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2023-05-30

anond:20230530151516

1995年まれだけど分かるよ。なぜなら生まれた年に阪神淡路大震災地下鉄サリン事件があったって何度も言われたから。

就職してからは「Windows 95と同じ!?」っておじさんから言われることの方が多いです

90年代後半の「暗さ」って若い世代には伝わらんのだろうなぁ

いや、「平成レトロ」とか言われているの見てそう思ったのよ

なんかファンシーカラフルなだけなのよ

実際の平成はぜんぜん違ったよなぁ

阪神淡路大震災地下鉄サリン事件神戸連続児童殺傷事件って暗い話題ばっかだった

ワイドショーはいつも援助交際、心の闇、エアマックス狩り話題

流行ってたコンテンツエヴァとかリングとかサイコサスペンスものとか、暗いものばっかり

大学で一番人気の学部心理学部でみんな内向きだった

小室サウンドとかモーニング娘とか、ああいうのは全部空元気だったんだよな

そこらへんの文脈がごっそり抜けて明るくカラフル時代だったと振り返られてもね

あの頃の空はいつも灰色で薄暗かった気がするよ

この感じ、リアルタイムで生きてたやつらにはわかるよな?

2023-04-23

彼氏は、寝ているときも私のことが大好き。

彼氏は私のことを世界いちばん好き。

それがすごく伝わってくるから、一緒にいるととても安心する。

 

彼氏は、寝ているときも私のことが大好きだから

多分眠りの浅いレム睡眠ときに私の腕とかが彼の体にあたると、

自分の手を伸ばしてぎゅっと握ってくれたり、抱きしめてくれたりする。

 

彼があっちを向いて寝ているとき、私が彼の背中にペタッとくっつくと、寝返りを打って私を抱きしめてくれる。

彼が仰向けになっているとき、おなかにペイッと手を置くと、自分の手をそこに持ってきて手をつないでくれる。

どれも起きてるのかと思ったら、全部寝てるらしい。寝ぼけててそのまま忘れてるとかはあるかもしれないけど。

 

あと、なんか一回、一緒に寝てたら真夜中に「本当にかわいいなあ!もう!」と叫びだして抱きしめられたことがある。

本当に突然叫んで抱きしめられたので「ナニ!?」となったけど、翌朝聞いたら「オレそんなこと言ってたの!?覚えてない」って驚いてた。

普段からそういうことはよく言ってくれるしよくハグしてるから違和感はなかったけど、

いつもよりワンオクターブ高い声で叫んでたのがすごく印象に残ってる。っていうか寝ててそんなハッキリ寝言言う人、久しぶりに見たよ。

 

それから付き合いたての頃、彼はなぜか私のことを「ふたりで寝たら絶対にベッドから落ちる」と思い込んでいた。

(落ちたことないと言いたいところなんだけど、人生で一回だけ友達旅行に行ったときに落ちたことがある。その一回だけだけど)

そのせいか、私が真夜中にトイレへ行こうとゴロンと体を転がしてベッドから降りようとしたら、

その瞬間に彼がハッと起きて私の体をグイッと引っ張ったことがある。

青ざめた顔で「落ちるかと思った…!」って焦ってたけど、寝てたはずなのに!?ってすごく驚いた。

 

その姿が、何だか阪神淡路大震災ときに、起きた瞬間まず私のことを引っ張って覆い被さってくれた母の姿と重なったのだ。

 

当時の私はちいさくてかわいい未就学児なのでその瞬間の記憶しかのこっていないのだけど、

揺れで起きるとかでもなく、ただ気がついたら母親の体の下に収まっていた。それだけ強烈に覚えてる。

私が揺れてる…って思うよりも前に、母は私を守ってくれた。

 

彼が私を「落ちる!」と思って全力で引っ張ってくれたとき、あのとき記憶がふと蘇って。

それで、「この人は、本当に私のことをこの世界いちばんに想ってくれているのだな」と、そのときすごく実感した。

 

無意識レベルの愛を何度も感じるうちに、彼と過ごす時間がとても安心できるものになっていった。

私は、母親が私(と妹)が世界いちばん好きなのをよく知っている。彼の愛は、非常にそれと近しいものがある気がする。

「この人は、私のことが大好きなんだ」彼と過ごしていると、何故か、心からそう実感できる。

 

すごく重たいとかではまったくなくて、私には彼の愛がとても居心地いい。

彼の大きな体にすっぽり収まっていると、このままずっとこうしていたいな。

このままずっと時間がとまればいいのにな。

このまま隕石が落ちてふたりで一緒に死んじゃったら、それはそれですっごく幸せなんだけどな。

なんて考えてしまう。

 

こんな気持ちは、人生ではじめてだ。

しかすると、お母さんに毎日抱っこされていたうんと昔に、同じような気持ちを持っていたかもしれないけれど。

 

彼にお母さん的な要素を求めているとかはぜんぜんなくて、ただ、それに近い大きな愛をもらえていることが、すごく嬉しくて、心地いい。

 

「この人は、世界いちばん私のことが好き」

そんな風に思える人が、この世界存在していること、私はとっても嬉しいし、有り難いし、ずっといつまでも大事にしたいなあ。

2023-03-13

anond:20230311085306

以前tefu氏が東京の人たちが阪神淡路大震災の日付や時間を知らないことに驚いたって言ってたの思い出した。

https://twitter.com/tehutehuapple/status/688564311875137537?s=20

2023-03-11

anond:20230311085306

以下のくだりが、とても印象的だった。

その時にわたし出身地名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

恥ずかしい話、「神戸出身から」と言われて私は何も分からなかった。

私は自分地震津波被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。

「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。

その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。


ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。

自分けが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。

ただ、被害者という言葉共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災経験したひとと、東日本大震災経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの

多分、増田上記言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。

ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマ性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北もっとも大きな漁港ひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。

しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。

父は東北我が家家系からすると、よそから婿養子だった。

その父が他界した親戚をふりかえってぽつりとこうつぶやいた。

「あれは天罰のようなものだったんだろうね 」と。

期待していない予想外の冷徹つぶやきに私は動揺した。

他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年津波の前から漁港生計を営んでいた。1933年津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。

大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉自身のつらみを含ませて表現したのだった。

父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情

個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。

たとえ、誰と震災経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。

震災経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。

こうしたファミリーヒストリー視点でそれぞれの思いがある一方で、

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。

という上司言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロ視点での気づきをもたらすのも災害だ。

そして、それが何かの理由で、自分自身ファミリーヒストリー神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分ある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。

実をいうと、よりマクロ視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性被害を増幅させている、という視点最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。

1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理文脈で救援対象として、比較ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市社会構造脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災自分仕事として防災世界に入るきっかけを作った。

ざくっとまとめると以下のような歴史神戸にはある。

神戸都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入低所得層脆弱埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀鉄道時代に入ると、阪神間交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地住宅地建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代都市生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸産業シンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者低所得者ばかりとなった(インナーティ形成)。

これに対して1980年代神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設物流機能強化のための明石大橋建設最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。

その一方、社会脆弱層への支援行政による市街地再生は後手に回っていた。

オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地長田区スラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったか番町地区検索をしてほしい。

このような経済格差脆弱性が生み出された、マクロ構造変動のなかで襲ったのが1995年大地震であり、被害社会経済的脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。

社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害高齢者低所得者に集中したのは、ある意味歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロ政治的経済的な動向と切り離せないということだ。

そして、このような格差脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコシリア大地震でも、当てはめることができる。

このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。

パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。

また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロ特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっと重要エントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。

からトルコシリア現在進行形震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロ視点で、特定家族地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGO支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係SNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分支援したお金支援先の一家族あたりの支援額(しか第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。

そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

というのは、居酒屋トイレ洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。

災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。

2023-03-07

anond:20230306194400

NGONPO監査はどうあるべきなんだろうね。

自分大学生だった2000年前後NGONPO役割社会学でよく取り扱われるテーマだったように思う。

一般教養社会学概論の授業ではテンニースゲマインシャフトゲゼルシャフト概念を習う。要は共同体相互扶助地縁血縁を同じくするもの助け合いから近代では国家公的機関が再分配の一部として行うものに移行したというお話だ。

しかしながら現代では、公的機関による直接の福祉には問題が多いことが顕在化している。それは例えば、支援必要な分野がそもそも議論されていないという議会問題であり、縦割り組織の合間の部分で押し付け合いになるとか、定期異動のため分野の知見が蓄積しづらいとかの官僚組織問題であり、あるいは「小さい政府志向」の広がりで大きな予算公務員を拡充するのが難しいなどの問題である。それを埋める役割を期待されていたのが「NGONPO」だ。

例えば「災害ボランティアネットワーク」のような組織はその好例だ。阪神淡路大震災ボランティア経験者などが立ち上げて、当時の経験から志願者と必要作業物資の整理と割当、地方自治体関係省庁との窓口一本化など、ボランティア活動を円滑に行うための知見を蓄積する団体となり全国組織化、中越地震東日本大震災ではおおいに活躍した。

都道府県市区町村でこうした知見の事前蓄積や準備は難しい。こうした事業NGONPOの方が効率よく運営できるし、国や自治体も自前で福祉を行うよりも彼らに任せて金を出す方が楽だし効率的だし安価に済むことが多いはずである

まだ行政タッチしていない福祉必要な分野で有志がNGONPOを立ち上げて活動し、賛同個人企業寄付の他に、自治体に招かれての講演や研修活動の対価、依頼された役務の対価で活動のための資金を得ることは健全かつ社会に期待される姿だ。これがゲゼルシャフト後の福祉のありかたであると。

そして、内閣府資料(https://www.npo-homepage.go.jp/about/toukei-info/ninshou-seni)では、国の認証NPO法人数は年々増加、平成23年3月で198から、令和五年で1267となっている。今後もこの増加傾向は間違いなく続く。このようにNGONPO社会要請に沿って出てきたもので、実際に役に立っている組織は多くあるので十把一絡げで叩くのは大間違いだ。しかし、その活動を見張らなくてもよいというのも大間違いだろう。明らかに不要支出を払うとか、活動内容自体違法性がないかなどのウォッチは行われるべきである

だが、増え続ける組織に対して、今回の騒動のように主に非専門家が隅から隅までチェックしてああでもないこうでもないとやるのはエネルギー無駄であるし、いか効率よくこうした法人監査ができるシステムをつくるか、が今後の課題になる。実際の行政がどうなっているか全く詳しくないのだが、NGO/NPO運営監査にまつわるDXの議論って今どうなっているのだろう。

例えば、定時の活動報告が提出しやすシステムであるとか、報告の記載内容・添付資料の良い例/悪い例であるとか、報告資料デジタル化の自動化とか、被支援者の個人名を自動匿名化プログラムだとか、申請できる/できない費用の詳しいガイドラインの配布であるとか、公的機関から監査対象機関への調査AI支援するとか、NPO専門の税理士を増やすとか、組織に対しての研修であるとか・・・

そうした方面を拡充するアイデアや実現可能性の議論が広く行われると良いと思うんだけどな。

2023-01-19

阪神淡路大震災女性が多く亡くなったか女性差別!

みたいな事を天下の大新聞社民党の副党首放言しているのを見ると

男と女同人数亡くなってたら良かったのか?男の死者数が多かったら良かったのか」とか

女子供から救助優先されてたのに自衛隊に失礼だろ」とか

そもそも人口比率や年齢等から考えると当然では?」という、人として当然に出てくる疑問は置いといて

こんな獣心人面暴言放言しても女性場合スルーされるし特に処分もされないしこれもまた「男達に攻撃された!女性差別!」って被害者面するんでしょ?

という絶望がある。


こうなると、女性ってやっぱり要職特に人の命に関わる(直接的・間接的)ような業種の長に就けてはいけないってなっちゃうよね。

感情的男性差別して「女性子供が最優先!男は助けませ~ん」ってやりかねないもの

だってそういう事でしょ?

今の所女性から特に反論意見は出てないからね。

同意するアルファフェミ追従する雑魚フェミ反論しないって事は、阪神淡路大震災女性が多く亡くなったか女性差別だし男の方が死ねば良かった!

ってのが女性の大多数の意見なんでしょ?


これでよく男性社会だの女性差別だの言えたものだよね。

差別しているのは女性達です。マジョリティ加害者だ。

2023-01-18

anond:20230118011244

昨日が阪神淡路大震災だってすっかり忘れてたわ

なんかTVネットでもたまたまかもしれないが見なかったし

1/17ってカレンダー見て「なんかの日だっけ?ん?記念日?」みたいな感じでやっと思い出した

中部地方在住だと阪神淡路大震災東日本大震災もふんわり体験なので忘れやしないけどなんか微妙な感じ

中部地方ってかぶっちゃけ愛知県民なんだけどさ。

阪神淡路大震災の時、住んでいるあたりの震度は確か2か3だった。

やべー速報映像を尻目に登校し、クラスメイト

「起きた?」「いや寝てた」「信じらんねー」「高速倒れてるのビビったよなー」

みたいな能天気な会話をしたはずだ。

俺にはたまたま兵庫在住の親戚がいたので、震災の翌週末だったかな? お見舞いに行ったのだが、具体的に何駅だったか忘れたが、電車がギリ動いてた駅から親戚の家まで3時間とか歩いた。

歩く途中で見た瓦礫の山は流石に忘れられないし、親戚の家・家具にもそれなりの被害があって大変そうだったが、本人たちは元気だった。

あと、同学年で一人か二人、親戚がお亡くなりになったみたいな奴がいた気がする。

俺にとっての阪神淡路大震災とは、決して忘れることは無いが、その程度の思い出である

らくだが、直接の家族・親戚がお亡くなりになったとか、あるいはもう働いていて関西支社・支店とか取引先がどうこうとかいうような人を除いて、大多数の愛知県民にとっての阪神淡路大震災ってこんなもんだと思う。

一方、東日本大震災はどうか。

確か震度3だったと記憶しているが、ちょうど仕事の休憩中で、取引先の営業マン

「今のけっこう揺れましたよねー」

とか話していた。個人携帯仕事中に見られる環境じゃなかったし、テレビもない場所だったから、まったく情報を把握していなかった。

夕方になって事務所に戻って、その時初めて「やべー地震だったんだ」と知った。

その後、主にニュースで流れたショッキング映像の数々や原発関連のあれやこれやは、10年以上経ってもそれなりの生々しさと共に思い出される。

東北の支社が大変だけど素人が行ってどうこうできる状況じゃないから、まずは自分たち職場東北の分まで働こうみたいな訓示があったような。

既にTwitterとかはあったか東北在住の知り合いにカンパしたりした。いきなり連絡つかなくなって、多分お亡くなりになったのであろう知り合いもいた。

俺にとっての東日本大震災とは、決して忘れることはないが、その程度の思い出である

今年、主に関東東北方面東日本大震災被災者にとって阪神淡路大震災はもう忘れられてるというか震災東日本大震災みたいな投稿を何件か見た。

中部地方在住俺、どっちも忘れてないし被災された方はそれぞれ大変だったよなあと思うのだが、身の回りでどっちも大した被害もなく過ごしていたので、なんか微妙な感じ。

万が一にでも起きてほしくないが、南海トラフって生き残れた場合には、俺の中でも震災南海トラフということになるのだろうか。

阪神淡路大震災当日に産まれ

今日阪神淡路大震災の日を神戸で過ごした方の投稿を見てふと思い出したことがある。

私は1995年1月17日阪神淡路大震災の当日に産まれた。

ただ、産まれ場所東京でその後12年間を都内で過ごした。

12歳になった頃、親の転勤で兵庫県神戸市に引っ越した。

メアド交換をする際にアドレス帳誕生日登録することがよくあったり、赤外線通信メアドを交換すると自分で設定した誕生日がそのまま向こうにも登録されることから相手自分誕生日が伝わることが多々あったのだけれど、私が1995年1月17日に産まれたことを伝えると、皆口を揃えて「震災の日!?」と驚いたような反応をしていた。

その後驚きは好奇心に変わるようで、どんな状況で産まれてどうやって震災を乗り越えたのかを矢継ぎ早に聞いてきた。

私はその度に申し訳ない気持ちになりながら「産まれ神戸じゃないんです、東京なんです。」と答えていた。

すると相手は突然興味を失い「そうなんや」とか「なんや」とか言ってこの話を終わらせた。

他の誕生日の人は「〇〇と誕生日近いやん!」とか「有名人で誰と誕生日一緒?」とか言われてるのを見ていたから、中学生だったこともあって毎度少しへこんだ。

これは大人たちも同様いやむしろ私にしてみればもっと冷たく感じられて、私が誕生日を伝えたあとに東京出身であることを伝えると、「じゃあよかったな」のような、震災過酷さを身をもって知っているからこそ、知らない者を部外者として扱うようなニュアンスの反応がよく返ってきていた。

どう表現したらいいかからないがとりあえず、私の身を案じて「危ない目に遭わずに産まれることができてよかったね」と言ってくれている感じではなかったのだった。


さっき読んだ投稿にもあった「しあわせはこべるように」という曲は転校先の学校でも毎年歌われており、その後黙祷を捧げるのがお決まりだった。

そんな空気から、登校しても他の友人たちと全く同じようには祝ってもらえず、なんかしんみりした誕生日を毎年過ごした。

もちろん、誕生日ではなくて私自身の問題で友人たちのように祝ってもらえなかった可能性もあるかもしれないけれど、、、

それにしても、12歳になるまでの誕生日は周囲からの邪気のない祝福も含めてクリスマスと同じくらい明るく楽しい日だったのに、12からの数年間は全く違うものになってしまったと感じていた。

こんな体験を重ねるうちに、私は極力誕生日他人に伝えないようになっていった。

最初から東京で産まれたので震災とは関係ありません」と言えればいいのだが、誕生日を聞かれただけなのに「東京まれであることも自分から伝えるのは嫌な奴だと思われそうでできなかった。

当時すでに、阪神淡路大震災被災者のことを思えばこんな感情を周囲に吐露することも憚られるだろうという分別も流石につく年頃だったので、今までずっと誰にも話さずに生きてきた。

18歳からまた東京に戻ってきたので、しばらくそんなことも忘れていた。

今日読んだ投稿で当時のことを思い出し、「震災がなければ一緒に大人になっていたかもしれない人の存在をふと思うことがある」といった主旨の文言を見て、「あの時の大人は私との会話の中でそういった人たちを思い浮かべてたんだろうなあ」とひとり合点した。

なんとなく書き留めておく。

2023-01-17

阪神淡路大震災

今年も今日がやってきて、

毎年の今日の日に必ずやっている防災グッズのチェックをひと段落して、ぼーっと夜のニュースを見ていた。

28年も経つと、気付けばもう全国ネットニュースでは取り上げられることすらなくなったんだなぁって

こうやって風化していくんだなぁって、なんか初めて気がついた。

今の若い子の中には、そもそも関西あん悲惨大地震があった」ことすら知らない子がいるらしい。

そりゃそうだよね、もう四半世紀以上前の話なんだから

かくいうわたしも、幼すぎて当時の記憶はないんだけど、神戸人として、今日という日は忘れられない。

傷ついた神戸が元の姿に戻れているかと言うと、難しいと思う。

見た目はだいぶ回復したように思うが、経済的な損失は計り知れず、人口減少も続いている。

でもみんな、亡くなった方々の分も、きっと大切に生きてるんだと思う。

今日という日を忘れずに、命を大事に、毎日大事に、生きていかないといけないね

しあわせ運べるように。

anond:20230117130136

釧路沖地震 1993年

都市防災被災軽減の例として、阪神・淡路大震災後の神戸市の復旧ではモデルケースとなった。】とあるから阪神淡路大震災を1/17に記入するなら是非。

2023-01-12

anond:20230111230734

知人の同級生小学生メキシコ大地震経験して帰国関西)。

阪神淡路大震災経験

東日本大震災上京していた東京経験

という話を聞いた時、いるんだなって思った。

あと、関西出身仕事利尻新潟大阪経験したって人もいる。

なんだろうね。

今日、30歳になるオタ。

俺も、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、千葉県船橋あたりで生活していた。千葉県カスだ。東京まで微妙距離のせいで、逆にオシャレを履き違えているやつらだらけ。茨城ゴミ共もいるおかげで、余計に田舎者ムードは高まっていた。特に地元船橋民が嫌いだった俺は、三国志大戦などをやるためにわざわざ津田沼エースまで行っていた。今思うと津田沼津田沼ゴミみたいな街だったが、船橋よりはマシというところだろうか。あと、俺はオタなので秋葉原微妙に遠いのが嫌だった。総務線で一本とはいえ微妙に遠い。かといって千葉のオタショップはやはり、品揃えの面で大きく劣る。飲食店は何一つとしてとりえのない、個性のない「退屈な街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があったのか覚えていない。競馬場はあって、薄汚いおっさんが娘の給食費無駄にするために通ってきていた。市立船橋高校スポーツが盛んで、イキリ散らした民度の低いカスみたいなスポーツマンたちが船橋不快な街に育て上げていた。あと、船橋高校のゴミもももっと渋幕とかに行けばいいのに頭いいような面してイキリ散らしながら歩いていた。自然豊かといいつつそれは小室かい飛び地の話で、友達がそのへんの団地に住んでいたのだが、子供心に「こんななにもねえ田舎に住んで何が楽しいんだか」と考えつつ、スマブラをやりに行っていた。俺も競馬場に通うおっさんたちと同じ、人生無駄にするのが好きな人間だったと言えるだろう。

小学校の時は色んな道徳教育を受けた覚えがあるが、ある日、うちの親戚のおっさんが登壇して「阪神淡路大震災記憶」を語っていた。俺は幼心に、いや、お前関西住んでたっけ?と思ったが、無事に講演は終わり、無意味感想文などを書いた。のちに親戚の集まりで、おじさんは講演会の人が来れなくなったので代打で登壇したと聞かされた。「わかりゃしねえよ」とのことだったが、まあどうでもよかったのでそんなもんか、と思い今日まで忘れていた。俺と震災には深い結びつきがあったと言えるだろう。

高校生にもなると、俺は自由だった。エスカレーター式の東京学校入学していたので、誰も受験勉強なんかはしていなかったのである。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。そう。割れ厨であるエロゲ音楽無料あるいは格安で手に入れてくれることは後輩の俺達にもすぐに知れ渡った。サブスクの走りみたいなものだ。ちなみに、その先輩は生徒会長だったので、なんか体育祭で頑張った的なスピーチをしていたことを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

震災当時、俺は秋葉原にいた。試験も終わり、余裕綽々でカードショップ萌え萌えスリーブを買い漁りに行っていたのである。その時、震災が起きた。スリーブはあたり一面に散らばり、混乱の中、店員さんに言われ、店の外に出た。駅に行くと、そこには人が沢山いた。だがしかし電車は動いていなくて、そこで東北で大震災があった、という情報を聞いた。

震災なんてものはどうでもよかった。ただ、俺の心配は家に帰れるかどうかだった。録画していなかったのだ。その日、放送される「まどか☆マギカ」を。深夜だしリアタイ視聴余裕という慢心があったのだ。しかも、当時は確かものすごく盛り上がる10話の放送を控えていた時で、まどかを見られるかどうか、というのは俺の死活問題であった。あと、まどマギとか略すやつは当時のオタ仲間の間ではにわかの象徴だった。

さらなるハプニングが俺に起きた。ゲームのやりすぎで俺のガラケーは充電がなかったのだ。その上、萌えスリーブを買いすぎていたせいで、財布には100円の金もなかった。コンビニで充電器も買えやしない。もちろんクレカキャッシュカードなんて持ってなかった。電車が動く気配はない。俺は、仕方無く歩いて帰ることにした。ぞろぞろと、他の帰宅難民秋葉オタクたちと共に。

途中で、公衆電話を見つけたので、並んで家族に無事である旨を伝えた。だが、当時オタバレを嫌っていた俺はプライドから、録画を頼むことはできなかった。まどかマギカくらいで何を、と今の世代は思うかもしれないが、当時はまだオタ差別は著しく、まどかマギカなどという萌えアニメを見ていることがカミングアウトできなかったのだ。

数駅くらい、歩いたところで俺の体力は尽きた。帰るのがダルくなったと言ってもいい。周りの人間たちから漏れ聞こえる被害状況を聞くに、心のどこかで動くと思っていた電車も、動かないことがわかってきたからだ。俺は近くのスーパーでなけなしの金でバナナを買って、フードコートの水を飲んで飢えと乾きを満たした。まどかマギカの10話が見られるかが心配で、その次にそもそも今日、どこに泊まるんだ?という思いがあった。

ということで、俺は近くの駅のポッポ屋さんに聞いて、避難所小学校を紹介してもらった。たどり着いたのは、夕方ごろだろうか。そこには、俺と同じ帰宅難民リーマンが何人かいた。俺が一番若くて、寝床マットレスを運んだり、先生たちの手伝いをした。教室備え付けのテレビで、炎に燃える気仙沼を見て「関係ねえな、明日仕事行かなきゃ」と語っていた、リーマンのおじさんの茫漠とした表情をよく覚えている。夕飯は乾パンだった。

夜。少し冷静になって。俺は件の割れ厨の先輩のことを思い出した。学校近くの公衆電話からまどかマギカの録画を頼むために、俺は駆けた。「大丈夫だよ増田くん。MBS版はもう放送されてるからね。違法うpされたデータ回すよ」。先輩は、相変わらず元気そうだった。俺は大いに安心して、また気仙沼火事を見に学校に戻って、ちょっとまた先生たちを手伝い、制服のブレザーをかけて、教室で眠った。

翌日、なんとか帰宅したが、普通にまどかマギカは10話以降放送延期になった。あ、あと親戚が2人ほど死んだ。例の阪神淡路スピーチをした親類もそこには含まれていた。

そして大人になったある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東北出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。親戚や家族が死んだこと、放射線関係差別されたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は東京から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。俺も被災者から分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。歩いて駅まで帰ったんやぞ、まどかマギカのために。と嘘をつくと、彼は気まずそうに「なんやアンタ」と呟いた。

彼は俺より少し年下だったから、もしかしたらまどかマギカのことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。劇場版から入ったにわかかもしれないし。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

俺は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った千葉ゴミクズだったと信じている。そもそも秋葉原から遠くなければ、俺も簡単帰宅してまどかマギカの録画云々なんて悩まなくてよかったし、千葉のオタショップの品揃えさえ充実していればよかったのだ。

俺も、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、Z世代氷河期世代両方から馬鹿にされる「最悪の世代」だと言われている。確かに地震は俺にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まあ今になるとまどかマギカとか大した作品じゃねえな、と冷静な評価を下すこともできる。でも、震災の時にふと過ったあの感情を、たまに思い出したり思いださなかったりするのだ。リーマンってなんで震災翌日も働くねん、という。

まああれだ。震災は一時のスリルというエンタメとしては面白かったが、アニメ放送延期からわかるように日常生活に大きな影響を与えるのは間違いない。

そして、俺は思うのだ。

震災さえなければ、もしかしたらまどかマギカの叛逆篇の続きも出てた未来もあったのかもしれない、と。

とはいえ、おかげでシン・ゴジラやすずめの戸締まりといった名作も生まれたのだから、イーブンといったところではないか…と。

2023-01-11

anond:20230111171031

私は、京都阪神淡路大震災にあって、茨城東日本大震災経験した。

私は2度も大きな地震の揺れを感じたので、死ぬまでならもう一度経験すると思っている。

私1人だけでも家のカギの入ったリュックを持って避難訓練に参加しているし、スマートフォンは肌身離さず持っている。避難訓練ならあった日は、家に帰って災害時なら集合場所確認してる。

増田のいう通りひっくり返った高速道路焼け野原ならなった町も、ルミナリエをやっていることだってだんだん忘れているけど、たぶん、忘れられないこともあってわたしは、避難訓練で1人リュックを背負っているのだと思う。

anond:20230111171031

ほんと東日本の連中にとって阪神淡路大震災って他人事だったんだなってな。

新海誠ですらそうだった

今日、30歳になった

私は、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地優雅建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町長田六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパス自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校勉強するのかな、なんて思っていたものだ。

私が小学校にあがる前のある日、父とふたり大学の中を歩いていた。ふと父が「父さんは今日こっちの道に行きたいんだ」と言って、普段は入らない芝生の中へ私を連れて行った。杉の木立の中には、小さな茶色の碑があった。父はその石碑の前で足を止め、静かに手を合わせた。「これは何なの?」と尋ねると、父はこの石碑が、阪神淡路大震災で命を落とした学生たちを追悼するための慰霊碑だと教えてくれた。銘板に刻まれ名前の中には、地元教員をしていた父の教え子がいるという。父は何十年も教員として勤務していたが、彼が家庭内で教え子の話をすることはほとんどなかったので、少し驚いた。

小学校にあがると、音楽の授業で「しあわせはこべるように」という歌を習った。この曲は阪神淡路大震災のことを歌っており、神戸市内の小学校では震災学習の一貫として習うのだ。たぶん、1995年以降に神戸市勉強した人間なら、誰もが諳んじて歌える一曲だろう。小学校でも中学校でも、毎年1月17日には黙とうを捧げ、校長先生お話を聞いた。ある年の学校新聞1月号に、同級生とその妹のことが書かれていたことも覚えている。2学年下に在籍していた彼の妹は、まさに阪神淡路大震災の混乱の中、1月17日、被災直後に生まれたという話だった。

高校生にもなると、「しあわせはこべるように」を合唱する授業はなくなった。進学校だったので受験勉強は忙しく、みんな志望校に入るため必死だった。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。先輩は部活でも目立っていて、関西の超有名大学への現役合格を果たしたことはすぐに後輩の私たちにも知れ渡った。卒業式の日に卒業生代表挨拶担当したその先輩は、両親を阪神淡路大震災によって亡くしたことをみんなの前で話してくれた。10年以上が経った今でも、あのスピーチを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

高校卒業すると、私は自分実家から一番近い大学に進学した。それは、子どもの頃から家族散歩していたあの学校だった。私の学部はかつて父と散歩したキャンパスからは少し離れていたのだが、それでも時々あの慰霊碑を見に行くことがあった。いつのまにか、私は父の教え子だったという誰かより1歳年上になり、成人を迎えた。成人式の会場に向かう途中のタクシーでふと「私たち、本当はもっとたかもしれないな」と思った。

大学卒業して上京すると、色々な地域出身のさまざまな年齢の人と関わりあうようになった。地元神戸なんです、と言うと、ほとんどの人が「おしゃれなところだね」なんて言ってくれるので鼻が高かった。しかし時々、50代くらいの人と話すと「震災の時、もう生まれてた?」と聞かれることがあった。生まれてたけど2歳になりたてで記憶はないんです、と返すとだいたいそこで話は終わるのだが、ごく稀に「実は僕は当時大阪に住んでいて…」と、当時の記憶を話してくれる人もいた。

ある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東京出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。乗っていた電車が止まったこと。復帰のめどが立たず、線路を歩いて帰ったこと。その時、自分の前を歩いていたお姉さんが泣いていたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は関西から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。私も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。阪神淡路の時に2歳だったよ、と告げると彼は気まずそうに「そっか、そっちか」と呟いた。

彼は私より少し年下だったから、もしかしたら阪神淡路大震災のことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。小学校社会教科書にはきっと地震のことも載っていたはずだけど、自分高校生の時に体験した東日本大震災の方が記憶としてはハッキリしているに違いない。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

私は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った神戸はとてもいい場所だと信じている。街の中心部である三宮駅前には、かつて「神戸阪急ビル」という名のビルがあった。この辺りは震災で大きな被害を受けてめちゃくちゃになったという。街のランドマークだったというビルは取り壊され、それからずっと低層のビルが駅舎に繋がっていた。このビル2021年高層ビルとして生まれ変わり、震災前の姿を模した外観でリニューアルオープンした。私より年上の世代は新しいビルを見て「元の神戸の姿だ」と喜んでいたが、私には正直良く分からなかった。私が毎日のように遊んだ三宮は「仮の姿」だったのか!それでも、西洋風のモダン茶色ファサードは、「私の好きな神戸」の姿に近いような気がしていいなと思った。

私は今日、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、阪神淡路大震災記憶とともに生きる「最後世代」だと言われている。確かに地震は私にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まだ2歳になりたてだったから当日の記憶もまばらだ。でも、成人式の時にふと過ったあの感情を、誕生日のたびに思い出すのだ。阪神淡路大震災がなければ、私たち、本当はもっとたかもしれない。地元同級生は、実はもっと多かったのかもしれない。自分人生のどこかのフェイズで、あの時いなくなった誰かが私の大切な人になっていたかもしれない。

記憶も年をとる。誤解を恐れずに言うと、阪神淡路大震災のことは、これからどんどん忘れられていくだろう。神戸と縁のない人たちにとっては、もうすでに阪神淡路大震災のことは別の災害記憶に塗り替えられているかもしれない。はっきり言って、これはどうしようもない、誰が悪いわけでもない、日本に住んでいる限りは、大きな地震が定期的に起きることは避けられないのだから。でも、少なくとも私は― 傷ついた神戸の街に育ち、ゆっくりとその傷が治っていく中で青春を過ごした私は、これから阪神淡路大震災を忘れることはない。「最後世代」という言葉は、「私たちは本当はもっといたのかもしれない」とリアルに思える「最後世代」だということなのだろう、と今は思っている。30歳になった今日も、またふと考えた。私と一緒に年をとってくれる誰かが、本当はもっといたのかもしれない。

2022-11-21

anond:20221119214253

何言ってるんだ?

阪神淡路大震災を教訓に様々な法律改正されたから以降の地震被害が減ったんだぞ

特に熊本地震とかは過去基準じゃ無理ゲーだったよ

2022-11-20

この前12歳の女子と話したんだけど

東日本大震災、「聞いたことある」って言ってた

 

今の30歳くらいの人も多分阪神淡路大震災を「聞いたことある」んだと思う

anond:20221119214253

阪神と聞くと即レス岡田掛布バース連想してしまって地震のことまで思い至らない輩が多数だからだろうな。

あと阪神淡路大震災な。

2022-11-18

https://anond.hatelabo.jp/20221115003726

https://filmarks.com/movies/100650/reviews/144095222

「大震災絶対に起こさない」って草太が言ってたけど、ストーリーをそのまま解釈したら東日本大震災も、

阪神淡路大震災も、関東大震災も、ぜーんぶ人間努力が足りなかったから引き起こされたこであると言いたいんだろうか。

震災コロナ蔓延とも違えば地球温暖化とも違うし、戦争とも違う。人間の力ではどうしたって防ぎようがないことなのに。

実際は抗えない自然に抗って絶対にできない制止をフィクションで成し得ることが死者を悼むことや傷ついた人の慰めになると思ってるんだろうか。

日常から出発し、そこから最も遠い場所(死)まで行き、また日常に帰ってくる」ってのもひどい。

死が日常から最も遠い場所? そうじゃない、死を身近に感じた地震被災者の方々はどう思えば良いのこの言葉

2022-11-17

「すずめの戸締まり」を観たら要石で後ろから頭を殴られた

新海誠の新作映画、「すずめの戸締まり」を観てきた。これがどうにも周囲の人間に話がしづらいというか、未視聴の人に「どうだった?」と聞かれたときに応えづらい、しかし観た所感、体験だけは誰かと共有したい気持ちがすごくあるので書く。

この作品について語る上では、この映画が何を主軸に据えているかは避けて通れない。なので多少のネタバレ有りということは承知の上で一読されたい。

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この文章現在30代、11年前は20代前半だった人物が書いている。

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本作のあらすじを簡潔に書く。

九州に住む主人公少女すずめが旅の青年草太と出会う。草太は日本中廃墟にある「後ろ戸」と呼ばれる扉を締めて回る「締め師」だ。すずめはその草太との出会いをきっかけに後ろ戸の脇に埋めてある「要石(かなめいし)」と呼ばれる石を抜いてしまい、その結果後ろ戸が開き、中から現れる巨大なミミズ地震を起こしてしまう。(椅子になる呪いなどについてはここで書きたいことではないので省く。)

抜かれた要石は「ダイジン」という名前の猫になり、登場人物たちはダイジンを追う過程東北被災地を訪れることになる。

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これは2011年3月11日日本列島を襲った未曾有の災害東日本大震災を主軸に据えた映画だ。

いきなりテーマについて述べるが、「この映画が何を描いているか」は本作エピローグで草太の口からわかりやすい形で語られている。

「人々が失ったものへの無念、悲しみが忘れられ軽くなったところに後ろ戸は開く。」

一度しか観ていないので正確なセリフではないが、このような趣旨言葉が語られる。

「後ろ戸」とは現し世(現実)と常世(とこよ・霊界のような場所)を繋ぐ扉であり、そこが開くと扉から巨大なミミズが現れ(このミミズは締め師である草太、主人公のすずめにしか視認できない)、空から地上に落ちることで地震を起こす。

後ろ戸は廃墟にあるものだが、廃墟であるが故に、その地での災厄の記憶、失われたものへの想いは風化していく。そこには要石という石が埋めてあり、再び扉が開き災害が起こらないよう守っているのだ。

この映画は我々が体験してきた被災記憶が風化されないよう、呼び起こすような映画だ。そして未視聴の人に説明をするのが難しいのもそのためだ。

映画館に足を運んだとき自分は事前情報を全く入れずに行った。そして何となく映画を観始め、巨大ミミズ地震を起こし、物語舞台神戸へ移ったところで「おや」と思い、オープンカー首都高を経由して東北道へ向かい始めたところで確信に変わり、そして気付かされた。「忘れていた」と。

忘れていたわけではない。事実としてはまだ記憶に新しい。ただし映画の中で鳴り響く緊急放送津波で一掃された土地、そういったもの映画の中での情報感触は、普段触れる情報とは全く異なったレベル自分記憶を呼び起こすものだった。その点に関しては映画スタッフ美術演出の面々に感服させられた。

からこそ、「東日本大震災のその後の物語だ」ということすら知らずに観るべきだ。なのにここにこんなことを書いていることについては矛盾にもほどがあるのだが。それでも、あのはっとする体験は代えがたいものだったように思う。

その点からまずこの映画の良かったのは、テイザーや物語冒頭でわかりやす過ぎる形でテーマを明かさない点だ(それでも屋根の上に船が乗っているのだけれど)。これも意図した演出なのだろう。

これが少しでも YouTube予告編で明かされていようものなら、こんなに「観てよかった」と思うことはなかっただろう。

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この作品について語る上で、村上春樹短編集「神の子どもたちはみな踊る」、特にその中の一編「かえるくん、東京を救う」を避けては通れない。

こんな話だ。

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東京で働くうだつの上がらない銀行員中年男性が、ある日かえる出会い(「かえるくん」、とかえるくんは指を立てて訂正した)、かえるくんと共に地下に眠る巨大ミミズと闘い巨大地震を阻止する。その後男性は病室のベッドで目を覚ますが、傍らには闘いでボロボロになったかえるくんがいる。ふと気がつくとかえるくんの身体からボトボトミミズが現れ、男性身体ミミズに飲み込まれたところで、男性はその夢から覚める。

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こんなに似通えば嫌でも取り挙げたくなる。

この小説1995年日本で起きた阪神淡路大震災を柱に据えた小説である

1995年オウム真理教による地下鉄サリン事件と立て続けに起こり、日本安全神話が崩れた年だ。

作者である村上春樹は、この年を経て、地下鉄サリン事件関係者被害者へのインタビューを行い、「アンダーグラウンド」という書籍をまとめ、普段我々が当たり前と感じて暮らしているこの社会他者との関係性、足元の地面ですら、ありとあらゆるものが決して確かなものではないという危うさを看破し、小説への考え方について「デタッチメントからコミットメントへの転換があった」と語っている。簡潔に述べるが様々な関係性を一旦切り離して書くのではなく、コミット、深く関わっていく姿勢への移行だ。

氏はこのコミットメントについては、「日の光も届かない深い井戸の底へ降りていき、その中で手を取り合うような行為」というような言葉表現している。光の一切届かない暗闇、自身身体と周囲の空気現実と非現実境界曖昧になる。死に近い場所だ。

人の日常生活では感知し得ない深い場所心理、そういった部分で他者と手を取り合うこと。自分は氏の言うコミットメントをそのように捉えている。村上春樹はそのような時を経て2000年にこの小説を描き下ろした。

翻って本題の映画はどうだろう。いつも地の底に潜んでいる「地震を起こすミミズ」というモチーフ、すずめが自身ルーツである過去と向き合い、草太と再開を果たした、井戸の底のように現実霊界境界が危うくなる「常世」。何から何までが一対一対応というわけではないものの、通ずる部分があるように思えてならない。

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神の子どもたちはみな踊る」は善悪二元論ではなく陰陽論の物語集だ。

太極図、という白と黒勾玉が互いに合わさって円を作っている図を見たことがあるだろうか。

こんなのだ

白黒互いの勾玉の中心に、相反する色の小さな点が存在する。

善悪明暗などの世の中の事象は二分に切り分けられるわけでなく、互いにグラデーションにように折り重なり、それぞれが互いに内在し合うものである、という考え方であり、太極図はそれを表しているように読み取れる。

太極図について、ちょうど三角関数を学んだとき単位円の中で動径をθに合わせて回したように、円を描くように眺めると良い。

日が暮れるように、徐々に陽に陰が重なっていく。やがて陽がすべて陰に飲み込まれるが、その陰の中心には陽が内在する。

かえるくん、東京を救う」の最後のシーンはまさにそれだ。主人公ミミズを飲み込み、それを夢として目を覚ますが、ちょうど「夢でしかない」くらいの点となって主人公の中に静かに存在する。

この小説中の作品に関して言えば「かえるくん、東京を救う」に限ったことではない。

宗教二世を描いた表題作神の子どもたちはみな踊る」にせよ、バンコクホテル神戸に住む男の存在を思う研究者女性にせよ、海辺焚き火にあたる男女にせよ、自身の中には消して割り切ることのできないもの存在し、それですら目を背けることはできない自分自身なのだ

その点でいえば、主人公すずめを育て上げながらも苦悩を抱えたまま中年期を迎えた叔母や、キャラクターが極端に振れるダイジンのあの姿に、どうしても自分勾玉の形を照らし合わせたくなってしまう。

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映画自体の話に戻す。

我々が当たり前のように立っているこの足元、地面というのは確かなものではない。しかし一方でそれをある程度信頼した上で営んでいかなければならない生活がある。するとその表層上の信頼感によってその奥底にはら危険性をつい忘れてしまう。

東京都心の上空を巨大ミミズが覆い、今にも落ちて地震を起こそうとする。そこで一瞬ミミズ描写が消える。ミミズはすずめと草太にしか見えていないのだ。ずごごごご、と地震前兆のような地鳴りが響いてきそうな予感を、スクリーン越しに観ている我々は感じるが、作中の街ゆく人々はそれに気付かず日常生活を送っている。

そこの描写が本当に良かった。地震はいつもこうやって突然にしかやってこないんだ。そう思わされる。知ってはいるがいつも忘れている。今日この映画館に足を運んだ俺だってそうだった。そう思い知らされる。

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少し自分語りをする。ここは読み飛ばされても差し支えない。

東日本大震災の発災当時、自分東北地方からは離れた実家の部屋で揺れを感じていた。

2回目の大学4年生だったと思う。その年度も卒業の見通しは立たず、試しにやってみた就職活動も上手くいかず(リーマンショック直後の年だ)、大学にも足が向かず、鬱々とした日を過ごしていた。

インターネットに張り付いて、東北地方や東京情報をひたすら追っていた。津波が町の何もかもを薙ぎ払っていく様子が全国に衝撃を与え、日が暮れるに差し掛かり日本全体が絶望に飲まれていくような空気を感じたように記憶している。

当時地元から離れた東京で働いている友人が数名いた。幸いにも彼らに大きな怪我はなく、交通機関による帰宅が困難となり、渋谷から半日かけて家まで歩いた、などという話を聞いた。

日本は強かった。余裕がない中でもそれぞれが自助共助に取り組み、生きながらえようとしていた。各大手企業にしても、サントリー被災地飲料水を発送し、ソフトバンク公衆 Wi-Fi無償開放した。当時流行っていた Ustream では日本若者NHK による被災状況の中継をカメラ撮影して流し、その行為の是非について当時の NHK Twitter 担当者自身責任判断でそれを認め、情報共有を助けた。Evernote有償の容量無制限サービス日本人に向け一時無償提供を行った。

今ではウクライナ戦争真っ只中のロシアプーチン大統領の「ありったけの物資を今すぐ日本に送れ」の大号令のもとに支援を行い、アメリカ軍作戦名 Operation TOMODACHI を実行し日本に対し援助活動を行った。

しかった。社会の一員として何かを為せている人たちが立派に見えて仕方なかったし、事実立派であった。大混乱で帰宅避難がやっとという友人たちでさえ、懸命に行動している姿が眩しく、自分が情けなくなった。俺は何をやっているんだ、と。

あれが人生の転機になった。転んでばかりの青年期、気持ちも前を向かず、ただただわがままばかりでいつも誰かのせいにしてばかりだった生活と、ようやく決別することができた。まずは目の前の事を片付けて四の五の言わずに働けと、アレがしたいコレはしたくないではなくどんなに小さく些細でも社会の中の一コマとして人のために出来ることをせよ、と自分に言い聞かせた。

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東日本大震災から11年。

働き始め、転居をし、新しい人間関係を築き、仕事もも若さでは乗り切れない年になりつつもやり甲斐を感じながら生活をしている。

10年間生きていると色々なことがある。見聞きしたもの体験した記憶は、古いものから後ろに流され色褪せていく。

あの頃自分が感じた、鮮明ではなくなった様々を、しかし、劇場唐突に思い出させられた。「お前はあの時どうだった、今はどうだ」と。

そこに前述の草太のセリフだ。2011年東北地方に向けて自分が抱いた思い。それが忘れられ軽くなっていたところに、この映画は重さを再度伝える石となって自分にのし掛かったのだった。

あの時あの日本社会全体の空気感を体験した人が、今観るのに本当に良い映画だった。難解すぎず、わかりやすく、無駄がない。

新海誠の新作となれば中高生大勢観るのだろう。ただ時間が経つのも早いもので、今の高校生でも発災当時は5,6歳だ。そういった世代災害の恐怖を知る目的ならば「東京マグニチュード8.0」辺りを見ればよい。良い作品だ。

もしあなたが「君の名は。」や「天気の子」のような純度の高い恋愛ファンタジーを、あるいは「秒速5センチメートル」のようないじらしい恋愛アニメを期待するならば、この映画は応じない。

この映画はあの時を生き、その後を生きてきた人へ向けた作品だ。そしてそういう人たちとこんな風に、観た後の感想を共有したい。

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これで最後だ。

東北地方に差し掛かったところで、ドライバーの「綺麗なところだ」というセリフに対し被災であるすずめは「綺麗?ここが?」と無感情な様子で返す。

遠くで震災を感じていただけの自分のような人間と、実際に被害に見舞われ大切な人や物、土地を失った人との間には、やはり件に対する感じ方にはどうしようもなく深い断絶があると思う。

やり切れない想いに対しては哀悼の意を持たざるを得ない。その上で、外野から眺めていただけの立場に立ったこ文章不快に感じる部分があれば、そのような人がいれば、謝罪したい。しかしながら今のところこれが、11年経った今、この映画を観て自分の感じた率直なところだ。

またしばらく経ったら観に行ってみようと思う。

2022-11-14

【滅茶苦茶ネタバレあり】「すずめの戸締まり世界設定について

この記事にはすずめの戸締まりの重大なネタバレを含みます!!

これから観るつもりの人は回れ右!!観るつもりない人もこれだけ読んでもおもんないし回れ右!!観た人だけスクロールしてくれ!!!




























すずめの戸締まり観てきた

すずめの戸締まりを観てきた。ネットネタバレを踏みたくないのと、たまーにレイトショー映画を観ると気分が良くなるので公開初日レイトショーで。感想としては「すずめちゃんカッコイイな」とか「やっぱ映像綺麗だな」とか「今回はPV演出やらなかったんだな」とか「ドライブしてるあたりが一番面白かったな~」とかそんなところ。個人的には君の名は。と天気の子には及ばないけどなかなかい映画だった。ネットでもいくつか既視聴者感想検索してみたが、刺さった部分の感想は人それぞれでありつつ、それなりに好意的評価が多かったように思う。また、劇中でははっきり名前こそ出さなものの、「東日本大震災」が起こった世界を正面から描き、主人公の追悼と成長を描いている点も、今のところはおおむね評価されていた。一方で、事前の予告では東日本大震災を直接的に取り扱った物語であることは示されておらず(私の知る限りでは、緊急地震速報流れるシーンがあるとかその程度の周知だったと思う。小説読めばわかったらしいけどまぁ読まないよね)、物語後半に割と不意打ち的に311描写があることへのある種の懸念と、個人的嫌悪感を示す人も多少見られたと思う。これらのレビューについて、皆それなりに首肯できる部分もあり、個人の感想と照らしあわせながら楽しく読ませてもらった。でも、これらの世に出てきたレビューを読みつつ、個人的に気になった点が一つある。

みんな「世界観と設定」について、全然話題にしてないな?ということ。この映画の最大の瑕疵、というか問題点になりえるとしたらこ世界設定の部分だと感じていたので。

まりにみんな何も言わないので、匿名ブログを書いてしまった。匿名なのは卑怯といわれるかもしれないが、そもそもブログやってないので…。

すずめの戸締まり世界観と設定

すずめの戸締まり世界観と設定について、私が映画をみた限りでの理解を以下に記す。あくまで私の理解なので、誤っていたらご指摘ください。

  1. 日本列島には、「ミミズ」という意思なきエネルギー生命体のようなもの存在している。
  2. ミミズ日本各地の廃墟に発生する「後戸」を通じて「常世」という裏世界から現世に表れ、災害を引き起こす。劇場内で配布された特典「新海誠本」では災害や疫病を引き起こすと書かれていたが、劇中での災害はすべて地震の様子。
  3. これを止めるためには、「閉じ師」と呼ばれる代々受け継がれた役職者たちが、「後戸」を占める神道的な儀式を行う必要がある。
  4. また、ミミズを封じるために「要石」と呼ばれる半神たちが2柱、それぞれ2カ所に封じられている。作中で閉じ師の草太が無理やり要石にされ、すずめはそれを解除するために奔走する。この要石たちは最初から神ではなかったようで、元々の要石であったダイジン、サダイジンが要石になる前になんだったのかは不明。姿形通り猫だったのか、それとも草太のように人間だったかもしれない。
  5. この世界では(名前こそ直接的にだされないものの)東日本大震災にあたる災害が作中では12年前の3月11日に発生しており、多くの死者を出しているようである。すずめの母もこの時亡くなっている。また、福島県に帰還困難区域が発生している描写から原発事故も起きた様子。
  6. 東日本大震災ミミズのせいで起きたものかははっきりとは明言されていなが、否定するセリフもなく、ミミズによるものと考えるのが自然
  7. 物語終盤、要石の封印が解けたこからミミズ活動が活発化。東日本大震災の起こった東北圏でもう一度大災害が起こりそうになったため、すずめと復活した草太がそれを止める。

どうだろうか。列記すると滅茶苦茶カルトな設定だなと思う。作中ではもう少し自然に描いているのは確かだ。でもそもそもこの映画を観たら、「映画として面白かったかどうか」とは別に「この設定が受け入れられるか否か」がかなり心に引っかかるのではないだろうか。個人的にはちょっとウェッという感じで、この設定使うなら311じゃなくて君の名はのように架空災害として扱うか、もしくは311ミミズ由来のものじゃなかったことを明示しとくべきじゃないかと思った。福島地震に遭遇するシーンでミミズが現れないことから、「あぁ、すべての地震ミミズ由来ってわけじゃないのね…」と少し安心したら、そのあとの「草太さんが抑えてくれてるんだ!」というセリフでずっこけた。ほんとにカルトだよ。

「結局創作なんだからいいじゃん、現実創作は別だよ」という意見もあるかもしれないが、311は実際に起こった災害であり、それを作中で扱ったにも関わらず原因ミミズなんです、はちょっとなんか、私はイヤですね、という感じ。

ちなみに「作中では311は止められなかったのか?」という至極当然の問いに対しては作中では特に答えはないが、ファンコミュニティ間では「そもそも震源地が海だから無理だった」とか「草太の父世代の閉じ師が出てこないことから察せる」とか色々考察があるようである。まぁ書いててむなしくなるような話題である

なお、現実世界の話をすると阪神淡路大震災震源淡路島南部直下型地震関東大震災神奈川県西部東京湾北部山梨県東部震源三つ子地震だったといわれている。作中でもふたつの震災は起こっているっぽいので付記する。

なぜみな口をつぐむのか

上のような設定について、私は「みんな特に何も違和感をもたなかった」とはあまり思えない。みんな「違和感があるけど口にだしていないだけ」なんじゃないか……と、他人心中勝手想像している。ツイッターやインスタ等の短文SNSだったら確かに面白かった!芹澤いいわ~」で終わりだろうけど、ブログレビューサイトで長文のレビューかいててこの世界設定に触れないとかあるの?と思っている。ただ一方で、確かに語りにくいよなと感じる部分もあって、これもその理由を列記する。

  1. そもそも震災の話なので口に出しにくいから。…映画感想ではなく直接的に311の取り扱いに至る話になるため。「すずめちゃんが前を向けてよかった」とか有体な感想をいうのとはわけが違う。それこそ親族が亡くなった人が大勢いるのが東日本大震災であり、うかつに口を出せない。そもそも被災者達の感情が優先されるべきでは?という遠慮が先にくる。
  2. 海監督本人は真摯に描いてるつもりで悪気はないっぽいから。…悪気がないのはわかるので、現時点で強く批判する気持ちにもなれない。
  3. まだファンしか観てないから。…公開から一週間もたっておらず、新海誠ファンしかみていないため、批判意見を言わない、積極的に言おうとしない。

1について、実際の被災者の方はどう思っただろうか。上記の不意打ち的な311描写も含めて、東北劇場では結構トラウマえぐられた人も多いのではと勝手心配をしている。ちなみ当時東京に住んでいて被災といえば計画停電くらいだった私でも、日記のシーンと燃え盛る瓦礫のシーンはちょっと心にきた。

2については皮肉抜きに新海誠尊敬する。「シン・ゴジラ」も「君の名は。」もアフター311映画ではあったが、東日本大震災のものとしては取り扱わなかった。押しも押されぬ超人監督として、期待のかかった商業映画東日本大震災をメインテーマひとつに据えた心意気は本当に見上げたものであると思う。扱い方は個人的にはうーんではあるが。また、ここで難しいのが、すずめの戸締まりにおいて311はメインテーマの「ひとつ」でしかないところである311映画ではない。

3については、これからファン層以外にリーチしたときにどうなるのか気になるところ。例えば金ロー放送したときとかさ。

今後の評価について

現在ネット上で閲覧できるレビューはほぼファンによるもので、おおむね好意的ものが多い。これから本職の映画評論家や、メディアによるレビューが始まるだろう。彼らはおそらくこの世界設定について、ファンレビューのように目をつむることはできないのではないかと思う。上記1のような問題もあり、どのような評価がされるのか気になるところである

ちなみに、IGNJapanの11月12日(公開翌日)付レビューでは以下のような一文がある。

>> しかし僕が気になったのは別のことだ。3.11後の物語性や震災歴史、そして天災を鎮める世界観として神道を引っ張ってくる意図についてはこれからメディアでの評論レビューで嫌になるほど言及されるだろう。そこに自分の関心はあまりない。 <<

この筆者本人は関心がないそうだが、記載の通りよくもわるくも嫌になるほど言及されるだろう。

結局のところ

みんなどう思った?俺はめっちゃ違和感あった。映画のできそのもの否定するわけじゃないけど、世界設定については滅茶苦茶やんけって思った。気にならないって人のほうが多いのかな?

すずめの戸締まり地球少女アルジュナ思い出した人〜

ミミズの…じゃなくてすずめの戸締まり感想だのなんだのが飛び交う中、うっかり人災震災起こってみんなバタバタ死ぬ話でミミズが出てきて、てな断片だけ聞いてるととあるアニメを思い出した。マクロス監督が作った強烈なオカルトピアニメ、地球少女アルジュナ。みんな見てた?

主人公女子高生)がなんかしらんけど地球少女アルジュナに変身して災厄と戦うんだが、途中で阪神淡路大震災名前出してないけどどう見ても阪神淡路大震災モチーフ)が起こり、それは自然を忘れた人間ミミズみたいな蛇が怒って起こしたものでにんげんがわるい、しぜんおもいだそ?とミミズ食って「いただきます」と終わる話だった気がする。震災天罰だ、と311の後に政治家が言って被災地の人を怒らせてたけど、当時見た感想はそんな感じだった。震災自然を忘れた傲慢人間たちへの罰なんだー、ふーん。みたいな。

多分このアニメ、序盤からスピ電波ゆんゆん疑似科学素晴らしい〜ってしてたので大半が視聴やめてると思う。なので今でも「覚えてる!見てた!」って人は大体面白いと思って見てた人ばかりだろうから、今ネット検索して感想読んでも「大傑作!」しか出てこなさそう。

それでも聞くけど、すずめの戸締まりってアルジュナと似てる?あらすじだけ聞いてるとアルジュナ思い出すから見る気にはならないんだけど、しかしこんなにモチーフ似てるのに誰も言及してないとこを見ると似てないのかね?それともアルジュナを誰も覚えてないだけか?

ところでアルジュナの前番組魔法陣グルグルで後番組がハレのちグゥなんだよな。なんなんだ。

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