はてなキーワード: 両性愛とは
同性愛者や両性愛者じゃなくても、女性は同性を相手に選ぶ確率がかなり高いと思っている。
男だと自分が妊娠する心配があるし、風俗がある分性病のリスクも高いし、特定のパートナーがいる人は男性陣に好みの人が混じってたとしても他の男と寝るのに抵抗がある(女なら全くないわけじゃないだろうが……)だろうから。
逆に男性は同性愛・両性愛の指向がなければ、同性と寝ようという発想は絶対に出て来ないと思う。女性陣が全員全く好感を持てない容姿体型だったとしても女性を選びそう。
皆さんならどうしますか?
相手または自分が同性あるいは高齢などの理由で挿入を伴えない場合であっても、オーラルなど性行為とみなされる行動をとれば解放される設定とします。
名前だって如何にも女の子らしいものだ(男性にもわたしと同じ名前の人はいるかも知れないが、何年もずっと人気な名前ランキングなるものに自分と同じ名前が入っているくらいだし、世間的にはこれは「女の子らしい」名前なのだと思う)。
女性として生きているからには、多くの人が男性に恋をするのだろう。
もちろん恋愛対象が同性であったり、異性も同性もどちらもであったりする人も少なくはないだろう。
そう長いものではないこの人生の中でも、わたしには男性の恋人が居たことがある。
告白したり付き合ったりにはならないまでも、同級の男子に恐らく恋と思われる気持ちを抱いたこともある。
そして、ただとても仲が良い友達であるだけのはずの女の子に彼氏が出来て、ひどくショックを受けたこともある。
おかしな話だ。
仲の良い友人に、彼氏が出来た。
それは、わたしにとってその彼氏が余程憎い人間であるだとか、彼女本人がそれを辛いことだと思っているのが見て取れるだとか、そういった特殊な場合以外は、祝えて当然とも言える出来事なのではないだろうか。
「今まで通りには遊べなくなるかなぁ」と少し寂しく感じることはあっても、何故だか少しもめでたい事だと思えなくて涙が出そうになるなんてことがあるのだろうか。
わたしは友人の彼氏の事を憎いと感じたことは無かったし、彼氏が出来たんだ、とわたしに報告してくる彼女は本当に嬉しそうだったし、なんであんなにもショックを受けたのか、全く分からなかった。
わたしはもしかして、彼女に恋をしていたのだろうか。あの涙が出そうなくらいの大きなショックは、失恋だったのだろうか。
人に対してどんな想いを抱いたら、それを「恋」と呼べるのだろうか。
一緒に話していて楽しいな、と思った。
くじ引きで行われた席替えで隣の席になったことが、ひどく嬉しかった。
わたしがこれは「恋」なんだろうなと思ってきた気持ちはそんなものばかりだった。
「恋」には付き物であろうそういう気持ちは、一度も抱いたことがないことに気が付いた。
では、わたしが今まで「恋」だと思ってきた気持ちはなんだったのだろう。
友人に彼氏が出来た時に感じたあの絶望感は、なんだったのだろう。
わたしは今までの人生で、「恋」をしたことがないのではないか。
そう思った瞬間、ひどく恐ろしく思った。
わたしがこれまで「恋」だと思ってきた気持ちが、本当に「恋」だったとしたら。
わたしはきっと恋愛対象が同性だけでも異性だけでもない、両性愛者、バイセクシュアルとされる存在なのだろう。
それならそれで、まあ、いい。
わたしがこれまで「恋」だと思ってきた気持ちが、本当は「恋」ではなかったとしたら。
こんな文章を長々と書くにあたって、何も調べなかったわけではない。
「恋」がわからないのが、まだ「恋」をしたことがないからなのか、そもそもわたしに「恋」という感情が備わっていないからなのか、全然わからない!
そうだとしたら、わたしはいつになったら「恋」が出来るのだろう。
恋がしたいわけではないけど、この気持ちへの答えは欲しい。
わたしは一体なんなんだろう。
何年も仲良くしているTwitterの相互さんがいる。お互い好きなジャンルが重なって相互になったけれど、その先は特に被ることもあまりなくて、ただ普通に仲良くなれたからずっとそのまま。
お互いの色んなことを知っていて、だけど、昨日も、今日も、しんどい思いをしてるその子に自分がかけられる言葉ひとつも見つからなくて在り来りな同意の言葉しか出てこなくてむしろ神経逆撫でしちゃうんじゃないかとか考えてそれすら飲み込んだ。
Twitterの裏垢同士で繋がってる同窓生がいる。普通に仲が良くて、お互いの裏垢のフォローリクエストだって断ること、断られることを心配しなくて済むような仲。
でも近頃変だ。環境が変わって以来異性に対して過剰な程に意識しているその子に引いて、挙句気持ち悪さを感じる自分がいる。
だって自分の中では性差はそこまで重要視されることじゃないから。
書き連ねてて思ったけど考え方が自己中なのかな、何にせよ自己嫌悪だけが膨れ上がるしこんな毎日しんどいね。こうして吐き出して少しでも楽になれたら良かったな。
ある界隈では口にした瞬間にその場の全員から石もて追われ二度とその界隈の住人とは見做されなくなる恐ろしいワードである。うっかり口にしようものなら村八分確定であり、女性同性愛者を意味するスラングを気軽に口にするポリコレ意識のあまり高くない人たちからもぶっ叩かれる究極のポリティカルインコレクトネスである。だが、以前うっかりこの言葉を使ってしまいフォロワーさんから非難の大合唱を浴びた人間として、少々自己弁護を口にしてみたくもなる。
私たちが見たいのは関係性である。しかし関係性が好きならBLだろうが百合だろうが区別なく摂取すればいいのに何故百合ばかりを求めるのか、と言われればそれはイケメンの男の子よりも可愛い女の子が好きだからである。いやイケメンの男の子も嫌いではないし同性としてこいつ性的魅力にあふれてんなとは思うが性的対象ではないのである。これは逆側もそうではないのか。BLを嗜まれるお姉さま方のけっこうな割合はヘテロセクシュアルであろう。関係性を楽しむとき、そこには当然に性的視線が介在している。
そしてその関係性には強弱がある。あるのである。一部の妄想力や発想力の逞しい方々は公式で何も会話していないキャラ同士の絡みを公式設定であるかのように信じて邁進することができるらしいのだが、公式から理由も分らずに押付けられたカップリングを大人しく受取って、理由も分らずに消費して行くのが、我々凡夫のさだめだ。とにかく、公式で「あっこれはガチで女の子にしか興味ありませんわ。そして両思いですわ」というキャラやカップリングもいれば(あーなたのうーたにーわたーしのーハーモニーかさーねてー♪)、「友達でも通用するし、男とくっついても違和感がないけど、でも××ちゃんと○○ちゃんが仲良くしてるのはいいなぁ……」という根拠薄弱なカップリングもあるのである。あるったらある。強いカップリングと弱いカップリングはありまぁす! 電磁カップリングとか重カップリングとかがあるのかどうかは知らない。
その弱々しい関係性の芽を大輪の百合の花に育てきるのが一流の同人作家だったりオタクだったりするわけだが、我々貧困な想像力しか持たぬ凡夫は惑うのである。あれ? この子とこの男友達って、いい感じじゃね……? などとヘテロフィルターがかかってしまうのである。大吉山で白ワンピ着て楽器吹いてイチャイチャしてたと思ったら普通に原作で男と付き合っていたりするのであり、では公式で否定されたから百合ではないのかと言われるとでもやっぱりこのふたりの関係性とか姉との繋がりとか眼鏡の先輩との絡みとかも恋愛感情に発展させていきたいよぉ! と二次創作がマルチバースであるのをいいことに色々な世界線をアラカルトでつまみ食いしたくなるのだ。凡夫は往々にして雑食になる。EMTEMTと言って天使と男が性交する薄いブックを購入することと天使とお姉ちゃんが百合百合する同人誌に手を伸ばすこととのあいだに特に矛盾はないのである。
この傾向に、最近の若い者がハマっている「そしゃげえ」というものが拍車をかける。これらのゲームではキャラクタはプレイヤーに向かって話かけてくる。そしてそうプログラムされているから当然なのであるが、彼女たちは同じゲームの女性キャラと仲良くするのと同時に、まるでプレイヤーに好意的であるかのような振る舞いを見せるのである。likeの範疇に留まっていればいいのだがどう見てもloveにしか見えない場合もあるし妄想力を働かせるとloveに聞こえてきたりもするし、一方では他のキャラとイチャコラしていたりするのだ。もー体触るのやめてよー。つまるところそこに現出するのは、「○○ちゃんが男とくっついていても女とくっついていてもどちらも公式設定として通用してしまいそうな世界」なのである。
そして頭の悪いオタクはマルチバースを統一するのが大好きである。某アイドルアニメにおいて赤髪ツンデレな医者のご令嬢のカップリング相手は小柄ツインテにっこにっこにーな上級生もしくは猫語尾の体育会系アホの子と相場が決まっているのだが、「あれ……? にこまき前提のりんまき、いいのでは……?」などと閃いてしまうのであり、これはりんまきに失恋モチーフの同人漫画が多いことからも容易に察せられる宇宙の真理なのである。秘めた恋心を自覚したときには既にふたりがにっこにっこにー(隠語)していたので恋を自覚するのと同時に失恋を味わい部屋でひとりで泣くCV飯田里穂のキャラはいて、それは間違いないこの世の真実なのだが、ともかくそういう風にマルチバースを統一したがるオタクの眼の前に「自分(プレイヤー)を好いている××」「別の○○ちゃんとイチャついている××」の2つの道筋が示されたらどうなるだろうか。加えて○○ちゃんの方も私に好意的な態度を取ってくれているのだ。
そう、「混ざりたい」のである。ようやくこの表題に辿りつけた。別々の世界線のままにしておくのもそれはそれで良いし、現に私は提督LOVE合同誌もBig Northな薄い本も持っているので、別々のままにしておいてもよいのだが、混ぜたくなるのである(はいここダブルミーニングです。テストに出ます)。自分と○○ちゃんの双方に好意を持っている××でいいじゃないか、という解釈を見つけ出してしまうのである。
「そういうのは『ハーレム』でいいじゃん」と言われるかもしれないが、ハーレムはそこに集められた女性同士の関係が良好であることを保証しない。極端な話どこぞの王侯貴族が作るハーレムなら同じハーレムの一員と一度も口を利かずに終わることもありうるだろう。そういうのも悪くはない、いやこれは欺瞞なのではっきり言うとある種の夢ではあるのだが、そういうのが見たければ素直にハーレムものを読みに行く。私はジェンガ艦橋を持つ姉妹がお互いに愛し合いながら私にもその愛情の一端を向けてくれる世界を妄想しているのである。私と彼女との関係だけが重要なのではなく、彼女ともうひとりとの関係性も尊いと思っているのであり、そのふたつの関係性をひとつの世界で縒り合わせようとした時に貧弱な発想と乏しい語彙を絞り出した結果として出力されるのが、忌み語として名高いかの5文字なのである。
この呪われし文字列は今や百合好きのあいだでの共通の敵となっており、普段はカップリング論争を繰り広げる諸氏もこの言葉が発せられた瞬間に一致団結するという驚異的な接着力なのでDIYに役立ちそうな語なのだが、発する側としてもそれなりに理屈があって言っているのである。しかし、ここまで摩擦を生む語である以上、「百合」とは棲み分けた方がいいという意見にも一理あろう。この5文字を聞いた瞬間に親を殺されたかのごとく怒り狂う人びとも、別にこのような関係性への志向を理解できないわけではなく、単にそれを「百合」と名指されたくないだけなのであろうから、共存はできるだろう。ただ私の中でそれらは連続的なもので、簡単に切り離したりできないんだよ、ということは伝えておきたかった。
当たり前であるが、上で述べた理屈は現実の女性同性愛者あるいは両性愛者のカップルに向けて「俺も混ぜろよ」と発言することを肯定するものではない。あくまで紙とJPEGで表示される女性のことを言っている(もちろんこの言明は、現実に女性2人男性1人で構成される愛のあり方を否定するものでもない)。また、そのような消費態度が現実の同性愛者に対して搾取的である、と言われるかもしれないし、実際に女性同性愛者の表象を簒奪しているという議論も成り立たないわけではないかもしれないが、バイセクシュアルやポリガミーのことを考えれば、男が混ざろうとするのはおかしいというのも別種の抑圧に与することになりはしないかという危惧はある(シスヘテロ男性が言っても説得力がないと言われたらまったくその通りであり、反論できない)。
あと、“男性向け”百合と“女性向け”百合を分けようっていうのは、私はあまり賛同しない。薔薇とBLは棲み分けているというが、近年腐男子という存在がそれなりに登場するようになっており、その中には男性同性愛者も一定数いると聞く。彼らにとって薔薇/BLという壁は窮屈なものなのではないか。というか百合好き男性の界隈で好評を博す作品にはプラトニックな作品が多く(私も好きだ。新米姉妹の部屋の居間に置かれた時計になりたい……)、女性の百合好きに好まれる作品とどのくらい違いがあるかというと、正直あまり違いがあるようには見えない。だったら無理に分ける必要もないように思う。“男性向け”百合と“女性向け”百合とのあいだに強固な壁はなく、なんとはなしのグラデーションの中で共存しているのだから、あえて「こちら」と「そちら」に分ける意味もあるまい。性描写の有無はR-18シール貼ればいいわけで。というか性描写で区切ろうとすると「百合とレズは違う!」とか言い出して「清らかな女の子同士の百合」と「レズ」を切断してレズビアン差別に加担する百合好きが出てくるというお排泄物みたいな現状があるからそこで区切るのは害が大きい。腐女子の“学級会”はよく揶揄されるけど、ほんと百合界隈もたまにはちゃんと“学級会”する必要があるんじゃないかと思うよ。
なんの話かというと、型月厨のお前らロード・エルメロイII世の事件簿読めよ、イスカンダル大好きなウェイバーちゃんマジ尊すぎんぞ、という話でした。というかあの作品はグレイちゃんが師匠に向ける思いも尊すぎてミステリ部分はガバガバだけど人間関係部分は尊さの塊なんや……
murishinai 「混ざりたい」だと、すでに成立してるカップル双方の思いを無視して割り込む感じがあるので良くない。この増田はポリアモリー的な物を目指してあるのであるから、もっと別の表現を探して使うべきだ。
なるほど「混ざりたい」への違和感の原因はそこだったのか! と目ウロコ。確かに日本語の語感としてはそうですね。
jet-ninjin 女性向けの夢にあたる概念は男性向けでは何て言うのかな。オリキャラ女主はよく見るが男性向けでオリキャラ男主ニーズあるのかな…。
というか、女性向けと違って男性向けでは所謂「夢」がデフォルトなので特別な名前がついてないという事情があるような(デフォルト、というのは実際の頒布数に占める割合ということではなく、「男性向け同人誌」と言ってパッと思い浮かぶのが百合じゃなくて女性キャラと男性がイチャコラしてる本、みたいな、イメージの問題です)。男性向けのえっちな本の多数派は百合ではなく(もちろん百合もありますが)女性キャラと男性(もちろん既存キャラである場合も多いですけど――キョン!AVを撮るわよ!――モブおじさんとか整備員とか用務員とかの所謂「竿役」はオリキャラのことが多いんじゃないかなと)がえっちなことをする本であったりするわけで、男性向けでの「俺の嫁」は文字通りの「俺の嫁」なのです。
seachel 長くてよく分からんけど夢女子と腐女子兼ねてる子は女にもよくいるので、自分自身すらマルチバースと捉えたらいいのでは? Aカプを愛でる増田、Bカプを愛する増田、夢男子の増田…みたいな切り替え方式。
この切り替えというのが難物というのはあるかもしれないですね。私にとってそれは全部連続性を持ったただひとつの私で、はぁこのカプ尊い同居してる部屋の目覚まし時計になりたい……という私と○○ちゃんとイチャラブしたい私というのはあくまでグラデーションの両端でしかなく、その真ん中を厳密に切り分けるのはなかなか難しいのですが、切り分けていかないとムラハチを食らうしこんなこと言ってる私も鶴賀学園の主将と副将に混ざりたいとか言われたらイラッとするので(ザ・自己中の極み)、場の空気を読んで穏便に使い分けて生きていきたいなと思いました。
ストレートの女友達が、「飢えすぎて女の子に恋したかも」みたいなことを言っていた。
具体的にどんなことが楽しい、嬉しい、云々。
正直、ふざけないでほしいと思った。
それを笑って言っていられるなら、恋だなんて軽々しく言わないでほしい。
私がほとんど女性にしか恋できない人間だと知ってくれているのに。理解してもらえていると思っていた。
恋の尺度なんて人それぞれだ。どこからが恋だ、と分ける線引きを決められる人はいない。だから、自分が思ったその瞬間、恋が始まっているんだと思う。
だったら「かもしれない」なんて保険をかけるなよ。
「同性を好きになる」という私からしたら日常にある行為を、馬鹿にされたような気がした。
貴方からしたら、人生でたった一度の同性への恋かもしれない。だったら、そうやって自分をごまかして「あれはやっぱり恋じゃない」って流すのもアリなんだろうけど。
だったら私が今まで、そしてこれから先も、同性を好きになって、結局叶わないから泣いて、苦しんで、そういう行為は全て流されてしまうんだろうか。
こんなことで友達じゃなくなるなんてことはない。両手を超える年月の親しくしているし、これからも彼女とはお互いの趣味を共有していくだろう。
けれど、心のどこかでこの出来事はずっと引っかかり続けると思うと、つくづく自分のセクシャリティが嫌になる。
私だって好きでレズビアンをやっているわけじゃないんだからさ。
こんなことを思ってしまうのだから、大勢の人へのカミングアウトなんて到底無理だし。社会はやっぱりセクシャルマイノリティにとって生きづらい。
後付けで申し訳ないけれど、全ての同性愛(両性愛)の人やその他セクマイの人たちがこう思っているわけではないと思う。
ただ私が、「同性に恋することを特別視される」のが嫌だっただけなんだ。
先日BBCの「若い小児性愛者の告白」という記事を読んで、色々と思うところがあった。これまで自分が考えてきた性的少数者の人権についての考えを整理するために、今回初めて増田として日記を書いてみようと思う。
「子供に手は出さない」 若い小児性愛者の告白 - BBCニュース
日本では、あらゆる人間には基本的人権が生まれながらに備わっている、という思想を憲法で表明している。今回の議論に関係がありそうなのは「平等権」「自由権」あたりだ。それぞれが意味するところはWikipediaでも読んでほしい
(なお、人権よりも別の規律が上位に来る国ではこの前提は成立しない。そのような状況は今回の議論の範疇ともしない。)
雑に説明すると、人間は誰しも生きる権利(生存権)があり、差別なく平等に扱われる権利(平等権)や、欲しいものを手に入れたり、やりたいことを自由にやってよい権利(自由権)がある。基本的には、これらの権利は最大限尊重されなければならない。
もちろん、この権利の運用には例外があって、それはある人の権利が他人の権利を侵害するケースだ。こういった場合は、より重要度が高い権利の方が保護され、重要度の低い権利は制限される。あるいは、場合によっては両者がバランスよく制限される場合もある。この権利の制限は必要最低限度でなければならない。
こういった訳で「人のものを盗んで自分の物にしたい」「他人を意のままに傷つけたり、命を奪いたい」「相手の同意なく暴力でセックスしたい」といった自由は、他人の権利を奪うため制限されるし、その決まりを守らなかった場合は罰則もある。当然ながら、こういった自由よりも、その自由によって侵害される他者の権利の方が、より保護する優先度が高いと考えられているためだ。
反対に、もし他人の権利を侵害していないのに、生存権・平等権・自由権などが制限されていたとしたら、これは是正されなければならない不当な権利の侵害と言える。もしそのような立場に置かれている人がいたら、彼らにはその不当さを訴え、本来正しい状態に是正してもらうよう主張する権利もある。
ここまでの話を端的に整理すると、次のようになる。……【前提A】
このため、ある権利の制限が正当なものか不当かであるかを判断するには、例外を規定した「2」の条件にあたるかどうかを検証すれば良いということになる。……【前提B】
性的少数者について特に問題となる概念として、自分が本能的に欲しいと感じる性の対象が何であるかを表す「性指向」と、自分がどういった性別の人格であるかを表す「性自認」がある。
「性指向」と「性自認」は「肉体的な性別と性自認が一致しており、かつ異性愛者である」という組み合わせが最も多い。この多数派の性指向・性自認の組み合わせから外れたパーソナリティを持っている場合、その人は性的少数者である。……【前提C】
この中でも、両性愛者やアセクシャルは比較的多数派の世界に溶け込みやすく、他の性的少数者に比べて存在が表面化しにくいとも言われている。
また、様々な理由からあまり性的少数者としては分類されにくい小児性愛、動物性愛、対物性愛といった性指向も存在する。
性的少数者の性指向や性自認を多数派と同じ状態になるように矯正しようとする試みが過去になされてきたが、成功しなかった。(多大なストレスで鬱になったり、自殺する場合もあった。)現在では性的少数者を根本的に矯正することは不可能と考えられている。
なお、なぜ性的少数者が生まれるのかについては、先天的と後天的両方の仮説がある。しかし、そのどちらかなのか、どちらのケースもありえるのかなども含め、原因は明らかになっていない。
このように、性指向は自分の意思によって変更できるものではなく、また、どういった原因によって性指向が決まるのかも明らかになっていない。……【前提D】
(ちなみに、性自認に肉体の方を適合させたり、半陰陽の人をどちらかの性別に寄せる、といった物理的なアプローチは可能である。)
特定の物・衣装や行為に興奮する(フェティシズムやSMプレイなど)などといった性癖と性指向は言葉の上では区別される。しかし、時代によって何がどこまで正常/異常に分類されるかはとても曖昧になっている。
そこで、今回の議論では、ある人の性的な興味を形づくる根幹的な事柄であれば、その内容を問わず性指向として尊重する立場をとる。……【前提E】
例として、異性愛者にとっては相手が異性であることは欠くことができない根幹的な事柄であるため、異性愛は性指向の一種であるとする。
また別の例として、ある男性がケモナーで、ある種の動物性愛的とも言えるポルノを好んでいたとしても、実際の恋愛では人間の女性と交際や結婚が可能な場合、必ずしも動物性愛が根幹をなしていないので、性指向としての動物性愛ではないと見なす。
逆に、もしこの男性にとって動物性愛が根幹を成しており、人間との交際や結婚が全く考えられない場合、彼は動物性愛の性指向を持っていると見なす。
性指向や性癖の内容を問わず、正常/異常、良い/悪いの価値判断は行わない。ただし、その性癖が他者の他者の権利を侵害せずには成立しないもの(プレイではなく実際のレイプ行為など)については制限が必要という立場をとる。
前提が長くなったが、ここから本題となる。
現行の社会の仕組みは性的な多数派を前提とした仕組みとなっており、本来多数派と同様に保障されていなければならない権利が制限されている。これを、多数派と同等のレベルにまで回復してほしいというのが、権利の是正を求めるLGBTたちの主張として共通していることである。
【前提A・B】に立ち戻ると、LGBTであっても可能な限り性的多数派と同等の権利が認められなければならないが、その権利が他者の権利を侵害する部分については制限しても良いということになる。
では、上記のような事柄を認めることによって、他者の権利が侵害される場合はとはどういうときだろう?
「同性愛者がはびこることによって、異性愛者がレイプされるかもしれない」
という懸念は不適当と言える。現状も異性愛者同士によるレイプ事件は起こっているし、同性愛者の権利を回復したとしても、同意なくレイプして良いという特権を認める訳ではない。もしそのような事件があれば適切に処罰されるだろう。
というのは認められない。単に嫌いだから、不快だから、見なれないからという理由だけでは権利を制限する根拠とはならないからだ。今まで生活していて、体臭が非常にキツかったり、顔立ちが全く気にいらなかったり、もの凄く性格が合わない不快な人と会ったこともあるだろうが、だからといって犯罪をしている訳でもない彼らから権利を剥奪して良いかというと、全く関係がないのは明らかだ。
「男性に見えるトランスジェンダーが女子トイレに入ったり、その逆が起こるのは嫌だ」
というのは議論の余地がある。男性から女性へのトランスジェンダーの人がありのままに生きたいという権利と、異性からトイレを見られたくないという権利が衝突しており、何らかの解決がなされるべきだろう。
最後の問題のように細かい部分では利害の調整が必要な部分はあるにせよ、大きく見れば、LGBTの権利を回復することによって、他者の権利が大きく侵害される場合というのは想像が難しい。【前提A・B】で説明した運用ルールから考えると、彼らの権利を回復しない積極的な根拠を挙げるのは難しい。
【前提C】の条件によるなら、小児性愛者は性的少数者として考えて差し支えないと思う(ただし、単に小児性愛的な嗜好を好むだけで、その人の性的興味の根幹を成していない場合は性癖の範疇とする。これも【前提E】のケモナーの例に同じ)。
LGBTの例と揃えると、小児性愛者の権利が多数派と同等な状態というのは、以下のようなものになるだろう。
LGBTと事情が異なるのは、現代では子どもと成人間の恋愛や性交渉が子どもの人権を侵害する行為とされている点である。
【前提B】を鑑みれば、これは権利を制限する十分な正当性があると見なせてしまう。同じ性的少数者でありながら、これほどまでに明暗が分かれてしまうのが悲劇的である。
という部分が認められることはほぼあり得ないだろう。
たしかに、子どもに対する直接の危害や、児童ポルノの製造は明確な犯罪行為であり、被害者の子どもの権利を侵害する行為である。そのような事件に対する世間の目はとても厳しい。
しかし【前提D】で述べたように、性指向は自分で選択できるものではなく、また、矯正が可能なものでもない。異性愛者や同性愛者がたまたまそう生まれてしまったのと同等に、小児性愛者もただそう生まれてしまっているだけだ。子どもと実際の恋愛やセックスに及ぶことはは制限せざるを得ないが、自身の性指向を社会から否定されながら生きたり、その性指向を理由にして社会的な差別を受けるいわれはない。
LGBTと違うのは、ただその性の対象を実際に得る自由がないというだけで、それ以外の部分においては本来同様の権利の回復が行われなければならないだろう。下へ、先ほどのLGBTの例と対応させてみる:
「小児性愛者がはびこることによって、子どもがレイプされるかもしれない」
という懸念は不当である。現状も異性愛者同士によるレイプ事件は起こっているし、小児性愛者の権利を回復したとしても、子どもに手を出してよいという特権を認める訳ではない。もしそのような事件があれば適切に処罰されるだろう。
というのは認められない。単に嫌いだから、不快だから、見なれないからという理由だけでは権利を制限する根拠とはならないからだ。今まで生活していて、体臭が非常にキツかったり、顔立ちが全く気にいらなかったり、もの凄く性格が合わない不快な人と会ったこともあるだろうが、だからといって犯罪をしている訳でもない彼らから権利を剥奪して良いかというと、全く関係がないのは明らかだ。
これが詭弁かどうかをよく考えてみてほしい。
それでは、理想的な小児性愛者と社会の関係とはどのようなものになるのだろう。
私は、同性愛者やトランスジェンダーであることが、効き手が左効きであることと同じくらい何でもないことになることが理想だと考えている。小児性愛者についてもそれくらい「ふーん、それは大変だね…。」と言えることになるくらいが良いと思う。
そして、この考え方は小児性愛者以外の理解を得られにくい性指向にも適用されるべきだ。
LGBTですら権利の回復がままならない状況で、小児性愛者の権利回復までは遠い道のりと言わざるを得ない。また、具体的に小児性愛者と社会の間でどういった適切な関係がありえるかもまだ分からないところがたくさんある。それは、特にポルノの扱いについてだろう。
言うまでもなく、世の中では犯罪と直結したイメージを持たれやすいことだ。このことを危惧してか、本質的に同じ問題があるにも関わらず、私が知る限り小児性愛者の権利回復を主張する団体は見たことがない。
また、この投稿でも前提が長くなっているように、問題を端的に説明できないことから、短絡的に児童への性犯罪を容認しているととも捉えられかねない危険があり、公に意見を主張することもまだ難しい。
しかし、LGBTと問題が同じである以上、いつかは必ず議論されなければならない。その意味でも、今回のBBCの記事はかなり先進的なものであると評価したい。
お読みいただきありがとうございます。僕自身はバイとゲイの間くらいのセクシャリティですが、ほとんど葛藤なく生きてこられてきました。ただ、周囲にはセクシャリティについて大きな自己否定感を経験した友人や知り合いも多いです。BBCの記事での独白が、そういった方の抱えていた気持ちとほとんど同じような内容に思えたのが、この投稿を書こうと思ったきっかけです。また、もしご自身の過去や、身近なところに児童の性犯罪被害を受けている方がいらっしゃった場合は不快かもしれず申し訳ございません。
バイセクシャルになった。
性自認は男、身体的にも男で、女の子大好きなのだが、バイセクシャルになった。同性とするセックスが好きになった。
きっかけは女性にペニスバンドで逆アナルプレイをされたことがきっかけで、そこから「女装男子に犯されたい」となり、それから
間もなくして同性とセックスしてバイになった。ちなみに女装一切なし。
男性に寝バックで「かわいい」って言われながらガンガン後ろから突かれ、
みっともなくあえぎ、「突いてっもっと突いてっすき〜〜」って言うのが好きになってしまったのだ。
LGBTに関しては寛容なつもりであったが、当事者になって色々と感じたことがあったので書き散らしてみる。
LGBT(正確にはもっと多くの枠組みがある)は意外と多い。Twitterで漁れば漁るほどどんどん出てくる。皆言わないだけで。
ゲイの友人に「バイになった」と言ったらものすごく驚かれたのと、「愛のカタチは皆それぞれ違うわよね!」とすごく喜ばれた。仲間がふえたかのように。
ちなみに自分は他の人達から見ると「とてもバイに見えない、爽やか系」らしい。バイに見える人ってどんななんだ……。
ヘテロ(つまりノンケ)だった頃は、周辺にゲイやバイ、レズがそれなりにいたし、百合エロ漫画とか大好きだったので「同性愛?好きな人がいるのはいいことだし恋愛は人それぞれだよー。社会はもっと寛容になるべきだし、言えばいいのに」と言っていたが、いざ当事者になってみると、言えない。
気持ち悪がられるかもしれない。冗談でも「うわ〜俺の事狙うなよ〜」と言われるかもしれないし、そう言われたら親しい友人ゆえのちょっときつい冗談だとわかっていても傷つく。
友人にも言えないし、本当にごく一部の、腐女子やそういった人たちの中でも、絶対的な信頼を置いた人物じゃないと言えない。それ以外では恐らく墓まで持っていくだろう。
特に、インターネット上では伝統的にゲイ・ホモジョークが氾濫している。その手のジョークは俺は否定しないし、淫夢ネタは俺だってよく使うし、Twitterの本垢でRTしたりすることも多々ある。
ただ、それを目の当たりにすると、面白いと思っても、どうしても一瞬だけむっとしてしまう。
でも、同じバイセクシャル同士でナチュラルに淫夢用語を使うことは多い。「あ^〜いいっすねえ」とかよく言うし、何より気軽なコミュニケーション手段として使いやすい。黒人が黒人同士でni**aをカジュアルに使う一方、黒人以外に言われると激怒するようなものだろうか。
「両方できるから、異性とセックスできないなら同性とすれば解決じゃん!」って思ったらそんなことはなく、異性とセックスしても同性とセックスしたい欲は消えないし、同性とセックスしても異性とセックスしたい欲は消えない。
わかりやすく言うと、シムシティでRCI(住宅、商業、工業)と需要メータがあるところに、更にもう一本横に工業メータが増えてRCIIとなったようなものである。
言われてみれば当然だが、好きな異性のタイプがあるように、同性でも「好きなタイプ」がいる。
男の同性愛者が誰でもクマのような男や、ガッチリした体型の男が好きだったりするわけではない。
ただ、中性的な男性ってなかなかいない。一番めんどくさそうである。
ましてや、「女装が似合う中性的な男性に組み伏せられて寝バックで犯されたい」と日常的に言い続けている。
ちなみに、同性愛や両性愛はものすごく色々と細分化されている。
新参者とはいえ当事者のはしくれである自分ですら全然わからないし、思わぬことでかなりセンシティブなことに触れて不快にさせることもある。(その割に情報が少ないし、ぶっちゃけ細かいことまで気にしなきゃいけないのでめんどくさいとすら感じる)
ちなみに「セックスはするが恋愛感情は無い」というパターンもあリ、自分もそういうタイプ。ヤリ専と言うらしい。ええ……(困惑)
行ったことないし今後も行くことはないだろうが、ハッテン場にはネコが多く、タチ(攻め側)は重宝されるらしい。
とくに、前述の自分のタイプである「女装が似合うタチ」なんかはレアである。
ちなみに、ネコしかいない状態のハッテン場を「猫屋敷」と言うらしい。熱烈歓迎されそう。
今のところネコの経験しかないので、タチもやってみようかな?と思うけど、腸壁破っちゃわないか心配。
同性愛者でコンドームをしない人は意外と多い。妊娠リスクが無いし、気持ちいいからだと思う。
肛門を使う上で間違いなく汚いし、粘膜が使われることでHIVウイルスの感染リスクが異性間の数倍にも跳ね上がるから、自分はちゃんと洗った上でコンドームをつけてセーフセックスをすべきだとは思うが、意外とコンドームをしない人が多い。
ちなみに自分はつねにつけさせている。
最近LGBT関係の話題が多かったり、何かと問題提起されてたり、時にセンシティブな話題になったり、差別がどうのこうのとか、ポリコレ棒がどうのこうのとか色々とありますが、単純に同性セックスは楽しいので皆もっと軽率に始めればいいとおもう。
ちなみに百合も好きなので、将来的にはバイセクシャルの女性の彼女を作って、彼女に彼女作ってもらって目の前でイチャイチャしてもらいつつ、彼女に2人きりのときは女の子扱いされてみたい。まずは彼女作るのが先だけど。
近親相姦の法規制の是非について、いろいろ議論が拡散しててモヤモヤするので自分なりにまとめてみたい。
<2017/9/10 12:21 ブクマ数187users 追記した。イヤマウンターへの回答になるか分からないけど…あと微細な誤字修正。
2017/9/10 23:01 ブクマ数350users 良い指摘も貰ったので再追記&読み辛い記号は省略して浄書した。>
前提の確認として、2017年現在の日本には、成人(=18才)した近親間のセックスを取り締まる法律はない。
ただし、13歳未満に対しては例え同意があっても強姦罪(強制性交等罪)が構成される。(刑法第177条)
18歳未満であれば、地方自治体が定める青少年保護条例に基づいて規制されうる。(淫行条例)
また、3親等以内の近親間は婚姻はできない。(民法第734条)
たとえ法律的に禁じられていなくとも、現時点では、近親間でセックスすることについて、単純に不快感を感じるから反対するという意見が大勢を占めると思われる。
しかし、不快感だけに戻づいて法規制を行うことは、「ゲイは不快だから反対する」となんら変わらず、その他の行為にも「利害関係にない他人の心情」という不確かな要件で法規制を成しうるため、不快感を法律の根拠にするのは避けるべきだろう。
規制の根拠としては、「年長者が年少者に対して、権力的優位を利用して性交する虐待の可能性がある」から禁止という論理展開をとるのが適当だろう。
そして「権力的優位を利用した強制性交」というところまで抽象化すれば、これは何も近親相姦に限らないと気付くはずだ。最近、大学教授が学生を言いくるめ性的関係を迫る事件が起きた。
年齢差、年収差、肩書、男女…あらゆる要素で権力勾配は生じうる。相手の弱い立場につけ込み強制的な関係を迫るのは近親間に限らない。20歳差以上もある男女や玉の輿と呼ばれる婚姻を訝しむ人は、暗黙的に権力勾配による強制性を疑うのだろう。
かと言って、権力勾配がない平等な男女でなければ性交・婚姻できないとするのは現実的ではないように思われる。
「生物として長年同棲した人間は互いに性欲を感じない」という意見もある。(ウェスターマーク効果)
では、年長・年少の差異(=権力勾配)がない双子が、生まれてすぐ別々に過ごし、互いに成人した後出会ったのちの近親相姦はどうか?
成人した両者が合意の上で、子どもも儲けず血も交わらない安全なセーフセックスをする分には、外部の人間がそれを規制する根拠は乏しいと思われる。
現在の日本には同性婚制度が存在しないが、近年の議論として、「同性愛者・両性愛者・性転換者(LGBT)にも同性同士の婚姻を認めるべき」という意見がある。
日本国憲法第24条では、「婚姻は、両性の合意のみ」に基いて成立すると定めている。
ここから(もちろん歴史的な経緯からも)長らく「婚姻とは、男女間の契約であることが含意されている」と認識され、現在も同性婚は認められていない。
しかし、この「両性」には男同士・女同士も含まれるとして、LGBTにも婚姻を認めるべきという容認論が出てきた。
アメリカでも同様の議論がなされ、リベラル派は賛成し、宗教保守派は反対している。
保守派は、反対理由として「LGBT間の婚姻が認められるならば、近親婚、複婚(ポリガミー:一夫多妻・多夫多妻制)、児童性愛(ペドフィリア)も認めることになるだろう。」と主張している。
http://www.hrc.org/blog/texas-legislators-argue-same-sex-marriage-leads-to-incest-polygamy-pedophil
つまり、「両性」にLGBTが含まれるなら、なぜその「両性」が近親ではダメなのか?なぜ「両性」が2人の関係でなければならないのか?3人でも4人でも彼らが合意すれば外野が口を出す必要はないではないか?相手が児童でもいいのではないか?(いやダメである。)という論理だ。
次に、近親の組み合わせが、親子ときょうだいの場合を分ける必要がある。
一般的に、親子ならば、父×娘、母×息子。
きょうだいなら、兄×妹、姉×弟が想定される。
しかし最近のLGBTを擁護する世論を考慮すれば、近親相姦・近親婚においても父×息子、母×娘、兄×弟、姉×妹の組み合わせすら理論上ありえる。
そして、異父母きょうだい×異父母きょうだい、親×連れ子、親×養子、連れ子×連れ子、3親等まで広げれば叔父×姪、叔母×甥、祖父母×……さらにそれらの複婚関係……といった創作の題材になりそうな組み合わせも無限にありえる。
「近親交配しないのは不利な劣性遺伝子を顕在させず、生物的な多様性を保持するため」として近親交配に反対する意見がある。
ここで注意したいのは、劣性(潜性)遺伝とは、即、不利な形質を示すわけではない。
もちろんハプスブルク家やロマノフ家の例を出すまでもなく、近親交配によって虚弱体質等の潜性遺伝子が顕在することもありえる。
しかし、サラブレッド育成や家畜の品種改良に見られるように、近親交配(インブリード)によって、人間が有利と認める形質を顕現させる交配は日常的に行われている。
では、優れた(とされる形質を持つ)人間を顕現させるための手段として近親交配を行うことは許されるのか?
「優生学」とは、表層的には「優れた人間を人為的に作り出す」を意味するが、もっと抽象化すれば「社会に貢献する人間を遺伝子操作で生み出す」ことである。「優れた子を産み、社会へ貢献せよ」という繁殖圧力が埋め込まれている。
同様に、遺伝子の多様性を守るべきという立場は、(遺伝的多様性を備えた「=優れた」)子どもを儲け、社会に貢献することを暗示的に求めていないか?
「多様な遺伝子(=新たな「優れた人間」の基準)を持つ子を産め」という圧力である。
「日本の国力を維持するために子どもを2人以上作るべき」という意見は、時代遅れの家父長制として批判されるだろう。
では、この考えを拡張した「人類の繁栄と遺伝子多様性のために、近親相姦で子どもを儲けるべきではない。遺伝子的に遠い組み合わせを選ぶべき」という意見は優生学として批判されないのだろうか?
なぜ、見ず知らずの他人と社会のために、子どもの遺伝子多様性を考え子作りしなければならないのだろう?また、子どもを作らなければならない社会的圧力は、不妊夫婦やLGBTカップルにも襲い掛かる。
要旨としては、「一個体単体での多様性は存在しない。遺伝子の多様性とは、社会全体で見たときに様々な遺伝子をもった個体がいて、あらゆる環境変化にも社会全体として生き残る可能性のある個体を総体として保持する状態を指す」というものだ。
まさに、そのとおりである。
元増田のコメント欄 http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20170908230300 で、「近親交配は遺伝子の多様性を狭める」「『血が濃い』子どもを産むのは多様性に反する」といった反対論がいくつか見受けられた。
似た遺伝子を持つ近親が交配することで生まれる子どもは、その遺伝子に一族が持つ因子以外の多種多様な因子を持たず不都合が生じるといった主張だろう。
これを受けて、一族が持つ因子と異なる個体と交配することを「遺伝的多様性」と表現した。
だが、「社会全体の遺伝的多様性」と捉えなおしても、やはり結論は変わらないだろう。
「社会全体の遺伝子多様性を考慮せよ」ということであれば、近親交配で生まれた「血の濃い」子どもだろうが、高齢出産で生まれた障害児やダウン症児だろうが、互いに遠い因子を持つ両親から生まれた「(元コメントが支持する)多様性を実現した」子どもだろうが、すべてイコールなのである。
どんな組み合わせの子どもも、何に役に立つかわからないから全て尊いのだ。
酷い貧血で苦しむ鎌状赤血球を持つ個体は、マラリアに耐性を持つ。
「血が濃い」ことによって何らかの潜性遺伝が顕現し生活に不自由を生じるかもしれない。だが、それすらも何らかの環境で役立つかもしれないのだ。
カンブリア大爆発で生まれた珍奇な生物は、ほとんどが「失敗作」だったかもしれない。
生物のミクロにおけるあらゆる試みは、現時点で正しいかどうか判断できない。
もしかしたら将来、障害児が持つ因子がを生かしておくことが正解だったと判断される時代が来るかもしれない。
ミクロのレベルでは、将来どんな因子を持つのが有利なのか判断できないし、そんなことを判断して子孫を作るわけではない。
(※再追記ここまで)
互いに愛し合う両性は、人類の遺伝子多様性を守るために子どもを儲けるのではないはずだ。
多様性を善とするならば、近親交配で生まれた子どもも多様性の一種として認められないのか?
「やーい、インブリード」「お前の母ちゃんふーたり」「淫乱家族」「本能や自然の摂理に反している」「相続税が複雑になる」といった差別と罵倒を受けるかもしれない。だが、これはLGBTが受けてきた偏見そのものである。歴史は繰り返す。
「富裕層が節税に使う」といった意見は単なる税制の失敗であり、状況に合わせた税制改正で対応すべきであって、税制の設計ミスが人々の自由恋愛を拘束してよい理由にはならないだろう。
近年、CRISPR/Cas9の登場で、生物の遺伝子を直接改変する「ゲノム編集」が技術的に可能になってきた。
まるでタトゥーを彫るごとく、遺伝子を編集し、発現する特質をコントロールする時代がいずれ訪れる。
「多様性が善」ならば、各人が好き勝手に自分の遺伝子を編集することは許容されるのか?
自分の子を希望通りに設計する「デザイナーベビー」もいずれ可能になるだろう。
果たしてデザイナーベビーは子どもに対する人権侵害なのか。アメリカの宗教保守派は、受精卵にも人権は生じると主張する。だが、精子と卵子の状態から「設計」し始めたらどうなるのだろう?
予め遺伝子由来の病気が顕現することが分かっていて、予防的にゲノム編集による遺伝子治療を施すこととの線引きはどうするのか?
また、近親交配に反対する理由として挙げられていた、生活上不利な劣性(潜性)遺伝子の発現を抑えることができるのならば、近親交配は許容されるのか?
「近親交配で生まれた『失敗した』子どもは間引かれる」という意見もある。だが、遺伝子治療によって間引く必要がなくなったらどうなるのだろう?
「女は、他の家に嫁がせ血族ネットワークを拡大し一族の繁栄を図るための道具」という認識から、女は他の一族に対するプレゼントとして考えられていた時代があった。
つまり、「身内で女を消費するな。嫁入り前の性交は大事な贈答物が『キズモノ』になる」から、近親相姦を禁じる論理だ。
婚前交渉を『キズモノ』となじる貞操観念も、もはや薄れつつある。
何のために婚姻をしていたのか?
「家督」を守り繋げるため?
子どもを育てるため?
婚姻制度が形骸化し、婚外子が一般化しているフランスや北欧では、事実上の多夫多妻制度に移りつつある。
皮肉なことに、女性は一度子どもを儲けると長期間にわたって身体的不自由が続くため、自由恋愛&事実婚の社会では一夫多妻に近い形態をとる。(奥さんが子育てをしている間に、男が他の女に会うなんてスキャンダルが最近もあったね。)
一人の恋愛強者男性が精子をバラまき、多くの女性に子どもを産ませる。恋愛弱者の遺伝子は途絶える。(安心したまえ、恋愛強者の子ども達は社会全体とキミの税金でしっかり育てるから。)
つまり、一夫多妻制の基では、社会の遺伝子プールは多様性を減らす方向に働く。
これは、社会の遺伝子多様性を守るために規制されるべきだろうか?
※「気持ち悪い」「素直に近親相姦したいだけって言え」⇒つまり、フィクションのお姉ちゃん最高!飯田ぽち。先生の「姉なるもの」好評連載中!
http://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_AM09000031010000_68/
“息を吸うように交わされるホモ行為。もう男同士で手を繋いだりハグをしたり顔を近付けたりは日常茶飯事で、最初は「これユーリやなくて、ホーモやないかーい!」と陽気なツッコミでエンジョイしていた自分も、回を重ねるごとに露骨になっていく描写に耐えきれなくなり、10話でエンゲージリングに見立てたペアリングを贈って疑似結婚式を始めたところで、完全にドン引きしました。このシーン、今思い出してもめちゃくちゃ気持ち悪かったです。
こうやって「気持ち悪い」とはっきり述べてしまうと、私はLGBT否定論者の差別主義者だと受け取られるかもしれません。しかし、私はゲイそのものに拒絶反応を感じているのではなく、ゲイではないくせに(認めていないくせに)ゲイを気取っている男どもが気持ち悪いと感じただけ。そう、これだけ勇利とヴィクトルの2人は同性愛を匂わせていながら、互いがゲイであることに一切言及しないのが問題なんですよ!
断言できますが、もし勇利がヴィクトルのことを真剣に愛した上で指輪を贈っていたのなら、私は気持ち悪さなど微塵も感じることなく、2人のことを祝福していました。セクシャルマイノリティであろうと、周囲に何ら引け目を感じることなく、実直に求愛できるのは大変麗しいこと。でも、勇利がヴィクトルに指輪を贈った理由には、「お守りだから」「お礼だから」という苦しい言い訳が入り、これだけ直接的な行為に及んでいながら、2人がゲイである事実から頑なに目を背けようとするから腹立たしくて。
10話放送後、作者の久保ミツロウさんはTwitterで「この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。」と、差別主義者には屈しない! というスタンスで反論されていましたけど、作中でゲイであることを認めていないからとても滑稽に聞こえます。
本当にこの世界が、あらゆる愛情のカタチに差別が入り込まない世界であるなら、「その世界だけは絶対に守ります」と豪語するなら、どうして彼らはゲイであることをはっきり認めようとしないのでしょうか? 同性愛を肯定しながら、一方で師弟愛や友情を隠れ蓑にしてゲイである事実を誤魔化そうとするやり口は、とても卑劣で悪辣だと私は思います。ゲイに対して不誠実ですし、これこそ差別です。
結局、本音ではホモを匂わせて腐女子を釣りたいだけのくせして、差別がどうのこうのを持ち出して正当化させようとするから気持ち悪さを感じるのですよ。ユーリ!!! on ICEという素晴らしいアニメに対し、私はただひたすら絶賛だけがしたかったのに、こんなくだらないことに長文を割かなくてはならないのが何よりも残念です。“ttp://ndsk.net/anime/yurionice.html
本人はこれを差別だと自覚していないようですが、なぜ勇利らが「ゲイ」であることを認めなければいけないのか考えが足りなすぎるのでは
そもそも恋愛や性愛について「同性愛」「異性愛」「両性愛」「汎性愛」「全性愛」「無性愛」「ホモフレキシブル」「クエスチョニング」「ポモセクシャル」「ポリセクシャル」「バイキュリアス」「デミセクシャル」「オブジェクトゥムセクシャル」、、、、、と数限りない愛の形があるのに勝生勇利とヴィクトルは自分たちを「ゲイ」と認めなければいけないのかよくわからない
5話で
【僕の愛。それはわかりやすい愛や恋ではなくて、ヴィクトルとの絆や家族や地元に対する微妙な気持ち ようやく自分の周りにある愛のような物に気付く事ができました。はじめて自分でつなぎ留めたいと思いたい人、それがヴィクトルです その感情に名前はないけど、あえて愛と呼ぶことにしました】
彼の気持ちは「既存の愛ではない」と語られているのに、浅生大和(あそうやまと)氏はゲイかゲイじゃないかというふうにしか二人の関係を考えられないってこと?
【この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。】
これについて
【と、差別主義者には屈しない! というスタンスで反論されていましたけど、作中でゲイであることを認めていないからとても滑稽に聞こえます。本当にこの世界が、あらゆる愛情のカタチに差別が入り込まない世界であるなら、「その世界だけは絶対に守ります」と豪語するなら、どうして彼らはゲイであることをはっきり認めようとしないのでしょうか? 同性愛を肯定しながら、一方で師弟愛や友情を隠れ蓑にしてゲイである事実を誤魔化そうとするやり口は、とても卑劣で悪辣だと私は思います。ゲイに対して不誠実ですし、これこそ差別です。】
一体どう解釈すればこのような文章を書けるのか疑問。てかホモ、ゲイと書いている時点で立派な差別なんだがな、、、
同性愛について見識深いみやきち (id:miyakichi) さんの意見も伺いたい
ユーリオンアイスが、少なからずイデオロギー的色彩があるっつうか、つまり「BLなにが悪いねん、同性愛なにが悪いねん、みんな同じ愛だ!」というメッセージ性が高い作品だとしたうえで以下を書くんですけど。
一般論として、消費者にせよ作り手にせよ、BL萌えや百合萌えにイデオロギー的だかポリコレ的だか思想的だかな正当性を持たせようとすると、LGBT地位向上論に繋がりやすく、その論を更に磨いていくとジェンダーフリーやジェンダーレスにまで至ると思うんすよね。
腐女子や百合好きがその辺のリベラル思想を口にするのは見たこと多いと思う。
もしその思想に集うなら、自分もジェンダーフリーに賛同しているというスタンスになる。
しかしジェンダーフリー論陣で生きるには、己がバイセクシャル・アセクシャル・パンセクシャルあたりの、性的対象や萌え対象が相手の性別に関係ないですって人間じゃないと居心地が悪い。
だって、好む対象が男性か女性どっちかに限られていたら、「お前、ジェンダーフリーを掲げてるくせに、相手の性にこだわって扱い変えてるじゃん」というツッコミが、他人からも自分からも出てくるから。
でも、そんなこと言ったって両性愛者にはなれないんすけどって人が多かろう。
「男同士の恋愛にとりわけ萌えるから腐女子なんですよ、なのにNLや百合にも公平に萌えるのがイデオロギー的に正しいと言われても困りますよ」って人が多かろう。
自分の萌えを正当化して心を安定させたかったはずなのに、理屈を詰めていくうちに、かえって己の正しくなさが明確になってしまう。
BL萌えや百合萌えがイデオロギーを纏おうとすると、しばしばそういう問題にぶち当たる。
BL萌えだけでなく同性愛全般萌えに守備範囲を拡大しなければ、セクマイ全般萌えに守備範囲を拡大しなければ、マイノリティでもメジャーでもあらゆる姿への萌えまで守備範囲を拡大しなければ、理論武装に穴が生まれてしまう。
困ったもんですね。
んで、ユーリなんすけど。
というのはつまり上で書いたようなことで、ユーリのメッセージ性の強さは、BLへの肯定だけでなくジェンダーフリーの推進にまで至っているんじゃないでしょうか。
男同士で恋愛したっていいじゃん、にとどまらず、性別なんかにこだわる必要ないじゃん、というメッセージが発されている。(と、受け取る人もいる)
しかし、BLは好きだから「男同士の恋愛したっていいじゃん」て話には賛成するけど、他のどんな恋愛でも残さず食えと言われても困る、性別にこだわらずにはいられない、っつー腐はいて、それが
その他「腐狙い」アニメにおける「過剰な妄想の種まき」とは異なり、このアニメで2人の関係は肯定されるべき清らかなものとして直接的に言及された。2人の関係がなにかしらの愛でありながら、本人も周りも性別を気にかけることなく「人によってはこんな人生もある」と認められてしまったら、そして、それを「特になんの注意書きもする必要のないもの」とされてしまったら、そこに男女か男性同士か女性同士かという境目がないとするならば。
という抵抗感や居心地の悪さを生んでるんじゃないかなーと思う。
まあ自分は腐女子じゃなくて百合豚の男だから、全然ピントが合ってないこと書いちゃったかもしれん。
追伸
「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う。ジェンダーレスならすべての性別を愛することを強制してくるだろうが、ジェンダーフリーはどんな恋愛でも肯定するだけで異性愛や同性愛が偏っていると否定するわけじゃない。ユーリはジェンダーフリー的世界ではあってもジェンダーレスではない」
みたいな指摘もありそうだけど、たとえジェンダーフリーとジェンダーレスを区別するとしても、異性愛者は既存体制との対立要素が少ないことにより、イデオロギー闘争において自分がジェンダーフリー陣営への貢献度が低い気がして居心地が悪くなりやすいだろうから、あんまり話は変わりません。
異性愛でも、同性愛でも、両性愛でも、人が人を愛するということは変わりないじゃないかと思う。
今の社会は寛容なようでいて、寛容じゃないんだなと思う。
私は同性の恋人と手を繋いで歩くことに、まだどこか抵抗がある。
普通のこと、とされていることを正義として受け取るタチなのかもしれない。
彼氏のこととか、将来の結婚願望について語る友人たちのことを羨ましいと思ったし、自分もいつか異性を好きになれるって思っていた。
でも好きになるのは女性ばかりであれ?って感じてた。
ずっと誰にも話せなかったし、悩んでいた。
親や友人にバレたらアウトだという意識があった。
でもそんな状況自体がよく考えたらおかしいんじゃないかと思い始めた。
自分も結局は、同性愛者である自分自身を差別してるんじゃないか。
それがとてつもなくショックだった。
その差別意識は、異性愛者であることが当たり前な社会の中で無意識に植え付けられたものだと思う。
異性愛者でも同性愛者でも、自由に生きられるような心地よい社会になればいいと思う。
「〇〇くんが好きなんだ〜」「私は〇〇ちゃんが好きー」と軽く言い合えるような環境なら。
セクシュアリティに悩む人が、減るんじゃないだろうか。
気持ち悪いと思いましたか?自然に感じましたか?2人は友達だと思いましたか?
気持ち悪いと思いましたか?自然に感じましたか?2人は友達だと思いましたか?
同性愛者である私が同性愛嫌悪を根底に持っているというのもおかしな話。
メディアや雑誌で笑い者にされてる姿を植え付けられてさ、それを見て自分もそうなんだってすんなり肯定できる?
私にはそんな強さはなかった。
人に何か言われたくらいで、大切なものを失いたくないって思えたから。
好きなものを好きと言える世の中って、本当に大切だと思う。
http://togetter.com/li/1028862
一番気になる「オカマ」「ホモ」という言葉づかいは置いておきましょう。
どちらも性自認は男っぽいです。
しかし、異性愛であると教育(洗脳)されていたがパートナーを得て自覚した、というパターンもありえるので、「同性愛」ではない、とは言い切れないけど。
現実的に考えると、兄視点では、自分は女装した男で女性が好き。
すなわち、同性愛(ビアン)に異性であることをカミングアウトしたわけです。
1コマ目の振りは「そうね、、、でも安心して」ではなく、「そうね、、、」くらいが妥当かと。
振られる可能性を考えてないとすると、相手の心情をあまり考慮しないDV予備軍にすら思えます。
しかも、母はビアンなのに男性と結婚させられた、という闇がありそうに思えます。
「女装」はやめれば良いと思うのですけど、やめられない事情があるのですかね。
もしかして、「両性愛か全性愛」ではなく「異性愛」だから一緒にいるには「女装」が必須、とか。
だとすると、「同性愛」ではないので、二重苦ですね。
「女装」をやめてしまえば、「同性愛」に見える、と近親相姦の二重苦。
いずれにしても、二重苦です。
両性愛者はどうか知らないけど、基本的に異性/同性愛者の恋愛って
男が2人いたとして、かつその2人がどちらも異性愛者であるなら、その関係は
たとえ相手がどれだけ魅力的であろうと、相手が男=同性であるという時点で、①の条件が満たされることはないので、恋愛には発展しない
いや、異性愛者が一生異性愛者のままなのかどうかは知らないから、
もしかしたら死ぬほど魅力的な人と出会ったらその人が同性であっても好きになってしまう可能性はあるのかもしれないけど、それは置いといて
「男は普通女を愛するものである」っていう認識のもとで生きてる男っていうのは、
たとえ自分がどれだけ魅力的だろうと、たとえ自分がどれだけカスだろうと関係なく、
まず自分が男であるというその時点で、男から恋愛対象として見られることはない
みたいな考え方があるんじゃないか、と思うんだけども
本来満たされるはずのない①の条件が満たされているっていう状況がすでにエラーなのでは?
そりゃまあこんなの異性愛者というか多数派というか、とにかくそういう側の傲慢だと思うし
同性愛者を「犯されそう」って理由で怖がるのは、そりゃ思慮の足りない発言だろうとは思うけど
それに対して「おまえみたいなやつをゲイが好きになるわけないだろ鏡見ろ」みたいな返し方すんのも、なんだかなあって思う
http://anond.hatelabo.jp/20160713084827
元増田は悪くはないんだけど、いろいろと指摘したくなるので、申し訳ないが書き直してみた。
この知識を頭に入れてくれないと、誤解しやすい。
この知識があると理解が進むのです。
生物学上の性が男 and 女性的な格好・言葉づかいをしている
自分で自虐的な意味で使うのは良いが、他人にへ使うのは好ましくない。
メディアはオカマという言葉を控える代わりに別の呼び名を作った。
それがおネェである。
ただし、これに侮辱のニュアンスを感じる人もいるため、今後オカマと同じ運命をたどるかもしれない。
また、おネェと自称する当事者はあまりおらず、メディア上の(特にバラエティ番組での)特殊な言葉である。
→「生物学的な性が男 and (女性的な格好をしている or 男性が好き)」のor抜いた
他は文句ない。
生物学上の性が男の人に主に用いられる言葉で、異性装(男なので女装)の嗜好がある、ということ。
生物学上の性が男 and 男性のみが好き and 性同一性障害ではない
ttp://anond.hatelabo.jp/20160118180656
女装の嗜好があるかは問わないし、自分の観測してきた範囲だと、ゲイで女装して過ごしている人は少数派だ。
生物学上の性は厳密には問わない。
レズと省略すると、侮辱するニュアンスが含まれるため、「ビアン」と省略するのが穏当。
LGBTのL。
実は、格好や性対象は関係なく、自身の性に対し違和感を抱いているかどうかで判断される。
女性から男性になる、男性から女性になる人は、トランスジェンダーと呼ばれる。
性指向は、自分は女性だと思っているので、男性になる傾向がありそう。
自身を女性らしくすることを強く望み、普段から女性の格好をしようとする、またはできるようにする。
女性ホルモンを使うことで見た目を女性的に近づけることができるが、1年以上かかり、成果もばらつきがある。
生物学上の性と性自認の問題なので、性指向等は関係ありません。
ただし、性同一性障害の人にとってこれは侮辱の言葉なので使うことは禁忌だ。
上記の属性以外にも、少数だが、ナルシズムやマゾヒズム、破滅願望などの性癖を満足する手段として女装をする人がいる。
また、厨二病の延長で、何もない自分に何らかの特殊性を獲得するために女装する人もいる。
それらがいきすぎて女性ホルモンを使ったり性転換までしてしまう人も見られる。
しかし、彼らは社会的な承認を得るために性同一性障害と主張するので、結果的に性同一性障害の人と見分けがつきにくくなる。
その動機故に、性対象は女性、または両性である割合が高い傾向がある。
特殊であることが彼らをかりたてているので、承認欲求を満たすべくSNSをやっている人が多い。
逆に、性同一性障害の人は自身の過去を隠し、元男性であることを明かしたくないのでSNSでそれを主張する人は少数派である。
→条件が単純、というか、ただの嗜好。ま、分析は好きにして。
個人によって何がOKで何がNGかはバラバラなので、当たり障りのない呼び方をするのが良いと思う。
最大公約数的な対応を考えるなら、オカマやおネェ、女装という言葉は使わず、女性と言えば丸く収まる。
もし、厳密に男性として扱わなくてはいけない場合は、「生物学的に」男性と一言つけることでだいぶ印象が変わる。
基本的にこの手の話は、プライベートな情報なので、親しくなってから聞くものです。
遺伝子がXXかXYか、で良いと思うんだけど、、、XXXとか例外がいるんですよね。
例外の人には申し訳ないけど、男性・女性・その他、の三分類が適当かな。
基本的なコミュニケーションにおいて、生物学上の性が重要になることはあまりないと思います。
強いて言うなら、トイレや更衣室を用意しないといけない立場になった場合に、
また、生物学上の性により思い込んでいるケースもまま見られます。
これも第三の性を提起する人がいるので、男性・女性・その他、の三つ。
相手のアイデンティティーなので、基本的なコミュニケーションでも留意する必要があります。
他にもいろいろあるらしいですが、その他、として5分類とします。
同性愛(ゲイ・レズビアン)、異性愛(ヘテロ)、両性愛(バイセクシャル)、無性愛(アセクシャル)が関係する言葉です。
生物学上の性ではありません。
性同一性障害でなければ、ややこしくはありませんが、性同一性障害の場合、
以下の組み合わせが発生します。(単純な組み合わせのみ)
生物学上の性 | 性自認 | 性指向 | はため | 実際 |
---|---|---|---|---|
男 | 女 | 異性(男が好き) | 同性愛(ゲイ) | 異性愛 |
男 | 女 | 同性(女が好き) | 異性愛 | 同性愛(ビアン) |
女 | 男 | 異性(女が好き) | 同性愛(ビアン) | 異性愛 |
女 | 男 | 同性(男が好き) | 異性愛 | 同性愛(ゲイ) |
外見に顕著に表れるのは、異性装か否か、ですね。二分類。
男装、女装、異性装(クロスドレッサー、ドラァグ、トランスヴェスタイト)が関係する言葉です。
元増田でも触れられているように、生物学上の性が男・性自認が女の人に「女装」というのは危険でしょう。
現在の性という書き方をしたのは、性転換をしていた場合、生物学上の性から変わっているからです。
ここまでで、性同一性障害とゲイ、女装までは、分類できました。
最後「オカマ、おネェ」ですが、、、用語の定義が明確ではないのが実態です。
ホモフォビアとして「オカマ」という単語が発せられる場合、「ゲイ」に対してが多そうです。
性的少数派。
同性愛者、両性愛者、生まれ持った性と自分の自覚する性が違うこと。
そういうのを含めての概念だそうだ。
と自覚のある人は多いと思う。違和感があったら分かるだろうと思うので。
でも、自分が異性愛者だ、と胸をはって言える自信がある人はどのくらいいるのだろうか?
自分は異性しか好きになったことがない、と言っても、同性で好きになる人に出会ってないからだろうと言えるから、その証明にはならない。
同性は恋愛対象として見れない、と言っても、世の中そう言いながら好きじゃなかった異性を好きになることもある。
そもそも思春期ごろに遡ると、恋愛感情に似た思いを同性に対し持つ人も多いのではないだろうか?
そう考えると異性を好きになる要素は誰しもが持っているように思えて、
元増田もそうだけど、どうして自分の性指向が断定できるのか不思議。
私は異性のパートナーがいるし、同性との経験はないから、同性愛ではないけど、両性愛ではないとは言えない。
まあ多分異性愛なんだけど、「多分」が外れることはないかな。
あとなんで「ゲイじゃねーよって語気を荒げ」るの?
「異性が好きですよ」って返せばいいだけだけど。
なぜ語気を荒げるのか考えれば、ホモフォビアかわかると思う。
「カミングアウトされれば構え」る理由もこれっぽっちもわかりません。
その気がないのに恋愛対象として見られるのが気持ち悪い、とかなら、同性・異性を問わないよね?
同性愛者は同性なら誰でもいい人ってわけじゃないのは、わかってるよね。