はてなキーワード: 助産師とは
あーすっごいわかる
今は8ヶ月の赤子と5歳の幼稚園児を育ててるけど2回とも妊娠後期まで服も何も怖くて買えなかった
夫がちゃんとリストに従うタイプだったから第一子の時は必要ないものまで買ってしまってて損した気がする
第二子の時はAmazonのベビーレジストリに全部つっこんでおいて産んでから産院で注文したし、必要になったら夜中でもいつでもスマホで注文して翌日には受け取れてる
絶対に無くて困るものなんてそんなになくて、例えばもし万が一オムツがきれても最悪Tシャツを何枚か犠牲にすればいい
でも爪切りだけは買って出産してすぐ使えるようにしておいたほうがいいよ
投稿主です。色々あり勢いに任せて書いてしまった。ブコメ、トラバ等々ありがたい。
で、元投稿はイクメンポエムへの苛立ちが主になっているが、反応を見て、伝えたかったのはこれではないなと思い直した。俺は弱音を公然と吐きだしたいのだ。いや、そんな重たい感じじゃない。軽口叩く感じで愚痴りたいだけだ。疲れたと言いたい。手抜きしたと言いたい。言うだけでいい。けれど言えば多方面から、何よりも妻から責めらるかも知れないと思うと怖いのだ。私のほうが大変だと言われたらグウの音もでない。足りない、もっと頑張れと言われたらなんかもう家出してしまいそうだ。もちろんそんなこと妻は言わない。だろう。が、イクメンのキラキラした投稿やそれに紐づく賞賛の声を見て、俺が勝手に「頼れる男親像」を演じ、勝手に苦しんでいるのだ。別に俺、マッチョなキャラでもないのに。ほんとそんな投稿見るもんじゃない。
それでまあ、ぐにょぐにょとした感情変換を経て、キラキラした投稿に反発するテイになった。すまなかった。と思って改めて確認してみたけどやっぱムリだ。特に「大変なママを労わろう」的なやつ。母親のサポートしてれば育児がうまく回るのか?まじか。
まあでも、他人がどうかは知らないが、俺にとっての育児は、特に初期は無力感と妻へのコンプレックスまみれだったので、ああいった投稿も分からんではない。陣痛に耐える妻の横で間抜けな顔して突っ立って、気休めにもならない励ましの声をかけ、助産師さんには屈託ない笑顔で「お父さんも産めれば良かったのにね」と言われ。ミルクを作って冷ます間に息子のギャン泣きはヒートアップし、おっぱいで宥める妻から屈託ない笑顔で「あなたにもおっぱいあればいいのにね」と言われ。悪意がないことは分かっているが、出産も授乳もできない俺は実に役立たずだなと思いつつちゃんとやっている風を装い続けていた。
だからこの滑稽さを、もっとラフに共有できたらいいなと思っている。今はどうなんだろうな。おっぱいには敵わんなあって言ったら、「男性にもできることはいっぱいあるから」とか言われんのかな。言われないかな。
※色々意見があって面白かったが本当になあ、と思ったのは「もっと酷い状況にある女性は圧倒的に多く、お前はそれよりずっと楽」ってやつ。本当になあ。俺が育児でグチグチできるよう、そういう家庭が支援される世の中を目指したいわ。
元増田で、ホロコースト否定派の特徴をいくつか示したが、一つ書き忘れていた。それはタイトル通り、「ホロコースト否定派は常習的な嘘つき?」の可能性があると考えざるを得ないことである。
https://twitter.com/lumberwendigo/status/1296814068490067969
この人はおそらく、日本のTwitter上でも最も有名なホロコースト否定派の一人であると考えられる。何かに取り憑かれたように、否定論ツイートが目立つツイッタラーだ。さてこのツイートにはこう書いてある。
調べた時に驚いたのですが、100万強というのも何にも基づいていない全くの妄想なのですよね嬉し泣き
この100万人強とは、正確には現在の推定値であるアウシュヴィッツのユダヤ人犠牲者数110万人のことである。この人は自分で調べてこの数が「全くの妄想」だと書いている。唖然とする他ない。現在のアウシュヴィッツの犠牲者数はユダヤ人以外を含めて150万人、ユダヤ人は110万人であるが、これはアウシュヴィッツ国立博物館勤務だったフランチェシェク・パイパー(Franciszek Piper)博士の研究成果であることは、アウシュヴィッツ博物館のサイトにすら書いてある事実である。こちらのサイトのどこかに書いてあった筈なのだが、今回は探し出せなかった。
アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者であったフランチェシェク・パイパーは、ホロコースト史家やメディアによって何度も翻訳され、広く引用されている学術的分析の著者である[3]。ピペルは、少なくとも合計130万人がアウシュヴィッツに強制送還され、そのうち110万人が収容所で死亡したと結論づけています。約20万人の囚人が、収容所の最終的な清算だけでなく、労働力の再配分の一環として、アウシュヴィッツから他の収容所に送還された。ホロコースト列車でアウシュビッツに運ばれたユダヤ人の約81%、89万人の男女と子供たちは、到着後すぐに死を迎え、登録されなかった。1946年のニュルンベルク裁判で発表された収容所の司令官ルドルフ・ヘスの戦後の証言も、理由は不明だが、信頼性が低く、著しく誇張されていることが証明されたのである。フランチシェク・パイパーの著書は『アウシュヴィッツ』として英語で出版された。How Many Perished Jews, Poles, Gypsies』として、1991年、1992年、1994年に連続して出版されている[4]。
博士の研究手法の詳細はともかくとして、「何にも基づいていない全くの妄想」なのだそうだ。いったい何を「調べた」のだろうか? このツイッタラーがホロコーストの情報に関し何を見ているのかはツイートを追えば大体わかるので、偏った知識しかないことくらいはすぐにわかるのだが、研究者の研究成果を「何にも基づいていない全くの妄想」呼ばわりできる神経がさっぱり理解できない。もちろん、「何にも基づいていない全くの妄想」は嘘である。この研究成果は広く知られているようで、多くの世界中の研究者に認められたものである。日本のホロコースト研究では有名な芝健介氏もその著書『ホロコースト ナチスのユダヤ人大量殺戮の全貌』で触れている。こうした学術研究をやったことがある人がいるなら推測できると思うけど、膨大な資料や文献との取っ組み合いの末に算出された数字であることが疑いの余地がない。アウシュヴィッツ博物館なのだから所蔵資料だって豊富なのである。私もほんの一部だけこうした犠牲者数の推計方法を知っているが、出発地や経由地、あるいはアウシュヴィッツの到着時などで輸送人員数の記録がある程度残っているのである。何故なら、ドイツ帝国鉄道に対して輸送人員数に基づいた運賃をナチス親衛隊が支払っていたからだ。その上で囚人登録数やその他のデータを徹底的に照合することにより、適切な仮定を経て犠牲者数を算出していくのである。めっちゃ手間かかるが、基本は「アウシュヴィッツに入ってきた輸送人員の数」ー「囚人として生き残っていた数、どこか別の収容所へ移送されたりその他の理由で収容所を出た囚人の数、病気等により死亡が記録されている人の数」=「登録もされずにガス処刑された犠牲者の数」になる。それをこのツイッタラーは「何にも基づいていない全くの妄想」呼ばわりするのである。
こうしたネット否定派の嘘には事欠かなくて、最近では「カチンの森」に関する明確な嘘話をする人もいた。ネット否定派はこのカチンの森事件の話が大好きらしい。何故なら、ホロコーストに関してソ連への疑惑を深めると共にドイツへの疑惑を薄める材料として使うことができるからである。カチンの森事件を知らない人はこちらを参考にして欲しい。
最近出会った「嘘つき否定派」は、「カチンの森事件はニュルンベルク裁判でソ連がナチスドイツを糾弾するために用いた」などと言う。ところが、このWikipediaにある通り、カチンの森事件はニュルンベルク裁判では審理すらされていない。この「嘘つき否定派」は他にも「アウシュヴィッツの第一火葬場は旧ソ連が忠実に再現したと言っている」(第一火葬場はガス室のあったところだが戦時中にガス室での絶滅がビルケナウで行われるようになると使われなくなり防空壕に改修された。戦後にポーランドが中途半端ではあるが元のガス室に見えるよう復元工事を行なった。が、この件でソ連どころかポーランドですらなんらかの声明をしたなど全く知られていない)など、嘘を言いたい放題だった。
「最も悪質な」は完全に私の主観であるが、数限りなくある否定派の嘘で、これほど悪質な嘘は滅多にないと思う。完全な悪意でしかこんな嘘は作れないからだ。
このダブルクォーテーション付きでGoogle検索すると、現時点で三件引っかかるはずである。一つはこの嘘に関する解説、残りは日本での嘘の発生源と、それをコピペした2ちゃんねるスレッドである。元ネタ自体は、解説記事にもあるとおり元々は海外発なのだが、この日本での嘘の発生源はそれをわざわざさらに悪意を持って酷い訳に変えたものである。
アウシュヴィッツの様々な議論(12):否定派は、感動的な話ですら否定論へと捏造する。アウシュヴィッツの3,000件の出産、助産師スタニスラワ・レズチンスカの話。|蜻蛉|note
詳しくは解説を読んで貰えばいいと思うが、しばしばこの話は二名の看護師が出生児を抱いて写っている出所不明の写真が添えられていることも多い。例えば以下のサイトではその写真が添えられているのを見ることが出来る。
Lets stop with the Auschwitz lies
ともかく、実際の話は「レズチンスカが分娩した3,000人の赤ちゃんのうち、半数は溺死、1,000人は飢餓や寒さで即死、500人は他の家族に送られ、30人は収容所で生き残った」と言う決して喜ばしい話であるどころか悲惨なアウシュビッツの実情の話なのに、アウシュヴィッツは平和だったかのように変えてあるのである。悪質なのは、この話は助産師レズチンスカの話を知っていなければ、出てこない話であることだ。
ところが、私はこれをあまりに酷い嘘だと思っていたのだが、前述した「嘘つき否定派」は「でも3000人の出産はあったと認めるんですよね?」などと問い返してくるからさらに呆れてしまった。「嘘つき否定派」は自身も嘘つきであるためか、この嘘に関する悪意を全く認めず、平然とそう問い返すのだった。私は呆れて「3000人は多過ぎだと思うけど、女性囚人も何万人もいたし、ロマ人(ジプシー)は家族で収容されてたし、出産くらいあって当たり前だろ」と返すだけだった。ちなみに1940年代くらいの乳児死亡率は現代とは全く比較にならず、ざっと乳児の半数は死んでいた時代である。日本だと1950年で約六割の乳児は死んでいた。そうした歴史を知れば、出産は現代よりもはるかに当時の方が日常だったとわかるはずで、強制移送されてきた女性囚人の何割かがすでに妊娠していても別に何も不思議はあるまい。
歴史修正主義者が嘘ばかり言ってるのは日本の歴史に関する場合でも珍しい話ではないのだけど、どうしてこうも平然と嘘を言えるのか、ほんとに理解しにくくて。例えば、クローズドなSNSで仲間しかいない中でそれを言うならまだわかるけど、Twitterなどの公開の場で、ググると検索できてしまうところで平然と嘘をつける神経がわからない。以前は、「お前らは嘘つきだ!」のような具合に批判するだけで終わらせていたけど、最近は、批判ではなく、一体どうしてそうまでして嘘が言えるのか、その理屈が知りたいという気がしている。私だってしょっちゅうネット上で間違ったことも言っているけど、間違っていることに気づいてその都度削除するとか訂正するとか、それが無理な場合は反省するとか、ともかく自分の間違いに気づくとそこそこ恥ずかしいと思ったりするのだけど、それら嘘つきはそんな感覚は全くないのだろうか?
「ホロコーストの嘘に比べたら微々たるもの」って感覚? その辺がさっぱり理解できない。それとも普段から、日常生活でも嘘ばかり言ってるのだろうか? どうもこの後者のような気がしてならない。ともかく、なんであの人たちは平然と嘘ばっかりつくのか? 理由を知っている人がいたら教えて欲しい。
子を産んだ翌日の夜。トイレから帰ってきて取っておいたミカンを食べ、もう寝るつもりで個室の電気を消した。豆電球、と今は言わないのだろうか、小さなオレンジの灯りだけでもなんとなく目が冴えてしまって、アイマスクを着けた。真っ暗。これがよくなかった。出産のことと、同じフロアの新生児室にいる息子のことを思ったが最後、しゃくりあげながら泣いてしまった。アイマスクの中が涙でぐちょぐちょになった。
分娩台には十一時間いた。子宮口は開いているが赤ちゃんが出口に降りてこない、もう少し粘って産まれないようなら緊急帝王切開になると言われてから、子が出てくるまでの二時間は永遠に感じられた。そりゃあもう孤独だった。先生は最善を尽くしてくれたし、当直の助産師さんは優しかったけれど、あの苦しみは誰にも共有できない私だけのものだった。痛みに耐えるとき、私は目を瞑った。これは嫌な夢だと思うことにした。夢ならいつか終わるから。不思議なもので、数十秒ごとに来る激しい陣痛の波の中、本当にまどろんでいた気さえする。
はじめはその孤独を思って、少女みたいに泣いた。次にはこの体験と引き換えに得たものを思って、自分のこれからに泣いた。
これが産後ハイと呼ばれるものだと、後から知った。ただ、その四文字で終わらせるのにはあまりにも悲しいから、文章に残しておく。
先程、第一子を出産してきた。自然分娩で誘発剤を使用してだった。体は思っていた以上にガクガクしており、胃が気持ち悪いのに寝付けない。そのためこの時間に書いている。
分娩施設を決定する際、自然分娩を選択したら周りの先輩ママさんから沢山「痛いよ!」とご忠告を受けた。鼻からスイカだのドラム缶だのとの例えをよく耳にしては、娩出時がさぞかし痛いんだろうと想像していた。産休に入ってからは、イメージトレーニングも兼ねてTwitterの出産レポートを読み漁っていた。じわじわと陣痛が増強し、耐えられなくなっていくお母さんたちの描写を読んで覚悟を決めなくちゃなあ、と思う傍ら、目についたのが「いきみたいのに子宮口全開になるまでいきめないのが辛い」と言うレポートだった。いきみたいとはなんぞや、猛烈にうんこを踏ん張りたいけど踏ん張れないようなものか、と想像し、最大限に尻の穴を閉めればなんとかなるのでは、と思っていた。出産までは。
予定日超過しても陣痛が来ないことによる誘発分娩だったので、入院してからバルーン挿入やら促進剤の点滴を開始ししばらくするまでは余裕があった。重たい生理痛程度の痛みであれば、助産師さんと笑顔で話をしたり携帯を少しいじる程度には。しかし、尻のあたりに異変が起きてから余裕なんて急に吹き飛んだ。
はじめは「あれ、陣痛に合わせて屁が出そう」という感覚だった。陣痛が消失すると共にそいつも消えるので、「屁に見せかけたいきみたさってやつかな、そいつには引っ掛からねえよ」と内心笑っていた。
しかし徐々に子どもが子宮口に近づくにつれて、まず陣痛の痛みが尋常じゃないくらいに増した。それまでは深呼吸を4-5回すれば波は引いて行ったのに、深呼吸しているうちに痛みの波がピークに登っていく。そして、そこに突如尻が爆発しそうな衝撃が襲ってきた。屁なんて可愛いもんじゃない。うんこだかなんだかもうわからない。全部ぶちまけてしまえと言われてるような衝撃だった。もちろん尻の穴をリラックスさせたり閉じたりして、深呼吸にて乗り切ろうとする。3回、4回となんとかその波を乗り切った。しかし陣痛はより強まり、尻の穴から何かを出そうとする感覚を抑えようとするうちに体中に力が入る。尻だけではなく体幹や太もももビクビク動き、その時だけは陸に揚げられた魚のような気分になった。
助産師さんからは「子宮口が全開になるまでは、いきみたい感覚が来てもいきまず頑張りましょうね。それまでにいきむとお股がズタズタに裂けちゃうから」と説明を受けた。尻が爆発しそうになった際の子宮口は9cm。あとわずかに子宮口が開くまでの時間が果てしなく長く感じた。
かつて何回かうんこを漏らしそうになったことはある。その時も脂汗が止まらず死ぬかと思ったが、出産時のいきみたさはそれとは違った。痛い、苦しい、出したい、耐えられない、もう何もかも漏らしていい、でもいきんではいけない。そんな感覚が1分おきに襲ってくること約30分。頭がおかしくなるかと思った。波が来る都度呼吸に集中し、尻の穴あたりの力を抜くことに全力を尽くした。助産師さんに謝りつつ、何度も尻やら股周りを押したりさすったりしてもらった。助産師さんがいなければ、尻の圧力に負けて何度いきんでいただろうかと思うと頭が上がらない。
その後子宮口全開のため、分娩姿勢に入った。楽になったかと思いきや、尻が爆発しそうなタイミングと自分が踏ん張るタイミングがちょっとずれたりしてもどかしいのだ。しかも陣痛と、今まで体に力が入っていた分の疲れが相まって娩出のために頑張りきれず、半ば朦朧としていた。最早頑張ろうなどと自分を奮い立たせることもできず、助産師さんの声かけに従うだけの状態になりながら踏ん張っていたら、子どもが産まれてくれた。
子どもは可愛い。ものすごく可愛い。だが陣痛の痛みと尻の圧力に解放されたこともどうしようもなく嬉しい。それほど初めてのお産はしんどかった。
次に子どもを授かることができれば、できれば無痛分娩がいいと今は考えている。「無痛分娩は楽をしている、出産は痛みを乗り越えてこそだ」と言う意見があるのも知っているし、無痛分娩のリスクも知っている。しかし、もう一度あの猛烈な痛みと爆発しそうな尻の圧力を体験しろと言われたら、私は無痛分娩を選択したい。
今、産後ハイの状況だと自覚している。読みづらい文章を長々書いて申し訳ない。
最後に、サンシャイン池崎氏の呼吸法は本当に役立ちました。朦朧とした頭の中にサンシャイン池崎氏が全力で呼吸している姿が目に浮かんで頑張れました。この場をお借りして感謝の気持ちを伝えられたらと思います。
男性差別を挙げてけっていう増田がホッテントリにあがってたけど、ハラスメントの事例ばっかりじゃん。
童貞いじりなんかも、セクハラで人権侵害で大問題であってはならないことだと思うけど、男性差別ではないだろ??
差別ってのは、男だからという理由で育休取らせてもらえないとか、大企業の事務系一般職に採用されないとか、保育士になりたいと言ったら難色を示されるとか、寡婦控除が適用されにくいとか、男だったら既婚子持ちじゃないと昇進させてもらえないとか、法律上助産師になれないとか、性犯罪の被害届を受理してもらいにくいとか、そういうのだろ????
正直、男性差別の例として挙げられてるのが、明確なハラスメントの事例ばっかりで、男ってやっぱ恵まれてるんだなって思ってしまった。
でも分断されるのはアホらしいし、もっと男性差別が知りたいので、ハラスメントじゃなくて差別を教えてほしい。男の人も差別されて大変なんだなって思って、男女手を取り合って、性差別を無くすために闘っていきたい。
男性差別を教えてくれよ。
俺はもっと家事をしたい。家事労働はヒトを幸せにする。掃除や洗濯や修繕や調理を通じて、また、傾聴や会話やスキンシップを通じて、妻や子どもに尽くしたい。それこそがヒト(俺に限らない)の幸せに直結することだからだ。
ヒトは群れで生活する動物だ。他の構成員をケアし、食べ物を分け合って一緒に食べることに幸せを感じる。これは本能だ。また、ヒトは子育てする動物だ。同じ性質を持った他の生物と同様、子育てに喜びを感じるようにあらかじめプログラムされている。
ベンジャミン・フランクリン効果(助けた相手のことを好きになるという認知的不協和)も無視できない。手がかかる子ほどかわいい、という結果は、手をかけたという事実が生むものだ。家族に尽くせばつくするほど、家族への愛着は深まる。
幸せというのは、受け取った愛情で決まるのではなく、与えた愛情で決まる。愛されているから幸福なのではなく、愛しているから、愛を表現しているから幸福なのだ。実際に手をかけて、家事をし、話をし、食卓を囲むことで、そのように愛情を行動に移した者の幸福度が上がる。家事はその担い手を幸福にする。
しかし現実、俺の家事負担は小さい。週にわずか6回、土曜の昼食から月曜の朝食の調理(買い出しと後片付けを含む)を担当しているのと、家や家財や車や自転車などの修繕全般を担当しているほかはすべて手伝い程度で、家事らしい家事は何も担当できていない。俺が長時間の賃労働に縛り付けられているためだ。
家事だけではない。育児も限定的だ。子どもの世話をしたり、子どもとともに食卓を囲んだり、さまざまな話をしたり、勉強や料理やスポーツを教えたり、宿題を手伝ったりといった、育児にかかわる時間の大半を賃労働に奪われている。これもまた、俺のヒトとしての幸福を大いに損なっている。
本邦の男女には世界一の幸福度格差(女性の幸福度が高く男性のそれは低い)がある。これを男性の視点で説明するなら、賃労働負担の大きさと、家事参加の少なさという両面が原因だ。とりわけ家事の少なさは重大だ。我が国の男性は世界一家事をしない。多くの男性は幸せを賃労働に奪われているのだ。
我が家も結婚当初は、夫婦両方がフルタイムで働きつつ、平等に家事を分担し、夫婦の両方が幸福を感じていた。だが子どもができて夫婦で話し合った結果、俺がフルタイム労働でさらに残業を増やして家計を支える中心となり、妻はパートタイム労働の兼業主婦になることにした。
俺がパート主夫になる案も真剣に検討したものの、却下せざるを得なかった。理由は、当時30代前半だった俺が昼間にパートまたは時短で働けて、家から近い職場がないことだった。ジェンダー不平等を実感したのはこのときだ。オッサンが兼業主夫になるのは非常に難しい。
結果、俺は大半の家事を妻に任せ、ごく一部しか担当できなくなってしまった。うちの場合、家事全般について妻より俺のほうが得意である(あくまで自己評価だが)にもかかわらず、だ。逆に、賃労働の能力は俺よりも妻の方が高い(と俺は思う)にもかかわらず、彼女はフルタイムの労働を失った。
俺は、この国のジェンダー不平等を恨んでいる。俺を賃労働に縛り付け、家事や子育て(つまり俺の幸福)を奪ったからだ。
また、ほどよく分担できていれば、家事労働はそれをする者を幸福にする。だが、過分に割り当てられてしまえばそうも言えない。俺の妻はそれほど家事全般が得意でないにもかかわらず大半の家事を負担しており、せっかくの家事労働の多くが単なる面倒なタスクになりがちだ。これは幸せなことではない。
ジェンダー・ギャップ、幸福度格差、不公平な家事負担、結果としての男女の賃金格差などはすべて、要するに労働問題だ。男女で賃労働と家事を公平に担当しにくい現行制度に原因がある。なので以下のようなことを強力に推進すれば、諸問題はすべて(少なくとも我が家が抱えているものはすべて)解決する。
俺は「意識のアップデート」だの「意識改革」だのというものには期待していない。そんなものに期待していたら、ジェンダー・ギャップは永遠に解消しない。なぜならジェンダー・ギャップは、制度的な介入をせずに放置していれば自然に拡大していく性質を持っているからだ。
これは良い悪いの話ではない。生物としての自然な本能と、適応の結果に過ぎない。
まず女性の上昇婚志向がある。これは世界中のどんな社会にもあるものだそうなので、生物としての本能と言える。より多くの資源を獲得する能力を持つオスに魅力を感じることは、生物としてまったく自然だ。そして、ヒトのオスがそれに適応しようとするのもまた本能であり、生物としてまったく自然なことだ。
ただし社会全体でこの本能に適応すればするほど、ジェンダー・ギャップは拡大する。女性の上昇婚志向に適応した男性たちは、すべての資源を男性たちだけで独占し、資源へのアクセス権を女性から剥奪する。前世紀まで、まさにそのような社会が世界中で構築された。
このようにヒトの本能はジェンダー・ギャップを拡大し固定化する方向に作用するため、ジェンダー平等が自然に実現することはない。相手は無意識下の本能だ。意識改革では解決できない。制度改革でしか実現できないものだ。
現実的な解は、強制的なクオータ制の導入だ。繰り返すが、意識で本能は変えられない。だから制度を変えるのだ。クオータ制は、結果平等の観点で厳格なものであればあるほどよい。
政治家や企業役員はもちろん、あらゆる職種で男女比が1:1なるように枠を設け、罰則付きで厳格に運用する。外科医も、看護師も、消防士も、保育士も、研究者も、レジ係も、漁師も、助産師も、土木作業員も、歯科衛生士も、自衛官も、すべて男女同数にする。当然、仕事内容も拘束時間も賃金も男女平等にする。
当初は各職業における職能水準の低下が問題になるだろう。しかしそんなものは、ほんの20年か30年もすれば解消される。学齢期や新卒時を見ればわかるとおり、平均的な女性の能力は平均的な男性のそれを上回っている。クオータ制の導入で一時的に起きる職能水準の低下の問題は、ほどなく時間が解決するだろう。
賃労働も家事労働も、男女がどちらか一方に押しつけることなく、平等に負担し合う。夫婦のそれぞれが週に20〜30時間ほどずつ賃労働を負担し、あとの時間で生物として家族としての幸せを追求できる世の中になるのが理想だ。
こうなるともはや、主婦(主夫)という概念は崩壊だ。だがそんな概念は産業革命以降にでっち上げられたもので、男性を賃労働で使い倒すための便利な、そして非人道的なジェンダー・ロールだ。こんなものは徹底的に破壊し、すべてのヒトがヒトとしての幸福を追求できる社会を目指したい。
最後にもう一度強調しておく。家事労働を制限されることは、幸福を制限されているに等しい。より多くの賃労働を負担している者は、幸福度において劣後する。
しかし、現行の制度の中で各家庭が個別に部分最適化を進めれば、多くの家庭では、夫は賃労働の奴隷、妻は兼業主婦、という形をとることになる。これは不幸なことであり、制度そのものを改めるべきである。そして、ここまで述べてきた制度改革の過半は、すでにアイスランドなど北欧諸国において実施されている。
(注)数年前の話。
数時間後に切れるはずだった麻酔(下半身だけのやつ)が一時間半で切れてしまった。麻酔が切れたあとは四時間か六時間置きに肩に筋肉注射するタイプの痛み止めを打ってもらうことになっていたのだが、これが効かないことで定評のあるヤツというだけあって、本当にちっとも効かない上、昼間の担当看護師が「帝王切開は甘え」という考えを持っていたため、焼石に水の筋肉注射さえしぶられてしまい、四時間くらい無麻酔のノー痛み止めで苦しむことになった。
その後、出勤してきた夜勤の看護師さんが帝王切開経験者だったため、「それは痛かったでしょう。すぐに痛み止めをもってくるね!」と、直ちにボルタレン座薬を持ってきてくれたので、人心地ついた。
翌日の昼はまた帝王切開は甘えの人が担当で、「ボルタレン座薬は依存性があるから使えません」と言って出してくれなかった。依存性があると言われても、普通に生きていたら処方される機会がないと思うんだけど……どうやって依存症になれってんだよ……と、思った。
出産したのが金曜の午後だったため、痛み止めが出るか出ないかは看護師の一存だったので、最も痛みが酷い期間を帝王切開経験者看護師不在中はずっとひたすら我慢し続けた。月曜日の朝、回診に来た院長に帝王切開経験者看護師が、私に痛み止めが処方されていない旨を報告してくれたお陰で、すぐに痛み止めが処方されたんだけれども、帝王切開経験者看護師と一番若い看護師以外の看護師と助産師は、私が痛み止めを飲んでるところを見るとネチネチ嫌みを言ってくるのが嫌だった。
敢えてキツいこと書くけど、
と俺は思ってるんだけど
というか、宮崎駿氏にしても坂本龍一氏にしても安易に、原発なくせ、だの「たかが電気」だの、
人類なんか滅びちゃえばいいんです、だの、コンピュータとかゲームは頭がおかしい人が作ったもんなんです、だの、
マクロスやアクエリオンの河森正治氏も地球少女アルジュナみたいなエコでロハスでスピな新興宗教のアニメ?みたいなの作っちゃうし、
例えば、オネアミスとかロケットの話だけど、やっぱり庵野氏というかガイナックスというかアニメーターなわけで、
自分のような理系の視点から見た宇宙やロケットの壮大さに対する感動とは同じようで異なっているのではないか、
つまり、彼らは理系というより文系視点というか、センス・オブ・ワンダーなところに惹かれているのであって、
一からピラミッドのレンガを積み上げるような泥臭い本当の開発現場感が、
アニメーターはアニメ制作に関しては当然あるのだろうけど、別の世界のそういう地に足のついた視点には欠けていて、
というのも、リアルな研究や開発を脚色なく描いてもドラマがないというか物語として面白くなくなる可能性がある
つまり、天才的な科学者とか理系の女性が登場したり、こんなこともあろうかとでミラクルな超兵器がいつの間にか登場したり、
実際の研究や開発は、たしかに歴史的な天才、偉人と呼ぶべき人々も存在するのだけれど、
ほとんどは凡人、サラリーマンの集合であって、地味でつまらない日々の仕事がベースになっていると自分は思っていて、
ちょっとした思いつきや閃きで壮大な宇宙艦隊戦の形勢が逆転したりとか、そんなことはありえないと思うのです
でも、リアルすぎる研究や開発、リアルすぎる戦争を描いても面白くならない
だから、ビジュアルとして美しい部分だけを切り取るのはアニメというか映像を作る側としては当然の選択なわけです
しかし、敢えてキツい言い方をするなら、アニメ作ってる人もスタジオの中に閉じ込もって、その世界しか知らないのではないか
恐れ多いのだけど、宮崎駿氏だって朝から晩までスタジオにこもってアニメを作ってる
もちろん、通勤の途中に障害のある人に出会って云々みたいな話もあった気がするのだけど、
電気なくても構わないから原発なくせみたいな主張をされても、電気なければアニメは作れない、作曲や録音もできない、
アルジュナには水中分娩の話があるらしいけど、なんの資格もない助産師が水中分娩をさせて死亡事故が起きたりしてたと思うのだけど、
そういった左翼的というか、極端な自然回帰というか、そういったエコでロハスでスピリチュアルなのに走っていってしまうのは
そういえば最近だと膣にパワーストーンだのジェムリンガだのもあったけど、膣の声に従って、仕事辞めて、孤島に集まってしまうとか、
SFというか、どちらかというとSF寄りのファンタジーを描いてる人たちってオウムみたいなのと親和性がある気がするんだよなあ
SF寄りのファンタジーって何のことを言ってるのかというと、スターウォーズ、そしてガンダムのことだったりするのだけど、
宇宙や宇宙船が登場してるけど、一方で超能力とか、それが宇宙空間で開花するとか、
こういった話はLSDとかアイソレーションタンクとかアルタード・ステーツとか、ジョン・C・リリー、ティモシー・リアリー、
それとジョン・レノンとかヒッピー、メリー・プランクターズ、フラワー・チルドレンとかサマー・オブ・ラブとか、
LSDのような幻覚剤がなにか人類の発展に寄与するのではないか、そういう時代背景だったというのもあるけど、
結局は理系の研究者でさえ幻覚剤に溺れ、なんでか自然を超常的なものとして扱うスピリチュアルな方向へ走ってしまう
人間には何か根源的にそういうところがあるのだろうか
考えてみればユナ・ボマーことセオドア・カジンスキーも天才的な数学の能力がありながら、
世捨て人のように山奥で自給自足の生活を送るようになり、しかしながら当然その生活は長く続かず、
将来的にテクノロジーが人類を破滅的に不幸にすると思ったことから、
だったら将来性がある科学者を爆弾で○せば、悲劇的な未来は回避できるんでないの?と考えたんだかどうなんだか定かでないが、
これはターミネーター2のストーリーのベースになっているが、フィクションなら面白いが、現実なら単なる爆弾魔の犯罪である
話が大幅に脱線したが、エヴァは終わっても就職氷河期が救われない、というのは言い得て妙であって、
エヴァをリアルタイムで放映していたときが就職氷河期近辺ではなかっただろうか
その時期に庵野氏は、今は飽食の時代なので心の問題を描いた、アニメではなく現実を見ろ、みたいに語っていたわけだが、
こちとら現実の就活戦線は異常ありというか悲惨な状況だったわけで、
庵野氏はエヴァを作っているとき、ちゃんとニュースとか新聞とか世相を眺めてましたか?
なんだかんだ、バブル世代の自分の価値観でアニメを作ることしか考えてなかったんじゃないですか?
と恐れ多いながらも思ってしまうのが正直なところであって
まあ、たしかに現実を見ずにアニメだとかフィクションに没入しているだけの人というのもいるのかもしれない
というか、そういう人たちに人生で出会ったこともあるが、自分がいうのもなんだが、たしかにちょっとおかしいというか、
差別的になるけど軽度の知的障害?ケーキを切れない非行少年少女?みたいなタイプも多かったし、
そういうところで昨今のDQNやヤンキーの方がアニメと親和性がある状況というのを理解できる気もする
自分で言うのもなんだが、昔は良かった話みたいになるが、
SFとかサイエンスなフィクションなわけだけど、どちらかというと理系との親和性というか、
理系からするとそのフィクションに野暮なツッコミを入れるのがネタとして話が盛り上がるというか、
自分は大学時代にみんなで誰かの家に集まって、アニメとか映画の上映会というか、
どちらかというと映像を流しっぱなしにして、各自やりたいことを黙々とやるみたいなことをやってたわけだけど、
「このディスクには地球誕生からの全てのことが記録されてます」
とか言うと、「すっげー、どういう原理だよw」みたいにツッコミを入れる奴が現れ、
その後に真面目な記録媒体の話とかネタが続いたりするという、そんな日常だったわけだけど、
多分、大阪芸術大学とか偏差値も低いし、そういう視点では観てない気がするんだよなあ
やっぱり根底にあるのはビジュアルとしてのセンス・オブ・ワンダーであって、それはチャイナさんみたいなもんであって、
電子工学科、情報工学科、機械工学科、バイオなどのオタクが集まって話すツッコミとはちょっと異なるのだと思う
まあ、ストーリーの本質は技術ではなく、結局は人間関係なわけで、
今回のケンケンとアスカではないが、そういうところにツッコミを入れるのは理系文系偏差値関係ないのだけど、
まあ、でも、やっぱりなんか違う世界に生きてるんだなあ、
当たり前だけど、恐れ多いけど、庵野氏と自分の関心の距離感みたいなのがあるとしたら、
リアルタイムでエヴァを観ていたときは近いのかと思っていたのに、
シンエヴァは未見だけど、シンゴジラ観たときでも、意外と遠いというか、同じものを見ているようで違うものを見ていたのではないか、
つまり、庵野氏と自分が同じ赤いバラを見ているのに、互いに赤いと認識しているのに、脳内の赤はまったく異なっていた、
みたいな、まあ、勝手に自分が同じような価値観を持ってるのかな、と思って勘違いしていただけなんだろうけど
そんな感じで、最近の自分はアニメやゲームへの興味が皆無になりつつあるし、
それは東日本大震災だったり、原発事故だったり、コロナだったり、自分の個人的な人生のイベントだったり色々なわけだけど、
そう考えると、シンエヴァは未見だけど、同窓会みたいなもんなんだろうかと思ったり、
自分は死んでも大学、大学院以外の同窓会には出ないと心に決めてるので、
https://anond.hatelabo.jp/20210130130504
(おしまい)
と、思ったらしまえなかったー!
伏線回収をまたしても忘れた!!
元増だけど、産まれたあと空気をたくさん吸い込むために泣かないといけないらしいね。
私の知り合いの赤ちゃんはお産が長引きすぎて(自然分娩がもう少しで帝王切開になりそうなくらい長かった)赤ちゃんが疲れて最初泣いてなかったけど、一応「オギャア…」と一泣きして産声をあげたから医者は「良し」と判定したらしい。
お産で疲れすぎて激しく泣きわめく体力も残ってない赤ちゃんもいるんだわ世の中には
でも、医者・助産師・看護師はきっと、仮死状態とかよっぽどのことがない限りお産で産声は必須と思ってるんだろうね
泣きたくないやつは無理して泣かんでも普通に呼吸ができてたらそれでよくね?って思う
朝
昼すぎ
・その後もトイレ行くたびにペーパーにつく
夜
朝
・生理痛2日目のような血が出て焦る
定期的な張りはあったけど、子宮口開いてない、破水なし、子宮頸管もそこまで短くないということで帰宅
夜
我慢できるしな、今日行ったばかりだし、、ってことでそのまま就寝
・寝る→痛くておきる→寝るの繰り返し
長くて30分、短くて10分周期
・夜中目が覚めてトイレに行くと血の塊がでた
朝〜夕方
・寝てる時以外は6〜10分周期で痛み。だいぶ重めの生理痛。我慢できないこともないし、昨日の診察もあったし、土曜日だし…ということで病院には連絡せず。
・気づけば陣痛?5分周期。これいつまで耐えたらいいんだという絶望感
・夫に病院に連絡することを勧められる
・病院に連絡。入院判断の診察するから、ご飯食べてシャワー浴びてきてねと言われる
・どうせ帰されるんだろうなと夫と話しながら車で病院へ
19:00 病院着
・助産師さんが先生に電話。帰るか入院かを相談→まさかの入院決定
・入院着にお着替えして個室に行き待機。陣痛間隔が3分周期になる。
・朝までに生まれることはなさそうだということで夫だけ一時帰宅。
21:00〜 分娩台で再nst
・強めの陣痛きた後にダラダラ流れる間隔があったので破水かな?と思って助産師さんに聞いたら全部出血
・力入っていきみ逃しができてなかったのが原因のようで、陣痛来たら深呼吸を意識するように言われる
・nst終わって個室に戻る予定だったけど、しんどすぎて戻るの厳しいということで近くのベッドに移動
・陣痛2分周期くらいになる
・夫とかとラインをして気を紛らわす(紛れない)
22:00〜
・出血やばすぎということで様子を見るため分娩台に戻る
・移動ついでに「便が出そうだからトイレ行きたい」と助産師さんに言ってみる。多分違うからと却下される
・夫とラインする余力が消える
・陣痛の合間にいきみ逃しを調べる
「テニスボール」→ない「旦那さんに腰を抑えてもらう」→いない 絶望
・陣痛来るたびにいきみ逃ししなきゃと意識するも、後半になるにつれて失敗。精神が削られまくる。次くる陣痛がこわい。深呼吸しなきゃ、でもできない。痛い。絶叫、泣く。力入りまくって出血。地獄。
・導尿をしてもらう。水分たりてない指摘。
・出血怖いからと血管確保するねと点滴が始まる。2回くらい失敗されてなかなか点滴できず、陣痛がきても腕を動かしてはいけない地獄。
24:00〜
・子宮口7センチ。旦那さん呼んでいいよと言われる。電話で呼び出す。
・破水したら出血止まった模様。助産師さんに実は内心焦ってたと告白される。
・「便出たらすみません」「むしろ出した方がお産が進んでいいのよ」
・痛みがきたら2回深呼吸していきむ。その2回深呼吸がしんどすぎる。
・いきみだすと全然痛くない!
・サンシャイン池崎を思い出していきむ。褒められる。
・「うんちを出す感覚で」と言われる。その通りにする。褒められる。
・旦那さん来たよと言われる。きょろきょろしたけどいない。外で待たされてた。
・先生登場。いきむと同時に助産師さんにおもいっきりお腹を押される。お子が押し出されてる!変な声出る
・いきんだら先生に切られる感覚。全然痛くなかった。すぐに何かがずるっと出る感覚。
夫が呼ばれる。
・娘誕生!
たくさん泣いてくれた
数年前の自分を見てるようだよ
悪阻でよだれが止まらなくてこめかみが痛いし好物も酒もタバコも全部受け付けなくなって夫と子供と自分を殺してやろうかと思った
お腹が膨れて血管が薄く見えてきたのに気付いた時は恐くて恐くて夫に八つ当たりしながら泣いたし正中線が茶色く出てきた時は吐いた
吐いた後夫に無断で業者を呼んでお風呂の鏡を取り去ってもらった
産むとなってバースプラン云々の段になっても助産師には言えず、でも痛みによる愛情とかクソだと思ってた
幸い子宮にとある問題があったので全身麻酔で寝てる間に腹から抜き取ってもらえた
生後1か月の赤ちゃんがいるママなんだが、ここの所夫へのイライラ感が半端ない。
産後クライシス自体はは妊娠中の時から知っていたが、夫大好きだし自分にはあまり関係ないと思っていた。
育児によるストレスや睡眠不足、ホルモンバランスの乱れによるものとは聞いていたけど、
ダークサイドに堕ちたかそうでなければ産後のホルモンバランス乱れによるものとしか説明しようがないと思っている。
以前は私も「慈愛に満ちた優しい妻」の分類だったはずだが、同一人物とは思えないくらい無性にイライラするのだ。
とにかくイライラする。
夫が悪いというわけではない。
夫は以前からずっと変わってないのだ。
連日初挑戦のラスボス(赤ちゃん)との攻防(夜泣きやら授乳)で全然寝てなくてもう体力の限界、もうだめだと半分倒れかけてる中で、
「まだだ!まだあきらめて、た・ま・るかぁぁぁぁーーーっ!」と力を振り絞って必死で戦っている。
赤ちゃんが寝た一瞬の勝利とやっと寝れるという安堵の瞬間、お約束のフェイントだった時、
スーパーサ〇ヤ人になれるんじゃないかというくらい毎日「うおおおおおおおおおおおおおおーーーーーー」となっている。(心の中で)
毎日リミッター解除、リミッター解除・改の連続で日々限界の限界を超えて生きている。
それが勇者(母親)の宿命と言わんばかりに苦行に耐え続けているのだ。
そんなやるかやられるかの殺伐とした過酷な戦場で24時間妻が戦っている最中、
唯一の味方である夫は隣でゴロゴロしながらスマホゲームしてたり、YouTube見たり、仕事で疲れたスヤァ・・・となっているのだ。
こっちはラスボス(赤ちゃん)の未知なる攻撃(なぜ泣いてるかわからん)に
「なぜだ・・・くそ!どうすりゃいいんだ・・!何かいい策はないのか!!もうこれ以上はもたないぞ!!(メンタルが)」と手をこまねいているのに。
「貴様ここで何をしている!!そんなことしている場合か!!チッ!役立たずが!!流れ矢にあたって死ぬぞ!!ここからは俺一人で行く!」という気分なのだ。
長々と書いたが結論としては、ホルモンとか、ストレスとかそうゆう次元の問題を超えて、もう見ている・感じている世界が違うのでイライラが止まらないのだ。
そりゃ夫だって仕事して帰ってきたら疲れるし、家ではゆっくりゲームだってしたいのはわかる。
里帰り中はお惣菜とかレトルトとか出来合いのものが多かっただろうし、なるべく夕飯は作って出す。
夕飯を作るのだって一苦労だ。泣かないタイミングを見計らっても泣かれてすぐ作れるものも時間をかけて作る。
夫に愛情がないわけではない。
「そろそろ赤ちゃんお風呂入れてくれる?」と以前と変わらない感じで聞く。
夫はおふとんでごろごろしながら「準備して~」という。
またここでブチ切れたくなる。
(育児体験じゃねえんだぞ!!!風呂といったら赤ちゃんの服からベビーバスの準備とあと片付け、風呂上りの保湿まで全部だクソが!!)
という心の声をぐっとこらえて準備をする。
「準備できたから入れて~」とお願いする。
夫は布団でむにゃむにゃしながら「パパを先にお風呂に入れてください~」と動かない。
というか以前はふふふと笑っていたことも最近はだいたいなんか言えばブチ切れポイントだ。
「パパは大人だから一人でお風呂入れるもんね~いいから早く入れてね~~~~~」と言って布団を剥ぐ。
(風呂ぐらいごちゃごちゃ言わずにさっさと入れろや!!!!!!!)
風呂どころか何とか湾に沈めかねない。心の声はやーさん顔負けだ。
そうだ。夫はまだ赤ちゃんに会ってから1か月もたってないのだ。
まだまだ育児も父親業も初心者なのだ。いきなりスパルタでは心が折れてしまう。
母親だって入院中わけわからないながらにやってできてなくて助産師さんに手直しされたにも関わらず
「ママ上手~」「大丈夫よ~」とおだて励まされながら覚えてやってきた。
思うがままにブチ切れては夫が気の毒だ。
現在の医療制度が出来た頃は「通常分娩は自宅または助産院で助産婦の手によってするもので、医師による医療行為は必要ない。
医療行為が必要なのは異常分娩の時だけ」と言うのが常識で、実際に病院で出産する妊婦は殆どいなかったため。
その時の制度が、とっくに病院出産が常識となった現代でも続いているというだけ。
と言っても現在でも病院以外で出産する人も(僅かではあるけど)いるし、病院で出産しても安産なら医師の出番が無い(助産師だけで全て行う)こともある。
異常分娩だと医療行為が必須となるので保険適応になるし、出産一時金も同額貰えるため、異常分娩だと大体黒字になるんだよね。
まあその分大変なんで金くらい貰えないとやってられんってのはあるだろうが。
通常分娩も保険適応しろって話もあるかもしれないが、これも微妙な所で
只でさえ医療費上がってて国の財政圧迫してるのにそれを更に増やすとなると反発強いし
全部保険適応かつ一時金も今のまま42万だと税金がかかり過ぎるし
かと言って代わりに一時金減額となると、分娩費用は地域格差が激しいから
田舎だと今は一時金より安い額で収まってて自己負担ゼロの病院もあるのに負担増になってしまって都会人しか得しないし
上記の通り地域格差激しいのに保険点数は全国一律になるから、田舎の病院は十分採算取れても都会の病院は点数内じゃ費用収まりきれねーよってなって
結局保険適応外治療やサービス増やして実質強制オプションにしたり個室代とかで稼ぐ方向に行って負担増ってなりそうだし
一時金増やす方が色々楽そう
まあ田舎だと今でも黒字だから、分娩費用が高い都会の自治体が自前で補助金出すってのが一番無難なのかな
都会ならそれくらいの予算もあるだろ(雑)