はてなキーワード: 収束とは
VAZという会社に所属するわかにゃん(登録者数16.5万人)という女性youtuberが二つの件を告白
・同社所属の他クリエイター複数人のグループにいじめられてる。陰口を叩かれたりハブかれたりしてる
解決するために別の配信者「ヒカル(登録者300万人)」「よりひと(登録者数63万人)」「kimono(登録者数11万人)」の三人が話し合いの場を設ける
その結果はこうである
・いじめた側の女性youtuber「かす(登録者数48万人)」がある男性に対して恋愛感情を抱いており、わかにゃんはそのことを知っていたにも関わらずその男性とSEXゲーム(王様ゲームの内容を過激にしたもの)をして遊んだ
・その事でわかにゃんはかすに避けられるようになるが、インスタグラムにてわかにゃんはかすの態度に対して愚痴を言っていた。更に他の人の愚痴もついでに言っていた
この話し合いの結果、いじめた側はわかにゃんに謝罪、わかにゃんはVAZの退社を決意して和解。
いじめ事件の説明と和解する旨を説明する動画を全員で撮影し、わかにゃんのチャンネルにアップ。
当人達で「勝手に動画を削除したりしないこと」という取り決めをしていじめ問題は解決!
VAZ側は
・わかにゃんの個人チャンネルの動画広告の報酬は全てgoogleから直接わかにゃんに支払われてる。
・他複数人とグループチャンネルを作りたいとの事で、それを作って経費等を引いた分を折半ということになった
・そしたらわかにゃんはそのチャンネルの全ての動画を非公開にして、他会社所属の男性youtuber(彼氏)とのカップルチャンネルに勝手に変えてしまった
・動画の編集権などをわかにゃんが一方的に主張し、VAZとの合意なしに押し通してしまった。
・カップルチャンネルの報酬もわかにゃんに直接振り込まれるように変更してほしいという要請があったから12月5日の時点で変更済み。しかしそれが適用されるのは1月末からになる。
・カップルチャンネルの報酬については未払いはなかったが遅延はあった
・しかしそれは「保証人とか面倒だろうからVAZ名義で家を借りてやるよ!そのかわり金は払ってな!」というシステムをわかにゃんが8月から利用する事になったのに契約締結後に一方的に支払いを拒否してしまったため、その家賃を報酬から一部相殺したためである。
・初期費用や1月分までの家賃など諸々合わせてまだ125万くらい残ってる
等と書かれたプレスリリースを発表した。
わかにゃんはこれに対して反論するも、その反論の中に異様な物が含まれていた。
「いじめについての事が書かれてない!私は被害者なのに!会社が握りつぶそうとしてるんだ!」
そもそもいじめについては個人間で解決し、VAZという会社は全く関係がなかったのに急にここでいじめ問題を掘り返したのだ。
そして「勝手に消したりしない事」と約束したいじめの和解動画を無断で削除してなかったことにしてしまう。
これに対し、事態の収束を手伝ったよりひと達は「なんだこいつ…」と冷ややかな目で見ていた。
「そもそもあのいじめ問題の和解動画は台本があったに違いない!」
ーヒカルに関しては
・「もし金に困ってるならとりあえず立て替えて俺が払ったってもええで?(その代わりツイッターでその事話して俺の評価上げてや)」と手を差し伸べた
・元々VAZのクリエイターだと思われていたが11月の時点でVAZを退社していたので後輩つぶしをする意味がない
ーよりひとに関しては
・そもそもVAZと仲が悪い。VAZの運営体質の悪い所は徹底的に叩く人間なのに共謀など持ちかけてはそれもネタにされてしまう。
VAZの未払い問題の真偽は不明だがこのように全く理にかなっていない噂を流して問題をかき乱してしまうわかにゃん
そして業を煮やしたVAZ、ついに4/12
これからが楽しみです
人間が動物に迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります。
たしかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作の意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長のワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者に特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃんが人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメの物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。
俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者、イエイヌを追い詰めサーバルに撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマを普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者は初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNSに悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事がホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思います。ネットの考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。
俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています。けもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコしながら見ていました。確かに、ドラマとして登場人物の紆余曲折が一つのテーマに収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。
何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン
一話の最後でスケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思います。ホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます。
キュルルちゃんの立場から見て、イエイヌの価値観を尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇のトリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的な理由はないでしょう。
強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫があります。フレンズ型セルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。
けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放を宣言しています。けもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画風演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じます。しかし確かにセルリアンとの戦闘はけもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています。戦闘はけもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘はテンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思います。ホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります。
最終話の評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。
セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います。監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしかに結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任が制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?
キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程が曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。
けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアルな世界観でフレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうが、スッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思います。ケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。
ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばんちゃんの成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズが生存の理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマはどうでしょう。ケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんとサーバル・カラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善の余地は合ったかもしれませんね。
いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語の意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要なときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。
ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別に、マーケティングのミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。
絵柄が大きく変わっていることは初見でわかります。SNSで憤慨しているファンも監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファンが必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じものを要求した、そのように見ています。けもフレ2も最初からギスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態やジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。
(付録)
ギスギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。
面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。
別の場所のコメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレー・ハヤシライス・ビーフシチュー」くらいの印象です。
枕詞として
念のため書いておきますが、私はドスパラの関係者ではありません。
また某ツイッターアカウント(アカウントA)さんでもありません。
アカウントAさんのツイートから本記事を拝見し、言及元記事の作者(アカウントBとします)さんの記事に対し第三者という視点で記します。
揚げ足取りのような内容になる点、また引用が飛びまくる点についてはご容赦ください。
では本題
話を戻しますが、これは中国でも問題視され、ニュースにもなったようです。アカウントAの人は、この報道を元にそのデザインの基板=不正品の疑惑があるという思い込みをしました。
とありますが「思い込みをしました」という思考こそアカウントBさんの「思い込み」以外のなにものでもない気がします。
一般的な思考としては過去にアウトであった基板デザインと同等であれば「疑わしき」と感じるのはしごく普通の思考と感じます。
結果、今回のリマークが露呈するわけですが。
中国全体を見た時の技術力向上は目覚ましいものがありますが、昔と変わらず偽物文化も根強く残っているようです。SSDも例外ではなく、怪しげなSSD用基板、怪しげなNANDチップが通販で売られています。中には廃棄品の横流しが疑われるようなものなどもあるようです。
とアカウントBさんもお書きになってるようアカウントAさんもこのことをご存知だったゆえ、先の「疑わしき」と感じられた1要因かと感じます。
<なぜ疑惑が正しくないといえるのか編>
要するに、SpecTekの型番が入ったNANDチップはMicronの工場で生産されたものです。Micron用、SpecTek用で生産ラインが分かれているのかは分かりませんが、仮に分かれていたとしても、Micronの工場で生産したNANDチップにMicronがロゴを再刻印してMicronブランドとして販売することに何の問題があるでしょうか。
逆を言えば、なぜMicronの子会社でもなく、むしろdivisionであるSpecTekの名のままで提供しなかったのでしょう?
ここはアカウントBさんお得意の「推測」になってしまいますがSpecTekで出すよりMicronで出すほうが
「性能が確かで、知名度があり、印象がいい」と思われる
からなのではないでしょうか。
当方が無知なだけかわかりませんがMicronは知っていますがSpecTekは知りません。
(b)同じMicron社のSpecTek製チップ(マーク刻印)が搭載されたSSD
理由は先に記した通りで「性能が確かで、知名度があり、印象がいい」なMicronだから。
そして(b)がSpecTekではなく、samsungや東芝製チップ(マーク刻印)されたSSDであればどちらにしようか迷います。
理由は同じくMicronもsamsungも東芝も「性能がry...だからです
ここは私の想像ですが、単純にSpecTekブランドで出荷予定だったNANDチップに注文のキャンセルなどがあり、同じ仕様のNANDの注文があったMicron側に渡したというだけの話ではないでしょうか。
疑惑を立証、断定する段階において「推察」ましてや「想像」など論外かと存じます。
アカウントAさんのよう同じ基板だ怪しいぞ?と仮説の段階ではアカウントBさんが記されたような想像はよいでしょうが
言及元記事においてはレポートや論文における「結果」「結論」に値すべき項目に記すべきことではありません。
何の証拠もなく記すのは「リマークされることが正当である」と思わせる印象操作にしか思えません。
不正なNANDチップを使うのはひとえに安いからであって、隠すためにNANDチップ1枚1枚にコストをかけるのはナンセンスだからです。ここからも、Micronが妥当な手続きを経てNANDを出荷したと推測できます。
すいません。以下は推察です。
不正なNANDチップがコーティングを施してもまだ利益を生む価格であれば十二分にやりうることと考えます。
また過去の「型番を消すように斜線が引かれている、網掛けされている」だけではすぐバレてしまうという悪い知恵だったのかもしれません。
しかし、この読み方には問題があります。ポイントは「/」の読み取り方です。例として「S5」を見てみましょう。「Partially Tested, est yield of 50%」となっており、「部分的にテスト済み、容量の推定50%」という意味です。「/」ではなく「,」が使われています。意図的に使い分けているということです。他の使用例の紹介は割愛しますが、よく読むと「A/B」は「AまたはB」、「C,D」は「CかつD」という意味で使われているのが分かります。
SpecTek社に直接お聞きになったわけではなく、アカウントBさんが型番の読み方を他の使用例を元にご自身なりの解釈で記されているだけでいわば推測。
つまり、「Simple Test Passers/Extended Test Failures」は「簡易テストに合格、または拡張テストに不合格」、つまり出荷されたのは「簡易テストだけを実行しており、それには合格した」チップであると考えるのが妥当です。
正しい型番の読み方のまま議論すべきで意訳するべきではありません。
あくまでも「簡易テストに合格、または拡張テストに不合格」のNANDチップです。
「簡易テスト「だけ」を実行し」などとは書かれていません。意訳です。
Micronが生産してMicronブランドで販売するNANDチップなのですから、製品に使えないものを出荷するはずがありません。
Micron社に属するSpecTek社が生産したNANDチップであることしか現状は判明していないと思うのですが
どこかに「Micronが生産してMicronブランドで販売するNANDチップ」という記載があったでしょうか。
また「製品に使えないものを出荷するはずがありません」の前提にある「Micronが生産してMicronブランドで販売するNANDチップ」が
明確ではありませんので結果的に「出荷するはずがありません」とは言い切れません。
ドスパラが今回出した第三者機関のテスト結果です。実機でテストして他のメーカーの製品と特段差がなかったという結果でした。この調査自体は、比較対象2製品のうち1製品がS.M.A.R.T.に寿命の項目がない、調査機関の名前が公表されていない、の2点からイマイチ感が強いのですが、
これに関してはアカウントBさんもお書きのよう多くの方が「第三者機関」の不透明さが強く残ってしまっています。
検証、調査において大切なのは検証内容/方法と検証元というのはアカウントBさんも重要であることはご認識かと存じます。
ゆえ、本疑念を晴らすべき販売元がその調査機関を公表しなかったことが事態の収束に至ってない1要因かと考えます。
ドスパラの対応でイマイチだなあと思うのはリマークを明確に否定しなかったことですが、販売店という立場があり、自社ブランドについてはメーカーとしての立場もあり、言えないこともあるのでしょう。自分のコメントではなく、あくまでRitekと第三者機関の言葉をベースに対外発表しているのは正しい対応であり、批判に当たらないと思われます。
アカウントBさんやアカウントAさんの内容に対し、否定的な意見を掲げている方の多くが勘違いしている気がします、
本件の核はアカウントAさんが何度も強く仰っている「リマークの重大さ」です。
そしてこれが本件の問題です。検証結果から性能が十分に担保されているので「良い」では済まされません。
また如何なる理由があるのか察しえませんが販売元がこのリマークの意図を明確にしない限り
今はよくわからないメーカーのSSDで起こっているだけですがこの問題を放置し続けると
先の事例に上げたようなsamsungや東芝、Crucialといった有名どころでも同事象が発生しうるということです。
こうなるとは我々は何を信じればいいのかわかりません。
ブラック企業という言葉が市民権を得てしばらく経ちますね。毎年、ブラック企業大賞なるものが発表され、だれもが聞いたことのあるような企業が名を連ねます。それに対し、ブラック研究室という言葉も有名なものの、どこの研究室がブラックだとかいった情報は大学内部の学生でないとなかなか知りえないものがあります。ましてや研究室の内情は所属している学生しか分かりません。
今回は、そんな研究室の中でも異質なケースとして、自分が修士課程の2年間過ごした研究室の話をみなさんに紹介したいと思い、筆を執りました。必ずしも拘束時間が長く、人格否定を行うような研究室だけが悪い環境ではないということ、メディアなどでよく見かけ、有名で人気な研究室が良い環境であるとは言えないということだけでも皆さんに覚えていただきたいです。後進の方々の研究室選びの参考に少しでもなれば幸いです。
第一に、とにかく人員が不足していたというのがあります。まず、先生(教授・講師)はあまり研究室にいませんでした。先生たちは予算の獲得や大学内外の事務に追われるため、多忙になります。基本的に助教や研究員・博士課程の方が下の修士・学士課程の学生の面倒を見ることになります。これだけなら普通なのですが、先生が後先考えずにどんどん仕事を受けてしまうことにより、プロジェクトに対して人間が足りていない状況が常に生じます。(先生曰く「断るの苦手なんだよね~」とのこと。)その仕事は研究だけではなく、各メディアの取材や研究室見学など多岐にわたります。自分が研究室に配属されて一年は、講義を受けるほかに、(詳しくは後述しますが)研究室の立ち上げ用に物を発注したり組み立てたり、見学者対応をやる日々で、ほとんど研究はしなかったように思います。さらに、月一くらいの頻度で(今はだいぶ減りましたが)先生のお友達を呼んで講演兼パーティーをやる準備や、先生の思い付きで増える仕事などに日々忙殺されていました。また、インターンやアルバイトといった形で外部の学生を呼んで研究してもらうこともあり、その人達は雑用をする義務はなくお金をもらいながら成果を出していたのに対し、学費を払っている学生は雑用に追われるといった状況もありました。事務スタッフも教授が所属している社団法人の経理をさせられたり、共同研究先の企業から出向(?)の形で来てた研究員の方も、後述の巨大予算の運営周りの仕事をやらされたりとひどい状況でした。
第二に、新設の研究室で、研究を行う環境づくりをゼロから始めなければいけないことがありました。これは事前からわかっていたことではありましたが、自分の想像以上の大変さでした。情報系の研究室なんて机と椅子とPCを発注すれば、あとは個々人の研究に応じて必要なものを買い足していくだけだろうと思っていました。しかし、先生の方針で、リビングラボという生活空間と研究室が融合したような形態でラボを運営することが決まっていたため、それを満たすような研究室の構築に修士の最初の一年は消えました。なぜ一年もこのようなことをしていたのかというと、9月ごろに先生がとある巨大予算を獲得し、学生・スタッフを増員するとの方針でキャンパスを移動することに決まったからです。一度ゼロから作り上げた研究室をもう一度ゼロから作り上げることになりました。自分としてはキャンパス移動ですら最初に聞いていた話と違うので、とても不満に思いました。通学時間も10倍以上増え、それだけでも大きな負担となりました。(授業は元のキャンパスでやることがほとんどで引っ越すわけにもいきませんでした。)
このような状態でまともに研究が回るはずもなく、助教(自分の所属する学科・専攻で博士までとった唯一の人)はやめてしまいました。そこから、特任研究員の方に学生指導の仕事が集中します。(本来、特任研究員は助教とは違い、学生の指導ではなく自分の研究に専念するという名目で雇用されます。)そして、社会人博士の方がその有能さゆえに研究室内の仕事を一手に引き受けこなしてくれたおかげでなんとかなっていた(?)のですが、当然彼らも自分の研究は進みません。
第三に、教授・講師間でうまく連携が取れていなかったようにも感じました。二人とも物事を放置・後回しにしたり散発的に進んだりと、計画性とは無縁の進行でした。ミーティングでもその場の思い付きのアイデアで話を発散させるばかりで収束には向かわず、学生はどうしたらいいか当惑することが多かったです.
さらに、二人の共感性の低さも研究室内の人間関係に大きくヒビを入れていました。特に事務の方々への接し方や飲み会の席(講師は酒を飲まないので主に教授ですが)での学生に対する発言は聞くに堪えないものがありました。(詳しくは後述)
また、学内の期限(修論の題目の提出など)を過ぎてから学生に通知したりと時間・期限に非常にルーズでした。そのことを詫びる様子もなく平然としている様子も腹が立ちました。その結果、学生や事務員が期限を守らない印象を外部に与えていたのではないかと懸念しています。
オーサーシップ周りに関しても不満が残りました。これは自分ではないのですが、大して面倒を見てたわけでもないのに、camera readyになって急に講師が「見るからオーサーに載せろ」と主張してくることがありました。 教授もゴーストオーサーの常連だからかそれには強く言わず結果的に受け入れられる形となりました。学生側としては教員陣の命令に背くわけにもいきませんしね。(この話に関しては、この研究室に限らず、分野としてそういう傾向があるのかなあと思います。他研究室の話は詳しく知りませんが。)
このように研究室としての体を全くなしておらず、自分を含め最初3人いた同期修了出来たのは自分だけで、1人が休学、1人が留年という形になりました。(もう一人修了者はいますが、別の研究室がなくなった結果移ってきた人です。)
次に、研究室の主である教授の性格が合わず、人間として尊敬できなかったということについて話したいと思います。上司と合わないということはよくあることだと思いますが、よくあることだからこそ、記しておきます。
初めに、衝動的な発言や暴言が多く看過できないということがありました。衝動的気質に相まって、酒癖の悪さがそれを助長していました。例えば、論文を提出できなかった学生に対して「負け犬じゃん」といったり、昔自死した学生に対して「勝手に死んだんじゃん」などといったことがありました。(なお、これらの発言は学生や職員に窘められ即座に撤回しましたが、そう思っていたという事実は消えないと思います)。その他にも配慮のない発言が多くありました。
また、自己顕示欲の強さとマウンティング(いわゆるイキり)が挙げられます。「君たちは潤沢な資金のあって、待遇のいいこの研究室に来てラッキーだ」などといった身内へのイキりを聞いた時は、上で書いたような現状に疲弊していた自分の感情を逆なでするのには十分でした。また、自分は偉く、自分が言ったことはどんな無茶でも通ると思っているきらいがあり、無茶な予算申請で事務の人を疲弊させることが多くありました。それにあきれ果てた事務の人が次々とやめることがあり、その結果事務仕事が逼迫することもありました。怪しい予算の使い方をしていて、機構の人に怒られたみたいな話を聞きました。大学に目をつけられているのはいわずもがな。
内弁慶というわけではなく、外部の人間に対しても自分を良く見せようとしていることが多く、鼻につくこともありました。自分にはこのような先生の在り方が、いわゆる口だけの軽薄な人間に感じられてしまいました。いい環境を作りたいとは口では言いつつも自分は何もせず下の人間が苦労したり(「然るべきとき然るべき場所」というアイバン・サザランドの言葉をよく引用しますが、これが「然るべき場所」なら笑止です。)、自分は人脈のハブだといいつつスタッフをなかなか引っ張って来れなかったり(前の大学にいるときこの業界で悪評が立ち、人が来たがらないとの噂)とあきれかえることが多かったです。他にも「教育が最優先」と口では言いつつも後回しにしたり、下の人間に任せているようなことなどとにかく「口だけの人間」というイメージです。隔月で1回20分ほどの面談で教育したということなのでしょうか。
専門用語を拡大解釈して援用することで知識人を気取るようなスタンスが多く見受けられたのも癪に障りました。例えば、「インピーダンスマッチング」という、高周波の電気信号の伝送路において、入力と出力のインピーダンス(電圧を電流で割った値で直流回路では抵抗にあたります)を合わせるという意味の言葉があります。この単語は力学などでも用いられます(こういった多分野に共通する背景理論を研究しようという思想を持っているのが我が学科・専攻です)が、これを特に理論的背景もなく「折り合いをつける」くらいの意味で使って、さも各分野に精通している感を醸し出すことに長けていました。他には「バウンダリーコンディション」とかもありますね。微分方程式で言うところの境界条件です。これを前提・条件みたいな意味で使います。(こちらについては検索すると若干引っ掛かりますが。)これらにツッコミを入れた学生は以降食事会に呼ばれなくなりました。自分に媚を売らない用済みな人間は簡単に切り捨てるようです。こういった拡大解釈した単語を用いてアナロジーを使い、自分の分野に話を引き寄せるのは上手いなと感じていて、知識がない人を煙に巻いたうえで自分の得意技を披露するのは、非常に参考になると思いました。
3つ目に研究分野であるHCI研究(と研究者コミュニティ)との不適合について書きたいと思います。これは研究室自体の問題というより、自分との相性の問題ですが、研究に着手できなかった大きな要因のひとつです。
そもそも、自分はどちらかというと、巨大で合ったり高性能であったりするものを着実に組み上げていくのが好きで、アイデア勝負だったり、プロトタイピングといった手法だったりが受け付けなかったというのがあります(同じような人のエントリ https://swimath2.hatenablog.com/entry/2018/07/30/205255)。
また、この研究分野は、一見役立たなさそうなおもちゃのようなものに、理屈をこねくり回して正当化させるのが多いように感じ(もちろんすべての研究がそうというわけではありません)、興ざめしてしまったのも要因の一つです。元々内向的な性格なのもあって、自我・意識などに興味があり、ならば「人に興味があるということであり、工学的なアプローチで人の研究をやれるのはこの分野だろう」という薄い理由で選んだのもあって、この不適合はモチベーションに意外と大きく関わりました。学部時代の成績は良い方で(必要な進振り点はそこそこの学科でしたが、コース内ではトップクラスと周りには言われていました)院試も第一希望で通りましたが、勉強ができるということが研究できるというわけではないという言葉を痛感しました。ただ、この研究室を選ばなければ、自分ももっと研究が出来ていたのではないかと思い、研究室の選択を毎日後悔しています。
それではなぜ、このような大きな問題点が数多く存在しながら、この研究室に進学してしまったのでしょうか?
第一に、自分の所属していた学科は、院試が卒論の研究室配属より前に存在し(実質4か月で卒論を書かないといけないのです)、自分の研究および研究室への適性がいまいちわからないまま、修士で進学する研究室を決めなければいけないという点が挙げられます。(一応研究室に配属されてプチ研究のようなことをするのですが、研究室生活とは程遠いので参考にするのは難しいです) それに加え、卒論の研究室と修論の研究室を別にするという慣習があり、卒論配属後合わないから冬入試を受けようというのも難しいです。
第二に、サークルの先輩(同じ研究室ではないです)にこの研究室を勧められたというのがあります。サークルの飲み会の時に、同じ分野で研究をしている先輩に、「この研究室はいいところだし、一期生として面倒を見てくれる」と勧められたというのがありました。当時は若く、盲目的に先輩の話を信じてしまいました。悪い噂が流れてこないなら大丈夫だろうと。それに先生の記事はネット上で見たこともあり、先生の研究も科学雑誌を通して知っていたこともありました。学科内でも新設の研究室に関わらず人気があり、これは安パイだろうと考えていました。今考えると人気・有名だから自分にとっていい環境だろうと考えるとは愚かなことです。(ちなみに、この先輩はD取得後うちの研究室の内定を蹴り、他の研究室のポストに就くそうです。)
第三に、一番重要ともいえる点ですが、上でも書いた通り自分の大学では新設の研究室で、情報が流れてこなかったというのがあります。今思えば前の大学のOBの方などに話を伺うなどをすればよかったとも思いますが、学部の勉強やサークルに追われていてそこまで気が回らなかったし、回っていたとしてもする余裕まであったかわかりません。しかしながら、新設の研究室に進学するというのは大きなリスクをはらんでいるということはもっとしっかりと自覚するべきでした。これを読んでいる方でもし新設の研究室に行くという人がいれば、もう一度自分の選択をよく考え直してほしいです。
ブラック研究室といえば、拘束時間が長いとか日常的な人格否定などがやり玉に挙げられやすいですが、最近では放置系ブラックなどという言葉も耳にする通り、劣悪な環境というのは色々な形で存在しています。また、他人にとっての良い環境が自分にとっても良いとは限りません。トルストイは著作に「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」(望月哲男訳、光文社古典新訳文庫)との言葉を残しています。研究室も一つの小さなコミュニティであり、同じことが言えるのではないでしょうか。これから研究室に配属される人には慎重に自分の進路を考えていただきたいと思います。このエントリを通して構成員がみんな幸せになるような運営に変わってくれると嬉しいです。
イエイヌはキュルルちゃんとのやり取りの中で、このおうちには「ずっと昔」何人ものヒトが居た、彼らと一緒遊んでいたと言っていた。ある日居なくなった彼らを待ってずっとお留守番していたんだと。かつての経験をなぞるように、フライングディスクを投げるさまを指示したり、紅茶をよく飲んでいた、とも言ったりした。俺は今期9話を観たとき、なるほど、イエイヌは飼い犬だったんだな、と読み取った。博士曰く、サンドスターを奪われてフレンズ化が解かれたら、再びフレンズ化しても、前にフレンズだった時の記憶は戻らない(といっても少々の例外はある。ミライさんとともにいる先代サーバルの声を聞いて涙したり、ともに旅したかばんちゃんの後ろ姿を思い出したり)。しかし、フレンズ化したときに、どうぶつ時代の記憶がどうなるのかは明言されていない。飼い犬が飼い主が去ったあとにフレンズ化して、むかしを回想しているのだと、勝手にそう考えていた。だがこれはミスリードだった! 飼い犬だったならあるべきは犬小屋で、人間の手の位置にドアノブがある部屋が自室のはずがない。そのようなドアはヒトか… フレンズのためのドアだ。だから結論は明白だ。イエイヌのフレンズはヒトと共に暮らしていた。「ずっと昔」と言ったが、カラカルもサーバルがかばんちゃんと旅していた時期を「むかし」と表現している。フレンズの言う「むかし」はせいぜい10年・20年というオーダーではないか。この伏線はパークに割と最近までヒトがいたことを意味している。
三代目ペパプ結成の後にヒトがパークに来ていたとすると、どうなる? イエイヌはかばんちゃんを知っていたが、ヒトと再び会ったのはキュルルちゃんが初めてだったようだ。キュルルちゃんがパークに現れたときイエイヌはただちに探偵を派遣した。ペパプ復活後にヒトがパークに来ていたとすると、彼女をイエイヌが捕捉しなかった理由はなんだ? そのときにはイエイヌの村にはまだヒトが居たのだ。満足していたなら更に求める理由はない。つまり三代目ペパプ結成 → パークへのヒトの来訪 → イエイヌの村からヒトが消える → 十数年経過? → 今、という順になる。しかしペパプ結成後に村からヒトが居なくなったとするのは無理がある。当時パークではかばんちゃん率いるセルリアンハンターが巨大セルリアンを退治するという事件があって、そのときに四神のサンドフィルター装置を修理したのだった。それでセルリアンの騒動は一旦は収束したはずである。ふたたび大型セルリアンが出るようになったのはかばんちゃんが助手の博士らと共に研究するようになった、最近のはずだ。イエイヌは飼い犬ではない。考えてみてほしい。一緒に暮らしていたヒト同様の知性を持つ家族であるべきフレンズを放置して、当の飼い主だけが逃げなければならないのはどれほど切羽詰まった状況だろう。セルリアン強襲以外に考えられるのはもうひとつ、”うみのごきげん”の悪化、すなわち海底火山の噴火だ。遊園地が水没するほどの大災害、逃げられる人数が限られてる、だから家族であるフレンズを置いていかざるを得ない。その判断は… かなりキツイが、ありえないとは言い切れない。しかし安心してほしい。この結論もおかしいからだ。リョコウバトは以前にもジャパリホテルに来たことがあると言っていた。パーク中あらゆるところを旅するリョコウバト。前回の来訪が最近であるはずがない。リョコウバトは言っていた。「これほど変わったホテルは他にない」。ジャパリホテルの変わっているところはもちろん、支配人のオオミミギツネが売りにしているように、水没した風景が美しいというところだ。すなわちリョコウバトが前回ジャパリホテルを訪れたときにはすでにホテルは水没していた。海底火山の大噴火は最近ではない。飼い主だったヒトが消える理由はなくなった。すなわち前提が間違っているということだ。ヒトはパークに来ていないのだ。
…しかしここで推理は頓挫してしまっていた。時系列がバラバラだがルート上に並んだ絵(写真?)。しかしヒトはパークに来ていない… これら矛盾して見える伏線を結びつけるラストはどのようなものなのか… 本当に可能なのか? わからない。だが信じろ、木村監督を信じろ。
そうやってウンウンうなりながら過ごしていた休日だった。前置きが長くなったが、俺が支持する仮説はこれである。「ラッキービーストのフレンズ説」。
キュルルちゃんはヒト、これが最初から仕組まれた罠だ。キュルルちゃんはガイドするラッキービーストに、ヒトとして認識されている。だがラッキーさん達は何を基準にヒトを判定するのか。前期でかばんちゃんも初見からヒト扱いだった。かばんちゃんとキュルルちゃんの見た目上の共通点はなにか。帽子である。羽をつけた帽子を画像認識して、ラッキービーストはパークの客だと判断するのではないか。赤と青の羽をつけたかばんちゃんを暫定パークガイドとして認定したシーンを思い出してほしい。イエイヌはヒトを求めたが、アルマーさんによるとかばんちゃんでは駄目だと言っていたらしい。かばんちゃんはフレンズを命令対象ではなく対等の存在として扱うからだ、というのは聞こえの良い理屈だが、しかし現状の助手の博士と助手の博士の助手の扱いはほぼほぼ従僕である。ジャパリパークは実際には厳しい世界だった。パークの掟の元で自律するフレンズ達は親切ではあるがエゴイスティックに振る舞うことがある。危険なビーストもいる。フレンズたちと渡り合い、パークの長を従わせるためにはある程度強い態度をとっていく必要があったのだろう。イエイヌとかばんちゃんの相性は良いように思われる。なぜかばんちゃんでは満足できないのか。かばんちゃんは自分が「ヒト」そのものではなく「ヒトのフレンズ」だと公言していると思う。だがキュルルちゃんの情報はイエイヌの耳にどのように届いたのかを考えていて気がついた。キュルルちゃん本人は自分がヒトだとは実は一度も宣言してない。最初にそういったのはカラカルだった、カラカルは推測でそう言った。ロバはそれを聞いていた。カルガモも。うわさはパークに広がりやがてイエイヌの耳に届いただろう。パークにヒトが現れた、と。
キュルルちゃんは「おうちを探すためでなく、フレンズが好きだから絵を描いている」と言ったが、スケッチブックに元から描かれていた絵には、しかし奇妙にフレンズの姿がない。キュルルちゃん本人は楽しそうにしているフレンズを描くのが画風である。ジャングルの絵の中のゴリラは背中を向けてさえいる。画風の違いは何が原因か。ラッキービーストは有事でない限りフレンズと積極的にはかかわらない。ヒトをガイドする仕事や配給、各種設備の保守管理以外には。「生態系の維持が原則だからね」は前期最終話のラッキーさんのセリフである。最初の旅路での荒野の絵はなんだかわからない残像だった。残像でぶれて映るのはシャッター速度の遅いカメラの特徴である。ラッキービーストは高速で接近するフレンズを察知するセンサー、レーダーのようなものを備えている。メインカメラの性能に頼る必要はない。
あるラッキービーストは持ち場を離れ、ふたたび旅を始めた。かつての任地、ジャパリホテルへ向かって。風車の写真を撮った、竹林で公園の写真を撮った、ジャングルでゴリラの写真を撮った。シッポを振って歩いていくゆっくりとした旅の間に、いろいろなことが起こった。過剰に放出されたサンドスターの影響で気候が変わり、パークの荒廃が進み、海底火山が噴火しホテルが沈む。ペパプが再起し、かばんちゃん達が旅に出る… ようやく桟橋にたどり着くも、ホテルは海水の向こうだ。ラッキービーストは足を滑らせ、海に投げ出される。やがて海底火山に至り… サンドスターの温かい光に包まれる。ラッキービーストの旅の写真はランダムに吸い上げられて、スケッチブックとして顕現した。
最初はVtuberという流行に乗っかってるだけの企画で「ジャニーズ事務所もこの先生のこるために大変だな」と思ってたけど、Vtuberや(Vtuberから話が変わるが)二次元アイドルの声優に関する疑念が割と解消されるのでは?と思った。
もはや中の人など気にせずに動画を楽しんでいるけれど、それでもどこか隠し事が常に付きまとってる感じは正直否めなかった。
別に声優を知ったところで余計に入れ込むことも無いし、むしろ声優や同声優が演じたキャラでいじる風潮(テラ子安とか別キャラの名前で呼ぶあれ)も嫌いだし、それに巻き込まれるくらいだったら未発表で構わないのだが、隠し方に対して気持ち悪さを感じる部分があった。
あとは未発表かつ最初から所属してた事務所が見えないところであの手この手使ってそうな疑念もあるし、それだったら先に所属事務所を発表してそこからデビューしてるVtuberの方が潔いので。
だからこれがジャニーズ事務所というのを伏せての企画でのちに判明したら滅茶苦茶悪口書いてただろうし、折に触れては恨み節呟いてたと思う。
Vtuberと離れる話になるが、声優がキャラクターとして歌とダンスを披露するライブが実は得意ではない。
ライブの感想で「キャラが目の前にいた!」というのを見かけるし公式もそのように推してくるが、個人的にはキャラを演じた声優としか目に映らないのでその辺りと温度差がある。
またゲームやアニメ内にラジオや生放送ネタを逆輸入するのも元ネタをそこまで見ないし聞かないので白けてしまうところがあるし、声を演じるのがメインの職業の人にバラエティ的な面白さを強要しているオタクを見ると辛く思ってしまう。
もし今後このジャニーズVtuberが曲をリリースしたりゲームアプリを発表することになり、かつVtuberとしてではなく生身としてライブに出なければならない時に、普段通りに歌って踊ってバラエティに対応すれば良いのだからその辺りの齟齬が解決するのではないかと思っている。
Vtuberなら普段の動きも声優本人がやってるが、ダンスや何かしら特殊な動きを披露するモーションとなるとさすがにダンサーがモーションをつける事になる。
またアイドルゲームやアイドルアニメの場合は確実にモーション班がいるが、どうしても「皆でキャラを作り上げている」のではなく「キャラというガワに何人もの人間が入れ替わり立ち代りしている」ように思えてしまう。着ぐるみを着回してるような感覚があるのだ。
それが先程も述べたように可能な限り一人に収束していって、キャラ=その役者そのものになるのは違和感がないのは良いと思う。
と、ここまで好意的に書いたが、見た限りあの素人っぽさは脱却しないと厳しいだろうし、事務所も流行りに乗っかるだけのスタンスなら一企画だけで終わってしまいそう。長期化を視野に入れ腰を据えてやるならVtuber界の刺激になるのでは。
あとやるなら新キャラを作り出すのではなく、本人自体を二次元にした方がよりキャラ=演者に対するズレが減るのでは?とは思った。
それなら本人がYouTuberになった方が早いかもしれんが、やはり二次元が好きな層、三次元アイドルが好きな層、声優が好きな層は相容れないと思うのでそこのうまい潤滑油になれたと思う。
どうしても言いたい
その人の回が若干不評で、界隈が荒れたんだよね
※どのくらい不評だったか?
https://www8.atwiki.jp/nicoliveanimesurvey/pages/1038.html
9話、10話が該当回
アニメってもちろん大勢で作るものだから、誰のせいとか言うのはお門違い、せいぜい責任があるとしたら会社・監督・プロデューサー・原作者くらい
そういう不文律の中ですら出てきたのが「この脚本家やばくね?」っていう話だった
もちろん誰の責任なんて言えないから、特にその回が好きな人とかは「アンチがなんか言ってるぞ!」とか言い出すし
ゾンサガ大好きすぎる人は、不満の矛先を見つけたとばかりに「脚本家が悪い」と難癖をつけて荒れた
何より面倒だったのが、その脚本家がけもフレ2の構成・脚本として内定してたんだ
それで「たつき信者が攻めてきた。けもフレ2が気に入らないから難癖つけてるんだ」とかそういうような言われ方して荒れた
ひどい、脚本がひどい
他の要素はまだ頑張ってるのに脚本がひどい
監督交代とかそういうのが全部吹っ飛ぶくらいに脚本がひどい、素人が作ったほうがマシ
30代のオッサンなんだけど、
いわゆる、大学院入試レベルの数学やら物理やらというのは、マアマアできる。
いわゆる、イプシロンデルタだの、一様収束だの、解析力学だの、熱力学だの。
そういうのは、一応理解できる。そのレベルまでは、割とサックリ行って、3か月くらいだった。
関数解析、多様体、リー代数。物理で言えば、シュレディンガー方程式、ソリトン。こういうやつらだ。
1900年前後の物理と数学、このあたりで一気にレベルが上がる。アインシュタインあたりね。ネーター定理とかの保存量とかが出てくるあたりがヤバイ。ポアソンカッコがヤバイ。数学と物理が抽象度を上げて一気に交じりだす。
1960年前後の数学となると、そっから更に難易度が上がる。レーザーとかが出来たせい(レーザーの光は量子力学の理屈からできた)で、実験系と理論系が相互に影響あたえあってるのがあるらしい(ちなみに、大抵の場合、実験系が圧勝らしい)。
実験系の話も、ギリギリ分かる程度だけど、理論系は鬼のように難しい。
ヤバイだろ。現代の人たちってどのレベルにいるんだろ。数学は流石にそんなにゴリゴリ進まないと思うけど(数学の年表みると、数年間隔は保っている)。理論物理はヤバそう。なんたって、実験系の物理のレベルがいまだに毎年レベルが上がり続けている。レンズとか光(レーザーの改善とか)とかがレベルアップし続けているから、新しい観測がドンドン生まれている(ノーベル物理学賞は光系の実験系やMRI系の波動への授与がかなり多い)。
いわゆる数学で食っている人も、「数学は小説と違うから、1日1ページでも理解できたらいい」とかそういう感じらしい。
どんだけ頭よくても、「記述の意味が分からない」時というのはあるらしい。
こんな事あるのかな。かなりビックリしている。
悔しい。
元ネタから組み立てるに、このネタにおける「ニュータウン」って言葉の意味は、「何らかの用途や利便性があり、街が開発され、そこに住む人々がその利便性に惹かれたというところから拡大して一定の性向を持つ」――つまりは結果論的に似た者同士が集う、という話ではなくて、そもそも最初から「似た性向を持つ同士の人々が一緒に過ごすと気持ちいい、外部社会のその性向排斥圧力に対して自衛力を得る」という意味なわけだよね。
ある種のゲーテッドコミュニティなわけで、そういう意味ではmixiもそうだしFacebookもそういう側面があるし、Twitterのタイムラインもそう。「つるみたい人でつるんでそれ以外の人はなるべく関わらんですごそう」だ。
前者の意味でのニュータウン、つまり「利便性に惹かれた住民は結果的に似たものだった」という意味で、はてなはまさにニュータウン(いまは村)だし、その意味で住民ははてな民なわけだけど、後者の意味のニュータウンを形成するにあたっては、はてな民って、軸になる主張が欠如してるんじゃないかな。ふわっとリベラル、ふわっと理系、ふわっとガジェット好き、ふわっと電子書籍好きみたいな感じ。とはいえそこからハズレた人も抱えているし、人生相談なんかも多いし、意識高い系もだんだん後退してきた。
現状、「はてな界隈」ってふわっとしてて、はてなBlogと増田とはてブの合流したクラウドっぽい運用がされていると感じるのだけれど、そのふわっとした感じって別に偶然じゃなくて、住む人々の中心的なテーマがふわっとしているからそれに呼応してふわっとしたコミュニティになっている/ふわっとしたコミュニティなので中心的なテーマが収束しないでふわっとしたままでいられるだと思うんだよ。
例えば、はてなの中心がフェミニズム!でコミュニケーションの過半数がフェミ話題だったとしたら、こういう運用体にはならなかったんじゃなかろうか。というか、耐えられないんじゃなかろうか?(運用の携帯も主義主張も両方が)
コレはもちろんフェミの問題ではなくてアンチフェミだろうが嫌韓だろうが全く変わりない。つまり、いまのこの運用体は強烈な主義主張をするのには向いていないし、そこに住まうはてな民はふわっとしていて先鋭的な主張運動を出来ないし好まないし、ゆえに今のはてな界隈以上の防衛強度を持つ「はてな民だけの街」なるものは求められてもいないし、そういう城塞都市みたいなものを仮に作ったとしても、はてな民はそこへ移住しない(なぜならふわっとした活動に向かないから)。
寄り道ながら触れてみると、それに最も近かったのが「意識高いライフハックやら自宅勤務を主張する一派がオンラインサロンを設立した」ってのが、元増田のいう「はてなニュータウン」にもっとも近いナニカだったと思う。でもそれって、見て分かる通り大多数のはてな民からはスルーされたしいま実際に後退しつつあるよね? はてな村奇譚も結局内輪向けの自虐であってそれ以上のものではなかった。つまりは「そういうこと」なんじゃないかな。
親の与えられる遺伝的能力(知能・運動神経)、教育資金、文化資本が多けりゃ多いほど子供が競争社会で有利になりやすいんだから、
ジェンダーフリーが進んで女子供養って一人前みたいな価値観がどっか行けば、男も下方婚しないほうに収束してくだろ
いまどき三角関数も因数分解もできねーような女に自分の子供育てさせたいか?
男女間の収入ギャップはまだあるにしろ、夫婦の知能格差はどんどん埋まってんじゃないの
つーか、自由恋愛そのものが優生思想の観点で導入され推奨されてきたんだもん、こうなるのが必定だよ
要するに競争原理だもん
あぶれた非モテがエリートカップルの子育てに税金絞られたくないってなら、ほーらマルクスは弱者の味方、家族解体論者になるんだよ