はてなキーワード: 担保とは
データはこの本で示している。
この本で示されてるデータが正しいかは自分で条件を見て確かめりゃいいでしょう。
あれは天才でなければ正しく理解できない、もしくは著者と同じ思考をしている人間でなければ正しく理解できないのだと思う。
しかし、凡才であっても、あの文章を参考にして天才的思考に近づけるのではないかと考えるのが人情である。
私は、初めてあの文章を読んで以来、何度も読み返し、また著者の当時のブログを読み進めて天才の思考に近づこうと試みている。
しかし、あの文章を読んで変化があったことは、文章を書くときの制約を取っ払ったということだ。
プログラミングと同様、文章を論理的に正確に書こうとすることは、文章量を制約することになる。
書けなくなるのだ。
正しく書こうとすると、書けなくなる。
例えば、この文章を書いているが、これは公開することを念頭に置いて書いている、すると途端に文章が走らなくなる。
失敗を恐れるからだ。
しかし、この文章は公開しないと決めると途端に文章は走り出す。
実際のところ、この文章は走らなくなっている。公開することが念頭にあるからだ。
正しく書こうとしてはいけない。
文章を日頃から書いている人には当たり前のことなのかもしれない。
まずはとりあえず書く。書けないと感じるときほど書く。
しかし、思うのだが、文章を書くときに、しかし、を何度も繰り返し使ってはいけないという文章作法があるが、それはおかしいと思う。
しかし、などという接続詞はある程度、込み入った文章を書こうとすれば、何度も登場させたくなるものである。
しかし、しかしは何度も連投してはいけなくて、しかしを何度も使いたいのであれば、言い換えをして他の接続詞に置き換えて、うまくやらなければいけない。
しかし、それでは本来、文章の内容において頭脳を使うべきであるところを、文章自体を構成することに使用するという本末転倒な現象が起こる。
本来、文章作法などというものはある程度の、読みやすさを担保すればよいだけの話であって、論理が破綻していなければ、厳密にこれはいけない、やってはいけないと制限するべきではないのだ。
そのような制限があるから活動が制約されて、成果も収縮してしまうのだ。
なぜかといえば、制限しないとミスやエラーを起こして、失敗して大事故を起こすからだ。
しかし、同時に私達は大抵のことを制限しなくとも、正しく実行できる。
しかし、アクセルとブレーキを踏み間違えると大変なことが起こるから、私達は運転に集中しなければならない。
大切なのは集中するということだ。
正しくは制限することではないのだ。
アクセルとブレーキを踏み間違えないためには集中することなのだ。
話が脱線した。
ミスを起こさないために、失敗をしたくないために、過剰に制限する。
社会的迷惑行為でなく、自分の範囲で収まることであれば、どんどんとやるべきなのだ。
これは文章を書きたいと思っているのだけれど、書けない人に読んでもらいたい。
別に間違っていても、あとから読んで恥ずかしくなっても、しかし、を何回使っても、別になんだっていいんだ。
こういった考えを公表すれば批判があるかもしれないし、あるいはなんの反応もなくて苦悶するかもしれない。
でも、それでいいのだ。
我々社会は間違いを許容できない。
これは正しい面も多々ある。
しかし、間違いを許容しないことは、制限をすることだし、そのことで何も生み出されない無を生み出していることは留意する必要がある。
ブレインストーミングでは間違いを気にしない、などといいつつ、絶対的に制約があって、正しくブレインストーミングを集団で行うのは至難である。
そのような状況は脱却するべきだ。
間違っている、間違っている、間違っている。
そうだね、間違っているね、だから、どうした?
ネットでなんでも検索できるから本なんて買う必要ないっていう人もいるけど、
ネットの集合知ってノイズが多すぎて玉石混交の中から玉を拾うのがとてもむずかしい。
クックパッドでいえば料理苦手だからクックパッドに頼ってるのに料理苦手な人には有用なレシピとゴミレシピの区別がつかない。
なので調理師や料理研究家として一定の知名度や実績のある人が著者の出版されてるレシピ本に戻った。
これってWikipediaでも知恵袋でもネットの集合知メディアはなんでもそうだよね。
素人も参加できるゆえにノイズが多すぎて素人には扱えないものになっている。
ついでに義母が遺したゴミ……ならぬ遺品や壊れた家具も解体してトラックで直接クリーンセンターに持っていく算段になった。
それが終わったあと、未子が凄く険しい顔をして
「嫁ちゃん、本当は言っちゃいけないんだろうけど、僕が我慢できないから言わせてくれ」
と言ってきた。
いいよ、と気軽に返事をした。
未子が言うには、2番目の弟と一緒にトラック乗ってたら、彼が
「なあ、メンデルの法則だと劣性の遺伝子同士をかけ合わせたら優性の遺伝子が出てくる筈だろ?あの家族、何で4人とも劣性なんだ?」
と言ったと
「嫁ちゃん傷付いたかもしれない、でもこれを言わないとアイツの本性とか警戒とかをしなきゃいけない理由を説明できないし、何も言えなかった僕自身が悔しくて」
と泣きだした。
確かに私はうつと強迫性障害を併発していて、子ども2人は発達障害だし、旦那も普通とは言い難い。
ひるがえって、2番目の弟は正社員の地位に就いて、嫁も専門職だし、定型の娘が2人いる。
でも、弟家族みたいなのが幸せとは限らないし、旦那がそんな性根の人間だったらぶちのめすし、子たちがそうなっても鼻血が出る程度にはぶん殴るだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20201207220950
数日前に朝日新聞社が「急造ワクチン」と言う表記を使ってネット上で医療関係者に酷く叩かれていおり、割と問題ないと言う一方的な流れになっていたので再び自分の意見を投下したい。量産エンジニアの視点から見るとやはりリスクがあると。
初めに断っておきたいのは、私は承認プロセスやワクチンの効き目自体は信頼していると言うことです。ワープスピード作戦のことも知っている。その上で懸念があるのはあくまでも量産体制。
ワクチンの承認をすでに英米で得ているファイザー製薬が年内に出荷すると言っている数量は5000万回分、だけどあと10日で2020年が終わるんだが公約している数量の生産は間に合うんだろうか?
いや、間に合わない(断言)
報道ベースで数量を追いかけていくと、治験でワクチンを投与した対象者は5万人。
アメリカですでにワクチンを接種された人が先週1週間で55万人。
現在ワクチン承認を得て量産を進めているファイザー及びバイオンテック、モデルナ、それに承認間近なアストラゼネカは全て欧米の企業。欧米のキリスト教文化圏の会社は12/19(土)からクリスマス休暇に入っています。緊急事態なので休み返上で生産しているだろうと言う声もあるでしょうが、製薬会社だけが営業していれば製造は進むと言うわけではない。原料となる薬液や、検査用の試薬、製造装置のメンテナンス。これらのサービスを提供する会社も全てフルで営業していないと生産スピードは早くならない。果たして欧米の文化圏の国でワクチン製造に必要な全てのサプライヤーが不眠不休で今現在仕事をしているだろうか?しかも欧米ではコロナが絶賛大流行中である。原料のサプライヤーや物流施設で集団感染が起こると、量産ペースはさらに低下する。
それだけではない。年間10億回とかのオーダーで作ろうと思うと、前回も言ったように物理的に単一の会社で製造仕切るにはキャパが足りなさすぎるので協力会社にライセンスして委託製造するしかない。(例えば日本のように製薬産業が一定のレベルにある国の分は自国で作ってもらう等)だが、別工場で製品を作る限り完全に同じものは作れないのである。ジェネリック医薬品が原料が同じでも完全に同等にならないように。その安全性はしっかり担保できるのだろうか?最悪の場合、最近睡眠薬の混入で問題になった小林化工のように医療事故が起きることになる。
ネット上の議論を見ていると、量産の話を無視して薔薇色の将来予想ばかり聞こえてくるので気になって再度書いてしまった。皆さんの考えはいかほどだろうか?
先週はブルマーの紺色の起源について調べた。ブルマーはアメリカでも紺系統の色だったが、現在の色になる過程で日本の伝統色の影響を受けた可能性について検討した。本記事では、臙脂色・小豆色・赤色のブルマーがいつごろから存在しているかについて調査する。また、他の色のブルマーについての情報があった場合はそこにも触れる。
主として https://www.buruma-joho.com/という個人サイトに掲載された、映画やドラマに出てくるブルマーの色について調査し、おおよそ何年までさかのぼれるかを検証する。ただし、あまりにも近い年代のものは省いた。すべてを引用しても年代の特定の役には立たないし、2000年以降のブルマーはほぼファンタジーに属するからだ。ブルマーにまつわる映画作品を網羅したい方は、ぜひ上記サイトをと参照していただきたい。どうして個人の記録ではなく映像作品で確認するのかといえば、ブルマーが日常的に存在していた当時の映像作品には、コスプレ的で奇抜なブルマーは出てこないと考えられるからである。また、個人のサイトやツイートは消える可能性があり、文字による証言だけだと正確さが担保できないためである。また、盗撮画像を使うわけにはいかないのはもちろんだ。
なお、バレー部のブルマーとそのほかの学生のブルマーについては、分けて考えたい。
加えて、プロのバレー選手の映像は多くなるので、赤ブルマーについては泣く泣く割愛した。
「オシャレ泥棒」1989年 https://www.youtube.com/watch?v=COpUgdGuoLE
「としごろ」1973年 https://www.youtube.com/watch?v=zRDoJFgS_wA
「青春の構図」1976年(女子大生。乳房の露出があるので直リンはしていない。各自で探してください)
「燃えろアタック」1979年 https://www.youtube.com/watch?v=qHFnZx0LT6Q
「転校少女Y」1984年 https://www.youtube.com/watch?v=li46Tlzuz_w&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=37
「挑戦」1963年 https://www.youtube.com/watch?v=krbJ1MBYXTo&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=5赤、青、緑三色のブルマー。
「典子は今」1981年 https://www.youtube.com/watch?v=Eh-8MVOJ6Ig濃緑で、芋ジャージの緑とは違う。障害者の社会参加を訴えたドキュメンタリー。
「蘇れ魔女」1980年(バレー選手)。Youtubeに動画はあるが緑ブルマーは確認できず。
「時をかける少女」1983年 ttp://wainn.jugem.jp/?eid=1364
ところで、先ほど両腕のない女性の映画を紹介したので、せっかくだから話そうと思う。以前NHKで「アニ×パラ」と称して https://sports.nhk.or.jp/paralympic/video/81d717ec76b544d8922c17f10889dee6/ 車いすの少女が陸上選手になるショートムービーを放映していた。また、警視庁か何かのポスターでも、ブルマー姿の義足の選手が被写体として用いられていた。義足の陸上選手を扱ったポスターはイラストも実写も検索すればいっぱいあるし、中西麻耶選手はセミヌードも披露している。
僕は素直に美しいと思ったし、義足の機能美にも魅力を感じた。義足は隠すべきもの、障害は隠蔽すべきもの、そうした空気がなくなっていくのを感じるのは、僕としても嬉しい。しかし、そこに難しさがないわけではない。美しいと思うこと、セクシーだと思うこと、障害者に対する態度、こうした扱いの難しい問題がぎゅっと凝縮されているからだ。障害のある選手が自分の身体や努力を誇りに思う気持ちと、そうした選手に憧れ、称賛すると同時にどうしてもブルマー姿に萌えてしまう自分の率直な気持ちとの間に、どのように折り合いをつけていくか。あるいは、特にアスリートではない障害者に対してどうふるまっていくか。特段「美しい」わけではない多くの障害者にどんな態度を取るか。様々な障害を抱えた人々と関わりながら生きていくうえで、考え続けばければならない問題だ。麻痺した身体を公共の場で堂々と見せた、とある活動家のことを思い出す。特段「美しい」わけでなく、それどころか「痛ましい」という印象すら与えてしまう身体。痛ましいと思うのはこちらの上から目線だが、スポーツで称揚される「美しい」身体とは別の身体が、隠蔽されてはいないだろうか。
今の職場は身体障害や聴覚障害のある人、あるいは精神障害のある人と働く機会があり、毎日が学ぶことの連続である。意外と「普通」だなと思ったり、逆に思いがけないところにつまずきポイントがあったりで、どうやったら一緒に働けるかは調整の連続だ。でも、いろんな人と働ける機会があると、気づかなかった偏見から自由になれる機会も多く、ダイバーシティってそのためのものなんじゃないかって思う。みんな仲良く、というきれいごとよりも、もめたり話し合ったりして、どうやったら一緒にやっていけるかを考えるのがきっと大事だ。そうしたら、道ですれ違った障害のある人により上手に配慮できるんじゃなかろうか。
本当のバリアフリーとは、障害があっても普通に隣で働くことだけでなく、ブルマーと義足の組み合わせに何の屈託もなく素直に萌えることなのか。茶化したような問いだが、パラリンピックにおける障害のある身体の宣伝的な側面も含め、真剣に考えたい。パラリンピックに出ることのない、大多数の障害者はパラリンピックをどう感じているのだろう?
前回の記事では、スク水がハイレグ化した90年代(ttps://www.footmark.co.jp/about/id001575.html)に臙脂ブルマーが生まれたのではないかと推測していた。だが、実際にはそれ以前に臙脂ブルマーは存在していたことが確認できた。その後、バレーボール選手のブルマーが学生のブルマーに影響を与えたのか、さらにブルマーの色が自由になる雰囲気があり、それが同時にスク水のハイレグ化を生んだのか。おそらく前者は正しいと推測されるが、後者の確証はない。そして、ファンタジーだと思っていた白ブルマーの存在も確認した。
今後は、同じ赤色でもどのような幅があったかについて調べたい。臙脂、赤、小豆色は少しずつ色が違う。現に、個人がアップロードした写真には、蛍光色に近い青・赤・緑のブルマーが確認できるものがあり、上記映像作品には登場しない色のブルマーが一定の範囲で分布していた可能性が検討できる。また、企業の公式情報や新聞紙などの証言から上記内容を補足し、フィクションからのデータだけに頼らない、実際の臙脂ブルマーが誕生した年代についても調べたい。新聞は白黒が多く、苦労しそうではあるが。
さらに、イギリスなど諸外国には赤ブルマーがなかったかも調査せねばなるまい。
加えて、身体障害が憐れみの対象やスティグマではなくなっていく過程についても気にかかるところである。美しかろうがそうでなかろうが、「健康」であろうがそうでなかろうが、そして「猥褻」であるかどうかにもかかわらず、自分の身体を見せる権利を改めて問い直したい。
「そういう個人的な内実を知るのって、一定の信頼関係を得てこそだと思うんだが。お前達のやっていることは順序が逆だ。信頼回復のためにやっているのなら、こそこそ探るようなもんじゃない」
「分かってる。それでも知らなきゃダメなんだ」
そう押し通すしかなかった。
そんな要領があったら、そもそもこんな状況にはなっていないだろう。
だから信用を得るには、もはや情に訴える他なかった。
「掘り起こしたせいで土壌が崩れる、なんてこともあるんじゃないか? かえって関係が悪化するかもしれない」
「それで怪我するなら、僕たちの不注意だよ」
俺たちは“自分が考える最も真剣な表情”をして、兄貴に情熱的な眼差しを向けた。
「はあ……どうせ開けてみるまで分からないしな」
兄貴は溜め息を吐きながら、呆れ気味にそう言った。
俺たちの真心は伝わらなかったようだけれど、なぜか話す気になってくれたらしい。
「そうだな昔の話をしよう……っていうほど昔でもないが」
俺がドッペルに初めて会った日だ。
正確に言えば、俺が始めて認識した日というべきかもしれないが。
俺は帰路の途中だった。
空には暗雲が立ち込めていて、今にも降り出しそうな湿気を感じる。
まあ傘を持っていたから別に問題なかったんだが、なかなか雨が降らないのがもどかしくてな。
ときどき小さな水滴が肌を掠めるような感覚はあっても、傘を差すようなレベルじゃあない。
いっそのことドシャ降りにでもなってくれたらいいのに、なんて思う程だったよ。
そんな状態が続いたまま、家に着くまで残りわずかってところかな。
前方に弟の、お前の後ろ姿が見えたんだ。
「え、俺?」
回想に割り込んでくるな。
当然、実際は弟じゃなくドッペルの方だ。
その時は変装してなかったようだが、霧が出ていたせいでボヤけてたんだよ。
あいつは当時から立っ端は同じくらいあったし、遠くからだと見分けなんてつかない。
それで同じ学生鞄を持ってて、俺の家近くを歩いているってなったら、勘違いしてもおかしくないだろ?
俺は懐疑なんて全くなく、小走りで駆け寄ったさ。
「よー、弟よ!」
そう呼びかける段階で、俺はやっと明確な違いに気づいた。
その時には、もはや手遅れ気味だったが。
従来100%の場合は200%、500%の場合は1000%にする。そうするだけで、従来の2倍の高さの建物が建てられるようになる。
建築費も高くなればなるほど非効率に向上していくが、もともと土地が高い23区に絞れば、大多数の大家は目一杯の高さまで建てそうな気がする。
銀行も土地を担保に金を貸すだろうし、建築をはじめとする各種産業にも金が流れ込み、景気も良くなるだろう。
仕事がいくらでもあれば、23区に流れ込む人もさらに増加するに違いない。
一戸あたりの建築費が下がるので、それにつられて家賃も下がる。人口増と過剰供給のつり合いもあるが、少なくとも現状よりは安くなるだろう。
人口が増えれば自治体の税収も上がり、育児や教育、交通などの環境も向上する。
従来、住むところではないと言われている港区や千代田区にも手ごろな価格の中層マンションが増えれば、職住接近で満員電車で通勤することも少なくなるだろう。
一方、割を食うのは、東京都下やそれ以外の地方だろう。都心への人口流出は拡大するが、ますます過疎化が進むに違いない。
だが、既に最低賃金ギリギリの給与や技能実習生頼みでまっとうな産業も維持できず、東京等の企業・市民が稼いだ地方交付税交付金でギリギリ存続している地方に存在意義はあるのだろうか。
そう言うと、「食料自給率がー」と批判されるが、農業に必須な原油を輸入に頼っている時点で食料自給率など意味がない(それか、単なるポーズ)。
大都市の足を引っ張って大都市、そして日本全体を国際競争で負けさせるのではなく、いくつかの大都市に集約することで、国際競争力を高めなければならないと思う。
人気コメントより
neko2bo ブコメで指摘されている様に緊急的な給付金に近い位置付け。という事であれば良い取り組みなのでは?出来る事なら一年の後の身の振り方の手助けに迄つなげ得るものになればベターではあるが。まずは転落させない事。
privates 最低賃金でも、一年間食い繋ぎ、そこで又考える。FAX止めない保健所に入力を教えに行くとか、掃除の手が足りない病院へ派遣とか。優先順位は着けたが良いね~。批判する人、なんでだろうね。
placeinsuns 同じ予算で1人でも多く救うなら最低賃金以外ありえない。1年の期間限定で、1000人の質の担保も難しく、採用・管理コストで明らかにマイナスになるのによく踏み切ったなと思う。素晴らしい。
東京都の記事が分かりづらいというか、わざと誤解させる書き方だと思う。
"1会計年度" = 4月1日~翌年3月31日 一年間ではなく来年の3月末まで。
実際の募集を見ると
大学卒業後に入った会社を2年で辞め、その後は父が経営する不動産分譲会社で働いていたが、父が病死し自分が跡を継ぐこととなった
住宅分譲には注文住宅(顧客が希望するデザインで建築)と建売住宅(こちらで設計して建築し完成品を売る)があるわけだが、父は「建売でまとめて建築してコストを下げて安さで勝負する」というやり方に拘っていた
ただ自分には「安さで勝負するのではなく、クオリティの高い住宅を建てればもっと高い値段で販売出来て利益も出る」という考えがあった
そこで自分が社長になったあとは、これまでの「同じような住宅を安く建てる」という方針はやめ、有名デザイナーとのコラボなど高価格路線に切り替えた 結果として、この方針転換は大失敗に終わった
より良い住宅を求める人たちは建売ではなく注文で購入することが多く、またそもそも地場の業者ではなく大手ハウスメーカーを選ぶ
これまで父は安値路線で勝負していたから全国区の大手ハウスメーカーともバッティングせず結果として成功していたのだった
従来は土地建物合わせて総額で2000万円台だったので申込後に住宅ローン審査がNGとなるケースはあまりなかったが、3000万円台に引き上げたことでローン審査で不可となるケースが増えたことも売上低迷の一因となっていた
住宅分譲は仕入と販売を回転させていかなければ成り立たないのだが、古い在庫を抱えたままで新たな土地を購入しようにも銀行側がOKしない
仕方なく新たな仕入のため売れ残った住宅を大幅に値下げして損切りするということが続いた結果、業績はみるみるうちに悪化していった
このままでは月末の決済資金すら手当出来ないと金策に走り回っていたところ、知り合いの社長が「銀行で借入出来ないときに短期で資金を融通してくれる人がいるよ 高金利だけど」といってとある経営コンサルタントを紹介してくれた
これまで様々な企業の経営再建を支援してきたというそのコンサルに現状を説明し、このままだと月末の支払が出来ない旨を伝えた
コンサルは当社が販売中の物件の謄本を見ながら「販売中の建物5棟を担保に5000万円融資しましょう」と言った
「土地は銀行が担保取得しているし、もう担保として差し出せる物件は無いですけど…」と困惑する私にコンサルはこう説明した
「建売住宅は建物が完成した時点では登記せず、購入者が決まった時点で登記をするのが一般 現に御社が建築した建物も未登記のままだ そこで銀行には無断で建物を登記して譲渡担保を設定しましょう
私が広告屋を紹介しますのでそこへ広告を発注したことにしてください その費用が5000万円です そんな資金は今無いでしょうからその対価として譲渡担保を設定させて頂きます」
書面上は当社が広告屋に広告を発注し、その対価として販売中の建物を譲渡担保取得したことにする ただこれはあくまで架空発注なので、「当社が建物を譲渡担保差し入れしコンサルから5000万円借用した」というのが実態だ
形式上は商取引に則った担保設定であり、広告屋は善意の第三者(を装った悪意の第三者)なので銀行側は対抗出来ない
「手数料プラス金利前払分として5割頂く」といわれたときはやはり止めようかとも思ったが、「不渡りだけは避けたい 物件が売れれば窮地を乗り切れる」と考えOKしてしまった
私は5000万円から手数料分を差し引いた残りの2500万円を現金で受け取り、その一部で各種の支払を行い、なんとかその月とその次の月を乗り切ることが出来た
しかし翌々月、銀行が担保物件の再調査として不動産の謄本を取得閲覧したため、私の行ったことがバレてしまった
すぐさま銀行の担当者が会社へ乗り込んできて説明を求めてきたので、私は事前にコンサルと打ち合わせていた通りの説明を行った
銀行側はこの取引は架空取引だということは薄々勘づいているだろう、ただそれが架空だと証明することは極めて困難だ 私は広告を発注した対価での担保設定だという主張を只管繰り返した
だがこれで私は銀行を完全に敵に回してしまった 会社の銀行借入については私個人が連帯保証人となっているので、銀行が全額回収に走れば私の自己破産は不可避である
私がコンサルから調達した資金は残り1000万円ほどになっていたので、自分の当面の生活資金として100万円を手許に残し、残りは妻に慰謝料としてキャッシュで渡しとりあえず形式的に離婚した
こうしておけば私がのちに自己破産した際、資産調査をされても問題ない コンサルの指示通りにやれば全てが上手くいく…はずだった
その後銀行側は担保としていた物件を全て競売にかけた 私の背後に整理屋が居ると察知したので回収に手間と時間をかけたくなかったのだろう
市場相場で1棟3000万円、5棟で計1億5000万円程度の鑑定評価がつけられた担保物件の競売での売却総額は9000万円ほどになった 鑑定評価の6掛けなのでまあ妥当な線なのだろう
本来ならその9000万円は全て銀行の回収分となるはずなのだが、譲渡担保が設定されているせいで半分は広告屋の取り分となった
競売での回収額4500万円と私からせしめた手数料の2500万円で計7000万円、今回の案件でコンサルは2000万円もの利益をあげていた
会社を潰し、取引先や銀行に迷惑をかけ、妻は音信不通… 会社を潰すまいと必死に努力した結果はあのコンサルを儲けさせただけであった
自宅も銀行の担保であったため自宅からも追い出された私は古いアパートでの生活を余儀なくされた
何か新しい仕事を見つけなければ食べていけない、そう考えていてもなかなか行動に移すことが出来ない私は気晴らしでデリヘルを呼んでみることにした
スマホで適当なデリヘルを見つけ電話し待つこと45分ほど、予想よりも若くてかわいい子がやってきたので私は酷く緊張してしまった
シャワーを浴びたあと、私は父から継いだ不動産分譲会社を潰してしまったこと、自己破産し妻には逃げられてしまったことなどを話した
初対面なのにいきなり重たい話をしすぎたかなと思ったが、女の子は「私はおうちは建てられないけど、おちんちんを勃ててあげるのは得意だよ!」と言って笑いながら抱き着いてきた
私も笑いながらこう答えた 「担保を入れるのはもうこりごりだけどちんぽを挿れるのは大歓迎だよ」
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
スズメバチは一年間のサイクルを繰り返す。つまり、女王が生まれ、女王が巣を作り、滅びる。これを繰り返すのである。
いやしかし滅びるってなんなんすかという話であって、勿論字義通りスズメバチの巣は最終的に滅びるんですけど、その時に一体何が起こってるのかについてはあんまりよく知らない人もたくさんいると思うわけです。実際のところ、スズメバチの巣が滅ぶ際には色々常識を超えた現象が起こっています。
女王蜂が巣を作り始めるのは四月とか春の時期で、まあ色々とその時にも障害があります。そもそもきちんと巣を作ってコロニーを形成できる女王は複数いる女王の内の数%程度に過ぎないという説もあるくらいで、巣作りが失敗する理由としては、例えば純粋に病気とか栄養不足のほか、天敵に狙われてしまう場合など色々あります。原理的にコロニーを形成したスズメバチには殆ど天敵はいないのですが、つまりは翻って言うならば、彼(女)らの天敵になり得る存在はスズメバチ自身です。
面白い生き物がいまして、これをチャイロスズメバチと言います。
チャイロスズメバチの女王は基本的に自分で巣を作らずに、他の巣を作ろうとしているスズメバチの女王を襲い、巣を乗っ取ることによって勢力を持つのです。チャイロスズメバチはキチン質の硬い表皮(カブトムシなどと同質)を持っており、よほどのことが無ければ他種のスズメバチの毒針はチャイロスズメバチの表皮を貫通しません。勿論その他の噛みつき攻撃などにも耐性があるので、少数の例外はあれどチャイロスズメバチの女王はなんなく他の女王から作りかけの巣を乗っ取り、あげく成長した働き蜂をフェロモンで支配してその後の巣の運営の為に馬車馬のごとくコキ使ったりするのです。怖いですね。
いずれにせよ色々な障害のために巣作りが失敗することもあるのですが、上手く発展の軌道に乗る巣も当然存在しています。で、そういう巣は爆発的に発展して人間の目の敵になったりするんですけれど、上手くいけばその巣は十月頃まで発展します。逆に言えば、十月が彼らの滅びの始まりとなるのです。
秋から冬にかけて純粋にスズメバチの食物がなくなるので巣は滅びへと向かいます。その過程では女王殺しが行われる場合もあります。
女王は年老いてくると新しい女王に据え替えられる場合もあり、その際に働き蜂から追放され、悪ければアレされます。この女王殺しが起こる条件には色々あるようなのですが、一説には遺伝子的多様性の確保のために女王殺しが行われるそうです。つまり、複数の女王の血統からなるコロニーでは女王殺しが行われないのに対し、単一の女王の血統のみからなるコロニーにおいては女王殺しが起こりやすいのだそうなのです。どうやら、単一の女王のみが働き蜂を産み育てることで、遺伝子的多様性が崩壊するのを恐れる傾向が、働き蜂にはあるのですね。子の心親知らずというか。逆に言えば、遺伝子的多様性が担保されている場合にはある程度円満にコロニーは運営されます。
いずれにせよ冬に掛けていかなるスズメバチの巣も滅びへと向かいます。基本的には、その際に生き残るのは新しい女王蜂のみです。この新女王蜂は木の虚とか比較的越冬しやすい場所で来春までの時を過ごします。翻って言うならば、そのような女王としての素質を持っていない働き蜂は皆滅ぶことになるということです。
ここで疑問を持つ方もいるかもしれません。つまり、女王蜂と同じように働き蜂も越冬すればええやんけという話です。何なら女王が木の虚とか堆肥とかそのテの越冬しやすい場所で年を越せるのであれば、コロニー内の風通しの少ない場所で働き蜂らもある程度なら越冬できるはずなのです。しかし、そこがこのシステムのミソで、要するに新女王を除いて全ては滅びるようになっています。
スズメバチは社会性昆虫なので、一度コロニーを形成してしまえば基本的に大型の猛禽やクマなどの肉食動物を除いて天敵が存在しなくなります。例えばオニヤンマやシオヤアブ、雀などの鳥類が一時的にスズメバチを打倒できるとしても、数百匹の群れを成すスズメバチに対抗できる動物はさほど多くありません。つまり、繰り返すように基本的にスズメバチにとって天敵は存在しないのです。
となれば、何故スズメバチの個体数はそれほど増加せずに、ある一定の値を保ち続けているのだろう――そういった疑問を持つ方もいるかもしれません。勿論、季節のサイクルにおいてスズメバチの生存が難しくなることは先述の通りなのですが、女王蜂が越冬できる事実から言って、他の働き蜂が皆滅びる運命にしかないと断じてしまうことには些か違和感を持つ方もいるかもしれません。女王が生き残れるのであれば、全体とは言わずとも一部であれば来春まで越冬する働き蜂もいるんじゃねえのという話です。
とは言え、それは現実には殆ど起こりません。全く起こらないというわけではないのですが、まずもって起こらないのです。
それは、スズメバチの一生のサイクルには死というシステムが組み込まれてあるからです。
次に話すのは周知の事実ですが、基本的に子孫を成すのは女王だけで、一般の働き蜂は子孫を成すことができません。当然交尾のための行動も行わないのです。何故ならば、彼女たちは女王の分泌するフェロモンによって生殖能力を制限されているからなのです。女王の持つ権能はそれほどまでに及びます。
しかし、女王もまた定命のものです。時を経れば経るほどに、その肉体的な能力は弱体化します。つまり、その際には女王の出すフェロモンの分泌能力にも翳りが生まれるのです。
女王の出すフェロモンには色々な種類があって、まずは先述の生殖能力を制限する目的のもの、それから、働き蜂らを統制するためのフェロモンです。彼女らが何故馬車馬のようにあくせく文句も言わず働いているかと言えば、女王の出すフェロモンが彼女らを統制しているからに他ならないのです。では、そのフェロモンを出す能力に翳りが生まれるとどうなるのでしょう?
そう、スズメバチの巣には内乱が起こります。巣の内部にいる働き蜂は、万民の万民に対する闘争状態さながらに攻撃を開始します。その攻撃の対象は、女王、幼虫、蛹、全てに及び、そこに見境などありません。彼女らは暴走し、一切を食い尽くし、全てを破壊していきます。新女王蜂だけが先見性を持ち、その内乱から脱出し次の巣を作るという使命を持って行動することができるのです。つまり、スズメバチの巣においては、仮に気候条件が彼らの味方をしようとも、女王のフェロモンの効果が薄れるにつれて必ずや内乱が起こるようになっているのです。そのため、彼らは気候条件の云々によらず、必ず滅びる運命にあるということなのです。
そんなこんなで、彼らは新女王を除いて滅びます。その血統のレースは一時中断し、新女王が次のコロニーの制作に低確率で成功するまでは、その成否は保留されることになるのです。
スズメバチは基本的に世界最強のハチであり、さしたる天敵さえも持っていません。それにも関わらず彼らがその個体数を爆発的に増加させないのには、そのような理由があったのです。言わば、彼らの生命サイクルには、内乱と死が含まれているのです。その死が彼らのシステムに含まれていることによって、その個体数は増加せずに済んでいると言えるかもしれません。
以下の文章は私見となるのですが、あるいはこれは自然の生態系というシステムが破綻を来さないために設けた、一つの安全装置のような気がします。ある種の強大過ぎる種類が個体数を増やしすぎないという、生態系に必要な機能のコア部分が、スズメバチの生態というシステムには凝縮されているように思えるのです。