はてなキーワード: 難関大学とは
高校の頃、隣の家の家族のところに女子大生が移り住んできた。正しくは大学院生なんだけど。その夫婦の姪にあたる人で、院生になったのをきっかけに、より学校に近いそこへやってきたとのことだった。当時うちの母とお隣の奥さんは一緒に今でいうホームパーティみたいなものをやるくらいすごく仲がよくて、当然のように俺にも紹介されて挨拶した。高3の春だった。
しばらくして、受験生なのに全く勉強しない俺を不安に思った母親が「塾へ行こう」とパンフレットもって切り出してきた。家では全く勉強しないでゲーム三昧だったけど、学校ではそれなりに真面目に授業を受けていたので成績はまあまあ良くて、だから大学も学力に見合った難しすぎないところに行こうと思っていて、塾なんてまったくやる気がしない。ずっと拒否っていたら、またしばらくして母が隣の家の女子大生を連れてきた。「バイト探してるっていうから、この子に家庭教師してもらうことにした」ふざけんなと思ったが、もう家に上がっている彼女を追い返すわけにもいかないかと思いしぶしぶ勉強を見てもらうことにした。自分の部屋は汚すぎて入れられなくて、その日はリビングで数学の課題を見てもらった覚えがある。結局そのまま家庭教師として勉強を見てもらうことになった。
その人はすごく頭がいい上、人をその気にさせるのがすごくうまい人で、調子に乗った俺は家でもきちんと受験勉強をするようになった。成績も少しずつ上がり始めて、当時の志望校では少し目標が低いんじゃない?と担任にも言われるようになった。話も面白くて、週2回の彼女の来訪を心待ちにするようになり、模試でいい評価を取ると即メールした。
そんなこんなで、彼女を好きだと思うようになるのに時間はかからなかった。よくある話だ、高校生が少し年上の大学生に恋をする。(院生だけど)あまり読んだことないけど少女漫画の設定そのまんまみたいな状況すぎて、いやちょっと勘違いしちゃってるだけだろ、と必死にその気持ちに抗ってみたりしたけれど、もう会ってしまうとそういうの全部どうでもよくなって、少しでも成績上げて喜ばせたいと思ってしまうから秋ぐらいにはもう諦めた。
そしてその人が通っていた難関大学に志望校を変えた。両親も担任も、そして彼女も喜んで応援してくれた。一層勉強に身が入り、必死に勉強した。
次の春、晴れて俺は彼女の後輩になることができた。学部は違ったが、ものすごく嬉しかったし、ようやく同じ土俵に立てた気がした。当然そんなわけはないんだけど。向こうはその大学内でも屈指の偏差値を誇る理系学部の院生で(院生だから学部はおかしいか)俺は文系の比較的偏差値が低い方だ。
それでも毎日なんとなく嬉しくて、タイミングがあった時は一緒に登下校したり、学食で一緒に飯食ったりした。夏休みに入る少し手前、初めて二人で出かけた。向こうはどう思っていたかしらないけれど、デートのつもりで誘ったから約束をしてからその日までずっとそわそわし通しだった。親にバレるのが嫌でわざわざ駅で待ち合わせて、彼女が行きたいと言っていた水族館に行って食事をして、お互い家に帰ってからメールで告白した。「ちょっと表出て」って喧嘩吹っ掛けられるみたいな返信が返ってきて、それからマンションのエントランスで話して、付き合うことになった。
それから、彼女が卒業するまでは本当に楽しかったし、俺も彼女に見合う大人の男になろうと必死だった。プレゼントも背伸びして、百貨店に売ってるようないいアクセサリーを用意したり、デートでもなるべくお金出させたくなくて、少ないバイト代を精一杯はたいて奢ったりした。結局最終的に割り勘くらいになるように向こうに調整されていたけど。喧嘩しても大人ぶって先に折れて謝った。嫌われたくなかったというのもある。
冬が過ぎ、また春がきて、彼女は就職して隣の家を出ていった。移り住んだアパートはうちから1時間近くかかるところだった。
学生の頃に比べると、格段に会える日が少なくなってしまい、些細なことでの喧嘩が増えていった。それでも最初の1年くらいは、彼女の家に泊まりに行って手料理を振舞ったり振舞われたり、ちょっと遠くへ旅行へ行ったり、何とかその壁を乗り越えようとがんばった。どうしてもその人を手放したくなかったから。大人な振りをして、ずっと背伸びし続けていた。
それがダメになったのは付き合って1年と少し経った頃、俺が大学2年の冬だった。
箱根に泊まりで旅行にいって、旅館で夕食を食べているときだった。もうほとんど覚えていないような些細なことで、ふっと怒りがこみあげて、その勢いのまま机を殴りつけて怒鳴ってしまった。言った瞬間にすぐ我に返った。しまったと思った時には彼女は萎縮しきった顔で「ずっとそうやって我慢させてた?」と問いかけてきた。何も返せなくて、その日はもう会話もなくなって、朝起きたら彼女はいなくなっていて、携帯には「別れよう」というメールがきていた。
本当に大好きで大切な人だったのに、ずっとずっと彼女に見合う「大人な男」になりたくてなりきれなかった。悔しいのと情けないのと喪失感とごちゃごちゃになりながら一人で帰って、それからしばらく大学にもいかず家に引きこもってずっとオンゲをしていた。無心でレベル上げしていてもすぐに彼女のことがちらついた。もうしんどくてたまらなかった。
それでも時間は過ぎて行って、大学の成績通知を見ていい加減家を出なければと思った。単位を結構取り落としていた。それからまた大学→バイト→ゲームの繰り返しを毎日毎日やって、気づけば就活生と言われる年になった。
就職フェアみたいなやつに同期と出向き、彼女が就職した会社のブースを見つけた。彼女がいないことを確認して(そもそも研究職だからいるわけないんだけど)説明を聞いてそのままエントリーした。運よく選考が進み、そして内定を勝ち得た。
そこで流石に一度我に返った。こんなストーカーじみたことして、どう考えてもおかしいしやばい。そもそも入社してもし社内ですれ違ったりしたらなんて声を掛けたらいいんだ。もう一度会いたいとは思うけれど、向こうはもう俺のこと忘れてほかに相手がいるかもしれないし、年齢的に結婚している可能性もなくもない。内定はあともう1社あった。期限は迫ってくる。悩みに悩んで俺は彼女に連絡を取ることにした。我ながらどうしてそうなったと今にして思うのだが、その時は考えすぎて頭が完全に煮詰まっていた。
電話番号は幸い変わっていなかった。電話で全部話した。まだ忘れられないこと、まだ好きなこと、それから同じ会社を受けて内定が出たこと、今行こうかどうしようか悩んでいること。付き合っていた頃の俺とは全然違って、本当に情けなかった。いや、付き合っていた頃だって決してちゃんと決まっていなかったかもしれないけど、それでも精一杯ずっと物分かりが良くて包容力があって大人な俺を演じ続けていたから、それはもうキャラ違うレベルだったと思う。彼女は静かに全部聞いた後、「うちはまあまあ大手だし、労働環境も悪くないから来るなとは言わないけれど、もう一社とよく比較して考えて」と言ったあと、「私のことは気にしないで」と言った。
突き放された気がした。それが余計悔しくて、勢いで「わかった。じゃあそっちの会社に行く」と即答した。するといつかみたいに「ちょっと表出て」と言われた。もしかしているのかと思って慌てて家の外に出たが、だれもいない。「どういうこと?」と聞いたら「そのまま駅まで行って、〇〇駅まで来て。私も今家出た」と言って電話を切られた。マジかよ。時間はすでに22時過ぎだった。〇〇駅は彼女の最寄り駅じゃなくて、うちと彼女の家の中間あたりで、付き合っていた頃よく一緒に飯に行ったところだった。こんなに長い30分があっただろうか。走って駅までいって、電車に乗っている間も落ち着かなくて、ずっと立ったままだった。電車から飛び降りて改札を出て、きょろきょろしながら電話しようとしたら、同じく携帯を片手に小走りで改札を抜けようとする彼女と目があった。
圧迫面接を受けた(と思った)とき、面接者に対してそれを指摘するのはよくある話なのだろうか?
なんとなく、家族や友人などの第三者には話しても、当事者に対しては面と向かって言わないと思っていた。
なぜこんなことを思ったかというと、バイトの面接を受けにきた方が、後日電話で伝えてきた。
私ともう一人の社員とで面接を行い、その彼が圧迫的な質問をしたのだという。
しかし、客観的に見て、面接時の質問として一般的なものであって、決して圧迫と呼ばれるような内容ではなかった。
(なんでウチを受けたの?レベルだと思ってほしい)
それだけでも驚いたのに、更に、ぜひ採用してほしいという。
え、いいの?仮に採用されたら彼の指示で働くんだけど?めちゃくちゃ気まずくない?
難関大学の大学生で、受け答えも普通だったので、この件がなければ採用していた。人手も足りないし。
でも、こんな目に見える地雷は踏みたくないよ。
広報はかなり心理学的要素がからむから、桃山レベルに達してるのなら意味が無くはないとは思うけど。
流石にF欄とかだとキツイかもしれんが、中堅ならかなり意義は有ると思う。
そもそも、偏差値55程度ならわりと学術方面もいないこともないと思う。東大院へロンダとかも現実的な階層だし。
あと、アカデミックを目指すにあたって習得した内容を、色んな形で活かす職業もあるにはあるんだからそういう方面をもっと強調するべきとかそういうのは思う。
アカデミック・ポストを目指してる人なんて最難関大学でもそう大量にいるわけでも有るじゃなし、
単純にアカデミック・ポスト「だけ」がアカデミックの結果としてしまう思想自体をどうにかしたほうが高等教育の意義ってのは深まると思うんだがなあ。
東大とかみたいにレベル高いところに通っているわけではないし、言ってしまうとMERCH以下の偏差値しか無い大学に居るので「お前が馬鹿だからそう思うだけ」と言われたら説得力のある返しができないのだけれど、それでも大学の授業が薄っぺらいと主張したい。
今年で大学生活も3年目に入り、順当に行けば後期には単位の取得が完了するペースなのだが、得たものが一切ないといえるほど大学での授業内容が頭に残っていないのだ。
単位取得はしているけれど成績という観点から見ればC評価が多く、ギリギリ赤点を避けている現状なので授業内容が頭に入ってないんだろうとも考えられる。
けれども単位取得の肝を担っている学期末テストの内容が『授業中に再生した動画で言及した企業のマーケティング戦略は何だったか?』というのはひどすぎるのではないだろうか。
自慢ではないがマーケティングについては当大学内で比較した場合に限るけれど、ある程度の知識を私は持っていると自負しているが、流石に特定の企業が行っていたマーケティング戦略なんて動画を見ていなかった私に解けるわけがない。
せめて、商品の販売個数を計測する戦略とか書いてくれれば何となく当たりをつけることは出来るが一切とっかかりになる情報がないので授業出席者しか解けないのだ。
授業に出席しないものは、いかなる知識を保有していようとも単位は上げませんと言っているようなものである。
そもそもの話私が大学に行かないのは、授業時間90分のうち、教授の雑談が半分以上を超えていてどのタイミングで本旨に触れるかわからないからである。
教授がゼミ生と一緒に福岡に行った時に食べた食事がとても美味しかった話など、至極どうでもいいのでとっとと必要な話をして終わらせてほしいというのはおそらく講堂にいる生徒全員が等しく思っていることだろう。
適当で面白みのない授業を展開する教授ばかりではないのはだが、どちらが多いかと言われれば上記のようなゴミ教授ばかりである。
こうやって教授を批判するかの言葉を連ねると「彼らは有名大学を出ていて高知能、その話を楽しめないキミは低知能」とマウントを取られる。
しかし東大を出ているとか、有名大学の院を出ているとか私からすればどうでもよいことなのだ。授業がつまらないという事実は私の中で変わることはないのだから。
やっていることは市販されている本(自著であることが多い)を朗読しているだけで、自宅で必要な部分は覚えられる。そんな「教授いる?」と感じるような講義内容でどこに「教授は頭いいなぁ」と感じる要素があるのか。私が異端なだけで世の中の人は資格や肩書だけで知能を判断する、判断基準が外部にしかない人ばかりなのだろうか。
つまるところ大学というのは教育ビジネスであり、肩書を得られるのを対価に金を払って、脳死しながら授業を消化し続ける場所なのだ。
私が声を大にして言いたいのは「大多数の人間にとって大学は一切必要ない」ということ。
企業が大卒を要求していて、大卒の給料が高いからしょうがないので大学に行って卒業しようと考えているだけで、そこで何を学べるかはどうでもいいのだ。
しかし私はそこまで割り切ることができず、大学を学ぶ場所と考えてしまったいたからこうして不満が爆発しているのだと思う。
私は運がいいことに文系大学に進学しているが、小さい頃にパソコンを祖父から貰い、そして2つ上のいとこがネット関係に非常に強かったため影響を受けIT関係に強くなった。
そして大学ではこれまた運がいいことにビジネスに精通した人間たちと仲が良くなり、今後の希望を得た。
情報量を多くする気はないのでこれを読んだ奇特な人は「騙された人間」と私を罵るかもしれないが、それはどうでもいいことだろう。
私の周りは大学に通うことを強く勧めたが、結局それは私に合わず、彼らに合わなければ日々鬱屈とした思いを抱えながら、ただ授業を消化する人生を歩んでいた。
アドバイスに従った結果、得られたのは大学と私が合っていなかったという知見だけである。
このことから「アドバイスと称して意見をぶつける人間は、個人を見ていない」というのが判明する。
彼ら助言をする人間は最大公約数的な、大体の人間にとってベストではないがベター程度にはなるはずという意見をぶつけることで自身の人生の正当化をしつつ、悦に入ってるだけなのだ。
確かに最終的に選択をしたのは私であるが、どれだけの人間が周りの人全てが自分と反対の意見を述べている中、自分の考えを押し通すことが出来るのか。
私は大学生になり人に恵まれたおかげで、本当の考えを通せたのであって、高校生の頃であれば貫くことはできないだろう。
結局、大学の授業が薄っぺらいというのはこの「多様性を認めず一般論を勧める人間」が大学への進学を勧めているからなのだ。
だから教育という存在はまるで利権を貪る団体のように怠惰でありながら肥大してしまった。
大学というのはそもそも専門性の高い話を学び、その専門的技術を社会のために使うのを目的とした教育機関だ。
特に能のない私のような人間が大学に行ったところで卒業したという事実を抱えて企業に入り、一切学んだことを使わないで終わるのが関の山である。
学歴社会は確かにフィルターとして有効な部分もあるが、その企業が学歴フィルターをかけているのが世間にバレればまるで現在の検索エンジンがハックされるようにそこに向けて最適化されてしまう。
つまり大学進学するものは優秀で専門性の高い人間だから採用するというのが前提にあって学歴フィルターは機能していたのに、そこがハックされてしまったがためにバツグンな効果を発揮するとはならなくなった。
ハックされていない採用基準は意図した人材を取得できるため優秀であるが、認知されてしまえばそこに注力できる人間を採用する弱い基準となってしまう。意図しない人材を確保することになる。
起業家の話を聞いてみると「東大生のほうが統計的に話がわかる」と語る。
つまり学歴フィルターは大卒で区別するのでなく、東大生などの超難関校とそれ以外で区別するようにしたほうが建設的だ。(給料も含め)
そうすれば無駄に大学に通う人間も減るし、ビジネス大学も少なくなる。大卒枠を争って貧困に悩む人間も減る。
私が問題提起したいのは以下の2点。
・何も考えずに一般論で「大学はいったほうが良いよ」と個人を見ずに語るやつは口を閉じよう
・企業は大卒で学歴をフィルタリングしても効果が薄いので、給料から難関大学(基準はMERCHかそれ以上?ここはわからない)とそれ以外で分けるべき。もしくは意図した人材を採用できてかつハックされていない新しい採用基準を見つける。
こうして大学が少数精鋭になれば教育者も生き残りをかけて力を尽くし、怠惰で肥えた教授も減ることだろう。
私はとにかく薄っぺらくて意味のない授業が大学から消滅してほしいので、教育機関こそ激戦のビジネス社会のように苦しみながら競争して欲しいと思っている。
確かに科学の力というのは重要だとは思うが、現在私の身の回りで生活に欠かせないと思うものを作っているのは企業であり大学で教鞭をとる人ではない。私が知らないだけで企業にその教授も協力しているのかもしれないが、それなら大学ではなく企業で研究させてもらえばいい。
つまり「安定してるー」とアホ面下げて年に数回、偉そうにゴミみたいな本を書きながら教壇に立つ輩は荒波にも稀ながら淀んだ精神を磨き上げるべきだということ。
そもそも大学はいま腐るほどあるわけだけれど、その全てが科学において必要ではないだろう。それならばなおのこと競争化させて精鋭化させなければいけない、なぜ「研究」という話になった途端嫌儲精神が発作的にでてくるのか。
何度も書いている気がするけれど、その大学の競争化をする上で最も邪魔なのは一般論を振りかざして大学に行かせようとする無能な働き者と大卒でフィルタリングする企業だ。
個人を見ないで、自分の人生訓を元にとりあえず精神でアドバイスするやつは総じて糞だし、対してその人を案じているわけではない。
こうした一般論で武装した人間に対して、正論に感じようが自分の感性と考えを元に対抗できるように成長することが、幸福につながるだろうしひいてはこの薄っぺらい大学の授業の減少につながる。
難関大学目指してる高3女子で文系。タイトル通りなんだけど、端的に言うともう日本史したくなさすぎて泣きたい。学校の指導方針?なのかは分からないけど、三年間で世界史AまたはBを選択することになってて。文系で地理選択はなし。社会の科目選択って入学したときにするから、将来やりたいことも特になかったのでなにも考えず一年で世界史Aを選択した。これがすべての始まり。悪夢。
もちろんA科目とB科目の差は分かってるつもりで、だけど自分は世界史好きだし向いてるなーと一年のとき思ってしまって。2年から今も日本史Bやってるけどクッッッッソつまんなくて泣きたい。文理混合クラスだから少ない文系の中でも日本史選択は2人しかいない。そして恐ろしいことに気づいた。大学に行って外国のこともいろいろ知りたい!と思ったとしても(もともと外国語学部志望ではなかった)、まわりは多分みんな高校で世界史やってるからわたしが大学で一から世界史を学ぶとか不可能。
ああああああああああああ
この間、仲の良かった中学の友達から、最近の彼の生活について聞いた。
一浪の後、難関大学に合格、友達や彼女に恵まれて楽しく過ごしているようだった。
それに対して私は友達に恵まれず(自分に原因があるのはわかっている)、ほとんど興味のないサークルに、たまに惰性で参加しているだけである。
午前中は講義に出て、お昼の間は「よっ友」にぼっちだとバレないように、大食堂に行かずに図書館で寝て、その後午後の講義に出て、終わったらすぐ家に帰る生活をずっと送っている。サークルは一年中ほとんど活動していないので、行ったところでいつも人がいない。
何か熱中できる趣味とかあればいいのだが、残念ながらそれといった趣味もない。家に帰っても食って寝るだけだ。
何か趣味を見つけようと色々とやってみているが、ふと、ある段階で、どれも楽しもうと思って取り組んでいるのではなく、見栄のためにやっていることに気づく。
「こういう趣味があるって言えば良い印象持たれそう」
「これなら他の人と話す時に話が盛り上がりそう」
先生と出会ったのは、わたしが中学生の時です。彼は大学院を卒業後、国語の非常勤講師として赴任してきました。わたしと1周りほど年が離れていて、身長は10cm程度高く、かわいい顔立ちをした、少し年齢不詳気味の人でした。
当時のわたしは、授業中は寝ているか、教科書の隅に落書きをしていて、学年下位をふらふらと彷徨っている、やる気のない生徒でした。そんなわたしに「やればできるから」と声をかけ、必死に授業に参加させようとする先生は、いかにも「教師になりたて」で。その熱い眼差しで見られる度に、わたしは居心地の悪い思いをしていました。どれだけ無視をしても「おはよう」と笑顔で手を振る先生、「わからないことがあればいつでも聞いてね」と教室を去る間際、席までわざわざ歩いてきて声をかけてくる先生。わたしは、彼の笑顔がどうしても嘘くさく見えて、大嫌いでした。
気持ちが変わったのは、制服のシャツが半袖に変わり始めた頃でした。一週間遅れで課題を提出しに行った際に、とある難関大学の過去問を意地悪のつもりで聞いてみたら、さらりと答えられてしまい、その際に知った彼の学歴の高さに意外性を感じたからです。先生はいま思い返してみても、とても頭の良い人でした。自分が頭の良いことを知った上で、きちんと、相手にあわせたレベルで話ができる、勉強を教えることのできる優秀な先生でした。彼の解説を聞きながら、初めて、答えを導き出す楽しさに気付き、勉強が楽しいと思うことができたのです。
いま思えば、わたしは彼のパフォーマンスの引き立て役のひとりでしかなかったのでしょう。後々、彼の鞄から発見した、クラスの成績表の書き込みを見れば分かります。伸びしろはあるがやる気がない、かつ、やる気になれば伸びるタイプ。わたしは「ちょうど良い生徒」に過ぎなかったのです。そして、幸か不幸か、彼の好きなタイプの顔立ちをしていました。
先生は褒めるのが上手でした。たった10問の小テストで満点をとっただけでも「偉いなあ、嬉しいなあ」と、にこにこ頷いてくれました。自分で言うのもアレですが、わたしの地頭は悪くなかったので、少し本腰をいれて勉強するだけで見る見る間に成績は上がっていきました。周りの教師が驚いた眼で答案を返してくるのが面白くて、わたしはもっと良い点数が取りたいと思い始めていたのです。
いや、違うかもしれません。分からない問題を先生に聞きに行きたいがために勉強をしていたのかもしれません。先生は担当教科の国語だけでなく、どの教科も教えることができ、また、教え方が上手だった。だから、分からないものがあれば、どの教科でも先生に聞きに行っていた。わざと分からない振りをしていると見抜かれてしまうので、本当に分からない問題を探し、解決していく内に、分からない問題は減っていき、どんどん難解になってしまった。わたしは先生に会いたい、質問をしたい、話したい一心で、教科書に向き合っていたのです。
たったの半年程度で、わたしの順位は下の下から、上の上へと上がっていきました。先生は桁数の違う成績表を見比べて笑っていました。その彼の横顔を見ながら、わたしは少しだけ、意地の悪い考えを抱いてしまいました。言わなければ、幸せでいられた言葉を言ってしまったのです。
「1位を取ったらデートしてください」
先生は、びっくりした顔でわたしを何秒か見つめた後、視線を宙に泳がせました。「お願い」。そう、一歩前に出たわたしから距離を開けるように後ずさり「1位は難しいよ?」と苦笑いしました。「無理だと思うなら、約束してください」。その時の彼の脳内には、きっと、学費免除をされている学年主席の優等生の顔が浮かんでいたのだと思います。先生は意を決したように「いいよ、ただし、全教科合計順位で」と小声で告げました。
300人いない程度の学年でも、1位を取るのは簡単なことではありません。優等生は、わたしの学校でも飛びぬけて頭の良い少女でした。しかし、わたしには彼女に負けない思いがある。恋心です。
わたしは、先生とのデートの権利をかけて彼女に一方的に勝負を挑みました。彼女の苦手科目であった生物を攻略することで、大幅に点差をつけたわたしは、僅差で勝つことができました。学年末試験の結果が書かれたA4のペラ紙を持って、勝ち誇った笑みを湛えながら職員室に飛び込んできたわたしを見て、先生は少し罰の悪そうな顔をして「おめでとう」と返しました。
誰かに見つかるのは避けたいと提案された場所は、あろうことか先生の自宅でした。少し驚きましたが、恋は盲目状態だったわたしは先生からのメールが届いた瞬間、秒速で返信しました。春休み、まだ蕾のままの桜並木を見ながら、ミスタードーナツの袋を下げて、先生の自宅への道を歩みました、人生で1番幸福な瞬間でした。私服姿の先生は想像の何倍もおしゃれで、部屋も黒を基調とした、かっこいいものでした。
わたしたちはドーナッツを食べながら「教師と生徒」という禁断の響きに似つかわしくないほど、平凡で下世話な話をして盛り上がりました。教室内のヒエラルキーも職員室内のパワーバランスも変わらず馬鹿らしいと腹を抱えて笑いあいました。先生が録画をしていた、ただ絵面だけが派手な洋画を見ながら、作品とは全く関係ない話に興じました。
映画を見終わった頃、先生が不意に真剣な表情で聞いてきたこと、その声音を、わたしは忘れることができません。「俺のこと好きなの?」。いつも飄々としていた先生が、こんなに真剣になるのを見たのは初めてでした。報われぬ片想いを今日で最後にするつもりだったわたしは、笑顔で「大好きです、結婚したいみたいな意味で好き」と頷きました。次に出てくる、哀れで馬鹿な生徒の恋心を突き放す言葉に怯えながら。
しかし、先生の口から発せられた言葉は、予想の真逆をいくものでした。わたしのことがひとりの女性として好きなこと、これからもこうして会いたいこと。しかし、くれぐれも周りの人に気付かれてはいけないこと、それが守れなくなった時点で離れたいこと。彼の話していた言葉はよく覚えていませんが、約束事の多さだけは覚えています。「教師と生徒」の恋に怯える先生の気持ちを手に取るようで、その真剣な眼差しに促されるように、わたしは「はい、はい」と頷いていました。
先生が、なぜわたしのことを好きだったのかはわかりませんが、彼はよく「愛に飢えててかわいそう」とわたしを評しました。両親も健在ですし、人並みに可愛がってもらえていたはずですが、わたしは両親との関係性というものがどうしても希薄にしか感じられなかった。そんな姿が、愛に飢えているように見えたのかもしれません。彼は小さな頃から過剰な愛、過干渉を受け育ったそうです。だから、その与えられすぎた愛を持たざる者(と彼が思うもの)に受け渡すことで、バランスを取っていたのかもしれません。
先生とわたしは、密かに逢瀬を重ねていきました。学校では、若いお気に入りの教師に熱を上げる馬鹿な生徒を演じ続けました。その一方で、2人で会う時のわたしは、あまり騒ぎませんでした。先生に似合う、大人の女性に早くなりたかったので、静かに、黙っていました。
高校生になり、バイトを始めると、わたしの身なりは少しずつ「ちんちくりんな子供」を脱却し始めました。大人になるにつれ、彼の熱が上がるのを感じ、気分が良くて仕方がなく、その感覚を味わう度に自分の箍が外れていく気がしました。己のアイデンテイティがうまく掴めなくなり、自分が子供なのか大人なのか分からなくなる瞬間が増え、ぼーっとした日々を過ごしていました。誰にも言えないまま、大人になるストレスは存外厳しく、不安に泣いた日も多かった気がします。
そして何よりも、わたしは頭が良くなってしまった、なりすぎてしまった。あんなにも尊敬していた彼の大学の合否判定は「A」しかでませんでした。学年1位は優等生からわたしの手に移ってしまった。彼が枕元で得意げに語る知識に、目を輝かせることは、もはやできなくなり、ただ黙って薄笑いを浮かべることで精いっぱいになりました。そういったわたしの変化を感じてか、彼はわたしの「人に言えない」ことに漬け込むようになっていきました。
「共犯者だよ、君も捕まる」
そんな言葉を言われる度に、わたしの頭の中はぐちゃぐちゃにかき回され、嗚咽をあげて泣くか、へらへら笑うことしかできなくなりました。誰かに言わなくては、と思いつつも、その先に待つ破滅を考えると声が出せない。何よりも「淫行教師」と「可哀想な女生徒」として衆目に晒されるのが耐えられませんでした。
わたしは、先生のことを本気で愛していました。彼の未来は輝かしいものであってほしかった。たとえその先に、わたしがいなくても。先生がどれだけ汚い姿を見せてきても、教室の隅で燻っていたわたしを救ってくれた人に他ならないのですから。それが例え、先生の株をあげるためのパフォーマンスであっても、救いだったのですから。
物語の幕引きは、あっけないものでした。先生は、自分の罪を周囲に告白してしまったのです。2度目の冬のことでした。放課後、その曜日は先生が学校に来ていない日だったので、早めに家に帰って漫画でも読もうといそいそ帰りの支度をしていたわたしを学年主任が呼び止めました。主任は、まるで化け物でも見たような、恐ろしい、それでいて悲しそうな目でわたしを見ていました。すべてを察しました。
先生は、主任と校長にだけわたしたちの関係を告白しました。校外で2人で会っていた事実を認め、これ以上関係が深くなる前に学校を去りたいと告げたそうでした。主任と校長は、わたしに深く頭を下げました。そんなことしてほしくないのに、する必要ないのにと焦るわたしを2人は涙を堪えた目で見上げてきました。そして、痛切な表情で「肉体関係はあったのか」と問うてきました。「ありません、断じて」とだけ答えると、先生たちは泣き出し、再び謝り始めました。わたしは校長室の分厚い壁が、この大きな泣き声を外部に漏らさないかだけが心配でした。
先生からはその数日後、直接、学校を去ることを告げられました。彼は、わたしが嘘をついたことを責めました。勝手な生き物だと、少し幻滅したのを覚えています。一方的に罪を告白し、逃げ出すのはルール違反だと怒りたい気分でした、しかし、解放されたがっている自分がいたのも、また、事実でした。わたしたちは主任と校長に話したこと「だけ」が2人の間にあった関係であることを確認会話し、男と女の関係を辞めました。
先生とわたしは、3学期中をいつも通りに過ごしました。終業式で言い渡された先生の退職を聞き、泣いている生徒の多いこと。別れを告げ、さよならを惜しむ生徒たちを横目に見ながら職員室に顔を出さずに、わたしは去りました。先生の机に重なった書類の多さは、1日やそっとで持ち帰れる量ではないと判断したからです。
春休み、わたしは毎日のように学校に通いました。先生の机が見える、職員室と質問コーナーの境目に陣取って赤本を進めました。毎日通うつもりでしたが、たったの1日だけ大雨が降り、行かない日がありました。その翌日、いつものように職員室に向かうと、先生の机はもぬけの殻になっていました。わたしはその瞬間、初めて人前で叫び声をあげ、怒り狂いました。教師たちの静止の声も聞かず、わたしは何度も横に立ち、椅子にもたれかかり、無意味に引き出しを開け閉めして遊んだ、彼の机を蹴り上げました。そして、糸が切れたようにしゃがみ込み、永遠と、わんわんと小さな子供のように泣いていました。
高校3年生の時、知り合いから先生が都内の某大学で働いていると知らされました。わたしは当時の志望校よりも幾分か偏差値の低いその大学を第一希望に変更し、無事に合格しました。学びたい学問でもなんでもありません、ただ、先生がいるからでした。何も言わず、大雨の中逃げるように去っていった彼に、文句の一つでも言ってやりたかったからです。大学生としてあらわれたわたしを見た先生は、怯えきっていました。「お金ならあげるから」と言われた瞬間、わたしは、あの日職員室で暴れた時のように先生の鞄を投げ捨て、近くのベンチを蹴り上げました。
なぜか彼は土下座をして、許しを乞うてきました。わたしがしたかったのは、してほしかったのは、そんなことではありません。ただ「さようなら」とだけ言いたかっただけなのです。先生は、季節が夏になる前に海外へと去っていきました、何か月か後に届いたエアメールには「許してほしい」と何度も綴られていました。
先生は、わたしのことが恐ろしくて仕方がないようでした。大学でふとすれ違っただけで、化け物を見るような顔をして踵を返されるたびに、わたしの心は潰れました。きちんと別れを言いたいだけだったのに、いつしか、互いに恨みが募っていってしまったのです。彼はすでに日本に戻ってきているようですが、わたしは、まだ会いに行けていません。会うのが怖いのです。あの目が怖いのです。
わたしの家には毎年、主任と校長から年賀状が届きます。他の生徒には届いていないようですが、わたしにだけは届くのです。罪を共有し合う仲間ですから。わたしはその年賀状に、便箋3枚程度の手紙で近況や1年の振り返りを送るのが常でした。母は、特別親しくもなかった教師への手紙を綴るわたしを眺めては、毎年、不思議がっていました。
はじめて家を出ることになり、年賀状の送付先が変わることを告げる手紙を綴る最中、わたしはぽろりと母に罪を告白してしまいました、勿論、関係については「公然の事実」のみ伝えました。母は「でも、好きだったんでしょう?」と聞いてきました。そうです、わたしは好きだったのです、先生のことが。そして、今でも好きなのです。「さよなら」を言えないまま、わたしは片想いの渦にまだ囚われているのです。「なら、良いじゃない、世間はどういうか分からないけれど」。そうです、他人など、どうでもいいのです。どうでもよかったのです。
冬になり、主任と校長は一人暮らしになったわたしに年賀状を出すことなく、立て続けにこの世を去りました。わたしのことをずっと気遣ってくれた2人は、成人し、就職が決まったことをとても褒めてくれました。彼らが、あの日以降、罪について話題に出した日は一度もありませんでした。わたしを気遣う優しい文面、文化祭に遊びに行ったわたしを出迎えてくれた笑顔、どこまでも優しい2人でした。
2人の葬儀には沢山の生徒、教師が集まりました。その中の誰も、わたしの罪を知る者はもういません。しかし、幼き日の思い出話に花を咲かせれば、誰もが「あなたは、あの先生が好きだったのでしょう?」と聞いてきます。わたしはその質問をされる度に「好きです、今でも」と答えるのです。そう答えながら、喪服姿の先生を横目で探してしまうのです。ヒールをはいたわたしと同じぐらいの身長、年の割にかわいい顔立ちをした年齢不詳の人。わたしは、彼がどんな姿をしていたのかも、もう曖昧にしか思い出せません。一緒に撮った写真はたったの1枚しかありませんでしたし、それもどこかに消えてしまいました。
はじめて会った日から、気付けばもう10年以上の月日が流れてしまいました。あの頃急速に大人になってしまったわたしは、ひどくアンバランスな心を抱えて生きています。わたしの心は未だに、あの新しいようで古ぼけた校舎に囚われたままなのです。職員室を入って右側の島、奥から3番目の灰色の大きな机、先生の足元にしゃがんで、顎をひんやりとした板にのせて、話すのが大好きな子供のままなのです。
しかし、わたしがいまいる場所は、生きている場所は、あの箱庭ではないのです。過去の罪に囚われる時代はもう終わりなのです。だからこそ、口に出さなくてはいけないのです。だからこそ、会いたいのです。会って、言いたいのです。
せんせぇ、さようなら。
面接とかで取る入試制度を取ってる大学もあるよ。全部が完全にペーパーテストな大学はかなり少ない。勿論難関大学でも私立はそうだ。
まあ、ほぼ合否に関係ない名目上の書類提出とかは勿論そういう入試形式でも有りうるけど。
むしろ今の入試制度は、ペーパーテストがだんだん軽視されつつある。
一般入試こそペーパーテストだけど、他の形式の占める割合が大きくなってきている。
僕も昨日今出川の大学を受けてきたけど、私立入試は何回設けれるから「一発勝負」じゃないし。
地元で受けれるから負担も昔より減ってるし。まあ僕もちょっとあとにはW大受けるため新幹線を使わないといけないわけだけど……。
ただ、学問を学ぶ意義もないのに最難関大学に就職のために行くってのが問題だってのはとても良く解る。
例えば論文を高校生のうちに、仮に稚拙なものであっても「意欲」が図れるようなもを書く風習があったほうが良い気はしたし僕もそれを活用して大学を目指しただろう。
あとまあ国公立だとチャンスが限られてくるってのもアレかもしれん。
しかし、面接などで「意欲」を図るのは、ペーパーテストなどよりもよっぽど真の力が図りにくい。
数時間に渡る試験でも図れないようなパワーを、数十分の面接でどうこうできるとは思えない。所謂「コミュニケーション」出来るだけで、学ぶことの適性なき人間が有利になりかねない。
就職予備校は十分かもしれんが、学問を学ぶ場所としてのにそれはまずい。現状はペーパーテストが一番「マシ」なのだと思う。それを、推薦、AO、特殊科目入試などで補っているのが現状だと思う。
なお、科挙が廃止されたのは、アヘン戦争敗北から洋務運動・戊戌の政変などで「西洋近代化」が推し進められる中で、
科挙の出題科目は「儒学」であったことが、守旧的とみなされてなくなっただけのようにも思える。「古典を暗記して、解釈をする」だけが入試範囲だった。
今の入試は違う。どの科目も、なんだかんだ行って大学で学問をやるには役に立つ。あと、科挙はあくまでも「官僚採用試験」であり、官僚の適性を見るのが役目だった。それに古典しかないというのも問題だった。大学入試とは訳が違う。
まとめると、ペーパーテストはそれなりに合理的。回数を増やすことで、一発勝負の不安定感も一応軽減している。
別形式で、ペーパーテストで図れない力をみる入試もやっている。
それでもやはり、大学を就職予備校とみなして、学問を学ぶためでないのに入ろうとする人達は困りものだしそういうのと学びたい人を分けることのできる仕組みはやっぱり存在したほうが理想ではあると思う。ただ、現実にはそれはとても難しい。
そういえば名古屋って私立強いと公立強いのどっちに当たるんだろ。
別に所謂田舎だからそもそも私立が存在し得ないわけでもなく、東海・滝・名古屋・南山と有名私立は普通にある。
でも高校受験で上位層の目指す先はだいたい公立高校で、中学受験したのに公立高校受ける人すらいる。
大学受験の実績ベースで言うと、有名所どころか、若干マイナーなとことでもある程度の強さがある。
高校受験での公立高校同士の併願パターンベースだから特殊事例とかだとアレだけど、
頂点の旭から3ランクぐらい下でもある程度受かっていってるところが多いし。
知り合いの同行を鑑みると、所謂田舎公立から東大京大パターンもいれば、超進学校からの東大京大パターンも両方聞く。
一般に言われる「公立が強い田舎」ってのも超進学校私立の存在を考えるとなんか違うし、
「私立が強い都会」ってほどでもないし。
いや、びっくりしちゃいましたよ。
知的でクールな36才男性、恋人いない歴=年齢、IT業界って、
いや、しかしそんな人間がなぜ恋人いない歴=年齢の記録を伸ばしてるのか、
そんな高齢童貞が生まれる要因について、自分の経験も交え、以下考察していきますよ。
頭が良い人は、幼少の頃から、頭が良いということを理由に敬遠されやすく、
また、どこか大人びたところがあり、子供らしい子供では無いため、
また、小学生の教師なんかからも、あまり勉強もせず出来るということで、
気に入られなかったりします。
また、周囲の同級生からも「真面目で面白く無さそう」と思われたりして、
うまく輪に加わることが出来ません。
こういったことが原因で、「自分は好かれない人間なんだ」と思い込むようになります。
これは、「思っていることが現実になる」側面があり、実際にあまり人には好かれないような言動、
例えば人に対して冷たく振る舞ったり、などをすることで、さらなる悪循環に陥っていきます。
スポーツもダメ、特に美的才能も無く、という人はそれが最大のアイデンティティとなります。
そのため、その部分を否定されることに、自分が自分で無くなってしまうような、大きな不安を持ちます。
それがプライドが高いように周囲には写り、敬遠されるようになります。
頭が良い子、成績が良い子の母親は、しばしば子供に過度の期待をする教育ママです。
勉強をしないことで怒られたり、また、テストの点数が悪かったことで叱りつけるなどで、
そのため、女性を見ると「また恐怖でコントロールされるのではないか」と、大人になっても考えてしまいます。
また、そんな母親が家の外では体面よく振舞っているのを見て、
女性のことを、「表面は取り繕っても影では何をしてるのか分からない」存在と考えるようになり
頭が良い人は、前項の理由により女性の支配下に入ることを極度に恐れます。
そのため、女性にモテるための行動は、支配される第一歩と写り、なかなか行うことが出来ません。
例えば女性に好かれるようなファッションをするなどのことも、抵抗を感じます。
そういった人は高校や大学など、恋愛が初心者で許される時期に、
自信の恋愛経験値の低さを理由に気後れしてしまいがちになります。
難関高校、難関大学では、もちろん真面目な人が多く恋愛に消極的になりがちということもありますが、
それに加え、勉学が大変で恋愛などする余裕が無いということもあります。
自分の高校時代のことを言えば、学年で付き合ってるカップルは3〜4組程度で、
・・・その他、IT業界的なことも書こうかと思うけどやめます。
業界の女性比率とか、そもそも人と長期的に関係を続けるのに向いていないとか。
今後ちゃんと描写されるかもしれないし。
企業での入社筆記試験では女子が圧倒的に点数が高く、筆記試験の結果だけを見ると新入社員は女子だけになってしまう。だから、面接で男子に下駄をはかせて採用しているのだという。
この話の疑わしいところはそういった話をよく聞くで終わっていて明確な証拠がないことだ。
こういった話は10年以上前から繰り返されてる。最近の女子は元気。男子は元気がないとかね。(元気に男女差なんかあるのか)
名古屋市採用試験や一部の公務員試験では筆記試験では男子のほうが点数がいいのに、面接で女子に下駄をはかせて数を調整している。
http://www.j-cast.com/2014/12/01222160.html
http://www.gloriousblogger.net/entry/2015/06/08/155334
日本の大学進学率は他の先進国と違い男が上回っている。東大京大等の最難関大学は男子の割合のほうが多い。司法試験や医師試験などの難関国家試験も男子の合格者のほうが多い。幾つかの学力調査でも男子の点数のほうがいい。
大企業が優秀な男性を抱え込むから、残った男性と一部の優秀な女子を比べてるという説もあるけども。
そういった意味では日本は純粋な実力主義ではないのかもしれないが。
俺が伝えたいのは決して男性は劣ってないし、優れてるところがたくさんあるので、つまらない偏見には負けずに頑張ってほしいですね。
新卒正社員の選考(広告も含めて、一人当たり1000万円と言われている)を参考にするのは無理だろう。入学金で回収するにしても、かけられる予算=手間は、せいぜい数十万円だから、ぜんぜん違う方法をとらざるを得ない。全く共通点がないわけではないだろうが。
AO入試では、就職活動より、一目でわかりやすい差別化要因が必要になる。特に、新卒採用で使える大学名という便利な足切り道具がないからなおさら。バイオリンコンクール優勝とか、天文部で成果を出したとか、そういうものがないといわゆる難関大学には入るのは難しくなるだろう。実際、ハーバードにはそういうもの(もしくは強力なコネ)がないと入れない。小さい時からの環境が大事なものになるから、家が貧乏でもビリギャル的に挽回できる今と違って、階層間の流動性が下がるだろうね。日本はアメリカと違って就職したあとに下から這い上がるルートが狭いし。
あと、面接のスキルや小論文のスキルは数学や歴史に比べて体系化されていなく、独学がしづらいから、そういう意味でも環境に恵まれた豊かな家庭は有利だよね。
痴漢の件読んでて思ったんだけど、といってもこの記事の主軸にはそれほど関係ないかもだが
痴漢被害にあった!→辛い!→誰かに話して共感&慰めて貰おう!→聞いて!→慰めてあげる
ネットの主張を見てると痴漢に合う女性はカナリ多いって見るよね
となると、主観的には誰よりも自分が辛いと思った痴漢被害経験を持ってる状態で、
その時は「自分以外の誰か」の「痴漢にあった!私可哀想じゃない!?慰めて!!」って話を聞くわけだよね?
それって自慢だとかじゃなくて、皆それくらいの辛い目にはあってるのにギャーギャー騒ぐなうざいみたいな感覚にはならないの?
個人的には痴漢被害者に対するイメージの違い?より上記の拗らせた精神からうざいと思われてる
からの(不幸)自慢?って嫌味につながってるんじゃないかな~と思うんだけど。
これを男側にも通じるようにとか、もっとありがちな話に直すとすると何が適切か…はちょっと分からないんだけど。
(難関大学に受からない!◯浪だ!と同じ予備校の人に言うとか思ったけど多分違う)
要はそれくらいの辛さ別にお前だけじゃねーよ?って思われてからの発言もあるんじゃないの?
というか、痴漢被害に会ってる女性が大多数であればそういう意見の方がメインじゃないの?と思うんだけど
全般的に可哀想可哀想なんて傷を只々慰めるような展開の優しさなんてチラとでも見えた事ないんだけどなぁ…
これは拗らせ過ぎてるのかなぁ
幼い頃に母を亡くして、父子家庭で育ってきた。
父と、7つ上の兄と、3人で暮らしてきた。
父はよく稼ぐ人だったから、金銭的に不自由することはなかった。
兄はとても優秀で、なおかつ面倒見が良くて、いつも優しくしてくれた。
近所の人たちも事情を知ってくれて、すごくお世話になった。
私と兄は、母親がいないという点を除いては不自由も無く、たぶん、健全に育った。
兄は大学生になっても優しくて、帰省する度に私の宿題を手伝ってくれた。
高校生になり、進路を考えるようになって、ずっと兄の背中を見てきたものだから、同じ大学に行きたいと思うようになった。
私は出来が悪くて、兄ほど優秀ではなかったから、一所懸命勉強した。
成績も上がって、胸を張って志望大学を言えるようになった。
ある日、進路を父に相談したところ、東京には行かせられない、と言われた。
金銭面の問題かと思い聞くと、私は箱入り娘なのだから1人暮らしをさせるわけにはいかない というようなことだった。
お兄ちゃんは行ってるじゃん と言っても、お前は女の子なんだから と言うばかりで聞いてくれなかった。
そのとき初めて、父に不信感を抱いた。
学校で友達に相談してみたが、周りにもそんな子が何人かいるらしく、たわいもないこととしてあしらわれてしまった。
高校で学年1位の子は、東京大学も合格圏内なのに地元の公立の女子大しか認めてもらえないと言っていた。
彼女は仕方がないからともう諦めている様子だったが、私が彼女の諦めに同調する必要はないと思った。
担任の先生や進路指導の先生に相談をしたところ、お前が勉強を頑張ればお父さんも認めてくれるはずだよ なんて、的外れな答えしかもらえなかった。
成績がどんなに良くなっても、父は頑として家を離れることを認めてくれなかった。
地元にはいわゆる難関と呼ばれる大学がひとつあって、父はその大学を勧めてきた。
でも、私は理系を選択していて、希望する学部学科は別キャンパスにあった。そこは本キャンパスから遠く、家から通学するとなると大変で、結局1人暮らしをする羽目になる。
そのことを強調して伝えると、父は、なら文転すればいいだろうと軽く言ってきた。
兄には許されたことなのに、私は、女であるということだけで進みたい進路にも進めないのかと悲しくなった。
その日は全く話し合いにならなかった。
兄は、多分そうなると思っていた と言っていた。
私はずっと、自分は恵まれていると思っていた。そして実際に、恵まれていた。
でも、ちょっとの不満や疑問も、恵まれている故のものだと思っていた。
兄曰く、母が亡くなってからの父は、ずっと、私に対して過保護だったらしい。
そういえば、女の子なのだから怪我をさせられないと公園に遊びに行くことも禁止されていた。
ズボンを履くことも禁止されていたし、自転車に乗ることも、男の子向けの番組を観ることも、危ないこと、はしたないことは全て禁止されていた。携帯電話だって父と共用だった。
全部、兄は禁止されていなかった。
それらに私は何の疑問も抱いていなかった。嫌だな、と思うことはあっても、自分は恵まれているんだから我慢しなきゃ と思っていた。
父は私を縛り付けたかったのだろうか。
そのような考えから父の言動を見ると、もしかするとこれは普通ではないのかもしれないと少しずつ思うようになった。
毎朝の行ってきますのキスも、週1の交換日記も、中学まで一緒にお風呂に入っていたのも、たぶん、普通じゃなかった。
本当はずっと嫌だったけど、ルールだからと慣れてしまっていた私も、普通ではなかったのかもしれない。
兄は、お父さんの言うことを聞くか、お父さんを捨てて東京に来るか選べと言った。
そんなことを急に言われても、父を捨てるなんて考えられなかった。
父は、優しくて頼もしい、自慢のお父さんだから。
親を捨てるというのは家族と上手くいっていない人や虐待を受けた人だけがすることだと思ったから。
でも、どんなに説得しても父は家を出ることを認めてくれなかった。
父は頼れなかった。私は兄に相談して、兄に言われるがまま目一杯勉強した。
2月、受験前日、交通の乱れを懸念して受験会場近くのホテルに泊まった。もちろん、会社を休んで着いてきた父も一緒に。
理系のキャンパスは遠いが通えなくはないということで認められ、文転だけは免れていた。
いわゆる難関大学だったが、試験は簡単だった。私の本当の志望大学はこんなものじゃないくらい難しいはずだったから。でも、どうしても行きたくなくて、わざと間違えた私は不合格になった。
父には、浪人する、と伝えた。認めたくない様子だったが、必ず受かると高を括って私立大学をうけていなかったため、その他に選択肢は無かった。
高校を卒業して、3月中旬、友達と卒業旅行に行くと言って東京に行った。
もちろん卒業旅行にも父は大反対だったが、これだけは譲れないと強引に家を出た。
東京に着いて、会社を休んできた兄に迎えられ、私は、志望大学の後期試験を受けた。
もし落ちたら、本当に浪人するしかなかった。でも、なんとか、合格した。
合格通知を見せると、父は激昂した。優しい父が怒っている姿を初めて見た。
認めないから金は出さない、と父は言った。私はアルバイトもするし、兄にも援助してもらうことを伝えた。
後期受験を兄も知っていたことに怒るかなと思ったが、予想に反して、お前にアルバイトなんかさせられるかと父は泣いていた。
そのとき初めて、父を怖いと感じた。
宣言通り、父はお金を出してくれなかった。入学金さえ払わなければ、私がいなくならないと思っているようだった。
私は貯めていたお年玉を使った。入学金、授業料で足りない分は兄が出してくれた。
支払いが終わってからも、期限ギリギリまで父にはお金を出してくださいとお願いし続けた。払ったことを知られては困るから。
3月末、すっかり安心しきった父が仕事に行っている間、私は荷物をまとめて東京に向かった。捜索願を出されてはかなわないので置き手紙をした。
しばらくすると、兄の携帯に父から電話がかかってきた。兄に促され私が電話をとった。
2度目の父の激昂だった。
でも、どんなに怒られてももうお金は払っているし、もう東京に来てしまっている。
帰らないことを伝えると父はまた泣いていた。
後日、同じく上京していた高校の友達にお願いして、何日か部屋に住まわせてもらった。
父も休日に上京し兄の家に来ていたらしかったが、携帯電話すら持っていない私に連絡をとることはできなかった。
入学式には、父も兄も来なかった。式が終わり友達の部屋に戻ると、上京した同級生が何人か集まっており、おめでとうパーティーをひらいてくれた。
自由になったような気がした。
熱りが冷めてからはまた兄の部屋に住まわせてもらった。
いつまでも兄の世話になるのは申し訳なくて仕方がなかったが、兄に頼る以外の手段が私には見つからなかった。
兄の元には今も頻繁に父からの連絡がきているらしい。そして兄の口座には私宛のお金が振り込まれているらしい。
私の学費も、生活費も、兄が出してくれたようで結局は全て父のお金だ。
だからと言って際どいアルバイトに手を出そうとすると兄に止められる。
結局私がしていることは、家にいた頃と何も変わっていない。
成人式の報せや諸々の手続きなど、全て父と兄がやりとりをして済ませてくれている。
ただただ自分が恥ずかしい。
あの日、父を捨てる決意をしただけで私は何も捨てられていない。
親子喧嘩をして意地を張り続けているだけだ。
でも、だからと言って、そう簡単に仲直りできるわけでもない。
このままじゃ私はいつまでも、箱入り娘のままだ。
田園が広がるとある田舎町で、百姓の高卒*中卒の間に生まれた。
物心がついたときから、増田はともだちとはちょっとちがう、と感じることが多かった。
クラスの男子が当時のプロ野球選手のことを話していたとき、彼らが抱いていた羨望のまなざし、増田が感じている感覚とは大きく異なっていたと思う。
増田が感じる"かわいい"と、彼女の感じる"かわいい"は限りなく同じものだった。
勉強もできて同じ感性を持っている増田は、彼女と友達にならないわけがなかった。
初めて感じた、あの心の中のざらざら感はもう二度と感じたくない。
失恋の痛みとともに、今まで後輩に感じていた気持ちの正体がわかった。
好きと伝えることすらできなかったあの失恋の経験は、10年以上経過した今でもたまに思い出す。
心の奥がとげのついた紐で強く強く締め付けられるような感覚だ。
親にも、友達にも、学校の先生にも、増田がゲイであることは誰にも言えなかった。
これは墓場まで持っていかないといけないものなんだと18歳の増田は思い込んでいた。
誰にも相談できなかった。
嘘をつくのに疲れていた、嘘なんてこれっぽっちもつきたくないのに。
ひとつ大きな嘘をついているのだから、それ以外の嘘は決してつかないと決めていた。
少しでも増田はこの世の中に存在してもいい人間なんだと思うために、いい大学に入ろうと決めた。
ほかのどの生徒よりも必死に勉強した、帰国子女の転校生にも英語は負けなかった。
当時は回線がISDNからADSLに切り替わりはじめた時期で、インターネットも普及し始めていた。
そしてはじめてゲイの人に会った。
同じ世代の人たち。
初めて会ったゲイの人たちは、みんな自信無さげに下を向いていた。
みんな増田とおんなじことを感じて生きてきたんだ、と思った。
同じく上京していた高校の部活で、とても仲のよかった女子に初めてカミングアウトした。
なんとなくそんな気がしてた、と言われた。
嘘をたくさんついていてごめん、と謝った。
それよりも大切なことを話してくれてありがとう、と言ってもらえた
そして、誰が好きだったの?と聞かれた。
高校時代に失恋した後輩の名前を出した、そのとき「バンっ」と背中を強くたたかれた。
びっくりして、彼女を見たら「辛かったでしょ、よく独りでがんばったね。」とやさしく声をかけてくれた。
増田は大きく頷き、あふれる涙をこらえることはできなかった。
初めてデートして、初めて付き合った。初めてキスをした。初めてセックスをした。
たくさんの初めてを経験した。
増田はこの人に出会うために生まれてきたんだと、本気で思っていた。
しかし、突然連絡が取れなくなった。
そのとき、その人のことをほとんど知らなかったと気づいてしまった。
勉強ができて、難関大学に入れたけど、増田は世間知らずの大馬鹿者だな、と心を開いてしまったことをひどく後悔した。
声を押し殺して枕をぬらした。
数年前にできた古傷が再び開いたようだった。
さらに今回は塩を塗りたくられたような激しい痛みだった。
悔しさと情けなさを紛らわすため、脇目も振らず勉強と仕事に明け暮れる日々が始まった。
あれから10年
大学を卒業し、上場企業に新卒で就職、複数回の転職を経て現在外資系企業のマネージャー職になった。
ゲイに理解のあるノンケの上司や友人たちにも恵まれ、週末にバーベキューを開いたり、一緒にトライアスロンの大会に出たりするようになった。
仕事も趣味も充実していていて、一般的には成功している部類に入るんだろう。
当時の失恋のことは今では増田の中で十八番のネタにまで昇華はできている。
恋愛でこけてしまうとこんな結果になるのか、と自身を以って体感している。
部屋にいると、ふと空虚に襲われる瞬間がある、増田は独りなんだ、と。
「これ買ってもいい?」と駄菓子を持ってとことこと母親が持つ買い物かごにもっていく小さかった増田。
祖父の運転する軽トラックに弟と二人、ひとつの助手席に乗って雨の日に小学校まで送ってもらった増田。
母も祖父も他界し、当時のスーパーも更地になり、トラックも廃車になった。
手にしたものは名前の前に役職名が書かれた英語の名刺、証券会社から定期的に送られてくる資産運用報告書。
ということではない。
教えてやるよ。
帰国子女でも、留学経験もないお前らでも英語ができるようになるほぼ唯一の方法を。
だから、意味のない英語勉強法のサイトを1000ブックマークとかするのをもうやめろ。
恥ずかしいから。
頭悪すぎるから。
1000ブクマのサイトのやり方で英語ができるようになったやつってどれだけいるわけ?
長ければ長いほど「後で読む」でたくさんブックマークされて、たぶん読まれてもいない。
読まない奴が悪いんじゃない。
最近のは特にだが、アフィリエイトをベタベタ貼って、勉強法を列挙。
超長い。
そんなものは偽物なんだよ。
著者自身も本当に効果があると思っている方法ならば、「列挙」しない。
自分がたどり付いた教材を一つだけ書く。
違うか?
まがい物なんだよ。
1人がやれる分量だけにまとまっていないから、読むことすら苦痛なんだよ。
ブクマするだけなら只だから、失ったのは知性と羞恥心だけだけどな。
さて、その方法をそろそろ教えてやるよ。
そこらへんのふつうのサラリーマンが、今まで英語に縁もゆかりもない人生を送ってきたサラリーマンが、
たった11文字だ。
お前らでも最後まで読めるだろ。
T O E I C を 猛 勉 強 し ろ
以上。
簡単だろ。
本物がゆえにシンプルだ。
これならお前らにもできるだろ?
860点、できれば900点以上取るようにな。
TOEICは2年間で20回くらいあんのか?必ず毎回受けろ。受験自体も勉強だ。
20回受けろ。
10万ちょっと必要だが英会話学校なら50万払ってたいした意味がないわけだから、安いだろ。
以上だ。
おっと、大事なこと言い忘れた。
できれば30歳までに取れ。
じゃあな。
900点でも話せないやつが多い?
ほんっと頭悪いな。
だからいいんじゃねーか。
本当の英語力が必要ないからこそ、お前らでもできる方法なんだろうが。
英会話学校とか通うのは無駄だからペーパーテストの勉強に集中しろ。
そもそも、英語に縁がなかったサラリーマンがいまさらシコシコ勉強して英語ができるようになるか?
そんなの土台無理なんだよ。
いや、いるよ、確かに。
映画で勉強して話せるようになったとか、フィリピン人とスカイプで毎日欠かさず会話してできるようになったとか。
信じられないことに本当にいるんだよ、少数のそういう人たちが。
でもさ、そういう人達は、もともと英語が好きなんだよ。だから自然と勉強するんだよ。そして自然と英語ができるようになるんだよ。
これは生まれや環境や、それまでの人生の蓄積によるものだから、今更心の持ち方でどうにかなるもんじゃない。
続かない。
それでできるようになる人は、今までも英語が好きでコツコツやってる。
そういう人って自分を突き動かす外国や外国人への憧れがあるんだよ。
でもお前らはそうじゃないだろ?
これも十分退屈だ。退屈すぎる。
だが、できる。
何故か?
ペーパーテストがゆえに、何をすればよいかが明確だ。
これなら人は動けるんだよ。
あれやってみたり、これやってみたりフラフラして時間を浪費せずに、信じて進んでいくことができる。
すまんな、最初に言わなくて。
これが唯一の方法なんだよ。
身も蓋もないけどな
英語なんて、特別なモチベーションを持っている人以外は、海外行かなきゃ無理だ。
本物は常にシンプルだ。
そのためにはTOEICだ。
TOEICなんて話せる話せないと無関係だが、ほかに良い尺度があるわけじゃない。
学歴とか難関資格とかいろいろあるけど、TOEICほど割のよい資格はない。TOEIC900点は難関大学受験の10分の1の努力で取れる。
860点以上が意味のある点数だ。900点なら更にインパクトがある。
英語ができるようになったら人生が変わる可能性があると思わないか?(まあ何も変わらないけどな笑)
そのために、もう1度ペーパーテストを勉強する努力はできないか?
十分だ。
今の海外派遣者はそんなに甘くない。仕事で海外に行けばよほどのボンクラ以外は簡単なビジネス英会話は身に付けて帰ってくる。
そこに達すれば、そこから先は普通の人でも自分の努力で伸ばしていける。
自走が始まる。
国内にいるだけでは、普通の人には、自走するレベルまでのハードルが高すぎて越えられない。
これが現在のすべてだ。
もちろん全員できるなんていわない。
だが、たとえば大学受験をある程度頑張れた人ならば、できる。
フレンズで英語ができるようになる人は20代の1%くらいじゃないのか。
20%の人にしか可能性はない。嫌な現実を書いている自覚はある。
でも、少しでも多くの人が、何かの制度をみつけてチャレンジしてほしいと思っている。
俺は家が貧乏だった。
親戚中で初めて大学に行った。
誰も海外なんていったことがなかった。
「英語で」ってなんだ?
英語なんて言語に過ぎないのに英語を使うなら何でも良いという発想が信じられなかった。
そんな俺が会社の奨励でイヤイヤTOEICを受け、最初は460点だったけど、ペーパーテストならなんとかなると思って一念発起して、
900点取って、最初にTOEICを受けた日から2年後に、アメリカに派遣された。
40前にして、ぎりぎり英語が一応できると言えるサイドに立つことができた。
自分の人生を振り返っても、英語が一応できる、というレベルになる道はこれしかなかったと思っている。
その可能性が開けている人は、その幸運に感謝して、つべこべ言わず進め。
評判の良い対策本を1冊買って、そのとおりにやれ。公式問題集と単語集を買ってきて、本試験をマイルストーンにしてひたすら勉強するだけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20150704181823#tb
を読んで自分のかつての廃人っぷりがよみがえってきたので書く。
県内で1番の進学校にいたものの、いまだに続いて驚きの某MMOにどハマりする。
総合レベルランキングに回復役のプリーストながら50位以内に入る。
無謀にも難関大学志望だったので、当然落ちる。
落ちた際に、装備をリスクのある強化を繰り返し、壊して、
【大学時代 前期:】
自分で言うのもなんだが、遊戯王でかなり強くなり世界大会で優勝した。
コナミの本社にも呼ばれて表彰される予定だったが、ジャンプに掲載される
可能性があるとのことで、大学デビューを果たしていた自分はゲームおたく
属性を隠すために断った。
世界大会は決勝戦で、相手が将棋で言う投了をした前代未聞の事件が起きたので
やってた人は知ってると思う。
遊戯王は、家のPCが新バージョンに対応できなくなったため辞めた。
【大学時代 後期:】
MMOをやりこんだため、ちまちまとレベル上げをするゲームが好きだったのだが、
FPSに手を出す。
暇な学部だったこともあり、1日平均4時間、夏休み1ヶ月1度も家に出ないまま
プレイし続けることもあった。(実家暮らしだったため衣食住には困らなかった