はてなキーワード: 教育者とは
学校の教師が、宿題をやってこないという理由で生徒を叱ることがあるが、これは見当違いも甚だしい。
宿題の目的は、それをやることではなく、その科目をしっかりと理解することだ。
まず、その科目の内容をきちんと理解しているのであれば、わざわざ宿題をやる意味はない。世の中には、いい歳をしてこんな明白なことが理解できない大人がいるのだから、驚き入る。
そして、成績の悪い生徒が宿題をやってこないなら、教師がすべきことは叱ることではなく、その生徒が興味持てる課題を用意することである。これは、教育者としての当然の義務だ。自身の職務を放棄して、子供を叱るのは恥ずべき行いである。
アカデミックをあきらめた博士号保持者の記事が目に留まったので、運よく大学に残れた側のエッセイを書く。小さなころから科学者になりたかったんです、なんていう大学教員を見ると、眩しくてクラクラしちゃうんだ。すまんな、憧れもなく大学教員になってしまって。
僕は少年時代に、科学者に対する憧れというものがほとんどなかった。ニュートンとかガウスとかアインシュタインなんかの伝記を読み漁ったりして、心惹かれるものがあった。だけど、それは自分が科学者になりたいという憧れとは少し違って、科学者は仮面ライダーやウルトラマンのように現実と断絶した世界にいるヒーローのようだった。
大学に入ると、教員たち講義を受けて、ずいぶん大学の先生は楽しそうだと思った。あとでわかるが、それは誤解だった。ただ一人、すごく楽しそうに熱く語る先生がいた。専門を簡単に説明する。それでいて奥が深い講義だった。僕はその講義に夢中になったが、周りの学生からは評判が良くないのが不思議だった。こういう先生なら、なってみたいかもしれない、とぼんやりと思った。
僕は研究者というよりは科学ファンだった。自ら新しい科学を切り開くということに、それほど魅力を感じなかった。それなのに、大学院へ進んだのは「もっといろいろなことが知りたい」という一言に尽きる。このセリフは厄介で、一見すると科学者適性がありそうだが、実際は逆だ。「ただ自分の興味が向くことを、気の赴くままに知りたい」という僕のような人は研究者に向かない。いったい僕は何になればよかったのだろう。大学院生としての一番の幸福は、図書館の薄暗い書庫に顔パスで入り、紙が焼けているのにピンピンしていて、全く手を付けられていないような文献を読むことだった。だから、論文が書けず苦労した。今もしている。研究者の世界は手を動かす、アウトプットをするのが貴ばれる。研究の世界に飛び込むことは少し違和感を覚えたが、もっと良い場所もなかったので居続けた。卒業したいので、しかたなく研究した。
学会で一流の知性に出会うのは、本当に楽しいことだ。僕にとってはスターのライブであり、学会の懇親会で大物に研究の着想を聴いてみることほど楽しいことはない。
大学院から、学位記と一緒に追い出されるように飛び出し、一つ目の職場に就職した。就職が上手く決まらなかったので、ダメなら別の業界に行こうと思っていた。だけれど何とか職場が見つかった。そこへ行った理由は、この業界にいれば、また暗い図書館での心躍る体験が、いつかできるかもしれないと、不純な希望を持ったからだ。着任した先では、学力が酷かったけれど、教員は博士号持ちの熱血教師ぞろいだった。教員たちの教育に対する熱いパッションを聞かされて、なぜだかすっかり気持ちが冷めてしまって、他に居場所を探した。転職するためには、論文が必要だったので必死に研究した。欲しがりません勝つまでは、を地で行くスタイルで無理をした。体調を崩して大病してしまった。
なんとか次の職場を見つけ、落ち着いている。学生時代の環境を思えば、ここの学生は世界が狭くかわいそうだと感じることもあるが、一つ目の職場と比べればだいぶましだ。すべては相対的だ。転職して、自分の時間が増えたのでぼちぼち研究している。いつか解明したいテーマも懐にしまっている。いつか、は来ないので少しずつチャレンジしている。だけれども、ほとんどの研究時間は一日も早く給料を上げたい、そう思って不純だと思いながら心の血を流しながら論文を書いている。僕は興味が散発的なんだ、だから論文がこれほど憎たらしく感じられるんだと思い続けている。
博士号取ったのに大学教員にならなかった氏が言うように、大学が残念な場所であるとは認める。成績不良の学生を面接したときは、部屋に一人残って泣いてしまうこともある、僕が。これから、教員の仕事どうなっちゃうんだろうかって悩みつづける。実にこの業界はジリ貧だ。だけれど、大学教員以外に僕のふわっとした欲求を満たせる場所を知らない。雑用を投げてくるスーパースプレッター同僚もいるが、傷付きやすい僕を大学以上に放っておいてくれる職場を知らない。
文科省も大学経営陣も学生も同僚もみんなクソだ。クソだけれど、僕はそんな奴らの戯言を骨抜きにしながら、今の場所に居座ってみようと思う。僕の興味と幸運の続く限り。
研究者にもなれない、だが学生を思いやる教育者にもなれなかった。一人でいたいから、学内政治家はもっとごめんだ。いったい僕は何になればよかったのだろう。
ここ数年、博士号を取得中とか、その後のテニュアのポジションが取れなかったとかで
いかに博士課程に進んでアカポスに進むのが最低最悪かというエントリをよく見かける気がする。
確かに、若手研究者の現状は前よりも悪くなっているんじゃないかとは思う。
自分は博士号取得後に任期付きアカポスになり、無事テニュアのアカポスになった。
周囲の教員や研究者は、みな人柄もよく頭もよく、話していて面白い人ばかりだ。
これまでは研究ばかりが重要だと思っていたけど、教育へのやり甲斐も実感した。
アカデミアは、働き方も自由、PIになればこれをやれと仕事を命令されることもない。
大学事務が非効率と感じることもあるけど、お互い仕事でやってるんだから仕方ないなと思ってる。
何よりも、自分の好きな研究を自分の好きなようにできる自由がある
給与はそりゃ自慢できるほどいいわけじゃないが、卑下するほども悪くない。副業もできる。
うちはダブルインカムで配偶者も稼いでるので、家計は余裕がある。
結婚できない、という説もみかけるけど、
知り合いのアカデミアの同世代の中で結婚していないほうが珍しい。
自分が優秀だったからこういう環境にいるといいたいわけじゃない。
素晴らしい職業なのに、最近あまりも夢がないエントリばかりだなと思ったから。
自分のまわりでは、研究者としての能力が足切りレベルだったか、
競争社会には向かない性格だったか、ないしは単に人間として付き合いにくい奴がいなくなったと思う。
業績があっても付き合いにくかったら、当たり前だけど長く付き合う同僚や部下としては願い下げだろう。
でも教育者に向かない嫌味なやつは選ばれない。
目を引くような業績がたとえなくても、
同僚や共同研究者としてやっていきたいと思う楽しい人や、研究テーマに引きがある人は残ってると思う。
もちろん他にやりたいことがあってアカデミアを去った人もいると思う。
そういう人は新しい道を気持ちよく進んでほしいし、
自分ができなかったことをやってくれていると応援したい気持ちがある。
辛く悔しい思いをしたという人がいるのは間違いない。
子供が博士課程に進学したいと言ったら応援できるのか、と書いてあったとある投稿を見るまで、
アカポスは最高だなと思いながら、こういうことを書くなんて思いもしてなかった。
嫌味だと受け取られるかもしれないし。
伝えたいことは、学級の道は楽しい。向いている人には楽園だと思う。
少なくとも自分のまわりは、文理問わず任期なしの職に転換した人の方が多いです。
自分の子供の職業選択についてああだこうだ言うつもりはないが、
もし、子供が将来学者になりたいと言ったら、もちろん応援します。
和田秀樹らによるいわゆる「暗記数学」の要点をまとめると、以下のようになるだろう。
これは従来、数学の入試問題を解くのに必要なのが曖昧模糊とした「ひらめき」や「才能」だと思われていたことへのアンチテーゼである。「暗記」という語はその対比であり、特別な才能がなくとも、基礎事項を確実に習得することで、入試を通過できる程度の数学力は身に付くことを主張している。
そもそも、大学入試は大学で研究をする上で重要な知識や考え方の理解度を問うているわけであって、徒な難問を出して受験生を試しているわけではない。したがって、そのような重要事項(つまり、教科書の基礎事項や、数学を活用する上で頻繁に出てくるような考え方)を身に付けるのが正攻法である。
そのための教材としては、エレガントな別解や難問に拘ったものよりも、基礎事項や入試頻出の問題を網羅したスタンダードなものが良いとされる。
これはいわゆる解法暗記である。なぜ、具体的な実例を学ぶのかと言えば。数学に限らず、具体的な経験と関連付けられていない知識は理解できないためである。
実際、教科書を読んだばかりの人の多くは、自身の知識と入試問題との間にギャップを感じる。たとえば、ベクトルの内積の定義や線形性等の性質を知っただけでは、それを幾何学の問題に応用するのは難しいだろう。教科書を読んだばかりの段階というのは、将棋で喩えれば駒の動かし方を覚えただけのようなもので、実戦で勝つのは難しい。実戦で勝つには、定跡や手筋のような、ルールだけからは直ちに明らかではない、駒の活用法を身に着ける必要がある。
将棋の定跡を初心者が独自に発見するのが難しいのと同様に、数学の自明でない実例を見出すことも難しい。そのほとんどは歴代の数学者が生涯をかけて究明してきたものなのだから、当然である。しかし、現代の高校生には既に教科書や入試問題がある。特に入試問題は、数学の専門家が選りすぐった、良質な実例の宝庫である。受験生はこれを通じて数学概念の活用のされ方や、論理の展開等を深く理解するべきである。
そしてこれは、大学以降で数学や工学を学ぶ際も同様である。特に、大学以降の数学では、抽象的な概念が中心になるため、ほとんどの大学教員は、具体的な実例を通じて理解しているかを非常に重んじる。たとえば、セミナーや大学院入試等では、以下のような質問が頻繁になされる。
教科書の記述や、解いた問題は完全に理解すべきである。つまり、
といったことを徹底的に自問するべきである。自分の理解が絶対に正しいと確信し、それに関して何を聞かれても答えられる状態にならなければいけない。「微分で極値が求まる理屈は分からない(或いは、分からないという自覚さえない)が、極値問題だからとりあえず微分してみる」というような勉強は良くない。
そして、理解できたと思ったら、教科書の一節や問題の解答を何も見ずに再現してみる。これはもちろん、一字一句を暗記するということではなく、上に書いたような知識が有機的な繋がりを持って理解できているのかを確認することである。ある事実が、どのような性質を前提としていて、どのように示されるのかという数学のストーリーを理解していれば、何も見ずともスラスラ書けるはずだ。
また、問題を解く際は、いきなり答えを見るのではなく、一通り自分で解答を試みてから解答を見ることが好ましい。実際に手を動かすことにより、分かっている部分とそうでない部分が明確になるからである。
以上のことは、何も受験数学に限った話ではない。他の科目でも、社会に出て自分で調べたり考えたりしたことを他人に発表するときでも同様である。
要するに、数学の専門知識と社会的常識のある人は暗記数学に賛成しているようだ。
逆に、反対している人。
反対しているのは、金儲けが目的で目立つことを言っているか、何かをこじらせて勉強法に無駄な拘りを持っている人たちのようだ。
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思うに、アンチ暗記数学派というのは、精神の根底に以下のような考えを持っているのではないのだろうか?
一部の人は、大学入試では「ひらめき」「発想力」「頭の柔らかさ」「地頭の良さ」などを試すために敢えて典型的ではない問題を出しているとか、「天才」を発掘するために常人には解けないような難問を出題していると思っているのかも知れない。しかし、先にも述べたように、大学入試は、大学に入って研究するための基礎学力を測っており、入試問題は、そこで問われている知識や考え方が重要だから出題されるわけである。したがって、そういう重要な知識や考え方を十分に身に着けていれば受かる。ただそれだけの話である。そして、良識ある教育者は、数学で重要なところが分かっているから、それに基づいて教材や予想問題を作っている。そうでない人はもしかしたら、大学が普通の受験生には解けないように徒に問題を複雑にしていると思い込み、ひねくれた問題を教えているのかも知れない。
また、「数学自体は重要ではなく、数学を通じて思考力を鍛えることが重要」とか「受験勉強は社会に出て嫌な仕事を我慢するための訓練」等と思っている人もいるかも知れない。特に前者は、自称数学好きにもいるようだ。しかし、深く考えるまでもなく、大学受験に数学が課せられるのは、大学で研究するために(少なくとも、教員が望む水準で)絶対に必要だからである。そして何度も言うように、入試で問われるのは、研究のために必要な知識や考え方であり、「頭の柔らかさ」などではない。また、数学をそれほど使わない学部にも、受験に数学が課せられるのは、多くの大学には転部等の制度があり、文学部から経済学部とか、農学部から工学部に転部するような事例は珍しくないからである。
上記2つに共通するのは、「理解」よりも「ひらめき」等のオカルティックなものを重視することである。これは、上に述べた胡散臭い教育業者や、受験生に絡んでる学歴コンプが暗記数学に反対する理由と符合する。金儲けがしたい受験業者にとって、「基礎を確実に理解することが重要」と言うよりも「入試本番に典型問題は出ないから、ひらめきが大事(。そして、ウチの教材を使えば、それが鍛えられる)」などと言った方が、客は集まりやすいだろう。また、SNS等で受験生や教員などに絡んでる奴にしても、数学の本質が理解できず霊感的なものに価値を見出しておかしな勉強理論にかぶれてしまったと考えれば納得がいく。
ご遠慮頂きたいなって思ったんですがタイトル長すぎて切れましたてへぺろ☆
平田オリザ氏炎上にみる、コミュニケーション教育は「他者と相互理解する能力」を害しているという現実
https://note.com/hirayama_t/n/n9ee3544db3b0
これ見て「伝える力偏重のコミュニケーションはパッと見だとうまくいってるように見えるけどちょっとしたきっかけで破綻する」ってのはその通りだよなーと思いつつ、どうしてもひっかかることがあったんですよ。
そもそも「日本のコミュニケーション教育は伝える力偏重」ってマジなの?ってとこです。
自分、職業柄コミュ障のくせに他者との会話が必須なので教育で得たスキルでどうにか人並みの仕事をできるようにしてるんですけど、そのコミュニケーションのための教育で教わることって「相手の話をちゃんと聞こうね」なんですね。
相手の話には適切に相槌を打つことで相手に安心感を与えよう、だとか、相手の言ったことを再確認することで齟齬が起きにくくなるだけでなくて相手からも信頼してもらいやすくなるから言われたことはちゃんと「○○ですね?」って聞き返そうね、とか。
もちろんこっちから話しかける時の注意として分かりやすく簡潔に、とか、伝えるためのスキルってのも教わりましたよ。でも相手の言いたいことをちゃんと把握するための技術はきちんと教わりましたし偏ってるなんて思ったことないです。
そもそもこの平田オリザって人、コミュニケーション教育ナントカの座長で第一人者って言うけど今回の炎上まで名前も知らなかったんですよね。もちろん自分のアンテナが狭いってのはあると思いますが、それだけ重鎮のはずの人ならそれこそテレビの御意見番とかで出てきて名前くらい聞いててもよさそうなのになーとか思ったり。
そんでちょっとググってみたんですけど、この「コミュニケーション教育推進会議」って悪名高い民主党政権時代に発足してて、しかも文科省のWEBサイトを見る限りでは会議も自民党政権に戻った後は開かれてないっぽい(議事録が4回目までしかないしその後の活動も特に掲載がないし資料も見当たらないし)感じなんですよ。いや活動継続してるなら教えて欲しいのでリンク下さい。
もちろんその2・3年ほどのせいで日本の教育に深い爪痕を残したっていうのであれば理解できなくはないですけど、そういう方向の話でもなさそうだし。
日本には昔から「話し上手は聞き上手」っていうことわざだってありますし、いわゆる陰キャと呼ばれるようなタイプの間でリア充の人のコミュスキルの高さの話が出る時って「真のリア充は自分らみたいなコミュ障でもうまく会話を誘導して話を聞き出して広げてくれるからすごい」って話であって「リア充の話っていつまで聞いてても飽きない」みたいな方面の話はほぼ聞かないです。自分は。
時間の都合とかスキル不足で教育が足りてないという現実はあるにせよ、コミュニケーションには自分の意見を正しく伝えることも重要だけど、相手の意見を引き出す能力であったりその為の傾聴能力であったりもすごく重要だよね、と思ってる人の方が多いんじゃないかなあ。少なくとも自分の観測範囲だとそうです。
ネット上のコミュニケーションが発言重視のコミュニケーションになってしまうのは、どちらかと言えばどうしても対多人数への発信が主になりやすく、かつ相手の反応が返ってくる(相手の反応を確認できる)のがリアルタイムではなくてタイムラグがある(ブログなどだと記事の投稿⇒読んだ誰かによるコメント⇒更にそれを書いた本人が確認するための時間差がある)という対話方式の構造上の問題であって、教育がどうこうじゃないと思うんですよね。
いや、そういう1対多数のコミュとか発言からレスポンスまでにタイムラグがある場合の対話術とかを教育できちんとやるべきではって話であるならやった方がいいでしょうねとは思うんですけど、それって傾聴能力を軽視したからコミュニケーション教育は失敗したんだ、っていう話とは別の話じゃないですか。別の話に平田オリザを混ぜ込まれると問題点が見えなくなるのでは?っていう。
十数年前の道徳の教科書には既に「英語が得意な『私』と得意でない友達がそれぞれ海外にホームステイに行ったけど、『私』はステイ先の同年代の子供と話が合わずギクシャクして、友達の方が海外の友人と仲良くなっていた」っていう話がありましてね。喋るのが得意でもそれだけでは相互理解なんてできないというのはずっと前から教育者も理解してると思います。(まあこの話の本題は自分の国に目を向ける、自国に誇りを持つことにあるっぽいですが)(ちゃんと最後には仲良くなれるのでごあんしん)
でもって傾聴能力そのものは教育である程度まではどうにかなります。何せ自分が仕事できているので。
もちろんそこには仕事だからこそ相手の話をちゃんと聞こうという意識が働いているという部分があり、相手の話を聞こうとしなければ傾聴スキルをいくら磨いてもコミュニケーションできないってのはその通りです。ですが「相手の話を聞こうと思えるようになるためには何をすればいいか」についてはこれもやっぱりある程度までの話になりますけど教育で賄える部分かと思います。
という横の話はおいといて、やっぱり平田オリザ氏のコミュニケーション論を軸に日本全体、あるいは主軸のコミュニケーション論が伝える力偏重であるという論調で話を進めるのはちょっと乱暴でないかなーと思うのです。
昨今の英語教育だって四技能、読む、聞く、書く、話す、と受け取る能力が盛り込まれてます。
日本のコミュニケーション論が伝える力偏重になっているのでは、という話をするならそんなごく一部かつ負けた政権の人間で今は開催されてないっぽい会議の議長の話を出すんじゃなくて、もっと他に今話題の方とか継続して活動を続けておられる方とか現在全国で取り組まれている試みとかを例として提示しないといけないんじゃないでしょうか。
あとググって出て来たここのページ
http://web.iec.ehime-u.ac.jp/reinelt/2018JCAcsComp/2018JCAcs3WakiTadayuki.pdf
とかを見て当時の会議資料のありかを知ったんですが、確かに2000年代初頭の資料については伝える力について主題として扱っているんですが、これはそもそも国語力とコミュニケーション能力の関係性について語られているのであって主題になってるのは国語力の方では?というあたりの問題もあって一概には言えない気もするなーとか。
(国語力は円滑なコミュニケーションには重要です、という話とコミュニケーション能力とは高い国語力のことです、では話が違いますよねってことです)
それにこれって「意見を発信する時には相手への尊重が必要不可欠だよね!だから敬語を大事にしようね!」みたいな話なので(雑すぎる要約なので詳しく知りたい方はちゃんと一次資料を読んでね)相手にこちらの話を聞いて貰えるようにするための警戒心を解いてもらう話術の話だと思うんですよ。
そんでもって平田オリザ氏の例の発言が炎上したのってその「相手への尊重」が欠片も感じられないんですけど、ってところが起点じゃないですか。
発信する側としてのコミュニケーションスキルである相手への尊重とそれを実際に示す態度、話法というのができてない時点で「平田氏のコミュニケーション論には問題があるかもしれないけれど、そもそもとして平田氏自身が自分の主張するコミュニケーション技法を守れていないので、今回の炎上を元に平田氏のコミュニケーション論が間違っていたかを論ずることはできないのでは?」という。平田氏のコミュニケーション論が正しいか否かには別のサンプルを持ってこないと駄目なんじゃねっていう。
なんかこう、平田氏の失敗を直接的には関係ない仮想敵への攻撃に便利に使っているように見えてしまって、伝える力偏重のコミュニケーション教育はよくないって主張そのものについては同意できるだけになんかむずむずするなーと思いました。
・主人公の悪行に絞る
・細かいクズムーブは拾ってない(第六話の最後のコマのセリフとか)ので君の眼で確かめてほしい
・得た金はだいたいパチンコの種銭に。
1〜2話:特になし(妻がパチンコで借金をつくったあげく男と駆け落ち)
3話:友人のパチプロにつられて妻捜索そっちのけでパチンコにはまる。
5話:闇落ち。
8〜9話:借金取りとしての才能が開花。債務者の子どもの学校で「親が借金まみれ」と暴露することで子どもをつまはじきものに仕立て、子どもから親へ返済のプレッシャーをかける手法を確立。
10話:紛失した学校の金をパチンコで埋め合わせようとする。父親が口を世話した学校を突然辞職。
11話:息子を三百万で売る。
13話:強姦した担任が妊娠したので婚約者として転がり込んだ担任の実家でやりたいほうだい。
14話:特になし(真面目に働く)
16話:教え子にたかる
19話:特になし(逃げられた妻のところへ転がり込む)
20話:妻のパート先で勝手に給料前借り。妻のお産費用をむりやりせびる。
21話:妻の出産祝いをむしる。働き口を口利きされている状態なのに「働きたくない」という理由で生活保護申請。
22〜23話:バイト先の弁当屋の社長をたらしこんでパチンコ仲間にした上で闇金で金を借りさせ、最終的に店を取り上げる(すべて計画的犯行)
24話:借金取り立てのバイト先にあったガラクタの壺が500万の価値を持つことを知り、債務者にも金貸しにも黙って壺を持ち出す。
26話:隣接区画のマンション建設反対運動のリーダーとなって建設会社から金をむしろうとする。
29話:大企業による不当解雇に加担しかけるが、心変わりして企業から金だけむしる。
34〜39話:特になし(塾講師として教育者の矜持を取り戻し再婚もして真人間に戻りかける。だが元妻が再びパチンコ中毒となり蒸発。再婚先の親もクズだと発覚)
40話:パチクズに戻る。
41話:パチンコ台を触った手で団子生地をこねて食中毒を発生させる。
42話:息子を残して自殺未遂
43話:パチクズに戻る。
これは、気づいている人も多いけど、検査の不足が一部にある一方で、過剰に検査を要求している人も多数いて、両方を分けて議論をして、両方とも改善しなければいけないという話。
検査不足については、高山義浩先生(岩田健太郎教授のプロレス?相手)も「これまでの積極的疫学調査(感染者の接触者を追跡する調査)の結果をみると、このウイルスの感染力は必ずしも強くはありません。少なくとも、インフルエンザほどは強くない。」「私たちは封じ込められる可能性を捨てるべきではありません。」と語っている(https://www.facebook.com/100001305489071/posts/2716494688404021/)。封じ込めるためには、感染者を確定診断し、その濃厚接触者を追跡・隔離することが何より重要であるにも関わらず、死亡後に感染確認という例があったり、検査忌避に関する報道が多数あり、後述する検査キャパ改善が遅々としている点は問題であり、何としても改善すべき話である。
現状において、風邪症状のみで濃厚接触者でもない人が検査を求めるのが害悪でしかないという言説は、確かにその通りであり、啓蒙が必要であると考えるが、良い記事があるのでリンクを紹介して省略する。(新型コロナ、なぜ希望者全員に検査をしないの? 感染管理の専門家に聞きました/https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-sakamoto)
検査キャパについては、これが不足しているがゆえに検査不足があり、改善すべきと考える。積極的な検査数抑制は不正告発が容易な日本社会においては、ほぼないと考えるが、検査キャパ不足が改善がなされないのは行政の不作為であり、追及すべき段階と考える。(当初は、「武漢市への渡航歴」とか「武漢市への渡航歴があり、発熱かつ呼吸器症状を有する人との接触」など検査対象に制約があって、それも問題であり別増田で指摘したりもしたけど、そこは改善した https://anond.hatelabo.jp/20200210110528)
では、なぜ検査キャパが後述の大臣発言もあるのに増えないのか。この件は、1)受け手側の機器・検査要員の限界、2)輸送手段の限界 3)院側での梱包発送 という問題があり、全てクリアにならないと検査が実施できないという3点があり、さらにはその限界を超えないように見通して、優先順位をつけ、検体受入れ可否も含めた調整も必要であること。
また、大きな要因として検体を量産していたダイヤモンドプリンセス号も含めて、検査需要があるエリアが偏っていて、稼働率が極端に低い都道府県と、極端に高い都道府県があることは容易に想像でき、日本全国での検査機器のキャパを母数として稼働率を見ても、そうそう上がらない状況にあった可能性は高い。
特定病原体を含むかもしれない検体の輸送は、梱包受け渡しにせよ、輸送業者の体制にしても厳格な決まりがあり、末尾にリンクを貼るが、そう簡単に民間委託キャパを増やせず、結果として保健所職員などの自治体職員の人的リソースの枯渇もあると考えられるし、長距離輸送も困難を伴うことになる。この点は特例的な臨時許可業者を検討したり、自衛隊の災害出動をかけるべきと考える。
また、東京都や愛知県内などの一部の保健所・衛生環境研究所では、人的リソース不足があるのは明白で、DMATでも自衛隊でも県庁職員でもいいし、その他大学の教育者・研究者・技官でも良いので、応援人員の動員を検討すべきである。
加藤厚労大臣は、国会答弁で18~23日の検査件数の内訳を明かし、その内容は18日996件 19日672件 20日656件 21日1594件 22日1166件 23日675件とのことである。この検査数はダイヤモンドプリンセス号、武漢帰国者チャーター便の搭乗者を含む可能性は高いが、両者ともにピークは超えている日程と考えられる。
一方で、「新型コロナウイルス感染症の現在の状況と厚生労働省の対応について」と題して、ほぼ日次で厚労省がWeb上で報告している文書によると、「2月25日18時時点までに疑似症サーベイランスおよび積極的疫学調査に基づき、計1,061件の検査を実施。そのうち147例が陽性。」とある。同文書時点の国内感染者数は160名(含む無症状者・除くDP号とチャーター便帰国者)であり、陽性者数と国内感染者数に大きな乖離はないので、市中の検査においては、1,061件がほぼ国内検査全数であるように読める。
一番さかのぼれる「1月27日12時現在 計14件」から約1カ月を経過して、1,061件しか検査してないという説明は、加藤大臣の答弁とも大きく乖離してており、どちらの数字が正しいかにより、検査不足の度合は大きく異なる。マスコミならびに野党各位は、「1日約3800件の検査が可能と説明していた」のになぜ「1日平均約900件」というピンボケな指摘をやめて、厚労省Webと大臣答弁の数字の差異こそ追及して欲しい。
なお、厚労省Webの数字は一部韓国紙にも参照されていて、間違いがあるのならば国際的な誤解を解くためにも訂正が必要であり、一方で大臣答弁に虚偽や欺瞞があったとすると、実態として1カ月でわずか1000人ちょっとしか検査していないということであり、国家総力をあげて改善すべきであると考える。
加藤大臣答弁の数字について、1つ仮説を述べておく。厚労省が出している検体採取に関するガイドライン(リンク末尾記載)によると、1人の患者から2検体「下気道由来検体(喀痰もしく䛿気管吸引液)」「鼻咽頭ぬぐい液」を検査することになっているが、それを2件とカウントし、同一患者からの経時的な検体も個別にカウントアップして検査数としている可能性を指摘しておきたい。
他に検査数・陽性者数の差異として、DP号下船厚労省職員や検疫官を中心に、一部「疑似症サーベイランスおよび積極的疫学調査」のいずれにも該当しないものの、検査を実施し、一部陽性となっているものがあることは予想される。
「自宅待機しろって言うけど、家族への感染は許容しろってことか?」という発言も多い。これは一理ある。この観点からは課題は2つあり、隔離場所の確保と、隔離に際して誰をどこへ隔離するかの優先順位付けの問題とに分かれる。この隔離優先順位付けのために、PCR検査をもっとすべきという意見は一面では正しいが、以下の観点から現状では軽症者は避けるべきという話になる。
・日本国内の流行がそこまでではなく感染確率そのものが低いこと
・PCR検査をするために病院へ出かけることが感染リスクを高めること
家族への感染リスクは、現状ではそもそもの感染確率が低いところから許容すべきではあるが、より流行が拡大した場合などは、もう一方の課題、「軽症の疑い者」の隔離場所の確保という観点も含めて対応すべきであろう。その場合はインバウンド激減となっているホテルの一棟借り上げとかも想定されるが、その施設のスタッフの防疫も考えると、むしろ「軽症の疑い者」の家族を、普通に宿泊客としてホテル等へ避難させ、当人を自宅隔離する方が簡便だと考えられる。
地場の観光産業を救う意味にもなるし、補助金を積んで「軽症の疑い者」の同居者に感染リスクを回避したい高齢者、基礎疾患がある高リスク者、もしくは受験生などがいる場合、リスク回避する家族が、ホテル・公立宿泊施設・公営住宅の空き部屋などを比較的安価に利用できるようにすれば良いと思う。自宅に要介護者がいるケースなどは、例外対応的な、病院未満の隔離先もあればなお良い。
そこまでの事態にならないといいんだけどね。以上。
友人間での飲み会もほとんどして来なかったし無職でニートの今行くのはなあと思いつつ、2回目のニートだしどうにでもなれと思って参加した。
皆それぞれの職に就いてそれぞれの生活をしている様だった。家業を継いだ者、責任ある職位で頑張っている者、故郷を離れ少し遠い田舎の地に勤める者もいる。
皆ちゃんと大人になっていた。彼女とか結婚とか、貯金とか株の事とか、将来の事をちゃんと考えて生きていた。
丸2年しか続けられなかった仕事を辞め、半年以上何もしていないのは自分だけだった。その事を告げても友人達は気を遣って冗談交じりに優しい言葉を掛けてくれたが、酒の席だからその場に居られた様なものだ。
自分は将来の事をいつの間にか考えられなくなり、死にたいと思う様に気付けばなっていた。高校の時からだが、働き始めてもやはり変わらなかったし今でも変わっていない。
友人は「増田は大人っぽくなったね」と言ったが、確かに「ぽい」だけだ。中身も外身も大人ではない事は解っているつもりだ。
趣味で免許を取った事を話すと、運送関係の仕事をしている友人に連絡してみたらと連絡先を教えてくれた。しかしその友人に連絡もできないまま気付けば2週間が過ぎた。
その間に25歳になってしまった。高校の時は18で死にたいとか思っていたのにずるずる来て7年生きている。高校卒業後2年間ニートになり、2年間職業訓練校に行き、2年間正社員で働き、昨年またニートになった。では2年目の今年は? 即死イベントが来たら言う事は無いが願って起きる様なものでもない。死にたければ自分で死ぬしかない。しかし中途半端でもいけない。
そう言えば昨年は厄年だったが面倒だったので厄払いをしていなかった。そうしたら辞める様な事になった。その後で厄払いしたがもう遅い。仏教だの神道だの宗教に関する物事は面白いとは思っているが、厄年とか厄払いとか気持ちの問題だろとしか思わない程度に信仰心は無い。だから厄年は関係無いと思っているが、「厄年」というミームが内心影響した…のかも分からない。他者に原因を求めるのは楽だけれど空しくなるだけだ。結局環境に適応出来ない自分が悪いのだ。
教育者だった祖父は「増田は賢くなるよ」と言っていたそうだが、実際は違った。全体ではなく当座の、それもとても小さな利益だけしか見えないずる賢い小心者になっただけだった。
もし私が狂気に走り何かの大罪を犯したら、刑事だったというもう一方の祖父は生きていたらどういう顔をするのだろうか。
どうせ日記だから良いんだけど取り留めもなくなってきたしそろそろ寝よう。寝ても強い自殺願望が残っていたのはまだ一度しか無い。
研究をしていない大学教員は教育者としてキツい.日本では概ね,科研費を始めとする競争的研究資金を長年本気で取りに行こうとしていない人が非研究者かなとは思うけど,ここでは「論文や専門書を読んでないので,専門分野のトレンドを知らない」人を非研究者とする.もちろん近年,特に私学では校務の負担がどんどん上がっているので自分の研究時間がほとんどない.査読付き論文の本数で世界と殴り合うぞっていう研究室出身の教員は研究時間の作り方を知ってるけど,そうでない場合は博士号持ってようとそもそも研究って何すんだっけ状態な人も結構いるというのが実態.
今は教育機関として大学がどのような役割を果たすべきかということに結構焦点があり,シラバスの厳格化,ルーブリックの作成といった様々な取り組みが行われている.それで,授業に完結した「学習」ではなく能動的な授業外の学びを含めた「学修」を行わせるために,授業を通じてどのような学びができるかということを強調するようにさせているところも多い.シラバスの厳格化に含まれる,到達目標の明確化は評価の際に重要になるわけだけど,その授業を通じて自分がこうなれる,と想像させるという点も重要だと思っている.あまり好きじゃないけど,「この授業が何の役に立つんですか?」とか言う人増えたしね.
本題だけど,非研究者は新しい知識がないから,教科書通りのことしか話せない.あるいは,かつての栄光の超古い自分の取り組みとかを語りだす.前者については正直授業である必要性がないし,後者はネットニューズやパソコン通信がいかに楽しかったかを語り出すおじいちゃんみたいな感じ.2000年って20年前で,今の大学生は生まれてないか,乳児くらいなんですよね.そんな昔のことの話は,「この授業が何の役に立つんですか?」という疑問とは全然結びつかない.もちろん,最新の動向「も」知っていれば,点ではなく未来に向けた流れを重厚に語れることになるけど,昔のことしか知らなければ昔話にしかならない.
結局のところ,大卒という就職に必要な資格を得るために大学に進学してきた学生に,大学生のうちにサークルとバイト以外に勉強も頑張るべき,というのを実感させるために一番必要なことは「この授業が何の役に立つんですか?」という素朴な質問にきっちり答える力を大学教員が身につけることだと思うんですよ.そのためには研究者になって,その分野の最新の知見を学生の身近な話題と紐付けて,学修に対する関心を抱かせるのが絶対に必要不可欠だと最近は考えてます.たま~に他の先生の授業聞いたりしてるけど,こりゃ寝るわって感じの授業が多い.
まあ,根底にあるのは雑務が多すぎて研究の時間が取れないということなので,共通テストの記述式問題採点とかのどうでもいい仕事は増やすべきでないし,職員や私書ガンガン雇って事務作業を減らすべきなんだけどね.前者はただの思いつきに振り回されてるだけだけど,後者は金で解決できる.ただ大学は金が無いし交付金もどんどん減ってる.世知辛い.
年末はずっと家に引きこもって寝るか卒論を執筆するかしている.12 月初旬に中間発表を終え,特に新規性も出ないままはてどうするかととまどっていたのであるが,同じ分野をやっていた研究室の先輩の卒論をじっくり読み返していたら奇跡的にその拡張を思いついた.個人的にはそこまで非自明な結果ではないが,あまりにもきれいな結果であるので,他分野のどこかで誰かが同等のことを思いついているであろう.私がやっている分野では知る限り誰も思いついていない.恋人がベットで寝ている夜明けに夢中で数式を書きなぐった.思いついたものをすぐに実装し,いくつかの観点で「自分の出した結果は確かか?」を検証した.するとどうやら間違いないようであり,理論的に最適なものが導けたようである.確信を得てから指導教員に報告に行った.
そこからはずっと夢中だった.うつ気味でやる気のしない時もあったが,シャーペンを持って紙に向かっている時,プログラムを実装している時,論文を書いている時,夢中になれた.
先日卒論の第 1 原稿を持って指導教員とミーティングをしたのであるが,先生は「数学の能力も高そうであるし,研究者になる道も考えてみてはどうか」と言ってくださった.うれしかった.無論,自分に特筆するような才能はないことはわかっているし,先生は新たな研究者を輩出することを目的とした教育者であるからそのようなことをおっしゃったのだろうが,それでもなんだか無性に喜ばしかった.
卒論を学術論文として外部に出してはどうかと勧められている.卒論も英語で執筆することにした.いろいろなことに挑戦できている気がする.来年からは同大学院の修士に進学する.どこまでやれるかわからないが,希望が少し見えてきた.
https://this.kiji.is/581526968514757729
さすがブクマカの皆さんはリベラルで、人権講師に「この中にも○○がいる」と言われても動じない方ばかりなんだな。
皆さんには信じられないかもしれないが、世間はそこまで同性愛を理解していない。
同性愛を、同和地区の人、在日外国人など、見た目でわからない被差別者に言い換えてもいい。世間はブクマカの皆さんほど理解していない。
私の友人に、性的マイノリティ人権講師をやっている人がいて、私はそのサポートをしている。講演のあと、アンケートをまとめたりする。(以下アンケートの回答は原文のままではありません)
アンケートでは、児童生徒が否定的な回答をすることはまずない。記名で先生が読むアンケートだからということもあろう、模範的に答えようとする子供がほとんどだ。
・かわいそうだと思いました
講演の中で、「クラスメイトの皆さんと変わらず仲良くしていたいと思っているのに、ゲイかもしれないと疑われた時点でよそよそしくされる。それはとても辛いのです」と伝えているにもかかわらず、だ。「自分たちはカミングアウトをしなくても、皆さんと一緒に普通に生活しています。多くの当事者は、特別扱いされたいとは思っていません」と伝えているにもかかわらず、だ。
子供たちの多くは友達に優しくあろうとしているので、アンケートの答えが点数稼ぎばかりとは思わない。きっと本心でそう思ったのだろう。
でも、そんな、腫れ物に触るような対応を誰が望む?
ブクマを読んでると、子供たちが何らかの手口で当事者を燻り出していじめる場面を思い浮かべたのかな? と思えるものが結構目についた。子供がそんなことやるのはどう考えても悪だし絶対ダメだ。
実際の現場でおきることは違う。
「このクラスにもいるかもしれないんだって」「もしいたらどうする?」「あの人"そう"っぽくない?」「かわいそうだし、優しくしてあげる」
そんなような会話が、数名の仲のいいグループ内でなされる。そのグループの中に当事者がいる可能性に気づきもしないで。
これまで隠してきた当事者は、ますます「言えないな」となる。隠さなきゃいけないなら友達じゃないって? 誰だってすっごく仲いい人にだって打ち明けない秘密の一つや二つ持ってるでしょ?
あるいは、クネクネと「実はおれ、ゲイなのよん。差別しないでね〜ん」なんてウケを取ろうとする子がいる。その場に当事者がいる可能性に気づきもしないで。助長される「いじめ」はこんなふうに、特定個人相手ではなく自覚なく行われる。諫めると自分が疑われるかも、と思って、周りも笑う。当事者ならなおさら、怖くて抗議できない。
何クラスもを一度に集めた講演会で、数分から数時間程度のお話を聞いただけで深く考えることができる子って、実際すごく少ないんですよ。上っ面の理解で、インパクトのある「この中にもいます」だけが印象に残る。当事者探しは教室で「お前か?それともお前か?」なんてわかりやすい方法じゃなく、それこそ LINE のグループなんかでヒソヒソやられるんだ。クローズドの当事者がそのグループにいたら? 自分が疑われなかったとしても、「この中にだけは当事者はいないだろう」を前提にされている空気にすり潰される思いをする。
(すり潰される経験があまりに多すぎて諦めている人もいる。すり潰されているのは自尊心で、人生を大きく左右するのに。)
性的マイノリティ人権講演は、自治体や教育者対象のものも多い。児童生徒よりも、講演後アンケートの回答はばらける。大人は自分の部下や子供からカミングアウトされたら? ということを現実的に想像して答える。
・うちの生徒にはいないが、今後の参考に
とても現実的だと思う。自分は理解していても周囲はそうじゃなく、変えていく力はないと思っていたり、自分の偏見が拭えないことに悩んだり、どこか他所ごとだと思ったり。社会の現実はこうなんだ。
実際、近しい人が当事者だと気づいたときに戸惑わないと言える人はどのくらいいるのか?
(戸惑ったら「戸惑った」ってリアクションしてもいいと思うけど。なかったことにされるよりずっといい)
世の中はまだまだこんなふうで、子供たちはそんな世の中で成長しているのだ。
理解の浅い段階で「この中にも同性愛者がいる」って言葉を投げかけられると、当事者が不安とショックに囚われる。当事者でなくても立場の弱い子供にも、しばらく友達との会話が恐怖になる可能性がある。
しっかりとした性的マイノリティ教育(その他人権教育)が行われていれば、子供たちは、自分の周りにも当事者がいるかも、という前提で人と付き合うことができる。「この中にも同性愛者がいる」とわざわざ言う必要がない。
児童生徒向けで、全体講演のあと、クラス単位や希望者のみなど、もう少し少人数で距離も近くして講義を行うことがある。質疑応答の時間も設ける。子供たちの姿勢が違って、上っ面だけじゃなくしっかり理解しよう、受け止めようとして聞いてくれる。その後、アンケートよりもずっと長文のレポートを送ってくれる。
・もし友達にカミングアウトされたらどうすればいいかって考えていたけど、その人にいつもしてるみたいに言葉をかければいいんだなと思いました
・将来自分が同性を好きになることもあるかもしれないから、今はそうじゃなくてもふざけてネタにするのはやめようと思った
・性的マイノリティの人がその場にいたら言えないようなことは、誰の前でも言ってはいけないと思いました
講師は「この中にも同性愛者がいる」とは絶対に言わない。「同性愛者にはこう接しなさい」と言うわけでもない。人と人との関係の、答えのない問いを、一緒に考えていこうね、と伝えただけだ。
今思うと、単に仕事として依頼されたからというだけでなく、こういう学習漫画を描くことで社会貢献して箔をつけようとしていたのかな。単に雑誌に大衆向けとして描くだけでは社会人的評価が得られにくかったから。あと、こういう漫画の執筆を通じて、漫画家自身も勉強になり、学がつくというのもあるだろう。最初から立派な監修がついてくれてるから安心できるだろうし。
かつて矢口高雄が、エッセイを教科書に載せたいという教科書会社の申し出に対し、「エッセイではなく1ページマンガを書かせてほしい、原稿料もいらないから」と頼み込み、マンガを初めて教科書に掲載させることに成功したという。
これはどういうことかというと、「音楽の教科書にビートルズ」と同じ。かつてマンガは俗悪な読み物として親や教育者から敵視されていたが、マンガを読んでいた子供たちが大人になり、その社会的評価も変わっていったということをあらわす象徴的なエピソードだ。矢口は子供の頃から敬愛する手塚治虫のマンガが大人から白眼視されることにいらだちを抱えていたというし、積年の思いを晴らしたとは言える。
例示された漫画家は、そのようなフラストレーションを抱えた世代だろう。学習漫画を描くということは、彼らにとっては「子供たちのために漫画を描く」ということが世間に認められたことの一種の確認にはなったと思う。しかし増田の言う「社会人的評価のために箔をつける」は的を外してないように見えてだいぶズレている感じがするし、「漫画家にも勉強になる」って、まるで漫画家は勉強してないような言い草だな。この投稿で一番気になったのは増田の持つ漫画家への蔑視的偏見だ。
どうしてもあなたは私たち家族に非があるように仕立て上げたい様ですね。
そこまでして「ぼくちゃんの景観を壊すない!」と主張するオタクの方でしょうか?
そんなこと言いだしたら、しまじろうやサザエさんだって二次元じゃありませんか。
過激なものがあったとしても、私たちの預かり知らぬところでやってくれと思っていましたし。
ですから、旦那がそういった趣味の持ち主ならとっくに開示しているはずです。
教育上子供には見せないでほしいと譲歩を願う程度は教育者として当然すると思いますが。
(そして快諾してくれるでしょうね。ぐちぐちいうあなたみたいな狭量日陰者と違って!)
そうやって放っていたらこの有様です。
日和見治療は何の役にも立たないことを手を噛まれて初めて知りました。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185
読んだんだけどさ。
まずこれは、「見る人が不快に思う」からダメという言う話ではない。
当然、不快に思う人もいるだろうが、重点を置くべきはそこではない。
いや、俺は「性が断片化され、人格からきりはなされたものと扱われる」っていうのが何を言ってるのかさっぱりわからんのだが。
だいいち、この人の理屈だと、公共の場に限らず、宇崎ちゃんは差別的でダメってことになると思うんだが。
なんで公共の場以外だったらOKになるの? それはそれで適当過ぎない? (挨拶)
ここから本題。
最初にさ、赤十字じゃなくて埼玉県のガイドラインの話するじゃん?
んで、宇崎ちゃんが埼玉県のガイドライン的にアウトって話をするのね。
なんでも女性を笑顔にしてるだけでダメなんだってさ。(ここよくわからないポイント1)
んで、埼玉県のガイドラインですらアウトなんだから、赤十字はもっと公共にあたるし当然だめっていうのね。(ここよくわからないポイント2)
んで、ここまでのよくわからんポイントはとりあえず飲み込むとして
「公共での広告の在り方を定めるガイドライン的にNGだから宇崎ちゃんもダメ」っていうのはとりあえず受け入れるとするじゃない?
ここまではまだモヤモヤはするけど受け入れられるのよ。
まずこれは、「見る人が不快に思う」からダメという言う話ではない。
当然、不快に思う人もいるだろうが、重点を置くべきはそこではない。
ここよんで「はあああああ?」ってならんかった?
なんでさ。
公共のガイドライン的にちょっと自重したほうがいいよっていう話を受けいれたら、
自動的に、「宇崎ちゃんの絵は、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われることが、女性蔑視・女性差別だから問題」
ってところに合意させられるわけ? (ここよくわからないポイント3。というか納得できないポイント)
そもそも論理が逆転してんじゃん。
今までは一応「ガイドライン」の存在が先にあって、それにひっかかるからアウトって話だったよね。
全然違う話をつなげてる上に、その違う話でNG判定が出たってとこから無理やり逆算してるのね。
「ガイドライン的にNGだった」→「女性蔑視・女性差別だから」→「宇崎ちゃんは女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われてるものだ」になってる。
これずるくね?
だって、牟田さんの記事、どこにも「宇崎ちゃんが女性の性を断片化して、人格からきりはなしたものである」ということについて説明してないじゃん。
なんか、前のガイドラインの件の続きで、あたかもこの点については説明済み・合意済みって前提で話進めてんじゃん。
ちょっと牟田先生の知性を疑いたくなるレベルでひどいと思うんですけど。
いや牟田先生がバカだからじゃなくて、説明してないことを説明したつもりになって記事書いてるだけならまだいいよ。
でも、もっと恐ろしいのは、牟田先生がわざとこういう構成で文章を書いてるとしたら。
それはもう教授失格でしょ。
それが教育者のやることですか?
この件での騒動で明らかになっているのは、多くの人々に、女性差別撤廃条約やそれにもとづいて国や自治体が取り組む、女性差別撤廃に向けた取り組みの中身がまったく理解されていないことだ。ツイッターを見ていると、弁護士や評論家と称する人たちにさえ「個人の気持ちの問題」「感じ方の違いにすぎない」「表現の自由を侵すな」等の発言があったのにはまことに頭の痛い思いがした。
別に素人なら頭の痛い思いをしたとか感情的なことを書くのもいいけどあなたフェミニズム学の教授でしょ。
なに素人みたいなこといってんの?
考えてみてほしい。
物心つく前から、街頭で目にするポスター、本屋やコンビニの店頭にならぶ雑誌の表紙に、性的なポーズを取り男性の欲望に訴える女性の姿を見ない日はない。道を歩いていると見知らぬ人から容姿について卑猥な言葉を浴びせられる。学校の先生や男子たちから体つきについてからかいや嘲笑を浴びる…。
日本で普通に生きていてこんな体験をしたことがない女性はいないと断言してよいが、こうした体験は、女性たちの尊厳を傷つけ自己肯定感を奪って、生き方そのものさえ歪めてしまう。あまりにも日常的に起こっていることだから、自覚することさえなくやりすごすことも多いのだが、これはまぎれもない女性への人権侵害だ。上述の条約や基本法の警告や指摘は、女性たちにとってリアルなのだ。
そうかもしれんけど。
それと牟田先生がろくな説明もせずに「宇崎ちゃんが女性の性を断片化して、人格からきりはなしたものである」認定したことは全く関係ないよね。
話ごまかしてるよね。
ねえ。
フェミニズムの授業っていっつもこんな非論理的な解説やってんの?
それ学問としてどうなの?
さすがに、今回の記事をまじめに書いてこれだったんだったら、教授としての資質を疑いますよ。
象牙の塔で、誰も批判する人がいないからいつの間にかこんなずさんな文章書いてもやばいと思わなくなったのかどうか知らないけど。
書き直して。どうぞ。