はてなキーワード: 安定剤とは
最近、感受性があっても何の役にも立たないと分かった。ネット上に散らばる個人の愚痴だのどこかの誰かが犯罪して逮捕されただの自分とは関わりのないネガティブな事柄を目にする度に余計に鬱が悪化してしまう。これぞ豊かな感受性である。小学校、通知表の通信欄で「感受性が豊か」と評されていたが、あれは「どうでもいいことにも一々反応するようなメンタル弱々クソ人間」というのをオブラートに包みまくった評価だったんじゃないかと気付きました。先生、あなたの教え子は、今、立派な引きこもりになっていますよ───高校3年センターまであと2ヶ月、追い込みの時期にも関わらずデレステをやっている若者に未来はあるのか?
今日はちょっと個人的なことを書こうと思う。まぁいつも個人的なことだけど。
目的は書き出すことでの整理。それに付随して派生するかもしれないけれど、今は控えておく。
付き合っていた彼氏(まぁ今も続いているのだが)がいたが、大学が私立だったので親孝行のためと、やっぱり地元が住みやすくて好きだったので、めでたく遠距離恋愛となった。
この彼(けいし君といいます)は、同い年で同じ学年だったのだが、1年休学留学をしていたので、卒業は1年遅れ。まだ学生。
まぁそんな感じで地元の企業で営業として働いていたのだが、半年で辞めた。
辞めた理由はいろいろあるような気がするし、全部書くと長くなるのでやめておくが、一番大きな原因は
「生きることが面倒になったから」。
大学3年くらいからこんなことを考えるようになっていって、ついにそれが爆発した感じ。
この時私は本当に死のうと思っていた。
鬱だったのかと言われればそんな感じといえばわかりやすいかもしれないが、精神科の先生には鬱なんて診断もらわなかった。
(時期はずれているが二人の先生に診てもらった。一人目は「また死にたくなったら来てください」と言われた。二人目の先生には安定剤と睡眠導入剤を処方してもらった。)
やりたいこともわからないし、何を指針に、何に向かって生きていけばよいのかわからないし、生きる意味なんてわからないし、生きるのってとても煩わしくて面倒だな、と思った。
けいしには話をしていた。彼はもちろん私を助けようとアドバイスをくれたが、当時の私には何の救いにもならなかった。今になってみれば、彼のアドバイスが間違っていなかったことはわかるのだが、生きることに面倒になってしまった私は、自分の現状から抜け出す意味も、そんな気力さえもなかった。
多分、彼はそこをわかってくれていなかったのかもしれない。聞いてないからわからないけれど。
そんな感じだったのだが、まぁいろいろあってまだ生きている。残念ながら自殺未遂もしていない。
単に逃げたかっただけなのかもしれない。
親とか、兄弟とか、彼とか、友達とか、会社とか、そういった社会のつながりから。
こうしてまたそういうつながりに戻ってきているのだが、時々逃げ出したくなる。
とりあえず話を先に進めよう。
そして職を失った(自発的に辞めたんだから、失った、てのは変な感じもするが)私は、少しだけニートになった。
お金はないけど時間はある中で、自分と向き合って、何に興味を持って生きていけるのかを探る期間にしようと思った。
私には、趣味らしい趣味も、好きなこともなかった。得意なこともないし、自分には何の価値もないと思っていた。あ、これは今も変わらないか。
何もない自分が、どうやって価値を生み出してお金を得て生きていけばいいのかわからない。
世の中の人間なんて、自分に価値がないなんて思っている人はたくさんいるはずなのに(だから「あなたには価値がある」って声高に叫んでいる人が人気を集める)、みんな何がしかお金を得る手段を持って生きていけてる。そうなるにはどうしたらいいのか、どうして誰も教えてくれなかったんだ。
そんな中で、私の中で価値があって、人生の指針になってくれる人が一人だけいた。彼だった。
アルバイトを始め、ニートからフリーターとなった私は、もうひとつジュニアスイミングスクールのコーチとしても働き始めた。こちらもアルバイト。泳ぐことは昔から好きだった。子供はそんなに好きじゃなかったけど、かわいかった。1年ほど勤め、やっと慣れてきて、もっと勉強せにゃあ、と思っていた時だった。
もともと2人で、結婚の前に同棲したいよねという話はしていた。
でも、時期が悪かった。話を持ちかけられたのは夏だった。せめて年度末までスイミングスクールのコーチとして働きたかった。
そしたら彼が言った。
「今すぐ来てくれなければ、別れる」
普通に考えたらありえない。これがもし私の友達の話だったら、私は間違いなくそんな彼氏殴ったれ、と言うだろう。
しかも彼はまだ大学生だったのだ。卒論を期限内に書き上げられず、ゼミの出席日数が足りず、卒業できずにいた。休学しながら自分でバイトをして学費を貯めて大学に通っていた。
そんな生活を続けていくうちに、大学を卒業する意味がわからなくなってきたと言っていた。
彼のことが好きなのか問われると、正直今はよくわからない。
私は好きじゃない人ともセックスはできる。生理的に受け付けない人とか除いたら、そりゃずっと一緒にいたら愛とか情とか湧くんじゃないの?
今の彼が例外かと言われたらよくわかんなくなってきた。
そんな奴だったが、私の人生においては一番大切にしてきた人だった。私の羅針盤だった。彼がもし死んでしまったら、私も間違いなく後を追って死んだだろう。
…私は彼に流されすぎなのだ。仕方がないことではあるけれど。
私は彼を完璧な人間だと思っていた。(あほちゃうか、と思うだろう。私もそう思う)
彼の考えを聞くと、一見理論立っているように見えるのですぐに納得してしまう。私の悪いところだ。
お互いの両親に挨拶をした。彼の両親は自己責任でどうぞ、と言ってくれた。私の両親(特に父親)には反対された。でもその反対を押し切って、同棲を始めた。
アルバイトは両方辞めた。
私が前職の営業を辞めてすぐ就職しなかったのは、前述した通りやりたいことを探したいから、ということと、もうひとつ理由があった。
自信がなかった。
正社員という立場で、アルバイトより責任ある立場で、仕事を続けていく自信がなかった。壁にぶちあたったら、また「死にたい」と逃げるのではないかと思った。逃げない自信がなかった。
でも、状況は変わった。これからは家賃も食費も水道代も電気代も全部払っていかなくてはならない。
人は働かないと生きていけない。自給自足も不可能ではないが、現在のシステムは自分ができることでお金を稼いで、そのお金で誰かが代わりに作ってくれた野菜を買うというものになっている。賢い生き方だと思う。でも、その働くというハードルは、おそろしく高い。
いや、私が高くしているというものもちろんある。バイトでもお金は稼げるし、私がしたくないと切り捨てている仕事もたくさんある。
だけども、やっぱり高い。
転職では即戦力が求められ、半年の営業経験と責任感がなくて楽だと思いながらやってきたアルバイト経験だけでは、何が即戦力になるというのだ?
まだ、見いだせていない。
やりたいこと?3年近く探してもまだ見つからないんですが。
本気で探してないだけかもしれない。でも本気で探す理由がわからない。
死亡動機なら答えられるのに。
けいしに流されて生きてきた人生だな、と振り返って思う。
流されてきた、というか、私の判断材料に常にいるな、こいつ、と。
そう思ったので聞いてみたのだ、彼に。
そしたら、いない、って返ってきた。
そういう考えをしていた時期もあったけれど、そうすると、ちゃんとした仕事に就いて、養っていけるという状況を作らないといけない。それじゃダメだと。丸くなってると。
前に二人で言ったよね、お互い自立して、それぞれが見てきた世界を共有しあえたらいいよね、って。
お互いなにがしかの武器を持てたら、二人で協力した時、お互いの欠点をカバーしあえて最強だよね、って。
そう、言われた。
正直、私はショックだった。
私はけいしがちゃんと大学を卒業してちゃんと就職して、私を養えなくてもちゃんと収入を得て、そして結婚して、子供ができてお金が必要になってもちゃんと暮らしていける。そんな未来を思い描いていた。
だってもう25だ。そろそろ子供産んでおきたいのが正直なところだ。まだ全然子供を育てられるような人間じゃない。そんな人間できていない。育児ストレスで自分の子供に暴力振るう自信だってある。(そんな自信はいらない)
だけど、そろそろ、そういう時期だって思ってた。
同棲始めたし、同棲を長期間するつもりもないし、いずれ近々籍も入れるだろう、と。二人で同じ未来を思い描いて、お互いがお互いの人生に責任を持ち合いながら生きていくのだろう、と。
そろそろ、ちゃんとしてくれるのだろう、と。
その反面、けいしの言うこともすごくよくわかるのだ。
お互い自立して、自分の人生の責任は自分で持つ。だけれども、パートナーとして、一緒にいる。助け合う。お互いの見てきた世界を共有しあう。人生2倍。
なんてキラキラしていて、楽しそうなの、と。
どちらを選ぶかは、私たち二人次第だ。
ただ、もし後者を選ぶなら、レールから外れて生きていくことをきちんと自覚しなければならない。
(まぁ正直すでに外れている二人だが、まだ修正はきく位置にはいるだろうと思っている)
転職アドバイザーの人からは、これ以上非正規を続けたら、正規になるのはとても難しいだろう、と言われた。
その道を突っ走るのか。
けいしの将来だって保障されたものじゃない。向こうが稼いできてくれると思ってはならない。
いつか後悔するかもしれないが、やりたいことやりたいだけやって死ねる。
そもそも私はこの道を選んでどうしようもなくなって死ぬしかなくなってもいいのだ。だっていつ死んでも一緒なのだから。
年上の人にこういう話をしたら、みんなレールに乗るように、って言ってくる。
私より長く生きているから、視野も広いだろうし、知識もあるだろう。”知り合いにこういう道を選んで失敗した人がいるから、私にはそうなってほしくない”とアドバイスしてくれてるのかもしれない。
でも、自由に生きている人も少数ながらいる。多分その繋がりで、ホームレスの若い男の人が結婚した、なんて話も聞いた。
こういった少数派の人たちは言う。普通の大人に意見を求めるな。普通になるようにアドバイスしてくるはずだ、と。なりたいものがあるなら、それにもうなってる人にアドバイスを求めよ、と。それは確かにそうだよな、と思う。
でも、それが自分が心から求めているものならば、叶えられるんじゃないのかな、とも思っている。
とりあえず、けいしと話をしなければならない。
お互いにお互いの人生を、と考えている彼は、自分の思いを聞かないと話してくれないし、わざわざ私の相談にも乗ってくれないのだ。
私は本当にこいつに一生付いて行ってもよいのだろうか。
そろそろ不安になって手元のキャッシュを数えると、879,000ドン。
相変わらずどれだけの価値があるのかさっぱり分からないが、あまり高額でないことは確かだろう。
道路を横断するたびにバイクを躱さないといけないホーチミンだが、歩行者用信号機が無いのかといえば、時々ある。
そういえば、歩行者用信号機と車両用信号機は対になっているという固定観念がありました。
いや、僕も日本人長いんで。
偶に止まるバイクもあるにはあるものの、そこは何か「お気持ち」というか、交通ルールが「個人の優しさ」で運用される、そんな独特さがホーチミン仕様だった。
ネットで調べた優良両替店に行きすがら、広大なメインストリートに打ち当たる。
後から調べると、グエンフエ大通り公園という事だった。
公園の突き当たりを見れば、格式ありそうな建物と、その前に右手を前方に差し出して起立するホー・チミン像。
これはネットで見た事があるぞ。
パッと名前は出てこないが、ここがホーチミンで必ず訪れるべき場所だろう。
ホー・チミンをセンターに収めて一枚。
両替店まではもう直ぐだ。
両替店、エクシムバンクのカウンターで1万円を差し出すと、お兄さんは平坦な声で言った。
「2,050,000 don.」
このレートは良いんだろうか。計算してみると、1円で約0.00488ドン。
ネットで調べて出てくる標準レートと同じくらい。
日本で両替すると、これが0.00400位の時もあるとのとこだから、優良なんだろう。この数字が高ければ、当然手元に入ってくるドンも多くなる。
米傀儡政権を追い出して社会主義国家を打ち立てたホー・チミン。
その名前がついた街で、両替レートの熾烈な競争が繰り広げられているというのは何だか不思議な話だ。
コーヒーショップでこの旅行記を書いて、一息着いたら、疲れがやって来た。
無理せずホテルに戻ろう。
辺りはすっかり陽も落ちて、視界も悪くなっている。
ホテルに向かっていると、疲れのせいか、気分の落ち込みと、空腹と、吐き気を10倍に薄めたような胸の悪さが同時にやって来た。
安定剤は弱めだと先生が言っていたが、あまり頼りきりになりたくは無い。
とにかくエネルギー不足が危険を呼びそうだったので、何か食べたかった。
店に入るだけの元気があるんだろうか?
書店の灯りに何となく誘われてグエンフエ大通りを歩いていると、道すがらバインミーの屋台を見つけた。
そうだ、バインミーを食べるのは、この旅行でクリアしたいタスクの一つだった。
書店を少しだけ覗いた後、引き返してバインミーの屋台に向かう。
台湾でガイドさんに言われた事を思い出すと、屋台モノは人が並んでいるものを買うのが鉄則らしい。
即ち、食材の回転が早く、新鮮なので、当たる事が少ない。
屋台の前には学生さんと思しき数人が並び、バインミーを受け取ると、やおら店の前でムシャムシャ食べ始めた。
大丈夫そうだ。
レバーパテとハム、ナマスとパクチーの挟まったバインミーはパンのサクサクした食感と、予想以上のスパイシーさで、なかなかのモノだった。
ドトールの優等生、ミラノサンドとルックスは似ているが、風味のゴージャスさと食感でこっちの勝ちだな。
小腹を満たしたところで飲み物が欲しくなったが、都合のいい事に、屋台の直ぐそばに、台湾のタピオカミルクティー専門店、THE ALLEYがあった。
タピオカのホンノリとした甘さが心地いい。
見上げると、夜のグエンフエ大通り公園の空に、近代的なサイゴンスカイデッキが鮮やかな色彩を与えていた。
ここで少し計算をしよう。
それぞれ日本円に換算すると121円と316円ほど。
昼に訪れたサイゴンセンターで売られていたシャツはセールで600,000(60万)ドン。
2,923円。
ベトナムでも飛び抜けて高いとされるホーチミンの平均月収は1037万ドン。
約48,900円。
サイゴンセンターのシャツは平均月収の1/17程という事になる。
これを東京の平均月収38万円に当てはめると、22,000円前後。
東京とホーチミンでは収入の分布が違うだろうから、一概には言えないが、ちょっと計算してみるとなかなかのお値段だ。
そういえば、サイゴンセンターは平日の昼とはいえ人もまばらだった。
台湾でも嗅いだアジア特有の匂いがあるにしろ、ホーチミンは意外にゴミなどが落ちていない。
かと思えば、レロイ通りには近代的なサイゴンセンターがあり、グエンフエ大通りでは天を衝くようなスカイデッキが夜空を煌びやかに照らしている。
近代化を突き進む今のベトナムには、そこかしこに様々な差がありそうだ。
朝の公園でピースサインをくれた少年少女や、青い制服で飯をかっ込んでいたカオタン テクニカルカレッジの男子達は、将来サイゴンセンターのシャツを買うのだろうか。
Day 2
自律神経をやっていようと、そうでなかろうと、旅行で眠れないのはいつもの事だが、処方された睡眠導入剤を飲んでも5時間足らずしか眠れないとなると、この体質は筋金入りだ。
自然に目が覚めたのは6:45。
二度寝を決め込もうとしても、ちょっとウトウトするだけで、眠気は「こんにちは」してくれそうもないので、あきらめて起きることにした。
眠気はどうあっても俺に「おはよう」と言いたいらしい。
睡眠不足とホテルパーソンへのコミニュケーションのハードルを前に少し逡巡したが、おそらく一番ストレスが少ない形で美味いものが食える可能性が高い、ホテルの朝食をとることにした。
朝食会場に向かう途中、外を見ると、強い日差しの向こうで噴水が上がっていて、これぞ南国の午前という感じだ。
シャンデリアの下がる大広間でコーヒーをサーブされて、料理を物色するというのは朝から優雅なものだ。
ホーチミンはフランス植民地時代からアメリカ傀儡政権の時代まで首都を置かれた地で、パン食の文化がある。
果たしてビュッフェにもバゲットやチーズ、レバーパテがあり、これは行くしかない。
他にも当然アジアスタイルの炊き込みご飯やカレー、ライスヌードル、揚げ春巻きもあって、洋越折中といった雰囲気だ。
どれも美味いが、カレー(多分)が出色だ。
さっぱりして、辛すぎないマイルドな味わいだが、スパイスの香りが口の中に拡がって抜ける。
席の背後をチラッと見ると、「Sweet TOFU」の文字と壺。
「TOFU?」とホテルパーソンに声をかけられて、首を横に振ったが、やはり気になる。
結局サーブしてもらうことにした。
甘い豆腐。予想通り豆花だった。
しかし、台湾のそれと違って暖かく、ココナッツフレーバーと生姜蜜がかかっている。
美味い。
これだけ食って自律神経失調症も無いもんだと言われそう。
大変満足した。
あの日差しを浴びたい。ポーチに気休めの安定剤を詰め込んで、食後の散歩に出ることにした。
行く当てのない散歩だけど、とりあえずベンタイン市場を経由してサイゴン川を目指そう。
よく見ると現地の人だけでなく、観光客と思しき欧米人の対応力も凄い。
「バイクを見切って躱す」のはこの街では必須スキルなので、嫌でも身につくらしい。
昨日と違う事と言えば、バイクのライダーのオッチャンに頻りに声をかけられる事。
迂闊に乗ったら多分ヤバイやつ。
「Ser , Go work.」笑顔で固辞して先を急ぐ。というフリでプラプラ歩く。
ホテルの目の前の公園で談笑していた少年たちに許可を貰って一枚。
リーダーか、英語ができるかする少年に何か話しかけられたが、意味はわからない。
でも敵意はないのは伝わったようだ。
しばらく歩くとベンタイン市場に到着した。
体育館の様な大型のアーケードの下に、色取り取りの生地や雑貨、飲食店。
夕食はここにしようかな?
自律神経が働いた悪さなのか、旅行の緊張なのか、食べ物の匂いがまだ辛い。
ここでも頻りに声を掛けられるが「ハハハ」と笑いながら素通り。
10:00。
日本以外のアジアは大体が外食文化で、例えば台湾などでは学生は校門前に陣取る屋台で朝食や昼食を買って教室で食うらしい。
多分ベトナムも同じなんだろう。
周りを見れば、学校の向かいに軒を並べる露店で固まって食を取っている学生も多い。
ドン!
飲料水を買おうとしてファミマに入ると、そこでも学生が食事を摂っている。
それにしても男子ばっかりだ。
青い揃いの制服のせいか、男子学生達は一様に小綺麗で、教育程度も高そうな印象を受ける。
一旦学校前を離れて、日本で言うところの伊勢丹、いやもっと格上の三越のような存在の百貨店、サイゴンセンターを物色した後、1時間程で戻ると、男子達はまだ周囲の露店で食ってる。
こいつら引っ切り無しに食ってるな、なんだったら今が本番かも知れない。
暑さもキツくなってきた、先を急ごう。取り敢えず川が見たい。
学校前を離れる時に、校舎の壁に学校名のエンブレムを見つけた。
ARIZONA STATE UNIVERSITY
なぜアリゾナ州立大学がホーチミンにあるのかは分からなかった。
相変わらずの躱しゲーを繰り返しながら辿り着いたサイゴン川は、隅田川よりもっと広く、澱んでいた。
薄々勘付いていたのだが、自分はまあまあな晴れ男であり、観光やここぞと言うときに雨に当たられる事は少ない。
10月初頭のホーチミンはまだ雨期のはずだが、それでさえもこの有様だ。
自律神経の不調も憂鬱な気分も、事、天気に関しては影響しないらしい。
願わくばその運をもうちょっと別の事にも回して欲しいくらいだ。
雨のホーチミンで、お茶でも飲みながら茫然とするというビジョンはひとまず実現せず、現実には炎天下の橋の上でこの旅行記を書いている。
何はともあれ、この時間でやりたい事はやった。
ホテルに戻ってシャワーを浴びてから、気になって例の学校について調べると、やはりというか、アリゾナ州立大学ではなく、カオタン テクニカルカレッジというらしく、機械や電子に関する工業高校らしかった。
そりゃ道理で男ばっかりな訳だ。
学校の程度はわからないものの、自作で車を作るイベントがあったり、インテルと提携して人材開発を行なっているらしかったり、そこそこ優秀な雰囲気を感じる。
ここは工業化・近代化真っ最中のベトナムだ、生徒といえば荒っぽい男の子達ばかりと相場が決まっている日本の工業高校と同じ感覚では考えられないのかも知れない。
多分、アリゾナ州立大学ともなんらかの提携を結んでいるのだろう。
Day 1
羽田の深夜便だった前2回の旅行と違い、今回は成田発で、昼出発。
しかもややメンタルに不調を抱えているとあって、余裕を持った出発を心掛けたかったが、時間を勘違いして、ギリギリで成田エクスプレスに駆け込み、その上方向を間違えて折り返すという失態を演じてしまった。
肝心な時には何かバタバタする傾向がある自分なので、「またやってしまったー」と思ったが、どうやらチェックインには間に合いそうで、成田エクスプレスの車窓から畑を眺めながら、「この旅行に行って何になるんだろう」と愚にもつかない事を考えた。
別に何が起こるわけではない。
ただ若い頃からずっとボンヤリあった心象風景、雨のベトナムで川を眺めながらお茶や料理を食べる、その画をこの目で見て来るのだ。
メンタル不調なんて、ボンヤリするのに格好の舞台装置じゃないか。
前回の香港旅行では、事前に広東語のフレーズをいくつか覚えて行ったが、「話せるものの聞き取れない」という致命的な見落としがあり、結局中学校時台成績2の片言にもほどがある英語と、メモによる筆談で乗り切ることになった。
ベトナム語も広東語と同じ声調言語(音の高低と発音で意味が決定する言語)であり、しかもその声調というのが「コブシを効かせるようにいちど下げて上げる」「波のようにうねって上げ下げして上げる」という難解極まるモノで、もう「ありがとう」「これください」「トイレはどこですか」以外のコミニュケーションは投げている。
今回搭乗したベトナム航空は、ベトナムのフラッグシップのようで、エコノミークラスといえど、タイガーエア台湾や香港エクスプレスとはモノが違う。もちろんTGATやHKEXが悪いって訳じゃないけど、地上職員は日本語ができるし、機材も大型で安定していて、シートには枕やブランケットが用意され、機内食も出る。
さらに、シートにはモニターが設置されていて、映画その他も見られる。
海外に行くときはその地のポップカルチャーを予習して行きたいのだが(香港前に発見したアガサ・コンは最高だった)、ベトナムはまだYoutubeでの情報が少なく、これと言った映画やアーティストを発見できずにいた。
そこでモニターをポチポチやっていると、果たして良さげなベトナムのアーティスト(多分)を発見したのだった。
英語詞の曲とベトナム語詞の曲が半々。音楽性はR&BとEDM(ダブステップの様な強めじゃないムーディーなやつ)とジャズを掛け合わせた様な感じで、ジャスティン・ティンバーレイクを思わせる。
機内では検索できないので、あとで調べよう。
朝飲んだ安定剤が効いているのかな、憂鬱な気分が後退してきていい感じだ。
ややあって、海外旅行なら一度は聴いてみたい、「pork or fish rice ?」というフレーズと共に機内食がサーブされた。
ベトナムの航空会社なのに機内食で和食が出るという不思議仕様でもっぱら噂のベトナム航空だ。
ここで「fish」と答えれば和食が出て来る事は間違いなく、折角の海外旅行、しかも出発便の機内食が和食というのもどうかという事で、「pork」と答えると、豚の唐揚げの煮物をチャーハンにぶっかけたようなご飯と、海鮮春雨サラダ、パン、デザートが出てきた。
春雨の方はヤムウンセンとかそれに類するもので明確にアジア料理だが、ぶっかけご飯の方はなんだか分からない。
付け合わせが椎茸の煮しめだったり、桜の形に型抜きされたニンジンである事も地味に混乱する。
味はというと、エコノミーでこれだけの物が食べられれば充分満足で、その後、暖かいコーヒーのサービスがあったり至れり尽くせりだったのだが、あれはベトナム料理だったのだろうか。
カラトリーがまとめられた袋の底に、スパイスの小袋が入っており、「甘利香辛食品株式会社」と書いてあった。京都伏見の会社であるという事だった。
機内食で腹を満たし、少し微睡む。
眼が覚めると機内は消灯されていた。
英語のスポーツチャンネルを見ながら、「早くホテルで横になりたいな。でも何を楽しめるんだろう?テレビをつけても何言ってるか分かんないだろうし」という思いが浮かんで来る。
チャンネルでは、MTBのアーティストが大木やバランスボール、建築物やワインディングロードなど様々な障害をキッカーにしてトリックをキメていた。インスピレーションを色々なものから受けて、驚くべきビデオやショーを生み出すらしい。
他の人からは無意味に見えるものに価値を見出して楽しみ、アートを生み出している。
意味不明に見えるけど羨ましい。
普段の自分もそういうキャラなんだけど、ダメかもなぁと感じてしまう。
多分、朝飲んだ安定剤が切れる頃合いだ。
自律神経失調症で襲って来る不安と無力感、安定剤を飲んで感じる旅行への期待。
正常と狂気の境は曖昧だと思っていたが、こうして自分そのものだと思っていたものが揺れ動くと、もっと根本的な、「自分」や「個性」というものが虚ろなものに思える。
深追いはしないでおこう。
しばらくして血糖値が安定すれば、少し収まって来るに違いないから。
「間も無く、当機はホーチミンに到着いたします。到着は19:30、ホーチミンの気温は38℃です。」
機内アナウンスに耳を疑った。
今年の異常熱波は関東平野の都市化が高気圧をブーストしており、バンコクより気温が高い、なんだったらユーラシア大陸で一番高いとさえ思っていたが、勝手な思い込みだったようだ。飛行機を降りると湿った空気を感じる。日本人の歪んだプライドは常夏のホーチミンの湿った熱波が吹き飛ばしてしまった。
19:50、国際空港の入国審査というのはどこか陰鬱な雰囲気なものだが、イミグレーションを抜けてもタンソンニャット国際空港は静かだった。
改めて旅程について説明しておくと、3泊5日というのは、帰国便がこのタンソンニャット国際空港 6:25発であり、ホテルのチェックアウトが当日では到底間に合わないので、前日にチェックアウトして空港で出発便をまつ、という事だ。
帰りはここで夜を明かすんだろうか。
そう思って建物を出て驚いた。
なんと半解放の広大なスペースに待合ベンチが設置されている。
軒を並べる飲食店、溢れる活気、びっくりするほどの騒がしさ。
タンソンニャット国際空港はこの半野外のスペースも含めての空港だった。
「ははは、スゲーな!」薬が抜けてるに決まってる時間帯だが自然に笑ってしまった。
見たことがない光景だ。やっぱり先生の言う通り、この街に来て正解だった。
Day 0
出発前
「でも旅行、行きたいでしょ?」
何となく、この歳で目覚めた海外旅行の感動がまだ冷めない今年の内に、憧れのある国には行っておきたかった。
うだるような暑さの中、突然起きた喘息、2年来続く人間関係の秘めた悩み、家族からの今更の衝撃告白など、色々な事が起きたりおきなかったり。
解決出来ないことは保留にして、目線を逸らすように仕事に打ち込んだ、その結果、秋に入って突如、生まれて初めて自律神経失調症になってしまった。
日中でも襲ってくる二日酔いのような頭痛と食欲不振、将来への絶望感。
「これは旅行は中止かなぁ」そう思いながらかかった心療内科で先生の対応はあっけらかんとしたものだった。
「安定剤と睡眠薬出して起きますから、しばらくそれで様子を見て、休むのが一番なんで、会社は相談できれば長期で休むのがいいですね。不調で休んで旅行に行くのは聞こえが悪いですけど、まあ割り切りましょう。名所も行きたいでしょ、せっかく計画したんだし。」
「それはあります。でも新興国って緩いですよ。あっちも外貨欲しいんで。自分で使わないような大量を持ち込んだらダメですけど、私もポーチに睡眠薬とか詰め込んで行きますもん。」
「はぁ。そういうもんですか」
「じゃあ私も明日から旅行なので、次の来院は2週間後でどうです?」
そういや待合室にノルウェーだかフィンランドだかの雑貨の本があったな。
先生が旅行を激推しするのは本人が旅行趣味だからかも知れない。
こうして生まれて初めての自律神経失調症を抱えながら、生まれて初めてベトナム・ホーチミンを訪れる事になった。今回も台湾・香港に引き続いて一人旅だ。先生がどこに行くかは聞かなかった。
旅程は3泊5日。
読んでくれたら嬉しい。
【1】2018秋、ベトナム、ホーチミン Day 1|1日目 成田、ベトナムの翼、タンソンニャット へ >>
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これまでの旅行
4年前に、システム管理の仕事と育児でキャパオーバーしてうつになり、休職した。
仕事は楽しくて、部下もついてチームワークよくがんばってたんだけど、セキュリティ関連の対応や、サーバー導入に関するトラブルなど、判断ができない問題が山ほどある上にシステムトラブルが起きるとそちらの対応。さらには保育園のお迎えリミットもあり、やり切れない仕事を部下に投げることも申し訳なくてできず、気づいたら些細なことでパニックになったり、会社に行くのが辛くなったりして、自分がおかしいと思った。
半年ほどで復職したものの、小学校入学で家庭環境が変わったり、仕事は相変わらず抱え込んでしまったりで再度休職。
この頃から、夫が怒り出した。
わたしは会社や、職場の環境に愛着があったので、自分が仕事をしながら生きていくことを前提として考えていた。
と責められた。
ここから3年、日常生活はある程度できているものの、隔月程度の間隔で夫と口論になり、思い切り落ち込んでまた這い上がるというのを繰り返している。
・お母さんなのにタバコを吸うのが気に入らない。
・休日まで一人になりたいと言って寝室にこもっているのが気に入らない。
・パニックになったときに、家を飛び出そうとするのが気に入らない。
夫のことが怖くなってしまい、そうしたら、
「怖いと思われることで自分もダメージを受けて、なおかつ上記のことに対して我慢をするようにしているのに、あなたは自分のことしか考えていない。」
と言われた。
そして、
「そんなに俺が嫌なら、出て行く。」
と言う。
夫に出て行かせるくらいならこんなにダメな自分がいなくなった方がマシではないか、という思いに取り憑かれる。
先月、パニックを起こして夜に家を出ようとした。
玄関先で止められた後に、
と言われた。
わたしは、交通事故で死ぬか入院でもした方がいいと思ったと話すと、
「それはずいぶん周りに迷惑な話だね」
と返されて、とにかく恐ろしくていったん一人にさせてくれと頼み込み、安定剤を飲んで無理矢理眠った。
パニック状態で追い討ちをかけられるのはつらい。これでは治らないと思い、遠方の実家に住む両親に相談した。
今週、両親がこちらに来て、近所にアパートを借りてシェルターがわりにして、しばらく療養してはどうかと提案された。
家の寝室で引きこもっていても家族の気配はするし、一人になれる場所があるのはありがたい。
そこで、子どものためにということも含めずに自分がどうしたいかを考えてみなさい、と父に言われた。
そんなときに、ブクマでこちらのブログと付いているコメントを見て、もしかして、わたしはモラハラを受けているのか?と初めて思った。
https://ico-iiwake.hatenablog.com/entry/2018/10/10/051953
自分が悪い部分もあることは理解しているし、文句のない人間なんていないので、ある程度の諍いはあって当然だと思う。
病気なら治るじゃないですか
なのに蓋を開けてみれば障害って
そんなの生まれてきた瞬間に人生終わってたみたいな事じゃないですか
ツイッターレポみたいに正しい診断を受けて正しい投薬治療をすればこの苦しみから逃れられると思ってたのにもうこれは自分の特性として睡眠薬と安定剤のみながらやり過ごすしかないらしい
絶望だ
この鬱っぽい気分は発達障害による二次的な鬱状態らしくもう二重苦じゃないですか
しかも医者は一ヶ月後に検査を受けてからじゃないと治療の方針は立てられないとか言う。
一ヶ月後じゃおそすぎるんだ
私は明日元気に学校いって単位を取れるぐらいの精神状態に今すぐしてもらわないと困るんだ。
なんも解決しない
この症状に名前はないけど受け入れていきていこうみたいなことを言ってくださった方、久々の優しい言葉に癒されましたありがとうございます
純生クリームとホイップクリームでは、原料、ホイップの質や口当たり、価格が異なります。
「純生クリーム」は牛乳を分離して乳脂肪のみを原料としたものです。値段が高めで消費期限が短いですが、口溶けや口当たりが良く、風味がしっかり感じられます。
「ホイップクリーム」や「植物性クリーム」は乳脂肪に植物油脂や乳化剤、安定剤などの添加物を加えて動物性クリームに似せて作られたものです。味や香りは純生クリームに比べるとあっさりとして旨みには欠けますが、消費期限が長く安価で、植物性ならではの良さがあります。また、ホイップしてデコレーションケーキに使用する場合には、バサバサせずきれいな状態が長持ちする利点があります。
8月結婚をした、音楽を聴く時間が無くなった、とはいえポイントはなるべく抑えてる
という事で2017年、この混沌とした一年間の音楽をざっと見てみたい。
個人的には5月に体調を崩し、職場で血を吐き、休職、気付いたら退職→無職、誰も助けてはくれない。35でだ。
途方にくれてた俺は、精神科へ行き、安定剤と睡眠導入剤で毎日寝たきりの生活をし、栄養失調になる
恐らくうつ病も発症していただろう。人生で最悪な年だ、何もやる気が起きない、身体が動かない、このまま消え去り合い
1. Salve - Kid Fresino
これは彼の真摯な姿勢、音楽に真っ直ぐなプリミティブさを感じで心の底から感動したEPだ、MVも晴れたブルーの空でマッチしている
Kid Fresino、不思議な人だスマホを持たず、SkypeのみでNYから連絡し合ってたらしい。詳しいことは分からない。
ただこの時期は個人的にはこの曲を聴きながらマシンガンを持ってテロ一歩寸前のところまで精神状態がやられてた。
仕事が上手くいかず、落ち込んで自信を喪失していたのだ、彼らのMVの青空は眩しすぎた。
2. D.A.N. - SSWB
これが小山田米呂が出演してるということでMVを見た、オシャレ、TOKYOのライフスタイル、多分ハイプ、
必ず皆コンビニのクソ飯を食らい勢いのみでやってる。俺にはその印象
スチールパンの音を入れてるのは良いなと思うけど、Voが何を言ってるのかがまったくわからないし踊れないんだ。
おじさんがちょっとグッとこなかったよ、わりい
3.Diggin In The Carts : A Collection Of Pioneering Japanese Video Game Music (Original Game Soundtrack)
結局2017年にの音、これにつきるよ、おっさん世代には刺さるレベルはとしてコンパイルしてないのはkode9のインタビューから読み取れるが
何より素晴らしい音像、アーティスト性、レアグルーブ魂、ワクワクする、これは久しくなかった感情だ
何故イベントに行かなかったのか、それはキメてラリラリだったからだ、そんな時外になんか行くか!あとで死ぬほど公開
4. Hi-Standard - Gift
これは良かった、何より1曲目全てをふっとばすようなパワーがあるMVも良かった
だが、すぐ飽きるなメロコアの重要な欠点だ、何年かに1回聴く程度でいいが、ありがたい存在だハイスタというものは
VaVaちゃんの世界は中々良い、世代は離れてるがガチで話してみたい
何か受け流してる、世の中の事をサっと避けてる、だが期待してる、この先の希望を抱いてる
俺はこのやり方が心地良い、ライブも良かった、VaVaちゃんのセンスだけじゃなく、もっと仲間巻き込んで
混沌とした世界観を構築して欲しい、何故ならそれは20代にしかできない事だと思うからだ。
作品を残す、すごく大事だと思う、インスタ?自撮り?まあそれもいいが、表現活動が一番残るよね
6.PUNPEE - Modern Times
作り込みが一他のものとは一線を化す
Pの曲は安心するほど良いんだが夜を使い果たしてあたりから冷めてきていしまった、
ファンだから一生懸命探したよ良いとこ、いくつかあったけど、2回くらいしかアルバム聴けなかった
まあそんなもんかな、同世代だし、一緒に死ぬ年齢も同じだなと、その時の閻魔大王の前で並んでる時の姿楽しみだぜ
7.Keys open door ft.Campanella (Official Live )
これに尽きるかな
俺も所帯持ってそのわりに無職で何やってっんだ、クソだなー
この先いつ発狂してもおかしくないし、躁鬱病の気もあるしもうギリギリ、何が起こるかわからない人生
そうしようもない不安、何をすれば良いのか
気付いた、街のゴミ拾いする
俺は底辺だ
ゴミだ
罵倒してくれ
18歳くらいでなりというのも、その頃は病識もなく今思えば摂食障害になっていたんだなと思う。
その後ものすごい恐怖感が襲ってきた。
とんでもない物を食べてしまった。
これでは太っちゃう。
よし、一週間食べることをやめようと。
水だけで翌週は過ごした。
妙に達成感があった。
やれば出来るじゃん。
他は何も出来ないけど、これなら自信を持って他の人より出来ることだって思った。
その後、本格的に食べなくなり、53キロが25キロになり入院した。
入院ですることは、高カロリー輸液をIVH挿入して太らせること。
これがきつい。
摂食障害は太りたくないのに、治療は太らせること、命をつなぐことだった。
太れば痩せようとするので、三食の食事を付き添いの親の目を盗んで点滴をひきずりながらトイレに捨てに行かなくてはならない。
ベッドからほとんど起き上がれない状況なのに、捨てに行くことに全ての体力を奪われた。
なんとか大部屋に移動できたが、ここからがまたきつい。
摂食障害が入院するのは精神科で、同じフロアにいるのは当然精神領域の疾患を持っている人が多い。
躁鬱病、統合失調症、認知症などと同じフロアに摂食障害が入院する。
摂食障害が食べるのが怖くて、
「看護師さん、怖くて食べられません。」
と言うと、
「駄目です。食べてください。美味しいから。それだけじゃ太らないから。」
という回答になる。
いや、まずいから食べたくないとか、太りたくないから食べたくないのではなくて、食べることがすごい怖いから食べたくないんですよ。
というと、先生を呼ばれてでは薬を変えましょうかとか言って安定剤が追加されるパターンとなる。
こうなると、恐怖があっても誰にも言えないという感じになってしまう。
摂食障害がこの状況で健康保険でできることは、三食食べさせる事と行動制限。
私はこんなに食べてるのに痩せてるよという話を一日中話す。
すると、自分が食べるのが怖くなる。
みんなでその人の食事しているところを見に行って本当に食べているかを確認する。
実際には食べていなくて、ゴミ箱に捨てていたり、トイレに捨てに行ってたりするのを見つけたり、トイレで吐いていたりする。
ベッドでギッギッって音がずっとなっているのはほぼ筋トレしている。
大量の下剤を服用するタイプもいる。
本当にご苦労さんだねw
こんな事を24時間やらないといけないのがとても疲れる。
自分の好きなものも当然食えないから早く退院したいって気持ちもあるけど、退院したら痩せる食事しか選べないからまたいずれ入院することになる。
入院している間は、自分でご飯を選ばないで済むから安心だけど退院してご飯の選択が無理って思っちゃう。
スーパーでガリガリの子が、何時間もパンやヨーグルトのカロリーを見ながら厳選していたら100%摂食障害です。
何時間もかけて、このカロリーならきっと大丈夫!と自分に暗示をかけている状況です。
入院している間は万引きする心配がないけど、退院したらまたしちゃうんじゃないかっていう心配しか無い。
そっち系の摂食障害も結構いて、一緒に入院していた摂食障害の子が数日後万引きで捕まったと新聞で知ることもある。
犯行を侵さないための入院とか、退院したら自分でご飯を選ぶことが出来ないので入院しているって人がほとんど。
太ったら退院、痩せたら入院っていうのをかれこれ8回も繰り返してる。
普通の食事をするなんて、一生かかっても絶対に無理としか思えない。
https://anond.hatelabo.jp/20170727140517
コメントくださった方ありがとうございます。
ペットを飼うっていう解決方法は意外でした。確かにペットって癒しになりますよね。
出社しただけで感謝される職場っていうのも、確かにそうだなって思いました。転職先は、入ってからまだ数ヶ月しか経ってなくて、中途採用とはいえ、第二新卒ですし、即戦力人材でもないので、そういった発想がなかなか生まれませんでした。
こういうブログって、どんなコメントが付くかわからないからドキドキしてたけど、自分が考えたこともない意見が出たりして、すごく新鮮だった。
その後の顛末。
ブログを書いた日、わたしは過呼吸発作を起こしてしまった。その日は心療内科の先生の指示で安定剤を飲んで収まったけれど、次の日は普通に出社できると思って、薬を飲まずに行った。でも、駅前で、あの満員電車に乗るかと思うと胸の動悸が激しくなってひどい過呼吸を起こし、駅前で動けなくなってしまった。
夫はオロオロして、通勤途中のたくさんのひとたちに見られて、どうしようもない、もうだめだって思って余計に発作がひどくなった。
何人か優しいひとが紙袋くれたりしたみたいで、それが余計に申し訳なくて、発作は収まらず、息が苦しくなるばかりで、結果警察官が来て救急車に運ばれる羽目になってしまった。
何やってるんだろう、私って思った。
仕事はやりがいがあるはずだし、勤務時間だってそんなに長いわけでもない。
なんとなく抑圧された気持ちの原因は分かってる。
ふと、自殺衝動がやってくるときがあるのだが、なぜかその瞬間とても心地よさを感じる。
現状から逃げ出せる安心感なのか、とも思ったが別に現状から抜け出したい訳ではなく、乗り越えたいのだ。
私は適応障害だ。SSRIと安定剤二種類と眠剤二種類でなんとか仕事をこなしている。
確かに毎日が苦しいが、私が心に描く先は死ではない。
自殺衝動の話に戻る。自殺衝動が起きるのは、決まって踏切前や、ビルにいる時だ。
そしてパターンが2つある。
この場合は、パッと、目の前が明るくなり、気力が湧いてきて今すぐ飛び出さなければ!
という思考で頭がいっぱいになる。
踏切、駅でよくおきるパターンで、なにかに包まれているような心地よさと頭が空っぽに
なる感覚がある。
このような心地よさを伴う自殺衝動は投薬前からあったため薬のせいではないと考えている。
また、なぜこのように感じるのか、がとても気になる。
うつ病で7年間服薬してきたパキシルを切って、3か月たったころ。
吐き気やふらつき、船酔いのような違和感が徐々に収まってきた一方で、
体調不良で1日有休をもらい、ほぼ寝たきりで過ごして目を覚ました夕方。
異常な不安感とのどが締め付けられるような違和感、落ち着いて着席していられないほどの焦燥感が現れた。
一人暮らしの部屋にいるのが恐怖で、実家の母に電話し、眠るまで切らないでとお願いして2時間つないだままにしてもらった。
翌日からなんとか1週間出社した。
頭も回っていなかった。
「あと少し、あともう少し」と言い聞かせ、何とか出勤していたが、とうとう
職場でも着席していられない症状が現れた。
限界だった。
主治医は、離脱症状ではない、うつの再発だからと服薬の再開を強くすすめてきたが、薬をやめたい一心だった私は最低限の睡眠薬と安定剤だけ飲んだ。
症状は日増しに悪化していた。片時もじっとしていられず、家じゅうをうろつき、食事も着席してとれない。
夕方~夜は多少落ち着くものの、寝起きから午前中は地獄だった。
ほかにも、のどが締め付けられるような違和感(ヒステリー球というらしい)。
車やバスなどの狭い空間にいると閉塞感で落ち着かず、窓を開ける。
トンネルを通るときなどは恐怖で、運転席に座る母の腕にしがみついていた。
明け方、日中も一人でいられず、常に誰かのそばにいて、それでも不安と恐怖が強いときは手を握ってもらっていた。
窓とドアを開け放しておかないと閉じ込められているような閉塞感があり、真冬なのに網戸にしていた。
テレビやラジオで「殺人」「強盗」などの言葉を聞くとひどく恐ろしかった。
火星に一人で取り残される宇宙飛行士の映画「オデッセイ」も、恐怖でまったく見られなかった。
目にするもの、耳に入るもの全てが恐怖の連想につながり、今までどうしてこんな世界で生きてこられたのだろうと思った。
前職はそこそこのブラックだった。
サービス残業は当たり前、頻繁にある出張では移動時間は勤務時間に含まれず、出張すればするほど働かなければいけない時間が増えていく。
それでも制作として働いていた三年間は楽しかった。今思うとやり甲斐搾取ってやつだったのかもしれない。しかし同部署の先輩が二人辞め、いつの間にか案件を外注してまとめる営業側に立っていた。
慣れない営業と、社内で処理したい小さな制作業務と、辞めていく人達の引継ぎに追われて、元々身体が弱かったこともあり、ある日ぽっきり折れてしまった。
不眠と動悸と頭痛と、今まで感じた事のない不安感に苛まれ心療内科に駆け込み、倒れこむように休職をもぎ取った。病名は適応障害だった。
それから傷病手当金が会社で止まっていただの、退職届を出しても辞められないだの、しょうもない事で私の精神と時間を消費し、病気は治る事もなく一年が過ぎた。転院したり、薬が増えたり、労基に会社をどうにかするよう頼み込んだが、労基に親に頼めと言われた事もあり、結局は親に連絡してもらってようやく辞められた。(傷病手当金は会社経由で振込まれていたが、計算の合わない額が振込まれており、そこでも無駄に消耗した)
まったく休まることのなかった一年を経て、私の頭はどんどんおかしくなっていった。焦燥感と不安感が常駐し、光や音に過敏になり、思考は胡乱になった。とにかく何かを作ってみようとアイディアノートに書き留めても、明日の自分が引き継いでくれない。継続した日々ではなく、苦しみながら起きて安定剤を服薬し睡眠薬で眠る、分断された一日を送るようになった。
最初に休職してから、もう二年が経ったが、まったく良くなる気配がない。傷病手当金の給付も昨年で終わり、貯金を崩しながら死んでないだけの日々を送っている。
はやく良くなりたい。
働きたい…。
凄く長くなったので一言でここに表すと努力する力を含め将来への生きる自信がない。
セックスの頻度は週に2〜3回。
旦那はあと数年で精子の劣化が始まる年齢と言われる歳にもなる。二人きりの生活が楽しいので寂しくも感じる。旦那さんは自分の子孫ができることが嬉しいものだと私に説明をしてくれた。発達障害の遺伝の可能性も気にしていないらしい。
旦那の喜びを奪うわけにもいかないが、子供が出来れば家事すらギリギリの不器用な自分に子育てが増える、金銭的負担も増える。寂しいのが建前に見えてしまい悲しくなるほど、自分は子育てなんてキャパオーバーだと嘆いてるのだ。
頼れる家族はいない。親は無自覚だが祖母に入れられた宗教(カルトでない)の思考で出来ており、神の部分を世間や一般人に置き換え整合性の全く人は尊いと言いつつ、家族全体にはモラハラだらけ。私は無意識に罪悪感を感じて生きるようになった。小学校入学頃から対人恐怖になっていた。子供に合わせていい者ではない。旦那の方もよくないようで、酷い過干渉で逃げてきたらしい。
私はわかってくれる旦那一人で満足なのだが、旦那は子もいる家族を作りたいらしい。
子作り目的になってから私は安定剤を漢方薬にしてもらっている。その間に全く関係ないが婦人科に行った時には、排卵されてるのがカメラ?に写っていたが、まだ妊娠しないのである。
こんな時も頭に「貴方がそんな暗いから子供が逃げていくのよ」という母の言いそうな言葉が自動再生されるほど自分はポジティブにならなきゃいけないことに対して異常なノイローゼになり参っている。
自分が変わればいいと頭の声がずっと巡っており、生きてるだけで常に頭に説教めいた言葉が再生されるのだ。頭の中が常に自己啓発本の朗読をしていると言っていいだろう。
カウンセラーも通い、人を変えてみたりも何度かしたが、怒鳴られたり、否定され、その都度話を聞いてもらってるのに我侭だ失礼だと親から冷たく言われ、加えて認知療法しないと一生幸せになれないと脅しのような発言をされたり、治療のことを考えたり行ったりすること、それを思い出すことでより精神的に追い詰められてしまい、もう説教の一言にも耐えられなくなってしまった。
一年前に親から離れたのに今も思い出せば目の前の家事すら手につかなくなる。向上心がなくてはならないと言われる状況なのに、向上心が最も私をパニックに陥れているのだ。
精神医療を先にと提案されることを何度も想像したが、もうどうしたらいいのかよくわからなくなっている。世間的な美徳とされてるものにノイローゼの私には何が落ち着くものになるのだろう。
旦那の幸せを思うと本当に自分は旦那の前から消えなくてはならない。
頭の声を消すために曲を聴けば頭を酷使し、眠れば悪夢を見る。とても一人で生活できる者ではないのは確かだ。こんな自分に悲劇のヒロインぶってると一部増田は言うだろうし、実際昔母に言われた。母が常に一部増田のような発言をする親なのだ。
親の愚痴になりかけているが我慢出来ないことは事実であり非常に情けなく自己嫌。子供の頃から散々自信を持てと言われたが、何かすれば必ずパニックになる私には家事が限界だった。自分の今のポンコツな現状が限界であるし、発達障害の特性だからとか、ベストを尽くしていると医者や旦那は言ってくれる。私はその言葉に甘えているのか?と優しい言葉をかき消すこの正論のような頭の言葉を私はどうしたら良いんだろう。