はてなキーワード: 仕官とは
出生
天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。
武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。
遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[2]。伊奈忠次、彦坂元正と連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている
甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。
慶長6年(1601年)春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。
慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。
慶長10年(1605年)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。
慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[5]。享年69。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。
ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。
黒田騒動(くろだそうどう)は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。
経緯
黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船「鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽を新規に雇い入れるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。
大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月、将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。
題材にした作品
江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初は瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化され、こちらも大好評を博した。
また、この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。滝口康彦の小説『主家滅ぶべし』では、利章は真面目で実直なものの、その忠義も独善的であるため主君と家中から疎まれてしまい、忠臣としての自身を保つために引き起こしたものとして描かれている。
楚の荘王(3年間愚かなフリをして周囲を油断させたという中国春秋時代の名君)
斉の威王(9年間愚かなフリをして周囲を油断させたという中国戦国時代の名君)
韓信(若い頃は馬鹿にされており仕官しても出世しなかったが漢の大将軍に抜擢されると大活躍した)
陸遜(無名のため侮られていたが夷陵の戦いで劉備の大軍を撃破した)
織田信長(うつけと言われていたが桶狭間の戦いで今川の大軍を撃破した)
長宗我部元親(姫若子と呼ばれていたが初陣で活躍して鬼若子と呼ばれるようになった)
大石内蔵助(平時は凡庸で昼行燈と渾名されていたが赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを成功させた)
もう思いつかん。
その内容は、明石の海賊から大江山の山賊への手紙のようなもので、なんともわけがわからなかった。
「先日の手紙の返事がないので、そちらに九重姫を送ったがやはり音沙汰がない、姫は到着したか」とある。
鹿之助は驚き、明石の海賊が九重姫をさらったかと合点して、その退治に出かけることとなった。
船頭を雇い、海に出てしばらく進むと、向こうから来るのはまさしく海賊の船だと船頭が言う。
鹿之助がその船に乗り込むと、なんと船底より大谷古猪之助・早川鮎之助・横道兵庫之助が現れた。
古猪之助が語るところによると、まず事の発端は大江山の山賊が宗教卿の手紙を奪ったことである。
それを読んだ山賊は、鹿之助からの使者になりすまして九重姫を誘い出し、そのままねぐらに連れ帰ってしまった。
古猪之助は、鹿之助が仕官したという噂を聞いて約束を果たそうと播州へ向かう途中、大江山で山賊に捕まりその手下として働いていた。
そこで九重姫と出会って事情を聞き、姫をつづらに入れて逃げ出したところ、今度は舞子の浜の宿でつづらを海賊に奪われたのだと言う。
兵庫之助のほうは、大坂の店に送ったはずの浮舟が、まもなく兵庫之助を慕って追いかけてきたので困っていたところ、
九重姫と共に浮舟も海賊にさらわれてしまったので、同じ宿に泊まっていた古猪之助と協力して救い出そうとした。
二人して海賊の棟梁に襲いかかったところ、その棟梁というのが実は鮎之助であり、同じく鹿之助の家臣であることが判明したのだと言う。
鮎之助はと言うと、やはり鹿之助のもとへ向かう途中で海賊に襲われたので、その棟梁を返り討ちにしてやった。
見たい。こんな感じのやつあったら教えてください。
辺境の小さな村に仕える女騎士は闇夜に蔓延る盗賊やならず者から村を守ることで村人から慕われていた。天下一と言われる女騎士の剣術で村に平和がもたらされていたが、代わりに課した条件があった。
なんと、それは年頃のショタを女騎士に差し出すことだった。年に一度、村人たちが楽しみに待つ収穫祭の夜に犠牲者は決められる。
饗宴が最高潮に達したころ、女騎士はテーブルを見渡し千鳥足で一人の少年に歩みよると半ば強引に肩を掴み奥の部屋へと連れ去った。ろうそくの炎で照らされた少年の顔は蒼白になると同時に、テーブルに残された人々の顔には安堵の色が広がる。
このあと、三日三晩繰り広げられた驚きの行為とは...
第二章「正義の鉄槌」
女騎士のショタを求める欲望は初めのうちは祭りのときだけだったが次第にエスカレートしていった。その噂は「辺境のショタ喰女騎士」として皇帝に耳に入るほどになっていたので、皇帝は一人の密偵を村に派遣し現状の調査を命じた。後に皇帝の大失策として語り継がれるこの密偵はショタだったのだ。旅人に扮して辺境の村に向かった少年密偵は、女騎士の館で歓待を受ける。ギラギラとした欲望のまなざしを向けられながら夕食を共にしたすぐ後、隣室で村の少年が四肢を押さえつけられ凌辱されているのを目撃してしまう。噂は本当だったのだと確信した密偵は急いで駆け出し、全力の逃走劇を繰り広げる。しかし、百戦錬磨の経験値と鍛え上げられた強靭な肉体を持つ女騎士からは逃れられず捕まってしまう。
後日、皇帝に出された報告書にはたった一言だけ「女騎士は優しくもてなしてくれました。」と書かれるのみだった。少年密偵を呼び出し問いただしても、頬を赤く染めながら同じ言葉を繰り返すのみであった。
いったい、彼の受けた女騎士からの深くて熱い「もてなし」の真相とは...
肉欲の限りをつくした女騎士の行動もついに白日の下にさらされ、騎士としての身分をはく奪され失意のままその一生を終えると思えた。しかし、その国に並ぶものはいないと言われた剣術の腕が彼女を救った。彼女は名前と容姿を変えて剣術の師範として皇帝に仕官したのであった。女騎士としてではなく一人の女として第二の人生を始めた彼女は狂い始める。なんと、皇帝はショタだったのである。ショタ皇帝に身体を密着させての剣術指導を重ねていくうちに自らの欲望を抑えきれなくなった彼女は...
天下布武を唱え、腹心であった飯島摂津守及び家臣団五人衆、すなわち中居弾正、木村内匠、稲垣五郎右衛門、香取金吾、草薙武蔵らの離反も、その強大な力により押し潰し、今や鳥を落とす勢いであった喜多川右府が、突如、京にて薨去されたとの噂が、日の本じゅうを駆け巡った。
ある者は流行病によるものと噂し、またある者は家臣による毒殺とも噂しあったが、果たしてその真相は、右府の生死も含めて杳として判らなかった。
マスメディアが十分に発達した現代とは違い、当時は、重大な事件は全て人々の口伝えに頼らざるをえない。戦国武将達は、不確かな状況の中で自らの去就を決めねばならず、その対応如何によって、ある家は栄え、ある家は滅びるといった悲喜劇が、絶えず繰り返されたのであった。
ところで、右府のもとには、二人の有力家臣がいた。木村内匠と滝沢左近である。
木村内匠については、飯島の乱において仲間の謀議を主君へ密告した功により取り立てられ、右府からの覚えもめでたく、非常に権勢を振るったことは、既に述べた。(https://anond.hatelabo.jp/20160119162624)
もう一人の重臣、滝沢左近は、元は一介の素浪人であったが、右府に仕官すると俄に頭角を現し、今や右府の最側近として大いに活躍していた。
さて、両者ともに、この悲報に接したのは、京から遠く離れた土地であった。
その時、木村内匠は、右府の命を受けて城攻めを行っていた。梅雨空の下、城の周囲に幾重にも堤を築き上げ、増水した川の水を中へ流し込む「水攻め」を行うこと約1ヶ月、もはや天守は湖の中の孤島と化していた。
「ってゆーかさぁ、もうそろそろ落ちるんじゃね?」
そんなある晩のこと、勝ち戦への楽観が広がりつつあった木村陣営に、突如、右府逝去の激震が走った。京からも離れていたため情報が錯綜し、いつしか町奉行である東山越前守により弑逆されたとの誤報にすり替わっていたのだった。
突然の悲報に接し、大声を上げて悲嘆する木村内匠に、その妻、静御前は冷徹な言葉を投げかけた。
「殿さま!今すぐ京へ引き返して、逆賊、越前守を討ち滅ぼし、御館様の無念を晴らすのです!」
「よく言うた。それでこそ我が妻よ!」
木村は電撃を受けたように飛び上がると、すぐさま敵方と講和を取りまとめ、全軍を京へ向けて引き返し始めた。
一方、滝沢左近は、遠く関東にてこの悲報に接した。ただし、右府の側近中の側近であったことが幸いし、在京の東山越前守から直接、正確な情報を書簡で受け取ることとなった。滝沢左近は、俄に活発化した敵勢と対峙しつつも、手堅く京へ軍勢を引き返した。
実際のところ、この時点では右府はまだ逝去してはいなかったが、今で言うところのクモ膜下出血により、ほぼ危篤状態であったらしいので、死へ向かいつつあったというのが真相であろう。だが、意識を失う直前、右府は「余の影武者を立てて、死を三年間、隠すように」との遺言を、側近の東山越前守へ伝えていたため、先のような虚実入り混じった噂話を生む結果となってしまったのだった。こうして、両者が接した情報の確度の違いが、やがて両家の命運を全く違うものにしてゆく。
まずは木村内匠であるが、弔い合戦のつもりで軍勢を摂津と山城の国境、山崎まで進めたところで、東山越前守の軍勢と対峙することとなった。
「やれ、賊軍ども、なにゆえ京へ攻め上った!御館様に楯突くものは、尽く成敗してくれる!」
木村内匠、答えて曰く、
「傍ら痛いわっ!お前こそ、御館様の亡き後、政を私しようとする賊軍であろう!」
「何をたわけたことを!ここに、御館様はおわすぞっ!」
銅鑼の合図とともに東山軍が左右に割れると、その間から見覚えのある輿が進み出てきた。そう、それは右府の豪奢な輿であった。
「やばっ!御館様!」
突然の状況に、木村軍は戦わずして敗走を始めた。更に間が悪いことに、関東より引き上げてきた滝沢軍が退路を断つ形になり、木村軍は徹底的に殲滅されることとなった。
ちなみに、東山越前守の機転によって引き出された輿であったが、その中には、既に意識のない主人が乗っていようとは、木村内匠は知る由もなかった。
こして敗退した木村内匠は、ひとり戦場より落ち延びると、ある禅寺でひっそりと出家して生き延びたという。一時は、かつて裏切った自分の主君であり、既に出家して名を改めていた飯島摂津守の元に、弟子として身を寄せていた時期もあったようであり、何とも皮肉な人生である。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
ホント嫌になった。
魔術とか弓とか…持っている武器?というか職種?でそうなってるからって戦闘中でも安全な位置から動かない奴がいるのよ。それもパーティの中に。俺が身を呈して守ってやってんのにそいつらときたら適当に矢をばらまいたり、火球が飛んできたくらいで術の詠唱やめてんの。やる気あんのか。攻撃は最大の防御だろ?お前らには俺の傷をひとつでも減らそうという気はあるのかい?ええ?召喚系の奴なんか自分じゃ何にもやらないのに経験値貰ってるんだよなあああ……あいつ何なの?何の経験を積んでるんだよ下僕の管理経験か。管理職が何の利益を生むんだよ?ああ?
天は二物を与えない。
攻撃の柱になるために重い装備を諦めたのは分かる。その逆が俺だからな。
でもさぁ……俺が3体の敵に10回ずつ殴られてる間にお前らは何回攻撃できてんの?33回攻撃できんの?それも途中でやめたり外したりしてるよな?
あっ、ここでわかった天才だわ、
魔術の使える重装兵になれば最強じゃね?指先と口先だけ動けばいいんだしフルメタルアーマー着てても行けるんじゃねーかな。重装魔術士とかアリだよアリ。馬に乗った魔道士とかいるし全然アリ。天馬やホウキに乗ったり自ら飛ぶ術もあるんだから上空から進路上に隠れてる敵を爆撃することもできるはずだよな!なんでそういうこと考えないの?バカなの?丸暗記はできても知的創造はできない詰め込み教育世代なの?
地方によっては白魔術士+戦士=ナイト(自己回復できる盾役!)という定義もあって、俺としてはこれを全世界的に広めたい。ただ消耗するだけの盾役なんて人気出るわけないじゃん?一応戦士だけど他方では客商売ですからな。盾役で主人公やってる奴なんてまずいない。まぁいるにはいるがほんの、ホンーっの、ひと握りだ。そいつらの名前わかる?分かるわけないよね?主人公なんだから世間一般では盾役だとは認知されてないんだよ((爆笑))じゃあそこそこ有名な奴で盾役をひとり挙げてみろって言ったらどうよ?挙げられるわけねえ。盾役なんてそんなもん。「後ろ盾」とは言うが、後ろになんていちいち気が回らないから後ろ盾が大事なんでしょ?盾役なんてそんなもん。まったくもってそんなもん。じゃあ有名でも何でもないイッパシの戦士でしかない俺はどうなるんだよ?すごい遠いところで言うとヌリカベか?石崎くんか?あいつらには仲間のピンチという見せ場があるから有名になれてんだよな。でも世の中そうそううまく出来てるモンじゃねえし。そいつら戦士じゃねえし。
結論を言うとな、戦士にはキャリアパスが無え。騎士なら魔術方面含めてエリート街道まっしぐらよ。何が違うんだ?たかだか仕官してるか傭兵かの違いだろ。能力的に差があるわけじゃねえ。要するに高い身分に生まれれば物理系も術系も両得できる、前でも後ろでもオーケーのオールラウンダーになれるってわけだ、くそが。結局血筋なんだよなあああジャンプ作品か!俺はそんなの認めねえ!!
【追記】
投稿してまもなく法術士に見つかり「あなたの傷を癒してバフ与えてやってんのは誰でしたっけ」となじられました。ハイあなた様です。というわけで回復系は対象から外します。ただし魔術士!テメーは(略
あと弓系もダメね。火力が無いのに安全圏から石投げてるようなものだからね。
それと俺が引き受けるのは物理だけね。それはパーティどころか全世界的に認められてる戦士の制約ですから。魔術の専門職なのに術に怯むような人の意見は不要です。
【追記 2】
ストやめました。もうバレてるので。あと調べてみると戦士の求人ってそんなに無いんですよね。実際問題。
そんなことよりも転職しようと思います。なんか最近みんなで気づかってくれて、パーティの戦術が低リスク寄りになりました。これまでの頑張りのおかげか、そんなにガツガツしなくても生計と増強が両立できるようになってきたんで。そんな方針変更とも相まって、俺も回復能力を身に付けてサポート役を2枚にしようということになりました。
ネットで調べると戦士の上位職に回復系の術をマスターできる職業があるらしいです。専門職と比べると術の修得に時間がかかるらしく、戦士としての力も相当に衰えてしまうようで、そうやすやすと行きそうにはありませんが……仲間はみんな後押ししてくれています。
斉の宰相妟子(妟嬰。春秋史上最高の名宰相妟管子の片方)に「コイツの理屈は王侯貴族にしか通じない」と称される程、
それなのに弟子の顔回があまりにも有名でその師匠曰くという所に魯の孔子が出て来るだけで、
加えてこの孔子と言う人物は中国曰く聖人君子の代表格とされるが、
呉の季札同様さして何かを成し遂げたでもないのにやたら持ち上げられる。
伝え聞いた所では……という塩梅で多少誇張された表現がこの孔子の周囲には多い。
更に孔子は当時仕官を断った妟子に対して、後に大した事がない奴だと扱き下ろしてる。
このように自分で何かを成し遂げていない上に傲慢な人間にも拘らずやたら名声だけが付いて回っている人物が
三国時代に目を向けると、劉備玄徳や関羽雲長、諸葛亮孔明が「三国志演義」の影響から史実以上に聖人君子の扱いを受けており
これまた中国では尊ばれている。
逆に孫子の兵法書を編纂し、中国大陸の三分の二を掌握して漢王朝を永らえさせた曹操孟徳に対しては近年こそ
再評価されつつあるが、それまでは悪逆非道の代名詞とまで貶されていたのだ。
そう考えると中国では創作や民話伝承の類が信じられやすい、言い換えれば単純な人間が多いために、このような誤解が
筆者が大好きな猛将魏延などの忠臣は演義のせいで墓まで荒らされて現在は鉄道が作られている始末である。
このように、中国は史実に全く目を向けず自分たちにとって都合の良い虚構にばかり信奉しているのだ。
そう思えてならない。
たまたま記事が目に入ってきたのですが、思うところがあったので書かせて頂きます。
当方関東のどこかに住んでいる二十代後半男で、歴史系ウェブサイトを立ち上げる為に頑張っているところです。
仕事柄いろんな場所に行き、地域の裏山なんかに眠っている中世の城跡の歴史などを調査する為に茂みの中に入って行く事が多いのですが、
中世の城跡、つまりかつて戦国時代に軍事拠点であった場所の地権者って、代々農業を営んでいる方が大変多いのです。
それはなぜか。
私自身の話が分かりやすいかと思うのですが、私の実家のお墓は地域の小高い山の上にあります。
地域に数件ある増田家の墓のみがその小高い山の上にあり、増田家以外の墓の多くが同じ地域の低地にあるお寺の敷地内にあります。
てっきり増田家は地域の爪弾きもので、いじめられっこだったのかと勝手に思っていましたが、
どうやらその墓地周辺が中世戦国末期の城跡の主郭付近であり、増田家はその城主だった、とのこと。
そして現在の増田家は、やはり農家。江戸時代は庄屋さんで地域でも裕福だったが、やはり農家。
なぜ農家になったのか?
仮に小寺家としますが、小寺家の重臣として召し抱えられて、現在の実家近辺の統治を任されていたとの事。
その小寺家は隣の隣の隣ぐらいの町を拠点とする赤松家(当然仮の名)によって追放され、
増田家は赤松に下り(前述の低地のお寺は赤松の菩提寺の末寺)、その赤松も
当時関東平野制覇を目論む小田原の後北条家にやがて下ることになる。
北条家は赤松家を頭としその地方一帯を統治する◯◯衆を組織し、
増田家もその◯◯衆のメンバーとして、引き続き実家付近を拠点に統治を続けたとのこと。
そして問題の小田原征伐。豊臣とその取り巻きにて小田原を包囲し、関東地方一帯の小田原方の城郭が同時に攻撃を受ける。
上杉・前田・真田に攻められた八王子城の惨状や、忍城の成田家の奮闘はこの時の事で、うちの実家付近の拠点は簡単に落城。
増田家の筆頭は小田原城に籠もり、◯◯衆として勇敢に立て篭った、のかもしれない。
そして小田原北条家は滅亡し、関東の統治ネットワークはそのまま徳川家に与えられ、関東には徳川の家臣が流入してくる。
元々関東のそれぞれの地方を統治してきた◯◯衆の大半はその際に潔く農業を取り仕切る庄屋層に転身し、
残りの一部は徳川への仕官を申し出てたりして引き続き武家である事にこだわり続けたとさ。
かくして、関東の大半の武士が農家になり、少数の徳川家臣による統治を受け入れた。
この話を土地の古老に話したりすると、忘れ去られていた「イエ」の記憶を取り戻したようで、いたく感動される方が多い。
また逆に、「当家は代々武士の家系で・・・。」といった方に話をすると、複雑な顔をされる方が少なくない。
身分は固定されたもので、名前とともに受け継がれるようなイメージを漠然と抱いている方に多いのですが、
「単に先祖が徳川方に付いて頑張っただけ」というストーリーに聞こえ、どうも「武士の家系」イメージに合わないらしい。
(ちなみにこれらは関東の話ですが、土佐の長宗我部と一領具足の結びつきが幕末の坂本龍馬の時代まで尾を引いた事を考えると、全国各地である事なのでしょう。)
この話を踏まえて、血筋とは何なのか。
「イエ」の物語やその教訓は代々守り伝える限り残るが、
遺伝的な意味での「血筋」がはっきりと出るのは数代の限りなのではないかと考えている。
農家さんの多くが確かに自分たち自身を「ただの百姓」と呼び、学も無く品格も無い、と自虐的に語るが、
失われた歴史をストーリーとしてお教えすると、生き生きと誇りを取り戻す。
しかしながらそれまで受けてきた教育は変わらないし、次世代に何を教え残すかも教育者としての自分次第。
ちなみに「農民」で一括りにされる事が多いですが、庄屋層は江戸時代からかなり恵まれた教育環境にあったとのこと。
うちのばあちゃんも地域で唯一女学校に行かせてもらえたらしく、単に士農工商とかいうファンタジーではくくる事が出来ない場合が多い。
家庭環境の違いは生まれによって確かにあり、教育の質は当然大きく変わってくる。
また、「武士の家系」という代々受け継がれる「イエ」の物語が作り出す誇りと自信も大きいのかもしれない。
千葉県の某所にやはり「武士の家系で・・・。」という誇り高き地主タイプの方がいらっしゃいました。
その方の家はやはり小田原北条家に仕えていたとの事でしたが、なぜか江戸時代を通して武家として、徳川から本領を安堵されていたとの事。
何だろうな・・・。と思い調べてみると、何の事は無い、北条家に仕えながらも徳川家と内通をし、小田原征伐では豊臣側に付く代わりに、本領安堵の約束をしていたという(うろ覚え)。
「武士の家系」物語が作り出す誇りというものも、割と中身の無いものである。
(ただし、これも一つの歴史であり、武家としての「イエ」の歴史を守る、という意味では尊い決断なのかもしれない。)
教育の質に関しては、言わずもがなであるが、近代的な教育と人材登用システムが構築されてからはそのシステムをよく理解している事が肝心なのは当たり前で、
教育水準の高い家には、良い教育方針と良い物語が備わっているのかもしれない。
「物語」によって得られた誇りを胸に、立身出世を志す感覚が備わっているかどうかは大きい。
教育の機会も家庭の経済状況などに左右されてきたが、時代とともに様々な仕組みが生まれてきた。
貧困を理由とした教育機会格差の問題は、薄められてきた。「志」の教育を出来ているかが大きいと思う。
最後に大事になるのが、攻略法教育。つまり「受験」というペーパーテスト人材登用システムの攻略法を伝授できるか否か。
現代の引きこもりの人々は、高い志を母親、あるいはテレビや漫画から植え付けられてきたのに、
攻略法を持たないのでその理想と現実のギャップで屈辱感にまみれて腐っていく。(かなりもったいないと思う。)
そして、教育とは代々受け継がれるもの。早く気づいた方が有利なのは、間違いない。
明治時代から気づいている家庭もあれば、最近気づき始めた家庭もあるだろう。
クソ映画だとわかってて見たのにそれでも見てられないぐらいの凄さだった。
一応全部見なきゃいけないと思い録画して早送りしながらなんとか最後まで見た。
が、『ICHI』では演技が下手っていうレベルを超えているのでまるで演技する気がないように見える。
だいたい綾瀬演じる市は
極度に感情も表情も乏しく能動性の無い女、というつまんない人格に設定されていて
ほとんどのシーンでただ周囲の人の話を無表情無反応に聞いてるだけということになる。
こんな役を大根にやらせるので、本当に「ただ立ってるだけ」「座ってるだけ」をしていて、演技する気がさらさら無い。
(このただ座ってるだけの女にオッケーをだす監督も凄い。
静かな役なんかだけはやらすなと言いたい。
あまりの異様さに「こいつなんなの……!?」と違和感を覚えるのも最初だけで、
視聴者はすぐに市がどうでも良くなる。
他の登場人物も全くキャラが立ってないにもかかわらず。
眠くなるのとも違う新感覚。
悪役は中村獅童演じる「万鬼」という剣客が頭目の不良グループだが、
この万鬼は顔の火傷で仕官出来ないのを悩んでるだけのしょっぱい奴で
万鬼党は狂気と破壊衝動で暴れるだけの、バカが好んで描くタイプの悪役。
経済観念すら乏しくわざわざ住み心地悪そうな岩場に男だけで住んでおり
唯一の寄生先である宿場で無意味な殺戮を始めるようなアッパッパーだから
話の溜めもクソも何も無い。
悪い親分のところに市が上がりこんで行って
下手に出たりとぼけたり脅したりするような駆け引きも全く無い。
ほとんどショッカーレベルの悪役なので中学生以上だとシラフで見ていられない。
日曜朝の30分戦隊物でも『ICHI』よりはマシな脚本を書いている。マジで。
(一方、善良な民衆側の宿場の顔役は復帰直後の窪塚洋介がいつものあの抑揚で演じているが
全てが意味不明な『ICHI』ワールドの中では大変好感の持てる常識的なアンちゃんに仕上がっている。
この映画を見た人間はみんなちょっと窪塚洋介を好きになれる。)
・八州周りが宿場にやってくると街道の民衆が総出で土下座。大名か。
・八州様を宿場の顔役達が供応してるところに脈絡も無く万鬼党襲来。
よりにもよって八州様の目の前で住民の殺戮を始める。
「やや展開が無茶だけど万鬼党に抱きこまれてる八州だったかー」と思って見ていたら
血刀下げた万鬼党は震える八州の胸倉を掴み「見なかったことにしろよな!」と恐喝。
無頼の主人公が八州周りを殺しちゃうトンパチ展開も時代劇では稀にあるが、
田舎ヤクザが八州周りを単純に脅しつけて帰す展開は何気に史上初なんじゃないだろうか。
脚本書いてる奴〇ね。
綾瀬演じる市はただ杖持って伏し目がちにしてるだけ。
盲人の剣客、という役作りが物凄く大雑把に、
2「その上で自分なりの市の癖を作る」
だとして、
1すらやる気が全く無い。
歩き方も話掛けられたときの反応も何もかもが健常者。
一応目をはっきり相手に向けないことだけはしているが
内向的な市の性格なので多分目が見えても同じような動作になる。
平時でも修羅場でも、耳や全身で周りを窺う演技がまったく無い。
市の挙動は常に、ただ物事への反応が鈍い重度の鬱病さんかなんかにしか見えない。
というか、これさあ、製作陣は盲人を描く気なんか無かったんじゃないか?
なんか意図があっての事か、単にめんどくさかったのか、なんだかわからないが。
(少なくとも市の盲目設定を取り除いても『ICHI』には全く支障が起きない。
また、斬り合いだったら斬り合いで、
息を詰めたり飲みこんだりするような演技も綾瀬は全くやらない。実力伯仲の命懸けの斬り合いでも。
クールビューティとかそういう問題ではなく、もはや製作陣は脳や神経に障害がある。
こいつらが持ってる感情演出手法は目の端からポロリと流れるふざけた一粒涙だけ。
ダイジェストでレイプされる市の目の端から同じ涙がポロリと流れるのはもう完全にギャグ)
酷すぎる。
下手とかじゃなくてもはや意味不明。
監督は剣劇なんてもんに全く興味が無い上に勉強する気すら無いのが雄弁に伝わってくる。
動きの流れにケレンミ・リアリティどっちも求めない凄い奴なのはわかっていたが
『ICHI』ではそういう酷さが悪化している。
その綾瀬の棒みたいな動きばっかりクローズアップする撮り方するので
もうどういう攻防なのか誰にもわからない動きをする。
手傷を負うシーンは必ず腕や腿がアップになって服が破れるカットで説明し
どういう流れでそこを斬られたかは多分考えるつもりすらない。
時代劇を見てれば殺陣の下手糞な役者なんかはいくらでも出てくるし
(スローモーションでバチャバチャと血を出すのだけはお気に入りみたいで、
市も蹴られて盛大に血を吹くがあれはどう見ても内臓破れてるレベルの量。
何も考えて無いからどうでもいいんだろうが。)
市が能動性皆無なので
「稽古中の事故で母親に怪我させてから真剣が抜けなくなった」という
万鬼の顔面コンプレックスに匹敵するぐらいしょーもないトラウマでグジグジ悩む男で
万鬼党との戦いに加勢しては刀と鞘を持って「抜けないいいい」とパントマイムをするのが持ち芸。
毎度渾身の力で刀を抜こうとするが
いや、「真剣が抜けない」ってそういうことじゃないだろ。
この演技指導した奴も素直に従う大沢たかおも、脳腐ってんのか。
一応筋を最後まで書くと
それを綾瀬はるかはお得意の何も演技をしてない「本当の無表情」で聞き流し、
でもなんか心が動いて戻ってきて
宿場は救われた!終わり。
だんだん浪人に惹かれていった(ような描写は乏しいので鑑賞者が補わないといけないけど)市の脳裏一杯に
フラッシュバック的に大沢たかおの笑顔が映し出されるとこが感動シーンの最高潮ですが
盲人の市がどうして浪人の顔を知ってんでしょうね。
そこは聞き覚えた声とかかつて握った手とかで演出しろよと感じますが
前述の通り市の盲人性を真面目に扱わない製作陣にはどうでもいいことだった。
根本的な間違いとして、
更に自閉的な性格をあててしまったらどうにも話が成り立たない。
なんだかんだ言いつつ相当な世話焼きで、
腰は低いけど欲も意地もあるし優しいしよく怒る。
これぐらい濃い人格が噴出してくるから目の見えない体と釣り合いが取れる。
主役の人格はやはりアクの濃い悪い奴になっている。)
中学生が初めて書いた小説の主人公みたいにおもしろみのなーい傷心由来の内向的な性格で
こんなもんを目の見えない体に入れたらそりゃ話が動かずつまらん事になるのは当たり前。
おわり。
今更といわれそうですが、るろうに剣心にはまってしまいました。
だからこそ、続編を妄想してしまうのは30代後半の女性としては普通だと思うんです。
るろうにの舞台は明治の初期ですが、剣心の子供である剣路は「富国強兵」と向き合わなければいけないわけで。
と、すると妄想が広がるんですね。
剣路は両親の持つ剣術の才能は全く引き継いでいないかわりに、頭脳だけはずばぬけたものを持っているわけです。
そして父親と同じことを考え始めます。これからの時代、苦しんでいる人を救いたいというすべは何かと。
考えた末、当時、日本を侵略しようとする「列強」から人々を守るために、仕官候補生としての道を歩み始めるのですが
それが正しくないことを歴史が証明する前にすでに見破っていた父親に諭されるのですが、当然反発する剣路。
そして士官学校で教授として赴任していた斉藤一と出会い…(以下略)
なんていうか、すでに同人誌あたりで書きつくされているネタのような気がします。
それでも、和月さん本人が続編を書くのであれば、明治の青春グラフティーというよりは、富国強兵を経て世界大戦に突き進む
日本の影を剣路を通じて描いてほしいなと思いますが、たぶん読者からは暗すぎて受け入れられないだろうな。
はてな界隈では女性性に魅力を感じている男女が多いように感じるけど私は女性性に魅力を感じた事など一度も無い。
封建的なド田舎の家庭に育った私にとって女性性とはいかに笑顔で家に尽くせるか以外の何物でもない。女子力是即ち労働力なのだ。
私の母はずっと私に「女の子はハイニコポンじゃなきゃだめだ」とか「お父さんは立てなきゃだめだ」みたいなことばかり言い続けてきた。
(注:ハイニコポンとは、何かを申し付けられたら「ハイ」=気持ちの良い返事、「ニコ」=笑顔、「ポン」=黙って実行、すること)
よくテレビにはおしゃれや菓子類、アイドル、恋愛体験なんかの話をしてきゃっきゃうふふする母子が出てくるけど、そんな話をしたことは20数年の人生において一度も無かったし、
物心ついた時点で父と母の間には多分恋愛感情なんか無かった。そんなもの労働の現場ではあるだけ邪魔だからだろう。
両親にあるのは家族という組織を維持しようとする規律だけ。母が父を立てろと言うのは慕っているからじゃなくて組織の統制のためだったのだと思う。
こう言ってはなんだけど父と母の関係は頭でっかちで頼りない仕官とそれに仕える鬼軍曹(現場を取り仕切る事実上のリーダー)によく似ていた。
で、女の私は下士官候補生としてずっと忙しない母を傍で見続けてきた。
存在感の無い父を立てて、兄の尻拭いをし、寝たきりの祖父母に献身的な介護をして・・・怖くて仕方なかった。
あと十年すれば自分の番になってしまうのかと思うと怖くて気持ちがどんどん重くなっていった。
少女時代というのがこの修羅場までの猶予期間だと言うならとても楽しむ気にはなれない。そもそも楽しみ方が分からない。
一切の無駄が無い環境で訓練され続けたせいか思春期を迎える頃にはすっかり女の子女の子したものへの興味がマイナスになっていた。
大人になった現在、母の教育を拒んで一人暮らししているけど女性的なものにはどうしても嫌なプレッシャーしか感じない。魅力や良さがさっぱり分からない。
この分ではどこで何をして暮らしても生きづらいままだと思うけど、どうしたらよいものか。
これじゃないかな。
もっといえば真のベンチャーではなく、ひと段落したベンチャーかな。
あと、番外で提案できるのは、
・野に放つ。
かな。
素浪人になって仕官先をさがすもよし、同士を集めて勃興するもよし。
この時代なら本人が優秀なら野に放つのが一番なきがするな。
いろんな人とあってパートナーを探したり。
本人がモチベーションもってやれることをやるのが一番力を発揮できるからね。
優秀であればあるほどいまはどこにでも位置取りできる遊撃手的なスタンスが活躍できるように思うよ。
以下、偏見にまじった自分の時代感。
→ 今は待遇としては地方公務員の方がいいし、これから官僚になると、
今後20年一番悪いタイミングで苦渋を味わうことになるかもしれない。
→ 悪くはないが、国内で取得する一般博士号ほど食えないものはない。
現状を説明し、それでも本人が望んだ場合のみで薦めてやらせるものではない。
→ 現段階においては大企業は今後特定分野を除いて分社化していく方向。
特定分野においても将来的にはセグメントが分けられる可能性が高く総合職としては魅力はあまりない。
優秀な人材であればあるほどアイドリング期間が長く感じられて途中で脱落したら身もふたもない。
→ 士業でくっていけるのはごくわずか。弁護士のような資格をとってものき弁などでやっていくしかない。
結局は本人の活動以上には大きくできないので、
会計士+中小企業診断士などのあわせ技で組織化して大きく活動していくよりない。
現段階で先陣達が切り開いている分野であり、10年後は明るいかもしれないが、
ひとつの資格で一生食っていける時代ではなくなった。
全体的な系統と組織としての系統を混同しないほうがよいとおもう。
→ 一緒に興すならともかく後のりで「就職」するという考え方ではままならないとおもう。
本人がやりたいのであれば留めはしないが蓄えや資産は別に必要。
とりあえず起業してみる
→ ビジネス経験がまったくないのは問題かもしれない。(実家が商売をしているなど素養があれば別)
どのように優秀なのかわからないのでコメントできない。
やることも決まっておらず、資金もないのであれば会社を無理におこすこともない。