「換骨奪胎」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 換骨奪胎とは

2023-10-12

文化剽窃の最たるものといえばキリスト教イスラム教だろ

ユダヤ教換骨奪胎してユダヤ人迫害してるって、冷静に考えたらワケガワカラナイヨ

自分民族の神を捨てて、迫害している民族の神を崇めるって理解できる?

キリスト教徒イスラム教徒はその辺どう折り合いつけてんの?

2023-10-02

anond:20231001194536

紫堂恭子漫画全般

 

辺境警備グラン・ローヴァ物語しか知らんけど

指輪物語」に影響を受けて換骨奪胎したというだけあって、長命種がわんさか出てくる

 

少女漫画っぽいキラキラ変則的コマ割りが大丈夫なら

男性でもはまる人それなりにいると思うんだがどうだろう

2023-08-02

VIVANTってMR. ROBOTそっくりなんだけど

VIVANTってMr.ロボットそっくりなんだけどSNS見る限り全然言及がない。

主人公多重人格

ハッキング

・裏の組織

まるでMr.ロボットの要素を換骨奪胎して日本向けにローカライズしたみたいな。

Mr.ロボットファイトクラブに似ているといわれてたけど

期間をあけてるしそんなに気にならなかったけど、数年前の海外人気作をパクるのはどうなんだろうね?

これで実は主人公のもう一つの人格犯人でした、とかなったらさすがにパクりすぎで話題になるかな

2023-06-10

anond:20230610164357

今迄のシリーズ換骨奪胎するんじゃなくて、一から新しく作るのが一番いいと思うな。

黒人女性が自立して世界中を旅して、一人で生きていくようなストーリーが一番求められてる。

アナ雪の逆みたいな。

ストレンジワールドができたんだし、他にもどんどん新しいシリーズを発表していけばいい。

2023-05-04

anond:20230504100218

アレ作者はどこまで換骨奪胎する気があったんだろうか…(途中いやほとんど最初ぐらいから投げ出してるし)

2023-05-03

マジデスはナードコア文脈サブカルクソ野郎になって見ろ

魔法少女マジカデストロイヤーズはナードコア文脈サブカルクソ野郎目線で見たほうが良い。

とりあえず下記2つのリンクを見てほしい。

2011年秋葉原」その衝撃をアニメ表現

JUN INAGAWAさんが中学3年〜高校1年の頃に考えていた漫画OTAKU HERO

https://kai-you.net/article/80335

WWD:絵のタッチに影響を受けたり、尊敬する漫画はいますか?

JUN:あまり「この人!」って方はいないんですけど、描き始めた最初の頃は「アイシールド21」や「ワンパンマン」の村田雄介先生の絵ばかりまねて描いてました。だから僕の絵ってかなり村田先生に似てるんです。村田先生アメコミ風な影のつけ方と、喜怒哀楽の表情の描き方がすごい好きですね。

https://www.wwdjapan.com/articles/816815


なんで敵が(´·ω·`)ショボーン なんだ?2chなのか?と思ったが、2011年秋葉原ワンパンマンのノリと考えると、(´·ω·`)ショボーンも納得がいった。(2010年ぐらいがノスタルジーになる時代になったのかなとも思った笑)

実際、OPEDは謎に不気味でパンクでお洒落サブカルで良いと思う。このオシャレ感で2話のエンドカードポプテピピックコラボしてきたので、サブカルクソアニメ路線確信犯でやっているのかなと思ったら、ポプテピピックプロデューサーが関わっているとは。

https://togetter.com/li/2125391


3話の急に出てきて○すのはアレは何なのかwギャグ路線から急にシリアス展開を入れる緩急が謎で草w

4話で古い閉鎖的なオタク開放的若いオタクメタってきたには草が生えたw

5話は中野舞台になりそうで、とくに聖地秋葉原限定はしなそうである

池袋も出るだろうか。OPの急なザッピング音の転調を考えると、今後の展開がどうなるかわからないところがある。ポプテピピック最終話蒼井翔太氏の実写展開のようなパターンもありえるのだろうか。まじで予想がつかない。


そもそもJUN INAGAWAって誰?インスタからラッパーとのコラボして個展を開いてアニメ化ってどういうことなんだ?感があった。

コラボしたラッパーのA$AP Mobの説明を見たりA$AP Mobの音楽を聞くだけでは、とくにオタクラッパーというわけでもなく、どうつながるのかわからない。

https://block.fm/news/asapmob_is

JUN INAGAWA氏のインスタを見ていくと、ナードコア文脈理解できる気がする。

https://www.instagram.com/p/CYd1nUdF3_x/

このイアンのナードコア大百科 Ian's Nerdcore Encyclopediaを見るにこの文脈ラッパー萌えがつながるのか、と。

https://diskunion.net/clubt/ct/detail/1008022873

https://archive.org/details/ians-nerdcore-encyclopedia/page/122/mode/2up


魔法少女マジカデストロイヤーズをアニオタ目線で見るのは間違いだと思われる。


言及元:anond:20230427160935












蛇足でwアニオタ目線で見ていく。

かくいう私はアキバオタクものが好きです。

最初に見ている限りでは、設定がほとんど逆転世界電池少女じゃね?と思った。

アキバものなのでAKIBA'S TRIP -THE ANIMATION- を越えられるかなと思って最初は見ていた。

このオサレ感、フリクリとか妄想代理人とか似ている感じがするなぁとも思った。

>令和のアベノ橋魔法☆商店街

もわかるーって感じ。

魔法少女モノでいうと暗黒系の魔法少女サイト(2期告知はエイプリルフールだったんかいw)とか。

アメコミ系のアニメ文脈RWBYを見た方が良いだろうか。


4話のネタについては神田川 JETGIRLSや競女!!!!!!!!を見ないといかんだろうか。

そして4話のロボットは、作中だと勇者ゴーディンと言っていたので元ネタ勇者ライディーンになりそうだが、どちらかというと東映スパイダーマンレオパルドンだよね?

レオパルドンというと、いやあれはゼオパルドンか。アキバエロゲおたく☆まっしぐらの失われた佐々木ルート死ぬ前に読まないと死んでも死にきれないという気持ちを思い出したw)


あと2010年頃とすると、シュタインズゲートネタが入るかどうか楽しみにしている。

また(´·ω·`)ショボーン から電車男月面兎兵器ミーナ2chネタが入るか気になる。

エロゲ文脈でいうとブルーアーカイブ -Blue Archive-が上手いこと換骨奪胎して透き通った世界観を表現したのに対して、マジデスがどうするか。マジデスの好きなことを好きだと言える世界を作りたいというテーマはしっかりしてそうだから、それをどうシナリオにして描写するのか、楽しみにしている。韓国からブルーアーカイブだったりフランスからシティーハンター実写版だったり中国からの原神やアークナイツだったりフィリピンからボルテスV実写版だったり、日本オタク以上にオタクをしている、わかっている、海外からディープな熱い作品があふれた中で、アメリカ帰りのマジデスはどう表現するか、文化の違いがあるのかどうか、楽しみである


4話の最初の方のセリフで「壊れた"おもちゃ"<俺のゴーディン>を魔法で〜」というト書きが聞こえてきたオタク増田より。


とりまアナーキーちゃんが元気でパンクかわいいから見て。アナーキーちゃんキャラはあまり他では見ないんじゃなないかな。ブルーちゃん原作の方がかわいいかも派です。

2023-04-18

裏口入学中の人やって病んだ

表題の通りである

増田を書くのは初めてなので変なところがあったらすみません

https://news.yahoo.co.jp/articles/96f03821dedaf7d270db7546e41ff7082d083fce?s=06

このニュースを読んで、学校対応に疑問をもった方も多いだろう。

このケースについて要因を断言することはできないが、似たようなことが以前の勤務校にあったので、書いていく。

(私立学校では大なり小なりあることなのだと思っている。)

まず大前提として、私は既に教員を何年も前に退職し、今は会社員として人並みに働いている。

また、特定されないよう内容にはフェイクを混ぜている。参考程度に聞いてほしい。

某所の中学校

私が裏口入学中の人をやらされたのは、新卒一年目のことだった。

私学適性検査(私立教員就活センター試験みたいなもの)の点数がかなり良かった私は、偏差値も立地も給与もいい感じの学校就職でき、担任も任され、まさにこれからといった感じであった。



母校でもなく、地元を遠く離れ、同期に同郷や同大学の先生はおらず、今思うとアウェーではあったのだが、当時は特に気にならなかった。

何より生徒が賢かった。振れ幅は勿論あるが、素直で真面目な良い子が多い。

生徒との関係もおおむね良好で、どたばたしつつ充実した毎日を送っていた。



入試準備の時期になると、作問者に抜擢された。大役である。手当も出る。

隣のクラス先生にも「新任ではなかなかないですよ、期待されてるんですね〜」なんて言われて、責任を感じながらも喜んだ。

作業は大変だったが、作問も入試も滞りなく終わった。ここまでは良かったのだ。



採点の日が来た。

配点と採点基準は事前に提出しているため、それに従ってつければ良いだけなのだが、なぜか私だけ別室に呼び出された。

呼ばれたのは狭い部屋で管理職教員が二人おり、私が席につくと一人がドアの前に立ち塞がるように立った。

完全に怒られると思った。問題に大きな不備が見つかったのだと思った。

固まる私に、管理職は「いや〜入試無事終わったね!ははは」みたいな感じで、朗らかに話しだした。

あれ?怒られないのか?と思っていると、管理職封筒から受験生の回答用紙を一束取り出し、

ちょっとこの束だけ先に採点してみてくれない?あ、回答用紙に直接点数書き込まないでね」

と言った。

よく分からなかったが、私はその通りにした。

採点が終わると、管理職は点数のメモを見ながら何やら考え込み、おもむろに回答用紙の目隠しを外した。

目隠しというのは、記名欄を隠しているものである。つまり公平性を保つために、採点者から見てどれが誰の回答かわからないようにしているものだ。

私はビックリした。えっ?それ外して良いの?

顔に出ていたのだろう、管理職は私を一瞥すると「あ〜良いから良いから笑」と手を振った。

そして名前確認して1枚の回答用紙を引き抜き、「これなんだけどさあ」と私の前に置いた。

男の子の回答用紙だった。削られていない、潰れた鉛筆で書いたのか、筆圧が高いのか、凄く太い線をしていた。字は汚い。

記述必要以上にいらないことまで長文で回答しているものの、覚えてくれば答えられるような一問一答はことごとく間違えていた。

そして、試験時間中に紙をゴシゴシと擦ったのか、ところどころ変に黒くなり、破けていた。

「この子、点低いよね?」

管理職が言った。採点ミス?と思ったが、明らかにの子の回答には点が高くなる要素がない。

私が黙っていると、管理職が口を開いた。

「この子、この教科が得意科目らしいんだよね、この子合格になる感じにね…採点基準変えて欲しくて」

耳を疑った。え?何言ってるんだ?と思うと同時に、まずい、この子裏口入学?どうしよう、不正だよな、と思って動悸がした。

しかし、私は自己防衛に走り、適当に返事をして、その通りにした。

の子合格するような採点基準に変えるというのは、ほとんど換骨奪胎だった。

一問一答比重は著しく下がり、記述は余計なことを書いていてもとにかく意欲があればOKみたいな感じになった。

同じ束の中でも、点の下がった子がいた。字のきれいな女の子だった。逆に点が上がったラッキーな子もいた。

平均的にはそのままの子も多かったが、私が最初意図した試験とは違う結果になっていた。

そして全体の採点が終わり、家に帰った。

夕飯を食べながら、入試の日に保護者誘導で見かけた女の子のことを思い出した。

本校が第一志望なのだうその子は、お母さんに抱きしめられ、絶対大丈夫!頑張って!と言われ、お父さんに大きく頷いて、お守りらしきものを握りしめて会場へ向かっていった。

の子の点が下がっていたらどうしようと思った。

それから合格発表、新入生登校日があり、入学式を経て、新年度の始まりまで、誰にも不正のことは言わずそしらぬ顔して過ごした。

そして新年度、授業を受け持つ生徒の名簿を見た。

の子がいた。名前を見て動悸がした。

ヤバい子だったらどうしよう。しかし、新入生登校日にも入学式にも特に変な話は聞いていなかったので、大丈夫だと思い込んだ。

結果、ヤバい子だった。(以下、Aと呼ぶ)

床に寝る、騒ぐ、叫ぶ、殴る、人を突き飛ばしながら走る、窓から物を落とす、トイレおしっこスプラッシュ下半身露出して女子を追いかけ回す、ゴミをぶちまける、他のクラス(なんと、上の学年にもだ)の教室にいきなり入って因縁をつける、考えうる悪行は一週間でほぼ全てこなした。

授業中も凄かったが、私の教科は自称得意科目なのもありまあまあ真面目に聞いていた。

それでも授業中に立ち上がり、他の子の筆箱を取り上げてぶちまけるくらいのことは平気でやった。目眩がした。

危険な道具を使う技術家庭ではほとほと困り果て、家庭科先生は泣いてしまった。

すぐに教員シフトが組まれ、Aくんには常に教員が一人以上つくことになった。私も何度かついた。

前述の通り、素直で真面目な子の多い学校だ。異質な彼の噂は瞬く間に広がった。

面白がる子もいたが、幸い同調する子は少なく、みな教員に協力的で、何か起きると何人もすっ飛んできて教えてくれたが、残念ながらAくんのクラス学級崩壊に近かった。

担任先生は本当につらかったと思う。

担任している子たちには、あのクラスの授業をやってるなんてと哀れまれた。

保護者会で保護者にも哀れまれた。

職員室では教員同士が互いに相憐れみ合っていた。

Aくんの担任は、他の保護者から毎日色々言われていた。

Aくんの親はどんな連絡をしても悪びれなかったようだ。

そりゃそうだ、裏口入学させるような親なんだし。

Aくんの学年内では、教員も生徒も色々な理不尽があったと思う。

物を壊された生徒は多数。

特に男子は、体育で競技にかこつけてよく怪我をさせられた。

職員室でAくんの学年の教員管理職に怒鳴られているのを何度も見た。

教員内で情報共有はなぜかされなかった(生徒指導部ではしていたのかもしれない)が、意外と生徒たちの方が詳しく、生徒づてに色々な事件の話を聞いた。

職員室では、なんであんな子がうちに入ってきたんだという話が頻出するようになった。

裏口入学なんじゃないか?」と言われるたびにどこからともなく出る台詞が、「でも、実際得意教科でガッツリ点とってるんだよなあ」

冷や汗が止まらなかった。

その内、Aくんがクラスでこんなことを言うようになった。

「ここの理事長は俺の手下なんだ、俺に楯突いたらお前ら退学だからな」

男子は真に受けなかったが、意外と女子が真に受けて怯え、教員への不信感をつのらせた。

こんなの、自分裏口入学ですと言ってるようなものである

たぶん、Aくんの保護者(もしかしたら年齢的に祖父母かもしれない)が家でAくんに言ったのだろう。

理事長は俺の手下だから大丈夫だ、みたいなことを。

不正の結果ヤバいことが起きた人なら分かると思うが、こうなるともう本当に怖くて仕方なかった。

バレる夢を何度も見た。げっそりしている担任申し訳なかった。何より生徒にバレたらと思うと恐ろしかった。

俺が殴られたのは、私が追いかけ回されたのは、物を壊されたのは、授業をまともに受けられないのは、先生不正を許したからだと恨まれるのが怖かった。

かに相談たかった。しかし、相談出来る相手がいない。

ここは母校でもなく、地元でもなく、同期に同郷や同大学の先生はおらず、何より忙しすぎて親睦を深める余裕はなかった。

あくまビジネスライクな付き合いだ。

よくしてくれる先輩はいたが、皆裏口入学なんて当たり前だと思っているかもしれない。

先輩たちもみんな通った道なのかもしれない。

今思うと考えすぎなのだが、当時はそんな風に考えていた。

作問担当に決まったとき、「期待されてるんですね」と言われたが、なんのことはない。

よく考えなくても、同期はほとんどが本校の卒業生だ。

どこかにチクるツテの無い私はうってつけだったのだろう。

で、まあこれだけが理由ではないのだが、他にも普通に忙しすぎるとかやっぱり地元に帰りたいとかもあって、しばらくして私は教員をやめた。

先生方とはそれっきりだが、生徒とは今も連絡を取り合っている。

このことを、機会があって母校の恩師に愚痴ったところ、慰められたが微妙言葉を濁された。母校でもありそうな感じだった。

しか学生時代明らかに学力が浮いてる子いたし。


多少は清濁併せ呑んで働くべきだったのかなと思った。

以上である

追記

本文中に発達障害という言葉意図して使いませんでしたが、コメントを見ていると逆に良くなかったと思うので追記します。

まず、裏口入学で悪いのは子どもではなく周囲の大人です。

私はAくんの保護者に会ったことがないので深く触れませんでしたが、裏口入学を依頼する親と受け入れる学校が悪いのは明らかです。

子どもは得てして欲望剥き出しの生き物です、親が提示した裏口入学分別なく飛びついても責められません。

冒頭に貼った記事児童も、Aくんも、親さえまともならどこにでもいるただの「支援必要子ども」に過ぎなく、これ自体善悪はありません。

発達障害には天才も含まれるとのコメントいただきましたが、それは当然として、他の圧倒的多数を占める「平凡な発達障害児」と比べてもAくんの問題は明らかです。

しかにAくんの障害は(おそらく)重度ですが、この場合は「裏口入学をさせるようなクズ親に育てられたこと」と「重度の発達障害を持っていること」が掛け合わさって問題が生まれています

発達障害一口に言っても程度や種類は様々で、それぞれ色々な生きづらさや問題を抱えていると思いますが、Aくんを取り巻く問題はその中でも外れ値です。発達障害全体の話題として捉えられるのは本意ではありません。

また、発達障害の方に、自分もAくんのように周囲を困らせていたのかもしれないと思わせてしまうのも申し訳なく、本意ではありません。

これは私の言葉足らずが悪かったと思います

この話は、あくまでAくん個別問題として読んでいただければ幸いです。

2023-01-13

シンプルペペロンチーノ

ニンニク鷹の爪オリーブオイルだけで美味しいペペロンチーノはできるはずだと特に根拠もなく信じて何度も作ったけど、どう足掻いても何かが物足りない。制約を緩めて味の素使ったら欠けてた部分にピタッとはまった。ネットではどこも乳化だの何だの言ってるが、必要なのはそんなものではなかった。いや茹で汁使うのもそれはそれで重要なのかもしれんけど。

本物のペペロンチーノが何かは知らんけど、自分の舌に合うそれは大量のニンニク味の素で得られた。

そもそも「本場の味」のペペロンチーノが旨味キチガイ日本人にはあんまり合わないような気がする。ニンニク鷹の爪小麦の素朴な風味を楽しむ料理だというなら、私はそれを好きにはなれないし、自分流に改めようと思う。異文化の受容と換骨奪胎や。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-12-25

吹奏楽出身者の選民意識が鼻持ちならない

課題曲という、プロを目指していない学生向けに作られた曲で、コンクールに勝つためだけのノウハウ中心に楽器を習ってきたせいか

  1. 和音が合っている
  2. バラバラじゃない

ことしか頭にない奴が多い。

楽譜に書かれていることを表面的にしか読み取らず、あとは顧問のオレサマ解釈に忠実に従ってきただけ。

こんなんスキルスキルでも、猿回しの猿のスキルじゃねーかと思うんだけど気づいていない。

しかブラック部活を耐え抜いてきた自負なのか知らないが、それでどんなジャンルの曲も演奏できると勘違いしているんだから手に負えない。

こういうこと書くと

「実際、発表会とかでクラシックジャズフュージョンもやってきたし」

などと言ってくる奴がいるが、どれも換骨奪胎レベル原曲の原型をとどめてないような吹奏楽アレンジしかいたことないうえに、
そのアレンジ版のほうが好きとか言い放つ時点で何も分かっていないと告白しているようなもの

酷いのになるとコンクールのために無理やりカットしたものしか知らない奴もいるし。

そのせいか吹奏楽からクラシックジャズが好きになった奴って好みが偏りすぎなのに、全然自覚がない。

クラシックは極端に近現代ばっかり、ジャズビッグバンドばっかり。

まあ管楽器だけで合わせてるんだったらそれでもいいよ。

井の中の蛙どもが自己満で悦に浸っているんだなーと冷笑するだけで済むし。

特にプロ向けに書かれた木管五重奏金管五重奏とかやると、途端にザコな演奏(何吹いてるのかリスナーに全く伝わらないレベル)になるのはかなり「あるある」な話で実に滑稽。

そんな体たらくなのに、ジャズリズム隊オーケストラ弦楽器よりも自分たちはしっかりきっちりしている・センスが優れているみたいな、謎の選民意識支配されているのが非常に不快

かにつけて

「うちのリズム隊はヘタ」

だの

「うちの弦楽器レベルが低い」

だの悪口しか言わないのは勘弁してほしいわ。

その演奏形態自分が吹いている楽器立ち位置や、他の楽器が何をやっているかについて全然解像度が低いから、こういう無神経なことが言えるんだろうな。

ぶっちゃけ吹奏楽なんて形態演奏マーチだけにして、最初のうちからクラシックジャズの曲、それもソロ曲からきちんとレッスンを受ける人が増えないと、
いつまでもこういう勘違いバカがのさばった状態が続くと思うと暗い気分になるわ。

2022-10-21

anond:20221021161639 のおまけ?

多数派場合は、多数決民主的にそれができます

少数派でも侵せないもの自由権として守るのです。

たとえば今だと多数決ならとある宗教を「邪教」として禁止さえできそうですよね。でも、多数決でも、「内心で信仰させろ」「儀式は続けさせろ」までは侵せない理由けが自由」です。

https://twitter.com/jikapan/status/1583275451552006144

多数決主義の難点という議論アメリカで古くからある。選挙で選ばれていない裁判官がなにゆ選挙で選ばれた国民代表議会法律を覆すことができるのか、というやつである。これは、単なる哲学的問題ではない。19世紀から20世紀前半にかけて、産業資本の著しい発展の弊害顕在化してきた。それに対して立法対処を行ったところ、裁判所が「契約自由」を盾にしてそれを違憲にしたところから来ている。

 もう少し具体的に言おう。ニューヨーク州議会が、パン屋労働時間規制する法律を作った。一日10時間、週60時間までという規制である。これに反して処罰を受けたあるパン工場経営者は、労働者をどのくらい働かせるかについては、契約自由があるのだからそのような規制違憲であると主張した。そして連邦最高裁はその主張を認めたのである。このような判例法理通用した時代のことを、この著名判例(Lochner v. New York, 198 U.S. 45 (1905))の名前をとってロックナー時代という。

 すったもんだの末ロックナー判決否定されるに至る。どのように否定されたかというと、これがある意味羮に懲りて膾を吹くというようなやり方なのである。すなわち、裁判所議会の制定した法律については、原則として合憲推定を与える。議会制定法については、①目的が正当か、②目的手段合理的に関連しているかしか裁判所審査しない。換言すれば、手段必要最小限度性を要求しないということであり、まことに緩い審査基準である。こうなるとまたしても困った事態が発生する。確かに労働関係規制については、そのくらいゆるい審査で良いかもしれない。しかし、議会に自らの利益代表してもらうことができないような少数派の利益を押し潰すような法律議会が作った場合も、そんな緩い審査基準適用して良いのだろうか。連邦最高裁は、戦前判例の中で、キャロリーヌ・プロダクツ判決脱脂粉乳規制に関する法律問題になったのだが、それは措く)の脚注4で、人種的宗教的あるいはその他の少数者の利益問題になった場合などは、別の処理をするかもしれませんよ(この事件はそういう人が問題になっていないが)、ということを仄めかしている(United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144 (1938))。

 このような戦前アメリカ判例を取り入れて始まったのが有名な二重の基準である。二重の基準論は、精神的自由については厳格な審査を、経済的自由については合理性審査をという図式として受容されているのだが、実際には、一般的には裁判所合理性基準という緩い審査しか行わないが、政治過程の中で不利になっている少数者の利益問題になる場合は、審査基準厳格化する、というものなのである一般論としては合理性審査しかしない、というのがミソなのである

 芦部説はこのような議論を巧妙に換骨奪胎(?)し、精神的自由制限は、政治過程のものを傷つけるおそれがあるから原則として審査基準厳格化する、という議論を立てた。こういった議論アメリカにも見られる。ところが、これを逆に考えると、精神的自由制限であっても、政治過程のものを傷つけるおそれがない場合には、裁判所合理性基準審査するべきだ、ということにならないだろうか(ロバートボークというある意味悪名高い裁判官が直球でそういうことを言っている)。これが問題になる典型的な事例が「わいせつである。少なくともハード・コア・ポルノ※に関しては、その禁止政治過程を傷つけるとは言えないだろう(アメリカ場合猥褻obscenityに該当する言論については、第一修正によって保護されないので、合理性審査すらしなくても良いということになっているのだが、それは措く)。わいせつ規制は、精神的自由制限ではあるが、厳格審査に服しないというのが、反多数決主義の難点に対して一般合理性審査を行うという解決法を用意した司法審査論の帰結となる。

 ハード・コア・ポルノに対する規制を(も)廃止するべきだと考える者が、表現の自由論や民主主義を素朴に信奉するのも考え物である一般論として合理性審査をもたらす反多数決主義の難点という論点それ事態を疑ってかかる、つまり多数決によって事態が進行する議会政、多数決主義それ自体を排撃したり、あるいは、ハード・コア・ポルノ規制に対しても厳格な審査をもたらすような議論を何とかして立てるほかあるまい※。そういうことをしない表現の自由の信奉者は、表現の自由戦死せざるを得ない。

長谷部恭男憲法』などを読むと、刑法175条違憲論が、単なる「表現の自由」によって支えられているわけではないということが分かる。

2022-09-15

anond:20220914182854

KADOKAWAは相性の悪い分野同士を越境させてこれる所は凄いが、そこで生まれ軋轢への対応けもフレカドカワ方面

稼ぐ力は高いが、Webみんを製品版厨二めぐみんすり替える、一般受けへの換骨奪胎が容赦ないことの裏返し。

結果、新人クリエイターにとっちゃ筆を曲げさせ心にお金を刷り込んでくる地獄であり、観客にはとっつきはいいが好きになると裏側の心なさで苦しむ地獄

社会的にもクリエイター的にもアウトサイダーで、利害がなきゃ惜しまれるような奴等じゃないぞ。

2022-07-21

今度の新海誠イマイチ期待できないな

君の名はや天気の子に感じた「エロゲ文化が完全に簒奪されちまったズラー!!!!!KEYバンバン泣きゲーアニメ化して作ってきたレールの上を一気に駆け抜けてエロゲ文化が全部一般人に分捕られたでござるぞ!!!もう駄目ですわ!!!!エロゲ世界中からパクってきたパーツを換骨奪胎を繰り返して作り上げたセカイ系グランドフィナーレ文化!!!音楽と絵の勢いで無理やり泣かせにかかる文化!!!!もう全部全部ぜんぶゼンブ全の部の全部がパンピー文化として吸収されちまったよ!!!!!ただでさえ同人ゲーに食われまくって先細ったエロゲ文化が……一時代を築いてきたもの裏切り者の手によって持ち去られたよ!!!黒に染まったオタクたちのセカイに浮かぶ太陽は盗まれたよ!!!!もうオタク達に残されたのは気持ち悪いガチャスクショの自慢ぐらいさ!!!!!!!!!もう・何も・ないんだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」が今回は味わえそうにない。

なんつーかさ、俺は新海誠ジブリ後継者は期待してないんだよな。

一般商業ルート特有大資本をぶん回して大画面で2時間圧縮したエロゲをみてーんだが

2022-05-22

シン・ウルトラマン ≒ シン・日本神話 説。

 ネタバレは、控えめに頑張るが。

感想なので、どうしても類推可能だと思う。

嫌な人は、ご容赦下さい。

 

3

 

2

 

1

 

 まず、

ウルトラマン大仏

という前提を飲み込んで欲しい。

 根拠としては、

・光の国からやって来ている。

デザインの一部に アルカイック・スマイルが参照されている。

・諸外国でも仏教文化圏では、ウルトラマンの人気が高い。

デカから強い。

 んで、

ウルトラマン大仏 】 という前提から考えると

 シン・ウルトラマン は、何を描いているのか?

増田は、 飛鳥時代仏教伝来、白村江の戦い大化の改新

現代日本外交情勢をモチーフ換骨奪胎したと解釈した。

 

 現代でこそ、仏教日本需要されているが、仏教が伝来した飛鳥時代では〈蕃神〉、つまり異物だった訳だ。

これが、外星人としての斎藤ウルトラマン

 そして、後に日本では護国仏教として受け入れられるけど

これが、ヒーローとしてのウルトラマン

 一方で、仏教は究極的には悟りを目指す宗教であり

これは、光の国から裁定者としての側面。

 作中では、

原理的には超科学によって地球人ウルトラマンと同等の存在になれると示唆されているが

これって、原理的には万人が悟れる(≒阿羅漢)とする仏教よね。

不完全な変身が危険なのも、魔境であるからだとも解釈できる。

 

 仏教は救いの宗教ではあるが。

仏教ヤマトに公伝した時期は、白村江の戦いでの大敗もあり

ヤマトを取り囲む外交情勢が激変した時代でもあった。

 ヤマト日本改新するためには

脅威でもある海外(外星人)の仏教(ウルトラマン)を含めた当時の最新知識

受容し自分のモノにする必要があった訳だ。

 んで、

自国外交情勢が落ち着いて、自国アイデンティティー確認したくなったので

8世紀に『古事記』、『日本書紀』が成立する。

 

シン・ゴジラが、東日本大震災モチーフに作劇したのと同様に

シン・ウルトラマンは、仏教が伝来し、日本神話が成立した飛鳥時代引用しつつ

現代日本外交情勢をモチーフにしているか物語構造が強い。≒面白い

 だが、

モチーフモチーフだけに

『シン・ウルトラマン』の問いかけ そのもの不愉快な層が居ると。

 

 シン・ウルトラマンは、シン・ゴジラと同様に

オリジナル ウルトラマン表現たかったモノまで分解再構成し、

ウルトラマン現代日本も描き切った大作だと増田は思う。

 ここまで長文を読んでくれて thx

2022-04-12

anond:20220412142135

作者が洋画勉強してストーリーを学んでるのは、わかるけど

そこからまれ作品が参考元の後追いみたいになってるのが気になる

新しい解釈価値を生み出すところまで行ってないような。

換骨奪胎できてないような。

 

洋画領域にまで踏み込んで来たのは作者なんだから、確実になんか言われると思う

いつも通りの漫画ファンにだけ向けた作品描いてればこうはならんと思う。

2022-04-11

anond:20220411135216

それは普通ローカライズ

コンテンツ輸出時のローカライズも、輸入時のローカライズも、昔からやられてるよ。

特に中国ロシアあたりはそうじゃないと公開させてもらえないか無駄になる。

アメリカ版の特撮レンジャーものは5人メンバーの中に白人黒人が入ってないと公開できない(からスーツアクター以外は現地で取り直し)。

アメリカ版のドラゴンボール第一話のゴクウがフルチンでなくパンツはいてる。

中国版のエヴァンゲリオンテレビ版は勧善懲悪ストーリー換骨奪胎されている。

 

ところでこのツイッターの人、やっちゃえを犯っちゃえと誤読してるだけのようにみえる。

日本人エロくない意味でやっちゃえ日産ってCMあるのしらんのだろうか。

まあトヨタ以外知らんだろうなぁ。

2022-04-10

anond:20220409172737

あーこれは、ゲームに限らず今まで物を作った経験が多分少ないでしょ?

考え方が整理できてない。

魔法ものを別のものに変身させて謎を解くみたいなゲーム」って、

考えた側からすると「それだけで満足しちゃう」んだけど、実はアイデアとして何一つ具体的じゃない。

この設定だけをゲーム好きの人に話しても、それがどんなゲームか、スマホアプリなのかすらも、具体的にはイメージできないでしょ。

正直、「あと一歩」どころではない。

謎解きゲーなら、具体的なゲームプレイ部分が「謎解き」なんだから、それをまず具体的に思いついてなきゃおかしい。

「石を鍵に変える」では、正直どんな謎解きなのか全然からないよね。

石や蛇ってことはファンタジー的な世界なのか?

脱出ゲーム的なアイテム謎解きなのか、RPGステージを進みながら道中のギミックアクションで解くゼルダみたいな感じなのか?

魔法というのも、シミュレーション的なリソース管理をして生成していく魔法なのか、ただのマジックアイテムなのか。

多分増田自身、それがまだイメージできていないんだと思う。

とにかくまずは、自分の作りたいゲームを他のゲームに置き換えて、何も知らない他人でもイメージできるくらい「具体的に」説明できるようにしよう。


例えば、Rusty Lakeみたいな謎解きと、シレンみたいなローグライクを組み合わせて、魔法ステージクリア報酬でもらえるスキルで、キャラクター世界観はアンダーテールで、ストーリーマリオとかドンキー程度の簡単なので良くて、音楽東方で〜とか。

(ここまで詰め込む必要はない)

これぐらい「具体的」じゃないと、正直アイデアとしての評価他人が下せないんだよね。


他のゲームに置き換えて説明するといったが、

しかしたら、新しいゲームを作るのに既存のもの説明するのは不満かもしれない。

でも新しい物はすべて、既存のものの組み合わせだ。

ゼルダRPGアクションと謎解きの組み合わせだし、ロックマンアクションシューティングボスシステムの組み合わせ。

大事なのは、要素を細かく分解して、「新たに組み合わせること」。

換骨奪胎とか温故知新ってのも要はそういう話で、既存の物を組み合わせるから新しい物ができる。

から新しい物なんて生まれない。

(スマホだって携帯電話PCの組み合わせで、携帯電話だって電話と持ち運びの組み合わせで〜と無限に続く)


で、これをやるためにはまず、

自分イメージに少しでも合うゲームを全てリストアップして、それらの要素をカテゴライズするといい。

これはひな形でしかなくて、自分と、あとは数人の誰かに具体的なイメージが伝わればいいので、そこまで厳密にカテゴライズする必要はない。


例えばゼルダならさっきも言ったようにRPG+アクション+ギミック謎解きみたいになるはず。

INSIDEなら非言語+アクション+ギミック+ホラー+雰囲気

baba is youなら論理パズル+ひらめき+シンプルゆえのシビアさ+ゆるキャラみたいな?

ヴァンパイアサバイバーなら、簡易シューティング+ハクスラ+ガチャ+ローグライクとかかな?

こういうことを、地道に繰り返す。

既にあるゲーム知識でも、頭の中で複数のことを同時に考えるのは難しいから、一旦アウトプットして吐き出すのが何より大事

他のゲームがどういう要素で出来てるかリストにすることで、自分の頭も整理されてやりたいことがクリアになる。

これをしてると、そのうち絶対に具体的な謎解きを思いつく。

俺もこのパズルやりたいなーとか、このゲームギミックを俺ならもっと上手く活かせるなとか、これは複雑なプログラムから自分には無理だなとか、最初はその程度でいい。

それを元にバリエーションを作り、膨らませていけばいい。

そして自分の持ってる知識リストアップしたら、さら情報仕入れる。

作りたいのが謎解きゲームなら謎解きゲームをとにかく検索する。

ゲーム概要を読んで、これはなぞなぞ恋愛の組み合わせだな、アイテム謎解きと心理サスペンスだな、とカテゴライズしていく。

気付いたことはなんでもメモしていく。

謎解きゲーのつもりだけど探索の要素を増やした方が面白そうだなとか、ループものはありきたりだから嫌だなとか、意外とホラーと組み合わせてもいいかなとか、無駄なことでもとにかくメモする。

それを他のアイデアと組み合わせられないだろうか、と頭を捻って考えていく。

多分、増田がやるべきなのはこれだと思う。

アイデアっていうのは、こういう具体的な作業をして、頭が整理されてから初めて湧いてくるもの

ぼんやり考えてるだけじゃ、実はまだ何も始まってすらいない。


増田の話でいえば、謎解きの部分だけじゃなくて、「魔法で変身させる」って要素も、いろいろ組み合わせたり膨らませるといい。

石や蛇と言ってたけど、マリオみたいにキノコ主人公自身が変身してもいいし、可愛いヒロインを無理やり鍵やロープに変身させて利用するお色気コメディにしてもいい。

変身するたびヒロインの服が脱げたりね。

実際には作らなくても、こういうことを考えるのは楽しいよ。


ちなみに、この「リストアップカテゴライズ」はゲームに限らず、物作りやアイデア出しをする時の基本だからメリットはあってもデメリット絶対にない。

強いて言えば、時間と多少の根気が必要なことくらい。


あと、余裕があるなら紙に手書きメモを取った方がいいと思う。

まとめるのはスマホでもPCでもいいけど。

個人的ペンで紙をなぞる感覚が脳への刺激になるのか、頭がスッキリする。

それと単純に物理的にノートメモが埋まっていくと、デジタルデータにはない充実感があってモチベーションになる。

(個人差はあるだろうけど)

何より、自分の書き溜めたアイデアをあとから日記的にペラペラ読み直すのは、物作りをする上でかなり楽しい瞬間。


あとこれは、ゲームアイデアが固まってからの話なんだけど、

ゲーム面白くするには「リソース管理」と「報酬」の要素が大事から、なんかつまんないなーと思ったらまずここを見直してみて。

プレイヤーってのは自分の成長をわかりやすく実感したい物なのよ。

リソース管理は、

RPG経験値とレベリングゴールドアクションの残機やライフゲージアイテム管理シミュレーションでいう素材なんかのこと。

これはプレイヤーに戦術とか戦略を考えさせるためのもので、あるとないとでは大違い。

ただ目の前の謎を解くだけ、アクションをするだけなら、計算問題や反射テストと変わらない。

リソース管理があることで、ゲームプレイヤーの間に駆け引き生まれる。

そして報酬は、

まあ言わなくてもわかるけど、レベルアップとかアイテムゲットとか、そういう「ご褒美」がゲームにはやっぱり大事

報酬は単純に「レベルアップ」だけじゃなくて、演出快感を作ったりもできる。

ヴァンパイアサバイバーも、宝箱を開ける演出が抜群に気持ちいいわけで。

ゼルダレベルアップの音が「気持ちいい」でしょ。

そういう、「プレイヤーが何に快感を覚えるのか」を考えるのも大事

ブロンズシルバーときたら次はゴールドだな!という「期待」とかね。

報酬は、ゲーム進行度ごとにどの段階でどれだけ報酬を与えるか、みたいなのを紙に書いて割り振った方がバランスよく仕上がる。

多すぎても飽きるし、少なすぎるとやりたくなくなる。

以上豆知識

まあとにかく、リストアップカテゴライズ

これをやってみてちょうだい。

あと、もし出来たゲームがつまんなくても気にしないで。

失敗は成功ママよ🤱

2022-01-23

呪術廻戦ってそんなにHUNTER×HUNTERに似てるかなあ

呪術廻戦という漫画が色んなもの既視感を感じるのは確かなんだけど

それでもHUNTER×HUNTERには別に似てないと思うんだよな

ジャンプ漫画限定しても、似てるのって絵柄はBLEACH、設定はNARUTOじゃない?

(あと0巻は小野不由美魔性の子に似てるとか)

良くも悪くもHUNTER×HUNTERっぽい要素って何処にもないような…

1級昇格試験が予定通り行われていたなら別かもしれないけれど

結局行われなかったからなあ

こう思うのって自分の中でHUNTER×HUNTERという漫画イメージ

最初ハンター試験編で固まっているからなんだろうか

あと冨樫漫画って幽遊白書の時も蔵馬の母親エピソード寄生獣そっくりだったりして(寄生獣にも元ネタはあるのかもしれんが)

かなり色んな物から換骨奪胎しているのにそれらを無視して全部冨樫オリジナルみたいに言われるのもなあ

2021-05-24

anond:20210523222916

なんかアレやな、

映画にもなった犯罪者記事現代版に換骨奪胎したような感じをうける

犯罪はしてないしその前の「合法だが現代社会ではひどいこと」もしていないようなのでよかったなおまえ

最終的には人間は愛されたら勝てるのよ

愛される人間になれ

愛される人間として振る舞える場所をみつけろ

できれば増田以外で

2020-11-13

新たな価値を世に生み出したらそれは良いパロディパクリ)になる

タイトル本当は「生理ちゃんパラレル同窓会はなぜ称賛され、神様になった日の天国からビデオレターはただのパチモノ扱いで終わったのか」なんだけど入らなかった。

どっちもアイディアとしては割と陳腐なので誰が最初に出したかにそこまで価値を重んじたり特許的なものを見出す必要まではないと思う。

でも明らかに番手以降なのに同じネタをただやるだけじゃ世の中に新しい価値は生み出してない無価値作品って扱いは受けうるようね。

芸人が他の人とネタ被りしてそのままやったら、お前なんのためにいんのってなるのと同じ。

生理ちゃんパラレル同窓会と同じことをやってはいるけど、それがどの人生を選んでも普遍的についてくる生理、そしてそれは生理であって生理以上でも以下でもないのは同じで、それはきっと時代を問わず多くの人にとってそうであるんじゃねえかなって話に繋げてる。

これは明確に新しい価値を世の中に生み出してるよね。

で、神様になった日の場合は新しい価値ってないよね。

塞ぎ込んでた所から復活させることに物語上の必然性も今の所感じないしね。

霊界との交信って行為が何らかのメタファー伏線として今後物語に関わるのだとしても、この話を単体で見たならただパクっただけの虚無回なわけで。

あと、1話限りの捨て設定で魔法という概念を絡ませてきたのが、この作品が元々持ってるファンタジーなのか騙りなのか分からないっていう立ち位置と変に混ざり合ってノイズが酷い。

同じテーマを扱うにしても自分なりに加工して扱ってない稚拙さが、やたらパクりって言われる大きな原因かなと思う。

とにかく細部の作りが粗いんだよね。

神様になった日という作品の中の1話として上手く固まってなくて、換骨奪胎しきれずにそのまま元をなぞっただけになってる。

大学生コピペつきばき丸見えレポートみたいな歪さがあって、作品としてのクオリティが単純に低い。

結局ここだよね。

他の作品参考にするのが悪いんじゃなくて、それに引きづられて駄目な回になってるのが駄目なんだよね。

あんなんで尺取るぐらいなら全部電話で済ませるとかで良かったよ。

2020-10-23

「私と違う意見を言うのは、私への攻撃」という錯覚

長く書くとかえってブクマして貰えないから手短に言うね。

軍隊教育お下がりから換骨奪胎出来てねえ日本教育委員会が悪いので上に居座ってる奴ら全員今すぐクビにしろ

短く言えたから褒めて

2020-10-03

anond:20201002184712

恐竜も月面も既存作の換骨奪胎すぎる。

世代にはコラージュ脚本だと丸わかりで「昔見た展開だ」と喜ぶよりも冷めるほうが大きくないか

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