はてなキーワード: クシャルとは
“息を吸うように交わされるホモ行為。もう男同士で手を繋いだりハグをしたり顔を近付けたりは日常茶飯事で、最初は「これユーリやなくて、ホーモやないかーい!」と陽気なツッコミでエンジョイしていた自分も、回を重ねるごとに露骨になっていく描写に耐えきれなくなり、10話でエンゲージリングに見立てたペアリングを贈って疑似結婚式を始めたところで、完全にドン引きしました。このシーン、今思い出してもめちゃくちゃ気持ち悪かったです。
こうやって「気持ち悪い」とはっきり述べてしまうと、私はLGBT否定論者の差別主義者だと受け取られるかもしれません。しかし、私はゲイそのものに拒絶反応を感じているのではなく、ゲイではないくせに(認めていないくせに)ゲイを気取っている男どもが気持ち悪いと感じただけ。そう、これだけ勇利とヴィクトルの2人は同性愛を匂わせていながら、互いがゲイであることに一切言及しないのが問題なんですよ!
断言できますが、もし勇利がヴィクトルのことを真剣に愛した上で指輪を贈っていたのなら、私は気持ち悪さなど微塵も感じることなく、2人のことを祝福していました。セクシャルマイノリティであろうと、周囲に何ら引け目を感じることなく、実直に求愛できるのは大変麗しいこと。でも、勇利がヴィクトルに指輪を贈った理由には、「お守りだから」「お礼だから」という苦しい言い訳が入り、これだけ直接的な行為に及んでいながら、2人がゲイである事実から頑なに目を背けようとするから腹立たしくて。
10話放送後、作者の久保ミツロウさんはTwitterで「この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。」と、差別主義者には屈しない! というスタンスで反論されていましたけど、作中でゲイであることを認めていないからとても滑稽に聞こえます。
本当にこの世界が、あらゆる愛情のカタチに差別が入り込まない世界であるなら、「その世界だけは絶対に守ります」と豪語するなら、どうして彼らはゲイであることをはっきり認めようとしないのでしょうか? 同性愛を肯定しながら、一方で師弟愛や友情を隠れ蓑にしてゲイである事実を誤魔化そうとするやり口は、とても卑劣で悪辣だと私は思います。ゲイに対して不誠実ですし、これこそ差別です。
結局、本音ではホモを匂わせて腐女子を釣りたいだけのくせして、差別がどうのこうのを持ち出して正当化させようとするから気持ち悪さを感じるのですよ。ユーリ!!! on ICEという素晴らしいアニメに対し、私はただひたすら絶賛だけがしたかったのに、こんなくだらないことに長文を割かなくてはならないのが何よりも残念です。“ttp://ndsk.net/anime/yurionice.html
本人はこれを差別だと自覚していないようですが、なぜ勇利らが「ゲイ」であることを認めなければいけないのか考えが足りなすぎるのでは
そもそも恋愛や性愛について「同性愛」「異性愛」「両性愛」「汎性愛」「全性愛」「無性愛」「ホモフレキシブル」「クエスチョニング」「ポモセクシャル」「ポリセクシャル」「バイキュリアス」「デミセクシャル」「オブジェクトゥムセクシャル」、、、、、と数限りない愛の形があるのに勝生勇利とヴィクトルは自分たちを「ゲイ」と認めなければいけないのかよくわからない
5話で
【僕の愛。それはわかりやすい愛や恋ではなくて、ヴィクトルとの絆や家族や地元に対する微妙な気持ち ようやく自分の周りにある愛のような物に気付く事ができました。はじめて自分でつなぎ留めたいと思いたい人、それがヴィクトルです その感情に名前はないけど、あえて愛と呼ぶことにしました】
彼の気持ちは「既存の愛ではない」と語られているのに、浅生大和(あそうやまと)氏はゲイかゲイじゃないかというふうにしか二人の関係を考えられないってこと?
【この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。】
これについて
【と、差別主義者には屈しない! というスタンスで反論されていましたけど、作中でゲイであることを認めていないからとても滑稽に聞こえます。本当にこの世界が、あらゆる愛情のカタチに差別が入り込まない世界であるなら、「その世界だけは絶対に守ります」と豪語するなら、どうして彼らはゲイであることをはっきり認めようとしないのでしょうか? 同性愛を肯定しながら、一方で師弟愛や友情を隠れ蓑にしてゲイである事実を誤魔化そうとするやり口は、とても卑劣で悪辣だと私は思います。ゲイに対して不誠実ですし、これこそ差別です。】
一体どう解釈すればこのような文章を書けるのか疑問。てかホモ、ゲイと書いている時点で立派な差別なんだがな、、、
同性愛について見識深いみやきち (id:miyakichi) さんの意見も伺いたい
職業上同性愛者とよく会うので、友人知人も同性愛者が多いです。そんな中、ゲイの友人に「同性愛者なら海外に行ったら?」みたいな言葉を平気でいう人達が一定数います。「同性愛者が結婚できる国の方が、良いじゃん」「あっちだったら(同性愛が)認められているからさ」なんて無責任に言っちゃうのです。私はその言葉を聞いて、非常に違和感を覚えます。愛のために、自分の居場所や今まで築いてきた関係、意のままにあやつれる母語をかなぐり捨てて、海外に行ける人なんてそうそういません。第一、海外に住むには膨大な面倒くささが含まれています。ビザの問題とか、仕事とか、住居の関係も。
私は2年くらいサンフランシスコに住んでいました。サンフランシスコにはレズビアン、ゲイ、バイシェクシャル、トランスジェンダー(LGBT)に対し、かなり先進的な考え方を持つ町でした。まさに、寛容、という言い方がしっくりきます。年に数回そういう人達のための集まりやパレードがあり、そう言う人達が集まるコミュニティやお店があります。そこで感じたことは、「この人達は行動したから、自分たちが欲する権利を得ているのだな」ということです。そして、一部の保守的な人達を除く一般の人たちも、その人達に関して非常にオープンでした。ゲイパレードの参加者の3分の1くらいは、異性愛者でしたから。
アメリカのLGBTの人たちは自分たちの権利のために行動します。積極的に情報を発信し、周知活動(パレードやポスター等)を行います。知ってもらうことは何よりも大事なのです。アメリカにはまだ保守的な人がいて、LGBTの人たちにひどいいじめをしたり、白い目でみたり、時には暴力をふるう人もいます。アメリカは、自由の国と言われていますが、実は保守的な面も色濃く、反発の力は日本よりかなり力強いものを感じました。しかし、「愛情の反対は無関心」と、昔の偉人が言っていたように、LGBTの人たちにとって、なによりも危惧しているものは、自分たちのようなマイノリティに対して、一般的な人達が無関心・無知であることだったように思います。だから、彼らはどんなに批判され、冷たい目で見られても、結構ケロっとしていました。(実は多分傷付いているかもしれませんが)
アメリカで同性婚が認められたことを非常に嬉しく思います。しかし、そうなって当然だったとも思います。異性愛者の生徒も交じる講義の中で、よくLGBTの権利についてディスカッションされました。それは、LGBTの権利が認められるかどうかではなく、彼らの権利は「認められるべき」だと当たり前のように話していました。その上で、今後どのように法律が変えられるべきか、自分たちはどうするべきか、という議論になりました。これは、LGBTの人々が積極的に周知活動を行い、認めてもらった結果であると言えると思います。
さて、冒頭の話に戻します。「同性愛者が結婚できる国の方が、良いじゃん」「あっちだったら(同性愛が)認められているからさ」このような言葉は、いかがなものでしょうか。あたかも、この国ではLGBTであることが認められておらず、この先も同性愛の結婚が認められないだろう、とするような言い方です。また、多分そういうことを言う人は、同性愛者の人たちの実情を知ろうとしていない(=わかりあえない存在として見ている)ような気がします。知ろうとせずに、無関心でいる人達に、そして、無責任に「同性愛者は海外に行け」と、自分たちから遠くへ追いやろうとしている人達に、警告を鳴らしたいのです。
分かりあえませんか。愛の形は同じで、たまたま生まれ持ったものが大勢の人とは少しだけ違っただけだった。それを知るだけで、だいぶ目線が変わるのではないですか。
そして、LBGTの皆さん、少しでも良いから、自分たちのこと、周りの人たちに知らせてください。一部の人たちを除けば、きちんとわかってくれるはずです。真っ直ぐした言葉で、発して下さい。「私は海外ではなく、日本で生きたいのだ」と。理不尽な言葉に、人知れず傷付いて、俯かないでください。
この国は、今後どうなるのでしょうか。お互いを知ろうとしないまま、人々はこのまま人間らしい美しい愛を持った人たちを、看過していくのでしょうか。私は、この国が好きです。もっと住みやすい場所になり、繁栄していってほしいと考えています。そして、LGBTの方々もまた、好きです。その人達にとっての安心できる居場所をこの国の中で作ってほしいと考えています。アメリカのように、とは行かないかもしれないけれど、この国のかたちにあった、LGBTのあり方を模索する時が来ているのだと思います。
セックスは抵抗あるよね。ひとに近寄られるだけでも変にビクッとしちゃうのに、さわったりキスしたりましてや・・・なんてことなんか、できるわけないよ>< 一緒の布団に誰かと寝るなんて落ち着かないこと、ありえない。愛があってもセックスは無理! じっさい、何度かは経験があったけど、すすんでしたがる気持ちが全然分からないよ!ということが、わかっただけでした orz 私って、Aセクシャル(あ・せくしゃる)なのかなぁ? もういっそ、友情結婚を目指した方がいいような気がする。
・・・というようなことを、むかし友達に話した。「だからといって、Aセクシャルじゃないかもよ?」といわれた。
それから4年くらい経って、とりあえずAセクシャルではなかったようですよ、私・・・。好きな人と手をつなぎたいなぁ!って言うところから始まって、徐々に「ぎゅっ」ってしてもらったり、そういうことが幸せだと感じるようになっていきました。求められたから急に・・・みたいなことはなかったので、幸運だったのかも。
とりあえず、誰かとつきあうようなことになったら、その時に「セックス嫌だけどいいですか」みたいな確認をしといた方がいい。「ガチです」と←確かに、「そのうちどうにかなるさ」と高をくくる男は多そうな気がする。流されて「嫌だ嫌だ」と思いながらするのは、自分も相手も不幸だからね(と、いまなら思う)。
Aセクシャルならそれはそれでもいいと思うし。肉体じゃない、違った結びつきは時間の共有を、ふたりで見つければいいんですから。
みんなち○こち○こま○こま○こ言ってるじゃないですか。
性欲を惜しげもなく曝け出してるっていうか。
ああいうのっていいですよね。
自分でやるのにはものすごい嫌悪感があって、ちょっと真似できないんですけど。
他人のを見てるぶんには楽しいんですよね、なぜか。
某ブロガーに「痴女なんですか?」と聞いてみたかったけど、そんな親しいわけじゃないので自重しました。
そんな毎日です。
ちょっと追記
あと、本物の痴女は多分ちんことかまんことか言わないと思うよ。そこにセクシャルな意味を持たせていないから無邪気にいえるのであって。
別に本気で痴女だと思ってるわけじゃありません。
あくまで冗談として言おうと思ったけど、冗談を言うほどの仲でもないので自粛したというだけです。
てかそれ誰だよw
きっとクリリンのことです。
お気になさらず…。
増田では男が書いているのか女が書いているのか、男女の比率はどれくらいなのか、がわからないので、セクシャルな話で反応を見ようとしているのではないだろうか。
まず書いておくが別に私はパーソナルスペースについて無知なわけでも否定したいわけでもない。
むやみに男性になつく女はアホかと思うし、それで襲われたとしても(力にものいわせた男性が悪いのは当然としても)「あなたにも原因はあるよね」くらいは思うだろう。
だからと言ってヘテロセクシャルの場合の異性間友情、あるいはホモセクシャルな場合の同性間友情を否定したいわけでもない。
なぜなら、なぜ「親密フラグ」が立つとされるパーソナルスペース内に存在していても「家族」とはセックスしないで、「男女」なら友情が成立せずセックスすることにつながるのかという記述がないからだ。
恋愛文化のドグマについて語るのであれば、そもそもそれ以前のタブーについても考えるべきではないだろうか。
私は別に人類学や社会学を専門に習ったわけでもないので、ここから先の記述がおかしい場合は申し訳ないがどなたか訂正していただけると助かります。
さて。
人間同士のセックスについての基本的なタブーといえば、やはりインセスト(近親相姦)タブーを第一にあげるべきだと思う。。
http://anond.hatelabo.jp/20070118224317では「家族はセックスしない」というのを当たり前の前提としていえるが、セックスだけを考えたら血のつながりなどたいした問題じゃない。
私にも彼氏がいるし、弟には嫁と息子がいる。お互い仲がよく、いままでセックスをしようなどという話題は一度ものぼったことなどない。
でも私と弟はある特定の状況下に入ればおそらく9割以上の確率でセックスするだろう。
それは例えばこうだ。
私や弟の家族、友達がそろってどこかに閉じ込められている。
そして私と弟だけが別室に呼ばれて、見知らぬ人間がむごたらしく殺されるのを見る。
この状況で「あなたたちがここでセックスすれば家族は助けてあげますよ?」と言われたら?
このような類の限界状況を考えれば、行為としてのセックスに、不可能はあまりない。
目の前で二人、三人、と殺されていけば自らを狂信的異性愛原理主義者だと言っている人でも、同性とでも家族とでもセックスする方を選ぶことが多いだろう。
肉体的にセクシャルな関係、など所詮その程度のものなのだ。
そもそもインセスト(近親相姦)タブーや制度としてのエクソガミー(外婚)が存在するのは、我々人間が血のつながりなど関係なく、手近な人間とセックスできてしまうからだ。
原始社会においては乱婚が当然だったし、社会によっては未だにエクソガミーを禁止していないところもあり、そこでは近親婚が当たり前のように行われている。
それでも現代日本に住む私達は家族とは普通セックスなどしない。
ヘテロセクシャルな例で言うならば、娘にべったりされた父親は「親密フラグ立ちまくりでたまったものじゃない」はずなのに、裸で一緒に風呂に入ってもセックスしないのだ。
なぜなら私達は、そのようなタブーや制度を『お互いが暗黙のうちに受け入れているものと信頼して』家族という集団を形成しているからだ。
ちなみに私は一度だけ、男性の友人の布団が敷かれたままのワンルームマンションに、終電がなくなるのを承知の上で、ひざ上のスカートで入っていったことがある。
なぜなら「翌日提出の卒論がPC以外で受け付けないっていうんや!」と泣きつかれたからだ。
終電がなくなるまでにパソコンを運び込むことに気をとられていて、洋服のことなんてまるで考えが及ばなかった。
お互い顔をつきあわせて「こんな文字、手書きじゃ教授だって読めないよ!」と叫んだり、私のすぐ横でパソコンの画面を覗き込んでは「打ち間違えとるで」「うっさい!!」とか大騒ぎを繰り返し、半分に折り重ねた布団を横にしたまま、作業は3時間ほどで終わった。
つまり、親密フラグを3時間くらいかけてたてまくったあげく、朝までセックスをするだけの余裕は十分にあった。
それでも私達は「じゃあちょっとついでに乗っとくか」みたいなセックスはしなかったし、今でも普通の友人だ。
そして、その状況と同じことになっても、世の中のほとんどの男女はセックスしないと私は信じたい。
でも、「親密フラグ」のコントロールができる人間にのみ、性的欲望の対象となりうる関係性での友情を得ることができると考えるのは、信頼を前提とした社会に生息する人間としては、原始的な欲望を優先させるものの見方にわりと近いような気がしてならない。
肉体の距離を第一の判断基準として、精神を劣後させるような記述は、相手が一人の人間である以前に物体だという考え方をとる人間が増えていることのような気がして、あまりにも哀しい。
「セックスを100pだとしたら、いきなり一人の相手から100pを得る必要はない。それは難しいチャレンジだ」
というのが個人的に気に入ったよ。
誰かに少しふれたら10p、手をつないだら30pというように
小さいポイントを稼いで気持ちを満たすところから初めてみるていうかんがえかた。
(詳しくは岡田さんの本をご参照ください)
あなたが対人恐怖症だったりして心底人に触れるのが苦手だったら無駄なんだけれど、
もし触れるのが大丈夫だったら
按摩・マッサージにいってみるってのはどうだろう。
凝りがほぐれて気持ちよくなるし、人肌に触れるというのは安心できることだと俺はおもうから。
自分は優しいお爺ちゃんお婆ちゃんに揉まれるのが好きです。
なかなかこういうセクシャルな話って議論だけだと空転してしまうから、
小さくキモチいいチャレンジをしてみるのは有意義じゃないかなー、とおもってみたりします。
そうして身体のことが少しずつ分かってくると、少しずつ考えが進むかも、とか偉そうに言ってみる。
考えが進めば、自分の性欲について苦しんでいる人と話しやすくなる気がします。
もう一生女なんて信じない関連。
pal-9999の日記 - セックスする友達というのなら文句は言わんがのはてブコメントとか読んでて納得いかなかったので書いてみた。
http://www8.plala.or.jp/psychology/topic/personal.htm
腕を伸ばして届く範囲ぐらいが「親密なスペース」と呼ばれ、フツウは恋人や家族のような「触られても気にならないほど親密な関係」以外の人に入られると不愉快に感じる。
反対に、そのスペースに入るのを許すことは「あなたと私は親密な関係だ」と暗に認めていることにならないだろうか。相手に自分の「親密なスペース」に入ることを許すこと。これを仮に「親密フラグ」と呼ぶことにする。
一人暮らしの部屋なんて、大抵はワンルームでベッドがある。私はベッドがある部屋だって十分に「親密なスペース」だと感じる。学生時代、同性の友人の狭い部屋に招き入れられた時でさえ、私の気持ちは妙に高揚したものだ。友人の「親密フラグ」を感じ、自分が彼女にとって「その他大勢の友達とは違う特別な存在」と感じたからだ。
思春期に、同性をやたらに「親密なスペース」に入れたがる時期っていうのがある。
中学生ぐらいになると、遊ぶといえば誰かの部屋で、何するでもなくマンガ読んだりファミコンしたり延々とコイバナやエロ話をしていたものだ。このように青春の一ページでは、同性に「親密フラグ」を立てまくっては、大喧嘩したりいじめがあったりと何かしらの失敗がある。
しかしハイティーンになるにしたがって、その「親密なスペース」の開放を、グループではなく1対1の関係(多くは男女交際)に求めることが多くなってくる。(男の子の場合、体育会系クラブや会社など、いわゆる「ホモソーシャル」な組織への従属ってのが挟まることもある。)この「親密なスペース」を限られた人にのみ許す、という変化は、1対1の親密な関係を築けるようになる、というごく当たり前な精神的成長の一側面と捕らえることができる。
しかし中には、この精神的成長の途中でなぜか、「親密なスペース」をお互いに許しあってこそ友達だ、という考えに到る人たちがいる。
「友達なんだからいいだろう」と、非常識に部屋に居座ったり、ベタベタ触ってきたり、お金などごく個人的な部分でルーズに寄りかかってきたりする人たちを見ると、一人一人の「親密なスペース」には結構差があるんだなあ、と感じると共に、1対1の親密な人間関係を築く方法を身に付けきれていない「未熟さ」を思わずにはいられない。
惹かれる心というのは本能的な感情だと思う。自分の命を守る上で欠かせないと感じる人に出会ったとき、どうしようもなく人に惹かれるのだと思う。これは性別に関係のない感情なのではないか。相手を必要だと思い、もっと近づいて親密になりたいという願い。これは、最終的には肉体的接近を伴うものであろう。異性であれば子を成したいと願うし、同性であれば群れを成したいと願う。同性同士での性的行為に及ぶことも、人間だけではなく様々な種でしばしば見られることである。
人間であれば、そこに文化的な装飾が絡んでくる。
異性愛が推奨される文化の中では、同性同士で一定以上の肉体的接近に到ることは少ないだろうし、一夫一妻の文化の中では、一度に複数の異性に惹かれることを文化的にタブーとする。
つまり、「惹かれる」という非常に本能的な感情を、わたしたちは「恋愛」という文化で解釈することにより、日々の人間関係を営んでいるのではないかと思うのだ。
この「恋愛文化」の解釈モデルをドグマとして信望するあまり、本能的な振る舞いを許容できなくなっている人が多いと感じる。「好きになったらあなただけ。他の人にときめくなんてありえない」というドグマにとらわれすぎて、たまたまときめいちゃった時に「このときめきは本物」とかいって恋人や家族を捨ててどこかへ飛んでいってしまうようで、解釈に振り回されるというのはとても不自由そうなものだと感じる。
「親密なスペース」を許すこと、すなわち「親密フラグ」を立てることは、これから親密な人間関係を築こうとする二人にとって、非常に重要なコミュニケーションになる。お互いの「親密なスペース」に侵入しあうことなしには、性的関係に到ることはできない。翻って「親密フラグ」を立てるということは、やはり性的関係に到ることへの実質的な許可と捕らえられてしまっても、やはり仕方がないのではないだろうか。
腕に絡み付いてきたり、平気で男の子のワンルームに上がり込んだりする女の子は確かに存在する。彼女達の多くは、おそらく「親密なスペース」に入り込まれても拒まれない、つまり相手の「親密フラグ」をもぎ取ることが気持ち良いのではないかと思われる。彼女達はその関係に、必ずしもセクシャルな関係を求めない。中学生時代に同性の友人と共有したような、「親密で楽しいだけ」の関係を求めているように見える。そういう意味で、彼女達の「親密な関係」は未熟なものであると言えよう。しかしそれは逆に言うと、「親密な関係」に「セクシャルな関係」を求められることを苦痛に感じている、とも解釈できる。
しかし、これをやられるとたまらないのは男の方である。彼女達はどちらかと言うと「親密なスペース」に保守的な男の子を狙うことが多い(決して意図的ではない)。突然かわいくてやわらかくていいによいの女の子が「親密なスペース」に入り込んできて、とても楽しそうにする。普段立てたこともない自分の「親密フラグ」を、立たされっぱなしにされるわけだ。彼らは振り回されながら、遠まわしに打てども響かない彼女達の「親密フラグ」を信じ、耐え切れなくなってセクシャルな関係を求め、玉砕する。
「あなたがそんなことを考えていたなんて信じられない」「ずっと友達でいたかったのに」「もう二度とあのころには戻れないんだね」といったメガトンパンチに、再起不能になってしまう人もいる。中には、男は完全に同意のつもりであったのになぜかレイプで告訴されてしまう、と言うケースもあるだろう。(だからってレイプが正当化されるわけではないが)
こんなウサギさんばかりでは、純真な狸たちはますます恋愛に怯え、親密な関係を築けなくなる。
男女の友情は、成立するのだろうか。私は「成立する」と断言したい。
そのためには、まず、本能的に「惹かれる」と言う感情を認めることだ。世に「親友」と呼ばれる人たちの間には、どのような形であれ「惹かれあう」感情が存在するだろう。男女であれば、惹かれあった末の「親密な関係」は性的関係を惹起する。これは動物として仕方のないことだ。
友情に「親密フラグ」はいらない。「親密フラグ」がなくたって、十分に友情を育むことはできる。人生を語り合って、楽しい思い出を共有して、つまづいた時には手を差し伸べあうことができる。
「親密フラグ」さえたてなければ、男女の友情は成立する。すなわち、1対1の人間関係において「親密フラグ」をコントロールできる人間にのみ、男女の友情は許されるのだ。