はてなキーワード: 不渡りとは
そろそろ人生を手仕舞いしようかという時期に差し掛かったウチの父親。ときどき昔の話をしてくれる。戦後すぐのドサクサの話は、それなりにおもしろい。
カルビーのことがニュースになっていたので、思い出した。そういえば、カルビーの出てくる話もあったなと。
老人の昔語りを、別に記録もとらずに聞いたうろ覚えの内容だから、事実とかなり違うことがあるかもしれない。虚偽が混じってしまったら、まあそういうもんだと笑って流してもらえればありがたい。
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親父は、大阪で袋屋をやっていた。包装資材の問屋だ。それも戦後すぐ、物資が不足している時にうまい具合に包装紙を手に入れるツテがあったことから気がついたら事業ができていたという、伝統も何もない若い会社のいちばん下っ端の小僧だった。創業すぐの頃は朝鮮人が闇でつくって売る飴の包装紙の卸売がメインの仕事だったが、すぐに広島にあったカルビーが大量に注文をくれるようになった。親父は、リュックサックを背負って店の前に現れたカルビーの社長を覚えているという。やがて商売の半分以上はカルビーにぶら下がるようになった。
カルビーの創業者は、米軍とのコネで小麦粉や砂糖の払い下げを確保し、それをもとに商売を広げていた。広島は原爆で荒廃していたが、その原爆を商品名に入れるような宣伝もやっていた。いまでは考えられないかもしれないが、「原爆=スゴイ」というポジティブなイメージも当時はまだあったのかもしれない。
そのカルビーが、倒産した。発注に生産が追いつかない黒字倒産だったらしい。親父はオート三輪に乗り込んで債権を回収しに広島に向かった。
たまたま親父の会社の倉庫が空いていたのを、カルビーが大阪支店代わりに借りていた。最終的にそこを差し押さえることで、親父の会社は破滅的な損害は免れた。
黒字倒産だったのでカルビーはすぐに復活した。ただ、それを期に、親父の会社は、少ない大得意にぶら下がるような商売をやめ、小口の顧客を広く求めるような経営方針に転換した。たまたまポリエチレン袋が普及を始める時期で、包装紙からプラスチックへと主力商品を転換することで、親父の会社も急成長を始めた。カルビーとはそれっきり縁が切れた。
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古き良き時代みたいに言われる戦後復興から高度成長期だけど、あの時代、けっこう倒産も少なくなかった。倒産した会社からぶんどってきた半端な品物を親父が持って帰ってきたことも記憶に残っている。時期的にいってカルビーのものではなかったはずだけれど、オマケのおもちゃとかも差し押さえたとか言ってたから、ひょっとしたらそういうのも家に転がっていたのかもしれないなと思う。
そんな波乱万丈を経て、押しも押されぬ有名ブランドとなったカルビー。ま、たいしたもんだよな、とも思う。
どうでもいい昔の話でした。
http://b.hatena.ne.jp/entry/352161724/comment/ustar
陸軍の倉庫跡に会社をつくったのは、そういえば親父も話していたわ。そっから持ちだした物資がけっこうあったとか言ってたけど、まあ、噂レベルだろう。
試合当日インフルエンザに罹り出場停止を余儀なくされた選手に無期限出場停止処分が下される
https://togetter.com/li/1079058
今回のスポーツの様なショービジネスは、個人への依存度が著しく高い。
個々人が独立性を有した組織形態、つまり一人一人が事業主となる。
忘れてはいけないのは、格闘家は個人事業主だということである。
自身に落ち度がなくともそういったことは十分ある。
周りは同情はしてくれるだろう。でも救ってはくれない。
経営者は救われない。
■かばちたれ14巻
あるサラリーマン夫婦が脱サラして飲食店を始めるところからこの話は始まる。
経営が軌道に乗らない夫婦は、安価な材料に手をだし、食中毒を出してしまう。
被害者はほとんどは軽度であったが、その中に半月以上入院をした者がいた。
建築会社といっても、社長自身と社員は1-2人程度、いっそ1人親方を想像してもらうと分かりやすいだとう。
当然入院期間中の仕事はなくなる。さらに営業活動もできなかったため、その先の仕事も得ることができなかった。
損害は非常に大きい。(作中では損害500万となっている。金額の妥当性は知らん)
お金というものは厄介で、収入が0になることがあっても、支出が0になることはない。
生きていくだけでもお金はかかる。
自身の生活費はもちろん、事業であれば、さまざまな取引先への支払いもある。
不渡り直前まで追い込まれた彼は、材料屋や下請けに「何とか支払いを待ってくれないか」と土下座をする。
「支払いを待ってくれ」と言われた側は、彼にコップを投げつけて
「食中毒になるような店に行く方が悪い」
よくネタにされ賛否両論がありながらも、番組終了して何年も経過している現在でも
そんな番組で、1つ印象に残っている話がある。
癌が見つかったのだ。
そして続けて
契約の不履行ならば、(契約の範囲内で)どんな処罰をされようが文句は言えない。
当たり前の話だろう。
http://anond.hatelabo.jp/20131216093231
これさ、馬鹿バイトのせいで店が一軒潰れて。。。って同情の声が多くあったけど、
この手紙とかいうのを見る限り、もともと潰れる寸前のダメダメ経営で
はてブでまさにそういうことを無責任に書いてる奴が一杯居て呆れかえる。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20131213/257028/
「前にも店をたたんでたんじゃないか」って、手を広げた結果収益が出なくなったから事業を縮小して再起図るなんて普通のことだ。
「借金あるんじゃねえか」って、事業で負債があるの当たり前だ!
あのものを知らなさ・常識のなさはどういうことなんだろうな一体。
例えばお前らがそば店開く時だって運転資金を借り入れるんだよ。
で、売上からその借入の利子を払いながら運転していくんだよ。
よほどユニークな経営の法人以外、負債がなくなることなんかないわ。
そこでアホバイトによって運転が止められたら
現金商売だしただちに仕入の支払なり借入の返済や利子支払なりが出来なくなって
そうすると返す手段のなくなった運転資金の借り入れだけが経営者の家族に残る。
これがバイトのせいじゃないってのか。
「勝手に借りてたんだ、バイトには責任のない金だ」っていうのか。
はっきり言ってこいつら、
営業が停止するってことのインパクトを理解してないんじゃね?
ほんとどういう人生送ってたらいい歳でこんなに商売に無知になるのかね。
あの店の状況がどうだったかなんて
なんでこう勝手な決め付けで被害者サイドを罵ってるのかねあいつらは。
普段性犯罪被害者に対する報道や風評を「セカンドレイプ!」って罵ってるんちゃうんか。
ちょっと自分の想像が及ばない分野だと途端にセカンドレイパーに変身しやがる。
スタートアップ企業は普通じゃない状態が状態なんですよ、場合によっては。
額に脂汗浮かせて担当者と話してるきったねえオッサン見たことないですか?
この世の終わりみたいな顔して銀行マンにすがりついてるオッサン見たことないですか?
アレが俺だし経営者なんですよ。不渡りを二か月待つ銀行なんて存在しねーよ。
それに経営上の難局なんて、経営者なら絶対に一度や二度は遭遇してる。
小さい企業は業務の属人性が高いんでそういう状況は割と簡単に来るんですよ。
まぁ、いいですよ。
どうせ、そんな難局を迎えること自体が無能の証って論調なんでしょ、はてなじゃね。
それはそれで結構。でも、俺はこの話題が出るたびに何度でも言いますよ。
貴族様の高尚なご趣味におつきあいするこたーねぇ、って話なんですよ。
黙ってろよクソ貴族は。こちとら無能な中小企業のおっちゃんなんだよ。
脂汗垂らしながら信金の担当者にすがりついたことのある、無能なオッサンなんだよ。
世の中の経営者ってのは大半がそーいうもんなんだよ。
院に進学しないで学部生しかやらなかった俺がいうのもなんだけど、同情するところが全くない。
だってさ、実験ってさ、頑張ったから評価されるとか、そういうのじゃないもん。
期日までに、やるべきことはやらないとならないじゃん。
例えば製造業ならさ、受注した分は出荷しないとならんだろ。
「ふざけんな!二度とお前のところには頼まん!」ってなるだろ。
支払期限までに金は払わないとならんだろ。
それと同じ。
期日までに出さないと。
その前には、論文を投稿してアクセプトされないとだし、その前には実験データを収集しないと。
何十億の国家プロジェクトの一環だったりすると、霞が関の役人の首が数個飛ぶってことだってありえるわけじゃん。
そんなんで済まないことだってあるかもしれないじゃん。
実験が出来ないのはまだいいんだよ。
代わりに誰かに頼んだり、まあなんとでもやりようがある。
直前になってやっぱり出来ませんはありえない。
もともと体の具合が悪くて、実験出来ないなら、どうしても無理って段階になる前に言うべき。
「単位もらえないのが怖くて言い出せませんでした。テヘペロッ」
じゃねーよクソが。
お前が扱っているサンプルが、実は横田めぐみの遺骨だったりしたら、すっげーヤバいことになってんだぞ。って言ってやりたい。
本当に重要な検査や実験に限って、二重盲検でやらされたりするんだぜ。
「どうせたいした研究じゃないし」って舐めてかかるなよ。
頑張った、頑張ってない、華々しい発見があった、なかった、そんなのは二の次だ。
計画通りにことを運べ。
先手先手で軌道修正しろ。
話はそれからだ。
そうしてないと安心できないってタイプは確かにあって、
それは、勘違いや思い込みと形容してもいいかもしれない。
しかし、
女の特徴のように描かれているが、日本社会そのものの特徴です。
捜査協力費の偽造に手を貸した者しか出世できないというバリアがあったことが示された。
共犯関係にある者(弱みを握り合った者同士)しか信頼しないという社会的な仕組みです。
すでに崩壊しているのかも知れないけれど、いわゆる談合や、業界の横並びも、
共犯関係にない者を、業界から干すことで排除してきた経緯がある。
それが浸透しきったのは1970~1990年の間かな。
中小企業がどこも自転車操業をせざるを得ない(得なかった)のも、同じ。
一度不渡りを出せば、直ちに黒字倒産になるような弱みを、鈴を、首輪を付けている
安心感があるから、大企業は余裕で下請けいじめができる。下請けは逆らうことが直ちに
そのようにして日本の「統治」は行われている。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
今回の倒産は二度目になる
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法の適用に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の両親が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十数年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。実質代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に売られた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が名目上の役員として給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
初めての会社設立
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収700万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
一方の家庭事情
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、まだ妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。色んな事があった。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
* 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?
* いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?
* 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?
* 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?
* 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?
* 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時半に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。そのくせ、感情の整理の為に、一つ一つを思い返して書いていくからそれなりの長文になると思う。しかも、たぶん結論なんてない。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法認可後の後処理に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の父である祖父が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。名目代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に掛けられた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が会社Aの出資者として役員をやっていたため給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。やや、と書いたのは、不可能ではなかったからだ。しかし、社長令嬢でもあり金の少ない暮らしには耐えられない母親が、10万円での暮らしに耐えられたかどうかは、正直厳しいところだったと思う。思えば、これが最大の問題点だったのかも知れない。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収600万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。ここには書けないようなことも。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
打ち始めるとなかなか止められない。そして無理に止めると狂って死ぬ。
景気のいい中企業とかがコマーシャルなんかを打ちはじめて知名度があがって益々売上げが伸びると、こ
れがなかなか止められない。
今度は逆にやめると売上げが落ちるんじゃないかという強迫観念にとらわれる。止めたからっていきなり
売上げが落ちるわけでもないし、知名度もスコーン!と無名に戻ってしまうわけでもない。地元の有力企
業としての地位は揺るがないし、しばらくはコマーシャルの余韻もある。
だが、せっかく捕まえたカモを逃がすまいと広告代理店からの煽りも相当あるせいもあり、やめられない。
これで売上げが下がったりなんかしたら、その原因探求よりも先に増やしたりしちゃう。
商品のネタが尽きた挙句には売上には何の貢献もしないイメージ広告に走っちゃう。
一定の知名度を獲得した後は頻度を下げて効率的なところを探っていくべきなのに、墜落するのが怖くて
巡航高度でもエンジン全開のまま。気づいたらありえない燃料を消費(広告宣伝費を計上)しちゃって、
巡航高度以前に飛行そのものが継続できるかが問題に・・・。
で、我に返っていきなり止める。そんなことしたら「実はあの会社ヤバイんじゃないか?」って噂が立つ
にもかかわらず、自分だって業界団体の飲み会とかで「コマーシャル止めたあたりからヤバイと思ってた
んですよ~。」と、倒産した会社の噂話してたにもかかわらず、でもやっぱりいきなりやめちゃう。
そうすると案の定、取引先が警戒して仕入れが厳しくなる。小さい取引先に限って「うちは額が少ないか
ら3日以内に振込みで。」とか言い出す。でも現金無い。あるのは3ヶ月以上の手形の山。銀行の与信も
事業拡大で使い切ってもうない。
帳簿上は黒字だが相変わらず現金なくてギリギリなところにきて、割り引いた手形が不渡りで戻ってきて
死亡。
黒字倒産のいっちょあがり。
この手の、「アメリカの支配から脱却しなければ」なんて主張をすること自体、アメリカ中心でしかものを考えられていないってこと。
飯田泰之氏が「脱貧困の経済学」で書いていたけど、資本主義のチャンピオンはアメリカなんで、アメリカがダメになってくれると嬉しいって人が多いらしいんだよね。
政治的には、アメリカに国際政治のプレゼンスを握られるのが悔しい→超大国アメリカダメになれ。
経済的には、資本主義が社会主義を打倒したなんて悔しい→資本主義のチャンピオンのアメリカダメになれ。
米国支配から脱却すべきだと主張している人って、物事には短期のものと中長期のものの2種があるって理解していないんだよね。
長期的には、アメリカ中心の輸出経済から脱却すべきなのかもしれない。
でも、円高で国内産業が壊滅するには短期で十分なんだ。
今年に入ってから既に77行の銀行が破綻。今回こけたのは、アラバマのコロニアル・バンクである。主に住宅ローンや建設会社への融資を膨らませていた結果、破産によって焦げ付きが増えて倒れたのだ。
そも多国籍企業と補助金で食べている一次産業しかないアメリカで、コマーシャルバンクをやろうという考え方が間違っている。
非上場で設備投資がでかい工業がたくさんあるか、もしくは日銭が入ってくるサービス業が無い限り、間接金融のお金が運用できる余地は無いのだが、銀行には、日々の決済業務を請け負うという方向のサービスも存在する為に、存続していたのであろう。
しかし、そのサービスゆえに、市民の銀行に対する感情は、冷ややかなのである。アメリカでは小切手による決済が主流であり、この小切手決裁で、口座の残高が足りなくなった時に課せられる手数料というのがある。口座の残高を超えて小切手を振ることをOverdraftと言い、その手数料はoverdraft feesと呼ばれている。通常は不渡りにするのであるが、特別に、手数料を払う事で不渡りにせずに、小額の融資をしてくれるので、サービスと言えなくも無い。しかし、この手数料が馬鹿にならない金額になっている。去年一年間で銀行業全体で$380億(3兆6千億円)となっている。口座の残高を超えて小切手を振り出したミスは事実であるし、不渡りにされると口座がクローズされてしまって現金でしか決済が出来なくなる事から、救済措置は必要なのだが、その救済にかこつけて取る手数料が暴利なのだ。
記事では、バンク・オブ・アメリカは初犯で$6、再犯で$35。チェースは初犯で$25、再犯で$32、以後は$35。SunTrustは常に$35となっている。
一見、合理的で妥当そうに見えるが、小切手の決済は給料日の翌日等に設定されている事が普通で、その日に、全ての小切手が処理されるという点に問題がある。このとき、銀行は、金額の大きい順に残高を取り崩し、金額の少ない小切手を最後に処理するのである。つまり、残高が不足すると、金額の少ない小切手が、複数枚同時に不渡りになり、一枚ごとにoverdraft feesが掛かる。
小切手の処理の順番は銀行側の自由だが、顧客の側としては小額の小切手から決済していってくれればoverdraft feesの対象になるのは一番額面の大きい最後の一枚だけになるという場合も多い。しかもどちらの順番で処理しても口座貸越の融資の金額は変わらない。変わるのは$35のoverdraft feesが一回分か数回分かの差である。初犯が低めに設定されていても、数枚が同時に不渡りになるのだから、多少は減るという程度でしかない。よって、顧客が銀行に対して抱く感情は、決して良くないのである。
小切手決済を行う為には銀行口座は必要であるが、クレジットカードで決済できるのであれば、そっちの方が良いという方向に向かう事になる。全ての支払いをクレジットカード一社に集約し、カード会社への支払い小切手一枚だけしか振り出さないとなれば、もしもの事があってもoverdraft feesは一回分だけで済むからだ。
クレジットカードが広まり受け入れられる素地として、一般人が銀行に抱く感情と制度の問題が根底にあり、その感情ゆえに、銀行がばたばたと倒れていくのに対し、人々が冷ややかに見ているのである。
I owe youの短縮表記で、日本語では借用書となる。
いわゆる現金紙幣は中央銀行が発行する無利子無担保の借用書である。中央銀行に紙幣発行権を独占させるのは、政府が紙幣発行権を持つと、財政の健全性を無視した濫発を行う危険性が高いためである。この為、政府は利息がつく債券しか発行できないようにしてある。利息を上回る国益を実現できない無駄遣いはするなという、制度的な縛りがつけられているのである。
アメリカのカリフォルニア州で、州政府の資金がショートしている。通常は一覧払いの手形で政府の支払いは行われているのであるが、一覧払いでは、現金が足りなくなって不渡りになるという事で、3ヶ月後一覧払いの手形で支払うという話になっている。この政府発行の手形をIOUと表現している。
この手形には、借金であるのだから利子がつく。利子をつける事で、政府紙幣ではなく、紙幣発行権を侵害していないという建前が成立する。手形は裏書をする事で流通させられるから、実際は現金と同じなのだが、額面がばらばらだし、現金に換金できる時期が先なので流通性が低いとされ、現金ではないという事になる。
実務上は、この手形を受け取った業者が金融機関の口座に入れると、入れた日から換金できる日までの利息が天引きされた金額が、口座に融資される。手形についている利子と、手形担保融資で割り引かれる利息とが一致しており、かつ、手形が確実に落とされるのであれば、リスクは無い。
無いのだが、地方自治体が破綻した時に、手形はただの紙切れになり、手形担保融資は即時返済か新規担保の差し入れを要求される事になる。合衆国政府保証がつくという話であるが、その保証枠の範囲内で、足りるとは思えない。
金融機関は、通常、破綻しそうな企業には統一手形用紙の発行を絞り、その企業の資産を超える手形を発行できないようにするのだが、州政府発行のIOUの用紙は州政府が用意するので、絞りようがない。つまり、FRBが枠を作っても、やったもの勝ちで発行しまくるという、いわゆる手形による取り込み詐欺と同じ手口が可能になってしまうのである。負債を片っ端からIOU払いにした上で、破産し、米政府保証に押し付けて身軽になって財政再建というウルトラCが理屈の上では可能だったりするのである。
カリフォルニア州が取り込み詐欺まがいの事をやるとは思えないのだが、朝鮮系だか中国系だかの下院議員が選出されるくらいに移民が増えているという事から、"自由、正義、他者の尊重、市民としての責任"といった建国精神とはかけ離れた事が起きても不思議ではないのであった。
259 名前: 社会保険庁職員(東日本) :2008/10/24(金) 20:28:41.18 ID:sFNyaW70
父が他界母子家庭に
これじゃいかんと番長を味方につけるために一緒のラグビー部へ。
→日本代表に選ばれラグビーへ明け暮れるも、大阪1、2を争う進学校の為ついていけずに落ちこぼれる
→弁護士めざす、二期で受かる
仕事がなかなかなく、家族の為に危ない橋を渡り独自のセンスで仕事をこなす。
仕事は増え、子供も増え、再婚した両親、嫁の両親、妹夫婦に同じ場所にマンションを買ってあげる。
後はご存知の通り。
こういうのを見て、「橋下って凄い経歴なんだ。こんな中でよくがんばってきたなあ。すごいなあ。こんな人が言うのだから納得だあ!」とか無邪気にはしゃいでる奴が俺は一番嫌い。
嫌いというか、その頭の悪さに軽くめまいがする。
俺からすれば、こんなんで喜んでる奴らって、恋空見て泣いちゃう層と同じレベル。
安っぽい物語に感動して、そこまではまあ個人の趣味だからいいとしても(それでも俺が嫌いな事に変わりはないが)、「こんな人が言うのだからすごい」「こんな人が言ってるのだから説得力ある」とか言っちゃってるところ。
何?お前ら、バカなの?
橋下がいくら苦労しようがそんなことは主張と関係ないから。甘ったれんな。苦労して育ってきたからそれが何だ?それでも論理的に間違っているなら間違いなんだ。橋下がいくら俺は底辺からでも頑張ってきたとかいったところで所詮それはお前の人生であって、その基準で他者の事を語るなど無礼千万に尽きる。人一倍苦労したからって他者に説教できるわけじゃない。勘違いするな。苦労したから、人生論ぶてるわけじゃない。甘えるな。
いくら橋下が苦労していようがあるいはもともと金持ちだろうがなんだろうが、今こいつが主張していることとそれは全く関係がない。議論というのはそういうことだ。バックグラウンドなど、猫の抜け毛ほども関係が無い。それを、あんな安っぽいストーリーに感動した挙句、それを安易に橋下の主張と結びつける、この愚鈍さ。その頭の悪さに俺は絶望する。日本人ってこんなものなのか?
それと、どうせ「うんうん橋下はすごい、偉い」とか言ってるお前ら自身はといえば、どうせこの高校生と大差ない、ほどほどに恵まれてて大学もそれなりに行った奴らが大半のくせに、「橋下はこんなに辛くても頑張ってたのに、このゆとり高校生どもは…」とか、勝手に橋下の苦労を虎の衣のように着込み、高校生を見下してるのがまたクズ。
バカじゃないのか。そんなの橋下にとっても失礼だろうが。勝手に人の苦労を借りてそれで他人を見下そうとするな。人がした苦労を他人を見下す道具にするな。他人の苦労でオナニーすんな猿どもが。
百歩譲って、橋下が、はいはい、逆境の中物凄く努力しました、凄い人です、としても、だから何なのか。
だったら逆にそんな人が知事なんてやるのは迷惑だ。
「凄い人」ってのは、扱いに気をつけなきゃならない。「凄い人」は、そのとおり、「凄い」のだから、「だからこそそんなものを基準に府民に求めるべきじゃない」のだ。「貧乏?橋下はそんななかからはいあがったぞ?」なんていうのは逆に橋本を「普通の凡人」扱いしているともいえる。
極端な話、ほぼ全ての不幸を背負った事がありそれを全て克服した、なんて人がトップにたってみろ。
「実はこんな不幸が」「俺は乗り越えた」
「実はあんな不幸が」「俺は乗り越えた」
「こんな不幸であんな不幸が」「俺は乗り越えた」
話にならない。それじゃ政治なんていらないだろうが。あくまで橋下ってのは、「不幸な境遇からなりあがった」というイレギュラー的存在である。「不幸を克服したえらいひと」、OKそうだとしよう。しかしならば尚更そんなものは基準におくべきじゃない。お前達は、天才を基準に教育を考えるのか?数学が神レベルにできる奴が数人いたからといって、そいつらのレベルに合わせてたらほかのやつはどうしようもなくなる。
不幸な境遇からなりあがった、そうだねそれはすごいね。で、どうしてそこから「だからその他の不幸なお前らもがんばれよ、橋下がやったんだからやれよ」になるのか。すべきことはそうじゃなく、橋下のような「不幸な境遇」をまず政治的に是正することだろうが。不幸な境遇からなりあがりましたすごいすごい、それはいいとして、そもそもはその不幸な境遇自体が、よくないものだったんだ。なくすべきものだったんだ。その不幸を「あってもいい」などと肯定しては、いけない。乗り越えたからといって。そもそもの悪はその不幸であった。そしてそういったものをなるべく軽減するのがある意味政治の役割なのだ。(当人が自身の胸の内で一人だけひっそりと肯定するのは構わないが)
不幸な境遇からなりあがった人間というのはこの辺りが面倒くさい。なまじ不幸を経験しそれを克服したからと、他者にもそれを要求する。「不幸な境遇があったこと自体がもともと正すべきことだった」などと言われると自分を否定された気になるのか知らんが、妙に「不幸な境遇はあって当たり前」としようとする。不幸を乗り越えた者が言ったことだからと、皆が妙に否定できなくなる。この悪循環。不幸を乗り越えたものは、その自身の不幸を正当化しようとするのだ。なぜならば自身の成功はその不幸と地続きであるから。なればこそそういったものはやけに「不幸はあって当たり前、そんなものに文句を言うな」となりがち。不幸を乗り越えたものの乗り越え方には、一見の価値があるかもしれない。しかし彼らの根性論は決して聞いてはいけない。語弊を招くのを覚悟で言えば、彼らはやや歪んでいるのだ。幼き頃の不幸ゆえに。まるで幼き頃性的虐待にあった子供が、かえって大人になり風俗につとめてしまうように。不幸を彼らは認めざるをえない。そういう人物なのだから、一概に「えらいひとだ、えらいひとだ」などと持ち上げてその全てを肯定などするな。甘やかしてはいけない。いくら不幸で成功した人だからといって全てが正しいわけではない(当たり前すぎるのだが)。
「不幸からなりあがった人」の話は話半分に聞くべき。
彼らは自身の不幸を正当化している。
個人レベルの話なら一向に構わないが、それを他者への基準にするな。
お前が不幸を乗り越えた凄い人なのはわかった、しかしだからといってその不幸をこれから「乗り越えられるはずだ」といって無視するのなら、もう、不幸を乗り越えた人なんて不幸な人にとって邪魔なだけだ。(なまじ悪意がないから余計にどうしようもない)
人身事故があったんだ。
↓
14本、5000人だけ? 少ないな。日曜日の朝だから?
↓
30分で復旧してるってことは飛び込んだやつは無事だったんだな。
↓
各駅停車の中央線(朝の中央線、総武線)で新宿駅だもんな。減速してたんだろうな
↓
接触か。。。
ま、他にけが人がでなかったようでよかったよかった。
都内の電車というのはほぼ数珠つなぎに走っているのでひとつが止まると他も駅ではないところで停車しなければならない。
影響度の少ない人身事故でも電車の中に30分は閉じ込められることはザラだ。
東京で雪が数センチ積もっただけで電車が止まるのはなにも電車が弱いからじゃない。
ダイアが数分遅れただけでアウトになるほど過密なんだ。
新宿駅での人身事故だと、総武線直通各駅停車中央線と、中央線快速のホームがあるので、片方がとまっても融通が効く。
5000人の迷惑って思うかもしれないけど、これが時間帯によっては数万人になる。
数万人の中にはそのせいで飛行機に乗れなくなる人や、
猛烈なラッシュの中で気分が悪くなってしまう人、
もしかしたらいますぐ入金しないと会社が不渡りをだしてしまう人や、
トイチで利子がついてしまう人や、
親の死に目に逢えなくなった人や、
猛烈な便意のなかで電車に数時間閉じ込められる人が少なからずいるはずなんだ。
そういうわけで
この情報はその場所に住むひとにとってはここから一日の予定の変更を迫られたり、
なんだりしなきゃいけない有用な情報なんだ。
「台風で床上浸水30棟」ぐらいの有用性。