混合で育てていたので、哺乳瓶での授乳もお願いすれば嫌な顔せずやってくれたし。夜泣き対応も、私の腕が限界になればやってくれた。当時はありがたいと思っていたけれど、今の価値観だと足りてないですね。
ある時、子供に急な発熱があって、でも保険証は夫のカバンに入っていたため、職場に行って受け取り、その足で病院に行こうとした。夫の職場で子供を抱えながら自己紹介し、夫を呼び出すようお願いしたら「この一週間、無断欠勤してます」と。
夫には結婚前から借金があった。遊ぶ金欲しさにどうするアイフルしていたのが発端。会社に返済催促の電話がかかってきて、そこから居づらくなって行ってないと言う。どうして黙っていたのかと問いただしたら「◯◯(私)や、生まれてくる子供のことを考えたら言えなかった。二人を幸せにしないと……と思って、隠し通さなきゃと頑張ってた」と。当時、ニュースで取り上げられてた多重債務の地獄に落ちていた。闇金だ。
それから義両親も巻き込んで話し合い、アパートは引き払って夫の実家で暮らすことになった。生まれて半年くらいの子供は私の実家に預けて私もパートに出た。
この時、社会問題化していたものの、今のように銀行は個人ローンはお断り(家や車を買うのや学資はOK。債務の一本化などは受け付けられませんと審査すらしてもらえなかった)、弁護士が『債務整理承ります!』と宣伝打つようになるのも、もっと何年も先の話。家族ぐるみでひたすらその月、その月の返済に追われた。
正直、アパートでのほぼ子供と二人きりのような暮らしに飽き始めていたので社会に出られることはありがたかった。新生児がいては気軽に出かけられず、夫は帰宅して夕飯を食べたら即ゲーム。こちらから話しかけないと会話が始まらないことがストレスだった。今のようにスマホがあったわけでもなく、重いデスクトップPCを起動して、ピーヒャラーと電子音ならしてネットに繋いでいた時代。世間とのつながりはほぼテレビで感じていた。『ダサいダンナ改造計画』とか、今となっては炎上しそうな内容ですら、貴重な娯楽となっていた。もともとソロ活が得意な方だったものの、自分から一人で過ごすのと、強制的に社会から断絶させられるのとは違う。いつの間にか「外で働きたい人」になっていた。もちろん、子どもは可愛かったけれど、ほとんど寝るか泣くかご飯を食べるかの暮らしで、コミュニケーションが取れるようになるのはもう少し先だった。
それと専業主婦の立場に居心地悪さも感じていた。自分のお金で稼いだものじゃないので、ちょっとしたおやつや趣味の雑誌を買うのも躊躇していたのだ。
自分の稼いだお金で子供の服を買ったときにちょっと感動すらしてしまった。結婚前は当たり前だったのに、自分の稼ぎで必要なものを買うことの『当たり前』に『誇らしさ』がオマケでついてきた。とはいえ、結局稼ぎの殆どは夫の借金返済に充てられていたのだが。
あと外に働きに出て、ある程度自分の裁量で物事を決め、今後の見通しが立てやすい作業は子育てに比べてとてもやりやすかった。
そして夫実家で近居の義兄からこっぴどく叱られたことがあった。義兄もまた夫の作った借金のため金策に励み、会社をクビになった夫の働き口を探してくれていたのだ。それを知らず、夫婦で食材の買い物に行き、やってきた義兄に対して、義父が『二人で遊びに出かけてる』と伝え、激怒された。
こっちが苦労して東奔西走している間に、遊びに行くとは何事だと。家庭を持つことに対する自覚がなさ過ぎると。
遊びに行ってたわけではないのだが、自覚がないというのは最もだ。もっと『夫を』怒ってくれ……と思っていたら、私も一緒に叱られた。夫が私に黙ってこさえた借金は、親子三人の生活費にも使われていたため、周囲から見れば私も同罪だったのだ。今となっては「それはそう」と思うけれど、その当時の自分にとっては「そうなの?」という気持ちでいっぱいだった。私は自覚のないまま、分をわきまえない借金をこさえた大馬鹿者になっていたことにこのときようやく気付いた。一緒に買物に行って、私のカバンに商品を入れて万引きした絶縁した友達を思い出した。夫は私が叱られている間、ずっと「カミナリがこちらに降りかかりませんように」と空気になっていた。義兄の帰宅後もフォローはまったくなかった。この時、夫の中では「お前のせいで借金が膨らんだ」と思われていたのだ。
その後も夫は新しい職場でもうまくいかず、家出もした。もうこの頃には「怒って詰めたら、話し合いまで発展しない」と分かっていたので、諭すようにこれからのことを話した。……が、「もう無理。人間はそんな簡単に変わらない」と弱音しか吐かなくなり、ついには「お前、変わったよな」と言われた。私は出産をキッカケに『ソルジャー』になった。しかし夫はまだ私に『プリンセス』を求めていた。
家出中に何をしていたのか、今後のために携帯のチェックをさせてもらったら、出会い系に登録していた。この頃は『メル友募集』とかそういうヤツだ。実際に出会うところまではいってなかったけれど、出会おうとしているところまでは確認した。夫は自分を慰めてくれる『プリンセス』を探していた。
そこからは自分の実家を頼り、出戻ってお互いの両親を交えて話し合い。養育費が払えるとは到底思えなかったので、最初から請求せず。代わりに面会もさせない運びとなった。夫はその頃にはもうとにかく「自分だけがかわいそう。この世のすべてが自分を傷つけにくる敵」みたいな状態に陥っていたので、子供に執着もなく揉めることはなかった。生活の中で新しく二人で買った家電や生活雑貨はすべてこちらで引き取ることとなった。ほとんどは私の独身時代の貯金から出していたので異論はでなかった。しかしプレステ2だけは譲ってくれなかった。それくらいの執着を私と娘にも向けてほしかったと思う。
若気の至りで周囲の人に迷惑をかけた。その恩返しではないけれどやがて訪れた実父の闘病生活はできる限り付き添い、実父が亡くなり一人暮らしになった実母にも、今も頻繁に実家を訪れ日常の買い物や困り事を解決したりしている。(義父除く)義実家は一緒に暮らしている間によくしてくれたので、今でも申し訳ないと思っている。孫の成長も見せたかったが、連絡を取らない取り決めに巻き込んで会わせていない。
いろいろ私視点から書いたので夫の言い分もあると思う。振り返ると二十歳過ぎたばかりのアンチャンには荷が重すぎたとも思う。
夫には良いところももちろんあったし、私にも至らない点が多々あった。さらに離婚することで借金から逃げたとも言えるし、今の価値観で判断すると、子どものために養育費は請求するべきだったかもしれない。
長々と書き綴ったアレコレもそれぞれが離婚の原因にはなったものの今となっては大方許せる。時が経てば大抵のことはどうでも良くなるし、人を恨み続けるほどの胆力は、その後のシングルマザー人生で別のところで必要になったため雲散霧消した。
でもそれでも出産日に寝坊して遅刻してきて退院の時に迎えに来てくれなかったうえ逆ギレしてきたことと、借金を隠して、さらにその理由に「私と娘のため」と発言したことは、今でも絶対許さないと思っている。
YouTubeでサジェストされたから観てみたら、まんまスターシップトゥルーパーズじゃん
民主主義を守り抜け!
すげー、アメリカじゃんwww
その上、ガンダムの元ネタのサンライズ版のOAV宇宙の戦士みたいなパワードスーツ着てないのに、
あと、YouTubeにあるmemeの、ジャパニーズアニメのエロいシーンになると侵略!と表示されてヘルダイバーのCMに切り替わるの、
アイマスじゃねーか、とか、コブラじゃねーか、みたいでちょっとツボったわ…
考えてみれば、宇宙の戦士のパワードスーツとかはガンダムの元ネタ、特にガンキャノンのデザインとかになったけど、
ガンダムのストーリーも影響を受けてたら、アムロは最初はオタクという設定はそのままだとしても、
鬼軍曹のブライトに殴られるどころか、地面に踏みつけられて小便をかけられたり、
モビルスーツを使ったベトナム戦争みたいな戦場が描かれて、女子供の出番はほとんどなく、
みたいに叫んで、東側のジオン軍がナパームで吹っ飛んでいくような、そんな話にでもなったんだろうか
米国共和党推薦作品として、ガンダムは海外でも評価されたかもな
まあ、富野はそんなのやらんだろうけど…😟
増田の周囲で最近「働き方改革とかクソだ!」「リモートとか言わず出社しろ!」みたいな反動があり、職場の雰囲気が良くない。
課長も一時期は、人員を監視してムチ打つ労働監視員でなくて、プロジェクト進行を管理するプロマネ的な動きに変わって行ってるはずなのに、
また奴隷監視員みたいな管理をする人が出てくるようになってきた。大きなトレンドじゃなくて局所的な揺り戻しかとおもうけれど、
職場の雰囲気が恐怖政治的になってきている。指示を出すとき、大義や目的とか締め切り、制約条件みたいな基本的なブリーフィングなく、
「うるせぇごちゃごちゃいうな、おまえ上司のいうことが聞けねぇのか!」みたいな管理をする人がいてびっくりしている。
団塊の人達が無茶苦茶だった、という反省の素にすこしずつ改革を積み上げてきたはずだけれども、その辺の歴史的な認識が
部署によっては最近課長になっている氷河期世代の人たちに伝わっておらず断絶があるように感じる。
(最下部にブコメ返しあり)
この増田はいつ頃、どういう入り方で、陸海空どの自衛隊のどの隊にいたのだろうか?
なんでみんなそれすら確認せずにこの情報を信じることができるのか?現場を経験してないからなのか?
俺も自衛官だった時期がある。身バレしない程度に、俺が経験したことを具体的に書く。ちなみにめちゃくちゃ長いです。
俺は2007年8月〜2010年3月まで、任期制隊員として陸自の関東方面隊にいた。任期制隊員についてはググって。まだこの制度あるのかな。
今はどうか知らないけど、当時は入隊してから半年の教育は前期3ヶ月と後期3ヶ月に分かれていた。
前期は武山駐屯地で自衛隊法とか小銃の組立解体とかの座学と、徒手空拳とか5段階ある匍匐前進の仕方とか寝撃ち膝撃ちみたいな小銃の撃ち方とかの実技演習と、定期的に実施される体力テストのための体力づくりが中心だった。
俺はちょっとした事情で、教育中はなかなか野外訓練についていけなくて悔しい思いをした。
前期の教育中、同じ班の人が「24時間拘束されてこの給料じゃ国の最低賃金下回るじゃん」みたいなことを若い奴らに喧伝して支持を集めてたけど、少なくとも教育中は長時間拘束されるなんて入隊前から分かりきってるんだからそもそも入隊しなきゃ良かっただろ、士気下げるだけだからさっさと辞めちまえばいいのに、と言う人たちもいた。
印象的だったのは、教育隊の隊長が2尉だったかな?20代後半のなよなよした人で、それに対して10の班を纏める40代くらいの2曹がミッシェルガンエレファントのドラマーをシュワちゃんばりにおもくそ屈強にしたみたいな、子供時代が想像できないタイプのいかにも鬼軍曹な人で、まあその人も話してみると意外と優しかったんだけど、最初から幹部で入ってるっぽい人と現場叩き上げでこうも違うのかと思ったな。
あとは、軍事オタクよりアニオタの方が多かったとか、選ばれし者だけが習志野の空挺に行くことを許されるとか、同期に柔道全国6位とか特殊な人がまれにいたりとか、入隊前の書類に実家の信仰する宗教を記入する欄があったとか、ある日全隊員が会議室に集められて特定の生命保険への加入を(隊友会のめちゃくちゃ安いやつじゃなかったと思う)半強制的に勧められたとか、東富士での三日三晩の訓練の後に叩き起こされてみんな絶望的な顔をしながらとある部屋に集められて「次の任務を言い渡す。これを飲め」と配られたのがキンキンに冷えたコーラ(任期制は未成年もいるからね)でめっちゃ安心して涙が出るほど美味かったとか、普段全く笑わなくて班員のやらかしが発覚すると班の部屋に潜入しバームクーヘン毛布を全員分グチャグチャにすることで「台風」のあだ名がついた班長が休日に部屋へやって来てすわ何かと身構えたらPSP取り出してはにかみ笑いでモンハンやろうぜって言われて一緒に遊んだりとか、まあ色々印象的なことはあった。
後期は普通科施設科需品科とか、隊員たちがそれぞれの職種に対応した駐屯地に分かれて、ある程度専門的な教育を受けた。あんまり言うと特定されそうだから詳しくは書けないけど。
後期は大抵5年〜10年ほど自衛隊にいてだらけきった(後述する)人たちが上官になるので、前期に比べると圧倒的にヌルかった。
武山駐屯地の教育隊はというと、彼らは教育専門の部隊で、年中そればっかりやってる人たちなんだよね。そのことは後期に入って初めて知った。
ただ、後期は冬だったから野外訓練が死ぬほど寒かった。キツかったのはそれくらい。
教育期間を振り返って思うのは、確かにパワハラ的なことは全くなかったとは言えないんだけど、当時のご時世とか考えると、高校の部活の延長みたいなもんだった。むしろ強豪校にいた人にとっては前期もヌルかったんじゃないかな。訓練はどうしても体力のない人に合わせる形になるからね。
それに、少なくとも教育中は、この増田が言ってるようなことは全く無かったな。自衛隊法は学んだけど、「神と虫」なんて言ってるのは聞いたことがない。上は「教官」じゃなくて別の肩書だったし。前期の休日で外出する場合は制服着用って言われたけど、彼女待たせてる人は当然外で着替えるし、横須賀中央とかのあたりはその辺を軍服の人が歩いてるのが日常だからそんなに忌避感もなかった。
一定の耐性がついてる人は多少制限を与えられても抜け道とか自由をその中に見出してなんとかするし、何か洗脳っぽいことを言われても自分でちゃんと考える。そういう意味では増田が教育の時点で抜けたのは正しい判断だったのかもね。まあそもそも、この増田がやってることこそ洗脳な気もするんだけど。
とにかく。話変わって、パワハラみが増したというか、俺にとって地獄だったのはむしろ教育が終わってからの方だった。
教育が終わって、俺は地元にまあまあ近い駐屯地に配属になった。
そこでまず知らされたのは、春以外の入隊員は季節隊員という半ば蔑称に近い形で呼ばれて、「使えない・すぐ辞める」隊員が多いというレッテルを貼られていること。「部隊のエース」という言葉は文脈によって、本人の与り知らぬところで蔑称になること。新入隊員は慣習的に、部隊長の半長靴磨きという業務時間外の仕事を割り当てられること。訓練での活躍なんかよりも、休憩時のお茶汲み、上長が煙草を吸っていたら煙缶を持って来る、ビール瓶のラベルを見えるようにして上手く酌ができる、飲み会で要領よく挨拶回りができる、そういう「空気の読める」隊員が良しとされる風潮があったこと。
んでもって極みつけは、所属大隊の隊長が、金正恩もびっくりの「お前屈んで半長靴の紐結べねえだろ」ってくらい不健康そうな出っ腹だったこと。
別にルッキズムなんて持ち合わせちゃいないし、市井の人々はいくら太ってても気にしないけど、有事に人を守る自衛官としてそれはあんまりだろ。
俺はこれからこんなやつらの下で働かなきゃいけねえのかと思った。この半年学んだのは何だったんだと思った。
んで、それでも我慢してやってみようとしばらく過ごしてみると、よりその地獄みは鮮明になった。
一年のうち3分の1ほどが、草刈り・車両整備・消防点検やらお偉いさんの来訪前などに頻繁に行う寮の清掃・持ち回りの風呂掃除や警衛などに費やされる。
さらに、これは駐屯地によると思うけど、俺のいたところは糧食班もあって、食堂で飯作りと配膳を3ヶ月ほどの持ち回りで担当する(対象は陸士)。
よって、訓練や体力づくりに精を出すのは一年の半分を満たない。当然毎日定時。通勤1分。
半長靴磨きとか迷彩服のアイロン掛けとか定時外にやることはあるけど、隊長の半長靴は陸士の間で持ち回り、それも一番下の立場の時だけなので、自分の下が来ればそいつらに引き継いでやらなくなる。自分の半長靴はイベントがあったとき磨けばいいくらいだし、迷彩服は私物って言ってアイロン掛けの要らないタイプを買ったり貰ったりしてたから、やっぱりイベントで官給のやつを使うときしか掛けなかった。
ついでに、たまの訓練で遠征するとなると、7tの荷室で人員輸送されてる最中は密閉された幌の中で何人もがバカスカ煙草を吸いまくる。煙草を吸わない俺にはそれが無茶苦茶辛く、かと言って指摘すればたちまちエース(笑)扱いになる未来が見えていたので、繊維が肌に刺さるほど質の悪いカーキ色の官給毛布で顔を覆って耐えるしかなかった。さすがに今はそんなことはないと思いたいけど。
自衛隊車両の運転免許を取りに行くとか、観閲式の準備対応とか、あとはさっきの糧食班とかは、普段の部隊から離れてかつ自由な時間が大幅に増えるので「おいしい仕事」と呼ばれていた。駐屯地の中にクラブという名の安っぽい飲み屋があって、酒を飲まない俺でも週に2日くらい連れて行かれた。
そんなわけで、大体の人は教育期間とのギャップから、怠惰になる。怠惰にさせられてしまう。だから、大隊長に限らず太ってる奴らは多い。
こっからは完全に自慢になる。
俺はそんな怠惰な環境が嫌でしょうがなくて、体育学校に行きたいと思った。ほぼ帰宅部の人生で教育期間もほぼビリケツの筋力だったんだけど、幸い持久力だけは人並み以上にあったので、かなり頑張れば3000m(5000mだったかな?)走の資格に手が届きそうだった。
ちなみに、カナヅチだった俺は駐屯地内のプールでシンスプリントの治療がてら練習しまくった結果遅い遠泳ならできるようになったけど、立ち泳ぎができなかったのでレンジャーはハナから諦めてた。
とにかく、2年弱走りまくっていたら、3000mの歴代中隊記録を更新して、さらに大隊内で一番体力テストの成績が良くなった。2年弱の間に糧食班にいた期間の自由時間とか自衛隊内の教育とかを使っていくつか資格を取った。そんなこんなしてたら件の大隊長から表彰状を貰った。この場で破り捨てたらどうなるかなと思った。
もう少しで体育学校に行けるというタイムまでこぎつけたところで、別にやりたいことができた。体育学校に行くのは良いけど、現役を引退した後も自衛隊にいるとまた空気を読むだけの怠惰な生活が始まって面倒そうだとも感じたので、2任期目の途中で退官することに決めた。
半年ほど前に申告したにも関わらず、結構直前まで揉めた。まあ任期制隊員なのだからある程度は仕方ないんだけど、なんか中隊長を納得させるためか会社の事業計画の個人版みたいなものを作らされた記憶がある。1年後にこういうことをして、3年後には海賊王に俺はなりますみたいなやつ。
今はこんなご時世だし多少は改善されてると思いたいな。
えっと、ほんとにめちゃくちゃ長くなった。何が言いたかったんだっけ。
とにかくだ。洗脳って言葉を使うのであれば、教育期間は俺にとって洗脳でもなんでもなかった。当然咄嗟には受け入れられない出来事もたくさんあったけど、それは、「人を守る仕事」という前提と、当時の時世ということで鑑みれば納得できた。
むしろ教育が終わってからの方が、耐性のない、考える力のない人は洗脳されやすいと思う。それくらいにあの場所は怠惰だ。その「人生楽勝な感じ」に大半の人が流される。騙される。
そんなんじゃ人は守れないからと、一部の「強い」人たちがその人たちなりに必死こいて、あの組織を「人を守れる組織」としてなんとか保っているのが実情なんだと思う。当然この場合の強さってのは権力でも、武力でもない。精神的なタフさと、ひたすらな良心だ。
断っておくけど、「だから俺は強いんだぜ、すげえだろ?」がやりたいんじゃない。俺はむしろ弱い。あの組織で怠惰に抗い続けることができなかった。さっきは自慢話にしたけど、その場その場の怠惰に流されたことも何度もあった。
居続けることで結果的に「弱い」人間になる。そんな場所になってしまっているということが、あの組織の悪いところだと俺は思うよ。
大切なのはいつでも、考え続けることだ。
学校もそうですが世間の目が届きにくく指導者管理者の裁量が大きい場所は下の人間への扱いの振れ幅が大きくなり信じられないようなことも起こりますどちらの話も嘘だと断定はできないと思います
信じられないようなことが起こりうるというのはほんとそのとおり。
まあもう身バレしてもいいかなと思ってるから言うけど、当時俺が在籍してた駐屯地で、教育隊の幹部が新入隊員たちに爆薬を食わせる事件があった↓
俺の言うことを信じろと主張するつもりは毛頭ないんだけど、「神と虫」の件に関しても時期によっては事件扱いになっていておかしくないので、調査のためにもう少し具体的な情報を元増田には尋ねたい。
人は自分が都合の良い用に考える。日々、警察の不祥事を批判しているニッポン・リベラルは、なぜか「AEDを女性に使って良いか」問題では、警察は100%理性的に行動し、AED使用者を逮捕するはずないと信じる人が多い。
人は自分が都合の良い様に考える。そうだね。
ついでに。
別に情報拡散だとか発言の際に絶対に失敗すんなって言ってるわけじゃなくて、そりゃみんなもっと慎重になるべきじゃねとは思うけど、うっわ失敗したーと感じたら無理に軌道修正しようとせずに素直に認めてアップデートすりゃいいんだよ。
それが考え続けるってことだと俺は思ってる。
ニッポン・リベラルという言葉が具体的にどういう思想の人たちのことを指すのかちょっと調べた限りではよく分からんのでここでは触れない。
「スーパーモンキーズ」初期メンバーが明かす“アムロの圧倒的才能”
「(安室)奈美恵は最初、友達の付き添いでアクターズスクールに来たんです。第一印象は、色が黒くて、すごく細くて、ごぼうのよう」
そう語るのは、ダウン症の子どもたちのためのエンタテインメントスクール「LOVE JUNX」の創設者・牧野アンナさん(46)。父は、あの安室奈美恵を見いだした沖縄アクターズスクール(以下・アクターズ)の創設者で校長のマキノ正幸さん(76)。アンナさん自身、スーパーモンキーズの結成メンバーとして、安室とともにデビューした元アイドルだ。
引退後も、アクターズのチーフ・インストラクターとして、MAXやSPEED、三浦大和、黒木メイサ、満島ひかりなどを育ててきた。現在は、AKB48やSKE48の振付指導も担当。SKE48のファンからは、その厳しい指導ぶりに「鬼軍曹」「クラッシャー・アンナ」などと呼ばれている。
安室がアクターズに現れた’87年当時をアンナさんが振り返る。
「どちらかというと暗い感じで。レッスン場でも隙間に隠れるようにしているし、発声練習のときも手で口元を隠すような女の子でした」(アンナさん・以下同)
ニコリともせず、事務所の隅でモジモジする10歳の安室に、誰もがスター性など感じなかった。ところが、正幸さんは違った。安室の歩き方だけで、輝くオーラを感じたのだ。一度、帰りかけた安室を呼び戻し、母親に電話を入れ、「特待生にします。授業料はいりません」と、その場でスカウトしてしまう。
そして、正幸さんはアンナさんやアクターズの生徒たちに、「俺は奈美恵を特別扱いする。おまえたちとは才能が違う。奈美恵は絶対、スターになる」と宣言した。当初、アンナさんは、半信半疑だった。
「後になって、奈美恵を後のMAXのミーナと一緒に『ちびっこのど自慢』に出したんです。ミーナは歌がうまいと評判で、私たちの間では断トツの優勝候補でした。ところが本番になったら……」
無口で、いつも隅っこにいた安室が、ステージの上で突然、スパークした。明るくはじけて、踊り、歌った。
「驚きました。その姿に、私も『イケる!』と思いました」
歌と踊りがとにかく好きで、無類の負けず嫌い。母子家庭だった安室が、往復260円のバス代を浮かすために、片道1時間半の道のりを歩いて通っていたという話は、アクターズの伝説になっている。
「難しい子ではありましたね。まず、言うことを聞かない」
練習をサボるのではない。練習をしすぎてしまうのだ。「練習しすぎで、喉の状態がおかしいから控えなさいね」とアンナさんが言った直後に、レッスン室から、安室の歌声が聴こえてくる。慌てて、注意をしにいくと、聞かないふりをして、まだ、続ける。
「人から指示されてするのは嫌だったんでしょう。嫌なことは、絶対に嫌。何時間、説得しても、横を向いてツーッと涙を流し始める。後年、本人が言っていました。『言いたいけど、うまく説明できないから』と。言われたことが理不尽だと感じていても、それをうまく伝えられなくて。葛藤の涙だったんでしょう」
やがて、20歳のアンナさんをリーダーに安室、後のMAXのナナとミーナ、そしてヒサコ(新垣寿子さん・振付師)の5人で、スーパーモンキーズが結成された。’92年1月、5人で上京。大田区の3DKのマンションで共同生活を始め、9月には、第1弾シングル『ミスターU.S.A.』がリリースされた。
だが、すぐに売れたわけではなかった。東京のスーパーマーケットのレジ前で、パフォーマンスをしたことも。
「私なんて、胸のうちで『サイアク』と思いながら踊っていたのに、奈美恵は『歌えて踊れて、楽しかった』って、ニコニコしながら言うんです。私とは違うなと思いました」
デビュー前は、アンナさんがセンターだったが、デビュー後は、安室に代わった。
「ステージで一緒にパフォーマンスをしていると、わかるんです。観客もスタッフも、みんなの視線が奈美恵に集中する。技術も大事だけど、もっと大事なのは、人を引きつける魅力。奈美恵にはそれがある。でも、私にはなかった」
圧倒的な才能の差を目の当たりにして、アンナさんは、父の言葉を思い出していた。
《スターになるのは、才能を持った人がさらに努力した結果だ。おまえは裏方。裏方として輝く道だってある》
’92年年末。アンナさんはスーパーモンキーズをやめて、沖縄に帰った。スターになる夢はきっぱり捨て、指導者として生きる道が定まった。
「奈美恵は、できる子なのに、チヤホヤされてもてんぐにならず、もっと努力できる。あ、でも、彼女のは、努力じゃないのかもしれません。道を歩いていても、奈美恵は自然に体が踊っちゃってる。私だったら、どんなに楽しくても、『さぁ、やんなきゃ』になる。でも、奈美恵は自然に踊っちゃって、歌っちゃってる。『やんなきゃ』じゃない。それこそが才能なのでしょう」
現状に対する(悪い意味での)新しい変革となる
・一刻も早く変革を元に戻して従来の現状が戻ることを期待
ところが早期段階で皆がマスクをするようになったのに加えて
志村けんがお亡くなりになった影響で
***
となると後者を求めることになる
それでもいつまで経っても「非常時感」が消えない
2011年の311の時は非常時感が国民の結束を促す方向にも働いた
隣にいる同じ日本国民が潜在的な脅威(感染者かも?)とされてる
「悪い変革を元に戻す」感は乏しかった
***
ちな、「大衆的保守は現状維持(≠戦前復古)」という観点に立てば
そして保守的な大衆には性急な変革は(復古的な変革でも)望まれない
竹島奪還も、拉致被害者の奪回も、とりあえず口にしているだけで
心底から本気そうには思えなかった
大学生のころには1970年代には、すでに大学はレジャーランドと呼ばれ
ユーミンのようなニューミュージックが流れる消費文化のまっただ中
2010年代になっても嬉々として「私をスキーに連れて行って」ごっこをしてる
富川悠太アナが鬼嫁と言う記事を見て、「あ、これうちじゃんw」って笑ってしまった。
嫁は自分の親・兄弟と仲が悪く絶縁状態。俺の実家とは仲が良いが遠方なので年一会う程度。
結婚する前は嫁はすごい気が効く優しい人だった。が、結婚してから豹変。ちょっとしたことでヒステリックに激怒するようになった。たまにトイレの電気を消し忘れただけで、鬼軍曹な太い声で「トイレの電気消せっていってんだろおおおぉぉぉ!!!」と怒鳴り込んでくる。本人としてはそれは怒っているわけではなくただの指摘らしい。ちなみに嫁もよく消し忘れる。
嫁自身からも「家族だと思うと止められない」とはっきり言っていた。結婚前まではセーブしていたらしい・・・。
確かに、結婚前に嫁の実家に行った時に嫁の親とか兄弟に「部屋が汚え!」と怒鳴ってたわ。あの時は「自分はこんな扱われ方はしない」って思っていて完全に正常バイアスだったわ。これから結婚相手を探す人は、親・兄弟との仲をよく見ておいた方が良い。ちなみに嫁も片付けられない人だ。
嫁はプライドが高く基本他人を見下している。その態度で友達を失ったこともある。そしてフェミニストで女性軽視な発言や出来事には激昂する。怒りの沸点が低く、一般人の「それダメだよ」の軽い指摘が、嫁がやると「何やってんだおらああぁぁぁ!!!」になる。
嫁が他人を見下せるほどできた人間なら良いのだが、まったくそんなことはない。
怒りっぽい人のあるあるだが、他人に厳しく自分に甘い。怠惰な暮らしで体重は年々増えている。
出会ったときの正社員の仕事はやめ、今は趣味みたいな利益のほとんどでない(ってか赤字?)仕事を個人でやっている。他人に指図されるのが嫌いなので、組織で働けないのだ。そして家事は全然できない。料理はかろうじてできるがそれ以外の掃除・洗濯などは一切やらないのですべて俺がやっている。
子供にも同様に厳しく、幼児のころから能力開発系の通信教育をやらされ、今も習い事と学習塾で忙しく友達と遊ぶ時間なんて皆無の状態だ。そして、うちの子は不器用な子で、自分が子供の頃と比べても勉強も運動も全然できない。そんなんだから、嫁はさらにヒートアップ。休校中の今は毎日家で嫁の怒号が飛んでいる。
最近の話ではないが、昔実際に警察も来たことがあるらしい。嫁の怒号と子供の泣き声で近所の人が虐待を疑って通報したらしい(その出来事があってから数年経ってから子供から聞いた)。そのときは注意で終わり、次またあったら逮捕しますということを言われたとか。
そんな嫁と俺との関係なんだけど、喧嘩する段階はとうの昔にすぎ、今は家庭内別居状態。完全にただの同居人。最低限の会話しかしない。子供のことに関しても俺が口を挟むとかえって炎上するので、暴力が起きそうなよほどのことがない限りは静観している。家にいても息苦しいので週末は日中は公園とかで読書とかゲームとかで時間潰している。
子供はと言うと、そんなママでも好きらしい。嫁は子供には優しい時は優しいのだ。割合でいうと5%くらいだけど。そんな感じなので、子供のことを考えると離婚もしづらい。したいけど。ちなみに嫁と離婚話をしたことも何度もある。
・すぎむらしんいち『右向け左』
美少女キャラとか出ないし絵柄もオタ受けしないから挙げる者はおるまい
士官学校の話だが鬼軍曹に訓練を受けるシーンばかりで実戦場面ゼロ
主人公は話の最後の最後で出撃するけど敵と戦闘しないまま終わる
主人公らは特攻機に乗るけど戦闘シーンはラストのホンの数分だけ
終盤のホンの数分で主人公が出撃するけど特攻失敗でデッドエンド
「軍隊は三食メシが喰えて嬉しい」とか言ってるだけで戦闘シーンはほとんどないな
やっぱり戦闘シーンはほとんどなくて、しかも戦後に復員してからの話が大部分
――こういう「戦わない軍隊(兵隊)もの」って結構あると思うんだがな。タイトル忘れたけど、昭和の後期にも航空自衛隊の整備士のマンガとかあったよな。通信兵とか衛生兵とか伝令とか戦わない部署って結構あるし
女もな、あとゲイもな、ガタガタ言ってないでむしろこの表現の自由度を逆手に取って、AV作ったらええねん。みんなで表現の自由を楽しもうや。
設定は日本人♂を屈強な白人の鬼軍曹♂たちが拷問するとかで。軍服は腐女子、ゲイウケいいし最高やろ
とりあえず日本の男は首輪つけさせられて全裸で犬のポーズ。複数レイプ、精子と自分の糞尿のかかった食事や水をおいしーい!もっとくださいワン!と笑顔で言いながら食わされる、我は白人チンポで感じる劣等国民でありますううう!日本バンザイ!ってケツマンコイキまくり。フェラでイマラされてオエオエ言いながら気持ちいいワン〜って言いながらごっくん。最後は特殊技術の実験体にされ、妊娠して腹が膨れてるのに犯され続ける。子供だけは助けてえ!アンアン♥と言いながらエンド。
豊田真由子に眉をひそめながら蜷川幸雄や日野皓正を高く評価している奴って、すごく多そうだよな。
そう考えると豊田のおばはんは、今にして思えば就く仕事を間違えたね。彼女は政治家よりもスポーツの指導者や演出家、映画監督にでもなれば良かった。
そうすれば周囲の人はみんな「いやー、豊田先生はとても厳しい鬼軍曹を絵に描いたような方でねぇ。彼女のスパルタ指導には何人もの人がバタバタ辞めていったんですよぉ」「皆、豊田監督にしごかれ怒鳴られ殴られて一人前になっていったんですよねぇ」「でも本当はとても素晴らしい人格者でねぇ。厳しいけど言っていることは的を射たものばかりでした。だから今でも皆に慕われているんですぅ」などとちやほや持て囃してくれたろう。
現にそんな奴、このご時世においても掃いて捨てるほどいるじゃないか。
補論の補論のそのまた補論みたいな発言になってしまうが。
"体育会系"というネーミングを再考するべきかも、と思う。
あなたが言いたい"その種の人たち"を指し示すのに、長年使われているし、
なにより、おそらく他のどのネーミングよりも適切なイメージが沸くので、もったいないけど、
"体育会系"という言葉から、短絡的にバスケ、野球、サッカーを厳しくやっている集団の出身者、と
受け取る(あるいは、カラむために意図的に曲解する)人も居ると思う。
ひたすら良いパフォーマンスを追及している本当のスポーツマンは、プロ/アマ問わず、
もっと内省的だったり、オープンマインドだったり、個人主義者だったりする。
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ちなみに、演劇部とか吹奏楽部のクズ系クラブは、体育会系クズそのものだし、
あろうことかオタ系サークルでも、「俺たちは馴れ合いクラブじゃない!」とか
マジで標榜していて、イベントとか創作活動の段取りの良し悪しにダメ出しをして、
驚いたのは、MMORPGで、「仕事があるからログアウトしたい? 甘ったれんな!!!!!」
なんて発言が飛んでるって聞いたとき。
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集団主義。精神主義。上下関係の押し付け。不合理な文化の固守。シゴキが大好き。
だからこそ序列を這い上がろうとして他人を蹴落とそうとする。
序列が下の人間を確保して囲っておこうとする。
自分なら、そうだな。"軍隊式"、"スパルタ式"、"旧日本軍式"とか。
どれもしっくりこないな。
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あと、ここまで飛び交った社会人の類型は体育会系、文系、理系の3つだけど、
群れる、シゴく、ハブる、侮辱する、みたいなコミュニケーション的な意味で迷惑。
文系が策謀をめぐらせる下で、その手先として体育会系が下士官というか鬼軍曹をやってる感じ。
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嫌がらせをしてくる感じ。
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ちなみに自分は理系のクズで、ただし最低限のルールというかモラルとして、
「理屈並べてねぇで、黙ってやれってんだよ!」とかドヤされたら、
「それをやると機械が止まりますけど、いいですか」とか注意を喚起しないで、実施しちゃう。
結果として大トラブルになったら、「ご指示に従ったまでですが、何か?」とか。
ヘルプ用アドレスにメールをよこさないで、「俺がやれってんだから、今すぐやれよ!」とか
椅子を蹴飛ばされたら、超最低限の応急処置だけして、問題がおきたら、
「いや、自分が何をしたか記録が残ってないんです。メールのやり取りがログを兼ねてるもので、
どんなレガシーシステムがあろうと、ブラックボックスがあろうと、
使い捨てのスクリプトが山ほどあろうとも、要求されただけの引継ぎだけして、
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……というわけで、最終的に何が言いたいかというと、
1)社会人だったら誰でも、1人の中に文系、理系、体育会系の要素が混在していて、
ただ、大抵はどれかが突出して表面に出ている。
2)どの系にもクズは居る。
クズと非クズの境界線は"対話の拒否"と"多様性を受け入れることの拒否"である。
3)そして、まことに残念なことに、部活動の段階からして、体育会系には
クズを育成、量産するシステムが制度として出来上がってしまっている。
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こんなところかな。
はてな界隈では女性性に魅力を感じている男女が多いように感じるけど私は女性性に魅力を感じた事など一度も無い。
封建的なド田舎の家庭に育った私にとって女性性とはいかに笑顔で家に尽くせるか以外の何物でもない。女子力是即ち労働力なのだ。
私の母はずっと私に「女の子はハイニコポンじゃなきゃだめだ」とか「お父さんは立てなきゃだめだ」みたいなことばかり言い続けてきた。
(注:ハイニコポンとは、何かを申し付けられたら「ハイ」=気持ちの良い返事、「ニコ」=笑顔、「ポン」=黙って実行、すること)
よくテレビにはおしゃれや菓子類、アイドル、恋愛体験なんかの話をしてきゃっきゃうふふする母子が出てくるけど、そんな話をしたことは20数年の人生において一度も無かったし、
物心ついた時点で父と母の間には多分恋愛感情なんか無かった。そんなもの労働の現場ではあるだけ邪魔だからだろう。
両親にあるのは家族という組織を維持しようとする規律だけ。母が父を立てろと言うのは慕っているからじゃなくて組織の統制のためだったのだと思う。
こう言ってはなんだけど父と母の関係は頭でっかちで頼りない仕官とそれに仕える鬼軍曹(現場を取り仕切る事実上のリーダー)によく似ていた。
で、女の私は下士官候補生としてずっと忙しない母を傍で見続けてきた。
存在感の無い父を立てて、兄の尻拭いをし、寝たきりの祖父母に献身的な介護をして・・・怖くて仕方なかった。
あと十年すれば自分の番になってしまうのかと思うと怖くて気持ちがどんどん重くなっていった。
少女時代というのがこの修羅場までの猶予期間だと言うならとても楽しむ気にはなれない。そもそも楽しみ方が分からない。
一切の無駄が無い環境で訓練され続けたせいか思春期を迎える頃にはすっかり女の子女の子したものへの興味がマイナスになっていた。
大人になった現在、母の教育を拒んで一人暮らししているけど女性的なものにはどうしても嫌なプレッシャーしか感じない。魅力や良さがさっぱり分からない。
この分ではどこで何をして暮らしても生きづらいままだと思うけど、どうしたらよいものか。