はてなキーワード: うつつとは
どうやら攻撃を受けたらしい。
至近距離だったせいで前足の動きを捉えきれず、身構えるのが遅れたんだ。
いきなりモロに食らってしまった。
奮い立たせた戦意が、途端に削ぎ落とされていくのを感じる。
早く反撃しなければ。
半ば朦朧としたまま右足を突き出す。
「……貴様!」
攻撃はクリーンヒットしなかったが、意外にも相手の顔は歪んだ。
「よくも、よくぞ本気にさせたなっ!」
相手の勢いは衰えることなく、むしろ増大させてしまったようだ。
「ふ、ぐ……」
今度はしっかりと意識内から攻撃を食らったにも関わらず、その威力は驚くものだった。
「このっ!」
反射的に殴ったが、まるで効いている素振りがない。
マズいぞ、こいつ予想以上にケンカ慣れしている。
実力に差があるのは分かっていたが、まさかここまでとは。
勝てる気がしない。
どんどん血の気が引いていくのを感じた。
「キトゥンー!」
だが、その時、仲間たちの声援が俺の耳に届いた。
それが聴こえないほど、さっきまで追い詰められていたんだ。
「頼むー!」
大丈夫だ、まだ戦える。
「うっ……!?」
足でだめなら、今度は口だ。
「やめろ、この野朗!」
相手も反撃してくるが、俺は意に介さず、しつこく同じ場所に牙を突き立てる。
噛みつきを避けてくれば、今度は爪で、爪を避けられたなら今度は噛みつく。
どれほど効いているのかは実感がなく、正直いって勝てる気持ちは沸き起こらない。
それでも俺はひたすら攻撃を続けた。
「負けないでくれー!」
「こいつ、いつまで、やるんだ……!」
体がボロボロになる前に、どちらかが降参して終わる。
逆に言えば、気力が続く限りは終わらない。
俺に意思がある限り、決して負けることはないんだ。
「いけー! キトゥン!」
「……はっ?」
目を開けて、まず視界に入ったのは壁。
次に捉えたのは、本の山だった。
なんだ、頭が回らない。
それに、全身にけだるさを感じる。
状況を理解するまでに数秒を要した。
「夢って……ふざけてんのか」
どうも俺は、いつの間にか眠っていたらしい。
変な姿勢で寝てしまったようで、身体の節々が悲鳴をあげている。
「いてて……ガイドは?」
「さっき帰ったよ」
しかも直前の話題に引っ張られて、キトゥンになった夢を見るとは。
俺自身が猫になれば気持ちが分かるだろうと、どこかで考えていたのだろうか。
思い上がりも甚だしい。
あんな夢を見ているようじゃあ、俺もあの動物番組の仲間入りだ。
「あ、キトゥンおかえり」
自己嫌悪に苛まれていると、なんとも微妙なタイミングでキトゥンが部屋に入ってきた。
「ニャー」
当事者はそんなことを露知らず、部屋に入ってくるや否やこちらに擦り寄ってきた。
畜生が、こんな時に限って。
俺は仕方なくキトゥンを抱きかかえると、おもむろに膝の上に乗せた。
正夢なわけはないが、一応だ。
パッと見は大丈夫なように見えるが……これ以上まさぐると嫌がるしなあ。
「ああ……嫌な夢を見たからな。動物を、自分とは違う存在を、自分の尺度で決め付けて、言ってもいないことを勝手に喋らせて……」
「うーん? それ、人が他人に対してやってることと何か違うの? 割と見たことあるけど、そういうのやってる人」
弟が何か言っているが、まだ夢うつつだったので上手く聞き取れない。
「……それもそうだな」
あるゲームで体験してみて考えが変わった。ゲームのオートプレイ機能は、スキマ時間を奪い合う現代の娯楽において、スキマ時間の消費を非同期化できるという効果があるのだ、ということに気がついた。
オートプレイを使うと、たまにオートプレイの様子を確認するだけで諸々進んでいくという感じになるので、スキマ時間をまとまって確保する必要がなくなり、読書みたいな別のことをしながらでも余裕でクエストをこなしたりできるようになる。心理的なハードルはかなり下がってる気がするし、その間はスマホではゲームが動いてるので別のことにうつつを抜かせないという副次的効果 (???) も生まれる。
ソフトウェアエンジニア向けに言うと parallel (並列) / concurrent (並行) のうち、concurrent (並行) にスキマ時間を使える、という感じ。スキマ時間を parallel (並列) につかうメディアというのも存在して、ポッドキャストを聴きながら家事をする、みたいのはそういうのにあたるんだろうと思う。
男性のホモソーシャルは男女関係よりも男性同士の関係を重視する。
「女とイチャつくより俺たちと遊んでるほうが楽しいよな?」とか「女なんかにうつつを抜かしてないで部活の仲間のために練習しろ!」みたいなやつだ。
女子だと素直に友達の恋を応援したりするのかもしれないが、男子はなんとなく「あいつは女子の味方かよ」「男らしくねえな」みたいな感じになって冷やかされたりして恥ずかしいのだ。
だから男子は好きな子ができると「話しかけたいけど仲良くはできない」というアンビバレントな状況に陥ってしまい、どちらも満たす手段として「からかう」というチョイスをすることになるわけだ。
いやまあ、からかうから好きだというわけではなくて、単に「女なんか何とも思ってねえぜ!」というかっこつけである場合も多いんだけどな。
ただ、そういうホモソーシャル的な圧力は幼いうちは非常に強いけど、成長して自立していくにしたがって次第に薄れてくる。
つまり「ホモソーシャルを抜けて恋人をつくる」という選択肢が生まれてくる。
なんだか「卒業」的な感じ。
一足先に大人になりやがって感。
逆にいつまでもホモソーシャルに属したまま女性と付き合おうとすると「女をモノのように扱うヤリサー」みたいなのになったりする。
「男同士の関係こそ大事だよね、女なんか奴隷だよね」というアピールのために男のコミュニティに女性を引きずりこむわけだ。
(補足するけど、ホモソが極端に悪いかたちで働くとこうなることもあるというだけで、男は全員レイパー予備軍とか言いたいわけちゃうで)
逆パターンで、女性と付き合えないからいつまでもホモソーシャルから抜け出せないのがオタクと言えるだろう。
社会人になって男だらけの中小企業とか行くとまたホモソーシャルが強まって女性差別的なオッサンになっていったり、
うちは父がほぼ空気だったので男という存在に私が慣れていない。
そして母の存在
そんな父に私が生まれる前に愛想をつかした母は父以外のいろんな男に堂々とうつつをぬかしていた。私の絶対的支配者である母が安易に男には媚びる様。その嫌悪。
ここかなと思う。
「男性不信」について何度目かのサーチ
きっかけは人それぞれだ。
また極端に潔癖な女性もいる。
しかし私の嫌悪感はインターネットにあるものとはちょっと違う気がする。
「女だから頼りないなー。ああわかるお前も不安だよな?大丈夫俺が従わせてやるから安心して身を任せろよ。お前も嬉しいだろ?」
とそんなセリフを シミだらけ、ほつれだらけの服を着、イオンで買ったようなボロボロなシューズを履いた小太りで出っ歯な口呼吸の男性が臭い息を吐きながらなにかでベトベトな手でこちらに触ってくる 感じ。
・・・・・・・・・・結論的にろくな男性に合ったことがないだけのような気がする。
(私自身は偉そうにより好みできるような顔面はしていないのだが。)
しかし悲しかな印象に残るのはそういうやばい、強烈な男性ばかりなのだ。
父の不在により生まれつき男性というものに私は慣れていない。学校はかなり女子が多かったし職場も女性だらけで。
そこで出会った男性は少しずつ↑のような人だらけで、それが男だと思ってしまった。
だけど私は技術職で。
就いた技術職はことごとく女性ばかりで、そうなると自然な流れで女性の会合にばかり参加することになり、女性主体な会合で堂々と参加されるのはどうしても悪目立ちをする男性が多く(具体的にいうと話に女性同士の会話に無理やり入ってきて長時間つばを飛ばしながら一方的にいかに自分がすごいかと自分の話ばかりする人だ。女性主体な会合はまとも?な男性の参加率は低いし、参加されたとしても空気を読んで女性主体の輪を壊さぬようにアシストしてくれるのだ。それはあまりに自然的だから印象的に残らないのかもしれない。)
ようするに私は男性について「愛」がないのか?
じゃあどうしたら男性に「愛」を持てるのか?
自分が唯一知っている方法は、母のやり方。嫌悪のケース。子供に平気で暴力を振るう強すぎる女がそこらへんのおじさんに弱く家庭的な女アピールする、あれ。参考にならない。しかしあれしか知らない。
誰か教えてほしい。
しかし現状それを教えてくれそうな男性で思い当たるのは上のような勘違い男性しか浮かばないのだ。負のループ。困った。
そしてもうひとりの私が言う。「今まで私を支えてくれたのは女性ばかりだったよ。(女性ばかりの世界で生きてるので実は傷つけてきた人だって女性ばかりなのだが)男性って本当にいるの?今で十分幸せじゃない?」と。
だけど世界中の1/2の人達に不信を持つのはあまりにもったいない。もったいないのだ。わかってる。いやしかし、
例えば鎧をまとえば変われるだろうか。もっとブリーチを掛けて舌にピアスでも開けようか。そうすると普通の男性は避けてくだろう。こっちが普通じゃないんだから。ああ、どこまでも負のループ。
【初めに】
コピーミスで一節が抜けていた。申し訳ない。【】で囲まれた部分が追記である。
【本文】
ビジネスホテルに泊まるときは大抵全裸だし、男女関係なく素っ裸で過ごしたら、さぞ気持ちがいいだろう。
そんなことを呟こうものなら、不審者扱いされるのは目に見えている。挙句の果てに、公共の場で脱ぎだして陰部を露出する不審者予備軍と誤解され、警察のお世話になるかもしれない。
だが、よく考えてほしい。ああした人たちは、自分の全裸、特に陰部を見てほしいのであって、裸になりたいのとは少し違う。それに、皆様も思うことはないだろうか。たとえば大浴場に浸かったときの安らぎ。もしもそれが露天風呂だったらなおのこと心が緩み、湯の中に嫌なことが溶けていく思いがしないだろうか。
目の前にどこまでも緑が、あるいは紅葉が広がっていたら。あるいは、絶えることのないとどろきを繰り返す海洋が広がっていたのなら。これほどまでに自由を感じつつ、大いなる存在に受け止められている安心感を覚える場所はないはずだ。何も身にまとうことなく立っていると、海風が全身をそっと撫でていき、普段どれほど重いものを身にまとってきたかを、嫌でも意識させられる。
とはいえ、男女混浴が可能な場所は国内でも限られている。ましてや、近年は混浴のマナーの低下が甚だしく、混浴を取りやめてしまう地域も多いと聞く。ある意味では仕方がないのかもしれない。混浴が誕生した時代とは、私たちの羞恥心の感覚も変わってしまった。
そういうわけで、私は混浴文化がまだ息づいている、ウィーンにまで足を運んだのである。概して、ドイツやオーストリアを含む中東欧の人々は裸体に対するタブーが弱く、混浴についても寛容なである。緯度が高いので、全身で太陽を浴びたいのだろうか。冬になると日照量不足で気分が落ち込む私としては、その気持ちはよくわかる気がした。
もっとも、私は全裸になるためだけにオーストリアに飛ぶような酔狂な人間ではない。
私は建築や美術にも関心があり、この旅行の主目的は、クリムト、シーレ、ココシュカといった人々の作品を鑑賞することであった。なので、脱衣はどちらかといえば、時間が空いたときのおまけである。
日本と同じで、月曜日には休業の美術館が多い。なので、月曜日にそうした巨大温泉施設に向かった。ウィーン中心街からおおよそ三十分ほどのオーバラー駅前の、テルメ・ウィーンと呼ばれるところである。
駅を出ると目の前に巨大な建物があり、そこからは既に硫黄の香りがしている。そうしたところは我が国の温泉とよく似ており、妙な安心感がある。片言のドイツ語で入場料を払い、タオルのレンタルを済ませ、ロッカーに向かった。
ロッカーのカギは電子式で、かざすと自動的に開閉されるというものだ。慣れるまでに時間がかかったが、すぐに便利だとわかった。荷物を持ったままガチャガチャと回すのは大変だからだ。ちなみに、このロッカールームの時点ですでに混浴で、男性女性関係なく着替えている。もちろん、慎み深い人のために個室の更衣室もあるのだが、別料金だ。
ちなみに、温泉施設ではあるがすべて全裸で過ごすわけではなく、全裸なのは奥のサウナコーナーのみである。そのために私は一応水着を持参しており、ついでに防水のバッグも持ってきた。
まずは、せっかくなので水着エリアで温泉を楽しむ。とはいえ、水着エリアは温水プール同然であり、浸かっているとあたたかいが出て風に当たるとすぐに水着が冷えてしまうといった代物である。せいぜい人肌程度であり、温まるには不足である。
これはときどき指摘されることだけれど、日本人の湯加減の好みは、ヨーロッパの人々のそれよりもかなり高いらしい。ハンガリーは温泉大国で知られているが、やはりそこも湯加減はぬるい。ただ、その程度の温度でなければ、ガイドブックで見かけるように、湯につかりながらのんびりとチェスの対局をやるわけにもいかないだろう。
他にも、子供立ち入り禁止エリアというのがあり、ムーディーな照明と共に、カップルや夫婦がぷかぷかと浮かびながら語らっているコーナーがあった。ここも温水プールでほとんど温まらない。日本の温水プールみたいに、塩素臭くないのはありがたいのだが、やはり汗をかかないと物足りなく感じてしまう。
そうしたわけで、水着エリアを堪能した後に移動しようとしたのだが、サウナエリアがどこかわからない。あちこちうろつきまわり、子供に泳ぎを教えているらしい人やスタッフと思しき人物に、「ヴォー・イスト・サウナ?」(サウナはどこですか?)などとつたないドイツ語で尋ね歩くうちに、やっとのことでたどり着いた。
なお、このゲートの先は別料金であり、鍵をタッチして入る。清算は帰りだ。そして、注意書きにはドイツ語と英語で「この先水着の着用を禁じる」と書かれている。なんとも徹底していることだ。私は軽快な電子音と共にその奥へと進んだ。
サウナコーナーは、それほど変わった印象はなかった。ただ、見かける男性が皆素っ裸なので、私も水着を脱いだ。それほどの羞恥を感じなかったのは、一つには周囲には男性しかいなかったからだろう。それに、ここでは全裸が正装なのだ。だったら、むしろ何か着ている方が恥ずかしいのではないか。そんなことを思ったのである。
サウナの入り口には温度が書かれており、四十五度、五十度、六十度、それから九十度に分かれている。ひとまず五十度のところに入ると、既に老夫婦がくつろいでいた。ここで初めて裸の女性と遭遇した。
二人は、私の存在を気にかける様子もなく、くつろいだ様子だった。私も、確かに目の前に女性がいるのだなあ、ということは考えたのだが、気にしてもしょうがなかったので、ぼんやりと天井を眺めることにした。男性で前を隠している人はほとんどいなかったので、自分もそれに倣ったのだけれど、個人的には気持ちが良かった。世間体を気にせずにリラックスした姿でいるのは、何とも言えず心地よい。
ちなみにその老夫婦のいたサウナでは、腰かけるところがチェアベッドのようになっており、仰向けにくつろげるような形になっていた。うとうとしているといつの間にか隣に座った男性が、ペーパーバックで何やら読んでいる。お風呂ではなくてサウナで読書、贅沢この上ない時間だ(もっとも、後で注意書きを見たら、サウナの中の読書禁止、と書かれていたのだが)。
しばらくして、サウナを出てシャワーを浴び、他の温度のところを回ったり、冷水プールに体を浸したりした。日本の温泉は露天風呂がメインで、サウナが複数あるところは珍しい気がするが、ここでは様々なタイプのサウナがあり、存分に楽しめた。
たとえば、スチームサウナというのがあり、ここでは猛烈な蒸気で包まれる。汗が蒸発しないのでなかなかにつらいし、持っていたタオルもすぐにびしょ濡れになってしまうのだが、熱風がきつくないので、肌には優しい気がした。眼鏡をかけていると、何が何だかわからなくなってしまうのだが。
ちなみにこの眼鏡、裸眼で転ばないように、日本でサウナ用の眼鏡をわざわざ購入したもののである。
【ところで、このサウナコーナーには、外がある。サウナなので当然素っ裸で歩くのだが、これが気持ちがいいことこの上ない。芝生の上を歩けば、まるで熱帯民族になったようで愉快だ。そして、歩いた先には小屋があるのだが、そこもまたサウナである。
そこでは、おおよそ温度は九十度で、定期的にスイッチがオンオフになる。オンになると、そこにはタオル一枚のおじさんがやってきて、香りのする水を炉に撒く。そして、巨大なタオルでサウナの人々に熱風を浴びせるのである。
それがまた非常に心地よい。異様な高温のはずで、現に乳首が痛いほどなのだが、それでも不思議と生きている実感が与えられるというか、幸福感と高揚感が感じられる。それは他の人々も同じなのだろう。おじさんのパフォーマンスが終わると、一斉に歓声と拍手がする。ロウリュウ、と呼ばれるものに近いのだろう。
そのあとも、おじさんは一人一人に熱風を送る。そのたびにあおがれた人々は嬉しそうだ。私も、「ゼア・グート。アバー・ゼア・ハイス」(とても気持ちがいいですが、とても暑いです)と、定冠詞の活用が無茶苦茶なドイツ語で応じた。すると隣のおじさんがあおがれたときに「カルト・カルト」(寒い、寒い)などというものだから、思わずその場は笑いに包まれた。
私に向かって風を送るときに、両手を合わせてお辞儀をしてくれた。たぶんタイかどこかと間違えているのだろうが、悪意よりも親しみを感じたので、こちらも会釈した。腰かけるところが熱すぎて胡坐をかいていたので、仏像か何かと勘違いしたのかもしれない。
その後、全身をほてらせながら野外にある二十五メートルほどのプールで体を冷やした。何往復か泳いでから、仰向けになって曇り空を眺めているうちに、これほどの幸せなはないだろうな、と感じられた。何のしがらみもなく、何の規制もなく、ただ存在するだけ。過度な欲望もなく、競うこともなく、誰からも干渉されない時間だけそこにあった。
それに、水着を身につけずに泳ぐと体を締め付けるものが何もなくて、全身を区別せずに流れていく水が本当に心を自由にしてくれる。それに、誰もお互いの裸をじろじろ見たり気にしたりしないのも、気持ちが良かった。あたたかな無関心というか、あるがままの姿を受け入れてもらっている感覚になるのだ。
人間の身体のどこに猥褻なところがあるのだろう、表現の規制は何のためにあるのか、などと大げさな議論が頭の中に形を取ろうとしたが、そうしたものは普段日の当たらない陰部に太陽が差す気持ちよさに溶けてしまった。
そうしたわけで、私は結局三時間以上もそこで過ごすことになった。】
さて、三時間過ごしたので、そこではいろんな人を見ることができた。もちろん、凝視したわけではないけれど、それでも混浴に来るオーストリア人にはいくつかのパターンが認められた。
その一、スポーツマンタイプ。ものすごい筋肉量で、アスリートか何かのようだ。これだけ鍛えていれば、自分の身体に恥ずかしいところなど、どこにもないと言わんばかりだ。ギリシアやローマの彫刻そっくりである。スポーツマン同士で何やら楽しげに話していることが多い。
その二、力士タイプ。非常にでっぷりとした肥満体系のおじさん。人からどう見られているかそんなに気にしていない印象。こちらも堂々と歩いており、楽しそうにしている。
その三、老夫婦。なんというか日本の混浴にもいそうな、のんびりした雰囲気。ときどき湯船の中で抱き合ったり、ほっぺたにキスしたりしている。ちなみに、注意書きには「キス以上のことはしちゃダメ!」「十六歳未満の入場禁止!」と書かれている。
その四、比較的若いカップル、あるいは若い男女。よくわからないのだけれど、「みんなで渡れば怖くない」的な感じで一緒に来たのかもしれない。
ちなみに日本人は私だけだった。それから一人だけアフリカ系の人がいた。それ以外はみんなヨーロッパ系。
で、こうして振り返ってみると、比較的若い人が多い。それでも、私はあまり気にならなかった。というのも、前も言った通りここは全裸が正装なのであり、それについてとやかく言うほうが変だ。確かに、きれいで魅力的な人もいたし、中には私の好みの人もいたのだが、雑踏ですれ違う以上の感慨はなかったし、わざわざ振り返ることもなかった。
混浴について、猥褻だとか下品だとかいう意見があるが、私はまったくそう思ない。そもそも、ここは風呂とサウナであり、いい湯だな、以外の感想はない。たぶん、混浴について批判的な人は、マナーの悪い人と一緒になってしまったのか、そもそもお風呂がそこまで好きではないか、なのではないか。人様のことだから、勝手な判断は差し控えるが。
というか、見えそうで見えない極小ビキニなんかよりも、素っ裸の方がよっぽど上品な気はする。潔いし。隠すから下品だとか猥褻だとか言われるんじゃなかろうか。みんな最初からすっぽんぽんだったら、誰も気にしないだろうし。隠せば隠すほど、そこに注意が向くし、逆説的にそこに注目してくれと言っているようなものな気がする。
それと、全然関係ないけど、女性でも腋毛もじゃもじゃの人は多いのは面白い。話には聞いていたが、実際に目にするとやはり興味深い。陰部がどうなっているかはじろじろ見なかったからわからないけれど、向こうの人は剃っているとはよく聞く。ただ、そんなことも温泉が気持ちいいのでどうでもよい。
そういうわけで、私はオーストリアの混浴を十分に楽しんできた。予想していた通り、とても気持ちが良かった。日本にも類似したサービスがあればいいのに、と思ったが、マナーを一定の水準に保つことは難しいだろう。きっと、ナンパしたりじろじろ見たりする行為が横行するに違いない。一度絶えてしまった、混浴の文化を再びメジャーにするのは、難しいだろう。
プールサイドで裸のまま横になり、夢うつつのまま時間が過ぎていく経験は非常に贅沢だった。しかし、これは今の温泉文化とは、少し違うかもしれない。
個人的には、自分がやりたいことをやったので、満足している部分はある。今後どうするかはわからない。恋人がいないときだったので、とりあえず全裸になってはみたのだが、もしも今後も恋人が見つからず、行きたい場所が思いつかなかったら、どこか別の国でヌーディストビーチに行くかもしれない。それか、趣向を変えて、全裸ハイキングか全裸マラソンかに挑戦するかもしれない。
もっとも、この混浴体験ですっかり気が済んでしまい、数年後には興味すら持たなくなっている可能性もある。それはわからない。
ただ、やりたいことをやってみて、それなりに面白かった。それで十分なのかもしれない。
最後に、脱いではいけないところで脱ぐのは絶対にやめましょう。これだけは強調しておく。
【最後に】
本記事はカクヨムにも掲載されている。私が投稿者本人であることは、カクヨムでは連載中であり、現時点でも未公開になっている部分が含まれていることが証拠になる。
【付記】
ヌードバイクみたいな、ヌーディスト活動経験者の増田は、ほかにもいらっしゃるのだろうか。あるいは、ヌーディズムに関心がある、だけでも潜在的にはどれほどいるのだろう?
【アクセス】
地下鉄U1の終点、Oberlaa駅
でも著作権にてらしてみると、歌詞ってけっこう気を配らないといけないもので。引用とか権利者の明記とか掲載場所とか、色々なことを考えつつ載せないといけないものなんだよね。
自分は歌詞にも著作権があることを知っていて、更にインターネット掲載のときの引用等の条件を調べたことがあるから↑のことを知ってた。
だけど、ある会社がさ、ある商品の宣伝のために、ある曲の歌詞(商品とは関わりのない曲の歌詞)を文字部分のメインにした記事を作成してたんだわ。
その記事に、歌詞に発生する著作権の解説ブログをリンクして『そんな記事で大丈夫か?』コメントをしたんですよ。
で。
サイレント削除かーい笑とは思ったけど、でもこれでモヤモヤはなくなったわけです。
件の会社はグッズ企画・販売をする会社なので、権利関係に気を付けている社風なんじゃないかと思っていた。
でも、担当さんの個人レベルになると1メロ全部の歌詞を記事に載せちゃうし、それをしばらく放置するくらいには上もなんにも思ってなかったってこと。
…いや、問題あるでしょ!
個人が公式コンテンツの画像をダウンロードし、公式コンテンツの文言をコピペし、勝手にインターネット上に再アップロードをすることには目を瞑れる(不本意だけど)。
でもこれは会社レベルで勝手に歌詞をコピペして再アップロードした件だったので、義憤…じゃないな。私憤に駆られて指摘してしまったんだよなあ…。
その宣伝記事のメインは、あくまでも記事内で同時にアップロードされていた商品画像。画像に絡めた歌詞(文字)部分には記事としての重きは置かれていなかった。(文字のうち9割が歌詞だったけど。それだけ画像にぴったりの歌詞抜き出しだった、おもしろくはあったよ)
該当記事の著作権違反を指摘された後、中の人は一時自粛したらしい。
記事消しの前か後か、反省の意を含んだ記事も書き、その反省記事を見た受け手達(いっぱいいる)からも「何かあったんですか?」「毎日の商品宣伝が急になくなって心配しました」「記事消さなくてもよかったのに…」などなど、あたたかい声援が続々と。
(その「消さなくても」コメントのおかげで記事を消されたことに気付けたので、ありがとう、無断転載アイコンのコメンテーターさん)
個人的には、歌詞転載の記事自体を消すのはありがたいんだけど、別記事内でぼかした反省文を書くくらいなら『消した記事はこういう理由で消しました』まで伝えてほしいな、そう思った一件だった。
会社ってそういう後処理までしっかりできるところであるべきなのではないだろうか。違うかな。
女叩きの中には女から男を取り返したいという願望もあるんじゃないだろうか。
「女はちやほやされている」「女はイージーモード」的なことを主張する非モテ男性、童貞、弱者男性は多いが、女をちやほやし女をイージーモードにさせているのは他でもない男である。
思春期以前の男性のコミュニティでは、女性は多くの場合部外者である。(女性は思春期以降もこの傾向は強い)「女子うぜえ」「女子はあっちいってろよ」と、男だけのコミュニティを発達させる。このコミュニティの中では男>女という構図が成り立つ。
ところが、思春期に差し掛かると、「抜け駆け」するものが出始める。彼らモテ男性、はコミュニティ部外者であるはずの女にうつつを抜かし、ちやほやし、閉じていたはずのコミュニティに女を入れ始める。すると、コミュニティ内で構図の逆転が起きる。モテ男性>女性>非モテ男性、という逆転である。この、男性>女性から女性>男性へのヒエラルキーの逆転は、モテ男性には起こらず、非モテ男性のみに起こる。
女叩きは回帰を求めているのではないか。女が嫌い同士集まり、女を下位に置き直すことでもう一度女子がいなかった頃の完璧なホモソーシャルを作り出す。勿論、女叩きをする要因は様々で、この限りではないだろうが、根底にはこのような懐古的な渇望もあるのではないだろうか。
サークルクラッシュに例えてみるとわかりやすいだろう。男だけの楽しいコミュニティ、そこにサークルクラッシャー女が現れる。女に惚れた男達は揃って女を担ぎ上げるが、時期に神輿の音頭は取れなくなりコミュニティに亀裂が入る。女に惚れなかった男は、ただ自分の友人がポッと出に奪われ、コミュニティを破壊される様を眺めるしかない。クラッシュの原は、女だけでなく下半身に支配された男にもあるはずだが、男同士友人を維持するためにはクラッシャー女を叩くしかない。
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という風に解釈してみたんだがどうだろう?思春期のノリについていけず零れ落ちたクソ女視点から考えてみた。友人に彼氏が出来ると面白くないし、惚気を聞くのもだるいし、何より長い付き合いの自分よりポッと出の男が優先されるのが気にいらない、というような内心は、実は男も抱えてるいるんじゃなかろうかと。「男らしさ」の足りない弱者男性はこういう風にホモソーシャルから零れ落ちてるのかなあと。
基本的に男は性自認が強く、女は性自認が曖昧だと思う。弱者男性は男ではあるけれど、性自認の弱い男なのではないか。性自認…というよりは確固たる自分の性別の信頼のような。弱者男性と名乗りながらもアイコンは美少女なところがなんとなくそう感じさせる(深い意味はないかもしれないが)。
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
【プロローグ】
授業おわりのチャイムで目が覚めた私は日直の「起立」の声にあくびをしながら立ち上がった
なにやら視線を感じてふと横を見ると隣の席の吉野は引きつった顔で、後ろの渡辺はニヤニヤしながら私の下半身を見つめていた
しまった、所謂朝立ちという現象を見られてしまった私は「礼、着席!」という日直の声に体を従えていた
「元木くん、やらしい夢でも見てたの〜?」着席した私に渡辺が問いかける
あわあわしながら隣の吉野を見ると顔を真っ赤にして俯いている
「あー、よしのっち恥ずかしがってるじゃん。セクハラだよ〜それ」
「う、うるさい!なんでお前はそんなに冷静なんだよ!」
吉野はまだ俯いて机に置かれたノートを読むフリをしているが、その焦点は左右に揺れ定まらない
「ごめん、吉野。おれまだクセが抜けなくて…」
沈黙。未だ上を向く下半身に心で叱責の言葉を浴びせながら返事を待つ私
ゆっくりと吉野の顔が正面の黒板を向き少しづつ弧を描き私の方を向く
「元木くん、みみみ、見せて!」
【過去1】
高校受験ではなるべく家に近い高校を、という単純明解な理由で選んだ南高校
廊下のロッカーにはタバコやアダルトな本が蔓延し休み時間の度にトレードがなされ、教師の摘発に逃げる生徒とケツ持ちの助けを求める者の悲鳴が響く混沌とした空間がそこにはあった
授業の大半は開始早々に夢の中である。授業終わりの起立の号令に夢うつつのクラスメイトも目を覚まして立ち上がる
そしてテントと化したお互いの下半身を笑い合う日常がそこにはあった
テントの大きさに自信のあった私は半ば下半身を突き出す格好で礼をしていたものだ
そんなある日のことである。親の離婚を機に私と妹は転校することになる
新しい学校は共学で転校初日に空いてる席に着き、隣になったのが吉野と渡辺だった
【そして現在】
男子校時代の習慣が抜けずに起こった事故であった 。渡辺が言う
32になった。今までは週3は自慰してたのにもう週一でしかやらなくなった。性欲が薄れてきた。結婚もしてないし彼女もいない独身なのだが・・・セックスしたいとも思わなくなってきた。
こうして男が性欲の減退とともにパートナーを探す意欲がうせてくるんだろうなと実感している。
今まで愛だの恋だのうつつぬかしてきたあれらは思えば性欲の幻想でしかなかったんだろうな。まあ幻想が現実になるのが恋愛なんだろうけどその入り口たる幻想である性欲がもうない。
ないというか別に目の前で裸の女性が誘ってきたらやることはやるけど現実にそんなことないだろ?
男が女を裸にするようなシチュエーションに持ってかなきゃ恋愛なんか現実的に始まらないわけで。女が自発的に脱ぐか?脱がないだろ?女なんてそんなもんよ。男の主体性に乗っかるかそうでないか選択してるだけで男の主体性がなきゃ恋愛なんかはじまらんし。でも女を裸にするようなモチベーション=性欲がもうない。
こうして独身で孤独死していくんだろうなと実感している。いままでリベラルを自称してたけど結婚するために結婚するみたいな保守っぽい考えもなんかこうして30にもなると人間の実態に即しているんだなと思えてきたな。
私は、僕リベラルに、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、リベラルというものを、この僕リベラルを頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ・・・・・・。これは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持っているのは、リベラルであるべきだ。われわれは、僕リベラルに対して、日本人の・・・・・・。しかるにだ、我々は僕リベラルというものに心から・・・・・・。
静聴せよ、静聴。静聴せい。
リベラルが日本の・・・・・・の裏に、日本の大本を正していいことはないぞ。
以上をわれわれが感じたからだ。それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気がつかないんだ。日本の根源の歪みに気がつかない、それでだ、その日本の歪みを正すのがリベラル、それが・・・・・・。
静聴せい。静聴せい。
それだけに、我々は僕リベラルを支援したんだ。静聴せいと要ったら分からんのか。静聴せい。
それでだ、二〇十四年の八月の六日だ。何が起こったか。二〇十四年の八月の六日に何が起こったか、二〇十四年の八月の六日にはだ、朝日新聞で、慰安婦関連の記事取り消し、これで大衆世論が完全に反リベラルで制圧されたんだ。俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これは僕リベラルが唾棄されると感じたんだ。
なぜか。その日をなぜか。それはだ、大衆世論というものはだ、大衆世論というものはだ、リベラルの知的権力の欺瞞に気づいていかなる世論誘導も嫌疑できるという自信をもったからだ。
僕リベラルはいらなくなったんだ。僕リベラルはいらなくなったんだ。僕リベラルがいらなくなったのが、すでに憲法改正が可能になったのだ。分かるか、この理屈が・・・・・・。
諸君は、二〇十四の八・六からあとだ、もはや憲法の欺瞞を守る愚かな守旧派になってしまったんだよ。僕リベラルが何十年間、血と涙で待った護憲ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついてにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
二〇十四の八・六から数年間、俺は僕リベラルがまともになるのを待っていた。もうこれで護憲のチャンスはない!僕リベラルが主流派になる日はない!憂国の本義はない!それを私は最もなげいていたんだ。僕リベラルにとって存在の本義はなんだ。自由を守ること。自由を守るとはなんだ。自由を守るとは、社会の公正と多様性を守ることである。
おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話をきけっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。
それがだ、いま日本人がだ、ここでもって立ちあがらなければ、僕リベラルが立ちあがらなきゃ、護憲ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本の・・・・・・アメリカからしかこないんだ。
ポリティカル・コレクトネス・・・・・・ポリティカル・コレクトネスに毒されてんだ。ポリティカル・コレクトネスというのはだな、知性主義でこらえるのが、ポリティカル・コレクトネスじゃないぞ。・・・・・・そこでだ、俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。リベラルが立ち上がる日を。・・・・・・そうしたリベラルの・・・・・・最後の三十分に、最後の三十分に・・・・・・待ってるんだよ。
諸君はインテリだろう。諸君はインテリだろう。インテリならば、自分らの信条と相反する内向きな議論の9条を、どうして守るんだ。どうして国際協調主義を否定し、国際協調の上の平和を阻害するような9条の議論というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。
諸君は永久にだね、今の僕リベラルは政治的謀略に、諸君がインテリだかのごとく装っているが、僕リベラルは衆愚なんだ。きさまたちも衆愚だ。僕リベラルというものは、衆愚を守る大バカ者になったのだということに、どうして気がつかんのだ!俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のために立ちあがるときはないんだ。
そのために、われわれの宰相を蔑むのはどういうわけだ。
リベラルだからだ。リベラルのために、日本を骨なしにした僕リベラルに従ってきた、という、ことを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。よし!知というものはだ、知性というものはなんだ。自分の使命・・・・・・。
まだ諸君は僕リベラルのために立ちあがらないと、見極めがついた。これで、俺の僕リベラルに対する夢はなくなったんだ。それではここで、俺は天皇陛下万歳を叫ぶ。
今でも部品屋だのジャンク屋だのは多少あるけど、90年代前半くらいまでのアジア最大の電気街という称号は、とうに深センに持っていかれた。オタクたちがテクノロジーではなくて萌えにうつつを抜かしている間に。
1970から80年代、TKー80からPC8001、8801くらいまでは、テクノロジー業界のスターがたくさん秋葉原から出た。
20年くらい前のモルフィーワン騒動を覚えているだろうか。時代が違うとはいえ、あんなもん深センだったらサクッと作っていただろう。
たまたま大ボラ吹きがいたということでなくて、だれもアレを見破れず金を出し、できないとわかってからもだれも作れるというやつが出てこなかった。日本の技術力はすでに低下していたのだ。
ラジ館や秋月はまだあるけど、中国製ばかりで面白いものはあまりない。なにより一番幅をきかしているのはメイドカフェの呼び込みの立ちんぼだ。秋葉原は風俗街になってしまった。
この世はうつつか
はたまた幻か
Caught in a landslide
踏み外せば最後
さあ 目を開いて
Look up to the skies and see
お天道さんを見上げてみろよ
I'm just a poor boy, I need no sympathy
僕は惨めな男 同情はいらぬ
Because I'm easy come, easy go
うだつの上がらん奴さ
Anyway the wind blows, doesn't really matter to me, to me
どこ吹く風さ 僕のことはどうかお構い無く
母さん 人を殺しちまった
奴の頭に銃を当て
Pulled my trigger, now he's dead
引き金を握ったら 死んじまった
母さん 人生は始まったばかり
But now I've gone and thrown it all away
なのに もう台無しだよ
ああ 母さん
あなたを泣かせたくない
If I'm not back again this time tomorrow
Carry on, carry on, as if nothing really matters
どうか気にせず過ごしておくれ
もう手遅れさ 俺の番だ
Sends shivers down my spine
背筋を寒気が襲い
全身に痛みが走る
Goodbye, everybody I've got to go
さらばみんな もう行かねば
Gotta leave you all behind and face the truth
お別れさ あの世に旅立つ時だ
Mama, ooo (anyway the wind blows)
ああ母さん (どこ吹く風さ)
I don't wanna die
死にたくないよ
I sometimes wish I'd never been born at all
いっそ生まれてこなければよかった
I see a little silhouetto of a man
小さな人影が見えるぞ
Scaramouche, Scaramouche will you do the fandango
Thunderbolt and lightning very very frightening me
But I'm just a poor boy and nobody loves me
俺は惨めな男 嫌われ者さ
He's just a poor boy from a poor family
奴も同じだ 貧しい身の上
Spare him his life from this monstrosity
Easy come easy go will you let me go
楽勝 じゃあ俺も 出してくれよ
Bismillah! No, we will not let you go - let him go
Bismillah! We will not let you go - let him go!
Bismillah! We will not let you go - let me go!
Will not let you go let me go (never)
貴様は行かせないぞ 出してくれよ! (だめだ)
行かせぬぞ 出してくれよ!
出してくれないの
No, no, no, no, no, no, no
ダメだ そんな 殺生な
Oh, mama mia, mama mia, mama mia let me go
なあ お願いだよ 出してくれ
Beelzebub has a devil put aside for me
地獄で鬼が待ち構えてんだよ
For me
この俺を
For me
この俺を
So you think you can stone me and spit in my eye
僕にちょっかいを出すとこういうハメになるぞ?
So you think you can love me and leave me to die
それでも僕を愛した末に見捨てたりできんの?
Oh baby, can't do this to me baby
Just gotta get out just gotta get right outta here
ならほっといてくれ ここから出て行ってくれよ
Ooh yeah, ooh yeah
Ooh yeah, ooh yeah
どうでもいいことさ
Anyone can see
わかるだろ
Nothing really matters Nothing really matters to me
どうでもいいんだ 僕のことはどうかお構いなく
Anyway the wind blows
どこ吹く風さ……