はてなキーワード: もつとは
私はさ中学生〜高校生あたりまでずっと「うちはお金ないんだ、貧乏なんだ」って思って暮らしてたんだよ。だって病院行くにも「あんたはほんま金かかるなあ」って文句言われるし塾行くにも編入するにもずっと金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金って言われて育てられたから。お金よりもまず娘の体調を心配して欲しいのに。だから私はもっとお腹を壊すのに。そんなにお金がかかるのが嫌ならなんで子供なんか産んだんだよってずっと思ってた。なのに妹がうちの家計についてなんて言ってたか知ってる?妹がが買ってもらおうとしていたものに対して「それお金かかるじゃん」って私が言ったらさ、「大丈夫、わたしお父さんとお母さんのこと信頼してるから!だって何でも買ってくれるもん🎶」だよ?
私だってわかってるよこの家が貧乏なんかじゃないことを。だってお父さんはいつも良い服着てるし子供のセーターを買う時には一直線にイーストボーイに行くし、お母さんは物価高に気づくのが私や世間よりずっと遅かったし、何より一馬力なのに物価高の今でも変わらぬ生活水準を維持できているし。平均以上、いやさらにそれ以上のお金がないことはないって気付いてた。ただ長女の私に余計なお金を遣うのが本当に嫌なだけなんだと。私は通信大学に入学が決まった時、「ああこれでまた『アンタは金がかかる』って言われなくて済む」って心底安堵した。それでもスクーリングの学費や交通費を申請するのは気が重くて、なんて言われるか怯えながら毎回お願いしてた。「アンタは金がかかる」って言われるたび、私は「アンタなんか要らないのに」って言われてる気持ちになるから。今年の冬、いつも自分で払ってる教科書代が、授業が重なって高額になってしまって、いつもお父さんが「教科書代は出してあげる」って言ってるのを信用して今回は出してもらえないか聞いたらさ、大きなため息ついて乞食扱いだよ?お金はあげる、それくらい自分で払え、父親と母親の板挟みで、信用したら裏切られて甘えようとしたら突き放されて。お金を貰える貰えないよりも、このやりとりが何よりもつらかった。
これが一貫して「子供にお金を遣うのが嫌な親」だったらまだ納得できたのに、妹にはポンポンお金遣ってるんだもん。そのうえ「アンタは金がかかる」と責めることもないし、「誰の金で生活してるんだ」と必要以上の罪悪感を抱かせることもしない、もちろん乞食扱いだって一切しない。ずるいと思わない?私なんか最初から要らなかったんだと思わない?私がいなくて妹だけだったら良かったのにっていつも思うの。
「遊びに行く時は毎度毎度お小遣い付き」「私がお金無くて友達と遊べないって相談した時は、『そういうこと言うと次から誘ってもらえなくなるよ?』って嬉しそうに言いのけたのに?それで私だけサイゼでお水飲んでたのに?」
「ルミネで可愛いブラジャー買ってもらえるんだ」「初めて下着を買った時、友達は生活必需品だからと親にお金を貰っていたから、私もと思って貰えるか聞いてみたら、大きなため息をついて『そんなお金ない』と言い放ったのに?」
「入学祝いのiPad」「私の入学祝いは自転車だったのに?しかも私の学割使えとか意味わかんない自分で買えよ」
「ジルスチュアートの財布」「電子辞書」「全身イーストボーイ」「switchもスマホもiPadも全部全部やり放題」私と妹との扱いの差は枚挙にいとまがない。
私のコンプレックスの根源は「両親に愛されたい」という強い気持ちが満たされないことにある。小学生の頃の私にとって、お母さんはいつも機嫌が悪い人で、父親は機嫌を損ねると大きな体と声と方言で怒鳴り出す人だった。しかもキレるポイントが理解不能。
中学生の私にとって、両親は私を支配しようとする人たちだった。思い通りにならないから縛りを強くして、私はそれが耐えられなくて反発しての繰り返し。スマホを没収するための金庫を買ったのを見た時は、心の底からゾッとした。私を支配することに夢中で、私との戦いに勝たなきゃとムキになってるんだ、もうこの人たちには話なんか通じないんだと恐怖した。当然私の意見なんか聞いてくれなかった。中1の中間テスト期間に、数学のワークが終わっていないからと部屋に軟禁されて、足を組んで座ったお父さんがゲームしながら真後ろで私を監視していたあの日から、私の心はおかしくなった。
高校の時のことはもうあんまり思い出したくないし、脳が思い出さないようにしてるのかもうあんまり覚えてない。ただ、高3の時はお父さんの姿を見るだけで、頭が真っ白になって、全身の震えと涙が止まらなかった。本当。自分の体がいつも通り制御できなかったのは初めてだった。私は過食嘔吐になって1年間食べたものをずっと吐いてたけど、お父さんとお母さんには見て見ぬ振りをされた。
中学の友人にも、高校の友人にも、成人してから「あなたの親はちょっとおかしかったよ」って言われた。おかしいと思ってたのは私だけじゃなかったんだと思ってホッとした(もちろん、普通以上の暮らしをさせて、たくさんお金を出してやってるのに、とかそういう話ではないことをわかって欲しい。ここに書いてあるのは全て、『普通以上の環境と金銭を与えられたのに、どうして娘が心を病んだ出来損ないになってしまったのか』その理由だから)。
もう一つ付け加えると、「誰の金で暮らしてると思ってるんだ」って言われたことがあるって言ったら、それも友達にドン引きされた。昔の話だって言うのもわかるけど、もうとっくに大人だった2人にとっての10年前の発言なんて、覚えてないしそんなつもりもなかったんだろう。だけど、まだ心の柔らかい子供だった私にとっては、一度言われたことでもこうやって心の中心に根を張って残ってる。そんなこと今更言われたってじゃあどうして欲しいんだって言うんだろうな。ここまで読んできてまだそんなことを思うのであれば、この長い訴えはひとつも届いていないんだろうなって私が悲しくなるだけだよ。私はただお父さんとお母さんに私の話を聞いて欲しかっただけだった。
私は両親の機嫌をうかがって怯えながら暮らす方法なんて覚えたくなかった。なのに妹にはそれが許されてる。人生で一番辛かったのは不登校の時、二番目は過食嘔吐に苦しんでた時、三番目が、妹と自分の存在価値の差を見せつけられてる今。過食嘔吐はストレスの発散も兼ねていたけど、今は道具がないからもう吐けなくて、それに過食嘔吐は本当に辛かったからもう二度と吐きたくない。カショオができない今この家のリビングにいると排気ガスみたいな異臭がするようになった。耳鼻科では何の異常もなくて、ああ私はこの家にいちゃいけない存在だからこんな酷い異臭がするんだなと思った。過食嘔吐に戻りたいと思ったのは完治して以来初めてだった。
結局は家族なんて血が繋がってるだけで、個々の自我を持つ他人の集合でしかないのは事実だ。それに加えて昔からお父さんとお母さんは、保護者と子供の関係を一方的な支配による繋がりとみなしている面がかなり強かった。だから思い通りにならない子供を縛るし、対等な話し合いの場に降りるなんてあり得ない。話を聞いて欲しいなら同じ土俵にまで上がってこい、あ、ただしお前は誰の金で生きてるのか考えろよ?って。「親に逆らうな」「馬鹿にしやがって」「口答えするな」、今思うと私はあなたたちの幼少期の復讐の道具にされていただけだった。父親は祖父にファミコンを壊された恨みを私にぶつけて電子機器を隠して回った。母親は私のことを”理不尽な目に遭っても私たち長女だから仕方ないよね“仲間だと思っているけれど、私はあなたの娘であなたから愛情を貰うべき存在だ。私はあなたたちの人間的成長の犠牲になったというのか。
家族の関係が改善したのはお父さんとお母さんが支配を諦めたのと、私がお父さんとお母さんに愛されることを諦めたから。2人はそれぞれの人生をもつ人間だけど、私にとっては替えようのないたった2人の保護者だったのに。私の7年続いた反抗期は全部「私自身を見て」「私の話を聞いて」「私に興味を示して」「私を心配して」「私の存在を許して」「私のそのままを愛してくれ」ってSOSだったのに、私が大人になって全部諦めることで終わりを迎えた。とても虚しい。期待したって意味ないことに気づいたのだってお父さんもお母さんもただの血が繋がってるだけの他人であって、いくら私が望んだって他人を変えることはできないと知っているから。
私はお父さんのことがお母さんのことが大好き。大好きだから私ばっかり期待して、期待以上のものが何も返ってこなくて落ち込んでる。私はお父さんとお母さんのことが大好きなのに、お父さんとお母さんは私が心療内科で何の治療をしているか知ろうとしないし、過食嘔吐を知らぬ存ぜぬする割に嫌味だけは言いにくるし、そもそも私がPMDDで数年間悩み続けてコツコツ治療をしていることさえ1ミリも興味がない。どうにか興味を持ってもらいたい私が1人でペラペラ喋ってるだけ。妹と扱いが違う!と訴えても仕方ないってヘラヘラするだけ。ひとこと、やりすぎだったね、ごめんねって言ってくれるだけで多少は救われるのに。私の気持ちなんて考えたこともないんだろう。
私は妹のことが大好き。一人っ子だったらもっとお金出すことに文句言われなかっただろうなって思うことは何百回もあったけど、それでも妹がいない生活なんて考えられない。たった1人の妹。妹が自分と同じ思いをしないように私なりに頑張ってきた。不登校の妹が「もう死にたい」と泣いた時は抱きしめて2人でわんわん泣いた。そんな悲しいこと言わないでって泣きながら、頭の片隅で私が死にたいって言った時親はなんて言ってたっけって思い出してた。ただただ困惑されて、腫れ物扱いに拍車がかかったのを覚えてる。
私はブラジャー代貰えなかったから妹には入学前に持たせてあげなきゃって思って「買ってあげたら?」って言ったら本当に買うからびっくりした。じゃあ私は?なんで?そんなお金ないって言ってたのに?
自分がして欲しかったことを妹に施すことで救われる自分と、より深く傷つく自分がいて、私は1人でどんどん気持ちを病んでいった。私は失敗作で実験体だと思った。3月からリビングはずっと異臭がしてた。これを書いている今もする。
妹の図々しさとか末っ子振る舞いにはイライラすることがある。それでも私も姉のはしくれだからか、顔を見ると全部許してしまう。私は妹がいなければ良かったなんて思ったことは一度もない。妹がいなかったとしてもその分の愛情が私に注がれることはない。私は可愛い娘じゃないから。いつもいつもいつもいつも「私が要らなかったんだ」と思う。「妹だけでよかったじゃん」って思ってる。
私はもう次に進みたい。もともと持っていたPMDDの治療もかなり良いところまで来ていて、ホルモン由来の不安定からはだいぶ抜け出せた。それでもいつも自分なんか要らないんだと泣いていて、そのきっかけは全部全部家のこと。親のこと妹のこと家族のことでしょっちゅう傷ついて、過食と無茶な生活で自分を痛めつける生活から抜け出したい。お父さんとお母さんと離れてもう何も期待しないで済む距離を保ちたい。許されている妹と許されない自分を比べたくない。家から出て一人暮らしがしたい。ここから一人暮らしについて相談する予定だったけど、親の顔を見るととてもじゃないけど自分の気持ちを話す勇気なんてもうとっくに枯れてしまっていて声が出せなかった。きっと両親は本当に何も考えていないだけなんだと思う。私の腐った心はもう元には戻らないのに。どうせ話したって何も聞いてもらえないのが身に染みてる。どこにも出すあてがなくなった日記の供養でした。私の両親、やっぱりちょっとおかしいよ。
数週間前からベッドに沈み込んで何もできなくなったり無理やり食べて吐いたりぼーっとしてたりと散々だったので、鬱だ!!!!!!!!と思い叫びながらメンクリに駆け込んだら案の定躁鬱とADHDだった。なんなら「その状態でよく今まで過ごしてきましたね」まで言われた。診察時はぼーっとしながら元気がない声で「あぁ……はい……」とか返しちゃったけど今考えたらうるせえな。それにしてもついに診断がついてしまった。えーん……初診料5200円とADHD検査料2000円で7200円。薬代で約1000円。高い。困った。人に「すみません!メンクリに行ったのでお金をいただけませんか?!」という訳にはいかないので、どうにか工面します。とほほ。ADHDの簡易検査、ほぼ当てはまってて一瞬私の悪口が羅列されてるのかと思った。
メンクリ行った帰りに実習の準備のための勉強をして、バイト(新人3人と私と店長)で廻しコマのように働くの、やっぱりなんか歪なバランスボールの上に立って生活している感じがして気持ちが悪い。幼少期の努力が悪い方に働いている。
だが、そうであっても後進が羽ばたく機会を摘み取らぬためにそっと身を引く態度を取ってほしい。
これが誰かと競うスポーツなら、その時代の頂点が手を抜くべきではない。
羽生善治や渡辺明が手を抜いて藤井聡太を勝たせてやっても意味がない。
そういったものでありながら、あえて賞を競うということは、名を知らしめる好機を作り出そうという業界の意識あってのものだろう。
だが、まだ無名な新人が描いた傑作がその名を広めるには実に長い時間がかかる。
突拍子もないような作品、たとえばドカ食い望月のようなセンセーショナル性に特化した作品であれば一晩で名が広まることもある。
そうでない作品、少しずつ積み上げていく作品は、こういった賞を通してでなければ得られるべき称賛を失ってしまうリスクさえ抱えている。
例えばハンターハンターのパロディとか呪術廻戦のパロディとか、創作物ですらないコンテンツ
そんなの有り難がってるのは編集部とか権威のある作家先生とか文芸オタクたちだけ
そんな方向で先鋭化していっても誰もついてきてない
三沢さん本人か三沢さんに興味あるという人だけが読んでくれれば満足です。
これが一番の進歩であり収穫であって
一般的な「文章を読めない人」と比べても更に何かがあるように見えます。
私ははてブ民の誤読なら大抵は何をどう誤読してるか秒でわかりますが
そちらの思考が長くなるため本の内容の受け取り方が歪む。
草薙さんの癖の強い経歴を見てください。
彼はいわばブラックジャック(医師会に属さない医師)のような僧侶です。
それで本が何十万部も売れるのだから作家の才能は保証つきですが
彼の本が身になる人って案外少ないのではないかと私は感じています。
彼が添加する具体性は常に、
仏教を理解させるより「身近に感じさせる」ことに重点を感じます。
いちいち冗長な具体性を与えて透明な抽象性を損ねているように思えます。
草薙さんと三沢さん2人の出会いが相性抜群で最悪だと感じるのは
教師の草薙さんは仏教を紹介する本にかなり自己流の工夫を入れる人で、
生徒の三沢さんは人の話の途中の浅瀬で自己流解釈を始める人です。
草薙龍瞬さんが提供する仏教は既にスパゲッティナポリタンになってる感じ。
三沢さんはそれを舐めて「このケチャップの僕流アレンジ」を考えている。
三沢さんが草薙龍瞬さんの本から得た「仏教」はお釈迦様のアイデアとは別ものです。
現に三沢さんの欠点・苦しみの元が少しも治っていないですよね。
せめてこの端緒にでもついていれば、三沢さんの病的な「自分自分自分自分」という文の(思考の)癖に変化の兆しぐらいは生じているはずです。
https://note.com/tm2501/n/n1c20fe51d4ec
現に三沢さんにそのような変化が見られないので、
草薙さんか三沢さんか少なくとも片方に重大なエラーが発生していると思います。
(たぶん共鳴し合っている気がするのですが)
三沢さんは執着せず眺めて手放すということが出来ていません。
「ん、これはアンタッチャブル」とか考えていたら出来ないですよね。
(私は草薙さんの「ジャッジメント」ですらなんだかなと感じましたが
三沢さんはそれをさらに俺流に「アンタッチャブル」に変えました。
二人ともなぜこんなことするんですかね。
草薙龍瞬さんの紹介と三沢さんの読解のタッグが仏法を損ないました。
二人とも勝手なアレンジを入れることの弊害への警戒心がなさすぎるように思います。
それをやると劣化コピーではなく根本的に機能を損ねることがあります。
というか私は草薙龍瞬さんの本はサンプルだけ見て閉じたきりでしたが、
今回三沢さんへの影響を確認するうえでアンリミテッドで読みました。
「反応しない練習」。
読んでいるだけでどんどん頭が悪くなるような感覚がありました。
知識の収集癖、羅列癖、過剰で無益な具体性、支離滅裂、あと鍵かっこが多すぎ。
書き手が実践して身についた知識について語っている感じがあんまりしない。
これ本当に三沢さんと同じ型の人ではないですか?
私はこのがちゃがちゃな本から読者が自分のためになるエッセンスを掴み取れる気がしません。
凄く売れた本らしいですが、買った人達はちゃんと読んだのでしょうか?
草薙龍瞬さんはプロの作家でお坊さんですから偉そうな意見は言えませんが、
三沢さんは34歳ニートなので多少の助言はしても良いと思います。
三沢さんは「有能な人っぽく振る舞うこと」に神経を使いすぎです。
三沢さんて「有能な凄い人にならなければ自分の願いはかなわない」と思い込んでいませんか。
全然そんなことはありません。
能力的に凡人でも凡人以下でも願いをかなえて生きている人は沢山います。
三沢さんの大言壮語や意識高そうな口調はただの自己否定や現実逃避に見えます。
凡人だと生きていけないという強迫観念があるためではないですか。
三沢さんは普通でないくらいに自信がない人で、しかも自信欠如への対応がおかしい。
「自分と乖離した凄い人の虚像を作って身にまとう」という対処のせいで
実像とのギャップが生じてますます苦しみと自信喪失のループに陥っていますよね。
たまに三沢さんの文を見かけるだけの人間でもそういうことを濃厚に感じます。
俗世間の熾烈な競争に負けない「凄い人」になる必要があったかもしれません。
しかし34歳にもなればそんなものを追い求める虚しさは感じられているでしょう。
四国に住んで創作活動人生を送るという願いは素敵だと思います。
叶うと思います。
ただ、その願いの実現ためにまず「凄い人」になる必要があると考えていると
10年後も同じ部屋に住んでると思います。
三沢さんが「凄い人」になろうとする必要性や焦燥は何のためにありますか?
そういう「凄い人」になるための焦りの所産と言うか
人と違うバリューを出すんだという間違った取り組みに見えます。
本を読んでるあいだずっと「面白い独自の感想を言わなければ」とか考えていますよね?
これは大きな間違いで、
本をただきちんと読めて書いてあることを受け取れるなら
高学歴なはてなブックマークの人達だって新聞記事すら読めていないでしょう?
ひときわ壊滅的な集中力しかない三沢さんも苦しみの構造自体は同じです。
三沢さんが人並以上に集中力が欠損しているのも、頭があんまり良くないのも、(本当はなんらかの自覚はある筈です)
本の内容と一体化すべき時にいちいち自分自分をやっていれば本など読めるわけがありません。
おそらく「批判的に読書をする」のようなアイデアをまた草薙さんのようなアレンジをする人から受け取って、
ものごとを正しく見て正しく知ることができ、
というのが仏教です。
三沢さん好みの具体的過ぎる話をするなら
何と言うこともなくすらすらと内容が頭に入ります。
概念を手放していくというのはたぶん三沢さんの溜め込んだメソッドと正反対でしょう。
だから三沢さんが本当に仏教と出会えばじわじわと別人になってしまうはずです。
でもそうならないのはおそらく草薙さんと三沢さんの自我のせいです。
何と出会ったって自分の概念九龍城へ組み込むパーツとしてしか見てないために
まとめると
「自分は有能な凄い人だ」という妄想概念をくみ上げて常にそれを体の周りに装着しています。
このために何を見ても何を聞いても何を読んでもその妄想を通しているために情報が壊れてしまう。
これが自我です。
人の話を聞いてるときに、相手が何を言っているかも何を感じているかもわかりにくくないですか。
もしそうならそれは自我がずーっと邪魔をしていて心が目の前の情報を取れないためです。
全人類がこの病気ではあるけど三沢さんは少し程度が強いのではという印象です。
仏教にはこのガスを取り払うための実践的で研ぎ澄まされたメソッドがありますが
草薙龍瞬さんの本を読むとそういうことまで辿り着けないと思うし
三沢さんは「特別な自分」「オリジナルな自分」について考えこむことが自分の強みであり突破口だと思っていそうですが
そこが一番の間違いであることは仏教なら本当は30分でわかります。
本を読むのにも文をバズらせることにもそんなこと考える必要は一切ないです。
四国へ行きたいならまずその自我妄想と別れを告げることだと思う。
ところでお坊さんを軽々に否定したりしちゃいけないという道徳が自分の中にあるんですが
でも草薙龍瞬さんの本はなんか…。デタラメを言っているとかでもないからなんとも言えないんですが。
自分自身で考えない人に対して、イライラしたり、理解できないと感じるのは当然です。しかし、彼らの背景や心理を理解し、適切なコミュニケーションを図ることで、より良い関係を築くことが可能です。
顔射は失明の危険があるのでやめよう、という眼科医さんの話をSNSで見て。本当に本当に本当にAVの手法を鵜呑みにする男滅びてほしい。ついでにそれを受け入れる女も滅んでほしい。次の女が迷惑するんだよ。
セッなんて他人に見せるもんでもないから、男も女も「こんなもんなのかな…」って学習する教科書が狂っとる。
以前見た海外ドラマで、男親が「アイツは俺の娘にあんなひどいことを…口淫をさせたんだ!」っつって相手の男を殺すシーンがあって、日本の男殺されまくりじゃん…って思った。国によって標準は違うのは当然だけど、「生理でしんどくてえっちできないなら口でして」みたいなこと言うやつ自分の感覚に疑問もたんの?
となると、AVの内容を穏当なものばかりにするという手があるが、それもつまらんよね。
なのでここはね、我々女が、男の尿道に異物をつめこんで男が大喜びするシーンが頻繁に出てくる映像を作ってですね、それを鵜呑みにしていくしかないと思うんですよね。つめこんでこ!尿道に異物をつめこんだら男は喜ぶよ!一部の好事家以外の男性は「ヒェ…」「AVを鵜呑みにしちゃいけないよ!」って言うかもしれんけど、表現の自由だから…。
そもそもメジャーの場に出てくるなら顔を晒す覚悟くらいは必要でしょと思っていたからだ。
シンガーソングライターなどで顔を出さないタイプのミュージシャンもいるが、そういう種類の人でもないだろうとも思っていた。
ネット上では歌ってみたで済むけどたくさんの大人とお金が動く世界では本人だけの都合ではなかなか通らなくなる。
そこをわがままするなら例えば「自分で曲作ってるし」とかの武器を自分で持ってないといけないと思うのだ。
結局Adoの場合は「顔は出したくない」けど「メディアへの露出は求められてる」の板挟みからの折衷案みたいな感じで「檻の中で歌う影」となった。
Ado本人もなんかかわいそうに見えたし、演出としてもそこになんのコンセプトも感じなかったからだ。
ライブの場合はファンはそれでも生で歌が聞けるという楽しみができるので、一切露出しないよりはずっといいのだろうけど
同時にファン心理としていつまでも姿は見えない状態はストレスがたまっていくんじゃないかという勝手な不安も感じた。
しかし自分の中でそのネガティブな印象が変わっていくきっかけになりそうな2ndアルバムの宣伝イベントがAdo本人のアカウントで発信された。
詳しくはXの投稿を見ればわかるがなんと「握手会」をするというのだ。
投稿には丁寧に握手会がどのように行われるかのイラストも載っていた。
それをみると大きな箱の中にAdoが入っていて、箱に空いた穴から手だけ出してる。
さすがに笑った。
これはなかなか痛快だ。
穿った見方をすればもう開き直りのような、(良い意味での)バカバカしさがある。
正論で言うなら、
そもそも存在感が希薄(思い浮かべる顔すらない)なのに中身が確認できない相手にはたして握手してもらって嬉しいのか?
などいくらでもつっこみどころはある。というかつっこみどころしかない。そこが良い。
今までなんかモヤっとするとこがあったけど、これに関してはなんか吹っ切れてていい。
タイプはまったく違うんだけどSIAはコンセプチャルな顔の隠し方をしている。
それは本人が顔出ししたくないとかいうより、ビジュアル面での個性の出し方って感じだとは思うんだが(一種のコスプレみたいな感じ)
Adoの場合も「顔を出さないアイデンティティ」みたいなのを思いっきり振りかぶっていけば、一種それがもうネタ化して面白がれる域までいくんだろうなと思った。
自分は別にファンでもなんでもないけど、ネットをルーツに持つ人達頑張れと思ってるとこがあるんで、Adoの事も時々チェックしていた。
そしてこういう軽やかなスタンスでの活動を見ると嬉しい気持ちになる。
あのグロテスクなTV演出とは全然違って見えた。やっぱり逆手に取るというのはクールだ。
まあこんな事言って後々「あの握手会、ほんとはすごくやりたくなかったです」とかAdoの口から出てきたりしたら悲しいが。
でもなんとなくAdo本人も自分の事をネタっぽく俯瞰で見ながら、自分のやりやすいやり方でやっていくんじゃないかって感心した。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yomiuri.co.jp/election/tochijisen/20240620-OYT1T50179/
この記事についているコメントがアホすぎてアホすぎて驚くんだが、ブクマカってまじでこれ書いてるの?
曰く「選挙制度が政権放送と選挙ポスターという無法地帯を提供し地獄のような民度を可視化する装置として機能する事に」
「ネットのノリは現実社会では通用しないとか、色々と学んでください」
いやあのね、戦中に「戦争反対」って選挙で言った人いたらどんな言葉がかけられたのか想像してみな?
ここでアホなコメントしているお前らが戦中にいたら
「良識を疑う」とか「地獄のような民度」とか候補者に言ったんだろうよ
「自分の街に戦争反対などと寝言ほざいたポスターがはられても文句言わねえのか」とほざいたろうよ
その時代にネットはないけどな!同じような強い言葉で批判したんだろうよ!
日本は戦争で何を学んだか、なぜ日本は他の先進国より表現の自由を広く守ることにしたのか。
日本の主権をもつ国民が愚かでアホでバカだから、後から顧みれば当たり前のことを
「良識」とか「大多数の人が感じる不快感」で叩いて批判してキャンセルするから、それを守るための表現の自由であり国が保護するんだろうが
これを書くと ひょうげんのじゆうは国の規制から民間人をまもるためのものですぅううううと言うやつおるが
衣食住にそこまで困らず命を脅かされる危険がなく、誰かに必要とされていて、つらくない仕事を持っているっていうこの三つが満たされれば
・衣食住
多くの場合働いているから「目先は」衣食住にそこまで困らないだろう
ただ将来となるとわからん
今の福祉財政が続くとは思えないし、多くの場合結婚してないから子供に面倒を見てもらう、もできない
この点で不安は大きいだろう
生まれてこの方友が違いないようなガチ陰キャだけでなく、学生時代は普通に友達がいるような男性でも、その友達が結婚すると付き合いが希薄になるっていうやつね
そしてそのうえで「独身中年男性」なんて何もしてなくても(何もしてないからだという厳しい意見もある)警戒される、疎外されるもんなんで
・つらくない仕事
多くの場合、つらい仕事をしてやっと生活できるレベルなのが弱者男性(中には例外もいるが)
「そんなつらい仕事をするしかないのは学生時代に頑張らなかった自己責任だ」で片付けることもできるけどね
増田は「男でもつらくない仕事で稼げるように」といいているが、果たして世の中はそう流れていくだろうか
曲がりなりにもインテリと呼ばれる人が「非モテなだけか」で済ませようとしてるのに
年金制度を廃止して、65歳以上限定の月10万のベーシックインカムにしたら財政はもつらしいな。
月20万の年金でも2000万たらないとか言ってる連中は10万になったら大変だろうけど、おれは年金が6万だから大歓迎だわ。
でも「処女マリア」ってエグすぎだろ。お古じゃだめか。男性目線やな。
「広末涼子」
「いや、特には」
風俗で1万円払うと、若くて可愛い女の子が、裸でサービスしてくれる。
裸でサービスが全てではないけれど、
「えー、私全然可愛くないですよー。全然もてないし。可愛かったら雑誌の表紙に出てますって。
まあ可愛いとは言われるけど、言われるだけ。スカウトとかされたことないし。
お金持ちのイケメンが私を取り合ったりしないと可愛くても意味がない。なるほどー。
私を可愛いと言ってくれるお兄さんはどうしてくれるんですか?
お気にになりました。
可愛くてもつまんないとか頭悪い女の子もいて、要領悪いとか、可愛いだけじゃなかった。
私もかっこいい男がつまらない女と遊んでると「なんで?」と思う。せめて釣り合う相手にしてよとか。
「私、今度結婚するんですけど、結婚してからも同じようにつきあってほしいんです」
結婚してからも年に1回~2回会って、お茶してからホテルでせっくすした。
3年が過ぎた頃、一緒にお風呂に入ってる時に、「こんな関係のままじゃいけないと思うんです」と言われた。
「結婚してて、でもこうして会ってること?」「はい」。彼女は体操座りしてた。
もう会えないのかと思って、思いっきりせっくすしてみた。ああん、激しいと言われたり。
服を着て「もう会わないようにするんですか?」「増田さんはどうしたいんですか?」
「会いたい。もっと会いたいかも」「私もですよ」。抱き合ってまた服を脱いでしまった。
数学というのは草むらをかき分けたらダンゴムシがいるかのように、我々の今暮らしている世界をつきつめるとおのずと数学が現れるみたいなことだと思っていた。
だから数学の問題を解くときに現実の世界から発見を得るかのように頑張って解いていた。それで微分方程式で完璧に進めなくなった。
あれって「この式はこの解き方で解けそうだからあてはめてやってみて解けたらそのままいくけどそうじゃないなら撤退して別の解き方を当てはめて~」みたいなやりかたするじゃん。納得がいかなかった。
違うんだよなー。数学をそれは誤解してんだよなー。
数学はカードゲーム発明して遊ぶようなもんなんだ。まず1種類のルール作ってみて、そっからすごくプレイが発展させられるのおもしろい、みてみて1ターンキルコンボできた!みたいなやつなんだ。
そこでだよ、ゼロで割るの大抵の数学で「やっちゃいけない」とか「定義しない」とかする。
なんでかっていうとそれ許すと何もかもつまんない発展しかさせられないルールにしかなんないんだよね。
つまり18÷0がゼロですって教えた先生は「せんせー、じゃあそうすると1+1は2でありつつもゼロでもあることにできます!」みたいな証明を持ち込まれてキレない度量持ってないといけないんだよ。
X(旧Twitter)で、4℃やサイゼと共に定期的に炎上するものとして有名なのがそうめんである
そうめんが炎上する理由は二つあって、トップバリュ系のいわゆる干しそうめんや機械そうめんというやつがまずいって話と、そうめんが手抜き料理になるかどうかっていう話だと思う。
で、この日記ではそうめんが手抜きにならないって話をさせてくれ
『手抜きにならないのはお前がややこしく作ってるからだろ?』っていう意見は一旦置いといてくれ。
だから「夜ご飯はそうめんでいいよ」っていうのは、「夜ご飯はご飯でいいよ」って言われてるのと本質的に変わりねえんだよ。
そして家の台所を預かっている身となって考えてみて欲しい。
バターを塗った食パン、素ラーメン、かけうどん、塩ライス のみ
(ただし、そばは栄養価が高いからこの場合はちょっと違う。全粒粉のパンとか玄米ご飯に相当するから若干はマシ)
というわけで、野菜やタンパク質を他に食わせなきゃいけないわけなんだけど
それが答えよ。
ネギかけるだろ?とか言うなよ。そんなもん彩りだけで一食分の栄養になんかなるわけねえだろ。
そうめんは白ご飯と同じような立ち位置のくせにおかずが極端に少ない。だからココでまず苦労を強いられるわけだ。
天ぷら揚げるためにコンロを使うだろ?
そうするとそうめんを茹でるお湯を沸かすために、すでに一口ふさがってるわけだ
もしめんつゆのストックがなかった場合はそっちも作らなきゃいけないから、さらにもう一口埋まる
(わざわざ出汁取らなくてもいいだろうって思うかもしれないけれど、顆粒だしを使った場合でも醤油の角を取ったり、酒やみりんを入れる場合があるから、どのみち一度は沸騰させないといけない)
これが暑い時にそうめんを茹でるのが辛いっていう言葉の理由になる部分だな。
これが仮にメインが炊いたご飯だとすると、それは炊飯器がやってくれるからガスコンロが二口埋まるなんていう事態は避けられるわけだ。
どうだわかったか?
いつもだったら炊飯器がやってくれる作業まで手作業を強いられるんだよ
おまいらが昼に一人で食うそうめんだけのそうめんとは同じにはできねえんだわ。
さらにむかつくのが例の「そうめんなんて塩を入れて茹でるだけだろ」
発言。
基本のきである、そうめんのゆで方すら知らないヤツがここまでの苦労を想像なんかできるわけないんだよ。
その流れで、そういうガキンチョのためにそうめんというのはこうやって茹でるんだよ(笑)って懇切丁寧に説明してくれたのが今回炎上のきっかけになったポストってコトよ。
ここでさらに説明するとそうめんを美味しくするポイントは2つあって、アルファ化とレジスタントスターチだ。
アルファ化っていうのはでんぷんを十分に加熱した時に変化するもののことだ。
この十分に加熱するっていうのがポイントで、火を入れ続けないといけないんだ
つまり一時流行った火を止めて蓋をしてそのまま放置する系の茹で方とか、びっくり水を入れる方式だと熱が十分に加わってないから、歯ごたえがあるとはいえ、それはアルファ化していない生の麺をそのまま食ってるだけの状態になる。
歯ごたえはあるんだけれども、ボソボソしてるから美味しくないんだよね。
それで麺を入れたら煮立たせる。そして沸騰状態を維持しつつ、吹き溢れないようにする。この約2分間はほとんど目が離せないってわけだ。
これは単純に冷やせばいい
と言うか冷やしまくらないといけない
この作業によって麺に歯ごたえが生まれるから、十分に冷やせてないと、ふにゃふにゃのよくわからんものを食っている状態になってしまう。
作業量としては、まずそうめんから流れ出たでんぷんを水洗いして、さらに氷水で閉める。この2段階が必要になる。
だから最初から氷を用意しといてぶっこめばいいとか、そういう単純な問題でもないし、水道の水だけで洗うと十分にレジスタントスターチが生成されないっていう場合も起こり得る。
料理しない人にはちょっとショッキングな話かもしれないんだけれど
この作業って美味しくするっていうよりはまずいそうめんを食わないために最低限必要な作業なんだよね
だからお前が無意味に作業工程増やしてるだけだろって言われると、
少しでも料理をかじったことがある人からしたらブチギレ案件なわけよ
(この場合のかじるっていうのは生きるために仕方なくする料理じゃなくて、趣味だったり、研究したり、そういうかじったことがあるっていう分類ね)
ちなみにこういう原理をきちんと理解していれば、前述のいわゆるトップバリュそうめんでも普通に(少なくとも俺は美味しく)食べることができる仕上がりにすることができる。
逆に言うとトップバリュそうめんをいきなりまずいって言ったり、ボソボソするとかふにゃふにゃするとかいうやつは
で、メインがお米だったらこんなことする必要なくて、炊飯器から茶碗によそったら終わりなんだよ
お前らの中でもし料理ができないやつがここまで読んでくれたのであれば、
作ってくれる人にしっかり感謝して、
「今夜はそうめんが食べたいです」って言えよ。
あと話ちょっと戻るけれど、たんぱく質としてはツナマヨなんかおすすめ。
冷しゃぶの人なんで消しちゃったん?
また長いので要約すると
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前記事でコロンブス問題について取り上げた際、現地の当事者目線を強調し、説得力のある解釈に直面した。Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題や感謝祭に関する記事では、先住民視点の重要性を感じさせられたが、ファクトチェックが難しく、一部は陰謀論のように感じられる部分もあった。特に感謝祭の起源に関する記述には疑念が残る。感謝祭はアメリカの文化・経済に深く根付いており、その負の歴史を直視することは容易でない。感謝祭をやめることは難しいが、少なくとも先住民の立場を認識する必要がある。フランスの植民地主義も同様に、進歩的な価値観と結びついており、正義の名のもとに歴史を再評価する動きに対する警戒が求められる。正しさのもつ危険性を認識し、多様な視点を大切にするべきだと感じた。
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慎重な立場で検証すべきという姿勢には同意するけど、結局「現地民を類人猿として描いている」ように見える時点でアウトに違いないので、それ以降はキャンセル側も批判側も重箱の隅をつついているだけなのではないのかね。
「知性的な判断とは、できるだけ詳細な知識による理解に基づくべきだ」「そのための学習と、当人による体験を重視すべきだ」という点は見習うべきだと思った。
おっさんが女ウケの美容のコスパなんて俺に講釈してたらウケるでしょ
昔から美容室通って化粧水も乳液もつけてて、毛の処理もしててだよ???どうせおっさんなんてその程度もしてないじゃん
女さんだよ。男なんてこの程度でも少数派だしおっさんなら更に少数派
ブコメだと賛否両論あるけど、このニュースを「気持ち悪い」と思う感覚は普通だと思うよ。
元ニュースだと「婚姻関係を含む戸籍関係情報との連携がスタートする。これによって、マイナンバーカードによる本人確認時に、既婚か未婚かを厳格に確認できるようになる」とあるが、これだけだと戸籍情報が事業者に共有されるようにも見える。本来的には「既婚・未婚」の情報だけが共有されるべきだが、マイナポータルで共有される情報がきちんと確認できるのか?現状のUIの出来の悪さをみると心許ない。
この点では、独身証明書を紙(もしくはスキャンした電子データで)提出するというのは、どんな情報を事業者に渡しているのか明確でわかりやすい方法だった。
UIとしてそうなっていたとしても、電子データが本当にそうなっているか「わからない」というのは正当な感覚。これまでも本来渡してはいけない情報を渡していたという事例はたくさんある。あと開発をしていればわかると思うけど、情報を適切にマスキングするというのは結構面倒なので、悪意がなくてもマスキングされていない情報が流れてしまう、というのもよくあること。
そして、ここでも難しいのはユーザー側から確認する方法がないということ。これも、いったんユーザーが独身証明書を入手して事業者に渡す方法であれば、担保されている。
家族の戸籍謄本をとってみればわかるけど、戸籍情報ってかなりセンシティブな情報を含んで、場合によっては差別にもつながるからね。これが役所内ならともかく、民間事業者に電子データとして連携されることが「気持ち悪い」と感じるのは当たり前の感覚だと思う
※筆者の感想なので、この人を誹謗中傷する意図は毛頭ありません。
ことの発端は、「間借りでやってるカフェにお客が全然来ないのできてください、大阪の住吉大社の近くです」
そしてそのポストに対して好意的な反応もあったが「来て欲しい割にはポストやプロフィールにも店の名前、住所、営業時間などが一切書かれてない」みたいな指摘が大量になされ、直接本人にリプライで質問した人に対して「インスタに書いてる」と返事をしたり、店主にとって不快な発言をした人に対し引用で「お前は来なくていい」「こんなやつが来ないように事前に弾けて良かった」みたいな挑発を行ったりしたことで、炎上した一件。
その他にも、元の投稿者(以下店主)は以前X上で誹謗中傷を受けたということで裁判を起こした記録をnoteに書いており、そのnoteへのリンクが記載されたポストをセルフリポストするという行為をしていた。
そして炎上したのち、謝罪文を掲載、暴言引用をした相手に謝罪するものの、もはや炎上の勢いは簡単にはおさまらず…といった流れ。
俺は野次馬根性で眺めてただけで、直接関わっては無いんだが、この店主、完全に偏見だけど、多分謝罪文も出してるし口では言ってるけど、本当は何が悪かったのか分かってないというか、「本当に悪いのは俺を追い詰めたネット民」って心の底で思ってるんじゃないかなと思う。相当にプライドが高いか、負けず嫌いを拗らせている気がするんだよ。だからX(SNS)上での対応でことごとく下手を打ってる気がするんだよな。例えば初めの宣伝ポストは仕方ないにしても、聞かれたら店名など答えれば良かった話だし、引用で「店名や住所がわからない」と指摘されれば、元ポストにリプライツリーでぶら下げたり、プロフィールを加筆修正すればすぐに済むことだったはず。ましてや暴言ツイート、過去の裁判ポストのリポストなどする必要は全く無いと思うんですわ。
店名を聞かれ「インスタに書いてる」と言ってかたくなにXでは店名を書かなかったこと、これも店主の中で「質問に答えたらネット民の要求に自分が屈して言いなりになったことになる」って考えてしまう心がわずかでもあったんじゃないかな。そして、負けず嫌いだからネット民の低レベルな煽りにも我慢できず「来なくていい」っていう、自分が優位であるかのような物言いで言ってしまう。で、裁判で勝ったことをリポストでちらつかせてしまったんじゃないかな。
今はポストは削除済み(正直これも信じられないが)の謝罪文には「責任を取って閉店する」という事を書いていたんだけど、謝罪文の載ったポストはいつの間にか削除されていて、カフェも何事もなかったかのように復活してるんですよね。もちろんしょうもないネット民に屈する必要はないと思うけど、店主はそこまでの間に、自殺を仄めかすようなポストもしている。自殺を考えてしまうほどの大炎上に遭っておきながら、自ら出した謝罪文で閉店するって書いたものを、ポストごと抹消して店を再開するって、相当図太い性格してるんだなぁ…と思った。少なくとも、自殺寸前まで追い込まれた人間の取れる行動じゃ無いとおもうんですよ。
店を再開は全然いいと思うんですよね。ただ、謝罪文(閉店の知らせ)を消すのって、店主の中でその事実を消し去りたいからそうしたんじゃないの?って思ってしまう。
そして数日前に「無題」というnote記事を店主は執筆し、固定ポストにしている。内容は「健常者エミュレータ」のフォーマットをなぞって自身で炎上の件について振り返っているのだが、これもまあすごい内容。
最初の5W1Hについてはまあ普通の内容かな…と思って見ていたら、その後に続く尋常じゃない量のスクショ。「皆様から頂いたご意見」ってあるけど、ざっと見た感じ大多数が暴言や中傷のスクショ
まず気になるのは、これだけの量のスクショをわざわざ保存していたのか、このnoteのためにスクショ撮ったのか。前者なら何のために?って思うんですよね。そうなると店主のこれまでの行動的に、裁判を起こすための材料として集めてたのでは無いか?と思うのは自然なんですよ。後者の場合でも、ここまでやる必要無いと思うんですよね。10や20のスクショならわかるけど、(もちろん店主が受けた引用リプライからすれば一部だろうけど)記事の9割を埋め尽くすという生半可な量じゃ無いし、一時期自分を自殺寸前まで追い詰めたツイートをわざわざスクショしにいくってまともな精神じゃできないと思う。
「どうすればよかったのか」欄も、言葉の端々に異様な卑屈さが垣間見られて、「週一営業だから身の程を弁えるべきだった」「正当な批判も誹謗中傷も平身低頭で受け入れたらよかった」とか、「誰もそんなこと言ってなくね?」ってことをわざわざ書いてるんですよね。
「これからどうするのか?」欄にも「被害を受けても自分の有害性を自覚することを優先する」とか「自殺する場合は誰にも言わず黙って実行する」とか書いてるんですよ。
極め付けが最後の「備考」で「自殺未遂で人生2回目の措置入院を経験した」って書いてるんですよね。これ、本当に入れる理由が謎ですよね。備考って「参考のために書き添えること」って辞書に書いてたけど、誰が何を参考にするんだろうか。自戒の意味でこのnoteを書いているなら、措置入院したなんて自分で分かりきっていることなんで書く必要無いと思うんですよ。
となると、多分これらって、スクショ撮った目的とかは別かもしれないけど「健常者エミュレータをなぞって自戒している」という体にして晒しというか「自分はこんなに被害を受けたんだ、酷い目にあったんだ」って主張したいんじゃ無いかと思う。だからわざわざ平身低頭とか自分の有害性とか卑屈な言い方をして、最後に措置入院のことをわざわざ書き添えてるんじゃ無いかな。多分店主的に、店も再開したけど、何か一発ネットに対して報復しないと我慢できなかったんじゃ無いだろうか。本当に真摯に意見を受け止めていたら、措置入院とか書かないと思うし、そもそもわざわざ「健常者エミュレータ」のフォーマットなんて使わないと思うんですよね。健常者エミュレータってある意味自虐ネタというか、自分のヤバさをネタに昇華するような性質があると思うけど、今回のこの店主の使い方は、「自分の受けた中傷をオープンにして、卑屈になって自分を悪し様に記述して、措置入院したこともついでに自己開示することで、自分の受けた被害をアピールし、さらに謝罪と自戒という体で記述してこれ以上の攻撃を予防する」目的で書かれたんじゃ無いかな。
なぜわざわざこんな長々と分析してるかというと、この店主の性格、行動が昔の自分にめちゃくちゃ似てるんですよね。されたことを根に持って、何かしらの形で反撃しないといられない。多分昔の自分が店主の立場だったとしても、同じことをしてただろうなと思うんですよ。
だから一連の流れは見てるだけだったけど、まるで昔の自分を見ているようだったし、店主には本当に気づいて欲しいと思ってる。もうちょっと素直になって、例えば初めから店名を教えるとか、プロフィールに書くとかすればこんなことは起こってなかったよってことを。
大阪公立大学出てるなら、感情の読み取りとかはともかくとして、文意を読み取るとかの知力はあると思うんですよ。だから、本当にもっと素直になって、誹謗中傷じゃなくてアドバイスや意見の部分に耳を傾けて、平身低頭じゃなくてもいいけど謙虚に受け止められたら色々変わってくるんじゃ無いかな…と思う
前記事で、コロンブス問題、サヨクめ!と散々書いて、当事者目線を強調しつつ最後に野沢直子の回答で締めくくっていたら、
まさに現地の当事者目線で、ぐうの音も出ない解釈を目にすることになった。
先住民目線で語る、Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題 | ユロックの母
ほらみろや、と今頃、新たに手にしたポリコレ棒で気持ちよく机をバンバン叩いているに違いないと思うと、うぐぐ、な思いはあるが、この記事はとても説得力があった。
ファクトチェック全部はできないし、3割程度は陰謀論ばりのこじつけかなぁ?という印象ではあるものの、確かにそう見える、というのは、正直、とても説得力がある。
それにしても、この当事者目線というのはとても大切だと思うし、亜希ダウニングさんの他のアメリカ先住民を取り扱った記事も大変興味深いものだった。
特に、おお、と蒙を開かれたのは、感謝祭に関するアメリカ先住民の視点。
【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは | ユロックの母
これは考えるヒントがたくさん詰まっている記事だと思った。
ただ、これもコロンブス記事同様、3割程度はエイヤと断定してしまっている部分が少なからず見受けられ、必ずしもファクトを確認できない感じではあった。
(例えば、1637年のピクォート族虐殺=John Winthropマサチューセッツ湾植民地知事による征服祝いが感謝祭の起源である、と同氏は断定しているが、アメリカ先住民よりのメディアを検索しても「このピクォート族の虐殺と土地を奪ったことを讃える1637年の宴が最初の感謝祭であると、後に公式に決定」とまで断定しているものは見つけることはできなかった。もっとも保守派よりのファクトチェックサイトでは、1637年の征服を祝福、感謝したのが感謝祭の発端とする説に「事実無根だ!」と、それこそむきになって根拠なく反論しているのもみつけたので、右派にとって、痛いところを突かれれているのだろうとは思う)
というのは、感謝祭という、入植したアメリカ人の原点ともいえる巡礼始祖の心温まるエピソードで、かつ「アメリカ人」というネイションとしてのアイデンティティ形成にも寄与してきた感謝祭、そして現代では商業的にもブラックフライデーなど非常に重要な感謝祭が、実はアメリカ先住民の視点からみると、自分たちが虐殺されてきた血塗られた歴史の一コマだったというのは、ポリコレ的にどう扱うんだろうと。アメリカ先住民の立場としては、感謝祭の日は喪に服す日だとして、負の歴史を直視するよう求める主張も行われている、という。
これは、ポッと出てきたアニメやMVなどのコンテンツと違って、ポリコレ的にあかんから、といって引っ込めるわけにはいかない。
感謝祭はそれほどまでにアメリカの文化・経済社会に深く浸透している。巡礼始祖の思いというのはある意味、合衆国憲法起草にも関わってくるものなので、巡礼始祖の神話をその一部であれ、修正する、というのは容易なことではない。いかにキャンセルカルチャー全盛の昨今といえども、感謝祭、裏側からみれば虐殺の歴史、というところに目をつぶり続ける時代はしばらくは続くだろうと思う。
だから、アメリカ先住民としては、感謝祭やめろ、とまではいえないが、少なくとも私たちは喪に服すよ、ということをアピールする、というところなのだろう。
問題は、自分たちのアイデンティティ形成に欠かせないものをキャンセルできるのかというテーマだ。
そもそも、植民地主義の反省というのがアメリカのみならず、ヨーロッパ社会でもなかなか直視されないのは、それが自分たちのアイデンティティに組み込まれているからだというのは、例えばフランスの植民地主義を振り返るとわかる。
例のコロンブスMVでは、類人猿に音楽を教えたり文字を教えたりする場面があるが、ダウニングさん的にはネイティブアメリカンの歴史が最初に思い浮かぶのだろうけれども、俺はどちらかというと、未開な社会を文明化する、というテーマはむしろ、フランスの植民地政策がどんぴしゃりなイメージだったりする。前記事でそんなことを書くと、そういうお前も知識ひけらかし野郎だろが、といわれるので書かなかったが。
ひとつ前の記事で永井陽右氏の言葉を引いて、「外付けされた人権」という安易さを戒めるようなことを書いたんだが、外付けの元祖は実はフランス革命だ。
人権の出発点のひとつともいえるフランス革命では、当時、海を隔てたイギリスからこの革命の様子をみていたエドモンド・バークは、革命で掲げられたフランス人の新しい概念について、外付けはおろか、「発明されたもの」とまでいっている。褒めているのではない。「発明された概念」のもと、フランス革命では、反革命派が次々と断罪されている様をみたエンモンドバークは、なんでも進歩的なものが素晴らしいわけではないし、なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤべえと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、伝統や文化と結びついた自分たちの偏見を生かした社会を目指すべきだ、という考えを進めた。
つまり、「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な文化や価値観で自己実現をしたいひとだっているってことだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。それをかつて中島みゆきは「世情」という歌のなかで、
学生運動のシュプレヒコールの情景をみながら、「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」とうたった(哀しい思いをするのは学生たちに打倒される守旧派側でもあり、衰退する運動にしがみつく左翼くずれの末路でもある。あ、俺の解釈ね)。20代の頃の中島みゆき、すごいぜ。
エドモンド・バークに戻ると、彼はいわゆる、保守主義の元祖みたいに言われることが多いが、フランス革命による激しいポリコレにビビったというのがそもそもの出発点なのだ。
*教養なんて外付けだろうってブコメに★がたくさんついているが、エドモンド・バークの見方は、そういうことを少し考えるヒントになったりしないかね。
もうひとつ興味深いのは、フランスの人権の歴史は、実は植民地主義と深く関わっている、ということだ。
フランス革命後、自ら編み出した自由博愛平等という「人権」という概念をより普遍的な価値に高めるために、文明化の推進という旗印のもと、未開社会の啓もうにいそしんだのがフランス植民地主義の大きな側面だからだ。特に、フランス語の普及は博愛の精神の名のもとに、当時フランスが支配下においていたアフリカ地域で推進された。確か、昔読んだ本で手元になく記憶があいまいだが、当時の知識人ヴィクトル・ユゴーは奴隷制に反対しつつも、フランス語の普及にはむしろ賛同していた、と聞いたことがある。ユゴーではなくジャン・ピエールだったかもしれないが。いずれにしても当時の一級の知識人が植民地におけるフランス語推進の旗手だった。
こうしてユニバーサリズムの名のもとに、フランス人の精神の普遍化を推し進めた、というダイナミズムがあったこと、そして、隣国の保守知識人からはフランス革命のその後の経過は「発明された概念」による野蛮なポリコレとして映じていたりしていたことは、「人権を普遍的なもの」として習ってきた学生が、次のステップとして教養として知っておいてもいいことだと思っている。
人権の普及と植民地支配が地続きであるというのは、フランス社会での植民地支配への反省の足かせになってきただろう。それは博愛を友愛とポリコレ的に言い換えても同じことだと思える。
これはある意味で、感謝祭が国民意識の醸成に関わってきたことと、その負の側面を直視しにくいアメリカの状況と、状況は異なるが、抱えている課題は共通する。
昨今のコロンブスMV叩きについて、得体の知れない違和感を覚えるひとは、俺も含めてなんだが、恐らくどちらかというと、人権の普遍化のプロセス(進歩主義)と植民地主義が一心同体というところに気持ちの悪い類似性をうすうす見出せるのではないかと思う。エドモンド・バークほどはっきりと「人権よりむしろ偏見のほうが大事!」と180度振り切るまではいかなくとも、正しさのもつ禍々しさを何か表現できないかというモヤモヤがあるはずだ。
自らの存立基盤をポリコレ的に正す究極が革命というものだとすれば、それに対する警戒感というのは埋もれてはならないものだと思う。
そういうモヤモヤは大切にしてほしいし、アメリカ先住民の立場からみたらやっぱり、という記事を見つけたとしても、そこまで確信をもって解釈できなかったし、寄り添えない、という部分は残しておきたいと思う。それに対して「貴様、アメリカ先住民の心情をないがしろにする気か」という反応は、ある意味、表現の自由の乏しかった80年前の戦時中に、「兵隊さんご苦労さん」といって国民を一斉に同調させたダイナミズムとよく似てくる。大東亜共栄圏の思想は、欧米の帝国主義がアジア諸国の文化や経済を搾取し、独立を妨げているという考えから出発している。何が正しいかについて翌々考えず、適当にポリコレ棒を拾って叩いていると知らず知らずのうちに、みなが操られた正義に踊らされてしまうというのは危機感としてもっていい。
たくさんはできない
できる分だけ
これなら提供できていたかもしれないが古い。もう無理。子供にとっての祖父祖母がうるさすぎて自己実現の視点からは邪魔になっている可能性もある。
地方の企業は女性に責任のあるポジションを任せない(とNHKの記事でも批判されている)。仕事はそこそこで流したい人もいるだろうから、出世したい人にはアピールしてもらわないといけないが…
断然都会(東京)が有利。普段はネットで活動している人が相手でもライブなどのことを考えると…。するべきじゃないと思うけどホストの推し活は地方ではできまい。
天体観測やガーデニングなら地方の方が向いている。ざっくり文化資本と呼ばれるものは都会が有利で趣味人同士の交流を考えても大半は都会が有利。何か強みがある地方はそれに賭けてみると効果あるかもしれない。刀剣とか。