はてなキーワード: 点字とは
https://twitter.com/pink_yellowish/status/1057925168406773761?s=20
【2012年】
□第2次安倍内閣発足
【2013年】
●アベノミクス発表
●東京五輪決定
【2014年】
●消費税8%引き上げ
□第3次安倍内閣発足
【2015年】
【2016年】
【2017年】
●森友問題
【2018年】
【2018年続き】
●省庁の障害者雇用水増し発覚
【2018年続き】
□第4次安倍改造内閣発足
【2018年続き】
●平井大臣 選挙運動費用収支報告書に約700万円分の無宛名領収書61枚
【2018年続き】
●片山さつき 暴力団交際者から事務所無償提供&秘書給与肩代わり
【2018年続き】
【2018年続き】
【2019年】
【2019年続き】
【2019年続き】
●安倍首相「自衛隊募集は都道府県6割以上が協力拒否」実際は9割協力
●政府統計 2018年1月から日雇労働者120万人外し賃金操作
【2019年続き】
【2019年続き】
【2019年続き】
【2019年続き】
●消費税8%据え置きの軽減税率食料品 政府指針で増税前値上げを推奨
●エジプト・シナイ半島で活動する多国籍軍に陸上自衛官の派遣決定
●塚田一郎副国土交通相 下関北九州道路建設計画「私が忖度した」発言辞任
●新元号「令和」に米NYタイムズ紙「Order and Peace(命令と平和)」
【2019年続き】
●米WSJ紙社説 日本の消費増税が「自傷行為」になるとの見解
●F35戦闘機 米報告書で未解決欠陥966件 100件以上は安全に関わる重大欠陥→政府100機追加購入
【2019年続き】
【2019年続き】
●WTO逆転敗訴 政府の「日本産食品の科学的安全性認められた」は虚偽説明
●日の丸掲揚と君が代斉唱に従わない教職員の懲戒処分 国際労働機関ILOが是正勧告
【2019年続き】
○元号が令和となる
●経産省キャリア職員 覚醒剤使用で現行犯逮捕 省内の机から注射器押収
●自民党兵庫県議谷口氏 選挙期間中当て逃げ 親族が身代わり出頭
【2019年続き】
【2019年続き】
●トランプ氏来日 過剰接待 大相撲でソファ土俵にスリッパ 日米で批判
【2019年続き】
【2019年続き】
●人口自然減 初の40万人超 出生率3年連続減 出生数過去最少更新
【2019年続き】
●国家戦略特区 政府WG委員関連会社 提案者から指導料200万円
●非正規雇用者 10人中4人に増加 年収200万円未満75%
【2019年続き】
●老後2000万円報告書「質問への答弁控える」政府が閣議決定
【2019年続き】
【2019年続き】
●国連特別報告者 日本メディア独立性疑念への日本の拒絶反応に「驚愕した」
【2019年続き】
「ウミガメのスープ」型の問題(水平思考問題などと言うらしいが)を楽しもうと思い検索しているのだが、どうもつまらない問題が多い。出題形式こそ「ウミガメのスープ」と同じだが、この問題の良さを正しく踏襲している問題は、少ないどころかほとんど見当たらないのだ。そこで何故、他の問題が「ウミガメのスープ」のように機能しないのか、この種の問題はどのような理由で悪問となるのか、ということを考えてみることにした。
Q. 薄暗い部屋で一人、ピアニストの女性が熱心なファンレターを読んでいた。読み終わってすぐに彼女は、自らの死を悟った。何故か。
A. ピアニストの女性は盲目でファンレターは点字。点字の間には毒針が仕込まれていて、ファンレターの最後に毒針のことが書かれていた。
これは私がつまらないと感じた悪問の典型だ。この例題の問題点は客観的に明らかであるはずの手紙の文面や毒針の存在が明かされていないことだ。それらを知っていれば謎など全く存在していないにも関わらず、出題者の脳内の状況を明らかにするために質問を重ねていかなけばならない。何故、こんなことが起こるのだろうか。
普通、推理の問題というのは答えに必要な情報は予め開示しておかなければ成り立たない。だが「ウミガメのスープ」型問題では回答者が質問をし、それに出題者がYes/Noで答えるというプロセスが含まれる。そのため、普通なら許されない情報の後出しが許されてしまうのである。出題者はあえて問題文を曖昧にし、部分的な情報しか明かさないことで、回答者からの質問回数を増やし、あたかもこのゲームが機能しているように振る舞わせることができるのだ。だが実際はこの時に行われているのは推理ではなく、単なる問題の補完に過ぎない。
例えば算数の問題に置き換えてみよう。まず、「3218+877=?」という問題。これは暗算で解くには少々集中力を要する問題と言えるだろう。次に「a+b=?」という問題。こちらの問題では回答者が「aに入る数字は1ですか?」「2ですか?」「3ですか?」…とひとつずつ尋ねていかなければならず、最終的に明かされる問題が「2+5=?」となっているとしよう。結果的に問題を解くのには同じぐらいの時間を要したとしても、どちらの問題がより思考を要するかは明らかだ。このように問題を明らかにする過程というのは決して知的なものではなく、単に参加意欲を満たすだけのプロセスでしかないと言える。
この点、「ウミガメのスープ」で伏せられた情報は非常に自然だ。情報の欠落は男の過去に限られており、これは客観的に起こりうるものだ。問題文の因果関係に偽りは無く、ウミガメのスープを食べた事と男が自殺した事という一見繋がりの無い2つの事象を結びつける男の過去を推理している。必要な推理材料は最初から揃っており、極論すればヒントなしでも真実に行き着くことすら可能だ(逆に言えば多くの問題は出題時点では問題として成立してさえいないと言える)。実際に作るとなると難しいのは確かだが、このように問題としてきちんと成立した良問が増えていってほしいものである。
(変則的な例として問題文に叙述トリックやミスリードが含まれているパターンもある。これについては回答者の気付きひとつで解けることもあるが、推理小説の面白さと叙述トリックモノのミステリーの面白さが別と言われるように、やはり別ジャンルと扱うべきで、どちらかと言えばクイズのような出題形式が適しているだろう。)
俺は異常だ増田だ。
増田の異常性も時が解決すると思うが、増田は若いから今解決したいんだよな?その気持ちはよくわかる。
解決する1つの手段としては期間工になって正社員登用制度を利用することだな。
俺は障害者手帳持ちだって言ったけれど、その兼ね合いで俺たちみたいなのがどんな仕事で上手く行っててどんな仕事で上手く行ってないかというのをよく耳にしている。
その中で上手く行き易い可能性が高いのが期間工だよ。特に自動車業界の。
自動車の期間工ってチームで動いてるけど仕事の中身は1人作業だからな。仕事中に誰かと関わることが非常に少ない。
そして期間工の間は究極的に言ってしまうと責任がない。もちろん失敗すると叱られるだろうけど車が完成しなくても最終的な責任は正社員の中に居る管理職にあるので責任へ対してのストレスが非常に少ない。
正社員登用制度があるので正社員になれるし、いきなり管理職ってわけではないから責任もいきなり増えたりしない。
自動車業界は福利厚生も豊かで給料もそこそこ、社会的信用も高く家のローンや自動車のローンを組むとき困らない。
「トヨタに勤めてます」とか「ホンダに勤めてます」とかっていうブランドは親御さんも安心するし、結婚適齢期の女にとっちゃ魅力的なブランドだろう。つまりモテる。
増田はもしかしたら俺みたいにソフトウェア開発とかできるようになるんじゃないか?みたいな期待があるかも知れないが、それは絶対に無理だとココで助言しておく。
俺はコンピュータのスペシャリストだ。正確に言えばコンピュータのことだけにしか特化していない他の業務に関しては無能と言って良いレベルの人材だ。
そしてこの業界に潜り込めたのが小泉純一郎政権下のIT革命と言われていた時代で、その時代背景によって「障害者にもコンピュータ業務を」という需要が高くあった時代に就職している。
そのため俺は日本でもおそらくは両手以下しか居ないだろうコンピュータに特化しつつ更に障害者向けソフトウェア開発に超特化している希少人材だ(盲目者ブラウザとか点字入力とか作れんだろ?)。
だから増田は本当に今困っているなら期間工になって正社員登用を目指せ。
俺も人の親だからな、息子が十数年後成長した姿がお前だと思って書いた。これが俺できる最大限の優しさだ。
「ローソンスマホペイ」をご存知だろうか。レジに並ばずとも、店内の商品が買える実験的サービスである。
ある日の昼休み、会社の近所のローソンで昼食を食べて帰ろうとしたところ、スマホペイの店内機械の前で戸惑っているひとを見かけた。どうしましたか、と声をかけて、その人が白杖を持っている、つまり視覚障害者だということはあとから気がついた。
1. 入店処理(Bluetooth か QRコード読み込み)
3. 決済処理
4. 退店処理(QRコードかざす)
このうち、1と4は入口付近の機械で行う必要があった。ただし、その機械がそこにあることは、視覚以外の情報がないように見えた。張り紙とディスプレイで案内はされていたが、どのQRを読み込めばいいのか、店を出るときはどうすればいいのか、音声や点字による説明はない。
また、商品のバーコードスキャンも、読み込むまでに時間がかかった。そもそもどの面にバーコードがあるか、触っただけではわからない。場所がわかってもカメラにバーコードをきっちりあわせないと読み取れないので、これもまた大変だった。
最終的に、その人はスマホにクレジットカードを登録していなかったため、決済までには至らなかった。けれども、スマホペイ自体にはとても好意的だった。なにより手にとった商品の名前がわかる(OSの機能でテキストが読み上げされる)のがとてもいい、あとは慣れればうまくできる、と(悪魔のおにぎりを持って)笑っていた。
確かに実験的サービスだしこれからブラッシュアップされるのだろうけど、ローソンは会員登録するのにアクセシビリティなしのCAPTCHA認証を使ってくるので、その部分だけは私が読み上げるひつようがあった。
これから画像認識技術がすすんで、バーコードを読み込まずとも手にとった商品名が目が見えずともわかる、そんな日が1日でも早く来るといいなと思った。
ちなみに昼休みはおわっていた。
よく地下鉄駅構内の通路を通るんだが、ひっきり無しにけたたましいアナウンスが繰り返される。
云々
だいたい、点字板の上で立ち止まったり、荷物を置いているヤツなんて一度も見たことないし、
点字板の上であろうがなかろうが、大勢が通行する通路でそんなことしたら迷惑だろう。
もし、本当に駅構内で困っていることがあるなら、そのランキングの順にアナウンスしたらどうか?
・酔っ払って駅員を殴るのはおやめ下さい
とかw
とか(昨日の昼前、堺筋本町駅のプラットホームでタバコを吸ってるバカを見たぞ!)
アナウンスするなら、費用対効果をまず考えるのは、民間の会社なら当たり前だけど。
そう言えば、エスカレーターのところでも
って言ってるけど、今時、靴屋で「ズック靴」って言って通じるの???
トイレが綺麗になったのは、橋下さんがやれと言ったからやっただけで、
まあ独占企業だから、顧客志向とかお客様満足度という単語自体、知らないし、
聞いたこともないんだろうな。
ユーザーからすれば、安全で安くて時間通りに運行してくれたら、それでいいのだ。
最近増えているインバウンド客からすると不安を覚えるとか、想像できないんだろうな。
上海だろうが台北だろうが、地下鉄駅構内って静かなもんだろうに。
さらに最近は、朝からオッサンの生アナウンスも導入されて、天気や気温、運行状況、熱中症に気をつけろ
今日も素敵な一日を過ごせ、そんなこと朝っぱらからわざわざオッサンに言われたくないし、早く暇なオッサンを
先日発生したJR蕨駅での全盲男性がホームから転落して死亡した件
日本視覚障害者協議会が点字パネルの確認を行っており、点字パネルは正常に設置されていたのだろう
盲導犬を連れていたので点字パネルをあまり意識せずに端へ移動し足を踏み外したのだと思われる
非常に不幸な事故だと言わざるを得ない
あえて言えばホームドアが設置されていれば事故は防げたので、JR他鉄道各社はホームドアの設置を進めてほしい
で、終了すべき事案であったはずなのに
全盲男性死亡 駅員ホーム不在 | 2017/1/14(土) 23:01 - Yahoo!ニュース
東京新聞:蕨駅転落死事故 駅員、盲導犬男性に声かけせず 介助申し出なく:社会(TOKYO Web)
盲導犬男性、改札の駅員が認識…蕨駅転落死 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
昨晩からずっと「駅員がちゃんと見ていなかったからだ」という責任追及が始まっている
確かに駅員が介助していれば不幸な事故は起きなかったかもしれない
だがそれは「もし」の話であって、「重大な過失」扱いするべきではないと思う
飄々と杖を使い、目が見えているかのようにすいすい移動するので、介助が必要だと言われなければ「必要なさそうだ」と思っても仕方ないと感じる
記事にもある通り、男性が普段から駅を利用していたならば駅員はそれ以上に感じていたと思う
駅員は同支社の聞き取りに「男性は普段から駅を利用しており、この日も改札を通った後に立ち止まることもなかったので、声かけしなかった」と説明したという。
むしろ「いつものことなのにこの日に限って」となれば、それは「不注意による転落」であって、視覚障害等関係なく誰にでも起こり得ることではないだろうか
メガネが我々低視力の視覚障害者を健常者にしているように、健常者に近づけさせるための道具は実に素晴らしい。
メガネがなければ、きっとなんの仕事にもつけてないし、そもそも今に至るまで生き延びているかどうかも謎だ。
メガネは素晴らしい。低視力でも健常者と同じにしてくれる。メガネありがとう。メガネ大好き。
だが、未だに盲目の人を見える人と同等にすることはできていない。
だから、街中はうるっさい信号機や見苦しい点字ブロック、ピンポーーーンとなる駅の案内板、点字図書館などの目が見えない人のための道具で溢れかえっている。
これらは目が見えない人のためだけに日本中に、世界中に存在する。
彼らは特権階級といってもいいだろう。点字ブロックは彼らのための道路であり、自転車や車を置いてはならない。
盲導犬は犬嫌いがいようが、犬の毛が入って欲しくないような飲食店だろうが、彼らの役に立っているがためにあらゆる場所での存在を許されている。
その優遇され具合は貴族のためにレッドカーペットを全国の道路に敷いているのとなんら変わりがない。
もう、彼らのために尽くすのはやめよう。
今すぐ全国の盲人のための設備を全廃して、そのためのお金を全て盲人が健常者と同様に見えるようになるような機械あるいはIPS細胞を使った人工眼球の開発に全投入しよう。
そうすればあの注意を引かせるためにある不快な音を聞く必要がなくなる。
何より、彼らが健常者と同等の生活を送ることができる。これに勝るものはないだろう。
映像も我々と同等に楽しめる。生活することで誰の手を煩わせることもない。
自転車だって路上においていい。杖をカチカチさせながら歩く必要もない。
盲人にとってのメガネを作ることが一番彼らのためになるのではないだろうか。
快速電車がすぐ脇を猛スピードで突き抜けていくのを横目に黄色い点字上を歩くこともしばしばだ。
昨日から風邪を引いている。別に線路や電車までの距離が近づいた気はしないが、普段考えないようなことも考えたりするようになる。
最近たまに、思いがけないことが我が身に起きる。何度も確認した予定表から大事な予定を見落としていたり、大事なプレゼンに行くのにそのプレゼン資料を忘れて新幹線に乗り込んだり、うんこを漏らしたり、だ。まさに、夢であってくれればと願うのに覚めない悪夢ばかりだ。
うんこを漏らせば、増田に書き込めばいい。他人もうんこを漏らしている。どうってことはない。(あるが)
だけど、もし、体調が優れない時には極低確率でホームから線路に落ちるとしたらどうか?
昔、友人から、上司が飲み会の帰りに人身事故で死亡したという話を聞いた。自殺する理由は全くなく、本当に事故だったのだろうと友人は語っていた。
その後、何かで読んだが、泥酔してホームから転落する人達の多くは、よく啓発ポスターであるように、千鳥足でホームの端を歩き足を踏み外して落ちるわけではない、むしろ多いのは、ベンチなどからいきなり立ち上がり、真っ直ぐホームの端を目指して歩いていく、ということだ。だからベンチの向きはホームの端を向けないことが有効な対策なのではないかと結ばれていた。
最近、利用駅のベンチが軒並み新しいベンチに替えられた。いずれも、座るとホームの進行方向ないし逆側を向くベンチばかりだ。
タミフルを摂取すると異常行動が出ると一時期話題になったが、あれは確かタミフルが原因ではなく、インフルエンザでの高熱時には低頻度で異常行動が出る、それが原因ではないかということでほぼ決着がついたように記憶している。
もし、人は体調不良の際に低確率でホームから転落する行動をとってしまうのだとしたら。
これまで、過労を苦にして自殺したとされてきた人達の何割かは、本当に、一瞬たりとも自殺など考えぬまま自殺行為をしてしまっていたり、するのだろうか。
もしそうであるならば、風邪を引いただけの、今日の自分もまた、幸いにして自殺とは縁遠い人生を歩んで来られた自分もまた、極低確率とは言え自殺者に名を連ねる可能性があるということではないか。
体調不良人身事故死者達は、最期に何を見ていたのだろうか。彼らをホームの先に駆り立てたものは、何だったのか。何らかの法則はあるのか。
うんこを漏らしても、増田に書けば事実は共有できる。その結果、有能なサラリーマンはうんこを漏らすという気づきが得られる。
しかし、人身事故で死んでしまったら書けない。書けないから残らない。仮に生き延びて書けたら、それには生存バイアスが付きまとうのかも知れない。
調べる方法などないのに過去の偉人を発達障害認定するな、という主張は一見正しく思える。しかし本当にそうだろうか?
何故ならば現代に生きる人間においては、脳をMRIなどで調べる事すらなく、単に人付き合いが苦手だというだけの根拠で発達障害の認定を受けるからだ。なぜ過去の人間に同じ基準を当てはめてはいけないのだろうか?
発達障害だから人付き合いが苦手なのではない、人付き合いが苦手だから発達障害と呼ばれるのだ。
そして障碍が本当に障碍であるのならば、それは社会的成功の度合いに左右されない筈だ。
本がベストセラーであっても乙武さんは五体不満足であるし、点字が読めてもヘレン・ケラーは盲聾唖だ。
一定の評価を得た成功者を発達障害と呼んではならないというのならば、発達障害なる概念が偽科学で作られた偏見の産物である事を認める事に他ならないのではないか。
欠損を売りにした店があって何が悪いのか?
それは欠損という障害を自分の一部として生きる糧にしてるじゃないか。
自分が持ってる障害を日常生活に当然組み込んで生きているよな。
目が見えなければ白状をついて、点字を使って世の中を生き抜く努力をしてる。
少しでもそれをやりやすくする手伝いとして、障害者援助や、障害者雇用の整備の努力をするのが必要だよな。
持っている障害はなかったことにならない。そうでないほかの人間とともに生きていくことを強いられる。
同じように、健常者だって例えば面白い顔と回転の速い頭を生かして芸人をやってる人だっている。
一般的に好まれる顔を売り物にして、モデルや女優として芸をひさいで生きている人もいる。
自分の持ち物を生きる糧に最大限利用することは当たり前のことだ。
今回の欠損女子バーは、それを好む人の需要を受け入れて生活の糧にする場だろう。
例えば足の不自由な人がそれを見世物にせずほかの能力をみがいて生活していたとして、
(例えば研究者、例えば話術、例えば役者……挙げればキリがない)
欠損女子バーと同じことしないの?wwって思う人がいたとしたら(増田の言ってることはこういうことだろうと思うが)
そんな人がいたとしたらそれを責めるべきだろうよ。
ども、ブクマでは散々突っ込みかましてる本業個人店経営チャレンジなう(死語)な、整体師のオバサンです。
なんだか、
乳幼児の頚椎カイロの死亡事故
首ひねる独自マッサージ後乳児死亡 NPO代表任意聴取:朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASG9631WYG96PTIL003.html
から、
国家資格(あはき法免許)取得者による整体師やリラクゼーションのお店への批判論
なぜ整体やカイロ、無免許マッサージは放置されているか。 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/716729
へと発展していったのを見て、
なんだかいろいろ考えてたことぶちまけたいなー、
と思ったので、
今までこの「リラクゼーション」と「整体」に身を置いてきた私から見た、いろいろなよしなし事を、まとめてみたいと思います。
とはいっても、反論とか言うんじゃなくて、自分が今まで知ってきた事見てきた事聞いてきた事感じてきた事をつらつらとまとめてみたものです。
あくまで参考に、という感じでとらえて頂けたらなぁ、と思います。
いやぁ書いてるうちにめっちゃ長文になってもた。ごめんなさい。
言語学ってみなさん聞いたことありますか?おそらく、「言語学を学ぶために大学を選んだ」人は極小数だと思います。
言語学は、言語の本質を解明する学問のことです。個別言語の解明にはそれぞれ担当する言語の名前がついた学問があります(ex.日本語学、英語学)が、言語学は、そういう個別ごとの解明ではなく、言語全体に流れる本質を見出す学問と言えるでしょう。だから、日本語学や英語学のような学問と言語学は相互に助け合って成り立っていると考えてもらってさしつかえありません。
じゃあ言語学がけんきゅーする言語ってなんだよ、という話ですが、当然のことながら定義は曖昧です。コミュニケーションを取る記号体系の総称、と言えば聞こえはいいですが、納得しない人もいるかもしれませんね。
例えば感謝の気持ちを表すのに「ありがとう」やら「thx」やらことばを使いますが、それだけじゃありません。感謝の気持ちをめいいっぱいの笑顔で表現したり、ハグしたりと、相手に感謝の意を伝えるには様々な手段を使います。
そして言語学はそのあらゆる手段、環境、が考察対象、とも言えます。コミュ学、と言えばウケがいいでしょうか。
手段というのは、要するに日本語のように体系的なものから、それに付随する顔文字や記号の集まり、身振り手振りやデザインなどです。
体系的、というのは要するに正確に意思伝達するにはルールを守る必要がある、ということです。日本語のような自然言語に限らず、手話や点字などは体系化されたコミュニケーション手段です。そして意思伝達を図るには体系化されたルールを双方が理解する必要があります。
環境というのはたとえば手紙であったり、たとえば日常の会話だったり。競馬の実況や野球の解説だったり、所信表明演説だったりします。プラットフォームと言えばウケがいいでしょうか。こういうのはどちらかというと日本語学の方が進んでいたりします。言語学でするならば、各国の総理大臣や大統領の演説を比較するなどのことが考えられるでしょう。
もちろんそれらの変化も考察するので、歴史的な捉え方もできます。例えば古く日本語では「母」を「パパ」と呼んでいた、なんてのは小話でされますが、これは[papa]のp音が[haha]のh音へとゆっくり変化していったことを意味します。これは「唇音退化(しんいんたいか)」と呼ばれる現象です。「ぱ→ふぁ→は」と発音してみれば簡潔にどういう状態なのか分かるとおもいます。こういったものは音声学や音韻学、国語学などが詳しいでしょう。
次回第二講は「げんごがくってどんなことをまなぶの」です。今回は第二講の導入も兼ねています。
なお、更新は不定期です。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1
ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。
この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。
前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。
●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ
以上の4つのリンク先からブックマーク・コメントを引用させてもらいます。
id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。
私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。
1. 漢字について
4. 国語廃止論序説
5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。
ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。
上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。
それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会が理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。
また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。
とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。
そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。
もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマーク・コメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。
id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。
日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字の学習に費やされていることも。
日本の学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。
いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本の学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本の学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。
あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。
漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。
もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。
私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者、日本語学習者です。
そうした人たちが文字情報にアクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。
こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。
こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。
「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」
これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータや スロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。
同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。
だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。
さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。
「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマーク・コメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?
前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。
id:baumkuchen555 みんなよく読めるな
id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること
id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな
id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる
id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0 アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり。
id:makiyamakoji とても よみに くいね
id:feita さすがによむきがおきないね。
id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。
id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?
id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…
id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない
id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。
id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻の常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ
id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化
id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。
お疲れ様でございます。
みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。
「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。
「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。
上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。
id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。
この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。
なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字を学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。
ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。
そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。
つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。
こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。
「日本語酷すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。
書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?
なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。
すでに述べたように、私は自分の言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。
たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?
その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。
しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。
繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威と権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。
次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。
このごろ建物の階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。
たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。
もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。
つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞のニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。
何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……
見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄りが自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。
文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。
だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。
同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。
そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。
石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。
もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。
多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。
あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。
要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。
その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。
私は前の記事で次のように書きました。
さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分が権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。
これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。
漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。
そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。
id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記。
id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。
ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。
たとえば、「日本語は同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。
しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。
実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。
他によくある誤解はは、漢字は表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。
id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど
ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。
英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。
つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。
要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。
(続き)