はてなキーワード: 教育者とは
組体操をやめない理由を知りたがっているブコメが多かったので、現場より。
特定防止のため色々曖昧にはするが、組体操は百害あって一利も無い訳でもない。
「皆で目に見えて体感を伴って明確にして具体的な何かを完成させる」のは一定の心理効果があるようで、
それまで同級生と馴染めていなかった子が、良い笑顔で皆と交流できるようになった例はある。
勿論、そういうキッカケは生徒によって様々だし、必ずしも組体操である必要は無いが、
他のダンスや芸術活動等々と比べ、組体操は前述の可視化や体感容易性の点においては比較的優れている。
万人の子供に通ずる銀の弾丸でもないが、それで救われる子が比較的出やすい方ではある。
ただし、個人的な意見としては、そのために何処までの危険性を許容できるかは議論の余地がある。
組体操の難易度と、それによって得られる心理効果に相関関係があるのかは分からないが、
だとしても過度に高難易度の危険性を犯すのは賛同しかねるし、前述の心理効果は比較的安全・容易なものでも得られる。
逆に、高難易度の危険性を忌避するが故の、比較的容易なものも含めた組体操全廃論にも賛同しかねる。
組体操ばかりが悪目立ちしているが、子供が怪我をする要因はスポーツ等多々あるし、
怪我を“過度に”恐れていては結局「子供を外で遊ばせるな」という極論にしかならない。
何がその子にとって良いor悪い、嬉しいor嫌いは千差万別であるため、何かをすればそれを嫌がる子も出てくるものだし、
いじめ問題でも何でも、ある子にとっては正解の対応が、別のある子にとっては間違いであるケースも多々あるため、
全体で何かをしようとすれば、必然的にそれを良く思わない生徒も出てしまうが(当然そういう子のケアも求められるが)、
少数(や、自分個人の体験)に配慮して何から何まで全体を規制してしまえという、昨今の風潮には疑問もある。
もっとも、教育現場に限らず、人との関わりにおいて最後に大事なのは手法ではなく、それを実行する人間そのものである。
本当に優れた教育者なら、組体操なんて用いずとも優れたクラス作りができるだろう。
上位2割の層のみが実行可能な手法を残りの8割に強要したところで、皆が不幸にしかならない。
まして教育者の権限や立場が失墜した現代の教育現場では、熱心な教育者ほど我の暴走した現実の壁に潰されて辞めてしまい、
批判で満たされる世界で生き残るのは、往々にしてそれを覆す優れた人間ではなく、それを適当に受け流せる図太い人間が大半である。
そんな訳で、確かに理想ではないかもしれないけれど、そんな世界で妥協を模索するならば、組体操はそう悪い手法ではない。
昔、そこそこ仲の良かった男子が結構くだらない事でめちゃくちゃ叱られてグレてしまった
グレたと言っても、自習時間に机をドンドコしたり、補習をサボってバッセンに行く程度だったけど、まあうちの学校ではグレてる部類だった
彼はそのうち課題を出さなくなり、その事で他の先生にもしょっちゅう叱られるようになり、余計態度を硬化させる負のスパイラルに陥って
もともと下がっていた成績もガタ落ち、結局3浪して消息不明になった。f欄に行ったという噂も聞いたが、謎だ。
彼を叱った先生とついこの間お話しした際に、彼についての話も出たのだが、「怒りすぎちゃったなあ」と後悔していた。他にも彼の没落の原因はあったのだろうが、アレがキッカケになったのは確かだった
「宿題やったの!?」「今やろうと思ってたのに!」みたいなの、大人になってもずーっとあるよね。あんまり叱られすぎると反感や怒りが先行してしまって、なかなか自分を省みることが出来なくなる
叱られて伸びないタイプの人は、やんわりと諭してあげるのが一番良いのだと思うが、叱る側に立つと結構難しい
「叱る」とはどうあるべきなのだろう
鬼の生活指導に叱られて、不登校になってしまった女の子が中学時代いたが、彼女にとっての「叱られる」は、しょっちゅう叱られている剽軽な男子にとっての「叱られる」とは同じ叱られ具合でも全く違うものだったろう
クラスメイトの前で「ちゃんとやれよ!」と一言言う事だっておとなしく真面目な子と活発で不真面目な子とでは受け取り方が全く違う
前者の場合「先生にみんなの前で怒られた」という羞恥を引き起こす、精神的苦痛は絶大だ
本人のタイプに合わせて指導法をきめ細かく変えてやるのが一番人を伸ばす叱り方だと思うが、「人によって叱り方が違う」というのは集団に不公平感を生む
教室のような閉じた、それでいて壁のないオープンな集団の中で人によって態度を変えながら叱るのは難しい
そう考えると、何か悪いことをした子はそっと別室に連れて行き叱るのが適切なようにも思える
しかし、自分自身小学校のころよく知らない先生と二人きりの教室で隣に座って密着されながら委員会資料の作成をさせられたのは軽くトラウマなのでそれはそれで問題があるように思う
一対一での指導、は多分ロリコン教師を欲情させるシュチュエーションになってしまうし、閉鎖的な空間で上下関係が残るのも監獄実験のような状態になって「叱りすぎ」を誘発しそうだ
職員室で叱るという手もあるが、他の先生の前で叱られるというのも精神的な負荷が大きいだろう(忘れ物が酷くて何度やられたことか)
保健室で「厳しい担任の先生」と話をそばで聞くだけの「優しい保健室の先生」という二対一のお説教が思いつく限り一番良いように思う
仕事量を考えると養護教諭ではなく、昼休みだけ来る外部カウンセラー数人で回すのが風通しが良く現実的な形になるだろう
これが家庭の場合「厳しいお母さん」と「優しいお父さん」のような役回りでの叱り方になるのだろう
しかし、甘やかすだけ甘やかす父(母)に子供がなつき、損な役回りをさせられる母(父)の言う事を子供がきかなくなる、というようなケースも聞くので、適宜「厳しい」と「優しい」は交換しながらやっていく必要がある筈だ
「叱る」一つの手前でも、どちらがどちらの役割をするのか話し合う必要があるのはやや面倒だが、子供の糧になる「叱る」のためにはそのぐらいの手間は必要ではないだろうか
職場で叱るケースでも、教育係を一人に一任せず「直属の厳しい教育係」と「見守る優しい先輩」というロールで叱ってみるのも一つの手なのではないだろうか
我々は普段から「叱る」と「怒る」を混同し、ただ感情を発露させるだけの行為を目下の相手にしてしまう事が多いが、効率的に人を成長させるためには「叱る戦略」をきちんと考えて叱るべきだ
個人的に、教育現場における「叱る=怒鳴る」は論外である。怒鳴る事によって相手を萎縮させ、内省させる間も与えない行動が反省を促すとは到底思えない。
生徒、部下の立場は怒鳴られても怒鳴り返すことの出来ない立場である。おずおずと返答をしても「言い訳をするな」と一蹴される恐れがある。怒鳴る行動は対話の機会を奪うのだ。
勿論、いじめや命を落としかねない悪ふざけには少なからず「怒鳴る」のコマンドが必要かもしれない。事の重大さに気づかずヘラヘラと対話による説教を聞き流すような生徒もいる。なぜ「怒鳴る」が必要になるのだろうか。この場合「怒鳴る」はどのような効果を発揮しているのだろうか。
主観的かつブラッシュアップの足りない考えではあるが、一つの仮説がある。「怒鳴るとは上下関係をわからせる手段ではないか」という仮説だ。そもそも、動物としての観点で見ると大声とは威嚇の手段の一つである。動物のように大声を上げることで、相手を威嚇し、上下関係を再確認させるのだ。プラスして、感情をあえて大袈裟に表現することで「自分は真剣だ」と伝える意味もあるだろう。(しかし演者時点が自身の演技に呑まれる可能性はかの有名な監獄実験で示されている通りであるので、十分な精神力と慎重さが求められるだろう)
社会性動物である我々は猿山の猿のように、狼の群れのように序列に弱い。だから不真面目な相手を前にした場合、この「怒鳴る」という行為はある程度有効なのだろう。怒鳴るは相手の「話を聞く真剣さ」を+5するというようなコマンドなのかもしれない。
人間の感情は複雑なように見えて案外単純だ。悲しい時に怒る、傷ついた時に傷つける、というような行動も一見ブラックボックスを抜け出たものに見えるが、案外類型的なものである。それはピンボールの玉がピンに当たって跳ね返りながら、最終的にはいくつかの穴に収束していくのに似ている。無限の可能性を持ちながらも、個々のピンでの跳ね返り方はある程度の予測がつく。我々の行動自体が、大したパターンを持たないからこそ、我々は相手の気持ちを思いやり、共感できるのだ。
「宿題やったの!?」という言葉が子供時代の私たちにもたらしてきた感情は「後ろめたさ」「反省」「反感」である。この感情のパターンが類型的だからこそ、私たちに「先に言われるとやる気なくすよね〜」という共感をもてる。
というように、人間の感情がある程度パターンとして把握できる以上「叱る」のマニュアル化は可能ではないだろうか。
「優しく諭す」というコマンドは相手の「真剣さ」には効果が薄いかわりに「反感」の数値はあまりあげない。だが「真剣さ」の数値が低いと「反省」には至れない。
「怒鳴る」というコマンドは逆に「真剣さ」には絶大な効果を持つ、が、「反感」のポイントを高めてしまう。「反感」の数値が一定を超すと「反省」への道は閉ざされる。
前述の優しい医者と怖い医者戦略も、数値化で説明してみよう。怖い医者は「真剣さ」「内省を促す」方面に強いキャラクターであり、優しい医者は「反感」という感情に共感し、怒りを和らげ「落ち着き」を取り戻させるヒーラーのような役割のキャラクターである。
「叱る方と叱られる方」という絶対的な上下関係に、そのどちらでもない第三者を加える事で、叱り手の感情の暴走を抑えるとともに、第三者による「共感」で叱られる側の精神的負担を減らし、自分を省みる余裕を与える。
無論、感情の数値の動き方には個人差があるので、叱り手は自分のコマンドが相手にどんな影響をどの程度与えるのかを考えながら叱り具合を調節していく必要がある。 と言っても、その個人差もある程度はパターンに当てはまるように思う。不真面目だが誠実な子、真面目だが反抗的な子、結局は要素の集合体である。実際に「元気な子(そして剽軽で悪戯っ子)」「明るい子(そして優しくてポジティブな子)」「大人しい子(繊細で真面目な子)」という安易なパターン化はあらゆる人間関係において常に行われている※。タイプに応じてコマンド駆使の仕方のマニュアルがあれば、どんなボンクラでも効果的な「叱る」ができるだろう。
※これには幾らか問題がある。私のように「大人しい子(割合図太く不真面目で陰険な子)」という相反するイメージの要素を持つ人間は取りこぼされる。そして不理解な大人に失望し私は余計陰険になった。教室のような大人数を把握すべき空間では、雑なラベリングが横行して、かえって正確な人格の把握の障害となるかもしれない。ここにもいくつかの心理検査を用いた人格のパターン化による把握が必要かもしれない。
このように数値化して考える方法を主張すると必ず人の心が通っていない、愛がないという人が現れる、が、なんの考えもなしに相手の叱られた後の情動を予測せずに感情をぶちまける事の方がよっぽど動物的で、「人の脳味噌」という回路を通わない非効率不合理なくだらぬ行動だと私は思うのだが。
(だいたい愛の鞭なんて言うが、恐怖政治よりインセンティブによる動機付けの方が効果がある事なんかもう数十年前から言われているのだからいい加減卒業してほしい。)
叱る、は上手くいけばとてもポジティブな効果を発揮する。しかし下手にやればかえって人から反省の機会を奪う。説教や正論は気持ちが良すぎるので、叱り手側は容易に権力を振りかざす楽しさに呑まれてしまう。だから、叱る前に一呼吸置いて、叱る戦略を立ててみるのはどうだろう。戦略という言葉は大袈裟かもしれない。叱る前に叱られた相手の気持ちを考える、それだけの事だ。
人材育成、教育現場、家庭での指導法においては、「叱り方マニュアル」の作成も試みとして楽しそうだ。心理テストで振り分けられた生徒や人材ごとに診断チャートを作成し、それを参考に叱り方戦略を立てる。大規模に実験し調査結果を取り続ければ有効性を立証できるかもしれない。最終的にはAIが掛けるべき言葉を演算し、叱り手という演者がそれに従うようなディストピア教育が出来上がるかもしれない。AIの愛のない教育、は痛烈にこき下ろされそうだが、「データを集め、型に当てはめ、パターン化された指導をする」という一連の行動は学習行動として常日頃個々人が行なっている事であるし、そこに統計処理がより得意なAIを解すのはそれほど不自然でないように思う。
教育者には当たり外れが多すぎる。一生涯呪い殺したいようなクソもいれば、人生の節目のたびにあって感謝の意を述べたくなるような聖者もいる。マニュアルさえあればどんなクソにも一定ラインを超えた指導ができるようになる筈なのに……!と思うと悔しいばかりだ。しかし、こうなると今度は「マニュアル一辺倒の叱り方」という批判が生まれてくるだろうか。教師のマニュアル依存、なんてニュースが流れるようになるのも嫌な話である。優しい医者と怖い医者も何も知らずに信じ込めるとステキな装置ではあるが、そんなプログラムだと言われてしまうと薄っぺらさにがっかりしてしまう。マニュアル化した叱り方は叱られる側に不信感をもたらす逆効果となるかもしれない。うーん、難しい(そこまで進んだ未来だと生徒もプログラムが組まれたのをわかった上で乗れるほど慣れるかもしれない、AIカウンセリラーを利用したマインドセットが人生の基本になるのだ!←楽しそう)
まあ、今のところは感情的に怒る前に、相手の情動を予測しながら諭してあげるというのがいいと提案してみることにします。つまるところは思い遣り。プラスして、叱るときは座って目線を合わせるっていうのも提唱してみる。叱り手側も怒りをセーブしやすいし、叱られ側も対等な立場での対話であると感じやすい、と思うから。(座って足組んでる奴から立たされて叱られるのも、立った状態で目の合わない相手を見上げながら叱られるかもつまらないもの。)それと、誰かが厳しく叱られていたら、優しい第三者として「反感」や「落ち込み」に共感してあげたりね。まあ普通のことです。しかし実践はクソムズイ。人生手強いね!
(思い出話あるあるを書こうと思っていたのに、思いのほか筆が乗って長文増田になってしまった。noteにでも貼るべきだったかな、図解しながら書き直したくなってきた。ところで、25件を無限リロード中の増田様方には大変ご迷惑をおかけします、すまない。途中送信しちゃっただけなので再投稿の甘えではないんだよ!)
(大人がいったってろくに動かないのに)。
ハリーポッターにも描写されてるけど中学生ならまだ義務教育の範囲内だけど
高校生に体力と時間が無限にあるとおもいこんでる教育者が多い。
夏休み冬休みにまで「補習」と称してボロボロのクタクタになるまで子供を使い果たして実質休息日が3日しかない学校がある。
親が校風あわないからあわてて転科(文転など)や転校させたくても「制度上無理です」。
体調くずして休むと教科書渡さない上でテスト受けさせるいじめみたいな場合もある。
モーレツ社員募集したブラック企業じゃないんだからせめて連携とって整合性をとれと思う。
(=すきなところにいかせるのに親の送迎をつけなくていい)
自主的になにかやろうと思う暇をこどもにつくれよまず。
大学といってもどの辺の層を言っているのか前提条件を限定しないと、話が散漫になってしまうゾ。
旧帝大なら、まだ昔と比べて厳しいといっても余裕はあるだろうし、地方国立や有名私大なら研究者としての面目も保てるだろうね。
この話題を下位私大と考えるなら、教育は本当につらい仕事かもね。
ぼくの意見はね、教育なんて適当にやってるふりしとけってことよ。
学部の授業みたいな、自分への見返りがあまりよく見えないつらい仕事なんだよ。
実験担当になると、辛いぞ。酷いやつになると泊りがけで学生引率に行ったり、企業様の下請けみたいなこともさせられるわけよ。
特に、大学院生は自分の研究知識やスキルを吸収して、短い時間だけだけれど研究仲間になるかもしれない訳よ。
教育といっても二つ目の「研究者としての教育」ってほぼ研究にちかい。一般に教育というと一つ目のことを指すんだろうけど、そんなのお偉方や事務に目くじら立てられない程度に適当にやっときゃいいのよ。アクティブラーニングだの、教育改革だのとオカミはガミガミいうけど、馬耳東風しながら風見鶏になって轍ができたころに楽して追従すればいいってことよ。
良い学生がいれば良い研究上の話し相手になってくれるかもしれないし、悪い学生なら自分が手を煩わせる代わりに代わりに実験してくれるわけ。ま自分でやったほうが早いけど。実験で時間と場所を束縛されずに、教員は理論だけ考えればいいからほんと楽しい。
最近は、大学に来ない学生とかモチベーション上がらないとか、そういう相談がおおいよな。これも研究室という研究する場所に関することだから、責任持てるけど高校のクラス担任とかは絶対できないなと思う。
日々貧しくなっていくというのは本当に耐えられない。
これまで手にしていたものを、どんどん手放さなければならなくなる。
金が欲しければ、時間が欲しければもっと働けとオカミから圧力をかけられるわけだから。
政府様、企業様、おまえたちと大学運営はダメだというメッセージを発信し続けてくれて本当にありがとう。
大学は従順な政府の下僕として、ただ生き残るために立ち振る舞うし、ぼくは従順な大学の下僕を演じながら必死に自分の研究を守っていくよ。
僕たちはこんな不毛なバトルロワイアルや蠱毒をするために研究者になったのかな、違うよな。
みんなそれぞれ面白い研究しているよ、役に立たないかもしれないけれどユニークでどんな研究も心を突くような素晴らしい研究だよ
ってみんなが承認しあえるようになればいいのにね。
ちょうど体罰が全国的に問題になっていた中学生の頃、弁論大会に向けたクラス内発表で体罰を肯定した女子がいた。彼女の主張は「口で言ってもわからないこともあるから、体罰は仕方がない。むしろ私はそれで成長できた。」という内容。国語の先生は苦笑い、生徒の中にも目配せし合うものもいた。
彼女の所属していた女子運動部のコーチはその作文の1年前に、体罰が問題になって辞めさせられていた。
体罰の内容といえば、ボールが取れない女子生徒の顔に全力サーブ、不真面目な生徒(とコーチが判断した生徒)に体育館の端でずっと筋トレさせる、大会の結果が悪いとベリーショート強制、遅れてきた生徒にグラウンド12周、のようなもの。
保護者の間でかなり問題視されていて、不登校が出たことで取り沙汰されて、そのコーチは部活を去った。教師でもなんでもない、近所のスーパーの店長だった。
それなのに、元体罰部活動に所属しているクラスメイトがまさかの体罰肯定発言。驚いた。名もない弱小校の運動部で、朝練夜練を強制され、いわれもなく怒鳴られ、ボールをぶつけられることが彼女にとって成長の糧だったのかと。競技の上達のために、怒鳴られたり、体罰を受けたり、塾をやめて夜遅くまで部活動に専念したりする事、滅私奉公で部活動に生活を捧げる事、その結果競技が上達する事、それが成長なのか?
彼女の最後の中総体は例年より少しだけ良い成績を収めた。体育の先生になりたいと言っていた彼女は、いつかキーキーと下品に怒鳴る女体育教師みたいになるんだろう。
教育者といえば、ある程度の良識と品位を持ち生徒を一人間として敬意をもって接して欲しいものだが、怒鳴ったり体罰を行う後進的かつ野蛮な教育がまかり通っているのが残念でならない。
叩かなきゃどうにもならないクソガキは確かにいるのだろうけど、叩いてわからせる主義の人はその区別をつけずに、対話という手段をすっ飛ばして叩く。自分は苦しんで成長したからと、人を苦しめることに正義を見出す。正義の人を止めることはもうできない。大人になって信条が変わることなどほとんどない。そんな正義の人をもう生まないためにも、やはり体罰は良くないと思うのだけれど、体罰経験のまともにない苦労知らずの自分の話など彼女たちは聞いちゃくれないのだろう。
高校生のころネトウヨだった。そしてその当時も、今も、僕はペドフィリアでオタクだ。
ネトウヨになったのは韓国について悪し様に書かれた文書を読んだことがきっかけだった。今にして思えば何故あんなものを鵜呑みにしてしまったのか不思議なのだが、はじめてネットに触れるようになった時期で、身も蓋もない言い方をすればネットリテラシーに欠けたからだろう。
韓国は卑怯卑劣で寄生虫だと信じ込んでいた。韓国だけでなく、同様に糾弾されていた野党や朝日新聞も当時の僕にとっては悪だった。―こう書いていて思うのが、その当時と今とで10年以上たっているのに、その間は決して平穏ではなく、寧ろ激動の時代であったと言っても良いのに、ネット上のこのような言説は変わらないということだ。変わらないからこそ、今ではもはや怨念のように凝り固まっているのだろうか
さて、高校生の時分に政治や世界情勢のことなど分かるはずもなく、当時の関心は専ら自分の権利が守られるかどうかだった。権利ーこの場合は自分の好きな漫画、アニメ、ゲーム等だ。
今でこそ折り合うことができているが、当時は本気でオタクであることを恥じ、ペドフィリアであることに罪悪感を抱いていた。そのように自分の属性に悩んでいた一方で、いや、悩んでいたからこそ、オタクでありペドフィリアであることこそが、自分の唯一のアイデンティティーであるように思われた。失笑されるかもしれないが、僕のような反社会的人格は少数派なのだ。そのことで権利を主張しようとは思わないが、自分は特殊なのだと意固地にならざるをえない。
とにかくペドフィリアでオタクである僕にとって、その手の作品は生きる上での友であり、それを侵害するものは敵だった。
そしてその当時敵だと思っていたのが、いわゆる「左翼」だった。
「左翼」は声高に人権を守れと言う。その人権を非実在の存在にまで適用し、僕の権利を侵害しようとしているー思い返すだけで頭が痛くなってくるので、当時の愚かな思考を正しく説明することは難しいが、確かそのようなことを考えていた。
愚かなことだ。人権があるからこそ創作作品を楽しむこともできるのに。しかも保坂氏や枝野氏など、「左翼」こそが表現の自由を守ってくれていたのに。
いや、薄々とは気づいていたようにも思う。だからこそ、当時でさえ保坂氏枝野氏などには悪感情は持たなかった。「左翼」だが味方でもある、そう思っていたか。
実際自分は子供のころから千葉ロッテマリーンズのファンなのだ。ダブルスタンダード極まれり。
結局自分にとっては国よりも自分の好きなものこそ重要だったのだろう。そしてそれ故にネトウヨを卒業することができた。
ネトウヨを辞めるきっかけとなったのは、浪人生のころ、2chの掲示板で、「ロリコンは在日」とか、そういった類の書き込みを見たことだった。拍子抜けと感じるだろうが、僕はその程度のことでネトウヨに冷めてしまった。
自分が少数派である自覚はあった。それでも、同胞である日本人なら受け入れてくれると思っていた。なのに、結局ここでも切り捨てられるのだーそう思った。
いったん冷めてしまうと、ネトウヨの嫌なところばかり目に付くようになった。少しの瑕疵があれば昨日の仲間を今日は敵認定する。高尚な正義感を気取りながらやっていることは荒らしやデマ。ロッテスレにコピペ爆撃する。とことん醜悪だと思えた。
右派は冷たくて、けしていざという時に守ってはくれないー余命騒動で明らかだろう。畢竟人間は孤独で、国籍が同じだからといって無条件に受け入れられるわけではない。
僕は自分がペドフィリアだからこそ、そう気づいた。だが同時にこの人格に意固地になったあまり、他者への眼差しを欠いたことが、ネトウヨになる端緒ではなかったか?
振り返ってみれば、ネトウヨになったのはネットの影響。ネトウヨを辞めたのもネットがきっかけ。なんというか、独り相撲でしかない。それまでの人生で、韓国人と会ったこともなかったのに。
近所の焼き肉屋の韓国人の従業員はとても気前が良くて、色々とおまけをしてくれる。留学生の李くんも良い奴だった。
朝鮮学校無償化に賛成し、某ネトウヨサイトに「反日大学教授」と名指しされたある教授は、僕が出会った中で最高の人格者だった。先生は、僕なんかの悩みも真剣に聞いてくれ、生きているだけで偉いのだと、度々仰った。そんな先生だから、子供のことを、生徒のことを第一に考えているからこそ、賛成したのだ。本当の教育者だから、賛成したのだ。
だが、愚かな私は、個別の経験を積むことすらせず、何もかも知ったつもりになっていた。
全然書いている人いないけどプログラマーバブルはもう弾けてる
エージェントの案件は全盛期の1/3しかない
単価も80万クラスがゴロゴロあったのに、いまは60〜70が平均。しかも、ハイスキルが求められるようになってる
こういう現状を知らずにプログラマー目指してる人が多いけど大丈夫なんだろうか— ごま塩シンジ@30代後半未経験からプログラマーに転職しました (@YSinzi) May 5, 2019
プログラミングスクールに騙されるのは情報弱者という論調だと、みんな失敗したことを共有しなくなってしまう。騙されるということは、それだけ適性がない可能性は高いけど、それだけで無いとは言えない。
フリーランスでは無いけど、侍エンジニアに対して返金交渉を行った人のアカウントを何人か追っていた。ちゃんと自社サービスに入ったり、切り替えしている人も何人かいた。まともそうな人のアカウントしか追っていないから n = 2, 3 人の話だけど。それでも一度失敗した段階で適性の有無を判断するのは教育者としては、どうかと思う。
(自信がないからという理由で)フリーランス養成スクールみたいなのに通う時点でフリーランス適正なくない?
自分で情報得たり物事を考えて決められない(あるいはそれだけの経験をしてきていない)ワナビーさんは現実見てスキル付けよ。
逆に自分で戦略持って動けるならさっさとなればって感じです。— 井上慎也@TechCommitメンバー募集中 (@ino_dev) May 2, 2019
プログラミングが義務教育化された世代になれば、こんなプログラミングに夢も見ないだろうに。むしろ英語の方が重要だ。英語を勉強して、超高齢化社会になる日本からカナダに脱出する方がよほどペイする。プログラミングをどんなに勉強したって、マーケットが先細る日本にいたら、かなり厳しい。
それでもみんな英語にキラキラした夢を見ないのは、英語は義務教育で叩き込まれているから。でもプログラミングはみんな何か知らないから、騙されてしまう。ゆくゆくはプログラミングスクールも英会話教室くらいに落ち着くだろうけど、あと10年くらいは、いまみたいな凄惨な状態が続くのかな。
正直、騙されるのは情弱だって!叩いている善意あるプログラミングスクールの運営者も、そう言ったキラキラした夢を見ている人たちを対象にしているっていう点で、悪質なスクールと大きな違いがあるのかと聞かれると、無いとは言い切れないのでは無いか。
しかも Progate がどいう役割か全く理解していない気配がある。機械音痴ではなくても、文法周りなんて Google で検索しようがない。Progate はそういったところで無駄な時間を失わないためのサービスだと思うけど、この人にとっては「ITリテラシーの低い(機械音痴な)初心者」のためのサービスらしい。Progate は「(機械音痴な)初心者」のためではなく「初心者」のためのサービスだ。
ProgateはITリテラシーの低い(機械音痴な)初心者には苦手意識をなくすという意味でオススメ出来る。
ただ、車の運転でいう「ドライビングシミュレーター」みたいなものだから、実際に運転をしてみないと気づけないことも多い。
ある程度やったらちゃんと実物を自分の手で動かしましょう(´ . .̫ . `)— 井上慎也@TechCommitメンバー募集中 (@ino_dev)April 12, 2019
そもそもエンジニアなんて自由とは程遠い存在だ。なんで、中にいる人間がそれを声を上げて指摘しないのだろうか?それは少数の上手くいっている人間と大多数の普通の人間は、自分たちがカッコいいと思われたいからだし、失敗した人間は喋りたくないからだ。だから事実を喋ると炎上する。
これが炎上してたか。
途中からミュートしてたから、気づかんかった。https://t.co/09CCVO8Zou— 元ニートのSE (@neet_se) May 20, 2019
結局、この無知と欲望が加速する構図の中で、大量に低レベルな人材が放出されている。
技術者不足の衝撃実態、従来型IT人材は2030年に10万人余る | 日経 xTECH(クロステック)
しかし、このみんなが夢を見ている状況で、誰が一番得をしているのかと考えたときに、どう考えても SES 業が筆頭に出てくるなんて、到底笑えない話だ。
侍エンジニア塾で有名な株式会社侍が夢真ホールディングスに買収された。ITエンジニア派遣事業に力を入れるためとのこと。 pic.twitter.com/urhrpqRK9k— 阿部隼也 | 美容医療Q&A運営 (@AbeShunyah) May 21, 2019
めっちゃ単純化した計算だけど、ある限定されたジャンルの研究職のポストが仮に100あるとして、これを専有する研究者が30歳から65歳まで35年で均等に分布してたとすると、卒業生が出て毎年開くポストは2.85席になるよね。
んで、研究職100人が理系職とかで、民間企業で研究開発してたら話は別だけど、マイナーな文系ジャンルで100人ほとんどそのままが大学組織に残っていた場合、100人のうち過半数が教育兼務で、自分の後続メンバーを育ててることになる。たぶん、毎年500人位はそのマイナージャンルの研究者の卵が「出荷」されることになるんじゃなかろうか。
500人のうち2.85人しか研究職につけないとすれば、そりゃあぶれる地獄にもなるでしょうよ。
それでもなお、国益観点に立って、国家の国力を高めるために優秀な研究者が必要で、優秀な研究者を選抜するためにこの倍率が必要なのだとすれば、そこは個人の悲劇はスルーしつつ「能力ないのに目指したのが悪かったね」というしかないんでねえの?(この場合の能力が無いってのは、本人に能力がない場合と、能力があるのに政治力がない研究者をすくい上げる監査側のスカウト能力がない場合の両方)
あるいは個々人の悲劇に着目してその撲滅に動くのだとすれば、そもそも500人もの研究者の卵を作っちゃったのが悪いんでね? 極論になっちゃうけれど、確実にポストを斡旋できるような人間以外、研究教育者は「弟子」をとるべきではないんでね? 中世のギルドの親分株みたいな発想で。あるいは、それこそ女性が花嫁修業として日本舞踊や事を習うような、趣味として大学にゼミをもうけるしかないんでね?
確かに博士課程3年間、学振落ち続けた人間(人文系専攻。当時は合格率15%とかそんなもんだった)としては、そんだけわかりやすい実績上げててなんで??感すごいある。
彼女だけの話でもなく、受賞経験とかはないけど、ポスドクで非常勤講師やりながら、論文や本書いて、研究会主宰とかもやって、ちょっと話せば教育者としても優れてる人だなってわかるような人が、すぐテニュア決まるだろって思ってたのにずーっと決まらないまま50代突入とかしてたんで、ほんとこの世界はわからん。怖い。
研究に向いてそうな学生いても、大学院行ってみたらとか絶対言えない。
留学生はそもそも院進前提で来てる人多いんで、日本の人文系大学院は留学生だらけになってる。残念ながら当然としか言いようがない。
それにしても、史学系って、ガチ公募どれくらいあるんだろうね。
院生&非常勤講師時代はいまいちよくわかってなかったけど、教員側の立場になってあれやこれや見聞きしていると、大学院によって、植民地(若手研究者を送り込める枠がある大学)があるとことないとこあって、ついでに同じ大学院でも専攻や師匠によって、コネ回せるとこと回さない(回せない)とことある、らしい*。
コネ回すことができるとこでも、空きがなければどうしようもないので、全員に回せるわけではなく、優秀な人、貢献してくれた人からということになるわけなんだけど。
どれだけ実績があっても、(1)専門領域でのガチ公募が極端に少ない(朝日新聞の記述で、履歴書読んだ跡がそもそもなかったこともあったってあったけど、既に採用者決まってるアリバイ公募ってことだよね)(2)出身大学院または師匠がコネ回さない、が重なれば普通に詰むよね。
あとは研究会とかで自力で人脈広げて、呼んでくれる人を作るかどうかくらい?
いうて、コネで押し込めるのって学部長級以上とかだし、そのへんの人らは学務忙しくて研究会とかそんな出てくる暇なさげな気もするけど。
あとは退職する教員が後任推薦することもなきにしもあらずだからそのへん? 後任推薦NGのところも普通にあるんでなんだけど…
専門によっても違うし地域や大学によっても事情は違うと思うけど、ガチ公募をもっと増やして、とりあえず「研究業績ある」「学生の面倒がみれる」「最低限学務もこなせる」「コンプラ守れる」あたりが揃っていれば就職できるチャンスを増やすことが、優秀な研究者育てる鍵になる予感がする。
ちなみに出身地の国立大で、自分の専攻の公募出ないかなーと10年以上ガン見してましたが、一度も公募出ませんでした!!
※自分はガチ公募で勝つしかなかった。年数件くらい出る自分の専門領域とかぶる公募に20回以上応募して、面接まで行ったのが3回、4回目に呼ばれたところに決まった。ちなみに面接では研究者としての資質もそうだけど「一緒に仕事してうまく仕事回せていけるか」が見られるという印象。あとで聞いたら、実は自分より優れた業績もってる候補者もいたんだけど、そちらが面接で引っかかるところがあって、結局自分になったらしい。(久々に書いたらはてな記法の脚注の付け方がわからんくなってた…)
彼らは、脳のどの部位を、どのように刺激すれば、対象に望む行動を取らせることができるかを熟知している
現に、多くのヒトが、彼らの開発した装置によって脳をクラックされ、余暇や可処分所得をジャブジャブと引き出されていることからも、その技術の確かさは窺えるだろう
しかし、ソシャゲによる脳クラッキングの本質とは、資本主義によって極限まで洗練された、非常に強力なモチベーションハッキングの技術であることも忘れてはならない
技術とは常に中立であり、使い方次第では人を不幸にするが、幸福にもするのである
たとえば、この技術を勉学や労働や家事に応用することができれば、現在我々がソシャゲに対して持っている程のモチベーションを、勉学や労働や家事においても持つことができるかもしれない
そう、ソシャゲ的モチベーションハッキングの技術は、個々人が真に望むモチベーション、欲望を手に入れるための技術となり得るのだ
己が真に望む欲望を手に入れ、目的に向かって自身を制御していく術は、資本主義経済が支配的である現代社会において、非常に重大な役割を演じる
すなわち、経済とは個々人の欲望を社会全体の利益に変換する装置であるが、今日の資本主義におけるそれは、人々の欲望を無責任に煽り、不毛な生産と消費とを輪廻のように繰り返させる、おぞましい怪物に成り下がってしまっている
しかし、このモチベーションハッキング技術によって、人々は不毛な欲望から解放され、自身の真なる欲望を得ると共に、それらを現実社会において存分に発揮することによって、経済は健全性を取り戻し、人類を助く装置へと再生するのである
2019年現在において、この技術がわかりやすく威力を発揮している場面の代表格はソシャゲであり、それ以外の領域で力を奮っている場面があまり見られないのは残念である
一方で、先見性のある経営者や良心的なアプリ開発者、あるいは教育者の中には、このモチベーションハッキング技術を何とか生産的な方向に活かすことができないか、と試行錯誤している者がいるのも事実である
次の令和の時代は、人々が、自身の真に望む目的に向かって邁進し、同時に社会全体の幸福にも寄与していける、そのような美しい調和をなす社会の令月となることを、私は望んでやまない
昔から答えの出ない、またキチンとした正解を聞いたことがない事案がある。
子供のころから「人の話はきちんと聞きなさい! 意見に耳を傾けて、みんなで考えましょう」みたいに教えを受けてきたと思うのだが、国会中継を初めて見たときに
「この人たちはなんでうるさくしているのか? 起こってくれる先生みたいな人はいないのか?」と思ったものだが、成長するにつれて大人の社会って身勝手だなと
思うようになり、政治家の話すことなど心から信頼できたものではないとおもうようになった。
人の話を聞かずヤジる大人・自分の意見以外の意見は頭っからはねつける大人ってどうなの? ましてや子供を持つ人や出産経験のある女性、教育者として経験のある
先生や人の権利を守る弁護士さん、いろんな世間からは分別のある良識的な人と思われる人が政治家になったとたん、人としての基本的な礼儀やルールがなくなっていくのは
正しい大人の在り方なのか?
国会のヤジに正当性があるのかないのか、はっきりとした答えを誰か国民にしめしてくれないものか。
(答えは出ないし、うやむやになるのは分っているし、そのあいまいさが日本人だと思うし、嫌いではない。 しかし、それなのに自分(団体とか集団内)は棚に上げて
自民党の強さって組織票の強さだと思うけど、具体的には経営者や教育や宗教なんかの団体が、がっちり自民と結びついてて離れないのだと思う。その組織に属して自民を応援しているかぎり安泰が保証されるのであれば、そりゃ離れたくない気持ちもよく分かる。もしも自分がこれらの組織の中にいて、自民党のおかげで日々の生活が保証されているのだとしたら、きっと他の政党を支持するなんて考えもしないに違いない。たまたま自分はその好循環には入り込めず外側から眺めているから、他の政党を支持しているだけだ。
もうすこし言うと、いまの日本社会は、自民党を支持する経営者たちにとって有利にできている。その代表格がパソナの竹中平蔵だったり、広告業界なら電通だったりする訳だけど、これらの会社は実力があるからシェアを握っているのだとは思えない。自民党政権との結びつきが強いだけでしかない。言い換えれば、その他の実力ある無数の会社が、活躍できていない可能性がある。実力はあるのに仕事がなかなか取れない会社は、もちろん営業がただ弱い場合もあるけれど、それを自己責任と切り捨ててしまうと、世の中は要領が良い人ばかりが蔓延って社会全体の生産性は落ちていく。
そこでいま必要なのは、経営者たちが野党支持を表明することと、政権交代によって起こりうる社会の変化を語り合うことではないかと思う。もちろん経営者にかぎらず教育者や宗教者、サラリーマンや学生たちでもよいのだけど、もっとも影響力があるのは経営者かなと思う。
たとえば立憲民主党が政権の座についたなら、とりあえずパソナのような不当に厚遇された企業が市場から淘汰され、かわりに今まで抑圧されていた優良企業が伸びてくる(かもしれない)。本当に実力のある会社はどんどん業績をあげるかわりに、実力ないけど要領だけが良い会社はつぶれる。ただし、会社がつぶれても人々が路頭に迷うことはなく、社会保障でしっかりと生活は支えられる。……というのが立憲の政策として掲げられているかどうかは知らないけど、草の根の民主主義っていうんだから、こういう社会にしてくれと経営者のほうから党に意見していく。
適当に考えた名前だけど「立憲経済連」みたいな団体を作って、国の経済政策にどんどん意見をいう仕組みがほしい。ただし経団連とか経済同友会とか連合みたいな巨大な組織だと、けっきょくは俺みたいな零細企業の経営者は弾かれてしまうので、そこはまあ上手いことやってほしい。
自分が零細企業を立ち上げてみて痛感するのだけど、いまの世の中は競争原理が働いていなくて、ダメなものがずっと残り続けている。そこに違和感を持ったり苛立っている経営者たちが本当は多いはずだと思う。その思いを政治へ吸い上げる仕組みがほしい。
いまの世の中がずっと続いていくのだと思うと、せっかく優秀な俺が会社を立ち上げたというのに俺はいつかやる気をなくして会社をたたみ、旧態依然としたダメな会社だけが残ってしまう、それは社会にとって大きな損失である。……というのは大言壮語かもしれないけれど、とりあえず、平等な社会にはしてもらいたい。本当に。