はてなキーワード: ちんぷんかんぷんとは
まず、私の文章にXで反応していただけたことをとても光栄に思います
読んでいただけるかもしれないと思い、はてなサービスを選んで書きました
拙い文章だとはわかっていますが(本当は上手に書けたと思う)、全力で書きました
Xの反応を見るとピエール手塚さんは私の文章に怒っているように感じました。
私の文章を、いわゆるスルー力の無さに対する批判と受け取ったのだとわかりました。
でもどう捉えるかは受け手の自由だから、残念な気持ちはありますが受け入れます。
時間があったら怒ってない時にもう一度読んで欲しいけど、
長いし拙いので(私的には上手な文章だと思いますがたくさん批判を受けました)これは望み過ぎかもしれません。
本当はあなたと友達になりたかったのだけど、私は厄介ファンなのでしょう
とほほ
私は体力が人よりもなく病弱なのですが、
あなたみたいになりたくて
暑いのでモールの中だけですが、昨日の定期検診は以前より良好でしたし、大きな手術を少し先延ばしにすることができました
さて、改めて私の疑問に答えていただきありがとうございます。
ピエール手塚さんはネットでの効率的な振る舞いを求められることに憤ったと私は了解しました
改めてラジオやブログを振り返るとピエール手塚さんは久保帯人さんの発言を繰り返し挙げていたことに気づきました
「法律もウェブルールもクソ喰らえだ。俺が嫌だと言ってる」ですね
ネットの無遠慮な批判に対し、無視ではなく怒りで反応したかったのだと判断しました
私の理解は合ってるでしょうか
この回答を受けて自分なりに考えました
確かにネットで暴言を吐く者に対して沈黙しなければいけない状況はおかしいと思います
そして暴言に反応してしまった人を非効率で空気を読めない愚か者呼ばわりするのも好きではありません。
それを言われた俺の気持ちを慰めるのにぜんぜん効率的ではないんだよ!!!と叫びたい。誰もいないところで。
の範疇のように私には思えました。
法律が糞食らえならこれすら受け入れる度量が必要とも思ってしまいました。本当は思いたくないけど。
つまり私にとって久保帯人さんの言葉はちょっといき過ぎている。
私はあの言葉にコミュニケーションの可能性を見ることはできませんでした。
好きな言葉は違うみたいですが、日本のネットがこうなったら良いなあという希望の形はピエール手塚さんとそう離れていないと思います
けどラジオで知らない人からメッセージ来ても一個も嬉しくないしむしろ怖いと言っておられたので、、、
以上が回答を受けて私が思ったことです
外国語でやり取りすると批判されてもダメージが少なく済みますし、批判内容も幾分建設的です。
建設的な議論を見つけるのが日本のコミュニティよりも容易です(個人の感想)
私が覗いているreddittというサービスはXよりも平和に議論が進行していることが多いです。
変な反応があっても目につきにくくする工夫がなされている。
でも、手札は多い方がいいと思ったからアドバイス罪となるけど伝えたかった。ごめんなさい。
教えてくれてどうもありがとうございました!
はてなサービスのことはちんぷんかんぷんなのであなたがいなかったら気づけなかった
私はなんでXから反応が来てるとか、はてなブックマークとコメントの違いとかも全然わかってないんだよ実は。
私に寄せられる批判で私は嫌な思いをしたけど、あなたみたいな親切な方がいて慰めになった。
批判してくれた人の意見も私自身がエコーチェンバーにならないための苦い薬と思ってお礼を言っておくか嫌々だがな。
どーも。
でも私はストーカーじゃないと言いたい
キーっ!ムカつく!
よくねえけど、、、、
、、、
いや、この部分は真面目に反省しなければならない
それを気づかせてくれたことは本当にありがとうございます
コミュニケーションの難しさを感じていますし未熟さも感じています
読んでくださってありがとうございました
これが世界最大という超超巨大書店を、どーんと僻地でもなんでもいいから街が作れそうな平野に作ってほしい。その超超巨大さは世界第2位を突き抜けてほしい。
政府もテコ入れし、クラウドファンディングも募り、数多ある企業も全勢力が参入してほしい。もうとにかく全力をかけて作ってほしい。
「そんなことして失敗したらどうする?!バカじゃん?!」とか考えず作ってほしい。勝算とか考えず勢いで作ってほしい。
そこには和書だけではなく洋書もある。西洋の本だけではなく中国語の本、アラビア語の本、アフリカーンス語の本、とにかく片っ端から「いやこれいらんだろ」みたいな本だったとしてもすべておく。
なんなら和書が中央ではなく洋書が中央である。日本語を中心で考えてほしくはない。言語別に存在する知の量に応じた配分をしてほしい。
客層に応じてカテゴリ分けは必要だろう。1つの書店だけでなく複数の書店が統合してもかまわない。古本屋を集めてもかまわない。
「よくわからなくても物理の本を買うなら日本のここへ行け。たぶんあるから」という状態になっていてほしい。日本の中規模以上の書店はほぼすべてここに集める。
全勢力が協力してできた超超巨大書店を中央に据えて、その周りを他の超巨大書店が取り囲む。その周りは巨大書店。その周りは中規模書店、その周りには小規模書店。
海外からも片っ端から誘致する。必要なら補助金も出す。「バカなの?」とか「さすがに海外出店は難しいです」とか一蹴されるだろうが「まあ採算とれそうだからいいよ」と言われるまで粘ってほしい。
税金をたくさん投入してもかまわない。重要なことは「そこにある」「とにかく日本のここに来たらある」「お前のやりたいことは知らんけど本がほしいなら日本のここに行け」という願いが叶う場所だ。
例外を作ればそのブランドは失われる。このブランドこそが他国が追随不可能な圧倒性を生む。先行者利益だ。バカすぎて1つ1つで見るとデメリットしかない行為が、結合すると巨大な1つのメリットを作り出す。
どこかで手を抜くと終わる。そんなことまでする必要ないんじゃないのとか、それってめちゃくちゃ損しますよねとか言われようが、究極に本を集める。
書店と書店の隙間にはさまざまなカフェが立ち並ぶ。個人で経営するカフェからチェーン店が密集する。コンビニも立ち並び、公園には読書に適したベンチがある。公園は読書に最適化されている。
その街にはどこにでも椅子が置いてある。買った本をすぐ座って読む人向けのものだ。
この街には有名人が毎日のようにやってくる。たとえば「ビル・ゲイツが本を選びに来日!」など当たり前のことになるだろう。
読書家はこの街の付近に別荘をかまえる。なんにもなかった僻地の近隣に富裕層街が誕生し、地価がとんでもなく上昇する。意味不明なおいしい話だ。
一方で本を読むことが目的でない人間には居心地が悪い空間になる。この街に存在している人間はほぼ全員本かその周辺が目的なのだ。本以外が目的の人間は異様に目立つようになり警戒される。
街の中央部分は徹底的に、本、本、本、本、本、と本が存在するのが当然の本の密集空間になっている。普通の人間が「ここまですることはないんじゃ・・・だって採算とか・・・」とドン引きするぐらいの熱量で本で溢れかえっていてほしい。
地面に敷かれたタイルには、文章が書かれている。まっすぐ歩くと偉人の言葉などがそのまま読めるようになっているのだ。たとえば「良い本は私の人生におけるイベントである。」「本の無い家は窓の無い部屋のようなものだ。」「天才とは努力する凡才のことである」などという文が永久に書かれている。有名な書の冒頭部分だったりもあるし、古典文学もあるし、文学のみならず数式も書かれていたりする。それを読むだけで日が暮れる。
この街の広告はすべて本に関するものでいっぱいだ。ほかでは絶対に見られない、読書家にだけ向けた広告が撃たれる。「こんな難しそうな本の広告ある?」というのがそこここで見つかる。
たとえばベトナム語のマンガの新刊広告なども見受けられていてほしい。
この街にあるのは紙の本ばかりではない。電子書籍派のための書店もある。他では絶対採算がとれないような形の店であっても、「読書家が毎日のように集まることが普通」の街特有の書店ができる。たとえば巨大な8Kモニタにその人へレコメンドされた電子書籍が大量に表示され、立ち読みすることができるとか。「辞書専門店」や「単語帳専門店」や「栄養学書籍専門店」などがあったりもする。そういうものを作っても不思議と利益が出るのだ。
この超超巨大書店圏内部には研究所や大学なども誘致する。どのような言語でも関係ない。化学系のカテゴリが立ち並ぶ「化学通り」のようなところには実験器具専門店も立ち並ぶ。
そういうところは、基本的には英語がメインだ。英語の下に日本語が書かれている感じ。イメージ的にはハリーポッターだろうか。ときどき「なんで化学通りにオムライス専門店がこんなにあるんだよ」などということもあるかもしれない。秋葉原や神田にカレーがたくさんあるようなものだろう。
やや込み入ったところにはマイナーな本屋がある。「なんだよこの本屋・・・」という、見るからに異国感が漂う本屋だ。謎の部族の謎言語で書かれた謎の材質の本が置いてあるなど。ネクロノミコンのような本も見つかる。
石版などもなぜかある。読書向けの椅子専門店もある。「本のためだけの椅子専門店」が生存できる場所は日本ではここしかない。
しかし、この超超巨大書店群の主目的は「本の集積」である。そこから逸れるようなことがあってはならない。何か欲をかいて「ここに企業をうんたら」などとして利益を優先するとこの街はあっという間にその意味をなくし滅びるだろう。ありとあらゆる人々が周辺の利益を求めて集ってくる。そういうのを一蹴できるような体制であってほしい。
「この街意味ないだろ。なんで作った。赤字だろ」と罵られながらも存続する街であってほしい。そして、そう罵る人も、ひとたびその街に入ると「すげえ・・・この街は地球に必要だわ・・・」とどうあがいても認めざるをえないほど感動できる街であってほしい。街自体で見ると赤字なのだが不思議と日本経済が潤う源泉である摩訶不思議都市であってほしい。完全に未来へと投資された都市である。
この街では、夜もたくさんの書店が営業している。こんな大きな本屋が24時間営業できるのはこの街しかありえないとなっていてほしい。「夜眠れないな・・・本でも買いに行くか・・・」という人外の行動を普通にするような場所であってほしい。
街の周囲には民家が立ち並ぶ。ただしこの民家に住む民間人はややおかしい。本のために移住してきた狂信者たちだ。軒先には自分の選書が並び「1冊100円」などと書かれていることも多々ある。
富豪がゴッソリ買っていくことを見越して少し離れたところに在庫置き場がある。
富豪が「ではこの棚からこっちの棚まで」などと爆買いしていく。もはやテロリストのようなものだが、そんなことは気にせずまた入荷する。本はバカみたいに売れる。
この街は、「日本人なら1度は絶対行け」と呼ばれる場所になる。そしてひとたびそこに立ち入れば「世の中にはこんなに知識があったのか」「世の中はこんなに頭のいい人たちで溢れかえっていたのか」ということが、嫌でも全身の細胞に刻みつけられる。伊勢神宮みたいなものだ。それよりも神々しいかもしれない。
そして、全身の細胞で体感したその人は、格段に読書するようになるだろう。それは地元へ帰っても同じことだ。一流を目の当たりにした者は一流になる。
取次の問題も、書店が潰れかけている問題も、日本人が本を読まなくなってしまっている問題も、経済が深刻化している問題も、だいたい解決できるだろう。
誰か作ってください。
ちなみに国防にも役に立ちます。一度作ってしまえばここを潰すやつは「バカ」なので。ペンは剣よりも強し!
ただそれは、「本がたくさんあっても意味がない」のではない。逆。
それに「物理本を読む人が少ないから本屋が潰れちゃう」というのも逆だ。
「物理本を読みたいと思う人を増やす。そのためには本屋すべてが潰れることも辞さない」という情熱が正道である。
本というのは知の源泉である。だから知識がない人に迎合すれば、潰れるのは自然だ。知識がない側に与するのだから。
本の機能はそれとは真逆であり、全体を引っ張り上げるものである。知識がない側が「欲しい」と願える場にすべきなのだ。
ない側に媚を売っていれば潰れて当然。
「この本は今は読めないけれど、読みたいと思う」そういうものがない。
「この本は内容はちんぷんかんぷんだけど、そういう本の存在を知っている」そういうものもない。
ジュンク堂書店などですら、知らない人々が多い。大型書店の重要性を知覚できていない。入ったことがない人間もいる。
記事を読んでくれた人へ: 記事を読んでくれたのはありがたいが、たぶん自分が考えている規模と読んだ人が考えている規模に大きな差があると思う。
自分が考えているのは、もっとも小さく考えても深圳書城中心城の数十倍の大きさであり、既存の書店をちょっとだけ大きくしたものとか、蔵書が全く同一であるような大型書店が単に10個ある街という形ではない。
コーチャンフォーつくば店は50万冊、池袋ジュンク堂書店は150万冊、深圳書城中心城は400万冊、国会図書館は4685万点。Amazon Kindleは60万点。
自分が言っているのは、数億冊あるような書店群である。つまり、コーチャンフォーやジュンク堂書店や紀伊國屋書店は超超巨大書店(世界中の意味わからんハイレベルの本から選びぬかれ集まったエリート本屋)の周辺を取り囲む「日本区域最大の超巨大書店」の周辺を取り囲む「大型書店の1つ」という状態を考えている。ブックオフなどはその周りを取り囲む中型書店になるだろう。その周りを、身近にあるご近所の本屋さんがたくさんずらーーーっと並んでいるというような領域だ。いうならばこれが日本区域である。
世界の蔵書数はGoogleによると約1.3億冊であるらしい。日本区域内に別に中国語や韓国語の本があることもある。ただし日本区域の横には韓国区域だったり中国区域だったりする。その中国区域でもばかみたいにデカい超巨大書店があり、それを取り囲むようにジュンク堂書店並の大型書店があり、英語区域では……というような状態だ。言語別に分けられているだけでなく、「数学領域」で分けられていることもあり、そこでは「高校数学」の棚に世界各国の高校数学が並ぶ。数学の参考書を買いに来た高校生が、カメルーン人の中学生と仲良くなるみたいなことも想定できるわけだ。
地方のクソデカ本屋が数百個単位で入る「は・・・?」「この街が・・・全部・・・本屋さん・・・?」という規模の書店群である。
イメージとしては↓な感じ。
まもなく目的地の駅に近付く。電車にいる人々は全員が本を読んでいる。スマホを触っている人たちなど誰もいない。不思議な光景だ。多くの人がそわそわしている。初めて来た人たちが多いのかもしれない。
電車が駅に滑り込み走って降りる人々の後ろでのんびりと降りる。全く、はしゃぎすぎだろう。
降りた直後、本の形をした案内板が表れた。真っ先に飛び込んできたのは「↑ バベル中央書店」というやたらとデカい黒文字と、その下にあるやや大きな黒文字の「↑ 北区域書店」だった。
右を向くと・・・あれは・・・本の自動販売機?! 本を自販機で販売するのか。カルピスの作り方・・・自動販売機の歴史・・・Why could he make vending machines?・・・なるほど。
床には文字が書かれている。Station, State, Statue, Status. 何のことやらわからない。
改札を出る。改札を出ると、ああ、もうこれは本のテーマパークだ。最奥部に見える巨大な塔には雲がかかっている。おそらくあれが中央書店だ。その横には数えるのもバカバカしくなるほど書店が並ぶ。街には今まで見たこともないような人々で溢れかえっていた。ベンチでは読書をしている中東とおぼしき人が中国人らしき人と何やら議論している。彼らが話しているのは何語だろうか。
デジタルサイネージで目まぐるしく本の広告が入れ替わっていく。「サウダージにさようなら」「入門グロッキング」「般若心経の終焉」
子どものときに巨大書店や巨大図書館に人生で初めて行ったときとか、論文と大学と研究の仕組みと接したときに、知の偉大さに震えたことがないだろうか。
目に見えないものは見えないことが多い。たとえば、ライブ会場に行ったことがなければライブの偉大さは本当にはわからないし、「本当にこんなにたくさんの人がファンなのだな」ということもわからない。
いま「自分が考えるクラスの巨大な本の集積地を人類の誰もが見ていない」というのが問題であると思う。誰1人として。
そういう知がたくさんあることは存在としては知っていても、「それを見たことがある人は誰もいない」のだ。いわば、月は見えるけど、月に行ったことは誰もいないような状態だ。
神田の古本屋街や、既存の大型書店というのは、いわば地球上にある月に似たところでしかない。「たぶんこれとこれがこうなると月」というふうにしか想像できない。だが月に行かなければ月の隕石は無いのだ。
ほとんどの人は、目に見えないなら存在しないと感じてしまう。マッチングアプリで人間を左右にスワイプするとき、人間ではないように扱う。それは人間として存在しているのに。
一方、眼の前に相手がいるとき、同じように左右に指を振って弾くのは容易ではない。これが目の前にあるかないかの大きな違いである。
自分が言っているのは、そういう知の集積の偉大さが理解できなくてもとにかくそこに行けば、「ああそういうこと」「人類は偉大だったのか」と、誰もがたちどころにわかってしまう場所がほしいということである。
過去10年間のディープラーニングの進歩のペースは、まさに驚異的だった。ほんの10年前、ディープラーニング・システムが単純な画像を識別することは革命的だった。今日、我々は斬新でこれまで以上に難しいテストを考え出そうとし続けているが、新しいベンチマークはどれもすぐにクラックされてしまう。以前は広く使われているベンチマークをクラックするのに数十年かかっていたが、今ではほんの数カ月に感じられる。
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ディープラーニング・システムは、多くの領域で急速に人間レベルに達し、あるいはそれを超えつつある。グラフィック データで見る我々の世界
私たちは文字通りベンチマークを使い果たしている。 逸話として、友人のダンとコリンが数年前、2020年にMMLUというベンチマークを作った。彼らは、高校生や大学生が受ける最も難しい試験に匹敵するような、時の試練に耐えるベンチマークを最終的に作りたいと考えていた。GPT-4やGeminiのようなモデルで〜90%だ。
より広く言えば、GPT-4は標準的な高校や大学の適性試験をほとんど解いている。(GPT-3.5からGPT-4までの1年間でさえ、人間の成績の中央値を大きく下回るところから、人間の成績の上位に入るところまで、しばしば到達した)
https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/gpt4_exams-780x1024.png
GPT-4の標準テストのスコア。また、GPT-3.5からGPT-4への移行で、これらのテストにおける人間のパーセンタイルが大きく跳ね上がり、しばしば人間の中央値よりかなり下から人間の最上位まで到達していることにも注目してほしい。(これはGPT-3.5であり、GPT-4の1年も前にリリースされたかなり新しいモデルである。)
https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/math2022-1024x273.png
灰色:2021年8月に行われた、MATHベンチマーク(高校数学コンテストの難解な数学問題)の2022年6月のパフォーマンスに関する専門家の予測。赤い星:2022年6月までの実際の最先端のパフォーマンス。ML研究者の中央値はさらに悲観的だった。
MATHベンチマーク(高校の数学コンテストで出題された難しい数学の問題集)を考えてみよう。このベンチマークが2021年に発表されたとき、最高のモデルは問題の5%しか正解できなかった。そして元の論文にはこう記されている:「さらに、このままスケーリングの傾向が続けば、単純に予算とモデルのパラメータ数を増やすだけでは、強力な数学的推論を達成することは現実的ではないことがわかった。数学的な問題解決をより牽引するためには、より広範な研究コミュニティによる新たなアルゴリズムの進歩が必要になるだろう」、つまり、MATHを解くためには根本的な新しいブレークスルーが必要だ、そう彼らは考えたのだ。ML研究者の調査では、今後数年間の進歩はごくわずかだと予測されていた。しかし、わずか1年以内(2022年半ばまで)に、最高のモデルの精度は5%から50%に向上した。
毎年毎年、懐疑論者たちは「ディープラーニングではXはできない」と主張し、すぐにその間違いが証明されてきた。過去10年間のAIから学んだ教訓があるとすれば、ディープラーニングに賭けてはいけないということだ。
現在、最も難しい未解決のベンチマークは、博士号レベルの生物学、化学、物理学の問題を集めたGPQAのようなテストである。問題の多くは私にはちんぷんかんぷんで、他の科学分野の博士でさえ、Googleで30分以上かけてやっとランダムな偶然を上回るスコアを出している。クロード3オーパスは現在60%程度であり、それに対してインドメインの博士たちは80%程度である。
https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/gpqa_examples-768x1120.png
続き I.GPT-4からAGIへ:OOMを数える (4) https://anond.hatelabo.jp/20240605205024
ハナミズキのどこが名曲なのか全く理解できない、むしろあの歌詞の内容気持ち悪い
一青窈が気持ち悪い+小林武史が気持ち悪い+歌詞ちんぷんかんぷん全く同じ。
私が小林武史嫌いになったのは松下由樹〜マイラバakkoの流れもある。
akkoが略奪した時にテレビでこれ見よがしに「小林さんが〜小林さんが〜」って言ってて、自分の女ぐらい躾しろこのボンクラと思った
私山下久美子が大好きなのね。
まあでも布袋って器の小さいクソDV野郎やから離婚したのは大正解なんやけど悲しいかな布袋プロデュース時代の山下久美子って名曲揃いなんだよね… 布袋ってクソイキリやからとことん憎いし金の匂いに超敏感で擦り寄り凄いけど小室って本当に音楽しか知らなくてダメ男だからじゃない?
まあ布袋んとこは今井美樹も極上のクズだし布袋と落ち着くまでは自分からガンガン枕仕掛けてたらしいからねー。山下の著書に書いてるから間違いないと思う→イタ電
しかも今井、山下からの浮気相談をニヤニヤしながら聞いてたらしいからねー→これも著者から
評論のためだけに有名予備校講師の夏期講習取っても全く変わらなかった。
でも評論で頻出のキーワード(「分節化」とか「形而下」とか「相対主義」とか)を集めた用語集なるものが存在すると知り、
早速それを買って3時間くらいで1周したんだが翌日からセンター過去問の評論で漢字以外ノーミス前提になった。
大概の英字新聞記事や人文系コラムはたまに英和辞典引くくらいすれば問題なく読めるのに、
アメリカの幼児向け絵本やフレンズのスクリプトがちんぷんかんぷんでノンネイティブの限界を知ったような気分になり絶望していた。
そんな時期、千代田区にあるような巨大書店に行ったらアメリカ現地で出版されたペーパーバックのボギャブラリー集なるものを発見。
日本の大学受験じゃまず見ないけどネイティブにとっては子供にも常識って感じのイディオムやワードが盛りだくさんでびっくりした。
掲載700ワードを約2週間かけて丸暗記したら絵本余裕、フレンズ楽勝の状態になった。
思い詰めて語学留学とか決意しなくて本当に良かった。
ありました。
表示されているデスクトップはユーザー名下Desktopで、onedrive上にあったデータの移動先がユーザー名下デスクトップに保存されてました。
ユーザー名下デスクトップからユーザー名下Desktopに移動して無事終了。
クソでかため息がリアルにでたわ。
以前にも書いた増田です。
本日2回目やられました。
会社の上司から「onedriveの容量が一杯だとうるさいからどうにかしてくれ」の相談。
聞いてみると、どうやらデスクトップにスマホで撮影した動画や写真を溜め込んでいるらしく、それがonedriveの自動設定でバックアップオンになっているらしい。
「あー、じゃぁonedriveからバックアップ設定をオフにすればいいですね。もしくは別のフォルダにコピーしてください。」と答えるも相手はちんぷんかんぷんな顔。
onedriveの設定から「重要なPCフォルダーをonedriveにバックアップする」の項目を発見。
「このPCのフォルダーをバックアップする」のデスクトップにチェックが入っていることを確認。
オフを押す。
(後ろで娘の写真データとか動画がどうたらとか上司がうるさい。お前、このパソコン私物やんけ。)
「PCとonedrive上のどちらも残す(推奨)」「onedrive上のみ」「このPCのみ」のような選択肢が現れたので、「このPCのみ」にチェックを入れてOKをクリック。
以前、onedriveにバックアップを削除された際に、再現できないか試していたのでonedriveの設定はある程度把握しているつもりだった。
ちなみに以前、onedriveのデスクトップをバックアップする設定をオフにしたにも関わらず、デスクトップフォルダがonedriveに残されていた原因は以下の通りだということが判明。
OSのクリーンアップをする際にデータのコピーが面倒くさいので、OSはCドライブ、データはそれ以外のドライブという習慣がついている。
そのため、クラウドストレージも基本的にはデータドライブにフォルダを作成するようにしている。
onedriveは初回設定時に保存先フォルダを指定できないので、一度目は素直に言われるがままに設定を行った。
ここでいつもならデスクトップ設定もオフにするのだが、何故か忘れたか、おそらく選択肢がなかった。
一度設定が終わってonedriveが動作してから、onedriveの設定を起動して同期をオフ、その後デスクトップやドキュメントのバックアップ設定をオフにして、保存先フォルダをデータドライブに指定。
ここですね。
同期をオフにした時点でデスクトップフォルダのパスはonedrive下になったままで、その後にデスクトップを含めない設定でonedriveを使い始めたので、デスクトップのパスが変わらないままだったということ。
同期をオフにする前にデスクトップのバックアップ設定をオフにしていれば起こらなかった。
分かりづらいかもしれないけど、
・デスクトップの同期をオフにする→デスクトップのパスがonedrive下からユーザー名直下に移動する
・onedriveの同期をオフにする→デスクトップのパスは移動されずにonedriveへの同期だけがオフになる
ということ。
これが自分のせいだと言われればそうかも知れないが、そもそもなんで最初にユーザーの自由度を奪った状態でサービスを開始するような設定になってるのかが甚だ疑問。
振り返り終わり。
話が戻るのだが、デスクトップのデータをこのPCに残したいと思った時、あなたはこの選択肢のうちどれを選びますか?
「PCとonedrive上のどちらも残す(推奨)」「onedrive上のみ」「このPCのみ」
細かい表現忘れてしまったけど、これ、どう考えたって「このPCのみ」を選ぶでしょうに。
注意書きは3回以上読み直したけど、このPCのみ”削除”なのか”残す”なのかが判然としない問いかけだった。
判然としないなら、常識的にリスクの少ない方の選択がされるはずって思うのが、造り手側が予想するべき危機管理じゃないんですか?
ということでこの選択肢の意味は、「このPCのみ”削除”」という意味でした。
しかもご丁寧に、デスクトップのパスをユーザー名下に移動させて、onedriveフォルダにはデスクトップフォルダを残しておいて、「残ってる!」と思わせてからの中身が空っぽ。
完全にバカにしてる。
結局今回は、クラウド上にはデータが残っているということで事なきを得たのだが、「容量増やせ増やせうるさいからとりあえずお試し期間だけオンにしてみたよ」と言いながらもすでに40GB近くのデータをデスクトップに載せていた上司。
現在10時間かけてデスクトップデータをクラウドから取り返し中。
疑問なのだけど、これで改てデスクトップのバックアップをオンにしてたら、onedrive上のデスクトップはどうなってたんだろう。
まさか現状のデスクトップに同期するために、onedrive上のデスクトップが空になったりなんかしないよね?
だとしたら消えたからって焦って同期し直したら永遠にデータが失われるってこと?
怖すぎるんだが。
あの一件以来、自分では死んでも使うものかと思っていたonedrive。
いくらなんでもリテラシーゼロで使っている人からこんな形で渡されたらガード不能だよ。
俺なんで上司にお詫びしなきゃいけないんだろ。
提唱された「脱構築」については (この当論でも話題になりましたが)、コメントのしようがありません。なぜなら、そのほとんどは、わたしには、ちんぷんかんぷんにみえるからです。しかしもし、これもまた深遠さを認識する能力がわたしに欠如していることを示す表れのひとつに過ぎないのだとしたら、次の指針ははっきりします: その結果をわたしにも理解できるふつうの言葉で表現し直してください。そして、それがなぜ他の人々が以前から長らくやってきてし続けていることと異なっているのか、より良いのかを示してください。三音節の用語や、支離滅裂な文章や、誇張したレトリックなんかは(少なくともわたしにとっては)大部分無意味なのですから。そうしたら、わたしの欠陥も治ることでしょう──もっとも、それが治るものならば。
世の中には、わたしが理解していないことも、たくさんあります──たとえば、ニュートリノには質量があるか否かという最新の議論だとか、フェルマーの最終定理が最近 (おそらく) 正しいと証明された方法だとか。しかし、この五十年間のゲームから、わたしは二つのことを学びました: (1)その分野で仕事をしている友人に訊いて、わたしが理解できるレベルで説明してもらうことができる。そして彼らも、それほどの困難もなくそれができる。(2)もし自分に興味があるなら、もっと学習を進めて、理解できるようになることができる。さて、デリダやラカン、リオタール、クリステヴァら──フーコーでさえ。彼のことは知っているし好きで、他の人々とはちょっと違ったけれど──は、わたしにも理解できないことを書きます。しかし、(1)も(2) もできなかったのです。自分は理解しているという誰ひとりとしてわたしに説明することができず、分からなかったところを克服して勉強を続ける糸口もつかめませんでした。
とにかくデリダを取り上げましょう、大御所のひとりです。わたしは、少なくとも彼の『グラマトロジー』を理解できるはずだと考えました、そして、読んでみました。少しは分かりました。たとえば、わたし自身よく知っていて何年も前にそれについて書いたことのある古典的文献の批判的分析なんかは。哀れな誤読に基づいた、酷い学識だと判りました。そして彼の議論は、以前と変わらず、わたしが子どもだった頃から慣れ親しんできたような水準にも及ばないままでした。そうですね、わたしが何かを見落としているのかも知れません: あり得ることです、しかし疑いは残ります。既に書いたように。繰り返しになりますが、証拠抜きのコメントで申し訳ありません。でも問われたので、応えているのです。
この手のカルト(わたしにはそう見えます)の人々のなかには、会ったことのある人もいます: たとえばフーコー (数時間の議論もして、出版されています。多くの時間は楽しく対話しました。現実の諸問題について、きちんと理解可能な言葉で──彼はフランス語で、わたしは英語で)、ラカン(彼には何度か会って、おどけて完全に自覚的なペテン師だと思いました。カルト以前の初期の仕事は意味のあるもので、それについては出版したものの中で論じたことがあります)、クリステヴァ(彼女が熱烈な毛沢東主義者だった頃に、少しだけ会ったことがありました)、などです。会ったことのない人もたくさんいます。なぜなら、そういったサークルからとても疎遠なところにいますから。選ぶとしたら、まったく異なる、幅広いところを好みますから──そういったところで、講演に行ったり、インタビューを受けたり、活動に参加したり、毎週のように十通以上長文の手紙を書いたりしています。わたしは、好奇心から、彼らの著作を手に取りました。しかし既に述べた理由から、それほど深入りしませんでした: 大仰に虚勢をはりながら、検証してみれば、大部分は単に無知なだけだと判りました。わたしのよく知っている(なかには、わたしが論じたこともある)文献を異様な誤読して、議論はいつも初歩的な自己反省の欠落したひどいもので、主張の多くは(複雑な饒舌で装飾されていても)当り前か間違っているもので、かなりの部分はまったくちんぷんかんぷんなものでした。他の分野で自分が理解できなかったところでするように続けると、上に挙げた(1)と(2)に係わるような問題にぶつかります。ですから、デリダはわたしの言う人々のひとりで、これが深入りしない理由です。
フーコーの具体的な例のいくつかは (たとえば、18世紀の刑罰手法など) は興味深く思います、そして、その正確さを調査するだけの価値があります。しかし、その「理論」というのは、他の多くの人々が何か深遠なものが絡むと装ったりせずシンプルに表現したことを、異様に複雑にして膨張させたものでしかありません。
そして事実、どれも分かりきったことばかりです。こういった自明なことが興味深いのは、透けて見えるその原理ではなく、人々にとって重要な具体的な事例でそれ自体がどのように機能するかを示すことです: 介入や攻撃、搾取やテロ、「自由市場」の詐称、など。こういったことはフーコーの著作にはみられません。わたしに理解できる文章を書き「理論家」として知識人界に属していないような人々の著作には、たくさんあるのですが。
そのシンプルで慣れ親しんだ考えから 複雑で思わせぶりなレトリックを剥ぎ取ったら「理論的構築物」という程のものは何もないということです。
【https://rootless.org/chomsky/postmodern_cults】より
たとえば科学であるとか、何であれまじめにやっている分野でなじみがあるような理論なんてのはジジェクの仕事のどこを探したってありはしないのです。こころみに、ジジェクのすべての仕事のなかから、結論の引き出せるような原則や、12歳の子どもに5分で説明できるレベルを超えるような経験的に例証可能な命題を見つけ出してごらんなさい。あるいは、けばけばしい言い回しを言い換えることができるかどうか。私にはできません。だから、そういうはったりには興味がないし、ジジェクはそういうはったりの顕著な例だと思います。で、ジャック・ラカンについてですが、彼とはじっさいに知己があったんですよ。彼のことは好きでしたし、ときおり会いもしていました。ただ、率直に言って、彼はまったくのペテン師だったと思いますね。ラカンがしていたことと言えば、テレビカメラの前でポーズを決めることだけ、ですよ。パリの知識人の多くがやっているようにね。それで、なぜこういうはったりが影響力を持つのか。私にはその理由がまったく分かりません。そこには影響力を持ってしかるべき要素はぜんぜんないわけですし。それで、色んな人がそういう「理論」の重要性について私に説明するのですが、やっぱり理解できませんね。まあ、そういう次第なので、ほんとうは理論なんてないのにあるふりをする空疎なはったりには興味はないわけです。
(※諸説あります)
「ざっくり」と「ばらり」という擬態語を合わせたもの。江戸時代から使われ出した
巾着に由来
猫がうんちを砂をかけて隠すところから。ババはうんちのこと
丈は1.7mであり、丈夫は成人男性の意。そこから、大丈夫は立派な男性→しっかりしている→間違いない と意味が派生した
如何様(どのように)から、いかにもその通り→いかにも本物に見える→インチキ の意味になった
「うん」は返事で、すんは語呂がいいから付け足された
すり鉢の溝の詰まりをとる道具を切匙(せっかい)といい、他人の内に入り込もうとする様から。節介は当て字
田んぼのスズメを追い払うために魚や動物を焼いて追い払った「嗅がし」が語源
江戸時代のお菓子「胡麻胴乱(ごまどうらん)」の中身が空洞だっため
似せて行う、家業を継ぐという意味の「使似す(しにす)」から。老舗は当て字
明治時代の八百屋の長兵衛の通称「八百長」より。長兵衛が囲碁でわざと負けて相手のご機嫌をとっていたため
粘土(へな。質の悪い土)のお猪口(ちょこ)、つまり出来損ないのおちょこという意味から
江戸時代の手古舞(てこまい)の音が「てんてんてこてこ」と鳴り、明るく踊る様から意味が転じた
江戸時代の小型船を「ちょろ」と呼び、その運転が簡単だったところから
よく寝るため「寝子」と呼ばれた、または「ねーねー」と鳴くため「ねー子」と呼ばれたことから
チャラチャラしているの略語。「ちゃら」は江戸時代から使われており、おしゃべりな人の話ががちゃらちゃら聞こえるところから
昔は冷蔵庫がなく鯖を早く売る必要があり、適当に数えていたことから
平安時代に、大軍が動いて鎧が触れ合うと「びんびん」と鳴り「びびる」音と呼んでいたことから
江戸時代の矢場(射的場)で売春が行われており、「役人から目をつけられたら危ない」ということから
江戸時代に小雨が降り続く様を「しょぼしょぼ」と表したことから
あと一つは?
シン・仮面ライダー面白かったんで、感想や解説を色々と読みながら余韻にふけってる最中
そこでちょくちょく見かけるようになったのが「普通の人はわからない」「一般人にはついていけない」というもの
「俺は面白いと思ったんだけどね、これは一般受けはしないよね~」
「俺はわかったけど、話が飛び飛びで知らない人はちんぷんかんぷん」
いやいや、そういう映画じゃね?
オタクの代表みたいな庵野秀明が「みんな(オタク仲間)が好きそうなやつ」を映画にした
シンゴジラからそこは変わってないんだけど、シンゴジラが売れたせいで周りが勘違いしてる状態
半分はシンウルトラマンで気づいたらしいからシン仮面ライダーはそこまで勘違いされていないと思うんだけど
これはオタクが作ったオタク映画なんだから映画好きって人に「シン仮面ライダー見た?」なんて聞いても「いや、ああいうのはちょっと」ってグリッドマンユニバースやプリンセスプリンシパルの話を振ったのと同じような反応されるし、職場や学校で「週末シン仮面ライダー見てきたんですよ」なんて突然話始めたら「週末プリキュアショー見てきたんですよ」ってくらいヤバい
シン仮面ライダーは特撮オタクがオタクコミュニティの中で盛り上がる映画であるという事は理解しよう
だから
長澤まさみの出オチ感凄いし最後は画面に映さずエロボイス出して終わりかよw
ラスボス戦が派手なアクションではなく、敵の弾切れを狙って泥仕合に持ち込むというのが、圧倒的な戦力差を前にした攻殻機動隊GISのラストの戦車戦にも通じるところがあって、ともすれば押井守へのリスペクトも感じられる
等々をオタクの中だけでワイワイやってりゃ良いんだ
これでスッキリした
私は理系の大学4年生、あとは卒論の発表を残すのみとなった。院進しないで就職してしまうからあと2ヶ月弱で16年間の学生生活が終わってしまう。
中高時代は割と勉強が得意だった。というより、中高レベルのテストで点数を取るのが得意だったと表現する方が正しいかもしれない。授業は数学以外ほとんど寝ていたし、週6で部活をして家に帰ったらすぐ寝てしまうみたいな生活だった。でもテスト前に1週間くらい勉強すれば点数は取れたし、その勉強だけで模試とかでも普通にトップレベルの成績が取れていた。高2くらいからは、受験を意識した勉強を学校の前とか部活の後にするようになって、2年生が終わる頃は周りに抜かれなければ第一志望受かるって確信できた。
で、受かった。根っからの体育会系人間だから大学でもちゃんとした部活に入った。それが楽しすぎて、本当に全く勉強しなくなった。1年生の時は、対面授業で必修も多いから一応出席ある授業には出ていたんだけど、授業中はずっと練習のビデオを見たり試合を見たりしていた。理系だからレポートよりテストの科目が多くて、高校時代のノリで大学最初のテストを受けた。惨敗した。線型も微積も物理もちんぷんかんぷんだった。高校までの蓄積でなんとか単位は取れたんだけど、1年前期にして点数が低すぎて人気学科への進学不可が確定した。後期も同じような感じで乗り切り、何に憧れてこの大学入ったんだと思うようになった。
2年になるとコロナでオンライン授業が始まった。他にすることもないから授業はちゃんと受けるようになって、テスト前も勉強するようにした(ちなみにテストもzoom繋いだオンライン形式で、不正行為を防ぐために色々な方法が取られていた)。そしたら割といい成績がとれて、まあ勉強すれば点数取れるよなって気持ちになった。だけど夏休みはもちろん一切勉強しなかった。後期からは授業は相変わらずオンラインだったけど、部活も再開して毎日忙しくなった。この頃にはオンライン授業にも慣れてきて、とりあえずpcは開くけどzoomは聞き流して他の作業をするようになっていた。学科の試験はレポート形式が多かったから、とりあえず授業の資料だけちゃんとダウンロードしておいて、提出ギリギリで書き上げるみたいな感じだった。
3年も実験が始まっただけであとは2年の後期と変わらなかった。去年1年間でデータも蓄積されていたから、楽そうな授業を選んで受講して卒業単位数を確保することに勤しんだ。院進するか就職するか悩んでいて、別にメーカーに入りたいわけでもないし勉強もしたくないしとりあえず就活を始めた。夏のインターンは自分の実力試しに外銀受けたけど、グループ面接で他の学生に圧倒されて、自分やばいんじゃねと焦った。もちろん全落ちで、日系の数社インターン参加して夏は終わった。焦ったからといって模擬面接とかESの添削とかは一切しなくて、就活対策なるものは結局最後まで一度もすることはなかった。秋冬は日系の入りたい会社を何社か受けて第一志望群からインターンを評価されて内定もらえて、4年は部活に集中したかったから、4年に学年が変わる前に終活した。そして院進はしないことにした。
4年はマジで部活以外の時間が暇すぎて大変だった。授業もないし就活もないし院試もないし研究室もそこまで忙しくないから、部活とトレーニングだけやる毎日。入社前に差をつけるために勉強するかとも思ったけど、どうせ自分が入る会社に優秀な奴はいないだろうし、何より面倒くさかったから特に何もしなかった。あと、部活に一点集中しすぎてしまって他の世界を見れていなかったんだろう。とにかく部活で結果を出すことにこだわった。だけど結局部活では結果を出せなかった。
部活も終えて卒論もひと段落して思うことは、もっと真面目に勉強しておくべきだったなということだ。中高大の10年間、常に部活を言い訳にして勉強から逃げてきた。大学に入ってからはテスト前すら勉強しなくなってしまい、どんどん頭は衰えた。貴重な18-22歳という時間で脳に刺激をほとんど与えず、何も思考することのできないバカを生成してしまった。やってしまった。今から勉強しようと思っても、体が勉強をしないことに慣れてしまったから机に向き合うことができない。社会人になってからも仕事が忙しいからって言って何も勉強しないんだろうね。仕事もハードな知的労働に比べて忙しくもないくせに。そうやって無価値な人間が出来上がるんだ。
これから先の人生、大学の4年間で開いてしまった差は広がる一方なんだろう。高校や大学の同期がどんどん世界に羽ばたき活躍しているのを見て悲しくなるのがもう目に見えている。
相貌失認っぽい(人の顔の見分けがほとんどつかない)状態で婚活しているんだけど、相手の顔とか容姿って嘘でもほめるほうがいい?
ここまで何人かに会って話をして、それなりに皆さん良い方で話もよく盛り上がり、仮交際にも進めたけれど、正直顔の違い?みたいなものがほとんどわからない。
太っている・やせているというのはわかって、これについてはやせているほうが好きというか太ってるまるい顔の形は嫌いなんだけれど、やせているAさんとBさんの顔の差?がわからない。
AさんとBさんを横に並べたらもちろん違いはわかる。でも、違いがわかるだけでかっこよさレベル?の差みたいなものは分からないから、みんな同じに見える
なので、どの人にも顔が良くないなあとかは感じないけれど、同じだけかっこいいな、顔がいいなみたいなことも感じられなくて、容姿をうまく誉められない
婚活だし、本当にかっこいい人が一人もいないのかもしれないんだけど、ジャニーズとか見ても顔の良さみたいなものがちんぷんかんぷんなので、なんとなくそれ以前の問題な気がしている。
今まではそんなんでも人の容姿を褒めたりすることがなかったから困らなかったんだけど、ここにきてお世辞でもかわいいと言われるようになり、このままでは良くないのでは?と少し悩んでいる。
いくらなんでも、何も言われないと向こうも気にするのでは?こちらからもよくわからないけどかっこいいと言わなければいけないのでは?と思うようになって……。
ただ、いわゆる「この人カッコよくないけど、お世辞でほめておこう」というのはまだなんていうか、自分の中ではかっこいい/かっこよくないは分かってて言ってることじゃない?
でも私の場合、なんというか、新人教育でよくある「これ本当に分かってる?」「わ、分かります!(全然分かってない)」みたいな嘘っぽくて、不誠実に感じてしまう。
それに、多分今は頑張って言えても、元々容姿がわかってなくて興味関心が全く向かないんだから、いつかはボロが出てしまう気もして……。
嘘でも褒めてくれた方がやっぱり嬉しいものなのかな。今の状態だと「とりあえず言っとけ」みたいな褒め言葉になってしまいそうで、なんだか申し訳ない気もしている。
各言語やフレームワークのドキュメントすら全然理解できないため、まだ初心者にすらなってない。
ドキュメント読んでもほとんど理解できないレベルの、初心者にすらなってない学習中の人はどこで質問すればいいんだろうか?
QiitaやTeratailをのぞいて、言語かフレームワークのタグ+解らないことで調べてもちんぷんかんぷん
というか、質問したくても「ググレカス」「ドキュメント読め」って言われそうで怖くて質問できない
多分これが近いかなって思われるコードコピペして流用するも、エラーが出て解消できない
コードをまるごとのせたら優しくレビューしてくれるサービスとかないのかな
多分ないだろうな
「ワイは努力して10キロダイエットした」は全然良いよ。頑張ったね。偉いね。
問題はそこから派生して「誰でも努力すれば10キロダイエットできる」「10キロダイエットできないのは怠け者だからだ」みたいな考え方になること。
運動する時間がない、ジムに行ったりヘルシーな食事をとる金がない、仕事に気力を奪われて工夫する気力も起きない、脳に器質的な問題があって自制心を持つことができない。
いろんな理由がある。収入が少ない仕事に就くのは努力が足りない?じゃあどうしてそんな仕事に就くことになったのか。なんでそんな学歴なのか?
どんどん元を辿っていけば結局生まれや遺伝や何かの事故が原因であったり集団での人間関係ガチャであったり、もう運としか言いようがない。
恵まれている、というのも塾に行けた、という単一の事実だけではない。
親のことだけで言っても子供を塾に行かせる、という常識があったり、学歴に意味があるという価値観を持っていたり、収入であったり人格であったり、今のあなたを作るためにあった全てのものは運としか言いようがない。
たとえば親がそこそこ知的な会話ができる人間か否かだけで幼稚園以前に知識量に大きな差がつくんよ。
小学校に上がった段階で教科書も授業もちんぷんかんぷんだったら学年で上位になろうという努力すらする気になるだろうか。する気になったとして、何ができるというのだろうか。
反論とかじゃなくて、事実だからくれぐれも忘れるなよ。ってことなんだよ。
特に恵まれて成功している人ほど運だなんて思いたくないのが普通の人間心理だし、だからこそ口酸っぱく言わないといけない。じゃないと福祉の話とか全く噛み合わないからね。
・理科2科目+数3必須は相当キツい。早慶理工がいかに難しいかよくわかった。
私立理系でこの科目負担を必須にしているのは早慶くらいしかない。
英語、数3なし、理科1科目という入試科目がデフォな有名私大理系学部すらめちゃくちゃあるとわかってビビった。
・理科アレルギーの自分ですら化学はサックサク終わらせられた。力学と原子以外の物理はひたすら地獄だった。初歩レベルでとにかく苦しみ抜いた。
「理解はほどほどに流し、暗記で対応できるものは全部丸暗記してしまおう」
という、科学に対する知的好奇心溢れる受験生が蛇蝎の如く嫌う、学問的態度が極めて不誠実な受験特化戦略をとったとしても、
A4両面印刷15枚程度の情報量で大学受験範囲は網羅できてしまう(日本史や世界史だとマジで100枚じゃきかない)。
そのくらいのちょびっとの暗記量にもかかわらず死にそうになってる人はかなりいた。
・物理化学ともに全統記述で偏差値65以上、共通テストで9割以上レベルの学力を身につけたところでサイエンス系の時事ニュースへの理解度は
「何言ってんのか全然わかんねえ」
程度にとどまる。
下手すりゃちんぷんかんぷん度合いは私文時代となんら変わらない。雑誌のNewtonとかまず理解できない。
自分はITの解像度が低いから、はてなのお兄さんたちが話していることはすべて「なんか難しいITのこと」と雑に認識しているけれど、
会社はDX人材がどうたらとか言っているから、自分も多少は理解しなくてはいけないのか…?とは思っているが重い腰が上がらないよね。
とりあえずデータ分析しやすいエクセルデータの作り方(分析するとは言っていない)のお勉強をした。
セル結合しないとか、一セル一データとか、単位は書かないとかそういう基本的なことだけれど。
今度研修としてpythonを少しかじるらしい。大学時代の教養の授業でC言語を3コマくらい触って、for文程度の基礎の基礎はかじったことはあるのだが、基本の考え方は一緒だろうか。
そんなに難しくないといいな。
はてなのお兄さんたちの難しいITの用語を聞いているとこんなことも知らない自分が悲しくなるけれど、きっとはてなのお兄さんたちは私の専門分野のことは何一つ知らないだろうから、お兄さんたちが私の専門分野の話を聞いたときはきっとちんぷんかんぷんになるだろうと想像することで溜飲を下げている。
でも私の専門も40年後生きているか分からんしなぁ。知的労働部分はすべてAIにとって代わられているかもなぁ。コミュニケーション部分と手を動かす部分しか必要なくなるかもなぁ。
要約なんだろうけどいまだにちんぷんかんぷん
嫌いといいつつやるのでいいんですけど……
RPGは基本1本道にしてくれよ。
マルチエンディングは疲れる。
イヤなポイントは、周回しないと物語の謎が解けなかったり、会えない重要NPCがいたり(しかも周回後で初登場(?!))するところ。
そりゃね、NPCとの会話でYes/Noの答えに応じて貰えるアイテムが違うとか、親密度が足りなくってデートイベントが無いとか。
そういうのはありだよね。あくまで選択肢に依存するその場限りのルート分岐だし、その後の物語のおしまいは一緒だし。しかもそういうのって正解ルートがあった上での、外れ値に乗ると損するって感じのさ、やつよね。
そうでなくて、1周目では絶対行けないマップがあるとか、1周目でこういうのをしないと別のエンディングが見れないとか。
そういうのって周回を強制させてますよね。それって違くないですか?
あとね、あくまでゲームを始めてエンディングを迎えたら、そのセーブデータはそこでおしまいなのよ。なんで次のセーブデータに干渉してるんですか?なんのあれで1周目の行動が2周目に影響するんです?
うまーくしてあって、最近流行りのメタ要素があったり、選ばれなかった元彼女が選べよ!って脅してきたり……そういうのはまだ許せるけどさ。でもメタ要素も突然セーブデータに干渉してくるのは違うからね。干渉すればいいってもんじゃねえのよ。
たまーに周回のことをやりこみ要素とか言う人いますけど、やりこみ要素ってそういうのじゃないから。
やりこみ要素ってのは、ゲーム内のミニゲームのスコアをカンストさせるとか、プレイヤーステータスをカンストさせるとか、そういうのですよ。
プレイヤー側が見出すものですよ、やりこみ要素って。制作側が周回をやりこみ要素として提示してどうすんの。
要するにね、RPGの世界観設定をプレイヤーに理解させたりするために、周回という手法を取らせるなって話。
それなら普通にストーリーの中にぶち込んでくれ。やり込みしないと世界観が分からないRPGとか、ありえん。
あと話が戻るけど、物語の謎が解けないのはほんとに許せん。
RPGの本質は、ゲーム内の主人公がその物語を余すところなく生きていくところにあるのに、プレイヤー側だけが全貌を理解してるのってどうなんだ。
まあそういうのがプレイヤーにとって面白いのは分かるけどね。途中に登場するNPCのセリフは、1回クリアしてないと理解できないとかね!この伏線だったんだぁすげぇ!ってなっちゃうけどね。
他には周回で変化する要素がエンディング程度なのもちょっと微妙。
やるならニーアみたいに視点を変えたり物語の続きが出たり、Detorit:BecomeHumanレベルでガチでストーリー変えてこいよな。
逆に強くてニューゲーム設定が付けば、いくら周回要素あっても許せるわ。
はーあ。
周回めんどくせー。
アポロニウーッス
なんでこんなことしてるの?って思うことは多々あります。
結局自分自身の理解力が低いからだろうなぁとは思うのですが、改めて「この為に使われるんだよ」と言われても最初っからちんぷんかんぷんな分余計にわからなくなります。
まさかこのようわからん撓みみたいな図が天体の軌道を予測するのに使えるとは思わないじゃないですか。
でも導き出せるって昔の重力を発見した人は言ってたみたいです。
でも円錐でええんか、その円錐の頂点の角微妙に曲がってないっすかとか考えもするんですが
そんなもん人間が生きていく分で実感できるような曲がり具合じゃないだろうな、と書いてて思うんです。誤差って奴なんでしょうね。
まぁ、適当に解釈しただけなんです、学生時代に理解を終えておけという話かもしれません。