ご遠慮頂きたいなって思ったんですがタイトル長すぎて切れましたてへぺろ☆
平田オリザ氏炎上にみる、コミュニケーション教育は「他者と相互理解する能力」を害しているという現実
https://note.com/hirayama_t/n/n9ee3544db3b0
これ見て「伝える力偏重のコミュニケーションはパッと見だとうまくいってるように見えるけどちょっとしたきっかけで破綻する」ってのはその通りだよなーと思いつつ、どうしてもひっかかることがあったんですよ。
そもそも「日本のコミュニケーション教育は伝える力偏重」ってマジなの?ってとこです。
自分、職業柄コミュ障のくせに他者との会話が必須なので教育で得たスキルでどうにか人並みの仕事をできるようにしてるんですけど、そのコミュニケーションのための教育で教わることって「相手の話をちゃんと聞こうね」なんですね。
相手の話には適切に相槌を打つことで相手に安心感を与えよう、だとか、相手の言ったことを再確認することで齟齬が起きにくくなるだけでなくて相手からも信頼してもらいやすくなるから言われたことはちゃんと「○○ですね?」って聞き返そうね、とか。
もちろんこっちから話しかける時の注意として分かりやすく簡潔に、とか、伝えるためのスキルってのも教わりましたよ。でも相手の言いたいことをちゃんと把握するための技術はきちんと教わりましたし偏ってるなんて思ったことないです。
そもそもこの平田オリザって人、コミュニケーション教育ナントカの座長で第一人者って言うけど今回の炎上まで名前も知らなかったんですよね。もちろん自分のアンテナが狭いってのはあると思いますが、それだけ重鎮のはずの人ならそれこそテレビの御意見番とかで出てきて名前くらい聞いててもよさそうなのになーとか思ったり。
そんでちょっとググってみたんですけど、この「コミュニケーション教育推進会議」って悪名高い民主党政権時代に発足してて、しかも文科省のWEBサイトを見る限りでは会議も自民党政権に戻った後は開かれてないっぽい(議事録が4回目までしかないしその後の活動も特に掲載がないし資料も見当たらないし)感じなんですよ。いや活動継続してるなら教えて欲しいのでリンク下さい。
もちろんその2・3年ほどのせいで日本の教育に深い爪痕を残したっていうのであれば理解できなくはないですけど、そういう方向の話でもなさそうだし。
日本には昔から「話し上手は聞き上手」っていうことわざだってありますし、いわゆる陰キャと呼ばれるようなタイプの間でリア充の人のコミュスキルの高さの話が出る時って「真のリア充は自分らみたいなコミュ障でもうまく会話を誘導して話を聞き出して広げてくれるからすごい」って話であって「リア充の話っていつまで聞いてても飽きない」みたいな方面の話はほぼ聞かないです。自分は。
時間の都合とかスキル不足で教育が足りてないという現実はあるにせよ、コミュニケーションには自分の意見を正しく伝えることも重要だけど、相手の意見を引き出す能力であったりその為の傾聴能力であったりもすごく重要だよね、と思ってる人の方が多いんじゃないかなあ。少なくとも自分の観測範囲だとそうです。
ネット上のコミュニケーションが発言重視のコミュニケーションになってしまうのは、どちらかと言えばどうしても対多人数への発信が主になりやすく、かつ相手の反応が返ってくる(相手の反応を確認できる)のがリアルタイムではなくてタイムラグがある(ブログなどだと記事の投稿⇒読んだ誰かによるコメント⇒更にそれを書いた本人が確認するための時間差がある)という対話方式の構造上の問題であって、教育がどうこうじゃないと思うんですよね。
いや、そういう1対多数のコミュとか発言からレスポンスまでにタイムラグがある場合の対話術とかを教育できちんとやるべきではって話であるならやった方がいいでしょうねとは思うんですけど、それって傾聴能力を軽視したからコミュニケーション教育は失敗したんだ、っていう話とは別の話じゃないですか。別の話に平田オリザを混ぜ込まれると問題点が見えなくなるのでは?っていう。
十数年前の道徳の教科書には既に「英語が得意な『私』と得意でない友達がそれぞれ海外にホームステイに行ったけど、『私』はステイ先の同年代の子供と話が合わずギクシャクして、友達の方が海外の友人と仲良くなっていた」っていう話がありましてね。喋るのが得意でもそれだけでは相互理解なんてできないというのはずっと前から教育者も理解してると思います。(まあこの話の本題は自分の国に目を向ける、自国に誇りを持つことにあるっぽいですが)(ちゃんと最後には仲良くなれるのでごあんしん)
でもって傾聴能力そのものは教育である程度まではどうにかなります。何せ自分が仕事できているので。
もちろんそこには仕事だからこそ相手の話をちゃんと聞こうという意識が働いているという部分があり、相手の話を聞こうとしなければ傾聴スキルをいくら磨いてもコミュニケーションできないってのはその通りです。ですが「相手の話を聞こうと思えるようになるためには何をすればいいか」についてはこれもやっぱりある程度までの話になりますけど教育で賄える部分かと思います。
という横の話はおいといて、やっぱり平田オリザ氏のコミュニケーション論を軸に日本全体、あるいは主軸のコミュニケーション論が伝える力偏重であるという論調で話を進めるのはちょっと乱暴でないかなーと思うのです。
昨今の英語教育だって四技能、読む、聞く、書く、話す、と受け取る能力が盛り込まれてます。
日本のコミュニケーション論が伝える力偏重になっているのでは、という話をするならそんなごく一部かつ負けた政権の人間で今は開催されてないっぽい会議の議長の話を出すんじゃなくて、もっと他に今話題の方とか継続して活動を続けておられる方とか現在全国で取り組まれている試みとかを例として提示しないといけないんじゃないでしょうか。
あとググって出て来たここのページ
http://web.iec.ehime-u.ac.jp/reinelt/2018JCAcsComp/2018JCAcs3WakiTadayuki.pdf
とかを見て当時の会議資料のありかを知ったんですが、確かに2000年代初頭の資料については伝える力について主題として扱っているんですが、これはそもそも国語力とコミュニケーション能力の関係性について語られているのであって主題になってるのは国語力の方では?というあたりの問題もあって一概には言えない気もするなーとか。
(国語力は円滑なコミュニケーションには重要です、という話とコミュニケーション能力とは高い国語力のことです、では話が違いますよねってことです)
それにこれって「意見を発信する時には相手への尊重が必要不可欠だよね!だから敬語を大事にしようね!」みたいな話なので(雑すぎる要約なので詳しく知りたい方はちゃんと一次資料を読んでね)相手にこちらの話を聞いて貰えるようにするための警戒心を解いてもらう話術の話だと思うんですよ。
そんでもって平田オリザ氏の例の発言が炎上したのってその「相手への尊重」が欠片も感じられないんですけど、ってところが起点じゃないですか。
発信する側としてのコミュニケーションスキルである相手への尊重とそれを実際に示す態度、話法というのができてない時点で「平田氏のコミュニケーション論には問題があるかもしれないけれど、そもそもとして平田氏自身が自分の主張するコミュニケーション技法を守れていないので、今回の炎上を元に平田氏のコミュニケーション論が間違っていたかを論ずることはできないのでは?」という。平田氏のコミュニケーション論が正しいか否かには別のサンプルを持ってこないと駄目なんじゃねっていう。
なんかこう、平田氏の失敗を直接的には関係ない仮想敵への攻撃に便利に使っているように見えてしまって、伝える力偏重のコミュニケーション教育はよくないって主張そのものについては同意できるだけになんかむずむずするなーと思いました。