はてなキーワード: 両性愛とは
セクシャルマイノリティはLGBTだけじゃない!あなたは"LGBTTQQIAAP"という言葉を知っていますか?
この記事読んだ。
LGBTはご存知の通り以下の4つ。
Transsexual(トランスセクシュアル、性別違和)
Queer(クイア、当事者がセクシュアルマイノリティ全てを包括する言葉(総称)として抵抗運動(クィア・ムーブメント)や連帯の合言葉)
Questioning(クエスチョニング、性自認や社会的な性、性的指向が確立できず、自問している人)
Intersex(インターセックス、身体的な性別(体の性)を男性・女性どちらにも分類できず、性染色体に異常がみられる。両性具有など)
Asexual(アセクシャル、恋愛感情を抱くことがなく、性的に興奮することもない)
え、おかしくない?
なんで「アライ」とかが平然と入ってるの?「クィア」?連帯の合言葉ってなんだよ。
これ、性的少数者の分類じゃねーじゃん。ただ自分の味方とか認めてるやつを並べてるだけじゃん。
しかもしれっと「PZN」(ペド、ズー、ネクロ)とかを省いてる。
PZNも性的少数者なんだけど?「アライ」なんかより優先順位が下だってのか?
おかしいでしょ。そこまでして性的少数者内で差別を続けたいの?
はっきり言わしてもらうけど、こういう不誠実なダブスタ差別を続けてる限り、LGBTには何の正義もないよ。
蜘蛛の糸の犍陀多。救われようとしてるくせに、他の性的少数者を蹴落とそうとしてる。
セクシャルマイノリティの理解は我々日本人にはまだまだ足りていない部分が多いと思います。
現状では、セクシャルマイノリティの方々が安心して普通に暮らせる環境がまだ整っていません。
誰もが自分らしく生きていける世の中にするために、一人一人がセクシャルマイノリティの理解を深めていく必要があると思います。
そうだな。まずお前が理解足りてないよ。
この国で、いや世界で一番差別を受けてる性的少数者の分類は何か。
Pだよ。paedophilia。
私自身のセクシャリティは二次元のみを愛する方。それ故に、時には政治的戦略として、時にはマイノリティとしてのルサンチマンを晴らすために、三次元を愛するセクシャリティを攻撃してしまうことがよくある。でもその度に笹井一個さんの言葉を思い出す。「二次元も三次元も両方好きな人はどうすればいいの?」と。
一世代前の同性愛コミュニティでは両性愛者が迫害を受けた、みたいな、そういう現象が今ここで起きている。私もそこに加担している。
いやでもさ、結局三次元こそが本命で、二次元は「代替物」「劣化版」「いつか卒業するもの」程度にしか認識していない人と分かり合える気がしないじゃん!?
という言い訳。
「二次元も三次元も、平等に両方好き」って人、きっとたくさんいるよね。
それでも私は、この戦略がまだ手放せない。色んな人の心を踏みにじって生きている。
でも本当に言いたいことはそうじゃないんだよ。ただ平等であって欲しいだけ。
私は両性愛者である。いわゆるバイセクシャルであると割と最近自認した。
相手が男性でも女性でも「好きな人」になりうる。あなたとセックスができる、可能なら付き合いたい、という意味合いの「好き」な気持ちになる。
当たり前だが友人としての好き、も男女問わずある。恋愛的な好きの気持ちの範囲が男女両方なだけだ。
私の悩み。新婚である友人(女性)のセックスを想像してしまう自分(女性)が気持ち悪くて耐えられない。
友人と書いたが私は彼女のことが「恋愛的な意味」でも好きだった。だが彼女は結婚し既婚者になった。私は想いを一切伝えずバイセクシャルである事もひた隠しにし、友人として彼女と接して生きていくと決めた。彼女は完全なる異性愛者、ノンケである。
友人から連絡があるたび、今夜はセックスは良いのかな、新婚だし忙しいだろうと思う。
こちらから連絡をしようかなと思っても、新婚だし夜はやめておこうかななどと気を遣ってしまう(まあこの判断自体は正しいかもしれないが…)。
幸せな既婚者を相手に、何でもかんでもすぐにセックスに結びつけて物事を考えてしまう自分があさましくて憎い。何より私は友人として彼女と付き合っていきたいし、彼女も私と友人としてやり取りしてくれているのに、私は彼女の夜の姿を想像してしまう。とても辛い。
彼女は私のことを信頼してくれている。新婚生活のことも、そのほかのことも、信頼できる人間以外には話さない様な出来事も伝えてくれる。彼女にとって友人として大切な人間になれて嬉しい。
なのにこれだ。私ときたら彼女のことを思うたびにふと彼女が旦那さんとセックスしている想像をしている。もちろんほかのことも考えているけれど、ふとしたときに浮かぶ。最悪だ。
付き合いたいくらい恋愛的に好きだったのだ。気づいたのは彼女が結婚してからだけど、それより早めに自認していたとしても彼女には伝えていないだろう。彼女はかなりはっきりとストレートであるから。私は拒絶されたくなかった。だからせめて彼女にとって素晴らしい友人になれるよう、努力して生きて行くと決めた。なのに。
両性愛者のカムアウトはいいんだけどさ、元カノの話して快く思う今カノなんていないだろ。
なんか両性愛を受け入れてもらえないみたいな奴ってそのへん勘違いしてるんだけどな。
俺は両性愛者だけど付き合った彼女に両性愛をカムアウトされたら不快だわ。逆に、両性愛のカムアウトを不快に思われた経験もある。腐女子の元カノからは喜ばれたが
高校から数えて男性4人、女性3人ぐらいと付き合った記憶がある。
男性と結婚したバイが、界隈によってはよく思われないのを知っている。
女性も好きになれることを、実生活で関わりのある人にはほとんど打ち明けていない。
だから誰にも伝えようのない私の小さな救いを、ここに書き留めようと思う。
1人目は、その前に付き合っていた男性だった。
相手との結婚が見えた時、何となく自分の遍歴を言わずにいるのは不誠実な気がして、後ろめたさに背を押されるような形で私は昔の恋人の話をしたのだった。
打ち明け始めてすぐに、話さなくてもいいことを話してしまった手応えがあった。
案の定、相手の反応を要約すると「そういう話はあまりしてほしくない」というものだった。
「逆だったらどう思う?」とも聞かれた。「俺が男と付き合った話をわざわざしても困るだけだろう」と。
別に困りはしなかったけど、それを口に出すのもなんだか違う気がした。
その後、一人で考えた。
昔の恋人が男だったとして、「実は昔男と付き合っていて……」という話を今の恋人にするだろうか。
なぜ、相手が女だっただけで打ち明けなければいけない気になるのだろうか。
ただ「話さない」というだけのことが、いつしか「隠している」に変わり、焦ってしまうのはどうしてなのか。
この理由に少し近づけたような気がしたのは、今の夫に2度目のカムアウトをした後だった。
けれど、その恋人と結婚を視野に入れたまま数年付き合い、別れ、のちの夫となる相手に出会って少し経ち、また結婚が見え始めると、私は黙っていられなくなった。
相手の困惑を生むことを想像し、極力黙っていようと努力はしたが、結局押し負けるような形で私はまた打ち明けてしまった。
夫の反応は実にあっけないものだった。
「へえ。何か得だね」と感想を口にしたあとで、彼はいつも通りの会話を続けた。
どんな女の子と付き合ったのか、どういう人がタイプか。そんな話をした気がする。
夫のトーンは、映画の感想を言い合う時や夕飯のメニューを決める時とほとんど変わらなかった。
なんなら、かえって私の方が慌てたような記憶がある。普通はもっと抵抗や葛藤があるはずだと、夫の表情にぎこちなさがないか探したりもした。
他の同性愛者やバイと同じように女の子と付き合いながら、同性と付き合うことに抵抗や葛藤を感じていたのは他でもない私だったのではないだろうか。
育った環境や大人になるまでに聞いた言葉、社会観念を形成するまでのさまざまな刺激。
それが、自分が同性と付き合うようになった後もなお心の隅に残り、自身を咎めていたのではないだろうか。
「話さない」ことを「隠している」と考えてしまう癖も、いつも何かに押し出されるように口にしてしまう告白も、それならば合点がいく。
そのために、自分の感じていた謎の焦りの正体に気付くまで、ずいぶん時間がかかってしまった。
夫との一件から、永く私を苦しめていたカムアウトに対する焦燥感は一時的になりを潜めた。
もしかすると、それはまた何かの折に浮上するものかもしれない。
あるいは、今後ついぞ姿を見ないで済むものかもしれない。
ただ、今は「両性愛者であることは罪でなく、打ち明けないことも罪ではない」というごく当たり前のことに気付けただけでほんの少し心が軽い。
私が両性愛者であることを知る夫は、結婚後もテレビに私好みの女性が出ると「好きそうな子が来たよ」と教えてくれる。
そんな言葉に無邪気にはしゃぐひと時が私の救いになっていることを、彼はきっと知らない。
家族や友達はみんな好きだけど、特別な存在という訳ではないと思う。
昔何かの本で、「好きな人が結婚した時に素直に喜べないのが恋愛感情」と書いてあったが、それに照らし合わせるとやはり誰かを恋愛感情として好きになったことは無い。友達が結婚したらとても嬉しくなると思うし、結婚式にも大手を振って参加するだろう。
でも性欲は割とある方だと思う。人と比べたことがないからなんとも言い難いけど。
そこで問題が発生する。
これは私が両性愛者なのか、それともただ単に性欲さえ満たされれば相手のことなんてどうでもいいただの最低な人間なのか?
こんな悩み誰にも相談できないので、3年ほどずっと悩み続けている。
そして、他人と恋愛せずに性的な行為を行うことが怖いのに、性欲だけが大きく膨れ上がっていくのも恐ろしい。
大学に上がってから、男性との性的行為に経験豊富(不適切な例えかもしれない)な女性の友人が出来たこともあり、焦りは増えていくばかりだ。
こういうのは周りと比べるものじゃないと言う人もいるが、性の話はあまりにもクローズドになりすぎて、気軽に相談しにくいのがネックなんだなと痛感させられた。(インターネットや本で同性愛や両性愛のことについて調べても、出てくるのは恋愛感情のことで、性的なことは実際の行為の話が主な気がする。あまり詳しくないので知識が間違ってたり検索方法が悪かったりする可能性もあるけれど)
頭の中でにっちもさっちもいかない状況になってしまって、唐突に匿名の日記を書こうと思いたった。
いつか私が人を好きになる、または答えが出る日が来るのだろうか。
理由。
昔々、もう遠い昔の出来事。
給食当番を無理やり代わりにやらされたり、ひどい暴言で罵られたり。
消しゴムを裂かれて、シャーペンの芯を手や肩に刺されたりしたこともあった。
もう本当にひどくて、つらかった。
よく”いじめられる側に原因がある”なんて言う人がいるけど。
「お母さんがいないこと」
私がまだ小さいうちに両親は別居し、あれよあれよと言う間に離婚した。
父親一族は家の後継ぎ欲しさに、一人っ子だった私をろくに子育てもしないくせに強引に引き取った。
母親は泣く泣く私を手放したが、相当揉めたのだろう(この辺りの詳しい事情を私は知らない)。
月に数回、実父のもとを離れて、母と遊びに行く時間をもらうことができた。
だから厳密に言えば、生き別れでも死に別れでもない。
決して「目の前にいない」わけではなかったのだ。
会いに行こうとすれば会える。
話ができる。
本当に幸せだった。
今考えれば、このあたりが気に食わなかったのかもしれない。
「お母さんいないんだよね」
両親が離婚したことは、その女の子には言っていなかったが、なぜか知っていた。
流行りの通信学習講座でもらったプレゼントがあれば、それを取り上げて隠し、勝手に使う。
お楽しみ会でくじ引きがあれば、私が引く前だけわざと中身を見て、私に都合の悪いくじを引かせようとする。
1人がいじめ出すと、いじめられっ子と特に関わりのない子までいじめるようになるらしく、いじめはクラス全体に広がってしまった。
何かあれば「お母さんがいないのをばらすぞ」と脅された。
いないわけではない。それなのに、そんなことを言われるのが悔しかった。
学校に行くのが嫌だったが、それとは比にならないほど、家庭環境(実父と祖母)が悪かったせいで、不登校にはならなかった。
その頃、母は再婚して、実父とは大違いの、優しい義父と3人で遊びに行くようになった。
それからは、4人で遊びに行ったり、家で家族団欒したりするようになった。
多分これも、いじめてきた女の子にとっては気に食わないことだったのだと思う。
いや、あの女の子にこの辺りのこと一言も言ってないんだけどさ。
というか、このことは友達にも父方の親戚にもほとんど話してない。
何度も何度も、バラすぞと言われて脅された。
仲の良い友達は他のクラスにたくさんいた。だけど、いじめは、友達のいないところで受けていた。
母親がいないせいで(もちろんいじめる側が悪いのだけれど)いじめられてるってバレたくなかった。
相談しても「お母さんがいないからだね」なんて言われるはずがないことぐらい分かっていた。
だけど、どうしてだか分からないけれど、誰にも相談できなかった。
ーーーーーーーーーー
私は知っていた。
いじめてきたその女の子の両親は離婚していて、その子にはお父さんがいないことを。
私が母から聞いたように、きっと、あの女の子も誰かから人づてに、私の家庭環境について知ったのだろう。
不思議と、「相手の身の上をばらしてやろう」とは思わなかった。
結局、ばらすことはしなかった。
きっと、あの女の子は、私が何も知らないとでも思っていたのだろう。
あの時はそう思っていた。
離婚していても、離れ離れになっている親や兄弟と会うことのできている、私の環境がうらやましかったのだろうか?
そんな風に思ったのは、随分後になってからのことだった。
だけど
いじめられる側にも原因がある、という人たちへ。
声が汚いから。
本人がどうにか努力して、変えられることですか?
足が遅いから。
もし百万歩譲って、本人に原因があるとしても、いじめていい理由にはなりませんよね?
伝わりましたか?
いじめって。
それでもまだ、いじめられる側に原因があるっておっしゃいますか??
それでは、見方を変えてみましょうか?
そういうの、身を滅ぼしますよ?
例えましょう。
「〇〇って部署のアイツ、男のくせに男と付き合ってるらしいぜ。俺、先週見たんだよ。男と2人で手繋いでデパートに入っていくの。アイツと同じ部署になりたくねーわ。気持ちわりーww」
あなたがそれを笑いながら話している相手、同性愛者かもしれないって考えたことありますか?
その会話を黙って聞いている、遠くのデスクのあなたの上司、同性愛者だったらどうしますか?
両性愛者かもしれませんよ??
あなたの印象悪くなりませんか?
え?????
ちょっと待って。
だってそれ、取引先の会社の人と飲み会したりしてるときに、酒に酔ってポロっと口走っちゃうかもしれませんよ?
言っていいことと悪いことが分からない人だと思われるかもしれませんよ?
働いている時はダメ?
プライベートな付き合いだったらいい?
あ、絶対違うって?
お気づきでしょうか?
あなたの恋人も、両性愛者であることをあなたに言えないまま、あなたと付き合っているのかもしれないですよ。
いい加減、差別する人間の方がマイノリティな世の中になりつつあるって気づけよ?
※セクシュアルマジョリティ&いじめっ子&差別主義者の読者が前提みたいな書き方をしてしまって申し訳ないです。読者の大部分の方々は、私がこんなに熱弁せずとも、お分りいただけると思っています(これも一種の偏見なのかもしれませんが)。もうこんなにひどい差別はなくなって欲しいです。
話が逸れました。熱くなりすぎましたね。続けます。
ーーーーーーーーーー
中学2年の時、クラス替えでその女の子とは別のクラスになった。
中学3年になった。
クラスメイトの男の子がいじめられていて、クラス中で大問題になった。
聞いた話だと、わざわざ見張り要員まで用意した上で、ターゲットにされたクラスメイトに対して暴力をふるったそうだ。
この件にあの女の子は無関係だけど、いじめをより一層のトラウマにした。
そう思った私は、合格圏内だった地区二番手の進学校(いじめてた女の子はそこに進学した)を受験するのをやめ、いじめっ子全員とは別の高校に進学した。
やっと自由になれた。そう思った。実際、その通りだった。
好きなことを好きなだけ勉強できた。
幸せだった。
旧帝とか早慶上理とかではないけれど、行きたかった大学にも合格できた。
ーーーーーーーーーー
後日談として。
ここから先はほとんど独り言&愚痴みたいなものですので、読みたくない方は読まなくても結構です。
ちなみに、先にお断りしておきますが、お互いに謝って仲直りの握手をしてハッピーエンド!!めでたく仲直り!!みたいな展開は一欠片もございません。
そもそも、直す仲もございませんし。
まあ、高校が離れていたけれど、相変わらず同じ地区に住んでいたし、買い物したりしてると遭遇してしまうんですよね。
しかも私がよく行く店でアルバイトを始めたから、嫌でも会ってしまうことに。
途中で辞めたんだかシフトを減らしたのか知らないけど、そういやいつの間にか見かけなくなった。
それと、私が勉強に部活に忙しくなって、あんまり学校以外の場所に出没しなくなったせいだと思うけど、街でも会うことはなくなった。
次に再会してしまったのは、高校3年生の暮れにあった、大学入試センター試験の模擬テストのときだった。
大学のキャンパスとか、センター試験が実際に行われる会場を借りて行われるテストで、休憩時間?に遭遇してしまった。
私の名前を呼び、話しかけてきたが、挨拶をしたぐらいでほとんど話さなかった(気がする)。
遭遇したことは覚えているが、多分この頃には、記憶に残すのも勿体無いほど、どうでもいい存在になっていたんだと思う。
ここまでの記憶で終わっていれば、ああ、そんな控えめに言っても人間の風上にも置けない最低な人いたなーぐらいの存在の枠に収まっていたかもしれない(じゅうぶんすぎるほどのインパクトはあるし、自分でもひどいことを言っているとは思うが)。
控えめに言う。
お前、どのツラ下げて友達名乗ろうとしてんの?
勘違いも甚だしいよね。
しかも付随して来たメッセージに音符(♪だったかな?)ついてたし。
そしたら、何年か経った後で、また別のSNSで友達申請が来ました。
このSNSはメッセージつけられないから、友達リクエストが届きましたって通知が来ただけだけど。
あんなにひどいことをしておいて、
自覚ないんだね。
遺憾です。もちろん今回は即ブロ。
友達のお父さんが「みんな預けたくないって言ってる」って言ってたよ。
みんなって誰だか知らないけど。
今、友達のお父さんって言ったけど、実は私も同じこと思ってるよ。
そうこう言ってるうちに、幼稚園お辞めになられたそうですね。
かぶっている猫が足りなくなったんですかね。
知らないけど。
多分、私も相当ひどいこと言ってるね。
一言だけ。
しないと思うけど、もし、この歳になっても、また前と同じことをするのなら、その時はもう容赦しないよ。
半年近く。
今から書くことはめんどくさい女とめんどくさい女しかでてこない。個人間で解決できるかとしれないことをここに書くこと、それはもしかしたら許されないことかもしれないけれども書かせてもらう。こうやって形にしないと、いつか私が潰れてしまうと思ったから。直接言えないから。
誰も読みなんてしないと思う。けれども、相手が虚空でもいいから吐露させて欲しいのだ。
友人からの好意に気付かないふりをしている。クラスで一番仲の良い、可愛い女の子からの好意。
前述しておくが私は女だ。
彼女に好きな人がいると知った日、彼女は今は女の子が好きだと教えてくれた。それを聞いて、私は特に大きな感情は湧かなかった。
友人が誰をすきだろうと、性的対象が同性だろうと、私が彼女と過ごしてきた時間に何一つ変わりはない。「教えてくれてありがとう」なんて言葉を返した。
今思えば、あの時は他人事だったから、そんなふうに言えたのかもしれない。
細かく記述はしないが、ある瞬間に彼女の好きな人が自分であることに確信してしまった。
……本当は「好きな人が女のコ」と伝えられた瞬間から薄々勘づいてはいたけれども、ある瞬間に確信した。
私は美人でもなければ可愛げもない。性格の悪い気持ちの悪い人間で、そんな人間を好きになるなんていないだろう、と思っていた。けれども彼女の好きな人がそんな「私」だと確信を得てしまった。自意識過剰だ、と笑えないくらいにそれは現実だった。
最初に私が覚えた感情は「申し訳ない」だった。こんな人間を好きになったって何にもならない。申し訳なくて、あの子は可愛くていい子なのに、他の人を好きになれば幸せになれるのに、こんなどうしようもない人間が相手なんて、という感情だった。
ひたすら悩んで、苦しんで。
私は何も知らないふりをすることにした。
私は馬鹿で阿呆だから、鈍感な子の振りをすればみんな気づかないんじゃないか?と思ったから。
友人から好きな人の話を聞く度に、第三者の振りをした。彼女の世界に自分が組み込まれてない振りをした。もし彼女が「気付かないふりをしている私」に気づいたとしても、きっと踏み入っては来ないだろうと思っていたから。
「好きな人、まだ気づいてないんだ」
「大変だね〜そんな鈍感な子相手って」
そんな気持ち悪い言葉を沢山吐いた。嘘を1つ着く度に、気付かないふりをする度に良心がじくじくと傷んだ。
これが正解だと信じていた。
でも、現実は違った。
私が違う女の子を可愛いとべた褒めしたり、男の子をかっこいいと言うと頬をつねったり、わかりやすく拗ねるようになった。
ちょっとずつ、ちょっとずつ外堀を埋められていくような気がする。
私が演じている「鈍感な私」もそろそろ無理が出てきた。全然気づいてくれないんだ、という彼女に対して気づかない方がおかしいよ、という言葉は言わなかった。
段々と、友人に会いたくないと思ってしまった。
大好きだった友人が怖くなる。一方的な好意の押し付けが、気持ち悪く感じる。人からの好意は喜ぶべきことなのに、私にとっては「恐怖」以外の何物でもない。
友人が何を望んでいるのか、わからない。
前に彼女は「付き合いたいとは思っていない」「相手に好きだと伝えるだけでいい」と言っていたけれども、それも私(好きな人)にたいする詭弁だったんじゃないか?なんて疑ってしまう。
私に気づいて欲しいのだろうか。
私に言って欲しいんだろうか、
「私のこと好きでしょ?」
なんて
もう無理だ。
恋愛が自己満足と自己満足のぶつけあいで、片思いなんて好意を押しつける自己満足の塊でしかないことくらいは理解しているけれど、もう無理だ。耐えきれない。苦しくて苦しくて仕方がない。
気付かないふりを演じるのが苦しくて仕方ない。申し訳なくて、怖くて、辛くて、気持ちが悪い。
人からの好意を「迷惑」だと感じてしまう自分が嫌で嫌で仕方がない。
私が死んでしまえばいいのに。
そしたら全部解決するのに。
私はヘテロセクシュアリティ、いわゆる異性愛者だ。性的マジョリティ。いわゆる世間一般の「普通」だ。だから彼女の気持ちには答えられなくて。
じゃあ女の子じゃなかったらいいの?なんて聞かれそうだけど、多分私は彼女が男の子でも、私が男でも、私が同性愛者でも両性愛者でも好きにならなかったと思う。
でも友達としては大好きで、優しくて。
彼女を傷つけたくない自分と彼女と距離を置きたい自分が両存して、気持ちが悪い。
卒業まで、あと4ヶ月。私はどうすればいいんだろうか。
目を逸らし続けて、嘘をついた私は、きっとどこにも行けない。
中学生くらいのころ、二次創作というものにハマり(最初はFF8のサイファー×スコールだった)、BLNL問わず様々な個人サイトを回りいろいろな作品を見て時にほくほく時にときめき燃え盛り楽しんでいて、
その後不登校になった高校2年くらいから一時的にそういうものから離れて音楽・お笑い・ゲーム実況等の方面に趣味が移り、しばらくの間全く読まなくなった。
大学に入ってから某男性アイドル育成シミュレーションゲームにハマったのを契機にBL、ひいては二次創作に再び浸る毎日になった。
そうして二次創作作品に再び触れるころには、いわゆるノマカプ、男性と女性のカップリング作品に「萌え」を感じる感性を失ってしまっていることに気付いた。
自分が両性愛の男性であり、高校時代は女性としかそういった感情をともなう関わりを持つことがなかったからなのかもしれないが、もう女性を「エロい対象」としか見れなくなっていた。
もしかしたら世間のヘテロな男性の一部には、こういった視点をはじめから共有している人がいるのかもしれない。
自分の中身がまるごとすり替わってしまったようで、なんだか気味が悪くて寂しかったけど、仕方のないことと割り切れもせずウダウダしたまま暮らしています。
まず、昨今のLGBTQの動きと性の多様性を認めようという動きにわたしは賛同している。
休刊が発表された新潮45ではLGBTと題しながら、同性愛にクローズアップされて語られた。それは、同性愛が性欲の話になるからだと思っている。
両性愛者からすると恋愛を、同性しか愛せない、異性しか愛せないと語ることは、人格ではなく性別で恋愛の対象をふるいにかけることを肯定しろという発言で性差別にも思えるある種暴力的な言説ではあるが、それでもその言説が支持されるのは、性的欲求の対象を個人の理性でコントロールすることは、人間もまた性的な動物であり不可能であることを認められているからだ。
第4条(自由の定義・権利行使の限界) 自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。
第5条(法律による禁止) 法律は、社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない。法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず、また、何人も、法律が命じていないことを行うように強制されない。
他害しない限りは自由は守られるべきことであり性欲はその人そのものに根差すものだ。だから性愛対象を区別する権利、性欲を他者に抱かない権利、すべての対象に性欲を抱く権利、性欲を抱かない権利を、加害性がない限り肯定されるべきことだと思っている。
日本が明治以前は同性愛に寛容だったのは性欲を悪とする価値観がなかったからだ。明治以降のキリスト教的な価値観によって性欲が恥ずべきものにされていった。
つまり、生産目的ではない快楽を求めるためだけのセックスは道徳的によくないという価値観だ。このセックスを楽しむためだけのセックスは道徳的でないといった価値観が新潮45の論説に繋がる。
彼らにとって痴漢も同性愛もはしたない行為であり道徳的ではないから同じなのだ。
子供に性的なものを見せない配慮とは、責任を果たせない子供がセックスをすることを推進しないためなのと、過激な暴力描写は現実とファンタジーを混同しやすい子供には良くないといった理由であり、それは必要であると思っている。
ただ、それらを推進していない女性の体が強調されているだけの絵については、問題はないと考える。
気持ち悪いと切り捨て道徳を持ち出すことはかつて同性愛者を弾圧した言説と同じだ。
サイゼリヤのボッティチェリのヴィーナスの裸体のレプリカ絵が許されるように、露骨な性的表現がされていない表紙も許されるべきである。
日本では明治以降に抑圧された女性の性欲を漫画が勝ち取ってきた歴史がある。
ずいぶんと長いこと女性向け男性同士のポルノをヤオイと言って山なしおちなし意味なしと卑下しなければならなかったが、そのポルノ自体の卑下からはようやく脱却し、自らを腐ってると自虐することに移行してきた。その自虐も自虐ではなくなったきて、堂々と宣言しはじめてきたのを見ると女性がポルノと性欲を勝ち取ってきたのだと思える。
今でこそ形骸化してる雑誌アンアンのセックス特集も最初の衝撃はすさまじく、女に性欲があることを宣言する一つのターニングポイントだった。
気持ち悪いと道徳とモラルを持ち出して性欲と性的まなざしを否定し、ゾーニングを推奨する人々をわたしはフェミニズムだとは思わない。
いやだから、ヤオイがBLとなってその創作物自体を卑下する段階を抜けて、それを愛好する自分への自虐に移行していったことを言ってるので、同一視はしてない。
アンアンの衝撃については鴻上尚史の著作と当時の新聞の評論からなので、間違ってたら申し訳ない。あとアンアンについてはポルノとは言ってない。
24年組と風と木の詩からの流れを持ったJUNEと女性の二次創作が爆発的に増えたキャプ翼や聖闘士星矢で広がったヤオイが元々が別なのはわかっているよ。
ここらへんの知識は中島梓の「コミュニケーション不全症候群」の影響が強いので絶対とは言えないが、違ったことは知っている。
ただそれらがBLに吸収されるより前にまだヤオイと広く使われていた時代と腐女子の自虐の広がりは同時期だったと認識してる。
追記14:21
性的まなざしを通した視点で性的欲求を自身に齎す存在を表現することを「主体性のないモノ」扱いにしていると否定し規制させようとすること自体が、性的抑圧行為と同意味だと思っている。
そして性的まなざしを通した表現は男女に差がなく溢れている。なぜそれが正常な状態ではないと断言できるのかその根拠がわからない。
俺は同性愛は反対しないし、そういう愛はあると思っている。
でも、お父さんお母さんの呼称を使うのは差別だという考えは、間違いなくおかしいと思う。
そもそもそのお父さんお母さんがいたからこその自分たちだろう。
それに親に対してパパ・ママ、お父さん・お母さんと呼んできたはず。
まさか、LGBTの対象になっている人たちは親を名前で呼んできたの?って疑問。
愛に関しては自身の持つ感情だから、これは物心ついてから身につけたものだしね、問題はない。
でも、それ以前から親に対してお父さんお母さんと呼んできたはずなんだよね。
そもそも同性愛者が、そのようなことで差別だと考えるほうがおかしいと思う。
でも、世間に指さされながらでも同性愛を貫いてる部分は尊敬に価する。
そんな人たちが、そんなくだらない呼称で差別と叫ぶのって変じゃない?
養子をもらったとしても、呼称なんかは役割でそれぞれ決めればいい。
LGBTはだいぶ認めてもらったから、今度は呼称での区別をなくそうというのは、ちょっと都合が良すぎるよ。
あくまで人類は男と女という性別での組み合わせが基本なんだから。
そこに同性愛もありだろうという意見が入り込んできたから、アリだよねってだんだん認められて来ているだけということを認識してほしい。
認められたから、今までの呼称も差別だ無くせというのはだめだよ。
それって自分たちに都合が悪いからルールをなくせって言ってるだけだもの。
それを忘れちゃいけない。
なぜかLGBTの人たちをみると、変な主張ばかりしてて自分勝手な人をみかける。
もちろん、ちゃんと社会なルールに則って、同性愛をしている人もいるから全てに問題があるわけじゃないけど、一部のワガママな人たちの主張はあまりにもおかしい。
そう感じた。
両性愛者に関しては、どっちかって言うと、差別云々聞かないんだよなぁ…。
こっちのほうが人ができてる感じ。
当時は同性を好きになるのはおかしいんじゃないかと本気で悩んだ。その際、インターネットで調べまくったが不安は収まらなかった。(寮生活だったために図書館でしか本が読めなかった。そして参考になる本はなかった)
夜も寝つけなかったため、母に一度だけメールをした。同性を好きになるのはおかしい? と。
返ってきた答えは、思春期の中高生はそうなりやすいというものだった。
同性愛者は生産性云々という文章を見たとき、ガツンと殴られたような気がした。
当の議員が同性愛者の子供は自殺しやすいんですってと笑いながらいっている姿を見た途端、動機が激しくなった。
ちょうど夜だった。
ホモきもいあのレズ気持ち悪いと口にする同級生がそばにいた時間が戻ってきたみたいで、怖くてたまらなかった。
もうとっくに慣れたと思っていたがダメだった。涙が止まらなかった。
さすがにあの発言を肯定しないだろう。内心怯えながらも話を聞いていた。
しかし、問題ないというのが母の意見だった。間違った発言ではない。いつもの顔でそういっていた。
傷つくだけとわかっている。それでも何もいわずにはいられなかった。
またしばらくして、今度は両親とその話をした。
母の意見は変わらず、父は黙って聞いていた。どうしてわかってくれないんだとムキになってしまい、そんな言い方だと同性愛者の理解者なんて増えないと思うけどといわれた。父は笑ってその話を聞いていた。
もう何をいっても無駄だと感じた。
母から同性愛者は気持ち悪い存在だといわれて、喧嘩になったことがあった。急にLGBTを語るめんどくさいやつだと揶揄されることもあった。
それでも懲りずに話題には参加した。
自分が異性愛者ではないことを薄々感づいているのではないかと思っていた。だが全く違った。それを今日になって気づいたのが本当馬鹿げている。
母はあの議員が好きだそうだ。生産性がないのは事実なんだそうだ。加えて、なんでそんなに同性愛者を擁護するの?とまで聞かれてしまった。
自分は、母にだけは味方でいてほしかった。あなたはあなたのままでいいよといってほしかった。他人に両性愛者でいることを罵倒されても仕方がない。だけれど、差別に対して一緒に怒ってほしかった。慰めてほしかった。望みすぎかな。
グチグチごめん。
あーあ。